2024年6月8日土曜日

2024年6月9日 主日礼拝

前奏
招詞 ヨハネによる福音書10章28節
賛美 新生讃美歌33番 輝け主の栄光
主の祈り
賛美 新生讃美歌327番 ゆく手を守る永久の君よ
献金
聖句  ヨシュア記23章14~16節
祈祷
宣教 「主の約束はすべて実現した」
祈祷
賛美 新生賛美歌 456番 恵み深きみ声もて
頌栄 新生賛美歌 673番
祝祷
後奏

モーセの後を継ぎ、イスラエルの民の指導者となったヨシュアの「告別の言葉」、つまりヨシュアが自分の死を間近に悟った時に、語った言葉が今日の聖書の箇所です。
ヨシュアはモーセを継いでイスラエルの民の指導者となり、主なる神がイスラエルの民たちにお与えになったカナンの地に入って行きました。
そしてイスラエルの中の各部族に、それぞれ住むべき土地を割り当てるという務めをヨシュアは果たしました。
 『ヨシュア記』には、彼らが入っていったその土地を征服していく様子が記録されています。
 今日の箇所の最初に「わたしは今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている」というヨシュアの言葉が記されています。

 “この世のすべての者がたどるべき道”とは、すなわち死ぬということです。ヨシュアは死を“道”だと言います。
 生きること(人生)は一つの道によく例えられます。私たちは神様からいただいた命をもって、人生という道を歩んでいきます。
 そして聖書の神を信じる信仰者にとって、死は終わりではなく、命の道の言わば通過点です。死は、その先に続く命がある、道程(みちのり)の一点です。
 死がどのようなものなのか、死の先の世界がどのようなものなのかを、正確に断言できる人は誰もいません。
 しかし私たちは信仰によって、死と、また死の先の世界についても希望を持つことができます。
 まずイエス・キリストを主と信じ、キリスト者になること、すなわちバプテスマ(洗礼)を受けることは、この世にあって一度自分に死ぬことを意味します。

 バプテスト教会では、バプテスマ(洗礼)の形として全身を水の中に浸(しず)める“全浸礼”の形をずっと大切にしてきました。
特に健康上の理由などによって、全身を水に浸めることが困難な場合などを除いて、基本的に全身を水に浸めるという形によって、“罪ある古い自分に、イエス・キリストと共に一度、完全に死ぬ”という信仰を表します。
そして、水の中から再び引き上げられることによって、復活のイエス・キリストと共に新たな命を頂く、という信仰をも表します。それが“全浸礼”が表す信仰です。
そのように、この世にあってキリストを主と告白し、バプテスマによって新たな命を頂いた者は、この世にあって既に一度(霊的な)死を経験しているということになります。
ですから信仰によって、私たちはこの地上での肉体の死の先にも、私たちの命の道は続く、霊的な命は続く、と信じることが可能になるのです。

そしてヨシュアは、その“死”という道を“この世のすべての者がたどる道”と表現しています。確かに、死は私たち誰にでも必ずやってくるものです。
そのような意味で、たしかに死は“この世のすべての者がたどる道”です。死という道を避けて通ることができる人は、誰もいないからです。
 その道をいつ通ることになるのか、つまり死がいつ、またどのような形で私たちに訪れるのかは、それは私たちには分かりません。
 普段、特に若く健康な人たちは、死を意識することがあまりないかもしれません。しかし、死は私たちの命の道の一点であり、そして私たちが必ず、いつか必ず通ることになる道です。
 ですから、死を忌み嫌ったり、死から目をそむけることなく、死に対して真剣に考え向き合うことは、今この時を私たちが大切に生きることにもとつながると、私は思います。

 生きていることと死は隣り合わせです。私たちは今ある命を感謝し、神によって生かされていることを喜びたいと願います。そして地上での身体を持ったこの命は、限りあるものである現実にも、信仰的にしっかりと向き合っていきたいと願います。
 ヨシュアは、神がイスラエルの民たちにお与えになった約束の地のカナンで、各地域を占領し、そしてイスラエル各部族に土地を割り当てる務めを果たしました。
しかし、ヨシュアは、彼が生きている間にその務めを完全にやり遂げることはできませんでした。占領すべき土地はまだ残っていたのです。

ヨシュア記13章1節(Joshua 13:1)に次のように書かれています。

ヨシュアが多くの日を重ねて老人となったとき、主は彼にこう言われた。「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている。 
ヨシュアは、約束の地の征服を成し遂げることがないままに死を迎えることになったのです。
 私たちは、『申命記』の最後の箇所で、モーセが死を迎える場面も読みました。主なる神は、40年間イスラエルの民たちを率いて荒野を旅してきたモーセが、約束のカナンの地に入ることを、お許しになりませんでした。
 そして神は、ヨシュアの務めについても彼の仕事は言わば未完成のまま、ヨシュアは死を迎えねばならないようにと、主がお定めになったのでした。
 ヨシュアは、約束の地の征服が完了する時まで生き延びたいと、本心では思っていたかもしれません。

 私たちも、生きている間に何かを成し遂げたい、やり遂げたいという希望があるかもしれません。しかし、その希望がかなえられるかどうかは、私たちには分かりません。
 何かを成し遂げたいという思いと希望をもって、それに向かって努力をすることは大切だと思います。しかし、私たちが希望したとおりに、何かを成し遂げることができないこともあるでしょう。
 「これだけは達成したい」と願いつつ、それがかなわぬまま、ひょっとしたらこの地上での命を終える、ということも私たちにはあるでしょう。
 しかし、私たちの生涯、生きていることの価値は、どのようなことを成し遂げたのか、達成したのか、またはどれだけこの世の富を蓄えたか、にはよらないのです。
 ある意味、私たちがこの地上ですることは、すべて“不完全”であり“未完成”です。そうではないでしょうか。それは私たちが誰もが不完全な者であるからです。完全なお方は、主なる神のみだからです。

 私たちは自分自身の不完全さ、あるいは未熟さを認め、受け入れることが大切です。そしてこのような不完全で、また自分中心であり罪ある者が、神の御子イエス・キリストによって赦され、新たな命を与えられて生きている、ということを、改めて驚きをもって受け止めたいと願います。
私たちが何ができるか、どれほどのことを成し遂げた、によってではなく、ただ神様の限りない愛と憐れみによって、私たちが神に前に大切でかけがえのない存在だとされていることこそ、私たちにとっての最大の喜びです。
ヨシュアは、今日の箇所、彼の告別の言葉の中で、彼らの神が約束してくださった良いことはすべて、何一つたがうことなく実現した、と言っています(14節)。
ヨシュアは、そのことを“心を尽くして、魂を尽くしてわきまえ知れ”とイスラエルの民たちに命じています。
神はイスラエルの民たちを導き、常に彼らを守り、彼ら自身には本来値することない大きな恵みを与えてくださった、良い約束を果たしてくださった、とヨシュアは言うのです。
 主なる神を信じる信仰者は、神からの恵みを、すでに神が私たちに与えてくださった恵みの数々を“心、魂を尽くして”知り、心からの賛美と感謝を神にささげる者になりたいと願います。
 神の恵みを、心、魂を尽くして知ること、神に心からの賛美と感謝をささげながら生きることが、私たちにとっての真の幸福な生き方です。

 今日の箇所の後半で、ヨシュアは、できれば私たちがあまり聞きたくない、と思うかもしれないことを言っています。

15~16節をお読みします。

15あなたたちの神、主が約束された良いことがすべて、あなたたちに実現したように、主はまた、あらゆる災いをあなたたちにくだして、主があなたたちに与えられたこの良い土地からあなたたちを滅ぼされる。
16もし、あなたたちの神、主が命じられた契約を破り、他の神々に従い、仕え、これにひれ伏すなら、主の怒りが燃え上がり、あなたたちは与えられた良い土地から、速やかに滅び去る。」

 神の怒りとか、滅びということは、できれば私たちは避けて通りたい、触れずにすむものならば、触れずに(考えずに)おいておきたい、と願うかもしれません。
 私も説教者として、イエス・キリストの神の愛、赦し、恵みだけを語っていれば、私たちの心は穏やかでいられるかもしれません。
しかし、私たちは神を信じる信仰者であればあるほど、今日の箇所でヨシュアが、彼の死の間際にかたった神の怒りと、神に背き他の神々に私たちが従うことでもたらされる滅びについて、本当に真剣に考えねばなりません。
主の怒りが燃え上がるというと、怒りの神、恐ろしい神のイメージを私たちは持つかもしれません。よく「旧約聖書の神は怒りの神、恐ろしい神だ」と言われることがあります。
しかし、神ご自身の独り子イエス・キリストを私たちにお与えになり、御子キリストのお命が十字架の上で取られる(キリストが殺される)ことをお許しになった神は、やはりとても厳しい(敢えて言えば、恐ろしい)お方です。

しかしその厳しさ、恐ろしさは、それほどまでをしても私たち人を救いたい、滅びの道から私たちを救いたいと願い、私たちを限りなく愛してくださる、神の無限の憐れみ、愛でもあるのです。
恵みの約束をすべて実現させてくださり、私たちに今も恵みを与えてくださる神に私たちが背き、神でないものを神としてあがめ、それにひれ伏すのならば、神が私たちを罰するということは、それほど理不尽なことでしょうか。
 一度神を信じ、神に従う道を歩むことを選びとった私たちは特に、神の恵みと赦しという大きな恵みと、また一度いただいた信仰を大切に持ち続ける(いただき続ける)ということを真剣に考えたいと願います。
最後に、『ヨシュア記』最終章の24章16~18節の、イスラエルの民たちの言葉をお読みして、宣教を終わりにいたします。

ヨシュア記24章16~18節
16民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。
17わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。
18主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」