2024年7月19日金曜日

2024年7月21日 主日礼拝

前奏
招詞 ペトロの手紙一 1章5節
賛美 新生讃美歌61番 さわやかな朝となり
主の祈り
賛美 新生讃美歌2番 来たれ全能の主
献金
聖句 エレミヤ書31章1~9節
祈祷
宣教  「彼らはわたしの民となる」
祈祷
賛美 新生讃美歌19番 くすしき主の愛
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏


 「そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」という一文で今日の聖書箇所(エレミヤ書31章1~9節)は始まります。
 “そのとき at that time”というのは、旧新約聖書を通して伝えられる、“終わりの日、世の終わり”のことです。
 神が造られたこの世界はいずれ終わりの時を迎える、と聖書は伝えています。
“終わりの日、世の終わり”というと、“滅びの日”というような怖いイメージを私たちは持つかもしれません。
イエス様は、世の終わりについて何と言っているでしょうか。マタイ福音書13章36節以降の箇所で、イエス様は次のように言っています。

・世の終わりには、刈り入れの時に毒麦が集められて火で焼かれるように、“つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもは、燃え盛る炉の中に投げ込まれる”(マタイ13:41~42)

・世の終わりには、正しい人々の中にいる悪い者どもは、燃え盛る炉の中に投げ込まれる。(マタイ13:49~50)

 イエス様のそれらの話を聞くと、確かに世の終わりは恐ろしいものに思えます。“わたしは悪い者として、燃え盛る炉の中に入れられるのだろうか?”と思うと、怖くなります。
 しかし私たちは、イエス・キリストが十字架の上で死んでくださったのは、私たちの罪の赦しのためであったことをも知らされています。
 そして主イエス・キリストを信じる者は誰でも、その人もその人の家族も救われる、という聖書の言葉があることを、私たちは知っています。(使徒言行録 Acts 16章31節)
 終わりの日の裁きは、完全に神の領域です(神様が行うこと)。ですから、私たち人間が、“世の終わりに、誰が救われ、誰が救われないのか”を決めることはできません。
 私たちは、終わりの時の裁きが確かにくる、という聖書のメッセージを緊張感をもって受け止めながら、同時に、イエス・キリストへの信仰による救いがある、ということに確かな希望をもって生きていきたいと願います。

 今日の聖書箇所は、旧約聖書の中の『エレミヤ書』の31章の始めの部分です。エレミヤとは、預言者の一人の名前です。
エレミヤはエレミヤ書の最初の記述によると、ユダ王国の王ヨシヤの時代に、主に召されて(呼ばれて)預言者としての働きを始めました。
 エレミヤは、ユダ王国がバビロンによって滅ぼされ、多くのイスラエルの民たちがバビロンへ捕囚として連れていかれるバビロン捕囚の時代まで、預言者として約40年間活動した、と言われます。
 エレミヤ書の1章には、神の言葉がエレミヤに臨み、エレミヤが預言者として立つ使命を神から授けられたことが書かれています。
 エレミヤ書1章4~5節に次のように書かれています。

4主の言葉がわたしに臨んだ。
5「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」

 神はエレミヤに「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた」と言います。
 神は、私たち人が母の胎内で造られる前(生まれる前)から、わたしたちのことをご存じのお方です。
 私たちは誰も、自分が生まれる前のことは知りません。私たちは自分がいつの時代、どの場所、どの家庭に生まれるのかを自分で選ぶこともできません。
 しかし、神はそれらを全てご存じです。神はそれらをご存じというよりも、正確には、私たちはすべて、神のご計画にそって、この世界に(ある特定の時と場所に)生まれてきます。
 そのようなことは信じず、“人は、ただ偶然この世界のどこかに、たまたま生まれてくるだけだ”という人もいるでしょう。
 しかし、聖書を通して神の創造の業を知らされた者は、そのようには考えません。創造主なる神が、御子イエス・キリストを通して私たちに救いを与えてくださったことを知らされた者は、私たちがただ偶然この世に生まれてくる、とは信じません。
 私たちは、神がエレミヤを預言者(神の言葉を預かり、人々に神の言葉を伝える人)として特別に選んだように、神は今の私たち一人ひとりにも、特別なご計画をお持ちであると信じてよいのです。
私たち一人ひとりが神から与えられた使命があります。それが何かは人によって違います。
「いや、神様が、この私に何か特別な計画をお持ちだとは、思わない」と思われる方もおられるかもしれません。
 しかし、私たちがこの世界に生まれてきて、肉体と心(精神)をもって生きていることは、それ自体が驚きの出来事です。
 とても緻密な法則や仕組みによって運行されている世界や宇宙、また私たち生物の体が生きるためにいかに精密な機能を備えているかを知らされると、このような肉体を与えられ私たちが生きていること自体が大変な驚きです。
 世界や宇宙の仕組み、私たちの体の精密さ、それらいずれをとっても、創造主なる神がおられると考えることは大変理に適っている、と私は思います。
 そして御子イエス・キリストを世に遣わしてくださったその神は、私たち一人ひとりに限りない愛と、また私たち一人ひとりの命に、特別なご計画(使命)をお持ちのお方であると、私たちは信じてよいと私は思います。

 エレミヤは、主の言葉に呼びかけられて預言者として立つように言われますが、神の言葉がエレミヤに最初に臨んだ時、エレミヤは最初とても躊躇しました。
 “わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから”と言って、神の呼びかけから逃れようとします。(エレミヤ1章6節)
 出エジプト記で、あのモーセも、最初神様に呼びかけられて、“あなたが、エジプトからイスラエルの民たちを導きだしなさい”と言われた時、何度も何度も躊躇いたしました。
 私たちは、たとえ神様から呼びかけられても、その呼びかけの内容が、自分に大きな責任を負わせるように感じられる時、やはり私たちは“それは私にはできません”と言って、躊躇してしまうものなのでしょう。
 しかし、わたしたちをお造りになった神ご自身が私たちを呼び出してくださるのであれば、私たちは神が示されたその働きの道へと勇気をもって歩みだしたいと願います。
 必要なことはすべて神が備えてくださるからです。そしてそれが神の御心ならば、私たちの力によってではなく、私たちの能力を超えたところで必ず神が働いてくださるからです。
そのようにして私たちが自分自身ではなく、神を信頼して、神の働きに仕えていくとき、そんな私たちの働きを通して、神のご栄光が世へと表されていくのです。
そのように神に用いられることを、私たちは喜びたいと思います。

 エレミヤは約40年間、預言者として神の言葉をイスラエルの人々(正確には、エレミヤが活動したのは、南ユダ王国)に伝えました。
 しかし、人々はエレミヤの言うことを聞かずに神に背き、神の戒めに従わず、異教の神々に仕える偶像崇拝をするなどして、神に背きました。
 結局、イスラエルの人々の罪のため、神に背いたそのことのために、国は滅ぼされ、多くの人々がバビロンへと連れていかれました。
 今日の31章はそのような背景のもとに書かれた箇所であると言われます。
 主なる神は、エレミヤを通して厳しい言葉をイスラエルの民たちに語り続けました。
エレミヤ書には主の言葉として、“わたしはお前たちをわたしの前から投げ捨てる”(7章15節)とか、“たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない”(15章1節)という言葉が記されています。
 イスラエルの民は、エレミヤの預言による神の忠告にも関わらず神に背いて、その結果国は滅ぼされ、人々は他国へ連れ去られました。
しかし神はそれで完全にイスラエルの民たちをお見捨てになったのではありませんでした。
今日の31章では、“そのときには、わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らは私の民となる”と神は(エレミヤを通して)言って、“神の救いの希望は失われていない”と宣言されたのです。
 そのときには(終わりの時には)、神はイスラエルのすべての部族の神となる、とは、神は世界のすべての者の神となる、ということです。
 そして“彼らはわたしの民となる”の彼らとは、私たちすべての者、私たち一人ひとりのことです。
 神の定められた“終わりの日”には、神はあらゆる人にとっての神となり、あらゆる人が神の民となる、というのです。

 これは神の壮大なご計画、あるいは神ご自身の大きな幻(ビジョン)と言ってよいと思います。
神の言葉が世に告げられ、人々が神の言葉によって神を信じる時、神はすべての者の神となり、すべての者は神の民となるのです。
 そこでは、今わたしたちの世界にある国や地域、民族、人種の違いなどは、何の意味ももたなくなっているでしょう。それは、私たちすべての者が皆“神の民”として一つに結ばれている世界です。
 終わりの日にそのような世界が実現する根拠は、3節に描かれている神の愛です。しかもそれはとこしえの(永遠の)愛です。
 神の愛はとこしえ(永遠)の愛であり、いつまでも変わらない無条件のご愛です。
 私たち人がどれほどの愛を持っていたとしても、人の愛には必然的に条件がともないます。誰であっても文字通り無条件で愛する、ということは私たちにはできません。
 私たちが誰かを愛することができるのは、そこに何か理由があるからです。家族であるからとか、友達であるからとか、その人が良い人だから、などという理由や条件があるから、私たちは人を愛することができます。
 しかし、神様の愛はとこしえ(永遠)の無条件の愛です。それは私たち人の罪によってもなくなることのない愛です。
 聖書の伝える神は、イスラエルの民たちが、そして私たち人が、どれほど罪を犯しても、その罪を赦し、神のもとへと立ち返ることを望んでくださる、愛なる神です。
 私たちを赦し、私たちをご自分のもとへ呼んでくださる神の愛にお応えして、「神のご愛のもとへ、皆で立ち帰ろう」と人々が思う希望が、今日の箇所には書かれています。

6節
 見張りの者がエフライムの山に立ち 呼ばわる日が来る
 「立て、我らはシオンへ上ろう 
  我らの神、主のもとへ上ろう」

 この掛け声を、私たちも共に唱えながら、神が私たちの背き、罪を赦してくださったことを感謝して、共に神のもとへと上っていきましょう。
今私たちがこうして共に神を礼拝しているという行為が、“神のもとへ上っていく”という行為の一つです。
私たちが毎週心合わせて、共に聖書の御言葉を聞き、賛美し、神に感謝をし、祈りを合わせるとき、私たちは“神のもとへの上っている”と言ってよいと、わたしは思います。
 “終わりの日”は、神がお定めになった時に、必ず訪れます。そして終わりの日は、神の希望の実現の日でもあります。
 その意味で、御子イエス・キリストの救いがはっきりと私たちに示されている今は、わたしたちはすでに“終わりの日”の希望の実現の始まりを信仰的に経験していると言えます。
 イエス・キリストの救いを信じ、私たち共に神の御名を唱えて神を礼拝する今、神がご計画になった“終わりの日”の希望を、今私たちはすでに経験しているのです。
 私たちは、終わりの日に実現(完成)する神の国を信じ、神の民とされた幸いを覚えて、そして私たちを通してキリストの福音が世に伝えられていくようにと願いつつ、信仰生活を共に送ってまいりましょう。