2024年6月1日土曜日

2024年6月2日 主日礼拝

前奏
招詞 テモテへの手紙二 2章1節
賛美 新生讃美歌 33番 輝け主の栄光
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌 16番 み栄えあれ 愛の神
献金
聖句 ヨシュア記1章1~9節
祈祷
宣教 「強く、雄々しくあれ」
祈祷
賛美 新生讃美歌 520番 人生の海のあらしに
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏


 今年度私たちの教会は「主の御言葉に立つ Standing on the Word of the Lord」という主題のもとに、教会生活を送っております。
 主は、御言葉すなわち聖書の言葉を通し、今も私たちに語ってくださいます。聖書に記録された様々な出来事も、その物語を通して、神が私たちに語りかけてくださいます。
 私たちの魂を養い、私たちの命を支える、主の御言葉を私たちは豊かにいただき、御言葉の上に信仰を固く建て上げていきたいと願います。
今年度一年間をかけて、私たちは聖書全体を礼拝メッセージで網羅するという非常に野心的な計画に挑戦しています。
『創世記』、『出エジプト記』、『レビ記』、『民数記』、『申命記』を私たちは(たった2か月で!)終えて、今日の聖書箇所は『ヨシュア記』の冒頭の部分です。

 出エジプトの中心的人物であり、イスラエルの民たちを彼らが奴隷生活を送っていたエジプトから導き出したモーセは死にました。
モーセの死の場面は、今日の箇所の直前の『申命記』の最後の部分に記されています。先週の礼拝メッセージで私たちはその場面から御言葉を聞きました。
 今日の箇所は、モーセの死後、モーセを継いでイスラエルの民の指導者となったヨシュア(ヌンの子ヨシュア)が、神に指導者として正式に選ばれ、立てられる箇所です。

 主がヨシュアにまず次のように語りかけました。
 「わたしの僕(しもべ)モーセは死んだ」。主はモーセのことを「わたしの僕」と呼んだのです。今日の箇所の冒頭の文も、「主の僕モーセの死後、、、」という言葉から始まります。

 主なる神に従い、主なる神の僕として生きたモーセは、“主の僕”として覚えられ、地上での命を終えていったということです。
 私たちもキリストを信じる信仰者として、私たちのことが「主の僕」として神に、そして人にもそのように覚えられるのならば、それは信仰者として本当に嬉しく、光栄なことであると私は思います。
 私は昔、キリスト者になった最初のころ(20代後半のころ)、もし自分が死んだら自分のことをどのように人から覚えられていたいかな、と考えたことがありました。
 その時わたしは、「この男(酒井)は、キリストを信じて死んでいった」と人から覚えられたら良いな、と思っていました。
 しかし、それではまだまだ自分中心である、と今私は示されました。今私は、モーセに倣い、私のことも人々が“あの男は主の僕だった”と、そのように覚えていてくださったらよいな、と思っています。

 “キリストが彼の主であり、彼はその主に従う僕であった”と人から覚えられるのであれば、それはキリストに栄光を帰することになるのではないか、と私は思うからです。
 そして主の僕として生きる人は、人(他者)の僕としても生きる人でしょう。
 主イエス・キリストは弟子たちに次のように言われました。
 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコによる福音書10章43節b~45節)

私たちの主であるイエス・キリストが、人に仕えるために、驚くべきことに、王なるキリストが僕となって人に仕えるために世に来られたのです。
 ですからキリストに従おうとする私たちキリスト者も、イエス様に倣い、他者に仕える僕、そして神に仕える僕として生きていくことを、日々目指そうではありませんか。
主はモーセに継いでイスラエルの指導者となるべく、すでにヨシュアを選んでおられました。ヨシュアはモーセの従者(aide)として、ずっとモーセに付いて彼の補佐役を務めていました。

 今日の箇所の主の言葉の最初の部分(2~4節)をもう一度お読みします。

2「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。
3モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。
4荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。

ヨシュアはじめイスラエルの民たちは、それまで彼らを率いてきたモーセが死んだことに、とても不安であったのではないでしょうか。
申命記34章では、イスラエルの人々は30日間モーセを悼んで泣き、喪に服した、と書かれています(申命記34章8節)
 しかし主はヨシュアに、神の約束をもう一度念押しするように、伝えたのです。神がイスラエルの民たちを導くと約束された土地はもう目の前なのです。

 モーセは死んだけれども、神の約束は決して死ぬことなく、信仰を受け継ぐ者たちによって神の約束は受け継がれ、彼らによって実現していくのです。
 続いて主はこういわれます。(5節)

一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。

私たちは、色々な状況や周りの環境などが、私たちの望みや計画を挫(くじ)くと思うことがないでしょうか。
 しかし、主を信じ、主の御心に従い、その実現のために歩む信仰者は、その一生の間、その行く手を阻まれることはない、というのです。
それは主の御心ならば、主のご計画ならば必ず実現するということです。その御心に沿った道を私たちが歩むならば、私たちの行く手を阻まれることはないと、私たちも強く信じようではありませんか。
 ただ、私たちにはなにが御心なのか、はっきりとは分からない時のほうが多いかもしれません。
モーセやヨシュアに主がはっきりと語ってくださったように、今の私たちに主がはっきりと私たちの耳に聞こえる声で語るということは、普通はないでしょう。
 しかし、私たちには聖書の御言葉があります。そして神は聖霊を私たちに、御言葉を読み解く助け主として送ってくださいます。
私たちは共に祈り求め、聖霊の導きをいただきながら、御言葉によって主なる神が私たちに示す道を選んで歩んでまいりましょう。
祈りと御言葉によって示された道を私たちが歩むとき、その道が阻まれることは決してありません。

 その後の6節で、主はヨシュアに「強く。雄々しくあれ」と言われました。その言葉は今日のメッセージの題です。そして今日の箇所で主は三度、その言葉をヨシュアに告げています。
主がヨシュアに「強く、雄々しくあれ」とこのように何度も言われたのは、神の言葉を聞いても、それでも様々なことを恐れる人間の弱さを主はよくご存じであったからでしょう。
 主はヨシュアが、そして彼に従うイスラエルの人々と今の私たちも、神よりも自分を見て、また自分を頼ろうとするので、どうしても恐れてしまう者であることを、主はよくご存じであったのです。
 ですから神は何度も私たちを「強く、雄々しくあれ」と私たちを励ましてくださり、私たち自身や状況に注目するのではなく、主なる神に注目するようにと、促されるのです。
 今日の箇所には、“律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない”、また“この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい”と書かれています。
 主の律法、今の私たちにとっては聖書の御言葉を忠実に守ることによって、私たちは強く、雄々しくあることができます。
 “右にも左にもそれない”とは、御言葉をあまりに自分勝手な解釈をして読まない、ということでしょう。
 昼も夜も口ずさみ、とはまさに一日中御言葉と共に、御言葉に支えられて、御言葉を忘れことがないように、ということです。
 いつも御言葉を覚えている、というのはかなりハードルが高いように私たちには思われます。しかし、私たちは御言葉によって生きる者ですから、信仰者として、やはりつねに御言葉を覚えて生きているべきなのです。

 そして肝心ことは、聖書の言葉が私たちは生かすとは、その言葉を守り実行するときである、ということです。
 私はキリスト者になってからしばらくの間、“イエス・キリストを信じればそれだけで人は救われる”と信じていました。
 そうなのですが、しかし、ある意味その考えは正しくありません。“イエス・キリストを信じるだけで救われる“とは真実なのですが、そのためには“信じる”の意味を考えなくてはなりません。

 ヤコブの手紙の2章19節(James 2:19)に次のように書かれています。

「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じておののいています」

悪霊であっても、“主なる神は唯一のお方だと信じておののいている”のです。ですから、どのように信じているのか、が重要になります。
主を「信じる」ということは、主を信頼し、主に従うこと、すなわち主の御言葉に従って生きるということです。
自分を主とせず、主なる神をこそ主として、神の僕、そして人の僕として歩む、ということ、そして主の言われることにすべて従って生きる、信仰を実践するということが“主を信じる”という意味です。
 そのように私たちが主に従って、御言葉に忠実に生きるとき、私たちはきっと主が望まれるように“強く、雄々しく”生きることができるようになるでしょう。

 最後に、今日の箇所の最後の節(9節)で言われる主のお言葉を聞きたいと思います。

9わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

 主はヨシュアに、“あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる”と約束してくださいました。
 神が人となったイエス・キリストも復活して弟子たちに現われ、そして「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)と約束してくださいました。
 私たちも、この“主なる神がいつも、私たちがどこに行っても共にいてくださる”という、本当に大きな希望の約束をいただいています。
 主が、主の僕モーセを導き、またヨシュアを強め、ヨシュアを導いたように、主は変わらず今も私たちとも共にいてくださり、私たちを導いてくださいます。
主の御言葉に従い、御言葉に立って、主が示してくださる道、主が私たちに与えようとしてくださっている恵みへと向かって、私たちも今こそ立ち上がり、歩みだしていきましょう。