2024年7月27日土曜日

2024年7月28日 主日礼拝

前奏
招詞 テモテへの手紙一 1章17節
賛美  新生讃美歌 61番 さわやかな朝となり
主の祈り
主の晩餐
賛美  新生讃美歌 240番 救いの主はハレルヤ
献金
証し
聖句 ダニエル書3章1~18節
祈祷
宣教 「そうでなくとも」
祈祷
賛美  新生讃美歌 86番 輝く日を仰ぐとき
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏


 神は、私たちの目にはその姿が見えないお方です。しかしキリスト者は、聖書の伝える神、イエス・キリストの神が確かにおられることを信じています。
信仰とは、目に見えない神を信じるということです。
 「この目で見れば、神を信じる」という言葉を私たちは人から聞くことがあると思います。しかし、この目でいつも見ることができるような神であれば、それは真の神とは言えないでしょう。
 「この目で見ることができるなら神を信じる」ということは、神よりも、自分自身の目を信じている、すなわち神よりも自分のほうを信じる、ということだからです。
 人間の目は非常に精巧に作られていて、時に私たちは自分の見たいものを見たいように見る(解釈)する、ということがあります。

 ですから、目に見えるかどうかを基準にしていては、真の神を知る(信じる)ことはできません。
 新約聖書のヘブライ人への手紙11章1節に次のように書かれています。

ヘブライ人への手紙11章1節
 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

見えない事実(見えないもの)への確信、という点がとても大切です。見えないものを確信することができるのならば、そのように私たちを信じさせる力は、私たちの外から来るもの、ということになります。
 聖書の神、すなわちイエス・キリストの神を私たちに信じさせる力は、私たち自身の中にあるのではなく、私たちがイエス・キリストを神として信じる思いも力も、それは神様から賜物として与えられるのです。
 ですから、「なぜ私は神を信じているのか(信じることができるのか)」ということは、私たちが理路整然と、誰にでもわかるように、完全に説明できるものではありません。
理屈ではなく(理論的であることを止める必要はないのですが)、神の力、聖霊の導きによって私たちは聖書に伝えられるイエス・キリストの神が真の神だと、信じることができるのです。
 しかし、言葉では説明しきれない、また目には見えない神を信じることは、時に人間を不安にさせます。“本当に神はおられるのだろうか”と思う時が、キリスト者であってもあるのではないでしょうか。
そのような不安な思いを解消するため、歴史の中で、人はたびたび、本来は目には見えない神を目に見えるもの(像)にして安心しようとしてきました。
 そして神は、人間がそのような傾向(像を作ってそれを神として拝む)があることを最初からよくご存じでした。

 旧約聖書『出エジプト記』の20章で、神はモーセを通して「十戒」と言われる重要な戒めをイスラエルの民たちにお与えになりました。
十戒の最初の戒めは「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です(出エジプト記20章2節)。
 そして二つ目の戒めが「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(出エジプト記20章4~5節)
 しかし、イスラエルの民は、ある物の形をつくってそれを(神として)拝む、という“偶像崇拝”の罪を繰り返し犯してきました。
 偶像崇拝の罪は、今でも、私たちも気をつけていないといつでも犯すことがあり得ます。私たちは自分でも知らずに、神でないものを神として(一番大切なものとして)心の中で拝んでしまっているかもしれないのです。
 その人がどんなに優れた人、リーダーであっても、あるいは何かの理念や理想がどれほど素晴らしいものであっても、それが人であったり、また人が作り出した(考え出した)ものであるならば、どんな人にも思想や信条にも欠点があります。
 それらは永遠に続くものではないということです。人の作り出すものは、何らかの欠点や間違い、限界を必ずもっているのです。
人や、あるいは人の手や考えによるものを、私たちは神であるかのように崇拝することがないように、常に聖書の言葉によって導かれ、私たちへの神からの導きを祈りと御言葉(聖書の御言葉)からいただくように、したいと願います。

 今日の聖書の箇所は旧約聖書の『ダニエル記』の中の物語です。ここにネブカドネツァル王という王が登場します。
 ネブカドネツァルはバビロン帝国の王様でした。この時、イスラエルはバビロンによって滅ぼされ、イスラエルの多くの民たちは捕囚としてバビロンへ連れて来られていました。
 今日の箇所では、このネブカトネツァル王が、一つの金の像を造ります。それは高さ60アンマ、幅6アンマの金の像でした(アンマ=約45センチ。60アンマ=27メートル、6アンマ=2.7メートル)。
 そしてネブカドネツァルは、全ての人に、その金の像を拝むようにと命令しました。つまり、ネブカドネツァルは、その像が神だ、と宣言したということです。
 今日の箇所では、王が国高官たち(2節に書かれる)を集め、その像の除幕式(2節)に集めました。そして伝令が次のように力を込めて叫びました。

ダニエル3章4~6節
4伝令は力を込めて叫んだ。「諸国、諸族、諸言語の人々よ、あなたたちに告げる。
5角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器による音楽が聞こえたなら、ネブカドネツァル王の建てられた金の像の前にひれ伏して拝め。
6ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる。」

ここで、ネブカドネツァルの建てた像が真の神ではあり得ないことが(それは、言うまでもないのですが)、少なくとも次の二つのことから分かります。
 まず、神は目に見える像として、人の手によって造られるものではない、ということです。人の手によって造られた像は神ではないのです。
 そしてもう一つは、真の神は、信じない人を「直ちに燃え盛る炉(火)の中に投げ込む」ようなお方ではない、ということです。
神は信仰を私たちに力によって強要するようなことはなさらず、愛と忍耐をもって、私たちが自ら心を開き神を信じるようにと本当に忍耐強く、待っておられるお方です。

イザヤ書30章18節Isaiah 30:18に次のように書かれています。

それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。

 神は今も忍耐をもって、私たちが真の神に立ち帰り、人や目に見えるものではなく、真の神にのみより頼み、神を信じて生きることを待っていてくださっています。
 神は力づく無理やり私たちに神を信じさせるのではなく、聖書の御言葉、私たち教会と信徒の働きや、様々なものを通し、時間はかかっても、人が神に立ち帰るのを待ってくださっています。
 そのような神の憐れみと忍耐を覚え、私たちは感謝をしたいと願います。
 人々はネブカドネツァルの命令通り、楽器による音楽が聞こえてくると皆、その金の像にひれ伏しました。
 しかし、その時イスラエルからバビロンに連れてこられていたあるユダヤ人たちの中で、その金の像を拝む、ということを決してしなかった人たちがいました。
 彼らは、ユダヤ人でありながら、バビロンの行政官(2章49節)にまで引き上げられていたシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人でした(それぞれ元のユダヤの名前はハナンヤ、ミシャエル、アザルヤと言いました)。

 その三人が王の命令に背いて、金の像を拝んでいないという話を伝え聞いたネブカドネァル王は激怒しました。そして王はその三人を直接呼んで問いただしました。
 そして王自らの言葉ではっきりと「もしもわたしの建てた金の像を、お前たちが拝まないのならば、ただちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」と王は三人に言いました。
 シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは次のように王に答えました。(16~18節)
 「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。

17わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。
18そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
17~18節を繰り返します。
 17わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。
18そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

「そうでなくても(神が燃える炉の中から、私たちを救い出さないとしても)、わたしたちは神でないものを拝むことは決していたしません」。人がこれほど強い信仰を持つことができるのだろうか、と思えるほどの信仰です。
この言葉は、一信仰者の信仰の頂点と言ってもよいほどの言葉であると私は思います。
では、ここで称えられているのは、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人の強い信仰なのでしょうか。
“私たちもこの三人のような、何ものにも屈しない強い信仰を持ちましょう”というメッセージを今日私たちは受け取るべきなのでしょうか。
たしかにそういう受け取り方もあるでしょう。しかし、そのような解釈では、一歩間違うと、この三人の信仰を特別なものとして、この三人を偶像化してしまう危険もあります。
 今日私たちは、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人が、強い信仰を持っていたということよりも、彼らが言った言葉の中に含まれた真理に目を留めたいと願います。
 それは「そうでなくても」という言葉が表す真理です。たとえ神が、私たちが望む通りに(目に見えるように)、私たちを燃える炉の中から救い出してくださらなくても、それでも真の神はおられる、ということです。

神は私たちの思いを超えて、大きく偉大なお方です。私たちでは偉大な神のご計画をすべて把握することはとてもできません。
しかし、それでも神はおられ、神は私たちと共にいてくださり、私たちが苦しみ、痛み、悩むときに、そばにいてくださる、というのが聖書が伝える変わらぬメッセージです。
 最初に、「信仰とは見えない事実を確信すること」というヘブライ人への手紙の聖句を私たちは聞きました。
“わたしたちが願う通りにしてくださらない神”、“シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人を燃える炉から救ってはくださらない神”は、まさに目には見えない神(わたしたちの思い通りには、してくださらない神)です。
この話の続きは、燃える炉の中でも彼らは三人は燃えることはなかった、という結末です。
しかしこの三人は、“そうでなくとも”神はおられる、私たちの願う通りにしてくださらないとしても、その神は私たちにとっての最善をご存じのお方である、ということを今の私たちにも伝えています。

私たちも、「神が本当にいるのならば、なぜこんなにひどいことが世の中で、あるいは私に起こるのか」と思うことがあるでしょう。
たとえその疑問に100パーセント納得できるような答えが出ないとしても、“それでも神はおられる。十字架の上で、ご自分のお命を捨ててくださったほどに私たちを愛された神は確かにおられる”という希望を私たちは聖書からいただくことができるのです。
唯一真の神、昨日も、今日も、明日も変わらぬ確かな神、神の希望に生かされて、わたしたち今週も生きていきましょう。