2024年8月17日土曜日

2024年8月18日主日礼拝

前奏
招詞  テモテへの手紙二 1章9節a
賛美  新生讃美歌 104番 雨を降り注ぎ 
主の祈り
賛美  新生讃美歌 92番 喜びたたえよ
献金
聖句 ネヘミヤ記7章72節b~8章8節
祈祷
宣教 「人々はその朗読を理解した」
祈祷
賛美 新生讃美歌 260番 み言葉もて霊の火を
頌栄 新生賛美歌 676番
祝祷
後奏

 今日の聖書の箇所は、旧約聖書『ネヘミヤ記』からの一場面です。今年度2024年度は4月から一年間かけて、礼拝メッセージで新旧約聖書全体からメッセージを、私はしようとしています。
 4月から始まった旧約聖書からのメッセージは、(たった4か月でしたが)来週の『マラキ書』で、一旦終わりとなります。
 しかし、キリスト者にとっても、旧約聖書はとても重要です。
旧約聖書にイエス・キリストは、直接は登場いたしません。イエス様が人としてお生まれになるずっと以前の歴史、神がイスラエルの民を選び、彼らを救われたメッセージが旧約聖書には記されています。

 旧約聖書に記される数々のメッセージ、物語は、やがて来られる救世主イエス・キリストを指し示しています。ですから、私たち(キリスト者)は、旧約聖書も新約聖書同様に、神のメッセージとして、イエス・キリストの光を通して今も読むのです。
 『ネヘミヤ記』の時代は、イスラエルの民たちが国をバビロン帝国に滅ぼされ、多くの人々が捕囚としてバビロンへ連れていかれたバビロン捕囚の終わり頃の時代です。
 バビロン帝国が衰退し、今度はペルシア帝国がイスラエルの支配国となりました。
ペルシア帝国の王(キュロス)は、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの人々を解放し、バビロン帝国によって破壊された神殿をエルサレムに再建することを、彼らに許可しました。
 少し長い引用となりますが、『歴代誌下』36章22~23節をお読みします。

22ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口を通して約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。
23「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように。」

 このように、聖書は、主なる神がペルシアのキュロス王の心を動かしたので、キュロスはイスラエルの民たちを解放し、彼らがエルサレムに神殿を建てる(再建する)ことを許した、と記しています。
 歴史的には、ペルシア帝国は、支配した地域や国々のそれぞれの宗教に寛容であったと言われます。それには、ぺルシアとしては、他国を支配する上での政治的な思惑もあったのでしょう。
 しかし聖書は、“主がぺルシアの王の心を動かされたので、イスラエルの民たちはバビロンから解放され、エルサレムに神殿を再建することが許された”、と記すのです。
 つまり、全ては神の采配であり神の恵みであった、ということです。
私たちも、私たちが受け取る善きものを、全て神からの賜物、そして恵みとして、感謝をしながら生きていきたいと願います。

 私は会社員時代に、海外の取り引き先と、仕事上の連絡や交渉をするような仕事によく携わっていました。
 問題が発生した時の解決のための話し合いや交渉、製品の購買などに関する契約書の内容の交渉などにも私は携わっていました。
 お互いの会社の利害がかかっている商売に関する契約書の交渉では、お互いができるだけ自社に有利な条件にしたいので、時に長い時間、何日、何か月もかけてその内容の交渉をしたりもしました。
 そのような交渉の中で、私は、自社に有利な契約内容で合意できたりしたときなど、私は嬉しくなり、心の中のどこかで“これは私の交渉能力が優れていたから、できたのだ”と思っていたように思います。
 しかし、今振り返ると、もちろんそうではなかったのです。私の力など、何でもなかったのです。人の心を変える、動かすことができるのは神であるからです。
ですから、もし私が自社に有利な契約締結に成功していたとしても、それは神がそのように相手の心を変えてくださったのだと、今は分かります。
 キリスト者は、自らの力や能力が何かを成し遂げた、と思う心(自分を誇る心)からは自由にされている者です。
神をこそ、神の恵みこそ、私たちは誇るのです。神を誇ることが、私たちの真の喜びです。
 自分を誇るのではなく、唯一真の神をこそ、私たちは常に誇ろうではありませんか。

 ペルシア帝国に覇権が移り、イスラエルの民たちは国へ帰って、神殿を再建することが許されました。その経緯が『エズラ記』、『ネヘミヤ記』に記されています。
  エズラは書記官(the teacher of the law)、また祭司(priest)でもありました。そしてネヘミヤは献酌官(cup bearer)として、ペルシアの王の食事に責任を持つ、大変高い地位についていました。
 ネヘミヤは後にユダの地の長官としても任命されます。(5章)
 エズラ、ネヘミヤが中心となって、エルサレムでの神殿再建がなされ、そして城壁も再建がされました。今日の箇所は、そのような背景をもとにしています。

今日の箇所の初め、7章72bから8章1節をお読みします。

第七の月になり、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、
民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。

 神殿と城壁が再建されました。そして民は集まって「一人の人のようになった」と書かれています。
 神殿は、人々が神を礼拝し、神に出会う場所です。神殿が再建された今、人々は一人の人のようになった。それは彼らが同じ思いと希望によって一つとされていた、ということです。
 彼らはエズラに、モーセの律法(おそらく『創世記』から『申命記』を含む、いわゆるモーセ五書であると思われます)を持って来て、彼らに読み聞かせてほしい、と願いました。
  神殿完成後、彼らが一人の人にようになって集まったのは、彼らが“神の言葉を聞きたい”という思いと希望をもっていたのが、その理由でした。

 私たちは神の言葉を聞きたいと願います。神の言葉こそが私たちと強め、励まし、生かすからです。
 私たちキリスト者が教会へ集う目的は神を礼拝し、礼拝の中で神の言葉を聞くことです。
神が礼拝を通して、私たちに語ってくださいますようにと、私たちは祈り、願いつつ、希望と期待をもって、いつも教会に集いたいと願います。
 私の母教会の牧師が、牧師としての働きを始めた若いころ、礼拝のメッセージに、映画や小説の話を織り交ぜながら、どちらかというと教会の人たち(教会員)よりも、教会に来ていた若い学生たちを意識した話をしていた時があったそうです。
 すると、その時一緒に教会で仕えていたアメリカ出身の宣教師が、牧師の書斎に入ってきて、入ってくるなり「だれも先生の(あなたの)話など聞きたくありません。みんなは御言葉が聞きたいのです」と言われたそうです。
 牧師は、その率直さにびっくりしましたが、それ以降説教(宣教)に関する考え、姿勢が変えられたので、その宣教師の指摘は大変感謝であったと思い起こしていました。
 私たちは教会に、神の言葉、キリストの言葉が聞きたいという願いを持って集まります。神の言葉によって強められ、そして神の言葉によって変えられたいと私たちは願って教会に集います。

 そのような神の言葉が教会で語られるように、ぜひ皆さんにはいつも祈っていただきたいと、お願いいたします。
 エズラ、そして他の祭司たちがモーセの律法を読み上げました。彼らはどのようにして聖書の言葉を朗読したのでしょうか。今日の箇所の最後の8節をお読みします。
8彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。

 「彼らは神の律法の書を翻訳し」と日本語聖書には訳されています。英語訳(NIV)では、“明らかにしながら、意味を説明し”と書かれています。
 この“明らかにする”という意味の元のヘブライ語(パラシュparash)には、“翻訳する”という意味もあるのです。
 聖書の言葉がなぜ翻訳される必要があったのでしょうか。旧約聖書は元々イスラエルの民たちが話していたヘブライ語で書かれました。
 しかし、イスラエルが他国に征服されたり、バビロン捕囚が長引いたりする中で、イスラエルの民たちはだんだんと自分たちのヘブライ語を話し、理解することができなくなっていたのです。

 ヘブライ語よりも、当時中東で広く話されていたアラム語という言葉のほうを、イスラエルの人々も話すようになり、だんだんとヘブライ語は話されなくなっていきました。
  ですから聖書を人々が理解するためには、ヘブライ語の理解力を維持していた祭司のような人たちが聖書を読み、そしてそれを人々が分かるアラム語に翻訳しつつ、意味を明らかにしながら話して聞かせる必要があったのです。
 そのように聖書の言葉が読まれ、必要ならば人々が分かる言葉に翻訳され、意味が明らかにされて、人々に語り聞かせられました。
 私たち別府国際バプテスト教会では、礼拝を基本的に二か国語で行っています。礼拝メッセージも、毎回英語の翻訳も用意をしています。
 宣教翻訳のご奉仕をしてくださる方が多くおられ、また宣教翻訳者の方と、その奉仕スケジュールの奉仕をしてくださる方もおられ、私たちの教会は大変恵まれています。
 そのような働きが私たちの教会で大切にされてきたのも“日本語の理解が困難な方とも、できるだけ一緒に神の言葉を分かち合って、一緒に礼拝したい”という思いと希望が私たちの教会には与えられてきたからです。
 そのような思いが私たちの教会に与えられたのも、それは神の恵みと賜物であると言ってもよいでしょう。その賜物をこれからも私たちは大切にしていきたいと願います。

 毎回、日英両方の宣教を翻訳者の方と一緒に準備する中で、“私は毎回翻訳者の方と一緒に宣教を準備している”という思いを持っています。自分一人だけで宣教を準備していては得られない恵みを私自身がいただいています。
 神の御言葉は、全ての人へ向けられています。神の御言葉は、あらゆる国や地域の人々へ伝えられるべき恵みの言葉です。
 宣教の歴史上、聖書が色々な国の言語に翻訳され、現在もそのような翻訳の働きは続いています。各言語への聖書翻訳の働きのことも覚えて、私たちは祈りたいと願います。
 そして、私たちは自分が理解できる言葉で聖書を読み、メッセージを聞くことができる、という恵みと幸いにも感謝をいたしましょう。
 神の言葉を聞くことのできる幸い、神の言葉によって励まされ生かされる恵みを、私たちはこれからもお互いに分かち合い、そしてその恵みを私たちの周りの人々へも述べ伝えていこうではありませんか。