2024年9月27日金曜日

2024年9月22日 主日礼拝

前奏
招詞  ヨエル書2章12~13節a
賛美  新生讃美歌 125番 造られしものよ
主の祈り
賛美  新生讃美歌 40番 わが喜び わが望み
献金
聖句  マタイによる福音書5章21~26節
祈祷
宣教  兄弟との和解
祈祷
賛美  新生讃美歌 628番 われは主にみな捧ぐ
頌栄  新生讃美歌 679番

 私達の主イエス・キリストは、それまで古くから守られてきた聖書の律法を守らずに、律法を破っている、という印象を、イエス様が生きられた当時の人々に与えていました。
 例えばイエス様は、安息日であっても(ユダヤ教の安息日は土曜日)、病気で苦しむ人たちをお癒しになりました。
そのような行為は、医療行為という仕事として、“安息日には、どんな仕事もしてはならない”という戒めに反する行いだとして、ユダヤ教の指導者たち(パリサイ派と言われた人たちや、律法学者たち)から激しく非難されました。
しかしイエス様は、“安息日は人のためにある。人が安息日のためにあるのではない”と言って、神が定めた安息日の本質(人の命と尊厳、人の休息とが守られるための戒め)について、人々に教えました。

イエス様は、そのように一見すると、当時の律法を破るような(無視するような)行いをしたために、ある人々はイエス様のそのような行いを見て“古い律法は、もう守る必要はないのだ”と思った人もいたようです。
しかし、今日の箇所、マタイ福音書5章のイエス様のお言葉を聞くと、イエス様は決して律法を軽視したり、無視したりしたのではない、ということが分かります。
今日の聖書箇所の前のマタイ5章17節で、イエス様は、はっきりと次のようにおっしゃっています。

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
イエス様は、神の戒めである律法を完成させるために、世に来られたのです。イエス様は神の律法の本質について、私たちに伝えるために、この世界に来られたのです。
今日の聖書箇所では、私たちが持つ感情の一つである“怒り(腹を立てる)”によって引き起こされる律法違反、について言われています。イエス様のお言葉を聞いていきましょう。
私たち人間は、色々な感情を心の中に持っています。良いことや嬉しいことがあれば、私たちは喜びを感じます。

 楽しい時には、楽しい、幸せだと私たちは感じます。良くないことが起きたり、辛い時には、不安や悲しみを感じたりします。
 私たちが持つ感情の一つに“怒り”があります。私たちはどのような時に怒るのでしょうか。正しいことが行われないとき、私たちは正義感に基づいて怒りを感じる、ということもあるでしょう。
 私たちは、道徳的に、倫理的に、物事はこのようにあるべきだ、という考えを持っていて、それに反することが行われると、わたしたちは憤りと怒りを感じます。
 よくニュースなどで、お年寄りの人たちの弱さにつけこんだ詐欺犯罪について伝えられます。人の弱さにつけこんで、その人の資産、財産を奪うなどという犯罪が行われていることを聞くと、私たちは怒りを感じます。

 しかし今日の箇所でイエス様は、私たちが感じる、その怒り、憤りが、誤った方向へと向けられ、大きな罪を引き起こす可能性があることを述べています。

イエス様は21節でこうおっしゃいます。
21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。

モーセに与えられた十戒の第六戒が“殺してはならない”です。(出エジプト記20章13節) 
人間の命を奪ってはならない、という大原則が十戒を通して明確に、イスラエル民族に与えられ、そして今も聖書を通して私たちにも与えられています。
 “人を殺したものは裁きを受ける”とは、人間の手による裁判のことが言及されています。
例えば『民数記Numbers』35章30節には、殺人の容疑に関わる裁判について次のように書かれています。
人を殺した者については、必ず複数の証人の証言を得たうえで、その殺害者を処刑しなければならない。しかし、一人の証人の証言のみで人を死に至らせてはならない。

このように、人を裁判で裁く場合(特に殺人容疑のような重大な案件の場合)、必ず複数の証人の証言を得て、慎重に裁判を行うことが、定められていました。
 イエス様は、律法を廃止、無視するのではなく、律法を完成させるために来られた、とご自分ではっきりとおっしゃいました。
 そしてイエス様は、この“殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける”という律法についても、その本質を私たちに今日の箇所で伝えています。

22節のイエス様のお言葉を聞いてみましょう。

22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける、そして兄弟に「ばか」とか、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる、というのです。
つまり、心の中で兄弟(自分の家族、そして親しい人たちを含むでしょう)に腹を立てること、「ばか」とか「愚か者」と言うこと(心の中で思うことさえ含むでしょう)は、殺人と同じだとイエス様は言うのです。
 これがイエス様のおっしゃる“律法を完成”という最初の意味です。つまり、律法とはそれを私たちが上辺だけ守ればよいとか、実際に悪い行いをしていなければ罪がない、ということではないのです。

 兄弟に腹を立てる、という私たちの心の中(心の奥底)を神はご覧になり、私たちの心の悪い思いを神は裁くのです。
 “イエス様は厳しいことを言いすぎる。こんな基準に合格できる人は誰もいない”と私たちは思うかもしれません。
しかし、兄弟に腹を立てる、ということが、まさに殺人に発展したという事件が聖書にも書かれていますし、私たちの社会でもそのようなことは実際に起きています。
 旧約聖書『創世記』の4章には、アダムとエバの最初の子たちであったカインとアベルの兄弟間で起きた悲劇が描かれています。
 カインは“土の実り(穀物)”を神に捧げましたが、カインの捧げものに神は目を留められませんでした。一方アベルが捧げた羊の肉(羊の初子)には、神は目を留められました。
 そのことにカインは激しく怒りました。自分の捧げものに神が目を留められなかったことへの怒り、そしてアベルへの怒りと妬みの感情でカインは一杯になったのでしょう。
結局それが原因となりカインはアベルを殺してしまいました。兄弟への怒り、妬み、の感情が、兄弟間の殺人という大きな悲劇を引き起こしてしまったのです。
 私たちも、他者を妬んだり、他者への怒りの感情を持つことがある事実を考えると、カインとアベルの間に起きた出来事は私たち誰にとっても、決して他人事ではないことが分かります。

 私たちが兄弟(他者)に腹を立てる理由の一つは、他者が自分とは違う考えや立場を持っていて、私たちがそのような他者(その人の考え方や立場)に賛成できない時でしょう。
私たちは大抵の場合、やはり「私の方が正しい」と思っているのではないでしょうか。ですから、自分とは異なる意見や立場に向き合うとき、怒りや憤り(あるいは疑問)を感じることがあります。
 自分と他者の考えや立場が異なるために、私たちの怒りが引き起こされ、それが大きな罪へと発展することがあります。
ではそれを防ぐにためには、私たちはどうしたらよいのでしょうか。私たちは自分の考えや希望を全く放棄して、すべて他人の意向に合わせなさい(それで平和を保ちなさい)、というのが聖書とイエス様が言うことなのでしょうか。

今日の23~24節を読んでみましょう。
23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

 祭壇に供え物を献げることは、神様へ重要な奉仕です。信仰的に果たさねばならない義務でもあります。今の私たちにとっては教会で神を礼拝すること、奉仕すること、献金をすること、が含まれるでしょう。
 しかし、それらもとても重要ですけれど、和解すべき相手がいるのならば、その兄弟との和解を優先しなさい、と今日の箇所でイエス様は言うのです。
 行って仲直りする~これは言うほど簡単なことではないでしょう。自分から行く、ということは、とても難しいと私は思います。(相手が、もう少し譲歩してくれれば、、、と私はよく思ってしまいます)

 また仲直り、和解も、問題の根が深いほど、それほど簡単に短時間で達成できるものではないでしょう。誰とでも簡単に和解できる、という幻想を私たちは持たないほうがよい、と私は思います。
 しかしイエス様は言われます。“まず行って(あなたが先に行って)、そして兄弟と仲直り(和解)をし、それから供え物をしなさい”。
ですから、イエス様の教えに従って、私たちが、必要な時に、和解のための第一歩をまず踏み出すことができますように、私たちは祈りたいと願います。
 和解は簡単には達成できず、時間がかかる場合があります。しかしそれでもあきらめず、私たちは“祈り”と“対話”を通して、互いを思いやり、互いの立場を理解し合う信仰の共同体と築いていきたいと願います。
 私たちは祈り、そして言葉による対話によって、そしてお互いに心を開くことによって、それまで気づいていなかった、他者の思いや心に目を開かせられることも、あると私は思います。

 今日の箇所の25節で、もし私たちが和解をしないのならば、自分に反感をもっている相手は私たちを裁判官に引き渡し、裁判官は私たちを下役に引き渡し、私たちは牢に投げ込まれる、と言われます。
して最後の26節で次のように言われています。

26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 私たちは他者との和解、そして神との和解という義務(負債)を負っているのです。それは負債ですから、本来返さなくてはならないのです。
 しかし私たちは、自分中心という罪のために、どうしてもその負債を自分で全額返すことはできません。
しかし、聖書は、私たちが負うその負債をすべてイエス様が支払ってくださった、と伝えます。
イエス様は十字架の上でご自分の命を捨ててくださり、私たちがまず神と和解できるように、贖いの供え物となってくださったのです。
私達はイエス様を通して、神のもとへ行き、神と和解することが許されたのです。
そしてイエス様は神と私たちとの和解のための供え物となると同時に、私たちが自分以外の他者、兄弟姉妹とも和解できるためにも、ご自身の命を捨ててくださいました。
イエス様が、神の子である身分に固執せず、私たちの罪の贖いのためにすべてを捨ててくださったことを覚えましょう。
そしてイエス様のお言葉に日々従い、神との和解が実現した喜びをもって、兄弟(他者)との和解の実現にも向けて、私たちもまず自分にできる小さな第一歩を踏み出したいと願います。