2024年6月23日 主日礼拝
前奏
招詞 テモテへの手紙二 3章16節
賛美 新生讃美歌33番 輝け主の栄光
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌650番 喜びて主に仕えよ
献金
聖句 サムエル記上3章1~10節
祈祷
宣教 「主よ、お話しください。僕は聞いております」
祈祷
賛美 新生讃美歌 664番 主よ 私はここにいます
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏
今日私たちに与えられた聖書の箇所は『サムエル記上』3章からの場面です。少年サムエルが、祭司であるエリに仕えていました。
この書のタイトルにもなっているサムエルは、母ハンナ、父エルカナのもとに生まれた男の子でした。
最初、子どもを授からなかったハンナが主の前に必死に祈り、そしてサムエルを授かった様子がサムエル記上1章に描かれています。
サムエルは、祭司エリに預けられ、下働きとして主に仕えるようになりました。サムエル記上2章18節に「(サムエルは)下働きとして主の御前に仕えていた」と書かれています。
今日の箇所3章1節にも、「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた」と書かれています。
それらの文が伝えることは、次のようなことです。それは、サムエルは直接的には祭司であるエリのもとで働き、一般的には“サムエルはエリに仕えていた”と言えます。
しかし、主なる神への信仰のもとに、サムエルは祭司エリのもとで彼を補佐する働きをしながら、サムエルはあくまで“主に仕えていた”ということです。
神を信じる信仰者は、主の僕となった者です。僕は主人に仕えます。私たちも、本当に仕えるべき対象は、主なる神のみです。
私たちは社会的には、それぞれの職場などで、上司に仕える、あるいはお客様に仕えるという立場にあると思います。
しかし、それらはあくまでその仕事や組織での立場上の意味であって、自分の存在が上司や客に従属するという意味ではありません。
新約聖書のコロサイの信徒への手紙3章23~24節に次のように書かれています。
23何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
24あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
私たち信仰者は、何をするにも人に対してではなく、主に対してするように、心から行うようにと、主から期待されています。
それは人や仕事などを軽視するということではありません。むしろ、主に心からするという確信があればあるほど、直接的に仕える相手(上司やお客様など)への尊敬も増すのだと思います。
神の目から見れば、私たち人同士の立場はあくまで皆平等です。あるのはただ職務や職責の違いです。主にある信仰者は、何をするにも主に対してするように心から行う、ということを大切にしていきたいと願います。
また、今日の箇所3章1節には、次のようにも書かれています。
そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。
私たちは、旧約聖書の時代は、神が人(特別に選ばれた人たちですが)に直接話しかけたりして、神と人とが直接交わることができた特別な時代であった、という印象を持っているかもしれません。
しかし、そんな旧約の時代にも、「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」時があったと、今日の箇所は明確に伝えます。
“主の言葉が臨むことは少なかった”の“少ない rare”の、元のヘブライ語の単語“ヤカーyaqar”には, “貴重な precious”という意味もあります。
主の言葉は、貴重な(尊い)ものなのです。それは、私たち人が、当たり前のように頂けるものではない、ということです。
主の言葉は、本当に恵みとして、本来それを受けるに値しない者である私たちに、私たちの救いのために主から与えられる“貴重な”ものであることを、私たちは忘れないようにしたいと願います。
その主の言葉が、なんと人となり、この世界に生まれてきてくださったのがイエス・キリストです。
新約聖書のヨハネによる福音書の冒頭には、神、すなわちイエス・キリストを“言(ことば The Word”として、次のように書かれています。
ヨハネによる福音書1章14節
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
これは、“神が人となり、人と一緒に住まわれた”ということです。神が人となり、(主の晩餐の中でも私たちが確認するように)私たちの苦しみ、悲しみを共に担ってくださった(くださる)ということです。
神が人間になり、しかもそのお方が、私たち人の罪を背負われ、私たちの罪を赦すために十字架にかかって死んでくださったのです。
私たちでは想像することさえできない、そのような方法で、私たち人が再び神と交わり、神のもとへと立ち返る道が開かれたのです。
そしてイエス・キリストの神は、今は聖書の言葉を通して私たちに語りかけてくださいます。
私たちが聖霊の導きをいただいて聖書の言葉を読む時、言葉の一つ一つが、物語の一つ一つが、私たちを支え導く力となります。
私たちが聖書の言葉をお互いに分かち合うとき、一人で聖書を読んでいては決して得ることのできない、深い示唆と導きを得ることもあります。
そのような意味で、キリスト信仰にとって聖書は特別な書です。そして信仰者にとって、信仰の仲間、また教会の存在はお互いの信仰維持と成長のために不可欠です。
そして聖書は信仰の単なる記録ではなく、今もその言葉の一つ一つを通して神が私たちに語りかけてくださる特別な本であるのです。
サムエルは、そして祭司エリも、神に仕えていました。彼らは神殿で神に仕え続けていたのです。(このころの神殿は、後にソロモンが建立する最初の神殿とは違い、いわゆる幕屋(テント式)の神殿だったと思われます)
たとえ主の言葉が臨むことが少なくても、彼らは誠実に神に仕え続けました。私は、牧師として毎週のメッセージを用意する働きの中で、これに近いことを経験させていただいていると思います。
メッセージを準備しようとする時、明確なメッセージのポイントがすぐに思い浮かぶわけではありません。私の場合、大抵は相当な時間の黙想を重ねて、聖書本文を読み続けて、ようやく一筋、二筋のメッセージのポイントが少しずつ与えられることが多いです。
しかし、そのようにして、ほのかに与えられる一筋の光は、私自身の中から生み出されたものではなく、聖霊により私の外側から、言葉として与えられたものだと私は思っています。
神の言葉が臨むことはまれであるかもしれません。しかし、神の言葉が私たちに途絶えることは決してありません。私たちに語られる神の御声を私たちは求めつづけていきましょう。
主がサムエルに呼びかけました。サムエルは「ここにいます」と答えて、自分を呼んだのはエリだと思い、エリのもとへ走って行きます。
エリは自分がサムエルを呼んではいないので、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言いました。
このようなことが三度あってから、ようやく祭司エリが気づきました。エリは、「主がサムエルに語りかけたのだ」と気づいたのです。
ですからエリは「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」とサムエルに言いました。
何気ないエリの一言ですが、エリがそのようにサムエルに助言を与えたことは、結構重要なことを含んでいると、私は思います。
それは、もしエリが人間的な、祭司としての誇り(プライド)を抱えていたのならば、「主はサムエルに語ったのだ。サムエル、次に呼びかけられたら『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」と言うことは簡単には出来なかったのではないか、ということです。
いくら高齢でも、エリが自分自身の祭司としての誇りにとらわれていたならば、「主が私に語りかけていないのに、こんな一人の少年に語るはずがない」と思う可能性もあったのではないでしょうか。
しかし、エリはその点で謙遜でした。年老いた自分が間もなく祭司としての務め、また人生の務めそのものに幕を下ろすのも近いことを、彼は悟ってもいたのでしょう。
そしてエリは、主はお選びになった誰にでも語りかけることがある、ということもよく知っていました。
「主はサムエルを次の霊的指導者としてお選びになったのだ。主はサムエルを通して、大切なメッセージを私たちに伝えようとされているのだ」と、エリは受け止めることができたのです。
ですから、私たちも、主は幼い子どもにも語られることがある、と知り、ちいさな子どもの言うことであっても真摯に耳を傾ける姿勢を持ちたいと願います(これは私の出身教会の牧師がそう言っていたことでもあります)
エリはサムエルに、次にまた呼びかけられたら「主よ、お話しください。僕は聞いております」と言いなさい、と言いました。
エリはサムエルに、サムエルが常に主の僕として、これから仕えていくべきことを教えようとしたのです。
主なる神を神として、主の僕として常に主に従順に、人を恐れず預言者(神の言葉を預かる者)としての務めをこれから果たしていきなさい、ということです。
これは私たちにとっても大切なことです。私たちは主の僕です。イエス様は次のようにおっしゃいました。
あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい(マタイ福音書23章11節)
イエス様のこの言葉は、特に権力を持った者(教会では牧師がその筆頭でしょう)に向けられた言葉です。しかし、この言葉は信仰者全員に向けられた言葉です。
イエス様が言われたように、そしてエリがサムエルに伝えたように、私たちは主の僕として、主なる神に仕え、そして謙虚に他者にも仕える僕としての生き方を自ら率先して、喜びをもって、実践していきたいと願います。
エリはサムエルに「僕は聞いております」と言いなさいと、教えました。私たちが主の御声を聞くためには、あきらめずに主の御言葉を待つという忍耐と主への信頼が必要です。
そして“主よ、どうぞお話ください。私にはあなたの言葉を聞く用意ができております”という思いを持つことが必要です。
“主よ、どうぞお話しください。私にはあなたの言葉を聞き、そしてそのお言葉通りに行う覚悟ができております”という思いで、私たちは御言葉を求めるべきだ、ということでしょう。
それほどの覚悟をもってしてでも、主の御言葉は私たちが求めるのに大いに価値ある、計り知れない価値のあるものなのです。
時に御言葉に従うことは、とても難しいかもしれません。“あなたの隣人を愛しなさい”などは、聞くに易しいですが、実践しようとするならいかに大変であるかは、誰にでも明らかだと思います。
それでも私たちは主の御言葉を求めるのです。私たちは主の御言葉を聞くために、常に心を開いているべきなのです。
私たちが御言葉を求め、御言葉を聞き、その御言葉を実践し(御言葉の上に立ち)歩むとき、私たちは自分自身の力によってではなく、御言葉の力によって歩まされ、生かされていることをきっと実感することになるでしょう。
「主よ、お話しください。僕は聞いております」。この覚悟と決意をもって、私たちもこれからの信仰生