2024年6月15日土曜日

2024年6月16日 主日礼拝

招詞  コロサイの信徒への手紙2章7節
賛美  新生讃美歌 33番 輝け主の栄光
主の祈り
賛美  新生讃美歌 523番 主われを愛す
献金
聖句  士師記2章6~15節
祈祷
宣教  「主に背く世代」
祈祷
賛美  新生賛美歌 102番 罪にみてる世界
頌栄  新生讃美歌 673番
祝祷
後奏


 今日私たちは、旧約聖書の『士師記』の一箇所から、主なる神の御言葉を共に聞いてまいります。
この『士師記』の前の『ヨシュア記』では、モーセの後を継いでイスラエルの民のリーダーとなったヌンの子ヨシュアが、イスラエルの民たちを率いて、約束の地カナンへと入っていく(土地を征服していく)様子が描かれています。

 モーセの役割は、イスラエルの民たちを、彼らが奴隷生活を送っていたエジプトから導きだし、カナンの地まで率いることでした。
 そしてモーセの死後は、ヨシュアがモーセの後を継ぎ、カナンの地へイスラエルの民たちが入っていくことを指導しました。
 荒野の旅を率いたモーセ、そして約束の地カナンの土地を獲得するための指導者として、ヨシュアは、それぞれ活動しました。
 そのことから、モーセ、ヨシュアそれぞれに与えられた異なる役割があったことがわかります。

主の約束は世代を超えて、また様々な働き人たちによって実現していくものである、ということも、モーセとヨシュアそれぞれの働きから、分かります。
私たちも、信仰によって、私たちの思いや、私たちの時間の感覚を超えた主のご計画に生かされていると信じることができます。
神のご計画の中で、ある人々は指導的な役割を担います。またある人たちは補佐的な役割、またその他さまざまな役割を担います。
しかし、信仰によって神の約束、神の国の実現に希望をおいて信仰の働きに共に仕える私たちは、神の働き人として皆等しく、その働きが神の前に覚えられています。
私たちの教会も、多くの方々の様々な奉仕によって、教会活動が支えられています。昨年度私たちの教会は「愛の奉仕 Give your service with love」という主題のもとに教会生活を送りました。
これからも変わらず、私たちがそれぞれに異なった賜物をいただいていることを感謝し、互いの賜物を主なる神に捧げながら、私たちは共に教会生活を送っていきましょう。

今日の箇所『士師記』2章6節は、「ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの人々は土地を獲得するため、それぞれ自分の嗣業の地に向かった。」という一文で始まっています。 
指導者としてのヨシュアの大切な働きは、イスラエルの民たちを励まし、神による力を授け、そして民たちをそれぞれの働きへと送りだすことでした。
神を信じる者たちは、神によってこの世でのそれぞれの場へ遣わされていきます。

 私たちの礼拝プログラムの最後に「祝祷」があります。祝祷は、神の祝福をもって、教会のその日の代表者が(大抵は牧師)が、私たちひとり一人が、神様の励ましと力を受けて、それぞれの場へと遣わされていきますようにという願いと祈りです。
 私たちは主なる神を礼拝するために教会に来ます。礼拝で神を賛美し、神の御言葉をいただきます。そして神の祝福(祝祷)を受けて、私たちはそれぞれの場へと遣わされていきます。
キリスト者としての教会生活は、すなわち礼拝を中心とした生活です。日曜日(主の日)の礼拝を中心にして、礼拝の場から神の祝福によってそれぞれの生活へと遣わされ、そしてまた礼拝へと戻ってくるという信仰生活を、私たちは送っています。
私(酒井)は牧師として、教会に集うお一人お一人が(もちろん牧師である私自身を含めて)礼拝を通して主の御言葉による励まし、そして主の祝福を豊かに受けて、「また今週一週間の歩みへ踏み出そう」と希望をもって、教会を後にして行っていただきたいと、心から願っています。

 今日の箇所では、ヨシュアが死に、そしてヨシュアと同じ世代も皆死んだ後に、彼らに続く世代に大きな問題が起きたことが描かれています。

今日の7節をお読みします。
7ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた。

 イスラエルの民たちは、ヨシュアが生きている間と、そしてヨシュアの死後も、主がイスラエルに行われた大いなる御業を目の当たりにした世代がいる間は、主に仕えたというのです。
荒野を旅する中で神によって助けられた数々の経験(例えば、荒野で、主が天からマナを降らせてくださり、イスラエルの民たちが飢えることがないようにされた奇跡などでしょう)を実際に見た世代がいる間は、民は主を信じ主に仕えました。
しかし、それらの世代が死んだ後の世代は、どうなったのでしょうか。

11~12節をお読みします。
11イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。
12彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。

 バアル、また13節に書かれているアシュトレトとは、カナン地方で信じられていた神々です。それらは豊穣(豊かな収穫)をもたらす神として、カナン地方の人々に崇められていたようです。
ヨシュアと彼の世代の人々に続く世代のイスラエルの民たちは、彼らの先祖をエジプトから導きだし、荒野の旅を導き、カナンの地の征服も導いた主への信仰を捨てたのです。
 なぜ、彼らは彼らの神への信仰にとどまることができなかったのでしょうか。
まず私たちが心に留めたいことは、信仰とは自動的に何もしないで次の世代へ受け渡される、受け継がれるものではない、ということです。
 信仰の新しい世代は、前の世代から、主の偉大な御業について色々と聞かされ、教えられてきたでしょう。

前の世代は彼らに続く世代のために祈り、神の御業を新しい世代に語りつづけたと私は想像します。
しかし、新しい世代は、前の世代から受け継いだ、主を信じる信仰を、自らの決断によって自分のものとしなくてはならないのです。
 信仰は神から与えられるものです。神の恵みも豊かに私たちに与えられます。しかし、神からの信仰の恵みを、受け取るかどうか、神を信じるかどうかは私たち一人ひとりの決断にゆだねられています。
 神は私たちに自分の意志により、主を信じる信仰の道を選び取るという“自由意志”を与えてくださいました。

 もしその自由意志が私たちになかったのならば、私たちは神の前に、ただ神の命令のままに何も考えずに反応して動くロボットのような存在になっていたでしょう。
 『創世記』の2章の中で、神はエデンの園の中央に「善悪の知識の木」を生えいでさせました。

そして神は最初の人であるアダムに、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われました。(創世記2章16~17節)
 なぜ神は、わざわざ“あなたはそれを絶対食べてはいけない”というものを、エデンの園に生えいでさせられた(作られた)のでしょうか。
 “食べるな”というなら、最初からそのようなものは作らなければよかったのではないでしょうか。
  しかし、人が自らの意志で、神を信頼し神の命令に従うためには、(人が神の前に、ただのロボットのようにはならないために)“善悪の知識の木”は確かに必要であったのです。
 人が自らの意志で神を信じ、神への信仰を自分で選び取り、神と人格的な関係を結ぶために、やはり“善悪の知識の木”は必要であったのです。

そして“それを取って食べるな。食べると必ず死んでしまう”という神の命令も、私たち人の信仰のために、必要なものであったのです。
 自らの意志で神を信頼し、神を信じ、神に従って生きるのが、私たちの信仰です。プロテスタント教派の中でも、私たちバプテスト教会は、特に“その人の主体的な信仰告白”をずっと大切にしてきました。
私たちは、前の世代から受け継いでいた信仰を、自らの意志によって今も大切にし、その信仰に留まり続けるように、互いに励ましあい、支えたいと願います。
ヨシュアの次の世代が、主なる神を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたのは、それらの神々が“豊穣(豊かな収穫)”をもたらすと信じられ、それが人々には魅力的に見えたからでしょう。
「神を信じて何になるのか?」という疑問への答えが「豊かな収穫」とか「この世での目に見える成功」であれば、それは分かりやすくて魅力的であるかもしれません。

そして私たちはそのような、一見分かりやすく、また自分たちを富ませ、楽しませてくれる効果のあるものに、どうしても心を惹かれてしまうのでしょう。
しかし、真の神でないものが、私たちを根本的に守り、支えることはできません。人が生きる上では様々な困難や苦難が訪れます。

困難、苦難、または危機的な状況に私たちが立ち向かうことができるのは、主なる神の守り、聖書が伝える主なる神の御言葉の力によってのみ、可能なのです。
御言葉こそが私たちと常に共にあり、御言葉を通して私たちは“主は私たちと共におられる”と確信することができるので、御言葉こそが私たちの真の力となるのです。
今日の箇所では、主を捨てて、他の神々に従ったイスラエルの民たちに、主が怒りを発せられ、彼らを敵に略奪されるままにされた、と書かれています。
 主なる神への信仰を捨てたイスラエルの民に、敵に立ち向かう本当の力は何もなかった、ということです。
 なぜなら、主なる神への信仰、御言葉を通して与えられる力こそが、私たちにとっての真の力、困難や私たちの信仰と命を脅かす敵に立ち向かう最大の武器となるからです。

最後に、長い引用となりますが、新約聖書の中のエフェソの信徒への手紙6章10~17節をお読みして、宣教を終わりにいたします。

エフェソの信徒への手紙6章10~17節 (Ephesians 6:10~17)

10最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
11悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
12わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
13だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
14立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
15平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
17また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

私たちの主なる神が、“主に依り頼み、主ご自身の力によって強くなりなさい”と勧めておられます。
 悪しき者に対抗することができるように、神の武具、神の御言葉、主の真理を身につけましょう。
偉大なる神が、御言葉を通して、私たちにご自身の力を惜しみなく与えてくださるのですから、私たちはこの世にあって、何をも恐れる必要がないのです。