2024年8月10日土曜日

2024年8月11日 主日(召天者記念)礼拝

前奏
招詞  詩編23篇4節
賛美  新生讃美歌104番 雨を降り注ぎ
主の祈り
賛美  新生讃美歌 21番 栄光と賛美を
献金
召天者の紹介
聖句   ヘブライ人への手紙11章3~16節
祈祷
宣教  「神は彼らのために都を準備されていた」
祈祷
賛美  新生讃美歌 336番 世の終わりのラッパ鳴りわたる時
頌栄  新生讃美歌 676番
祝祷
後奏

今日の礼拝は「召天者記念礼拝」です。私たちより先に、天の国へと召されていった方々を覚えつつ、私たちは今日、主なる神を礼拝いたします。
キリスト教では、故人を崇める、死者を拝む、ということはいたしません。私たちが褒め称えるお方、私たちが拝む(礼拝する)対象は、主なる神のみです。
ですからキリスト教では、亡くなった方を覚えて行う葬儀(告別式)でも、それを一つの「礼拝」として神にささげます。
お葬儀では、私たちは、地上での命を終えた人の魂を神に委ね、天の国での平安を願います。そして地上に残されたその方のご家族の気持ち、その悲しみに神が寄り添ってくださることを、お葬儀の場で私たちは祈り願うのです。

聖書は、いかなる人も決して神のように礼拝されてはならないことを伝えています。どんな人間も欠点と弱点、限りのある不完全な存在であるからです。
 イエス様も、荒野で悪魔の誘惑(試み)をお受けになった時、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という御言葉で悪魔に対抗しました。
私たちが拝み(礼拝し)、仕えるべきお方は、主なる神お一人です。
しかし同時に聖書は、私たち人間がいかに尊い存在であるかを告げています。正確には、塵から造られた私たち人が、神によってどれほど愛された存在であるかを、聖書はその中心的なメッセージとして伝えています。

神は、御子イエス・キリストを通して、私たち一人ひとりをどれほど神が愛してくださっているか、神が私たちをどれほど尊い者だと思ってくださっているかを、教えてくださいました。
私たちをそれほど前に愛し、私たちの存在が本当に尊いと、言ってくださる神がおられることを私たちは喜びたいと思います。
 今日の召天者記念礼拝の聖書箇所として、私は新約聖書のヘブライ人への手紙の11章の御言葉を選びました。

 今日の箇所に繰り返し出てくる言葉は「信仰Faith」です。
今日の箇所の初めの3節に次のように書かれています。
信仰により、わたしたちはこの世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。(3節)
 神を信じる信仰によって、私たちは、私たちのこの世界が、神の言葉によって創造されたということを信じることができます。
旧約聖書の『創世記』の初めに、「初めに、神は天地を創造された」と書かれています。神を信じる信仰によってこの一文を読む時、私たちにはこのとても簡潔な一文が、非常な力強さをもって真実として迫ってきます。
全ては神がお始めになったことなのです。そして私たち人の命もすべてそのお方、神によって造られたのです。
 そして聖書は、私たちが神を信じ、神と共にこの地上での命を生きてほしいと、神が願っておられることも伝えています。

 神を信じ神と共に歩むとは、神の言葉を信じ、神の言葉と教えとに従って生きるということです。
『申命記』の5章33節に次のように書かれています。
あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる。

 私たち人は誰もが幸せに生きたいと願っています。幸せに生きるための道がこのように聖書にははっきりと書かれているのです。
 それは主なる神が命じられた道を歩むことです。主と共に歩むことです。そうしてこそ私たちは本当の幸いを頂き、この地上での命を生きることができるのです。
 ですから私たちは神の言葉である聖書を通して、真の幸いに生きる道を、求めていきたいと願います。

聖書の中には多くの人物が登場いたします。聖書は、聖書の中に描かれる様々な人を通して、神がいかにしてご自身を表されたのか、神がどのようにして彼ら彼女らと実際に関わってくださったのかを伝えています。
私たちは、聖書に登場する多くの人物たちが、どのように神によって愛されたのか、あるいはどのように訓練されたのか、などの物語を通して、私たちは、信仰とは何かということを学ぶことができます。

今日の聖書箇所(ヘブライ人への手紙11章3~16節)には、旧約聖書の『創世記』に描かれる、何人かの代表的な人物を通し、“信仰とは何か”ということが描かれます。
4節ではアベルとカインの話が描かれます。それは、創世記で描かれるアベルとカインの物語についてです。
アベルとカインは、神によって最初に造られた人であるアダムとエバの子どもでした。兄のカインは土を耕す人となり、神に土地からの収穫物(穀物)を捧げました。アベルは羊を飼う者になり、神に羊の初子(ういご)を捧げました。
その時主はアベルとその献げ物には目を留められましたが、カインとその献げ物には目を留められませんでした(創世記4章)
そこで兄のカインは怒り、弟のアベルを殺してしまいました。それは、聖書が伝える人類最初の殺人事件だと言われます。

今日の箇所では、カインがアベルを殺したことには触れられず、“アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明された”と書かれます。
アベルが捧げたのは羊(肉)であり、カインがささげたのは地の穀物でした。神は、献げられたものそのものよりも、どれほどの信仰がその献げ物には込められていたのか、ということをご覧になったのです。
 信仰生活とは、献げる生活です。それは主なる神に献げる生活です。主は私たちがどれほどの心を献げ物に込めているかをご覧になります。
 私たちの神は、私たちの献げ物に込められた心をご覧になり、その心をこそお喜びになります。私たち人は、他者をその人の見た目でしか判断できないところがあります。
私たちは、どうしても人の目が気になってしまうことがあります。自分が人からどう見られるか、にいつも私たちはとらわれていないでしょうか。

 しかし、本当に私たちの心の中をご覧になり、私たちの心の内を知ってくださっている神がおられるのです。
その神との関係の中に生きることで、私たちは心に平安と自由、そして幸いを頂くことができるのです。
 私たちの心までを全てご存じの神との関係を信仰によっていただき、確立することで、真の平安、自由、そして幸いを私たちはいただいてまいりましょう。
 7節には、ノアの例が挙げられています。創世記6章以降で描かれるノアの洪水に関することです。

神は、人の心が悪い思いで満ちていることに心を痛め、この世界を洪水によって滅ぼそうとされました。それは大変残酷とも思える悲しい出来事ですが、その時の神ご自身の痛み、悲しみを私たちは想像すべきでしょう。
 しかしその時、ノアは神に従う人でした。そして神はノアに語りかけ、箱舟を造って彼の家族と他の生き物たちを洪水から救うようにと彼に命じました。
神に命じられた通りノアは巨大な箱舟を造りました。他の人たちから見れば、ノアのしたことは正気の沙汰とは思えなかったでしょう。
それだけの箱舟を造るのに、どれほどの時間と財(お金というものはまだなかったかもしれませんが)を必要としたのでしょうか。
 しかし、周りの人の目や評判を気にするよりも、ノアは神の言葉に従うことで、結果彼の家族とまた他の多くの生き物の命を(いってみれば世界を)救うことになったのです。
 信仰者が神の言葉に従って生きるということは、その結果まさにこの世が救われるかどうかという問題であることが、ノアの物語から分かります。
 ですから私たちも人の目とか、世の常識や流行というものに妥協し(それらを恐れ)神の言葉と教えから目と耳をそらすことなく、神の言葉に従って生きていこうではありませんか。
 この世にあって信仰の道を歩き続けることは時に辛く困難なことでもあります。世の中の流れ通りに、ただ普通に暮らした方が楽だ、と思える時があるかもしれません。

しかし、神の言葉にこそ救いがあり、希望、幸いがあると、聖書は伝えています。ですから、神に従って歩む生き方を私たちは互いに励まし合って続けてまいりましょう。
 8節からはアブラハムのことが書かれています。アブラハムは75歳の時に、慣れ親しんだ土地を離れて、神が示す土地へ行きなさい、という主の命令に従って歩みだしました。(創世記12章)
 アブラハムは実際どこへ行くのかの行く先は示されないまま、ただ神の命令と祝福の約束に従って旅立ちました。
 具体的な行先は示されませんでしたが、神はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように」という祝福の約束を与えました。(創世記12章2節)
行く先という目に見えるものではなく、目には見えなくとも確かな神の約束、神の言葉をアブラハムは信じたのです。
 アブラハム、また今日の箇所で描かれる信仰の先達たちはいずれも、自分の目に見えること、この地上での生涯の先にまで続く、神の大いなる約束に希望を置いた人たちでした。
 彼らはいずれも、今日の箇所で描かれる「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都」(10節)、「天の故郷」(16節)を待望し、信じていました。
 私が個人的に知り得た信仰の先達にも、天の御国、神が準備してくださっている都への恵みにあふれている人たちがいました。
 私がアメリカに語学留学中であったころ、キリストを信じる前の、非常に生意気で態度も無礼だった私を、大きな愛とやさしさをもって受け止め、聖書の御言葉を教えてくれた人の中に、べシー・バーク(Bessie

 べシーさんは、早くにご主人を亡くされ一人暮らしでしたが(現役のころは、美容師のお仕事をされ、自分のお店ももっていたとお聞きしました)、わたしや他の留学生たちを自宅に招いて歓待してくれたり、聖書も教えてくれたりしました。
 私は日本に帰国してからも、べシーさんとはずっと連絡を取り続けていました。べシーさんは2011年に93歳に亡くなりました。
生前に彼女と手紙や電話でやり取りする中で、べシーさんがいかに天の御国への希望にあふれているかが私には伝わってきました。
 そして天の御国、神の都への希望が、べシーさんのこの地上での命をも生き生きとさせ、他者にもあふれる愛情となっていたのだと、今私は理解することができます。
 天の御国、神が用意してくださっている都の希望は、私たちすべての者に与えられています。イエス・キリストを主と信じる信仰により、その都への希望を私たち共にいただいてまいりましょう。
 今日私たちは、先に召された方々を覚える召天者記念礼拝を献げています。召天者の方々お一人お一人が精一杯この地上での生を生きられ、その命は主の御手のうちに守られていた、と私たちは信じることができます。
そして私たちいずれ、天の御国で互いに再会できるという期待と思いを、信仰によっていただいていまいりましょう。そして与えられたこの地上での命の日々を私たち共に、御国への希望を携えつつ、歩んでまいりましょう。