2024年7月6日土曜日

2024年7月7日 主日礼拝

前奏
招詞  ローマの信徒への手紙11章32節
賛美  新生讃美歌 61番 さわやかな朝となり
祈りの時
主の祈り
賛美  新生讃美歌134番 生命のみことば たえにくすし
献金
聖句  詩編51編3~11節
祈祷
宣教  「神よ、わたしを憐れんでください」
祈祷  
賛美  新生讃美歌 301番 いかなる恵みぞ
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

聖書は“人は神によって造られ、神に従い、神との豊かな関係の中に生きる者として造られた”ことを伝えています。
 新約聖書の「コリントの信徒への手紙一」1章9節(1 Corinthians 1:9)に次のように書かれています。
神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

神の子、主イエス・キリストとは、すなわち神ご自身です。ですから、私たちはイエス・キリストとの交わり、すなわち神との交わりの中で生きるようにと期待をされている、ということです。
しかし、人は自ら罪を犯して神様との関係を壊してしまいました。旧約聖書『創世記』の中で描かれる、最初の人アダムと妻エバが犯した罪により、神と人との間に、始めから大きな溝が生じてしまいました。
神はアダムに「善悪の知識の木からは、決して食べてはいけない。食べると必ず死んでしまう」と伝えました(創世記2章17節)。
しかし、蛇に誘惑されたエバ(アダムの妻)が最初に、その善悪の知識の木を食べてしまいました。アダムも同様にその実を食べてしまいました。
善悪の知識の木の実を食べるということは、人間が神のような力や能力を手にしようという欲望の表れでした。
 そして、アダムとエバが犯したその最初の罪を、私たち誰もが負っています。それをキリスト教では原罪(original sin)と言います。


 原罪を持った人間は、神に逆らって、神のようなものになろうという間違った欲望と考えを持ち、神から離れて自分中心に生きるようになってしまいました。
 そのように、人の罪が神と人とを遠ざけ大きく隔ててしまいました。罪が神と私たちを遠ざけているのですから、もし私たちが再び神に近くありたいと願うのならば、その罪が取り除けられなくてはなりません。
 私たちは、どうしたら自分の罪に気づき、そして私たちの罪は、どうしたら取り除かれるのでしょうか。

 今日の聖書箇所の詩編51篇は、自分が犯した罪に気づかされたダビデが罪を悔いて、神に赦しを必死に求めるという内容の詩です。
1~2節(英語訳では、1節の前の見出しの部分)をお読みします。

1【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
2ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】

 この詩編はダビデによって作られ、告白された詩です。「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」とは、旧約聖書『サムエル記下』11~12章で描かれる、ある出来事のことが言われています。
サムエル記下11~12章のその出来事を振り返ってみたいと思います。
 ダビデはイスラエルの王になっていました。その時ダビデは権力の頂点にあったと言ってよいでしょう。
 時にイスラエルは他国と戦争をしていました。王であるダビデは都エルサレムに留まっていました。
 そんなある日の夕暮れに、ダビデは王宮の屋上から、一人の女の人が水浴びをしている姿を見かけます。その女の人は大変美しい人でした。
 ダビデは人をやってその女の人を、自分のもとへ連れてこさせ、そして彼女と関係を持ちました。その女の人は、ヘト人ウリヤという兵士の妻で、バト・シェバという人でした。
 その出来事からしばらくたち、その女性から「わたしは子を宿しました」(サムエル下11:5)という知らせが、使いを通してダビデに知らされました。

 ダビデはどうしたでしょうか。ダビデは戦地にいた、バト・シェバの夫ウリヤを、自分のもとに呼び戻させました。
 そしてダビデは自分のもとに来たウリヤに戦地の状況を尋ねたうえで、家に帰って休むように(妻バト・シェバと過ごすように)と言います。
 つまり、ダビデは自分がバト・シェバを妊娠させた事実を隠蔽しようと試みたのです。
 しかしウリヤは、“他の兵士たちが戦地にいるのに、自分だけが家に帰って妻と過ごすことはできません”と言って、ダビデがどれほど勧めても自分の家へ帰ろうとはしませんでした。
 そこでダビデは、戦地にいる自分の司令官のヨアブに、ある命令を出しました。それは、“ウリヤを激しい戦いの最前線に出して、彼をそこに置き去りにし、全員退却して、ウリヤを戦死させろ”という命令でした。
 そしてウリヤは死にました。ウリヤの喪が明けると、ダビデはバト・シェバを自分の妻としました。そしてバト・シェバは一人の男の子(ダビデの子)を生みました。
 そのように聖書にはダビデのしたことが淡々と描かれます。ダビデは自分のしたことをどう思っていたのでしょうか。聖書に書かれている限りでは、ダビデは最初は自分の罪にまったく気づいていませんでした。
王という絶対的な権力を持つ立場にあったダビデは、「王ならば、これぐらいのことをしても許される。これは大したことではない」とさえ思っていた可能性も十分にあると、私は思います。
 しかしダビデは、自分がしたことの罪に気づかされることになります。預言者のナタン(ダビデにとってはアドバイザー(顧問)のような立場の人だったのでしょう)がダビデのもとにやって来たのです。

 ナタンは、次のような話をし始めました(サムエル記下12章)。
 二人の男がある町にいました。一人は豊かで、もう一人は貧しい人でした。貧しい男は、一匹の雌の小羊以外に、何も持っていませんでした。彼はその小羊を自分の娘のように大切に大切に育てていました。
 一方、豊かな男の方は、多くの羊や牛を持っていました。しかし、自分を訪ねてきた旅人をもてなすために、彼は自分の羊や牛を惜しみました。豊かなその男は、貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振舞いました。

 その話を聞いて、ダビデは激怒しました。ダビデはナタンに「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」(サムエル下12:5)と言いました。
 その時ナタンはダビデに向かって言います。「その男はあなただ」。そこで初めてダビデは自分のした罪に気づかされました。詳しくは、皆さんぜひご自分でも、サムエル記下11~12章をお読みください。
ダビデに関するその話は、私たち人がいかに自分自身の罪には鈍感であるかを、明らかにしています。
そして同時に、私たち人が、自分以外の他人の罪については敏感で、いかに素早く裁いてしまうものであるかをその話は示しています。

 詩編51篇は、その出来事を背景にして、ダビデによって唄われた(祈られた)悔い改めの詩であり、罪の告白の詩です。

 ダビデは「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください」(3節、NIV 1節)と告白します。
 そしてこの詩編51篇を通して、ダビデは自分が神に背いて、神に対して罪を犯したことを認め、“その罪を清め、咎(とが)を拭い去ってくださるように”と、必死に神に願います。
 ダビデは、イスラエル史上で信仰的にも偉大な王として、ユダヤ人たち、そしてキリスト者の記憶にもずっと覚えられてきました。しかし聖書は、そのダビデが、こんな大罪を犯したことをはっきりと記しています。
 偉大だと言われたダビデ王が、こんな許されない罪を犯した、という事実を聖書ははっきりと記すことで、「いかなる人も神の前には罪人である。いかなる人も、その罪を神に赦してもらわねばならない」ことを私たちに伝えます。
 私たちは、自分自身を、罪を犯したダビデと重ね合わせることができるでしょうか。ダビデの犯した罪の内容を聞き、「これは私自身の話だ」と私たちは思うことができるでしょうか。
 私自身の正直な思いは、「私は、ここまで悪い(ひどい)ことはしていない」というものです。

 ダビデのしたことは、あの『十戒』(モーセが神から授けられた、旧約聖書の中での最も中心的で重要な神の戒め)の内、少なくとも4つの戒めを破るものでした。
それらは、十戒のうちの「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」という戒めです。
 自分とダビデを比較して、“わたしも決して清く正しい、と言えるような者ではないが、わたしはこれほどの悪いことはしていない”と、私は自分のことを考えてしまいそうになります。
しかし、聖書を読み、福音書に記されたイエス様のお言葉を読む時、そんな私の罪の認識の無さ、鈍感さは見事に打ち砕かれるのです。

イエス様は次のように言われました。

27「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(マタイによる福音書5:27~28)

この言葉を聞くならば私たちは「これは厳しすぎる。こんな基準を突きつけられたなら、誰もそんな基準を乗り越えることができる人などいない」と思うでしょう。
まさにそうなのです(誰も、そんな基準をクリアーできる人などいないのです)。しかし、それが神の善悪の基準です。
私たちは、イエス様の(神の)御言葉の前に、私自身が自分自身では取り除くことのできない罪を抱えた罪人であることを認めなくてはなりません。
 しかし、そのようにして自分の罪に気づかされた時に初めて、私たちは神の前に悔い改め、赦しを願うことができるのです。

自分の罪に向き合うとは辛いことですが、そうする時、ダビデが必死に祈ったように、「この私たちを憐れんでください。人に対して、そして誰よりも、あなたに対して犯した私の罪を赦してください」と私たちは神に向かって祈ることができるのです。
 神は、私たちの罪を赦す権威をお持ちのお方であるからです。

今日の詩編51篇の9節で(英語訳7節)で、ダビデは次のように願い祈っています。
9ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。

「ヒソプの枝」とは、イスラエルの民たちがかつてエジプトを脱出する時、すべての家の初子が死ぬという災難が、イスラエルの家だけは過ぎ越していった「過越し」の出来事との関連を表しています。
 それは、その時イスラエルの民たちの家の門には、ヒソプに浸した小羊の血が塗られました。“その血が門に塗ってある家は、災いが過ぎ越していった”、という出エジプト記12章で描かれる神の救いの出来事のことです。
 そして、“ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください”というダビデの願いは、やがて救い主イエス・キリストが、十字架の上でご自身の命を捧げてくださった時に完全に成就しました。
 キリストの十字架の上での死によって、私たちの罪は清くされ、赦されたのです。
本来、私たちではとても償うことのできない罪がキリストの血(完全な過越しの小羊の血)によって洗われて、私たちは清いものとして、再び神様との関係の中に生きることができるようになったのです。
 そしてそのように神様との関係が回復され、神様に近く生きることができるようになった人は、自分以外の他者との関係も大切に、他者を大切にして敬いながら、生きることができるようになるのです。

 私たちが誰もが、神によって(神の愛によって)造られた尊い、かけがえのない存在なのですから、神の愛を知らされ、神によって罪赦されたことを自覚する者は、神と人との豊かな関係を再び取り戻すことができるようになるのです。
 自らの罪に気づかされ、必死に祈り願った、今日の箇所詩編51編のダビデのこの祈りに、私たちも心の思いを重ね合わせましょう。
 そしてイエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪が清くされ、洗われたこと、私たちを雪のように白くしてくださった神の愛の御業に感謝をして、与えられた命の日々を私たちは歩んでまいりましょう。