2024年9月21日土曜日

2024年9月22日 主日礼拝

前奏
招詞 申命記11章1節
賛美 新生讃美歌 125番 造られしものよ
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌33番 輝け主の栄光
献金
聖句  マタイによる福音書10章34~39節
祈祷
宣教  「平和ではなく剣を」
祈祷
賛美  新生讃美歌 255番 わが罪のために
頌栄  新生讃美歌676番
祝祷
後奏

 今日の聖書箇所で、イエス様は驚くべきことを言っています。
 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして自分の家族の者が敵となる」(34~36節)
 イエス様は、マタイ福音書5章に書かれているように、山に上ってその山の上から人々に説教をしたことがあります。それは「山上の説教」と言われる有名な説教です。
 その「山上の説教」の中でイエス様は、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」とおっしゃいました(マタイ5章9節)。
そのようにイエス様は、ご自身のお言葉と教えによって、人々に「平和を実現しなさい」とおっしゃったのです。
ではイエス様は、ご自分が言ったことと全く反するような、矛盾することを今日の箇所でおっしゃったのでしょうか。

平和を実現するように、と教えたイエス様が、“わたしは家族同士を敵対させるために来た”と言ったのは、いったいどういう意味なのでしょうか。
 聖書の別の箇所で、イエス様は平和を私たちに与えると約束をしてくださいました。ヨハネ福音書14章27節に次のように書かれています。

ヨハネ福音書14章27節
 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
イエス様は、そのようにはっきりおっしゃっています。ですから、今日の箇所でイエス様がとおっしゃったことを理解するには、イエス様が言う“平和”、“わたしの(キリストの)平和”とは、どのような平和であるかを私たちは理解する必要があります。
イエス・キリストによる平和を私たちが理解するためには、イエス・キリストが私たちにとって、どういうお方であるのか、を私たちはまず知らなくてはなりません。
 そしてイエス・キリストが私たちにどんなことをしてくださったのかを、私たちは信仰によって受け止め、心から信じなくてはなりません。
 そしてイエス・キリストが私たちにしてくださったことを信じ、キリストに感謝する者として、それにふさわしい生き方がキリスト者には求められる、ということを私たちは受け入れなくてはなりません。

 イエス様が、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない」と言ったのは、このように言うこともできるでしょう。
「わたしが来たのは地上に(あなたがたが考えるような)平和をもたらすためだ、と思ってはならない」
 当時のイスラエルの人々はどのような平和を望んでいたのでしょうか。それはまず、自分たちを支配しているローマ帝国からの解放による平和です。
  ローマ帝国からの解放は、軍事的に強い指導者としての救い主(メシア)によってもたらされると、イスラエルの人々は信じ、救世主の出現を待ち望んでいました。
  しかし、イエス様がもたらそうとされた平和は、そのような平和ではありませんでした。
 イエス様は、最後はご自身が十字架にかかってそのお命を捨てることにより、人々の目から見れば完全な敗北、失敗としか思えない方法によって、神の平和を私たちに与えてくださいました。
 十字架の上で、神の子が何の抵抗もせずに、悪の力に屈したかのように見える方法で命を捨ててくださったのです。
しかし実はそのような方法によってこそ、全ての悪の力が滅ぼされ、私たち人間の罪は赦されることになったのです。
 イエス様は、軍事力や、何らかの力によって、相手(敵)に強制的に言うことを聞かせるような方法によって真の平和はもたらされない、ということを人々に伝えました。
  神の子がそのお命を捨ててくださったので、神が人となって徹底的にご自分を低くなってくださったので、それによって私たちは救われ、真の平和が私たちに与えられたのです。
 ですからキリスト者はいつも、神の子キリストが徹底的にご自分を低くされたその謙遜さ、キリストが十字架の上での私たちの罪のために死んでくださったことを、思い起こさなくてはなりません。
 そして神の子がご自分をそれほどまでに低くして、真の平和を私たちに与えてくださったのですから、私たちも自分を低くすることによって、平和を作り出す者になりたいと願います。

 そしてイスラエルの人たちが望んでいた平和の、もう一つの側面は、自分たちの国(イスラエル)の平和、自分たちの国だけの平和、であったのではないでしょうか。
 それはイスラエル民族という“仲間”、いわば“自分たちの家族”の平和です。
 同じ民族(神によって選ばれた特別な民族という意識)の絆で繋がっているイスラエル民族にだけ与えられる神による平和を、彼らは願っていたのではないか、と私は想像します。
 今日の箇所で、イエス様は“わたしは家族同士を敵対させるために来た”という、とても衝撃的で、私たちが理解することが難しいことをおっしゃっています。
 家族とは、普通は私たちにとって大切な存在です。家族とは、血縁のような、私たちにとって特別に思える何かを基にして形作られ、私たちは大抵は、ある家族の一員となります。
  家族はお互いに愛すべき者同士として、特別な絆で結ばれた者同士として、存在します。
  しかし、イエス様は、それ(家族)に剣を持ち込む、と今日の聖書箇所で言うのです。一体イエス様は何を意味されたのでしょうか

37節
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

家族は大切な存在です。自分の父母、あるいは子どもは愛すべき存在です。
「あなたの父母を敬え」とは、あのモーセの十戒の中にもある大切な戒めの一つです。父母を敬え、とは父母を愛しなさい、という意味も含むと考えていいでしょう。
 しかし、イエス様は“わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない”と言うのです。また親に向かっては、「わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」と言うのです。
 ここでのキーワードは明らかに“わたし(イエス・キリスト)よりも”という点です。家族同士は愛し合わなくてはなりません。
 しかし、自分の家族への愛であっても、それが主イエス・キリストへの愛よりも強くなるのならば、それはキリスト者としてふさわしい愛ではない、というのです。
 これは大変分かりにくいですし、理解することが難しいことだと思います。自分の家族を愛するか、神様(イエス様)を愛するか、どちらかを選べ、と言われているようで、奇異な感じもいたします。
 しかし、先に私が述べた、“イエス・キリストとはどういうお方であるか”、そして“イエス・キリストは私たちに何をしてくださったか”を私たちが本当に知り、信じる時、私たちはキリストをこそ先ず愛するようになるはずなのです。
私達はキリストによって罪許され、こうして生きることを許されるようになったからです。キリストによって生かされていることを信じる者は、キリストをこそ最初に愛するはずです。

私たちには、家族や、あるいは友人、愛する人など、大切な人がいます。人を愛し、人を大切にすることは素晴らしいことです。しかし、そのように人を愛し、大切にする心も、それは神から私たちに与えられるものです。
 私たちはイエス・キリストを心から信じ、キリストを愛してこそ、自分の家族をも愛せるようになります。
 そして、キリストを信じ、キリストを誰よりも(何よりも)愛する時、私たちは自分の家族を心から愛することできるようになり、そしてキリストの愛は、私たちを自分の家族を超えた他者をも愛するようにさせるのです。
 今日の箇所で、イエス様が“家族同士が敵対する”とおっしゃったのは、キリストを信じる信仰によって、それが原因で家族の中で起き得る不和という意味もあります。
  ご家族の中でご自分だけがキリスト者というお方は、不和や敵対とまでは言わなくても、ご家族の中でご自分だけで信仰を守り続けることの難しさを経験しておられる方もいらっしゃると思います。
  皆さんが、そのような困難な中でも、礼拝に来てくださること、教会に繋がっておられることを、私は感謝し、そのような方のために祈りたいと思っております。
  しかし、わたしたちは最終的には、最後には、キリストの愛が、イエス・キリストへの信仰が、そのような対立、あるいは困難さをも圧倒し、私たちのその困難を乗り越えさせてくださると、キリストによって信じてよいのです。
  皆さんお一人お一人が誠実にキリストを信じ、神を礼拝する姿を通して、キリストのご愛が、きっと皆さんのご家族や周りの方々へも広がっていくでしょう。

今日の最後の節である39節をお読みします。
39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

この言葉も、一見すると矛盾したことを言っているように思えます。なぜ自分の命を得ようとするものはそれを失い、しかし、キリストのために命を失う者は、それを得ることになるのでしょうか。
 私たちは、神によって造られたものです。私たちは神によって造られた被造物であり、神が創造主です。
 ですから私たちは、常に私たちの創造主なる神に繋がっていてこそ、本当の命を生きることができます。具体的には私たちは神の生きた言葉に養われ続けてこそ、本当の意味での命を生き続けることができます。
 神の言葉は、私たちの中から自然にわいてくるものではありません。神の言葉は、つねに聖書の言葉によって、祈りによって、そして礼拝によって、私たちの外側から恵みとして私たちに与えられるのです。
  私達の外側から恵みとして与えられる神の言葉を頂くことなく、私たちがただ自分の経験や自分の能力だけによって生きようとするなら、私たちは霊的な命を失うことになります。
 私たちは、そのように自分というものにしがみついていては、真の命を生きることはできないのです。生まれ持った罪を抱えたままでは、私たちは真の命を生きることはできません。
私たちは、古い、罪を抱えた自分自身を捨て、そして真の命であるイエス・キリストの命を頂くとき(キリストを私たちの心の中にお迎えするとき)、私たちは本当の意味で生きることができるのです。
 私たちは、常にイエス・キリストを第一にし、キリストをこそ、心から愛するように願い、そのように生きていきましょう。
  そしてキリストを愛するからこそいただける、他者への思いと愛を大切にして、自分の家族、家族や仲間を超えた社会、国、そして私たちの世界の平和(キリストによる平和)を覚えて、祈る者となっていこうではありませんか。