2024年6月29日土曜日

2024年6月30日 主日礼拝

前奏
招詞 ローマの信徒への手紙10章17節
賛美 新生讃美歌33番  輝け主の栄光
主の祈り
賛美 新生讃美歌 538番 神はわがやぐら
献金
聖句  列王記上19章1~18節
祈祷
宣教  「わたしの命を取ってください」
祈祷
賛美 新生讃美歌 504番 まごころもて
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏

 旧約聖書の『列王記(上・下)』には、主にイスラエルの歴代の王たちに関する記録が収められています。
 イスラエルの最初の王はサウルと言いました。サウルは預言者サムエルに見いだされ、イスラエル最初の王となりました。
 サウルの後に、ダビデ、そしてダビデの息子ソロモンへと王位が継承されていきました。しかし、ソロモンの死後に、イスラエルの国は北のイスラエル王国と南のユダ王国とに分裂しました。
 北イスラエル王国と南ユダ王国両方の王たちに関する記録が『列王記』、また『歴代誌』にも記されています。

その記録の中には彼ら王たちがした良いことよりも、むしろ彼ら(王たち)が神の御心に従わず、神に対して罪を犯したことが多く記されています。
 ダビデの子であるソロモンはダビデを継いで王となりましたが、彼の心は結局主なる神を離れてしまいました。
 列王記上11章には、ソロモンが多くの外国の妻たちを迎え、彼女たちの影響により、ソロモンの心は迷い、他の神々へと彼の心が向かったということが書かれています。

列王記11章6~7節には次のように書かれています。

6ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。7そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。

また9~11節には次のように書かれています。

9ソロモンの心は迷い、イスラエルの神、主から離れたので、主は彼に対してお怒りになった。主は二度も彼に現れ、10他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。
11そこで、主は仰せになった。「あなたがこのようにふるまい、わたしがあなたに授けた契約と掟を守らなかったゆえに、わたしはあなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す。

主なる神は、ソロモンの心が主なる神から離れ、神に背信を働いたので、イスラエルの王国を分裂させる、と言われたのです。
 神に選ばれた民の国であるイスラエルがそのように分断されたのは、イスラエルの王たちが、そして民たちも、神でないものに心惹かれ、それらにひれ伏したからでした。
 真の神から心が離れ、その主なる神の愛と誠から離れてしまえば、そのような国は分断されるほかないということなのでしょう。
 そしてそのことは、もし私たち信仰者が個人としても、神でないものを神であるかのように拝むのならば、私たちの心も、二つに割かれてしまうような不安定な状態になってしまうことを表しています。

 詩編119篇113節に次のように書かれています。

心の分かれている者をわたしは憎みます。あなたの律法を愛します。

聖書は神は唯一である、と伝えます。そしてその神は、主イエス・キリストです。
私たちは、祈りと御言葉によって、唯一真の神、イエス・キリストの神のみが、常に私たちの心を支配するように祈り求めましょう。
 イエス様だけが私たちの心を、そして私たちの教会をご支配なさり、私たちの心の中で、また私たちの教会の中で、神でないものが重要な位置を占めたりすることが決してないように(私たちの心と信仰とが分断されてしまわないように)、私たちは気をつけていたいと願います。

 今日の聖書箇所は『列王記上』19章からの箇所です。ここにエリヤという人が登場いたします。エリヤは王ではありませんでした。エリヤは王ではなく、神の言葉を預かり、その神の言葉を人々に伝える預言者(prophet)でした。
 『列王記』は主にイスラエルの王たちの記録(王国の滅亡までを描く)ですが、イスラエルの歴史の中心は、彼ら王たちではなかったのです。
 イスラエルの歴史の中心は、王たちではなく、あくまで主なる神ご自身です。そして神の言葉を預かり、王たちや民たちにも、神のその言葉を伝えた預言者たちの働きもとても重要な働きとして聖書には記録されています。
 今日の聖書箇所である列王記19章には、北イスラエル王国のアハブ王が登場します。アハブ王は、紀元前九世紀に王となった人で、彼は22年間イスラエルの王でした。

列王記上16章29~30節に次のように書かれています。
29オムリの子アハブがイスラエルの王となったのは、ユダの王アサの治世第三十八年であった。オムリの子アハブは、サマリアで二十二年間イスラエルを治めた。
30オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。

“アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った”とはっきりと、書かれています。
そしてアハブにはイゼベルという妻がいました。このイゼベルが今日の箇所で、預言者エリヤと対峙する中心人物としても登場しています。
 イゼベルは主なる神に逆らい、異教の神であるバアルに仕え、そして彼女はイスラエルの神に仕える預言者たちを多く迫害、殺害していました(列王記上18章4節)。
  しかし預言者エリヤは、アハブにも、またイゼベルにも屈せずに、今日の箇所の前の章である列王記上18章では、エリヤがバアルの預言者たちと対決したことが描かれています。
 エリヤは、バアルとアシェラという異教の神々に仕える預言者たち計850人を集めさせました。その預言者たちは、アハブの妻イゼベルに仕えていました。
 エリヤは彼らとの対決に勝ちました。彼ら(エリヤと、偽の預言者たち)は互いの神に呼ばわり、捧げられた雄牛の上に火が降ったほうが、真の神である、という一つの勝負をしました。
 バアルの預言者たちがいくら叫んでも、火が降ることはありませんでした。一方、エリヤの呼びかけに主なる神は応えられ、エリヤの捧げものには火が降って、真の神がエリヤに応えられたことが示されました。

 しかし、そのことがあった後でも、異教の神に仕える、アハブ王と妻のイゼベルの心は変わりませんでした。
 そして今日の箇所の初めで、イゼベルが使者を送ってエリヤに次のように伝えさせたことが書かれています。

19章1~2節
1アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。
2イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」

エリヤはイゼベルのその言葉を聞いて、恐れて、彼はすぐに逃げました(3節)。エリヤは一日歩いていき、一本のえにしだの木の下に座り、彼はそこで自分の命が絶えることを神に願いました。
エリヤは、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」と言いました(4節)。
エリヤは、何をそれほど恐れ(あるいは絶望し)、主に自分の命が絶えることまで願ったのでしょうか。
エリヤは、イゼベルやアハブがもつ強力な力や脅し自体を恐れたというよりも、イゼベルのエリヤに対する憎悪の感情が、そこまで増し加わるのを見て恐れ、そしてまたそれに絶望したのではないでしょうか。
“真の神さえ目の前に示されれば、きっと人の心は変わり、その人は悔い改めて真の神を受け入れるはずだ”、とエリヤは信じていたのではないでしょうか。
ところが王妃イゼベルの心は変わるどころか、彼女の心は一層頑なになり、エリヤへの憎しみは増し加わり、“わたしは明日の今頃までに、必ずお前を殺す”とまで言ったのです。
エリヤは、神を信じ、情熱的に主に仕えてきたのに、今や自分の命さえ狙われるようになってしまったのです。
それまでは必死に、何とか頑張ってきたのが、急に“もうダメだ”と気持ちも落ち込んで、絶望してしまったのです。
似たような時が、私たちにもあるかもしれません。神様のために、と思って必死に頑張ってきたのに、ある時急に“もうダメだな。限界だな”とさえ思ってしまう。

 周りの状況や環境も、自分にとって厳しくなる一方に見える、という時が私たちの信仰生活にもあるかもしれません。
 エリヤがそのような気持ちでいたとき、主が御使いを通してエリヤに語りかけてくださいました。それが「起きて食べよ」という言葉でした(5節)。
 御使いは二度目には「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言いました(7節)。
 エリヤのもとには、焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶がありました。エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲みました。
  エリヤはその前に、全てに疲れて、気力もなくし、「もう十分です。わたしの命を取ってください」と主に願っていました。
 しかし主はそんなエリヤに「起きて食べよ」と言って、食べ物と飲み水を与えてくださったのです。

私たちも疲れ、つらくて仕方がないと思える時、ひょっとしたらエリヤのように「もう十分です。」そして「わたしの命を取ってください」とさえ思えるような時があるかもしれません。
 しかし主は、エリヤに、そして私たちにも今日語り掛けてくださっています「起きて食べよ」、それはつまり「生きろ。あなたは生きなさい」ということです。
  「必要な食べ物(日々の糧)は私が与える。あなたはあなたの命を精一杯生きなさい。わたしがあなたが本当に必要なものを与え、私があなたを支え、私があなたと共にいる」という主の語り掛けが、今の私たちにも向けられています。
  私たちは、私たちを優しく励まし、私たちが疲れた時には癒してくださる、主の御声を聞きながら、人生の旅路(信仰の旅路)を歩んでいきたいと願います。
 11節で主がエリヤに「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われました。そこで激しい風が起こり、岩を砕きました。しかし、風の中には主はおられませんでした。

 風の後には地震が起こりました。しかし、地震の中にも主はおられませんでした。地震の後には火が起こりましたが、火の中にも主はおられませんでした。
 エリヤは、火の後に、静かにささやく声を聴きました。「エリヤよ、ここで何をしているのか」、その静かにささやく声は主なる神の御声でした。
 エリヤは、バアルの預言者たちと対決した時に、天から降る火の勢いでもって、主なる神の力がはっきりと示されたと思っていました。
 そしてエリヤは、そのようにはっきりと示された神の圧倒的な力で、バアルの預言者たちに打ち勝ったと思っていたでしょう。
 しかし今やエリヤは、神の真の力は、火とか、激しい風とか地震とか、そのような人を見た目や、文字通りの力で圧倒するものの中にはない、ということを悟ったのです。
 神の御声(神の力)は静けさの中から、私たちが心の目と耳を澄ませたときに初めて聞こえ、見いだされるのです。静けさの中ら、神の御声は、私たちにそっと(しかし、確かに)語り掛けてくださるものなのでしょう。
 神の御声は、私たちが“もう私はだめだ。私には何の力も残っていない”と思い、絶望した時に、「起きて食べよ」と言って私たちを力づけてくださいます。
神の御声は、神が私たちに必要な糧を与えてくださり、そして私たち人が決して自分だけの力でこの人生を生きるのではない、ということを教えてくださいます。
 神の御声は、私たちの救い主イエス・キリストが、ご自身の命を私たちに与えてくださり、私たちが生きるように、今も私たちのそばにいて、助けてくださっているということを、教えてくださいます。

イエス様が今も生きて、わたしたちと共におられるので、私たちもイエス・キリストの命の内にいつも生きることができるのです。
ヨハネ福音書14章19節後半のイエス様のお言葉をお読みして、今日の宣教を終わりにいたします。

わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。

主イエス・キリストの命の中に、私たちも生かされている幸いを覚えて、そして静まって主の御声を聞きながら、今週の日々も私たちは、信仰の日々を生きてまいりましょう。