2024年8月24日土曜日

2024年8月25日 主日礼拝

前奏
招詞  ヨハネの黙示録1章8節
賛美  新生讃美歌104番 雨を降り注ぎ
主の祈り
主の晩餐
賛美  新生讃美歌 513番 長き道 山や谷
献金
聖句  マラキ書3章1~6節
祈祷
宣教  「見よ、わたしは使者を送る」
祈祷
賛美  新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
頌栄  新生讃美歌 676番
祝祷
後奏

今年度の私たちの教会の主題は「主の御言葉に立つStanding on the Word of the Lord」です。御言葉、すなわち神の言葉(聖書の言葉)全体が私たちを支え、生かします。
神は聖書を通して今も私たちに語ってくださいます。聖書を通して神は命の御言葉を私たちに語ってくださいます。
私たちを支える、そのような神の言葉(聖書)全体を味わいたいと願い、今年度4月から、旧約聖書、新約聖書全体を私たちは礼拝メッセージの中で網羅しようとしております。
ただ、礼拝メッセージで取り上げることができるのは、聖書の本当にほんの一部でしかありません。
ですから皆さんはぜひご自分でも毎日聖書を読み、また祈祷会、教会学校などでも御言葉に親しみ、また御言葉を他の人と分かち合うということを通して、御言葉の豊かさに養われていただきたいと私は願います。

今日の聖書箇所は、旧約聖書の最後の書である『マラキ書』です。
 旧約聖書と新約聖書はつながっています。それは、新約聖書も旧約聖書も共に神の言葉であり、そしてどちらもイエス・キリストについて書かれている、ということです。
旧約聖書にイエス・キリストは直接は出てきませんが、イエス様ご自身が旧約聖書の言葉をよく引用しておられました。
 イエス様の時代、新約聖書はまだありませんでしたので、イエス様が読み、引用された聖書は今の旧約聖書でした。
 イエス様も聖書をお読みになり、そして聖書の御言葉を覚えて、大切な時に御言葉を引用しておられた、ということは、私たちにとって聖書の言葉がどれほど大切であるのかを、改めて私たちに思い起こさせます。

 荒野で悪魔の誘惑をお受けになった時、イエス様は聖書の御言葉で悪魔の誘惑に対抗しました。
そのようにして、イエス様は、“私たちは御言葉によってこそ、大きな試練と苦難に立ち向かうことができる”ということを身をもって示してくださったのです。
 私たちにもいろいろな試練が訪れます。そのような時、御言葉で試練に立ち向かえるように、御言葉から生き抜く力が与えられるように、普段から大切な聖書の御言葉を心に蓄えておきたいと願います。
 私たちは御言葉に立ち、日々を歩んでいきたいと願います。迷い、悩むときに御言葉から導きを頂きたいと願います。そのように生涯を通して、御言葉に親しみ、御言葉によって支えられて生きていきましょう。

 マラキ書が書かれた時代背景について正確には分かっていません。しかし、先週私たちが礼拝メッセージとして分かちあった「ネヘミヤ書」のエズラ・ネヘミヤの時代ではないかと言われています。
それは紀元前約450~400年頃で、ユダヤ人たちがバビロン捕囚からの帰還を許されて100年ぐらい経っていた時です。
捕囚から帰ってきた後の時代、イスラエルの民たちは、エズラ、ネヘミヤのような指導者に率いられ神殿と城壁を再建したりしました。
しかし彼らの信仰は、再び神から離れたものになってしまっていたようです。マラキ書には、最初の章から厳しい言葉が続いています。
例えば2章を見ますと、神殿で神に仕える祭司たちさえもその責任を果たさず、神の命令に背いていたことが分かります。定められた通りの献げ物もなされず、誠実な礼拝が行われていなかった様子がそこから分かります。

今日の箇所の直前のマラキ書2章17節には次のように書かれています。
あなたたちは、自分の語る言葉によって/主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う/どのように疲れさせたのですか、と。あなたたちが/悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか/主は彼らを喜ばれるとか/裁きの神はどこにおられるのか、などと/言うことによってである。

「悪を行うほうがよい、自分の好き勝手に生きた方が楽しいし、裁きの神などおられない」などという思いがイスラエルの民たちの間に蔓延していたことが分かります。
それほどまでに人々の心が主なる神から離れしまっていたイスラエルの民たちに、今日の箇所では希望の言葉が語られます。

彼らが待ち望んでいた救い主、メシア(救世主)が来られるという言葉です。

今日の一節をもう一度お読みします。
1見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。

この言葉は、この時から見た将来に起きることが予言されています。「見よ、わたしは使者を送る」の使者は、福音書に登場するバプテスマ(洗礼者)のヨハネのことを言っています。
イエス様自身が、マラキ書のこの箇所を引用して、“それは、バプテスマのヨハネのことだ”と言っています。(マタイ福音書11章2~15節をご覧ください)
イエス様にとって、バプテスマのヨハネは特別な人でした。イエス様にバプテスマを授けたのがバプテスマのヨハネでした。
イエス様は神と等しいお方であり、罪を全くお持ちでない方でした。ですから、私たちと同じように罪の赦しのためのバプテスマ(洗礼)を受ける必要はありませんでした。
それにも関わらずイエス様は、受ける必要のないバプテスマをご自分からお受けになることで、私たちに神を信じて生きる者の生き方を実践して見せてくださったのです。
そしてそれは、自らを徹底的に低くすること(謙遜になること)でもありました。神の子イエス・キリストが、バプテスマを受けられたのですから、まして私たちは神の前に、また人の前に高ぶることなく、自分を低くすること、キリストに示された自分の罪を認めることの大切さを教えられます。

 その使者(バプテスマのヨハネ)は、主イエス・キリストの前に道を備える役割を担いました。“このお方にこそ、神の救いと赦しがあるのだ”ということを人々に指し示すことが、バプテスマのヨハネの役割だったのです。
 イエス様にバプテスマを授けるほどに特別な役割を担ったバプテスマのヨハネでしたが、“イエス・キリストを人々に指し示す”というその点では、今の私たちキリスト者、そして教会も同じ役割を担うように、その働きを神から託されています。
 私たちキリスト者の生き方、私たちの教会はイエス・キリストを指し示しているでしょうか。私たちの礼拝を通して、イエス・キリストがあがめられているでしょうか。
 私たちは自分があがめられよう、あるいは自分たちの教会があがめられようと実は願っていないでしょうか。そうではなく、キリストこそが私たち一人ひとり、また私たちの教会を通してあがめられなくてはなりません。
 キリストがあがめられていることが、キリスト者でない方々が私たちの教会に来られても、伝わるでしょうか。
ぜひ、私たち一人ひとりの生き方、そして私たちの教会の集会が、私たち人ではなく、イエス・キリストを指し示すものとなるようにと私たちはそのために心を合わせようではありませんか。

待望の救い主が来られる、という希望の知らせが今日の箇所で語られています。しかし、2節を読みますと、“主が来られるが、実は本来私たちはそのことには耐えられない”ということが書かれます。
イスラエルの民たちは彼らの救世主の到来を待ちわびていました。彼らが待ちわびていたのは、イスラエルを他国の支配から軍事的に力によって解放してくれる強い指導者でした。
 しかし今日の箇所では、その方が来られると、誰もそのお方に耐えることはできない、と告げられているのです。
 3節に「彼は精錬する者、銀を清める者として座し レビの子らを清め 金や銀のように彼らの汚れを除く」と書かれています。
救い主は不純物を洗い落とすように私たち人の罪(汚れ)を除くお方であり、レビの子らさえも例外ではない、と言うのです。

レビとは神殿で神に仕える祭司の職にあった人たちです。祭司であっても例外なく、汚れをもった罪人であり、そのままの状態では神の裁きには耐えられない、と言うのです。
人々からは、おそらく神に近い立場の者としての尊敬も受けていたであろう祭司であっても、誰もが例外なく罪人であり、神によって罪を取り除いてもらわなくてはならなかったのです。
 5節で列挙されている様々な罪の告発は、私たちの多くは“私は、こんなに悪いことはしていない”と思う内容かもしれません。
しかし、罪の全くない、完全に清いお方である神の告発の前に、まったくの罪のなさを証明できる人は誰もいません。
繰り返しますが誰もが罪人です。つまり、誰もが救い主イエス・キリストの赦しが必要だということです。

 イスラエルの民たちが待望していた救い主が、実は厳しい裁きを彼らにもたらすお方だということが今日の箇所では書かれているのです。この言葉を聞いてイスラエルの民たちはどう思ったのでしょうか。
 また今私たちはこの言葉をどのように聞きますか?
人々はそのことにただ恐れおののくしかなく、私たちもただ恐れるしかないのでしょうか。そうではありません。今日の6節を見てみましょう。

6まことに、主であるわたしは変わることがない。あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。

 主が変わらないということは、主の言葉が変わらず永遠であることです。イザヤ書40章6~8節に次のように書かれています。

*イザヤ書40:6~8 (Isaiah 40:6~8)
呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
7草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
8草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

そして神は、“あなたたちは滅ぼされない”と言うのです。また別の箇所、エゼキエル書33章11節には次のように書かれています。
彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

神は誰も滅ぶことを、霊的に死ぬことを望んでおられません。イエス・キリストの救いと、キリストによる新しい命を御言葉を通して私たちが受け取ることを神は望んでおられます。
その神の願いとメッセージを伝える御言葉(聖書)は私たちと共にあります。私たちは聖書の言葉を信じ、聖書の言葉に立ち続け、真の命を頂いてまいりましょう。
言葉はイエス・キリストとして、人となって世に来てくださいました。救い主が私たちと同じ人となり、この世界に降ってこられたのです。
 キリストによってもたらされた新しい時代、新しい命を生きる幸いを私たちは喜び、感謝しつつ、信仰の日々を生きてまいりましょう。