2024年6月29日土曜日

2024年6月30日 主日礼拝

前奏
招詞 ローマの信徒への手紙10章17節
賛美 新生讃美歌33番  輝け主の栄光
主の祈り
賛美 新生讃美歌 538番 神はわがやぐら
献金
聖句  列王記上19章1~18節
祈祷
宣教  「わたしの命を取ってください」
祈祷
賛美 新生讃美歌 504番 まごころもて
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏

 旧約聖書の『列王記(上・下)』には、主にイスラエルの歴代の王たちに関する記録が収められています。
 イスラエルの最初の王はサウルと言いました。サウルは預言者サムエルに見いだされ、イスラエル最初の王となりました。
 サウルの後に、ダビデ、そしてダビデの息子ソロモンへと王位が継承されていきました。しかし、ソロモンの死後に、イスラエルの国は北のイスラエル王国と南のユダ王国とに分裂しました。
 北イスラエル王国と南ユダ王国両方の王たちに関する記録が『列王記』、また『歴代誌』にも記されています。

その記録の中には彼ら王たちがした良いことよりも、むしろ彼ら(王たち)が神の御心に従わず、神に対して罪を犯したことが多く記されています。
 ダビデの子であるソロモンはダビデを継いで王となりましたが、彼の心は結局主なる神を離れてしまいました。
 列王記上11章には、ソロモンが多くの外国の妻たちを迎え、彼女たちの影響により、ソロモンの心は迷い、他の神々へと彼の心が向かったということが書かれています。

列王記11章6~7節には次のように書かれています。

6ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。7そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。

また9~11節には次のように書かれています。

9ソロモンの心は迷い、イスラエルの神、主から離れたので、主は彼に対してお怒りになった。主は二度も彼に現れ、10他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。
11そこで、主は仰せになった。「あなたがこのようにふるまい、わたしがあなたに授けた契約と掟を守らなかったゆえに、わたしはあなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す。

主なる神は、ソロモンの心が主なる神から離れ、神に背信を働いたので、イスラエルの王国を分裂させる、と言われたのです。
 神に選ばれた民の国であるイスラエルがそのように分断されたのは、イスラエルの王たちが、そして民たちも、神でないものに心惹かれ、それらにひれ伏したからでした。
 真の神から心が離れ、その主なる神の愛と誠から離れてしまえば、そのような国は分断されるほかないということなのでしょう。
 そしてそのことは、もし私たち信仰者が個人としても、神でないものを神であるかのように拝むのならば、私たちの心も、二つに割かれてしまうような不安定な状態になってしまうことを表しています。

 詩編119篇113節に次のように書かれています。

心の分かれている者をわたしは憎みます。あなたの律法を愛します。

聖書は神は唯一である、と伝えます。そしてその神は、主イエス・キリストです。
私たちは、祈りと御言葉によって、唯一真の神、イエス・キリストの神のみが、常に私たちの心を支配するように祈り求めましょう。
 イエス様だけが私たちの心を、そして私たちの教会をご支配なさり、私たちの心の中で、また私たちの教会の中で、神でないものが重要な位置を占めたりすることが決してないように(私たちの心と信仰とが分断されてしまわないように)、私たちは気をつけていたいと願います。

 今日の聖書箇所は『列王記上』19章からの箇所です。ここにエリヤという人が登場いたします。エリヤは王ではありませんでした。エリヤは王ではなく、神の言葉を預かり、その神の言葉を人々に伝える預言者(prophet)でした。
 『列王記』は主にイスラエルの王たちの記録(王国の滅亡までを描く)ですが、イスラエルの歴史の中心は、彼ら王たちではなかったのです。
 イスラエルの歴史の中心は、王たちではなく、あくまで主なる神ご自身です。そして神の言葉を預かり、王たちや民たちにも、神のその言葉を伝えた預言者たちの働きもとても重要な働きとして聖書には記録されています。
 今日の聖書箇所である列王記19章には、北イスラエル王国のアハブ王が登場します。アハブ王は、紀元前九世紀に王となった人で、彼は22年間イスラエルの王でした。

列王記上16章29~30節に次のように書かれています。
29オムリの子アハブがイスラエルの王となったのは、ユダの王アサの治世第三十八年であった。オムリの子アハブは、サマリアで二十二年間イスラエルを治めた。
30オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。

“アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った”とはっきりと、書かれています。
そしてアハブにはイゼベルという妻がいました。このイゼベルが今日の箇所で、預言者エリヤと対峙する中心人物としても登場しています。
 イゼベルは主なる神に逆らい、異教の神であるバアルに仕え、そして彼女はイスラエルの神に仕える預言者たちを多く迫害、殺害していました(列王記上18章4節)。
  しかし預言者エリヤは、アハブにも、またイゼベルにも屈せずに、今日の箇所の前の章である列王記上18章では、エリヤがバアルの預言者たちと対決したことが描かれています。
 エリヤは、バアルとアシェラという異教の神々に仕える預言者たち計850人を集めさせました。その預言者たちは、アハブの妻イゼベルに仕えていました。
 エリヤは彼らとの対決に勝ちました。彼ら(エリヤと、偽の預言者たち)は互いの神に呼ばわり、捧げられた雄牛の上に火が降ったほうが、真の神である、という一つの勝負をしました。
 バアルの預言者たちがいくら叫んでも、火が降ることはありませんでした。一方、エリヤの呼びかけに主なる神は応えられ、エリヤの捧げものには火が降って、真の神がエリヤに応えられたことが示されました。

 しかし、そのことがあった後でも、異教の神に仕える、アハブ王と妻のイゼベルの心は変わりませんでした。
 そして今日の箇所の初めで、イゼベルが使者を送ってエリヤに次のように伝えさせたことが書かれています。

19章1~2節
1アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。
2イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」

エリヤはイゼベルのその言葉を聞いて、恐れて、彼はすぐに逃げました(3節)。エリヤは一日歩いていき、一本のえにしだの木の下に座り、彼はそこで自分の命が絶えることを神に願いました。
エリヤは、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」と言いました(4節)。
エリヤは、何をそれほど恐れ(あるいは絶望し)、主に自分の命が絶えることまで願ったのでしょうか。
エリヤは、イゼベルやアハブがもつ強力な力や脅し自体を恐れたというよりも、イゼベルのエリヤに対する憎悪の感情が、そこまで増し加わるのを見て恐れ、そしてまたそれに絶望したのではないでしょうか。
“真の神さえ目の前に示されれば、きっと人の心は変わり、その人は悔い改めて真の神を受け入れるはずだ”、とエリヤは信じていたのではないでしょうか。
ところが王妃イゼベルの心は変わるどころか、彼女の心は一層頑なになり、エリヤへの憎しみは増し加わり、“わたしは明日の今頃までに、必ずお前を殺す”とまで言ったのです。
エリヤは、神を信じ、情熱的に主に仕えてきたのに、今や自分の命さえ狙われるようになってしまったのです。
それまでは必死に、何とか頑張ってきたのが、急に“もうダメだ”と気持ちも落ち込んで、絶望してしまったのです。
似たような時が、私たちにもあるかもしれません。神様のために、と思って必死に頑張ってきたのに、ある時急に“もうダメだな。限界だな”とさえ思ってしまう。

 周りの状況や環境も、自分にとって厳しくなる一方に見える、という時が私たちの信仰生活にもあるかもしれません。
 エリヤがそのような気持ちでいたとき、主が御使いを通してエリヤに語りかけてくださいました。それが「起きて食べよ」という言葉でした(5節)。
 御使いは二度目には「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言いました(7節)。
 エリヤのもとには、焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶がありました。エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲みました。
  エリヤはその前に、全てに疲れて、気力もなくし、「もう十分です。わたしの命を取ってください」と主に願っていました。
 しかし主はそんなエリヤに「起きて食べよ」と言って、食べ物と飲み水を与えてくださったのです。

私たちも疲れ、つらくて仕方がないと思える時、ひょっとしたらエリヤのように「もう十分です。」そして「わたしの命を取ってください」とさえ思えるような時があるかもしれません。
 しかし主は、エリヤに、そして私たちにも今日語り掛けてくださっています「起きて食べよ」、それはつまり「生きろ。あなたは生きなさい」ということです。
  「必要な食べ物(日々の糧)は私が与える。あなたはあなたの命を精一杯生きなさい。わたしがあなたが本当に必要なものを与え、私があなたを支え、私があなたと共にいる」という主の語り掛けが、今の私たちにも向けられています。
  私たちは、私たちを優しく励まし、私たちが疲れた時には癒してくださる、主の御声を聞きながら、人生の旅路(信仰の旅路)を歩んでいきたいと願います。
 11節で主がエリヤに「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われました。そこで激しい風が起こり、岩を砕きました。しかし、風の中には主はおられませんでした。

 風の後には地震が起こりました。しかし、地震の中にも主はおられませんでした。地震の後には火が起こりましたが、火の中にも主はおられませんでした。
 エリヤは、火の後に、静かにささやく声を聴きました。「エリヤよ、ここで何をしているのか」、その静かにささやく声は主なる神の御声でした。
 エリヤは、バアルの預言者たちと対決した時に、天から降る火の勢いでもって、主なる神の力がはっきりと示されたと思っていました。
 そしてエリヤは、そのようにはっきりと示された神の圧倒的な力で、バアルの預言者たちに打ち勝ったと思っていたでしょう。
 しかし今やエリヤは、神の真の力は、火とか、激しい風とか地震とか、そのような人を見た目や、文字通りの力で圧倒するものの中にはない、ということを悟ったのです。
 神の御声(神の力)は静けさの中から、私たちが心の目と耳を澄ませたときに初めて聞こえ、見いだされるのです。静けさの中ら、神の御声は、私たちにそっと(しかし、確かに)語り掛けてくださるものなのでしょう。
 神の御声は、私たちが“もう私はだめだ。私には何の力も残っていない”と思い、絶望した時に、「起きて食べよ」と言って私たちを力づけてくださいます。
神の御声は、神が私たちに必要な糧を与えてくださり、そして私たち人が決して自分だけの力でこの人生を生きるのではない、ということを教えてくださいます。
 神の御声は、私たちの救い主イエス・キリストが、ご自身の命を私たちに与えてくださり、私たちが生きるように、今も私たちのそばにいて、助けてくださっているということを、教えてくださいます。

イエス様が今も生きて、わたしたちと共におられるので、私たちもイエス・キリストの命の内にいつも生きることができるのです。
ヨハネ福音書14章19節後半のイエス様のお言葉をお読みして、今日の宣教を終わりにいたします。

わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。

主イエス・キリストの命の中に、私たちも生かされている幸いを覚えて、そして静まって主の御声を聞きながら、今週の日々も私たちは、信仰の日々を生きてまいりましょう。

2024年6月21日金曜日

2024年6月23日 主日礼拝

前奏
招詞 テモテへの手紙二 3章16節
賛美 新生讃美歌33番 輝け主の栄光
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌650番 喜びて主に仕えよ
献金
聖句 サムエル記上3章1~10節
祈祷
宣教 「主よ、お話しください。僕は聞いております」
祈祷
賛美 新生讃美歌 664番 主よ 私はここにいます
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏


今日私たちに与えられた聖書の箇所は『サムエル記上』3章からの場面です。少年サムエルが、祭司であるエリに仕えていました。
この書のタイトルにもなっているサムエルは、母ハンナ、父エルカナのもとに生まれた男の子でした。
最初、子どもを授からなかったハンナが主の前に必死に祈り、そしてサムエルを授かった様子がサムエル記上1章に描かれています。
サムエルは、祭司エリに預けられ、下働きとして主に仕えるようになりました。サムエル記上2章18節に「(サムエルは)下働きとして主の御前に仕えていた」と書かれています。
今日の箇所3章1節にも、「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた」と書かれています。

それらの文が伝えることは、次のようなことです。それは、サムエルは直接的には祭司であるエリのもとで働き、一般的には“サムエルはエリに仕えていた”と言えます。
しかし、主なる神への信仰のもとに、サムエルは祭司エリのもとで彼を補佐する働きをしながら、サムエルはあくまで“主に仕えていた”ということです。
神を信じる信仰者は、主の僕となった者です。僕は主人に仕えます。私たちも、本当に仕えるべき対象は、主なる神のみです。
私たちは社会的には、それぞれの職場などで、上司に仕える、あるいはお客様に仕えるという立場にあると思います。
しかし、それらはあくまでその仕事や組織での立場上の意味であって、自分の存在が上司や客に従属するという意味ではありません。

新約聖書のコロサイの信徒への手紙3章23~24節に次のように書かれています。

23何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
24あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

私たち信仰者は、何をするにも人に対してではなく、主に対してするように、心から行うようにと、主から期待されています。
 それは人や仕事などを軽視するということではありません。むしろ、主に心からするという確信があればあるほど、直接的に仕える相手(上司やお客様など)への尊敬も増すのだと思います。
 神の目から見れば、私たち人同士の立場はあくまで皆平等です。あるのはただ職務や職責の違いです。主にある信仰者は、何をするにも主に対してするように心から行う、ということを大切にしていきたいと願います。

 また、今日の箇所3章1節には、次のようにも書かれています。
そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。
 私たちは、旧約聖書の時代は、神が人(特別に選ばれた人たちですが)に直接話しかけたりして、神と人とが直接交わることができた特別な時代であった、という印象を持っているかもしれません。
 しかし、そんな旧約の時代にも、「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」時があったと、今日の箇所は明確に伝えます。
 “主の言葉が臨むことは少なかった”の“少ない rare”の、元のヘブライ語の単語“ヤカーyaqar”には, “貴重な precious”という意味もあります。
  主の言葉は、貴重な(尊い)ものなのです。それは、私たち人が、当たり前のように頂けるものではない、ということです。
 主の言葉は、本当に恵みとして、本来それを受けるに値しない者である私たちに、私たちの救いのために主から与えられる“貴重な”ものであることを、私たちは忘れないようにしたいと願います。

 その主の言葉が、なんと人となり、この世界に生まれてきてくださったのがイエス・キリストです。
 新約聖書のヨハネによる福音書の冒頭には、神、すなわちイエス・キリストを“言(ことば The Word”として、次のように書かれています。

ヨハネによる福音書1章14節
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

 これは、“神が人となり、人と一緒に住まわれた”ということです。神が人となり、(主の晩餐の中でも私たちが確認するように)私たちの苦しみ、悲しみを共に担ってくださった(くださる)ということです。
  神が人間になり、しかもそのお方が、私たち人の罪を背負われ、私たちの罪を赦すために十字架にかかって死んでくださったのです。
 私たちでは想像することさえできない、そのような方法で、私たち人が再び神と交わり、神のもとへと立ち返る道が開かれたのです。
 そしてイエス・キリストの神は、今は聖書の言葉を通して私たちに語りかけてくださいます。
私たちが聖霊の導きをいただいて聖書の言葉を読む時、言葉の一つ一つが、物語の一つ一つが、私たちを支え導く力となります。
 私たちが聖書の言葉をお互いに分かち合うとき、一人で聖書を読んでいては決して得ることのできない、深い示唆と導きを得ることもあります。
 そのような意味で、キリスト信仰にとって聖書は特別な書です。そして信仰者にとって、信仰の仲間、また教会の存在はお互いの信仰維持と成長のために不可欠です。
そして聖書は信仰の単なる記録ではなく、今もその言葉の一つ一つを通して神が私たちに語りかけてくださる特別な本であるのです。

 サムエルは、そして祭司エリも、神に仕えていました。彼らは神殿で神に仕え続けていたのです。(このころの神殿は、後にソロモンが建立する最初の神殿とは違い、いわゆる幕屋(テント式)の神殿だったと思われます)
  たとえ主の言葉が臨むことが少なくても、彼らは誠実に神に仕え続けました。私は、牧師として毎週のメッセージを用意する働きの中で、これに近いことを経験させていただいていると思います。
 メッセージを準備しようとする時、明確なメッセージのポイントがすぐに思い浮かぶわけではありません。私の場合、大抵は相当な時間の黙想を重ねて、聖書本文を読み続けて、ようやく一筋、二筋のメッセージのポイントが少しずつ与えられることが多いです。
 しかし、そのようにして、ほのかに与えられる一筋の光は、私自身の中から生み出されたものではなく、聖霊により私の外側から、言葉として与えられたものだと私は思っています。
 神の言葉が臨むことはまれであるかもしれません。しかし、神の言葉が私たちに途絶えることは決してありません。私たちに語られる神の御声を私たちは求めつづけていきましょう。
 主がサムエルに呼びかけました。サムエルは「ここにいます」と答えて、自分を呼んだのはエリだと思い、エリのもとへ走って行きます。
 エリは自分がサムエルを呼んではいないので、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言いました。
  このようなことが三度あってから、ようやく祭司エリが気づきました。エリは、「主がサムエルに語りかけたのだ」と気づいたのです。
  ですからエリは「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」とサムエルに言いました。

 何気ないエリの一言ですが、エリがそのようにサムエルに助言を与えたことは、結構重要なことを含んでいると、私は思います。
 それは、もしエリが人間的な、祭司としての誇り(プライド)を抱えていたのならば、「主はサムエルに語ったのだ。サムエル、次に呼びかけられたら『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」と言うことは簡単には出来なかったのではないか、ということです。
 いくら高齢でも、エリが自分自身の祭司としての誇りにとらわれていたならば、「主が私に語りかけていないのに、こんな一人の少年に語るはずがない」と思う可能性もあったのではないでしょうか。
 しかし、エリはその点で謙遜でした。年老いた自分が間もなく祭司としての務め、また人生の務めそのものに幕を下ろすのも近いことを、彼は悟ってもいたのでしょう。
  そしてエリは、主はお選びになった誰にでも語りかけることがある、ということもよく知っていました。
  「主はサムエルを次の霊的指導者としてお選びになったのだ。主はサムエルを通して、大切なメッセージを私たちに伝えようとされているのだ」と、エリは受け止めることができたのです。

 ですから、私たちも、主は幼い子どもにも語られることがある、と知り、ちいさな子どもの言うことであっても真摯に耳を傾ける姿勢を持ちたいと願います(これは私の出身教会の牧師がそう言っていたことでもあります)
  エリはサムエルに、次にまた呼びかけられたら「主よ、お話しください。僕は聞いております」と言いなさい、と言いました。
  エリはサムエルに、サムエルが常に主の僕として、これから仕えていくべきことを教えようとしたのです。
 主なる神を神として、主の僕として常に主に従順に、人を恐れず預言者(神の言葉を預かる者)としての務めをこれから果たしていきなさい、ということです。
  これは私たちにとっても大切なことです。私たちは主の僕です。イエス様は次のようにおっしゃいました。

 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい(マタイ福音書23章11節)
イエス様のこの言葉は、特に権力を持った者(教会では牧師がその筆頭でしょう)に向けられた言葉です。しかし、この言葉は信仰者全員に向けられた言葉です。
 イエス様が言われたように、そしてエリがサムエルに伝えたように、私たちは主の僕として、主なる神に仕え、そして謙虚に他者にも仕える僕としての生き方を自ら率先して、喜びをもって、実践していきたいと願います。
 エリはサムエルに「僕は聞いております」と言いなさいと、教えました。私たちが主の御声を聞くためには、あきらめずに主の御言葉を待つという忍耐と主への信頼が必要です。
  そして“主よ、どうぞお話ください。私にはあなたの言葉を聞く用意ができております”という思いを持つことが必要です。

 “主よ、どうぞお話しください。私にはあなたの言葉を聞き、そしてそのお言葉通りに行う覚悟ができております”という思いで、私たちは御言葉を求めるべきだ、ということでしょう。
  それほどの覚悟をもってしてでも、主の御言葉は私たちが求めるのに大いに価値ある、計り知れない価値のあるものなのです。
  時に御言葉に従うことは、とても難しいかもしれません。“あなたの隣人を愛しなさい”などは、聞くに易しいですが、実践しようとするならいかに大変であるかは、誰にでも明らかだと思います。
  それでも私たちは主の御言葉を求めるのです。私たちは主の御言葉を聞くために、常に心を開いているべきなのです。
  私たちが御言葉を求め、御言葉を聞き、その御言葉を実践し(御言葉の上に立ち)歩むとき、私たちは自分自身の力によってではなく、御言葉の力によって歩まされ、生かされていることをきっと実感することになるでしょう。
「主よ、お話しください。僕は聞いております」。この覚悟と決意をもって、私たちもこれからの信仰生

2024年6月15日土曜日

2024年6月16日 主日礼拝

招詞  コロサイの信徒への手紙2章7節
賛美  新生讃美歌 33番 輝け主の栄光
主の祈り
賛美  新生讃美歌 523番 主われを愛す
献金
聖句  士師記2章6~15節
祈祷
宣教  「主に背く世代」
祈祷
賛美  新生賛美歌 102番 罪にみてる世界
頌栄  新生讃美歌 673番
祝祷
後奏


 今日私たちは、旧約聖書の『士師記』の一箇所から、主なる神の御言葉を共に聞いてまいります。
この『士師記』の前の『ヨシュア記』では、モーセの後を継いでイスラエルの民のリーダーとなったヌンの子ヨシュアが、イスラエルの民たちを率いて、約束の地カナンへと入っていく(土地を征服していく)様子が描かれています。

 モーセの役割は、イスラエルの民たちを、彼らが奴隷生活を送っていたエジプトから導きだし、カナンの地まで率いることでした。
 そしてモーセの死後は、ヨシュアがモーセの後を継ぎ、カナンの地へイスラエルの民たちが入っていくことを指導しました。
 荒野の旅を率いたモーセ、そして約束の地カナンの土地を獲得するための指導者として、ヨシュアは、それぞれ活動しました。
 そのことから、モーセ、ヨシュアそれぞれに与えられた異なる役割があったことがわかります。

主の約束は世代を超えて、また様々な働き人たちによって実現していくものである、ということも、モーセとヨシュアそれぞれの働きから、分かります。
私たちも、信仰によって、私たちの思いや、私たちの時間の感覚を超えた主のご計画に生かされていると信じることができます。
神のご計画の中で、ある人々は指導的な役割を担います。またある人たちは補佐的な役割、またその他さまざまな役割を担います。
しかし、信仰によって神の約束、神の国の実現に希望をおいて信仰の働きに共に仕える私たちは、神の働き人として皆等しく、その働きが神の前に覚えられています。
私たちの教会も、多くの方々の様々な奉仕によって、教会活動が支えられています。昨年度私たちの教会は「愛の奉仕 Give your service with love」という主題のもとに教会生活を送りました。
これからも変わらず、私たちがそれぞれに異なった賜物をいただいていることを感謝し、互いの賜物を主なる神に捧げながら、私たちは共に教会生活を送っていきましょう。

今日の箇所『士師記』2章6節は、「ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの人々は土地を獲得するため、それぞれ自分の嗣業の地に向かった。」という一文で始まっています。 
指導者としてのヨシュアの大切な働きは、イスラエルの民たちを励まし、神による力を授け、そして民たちをそれぞれの働きへと送りだすことでした。
神を信じる者たちは、神によってこの世でのそれぞれの場へ遣わされていきます。

 私たちの礼拝プログラムの最後に「祝祷」があります。祝祷は、神の祝福をもって、教会のその日の代表者が(大抵は牧師)が、私たちひとり一人が、神様の励ましと力を受けて、それぞれの場へと遣わされていきますようにという願いと祈りです。
 私たちは主なる神を礼拝するために教会に来ます。礼拝で神を賛美し、神の御言葉をいただきます。そして神の祝福(祝祷)を受けて、私たちはそれぞれの場へと遣わされていきます。
キリスト者としての教会生活は、すなわち礼拝を中心とした生活です。日曜日(主の日)の礼拝を中心にして、礼拝の場から神の祝福によってそれぞれの生活へと遣わされ、そしてまた礼拝へと戻ってくるという信仰生活を、私たちは送っています。
私(酒井)は牧師として、教会に集うお一人お一人が(もちろん牧師である私自身を含めて)礼拝を通して主の御言葉による励まし、そして主の祝福を豊かに受けて、「また今週一週間の歩みへ踏み出そう」と希望をもって、教会を後にして行っていただきたいと、心から願っています。

 今日の箇所では、ヨシュアが死に、そしてヨシュアと同じ世代も皆死んだ後に、彼らに続く世代に大きな問題が起きたことが描かれています。

今日の7節をお読みします。
7ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた。

 イスラエルの民たちは、ヨシュアが生きている間と、そしてヨシュアの死後も、主がイスラエルに行われた大いなる御業を目の当たりにした世代がいる間は、主に仕えたというのです。
荒野を旅する中で神によって助けられた数々の経験(例えば、荒野で、主が天からマナを降らせてくださり、イスラエルの民たちが飢えることがないようにされた奇跡などでしょう)を実際に見た世代がいる間は、民は主を信じ主に仕えました。
しかし、それらの世代が死んだ後の世代は、どうなったのでしょうか。

11~12節をお読みします。
11イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。
12彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。

 バアル、また13節に書かれているアシュトレトとは、カナン地方で信じられていた神々です。それらは豊穣(豊かな収穫)をもたらす神として、カナン地方の人々に崇められていたようです。
ヨシュアと彼の世代の人々に続く世代のイスラエルの民たちは、彼らの先祖をエジプトから導きだし、荒野の旅を導き、カナンの地の征服も導いた主への信仰を捨てたのです。
 なぜ、彼らは彼らの神への信仰にとどまることができなかったのでしょうか。
まず私たちが心に留めたいことは、信仰とは自動的に何もしないで次の世代へ受け渡される、受け継がれるものではない、ということです。
 信仰の新しい世代は、前の世代から、主の偉大な御業について色々と聞かされ、教えられてきたでしょう。

前の世代は彼らに続く世代のために祈り、神の御業を新しい世代に語りつづけたと私は想像します。
しかし、新しい世代は、前の世代から受け継いだ、主を信じる信仰を、自らの決断によって自分のものとしなくてはならないのです。
 信仰は神から与えられるものです。神の恵みも豊かに私たちに与えられます。しかし、神からの信仰の恵みを、受け取るかどうか、神を信じるかどうかは私たち一人ひとりの決断にゆだねられています。
 神は私たちに自分の意志により、主を信じる信仰の道を選び取るという“自由意志”を与えてくださいました。

 もしその自由意志が私たちになかったのならば、私たちは神の前に、ただ神の命令のままに何も考えずに反応して動くロボットのような存在になっていたでしょう。
 『創世記』の2章の中で、神はエデンの園の中央に「善悪の知識の木」を生えいでさせました。

そして神は最初の人であるアダムに、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われました。(創世記2章16~17節)
 なぜ神は、わざわざ“あなたはそれを絶対食べてはいけない”というものを、エデンの園に生えいでさせられた(作られた)のでしょうか。
 “食べるな”というなら、最初からそのようなものは作らなければよかったのではないでしょうか。
  しかし、人が自らの意志で、神を信頼し神の命令に従うためには、(人が神の前に、ただのロボットのようにはならないために)“善悪の知識の木”は確かに必要であったのです。
 人が自らの意志で神を信じ、神への信仰を自分で選び取り、神と人格的な関係を結ぶために、やはり“善悪の知識の木”は必要であったのです。

そして“それを取って食べるな。食べると必ず死んでしまう”という神の命令も、私たち人の信仰のために、必要なものであったのです。
 自らの意志で神を信頼し、神を信じ、神に従って生きるのが、私たちの信仰です。プロテスタント教派の中でも、私たちバプテスト教会は、特に“その人の主体的な信仰告白”をずっと大切にしてきました。
私たちは、前の世代から受け継いでいた信仰を、自らの意志によって今も大切にし、その信仰に留まり続けるように、互いに励ましあい、支えたいと願います。
ヨシュアの次の世代が、主なる神を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたのは、それらの神々が“豊穣(豊かな収穫)”をもたらすと信じられ、それが人々には魅力的に見えたからでしょう。
「神を信じて何になるのか?」という疑問への答えが「豊かな収穫」とか「この世での目に見える成功」であれば、それは分かりやすくて魅力的であるかもしれません。

そして私たちはそのような、一見分かりやすく、また自分たちを富ませ、楽しませてくれる効果のあるものに、どうしても心を惹かれてしまうのでしょう。
しかし、真の神でないものが、私たちを根本的に守り、支えることはできません。人が生きる上では様々な困難や苦難が訪れます。

困難、苦難、または危機的な状況に私たちが立ち向かうことができるのは、主なる神の守り、聖書が伝える主なる神の御言葉の力によってのみ、可能なのです。
御言葉こそが私たちと常に共にあり、御言葉を通して私たちは“主は私たちと共におられる”と確信することができるので、御言葉こそが私たちの真の力となるのです。
今日の箇所では、主を捨てて、他の神々に従ったイスラエルの民たちに、主が怒りを発せられ、彼らを敵に略奪されるままにされた、と書かれています。
 主なる神への信仰を捨てたイスラエルの民に、敵に立ち向かう本当の力は何もなかった、ということです。
 なぜなら、主なる神への信仰、御言葉を通して与えられる力こそが、私たちにとっての真の力、困難や私たちの信仰と命を脅かす敵に立ち向かう最大の武器となるからです。

最後に、長い引用となりますが、新約聖書の中のエフェソの信徒への手紙6章10~17節をお読みして、宣教を終わりにいたします。

エフェソの信徒への手紙6章10~17節 (Ephesians 6:10~17)

10最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
11悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
12わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
13だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
14立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
15平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
17また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

私たちの主なる神が、“主に依り頼み、主ご自身の力によって強くなりなさい”と勧めておられます。
 悪しき者に対抗することができるように、神の武具、神の御言葉、主の真理を身につけましょう。
偉大なる神が、御言葉を通して、私たちにご自身の力を惜しみなく与えてくださるのですから、私たちはこの世にあって、何をも恐れる必要がないのです。


2024年6月8日土曜日

2024年6月9日 主日礼拝

前奏
招詞 ヨハネによる福音書10章28節
賛美 新生讃美歌33番 輝け主の栄光
主の祈り
賛美 新生讃美歌327番 ゆく手を守る永久の君よ
献金
聖句  ヨシュア記23章14~16節
祈祷
宣教 「主の約束はすべて実現した」
祈祷
賛美 新生賛美歌 456番 恵み深きみ声もて
頌栄 新生賛美歌 673番
祝祷
後奏

モーセの後を継ぎ、イスラエルの民の指導者となったヨシュアの「告別の言葉」、つまりヨシュアが自分の死を間近に悟った時に、語った言葉が今日の聖書の箇所です。
ヨシュアはモーセを継いでイスラエルの民の指導者となり、主なる神がイスラエルの民たちにお与えになったカナンの地に入って行きました。
そしてイスラエルの中の各部族に、それぞれ住むべき土地を割り当てるという務めをヨシュアは果たしました。
 『ヨシュア記』には、彼らが入っていったその土地を征服していく様子が記録されています。
 今日の箇所の最初に「わたしは今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている」というヨシュアの言葉が記されています。

 “この世のすべての者がたどるべき道”とは、すなわち死ぬということです。ヨシュアは死を“道”だと言います。
 生きること(人生)は一つの道によく例えられます。私たちは神様からいただいた命をもって、人生という道を歩んでいきます。
 そして聖書の神を信じる信仰者にとって、死は終わりではなく、命の道の言わば通過点です。死は、その先に続く命がある、道程(みちのり)の一点です。
 死がどのようなものなのか、死の先の世界がどのようなものなのかを、正確に断言できる人は誰もいません。
 しかし私たちは信仰によって、死と、また死の先の世界についても希望を持つことができます。
 まずイエス・キリストを主と信じ、キリスト者になること、すなわちバプテスマ(洗礼)を受けることは、この世にあって一度自分に死ぬことを意味します。

 バプテスト教会では、バプテスマ(洗礼)の形として全身を水の中に浸(しず)める“全浸礼”の形をずっと大切にしてきました。
特に健康上の理由などによって、全身を水に浸めることが困難な場合などを除いて、基本的に全身を水に浸めるという形によって、“罪ある古い自分に、イエス・キリストと共に一度、完全に死ぬ”という信仰を表します。
そして、水の中から再び引き上げられることによって、復活のイエス・キリストと共に新たな命を頂く、という信仰をも表します。それが“全浸礼”が表す信仰です。
そのように、この世にあってキリストを主と告白し、バプテスマによって新たな命を頂いた者は、この世にあって既に一度(霊的な)死を経験しているということになります。
ですから信仰によって、私たちはこの地上での肉体の死の先にも、私たちの命の道は続く、霊的な命は続く、と信じることが可能になるのです。

そしてヨシュアは、その“死”という道を“この世のすべての者がたどる道”と表現しています。確かに、死は私たち誰にでも必ずやってくるものです。
そのような意味で、たしかに死は“この世のすべての者がたどる道”です。死という道を避けて通ることができる人は、誰もいないからです。
 その道をいつ通ることになるのか、つまり死がいつ、またどのような形で私たちに訪れるのかは、それは私たちには分かりません。
 普段、特に若く健康な人たちは、死を意識することがあまりないかもしれません。しかし、死は私たちの命の道の一点であり、そして私たちが必ず、いつか必ず通ることになる道です。
 ですから、死を忌み嫌ったり、死から目をそむけることなく、死に対して真剣に考え向き合うことは、今この時を私たちが大切に生きることにもとつながると、私は思います。

 生きていることと死は隣り合わせです。私たちは今ある命を感謝し、神によって生かされていることを喜びたいと願います。そして地上での身体を持ったこの命は、限りあるものである現実にも、信仰的にしっかりと向き合っていきたいと願います。
 ヨシュアは、神がイスラエルの民たちにお与えになった約束の地のカナンで、各地域を占領し、そしてイスラエル各部族に土地を割り当てる務めを果たしました。
しかし、ヨシュアは、彼が生きている間にその務めを完全にやり遂げることはできませんでした。占領すべき土地はまだ残っていたのです。

ヨシュア記13章1節(Joshua 13:1)に次のように書かれています。

ヨシュアが多くの日を重ねて老人となったとき、主は彼にこう言われた。「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている。 
ヨシュアは、約束の地の征服を成し遂げることがないままに死を迎えることになったのです。
 私たちは、『申命記』の最後の箇所で、モーセが死を迎える場面も読みました。主なる神は、40年間イスラエルの民たちを率いて荒野を旅してきたモーセが、約束のカナンの地に入ることを、お許しになりませんでした。
 そして神は、ヨシュアの務めについても彼の仕事は言わば未完成のまま、ヨシュアは死を迎えねばならないようにと、主がお定めになったのでした。
 ヨシュアは、約束の地の征服が完了する時まで生き延びたいと、本心では思っていたかもしれません。

 私たちも、生きている間に何かを成し遂げたい、やり遂げたいという希望があるかもしれません。しかし、その希望がかなえられるかどうかは、私たちには分かりません。
 何かを成し遂げたいという思いと希望をもって、それに向かって努力をすることは大切だと思います。しかし、私たちが希望したとおりに、何かを成し遂げることができないこともあるでしょう。
 「これだけは達成したい」と願いつつ、それがかなわぬまま、ひょっとしたらこの地上での命を終える、ということも私たちにはあるでしょう。
 しかし、私たちの生涯、生きていることの価値は、どのようなことを成し遂げたのか、達成したのか、またはどれだけこの世の富を蓄えたか、にはよらないのです。
 ある意味、私たちがこの地上ですることは、すべて“不完全”であり“未完成”です。そうではないでしょうか。それは私たちが誰もが不完全な者であるからです。完全なお方は、主なる神のみだからです。

 私たちは自分自身の不完全さ、あるいは未熟さを認め、受け入れることが大切です。そしてこのような不完全で、また自分中心であり罪ある者が、神の御子イエス・キリストによって赦され、新たな命を与えられて生きている、ということを、改めて驚きをもって受け止めたいと願います。
私たちが何ができるか、どれほどのことを成し遂げた、によってではなく、ただ神様の限りない愛と憐れみによって、私たちが神に前に大切でかけがえのない存在だとされていることこそ、私たちにとっての最大の喜びです。
ヨシュアは、今日の箇所、彼の告別の言葉の中で、彼らの神が約束してくださった良いことはすべて、何一つたがうことなく実現した、と言っています(14節)。
ヨシュアは、そのことを“心を尽くして、魂を尽くしてわきまえ知れ”とイスラエルの民たちに命じています。
神はイスラエルの民たちを導き、常に彼らを守り、彼ら自身には本来値することない大きな恵みを与えてくださった、良い約束を果たしてくださった、とヨシュアは言うのです。
 主なる神を信じる信仰者は、神からの恵みを、すでに神が私たちに与えてくださった恵みの数々を“心、魂を尽くして”知り、心からの賛美と感謝を神にささげる者になりたいと願います。
 神の恵みを、心、魂を尽くして知ること、神に心からの賛美と感謝をささげながら生きることが、私たちにとっての真の幸福な生き方です。

 今日の箇所の後半で、ヨシュアは、できれば私たちがあまり聞きたくない、と思うかもしれないことを言っています。

15~16節をお読みします。

15あなたたちの神、主が約束された良いことがすべて、あなたたちに実現したように、主はまた、あらゆる災いをあなたたちにくだして、主があなたたちに与えられたこの良い土地からあなたたちを滅ぼされる。
16もし、あなたたちの神、主が命じられた契約を破り、他の神々に従い、仕え、これにひれ伏すなら、主の怒りが燃え上がり、あなたたちは与えられた良い土地から、速やかに滅び去る。」

 神の怒りとか、滅びということは、できれば私たちは避けて通りたい、触れずにすむものならば、触れずに(考えずに)おいておきたい、と願うかもしれません。
 私も説教者として、イエス・キリストの神の愛、赦し、恵みだけを語っていれば、私たちの心は穏やかでいられるかもしれません。
しかし、私たちは神を信じる信仰者であればあるほど、今日の箇所でヨシュアが、彼の死の間際にかたった神の怒りと、神に背き他の神々に私たちが従うことでもたらされる滅びについて、本当に真剣に考えねばなりません。
主の怒りが燃え上がるというと、怒りの神、恐ろしい神のイメージを私たちは持つかもしれません。よく「旧約聖書の神は怒りの神、恐ろしい神だ」と言われることがあります。
しかし、神ご自身の独り子イエス・キリストを私たちにお与えになり、御子キリストのお命が十字架の上で取られる(キリストが殺される)ことをお許しになった神は、やはりとても厳しい(敢えて言えば、恐ろしい)お方です。

しかしその厳しさ、恐ろしさは、それほどまでをしても私たち人を救いたい、滅びの道から私たちを救いたいと願い、私たちを限りなく愛してくださる、神の無限の憐れみ、愛でもあるのです。
恵みの約束をすべて実現させてくださり、私たちに今も恵みを与えてくださる神に私たちが背き、神でないものを神としてあがめ、それにひれ伏すのならば、神が私たちを罰するということは、それほど理不尽なことでしょうか。
 一度神を信じ、神に従う道を歩むことを選びとった私たちは特に、神の恵みと赦しという大きな恵みと、また一度いただいた信仰を大切に持ち続ける(いただき続ける)ということを真剣に考えたいと願います。
最後に、『ヨシュア記』最終章の24章16~18節の、イスラエルの民たちの言葉をお読みして、宣教を終わりにいたします。

ヨシュア記24章16~18節
16民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。
17わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。
18主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」

2024年6月1日土曜日

2024年6月2日 主日礼拝

前奏
招詞 テモテへの手紙二 2章1節
賛美 新生讃美歌 33番 輝け主の栄光
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌 16番 み栄えあれ 愛の神
献金
聖句 ヨシュア記1章1~9節
祈祷
宣教 「強く、雄々しくあれ」
祈祷
賛美 新生讃美歌 520番 人生の海のあらしに
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏


 今年度私たちの教会は「主の御言葉に立つ Standing on the Word of the Lord」という主題のもとに、教会生活を送っております。
 主は、御言葉すなわち聖書の言葉を通し、今も私たちに語ってくださいます。聖書に記録された様々な出来事も、その物語を通して、神が私たちに語りかけてくださいます。
 私たちの魂を養い、私たちの命を支える、主の御言葉を私たちは豊かにいただき、御言葉の上に信仰を固く建て上げていきたいと願います。
今年度一年間をかけて、私たちは聖書全体を礼拝メッセージで網羅するという非常に野心的な計画に挑戦しています。
『創世記』、『出エジプト記』、『レビ記』、『民数記』、『申命記』を私たちは(たった2か月で!)終えて、今日の聖書箇所は『ヨシュア記』の冒頭の部分です。

 出エジプトの中心的人物であり、イスラエルの民たちを彼らが奴隷生活を送っていたエジプトから導き出したモーセは死にました。
モーセの死の場面は、今日の箇所の直前の『申命記』の最後の部分に記されています。先週の礼拝メッセージで私たちはその場面から御言葉を聞きました。
 今日の箇所は、モーセの死後、モーセを継いでイスラエルの民の指導者となったヨシュア(ヌンの子ヨシュア)が、神に指導者として正式に選ばれ、立てられる箇所です。

 主がヨシュアにまず次のように語りかけました。
 「わたしの僕(しもべ)モーセは死んだ」。主はモーセのことを「わたしの僕」と呼んだのです。今日の箇所の冒頭の文も、「主の僕モーセの死後、、、」という言葉から始まります。

 主なる神に従い、主なる神の僕として生きたモーセは、“主の僕”として覚えられ、地上での命を終えていったということです。
 私たちもキリストを信じる信仰者として、私たちのことが「主の僕」として神に、そして人にもそのように覚えられるのならば、それは信仰者として本当に嬉しく、光栄なことであると私は思います。
 私は昔、キリスト者になった最初のころ(20代後半のころ)、もし自分が死んだら自分のことをどのように人から覚えられていたいかな、と考えたことがありました。
 その時わたしは、「この男(酒井)は、キリストを信じて死んでいった」と人から覚えられたら良いな、と思っていました。
 しかし、それではまだまだ自分中心である、と今私は示されました。今私は、モーセに倣い、私のことも人々が“あの男は主の僕だった”と、そのように覚えていてくださったらよいな、と思っています。

 “キリストが彼の主であり、彼はその主に従う僕であった”と人から覚えられるのであれば、それはキリストに栄光を帰することになるのではないか、と私は思うからです。
 そして主の僕として生きる人は、人(他者)の僕としても生きる人でしょう。
 主イエス・キリストは弟子たちに次のように言われました。
 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコによる福音書10章43節b~45節)

私たちの主であるイエス・キリストが、人に仕えるために、驚くべきことに、王なるキリストが僕となって人に仕えるために世に来られたのです。
 ですからキリストに従おうとする私たちキリスト者も、イエス様に倣い、他者に仕える僕、そして神に仕える僕として生きていくことを、日々目指そうではありませんか。
主はモーセに継いでイスラエルの指導者となるべく、すでにヨシュアを選んでおられました。ヨシュアはモーセの従者(aide)として、ずっとモーセに付いて彼の補佐役を務めていました。

 今日の箇所の主の言葉の最初の部分(2~4節)をもう一度お読みします。

2「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。
3モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。
4荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。

ヨシュアはじめイスラエルの民たちは、それまで彼らを率いてきたモーセが死んだことに、とても不安であったのではないでしょうか。
申命記34章では、イスラエルの人々は30日間モーセを悼んで泣き、喪に服した、と書かれています(申命記34章8節)
 しかし主はヨシュアに、神の約束をもう一度念押しするように、伝えたのです。神がイスラエルの民たちを導くと約束された土地はもう目の前なのです。

 モーセは死んだけれども、神の約束は決して死ぬことなく、信仰を受け継ぐ者たちによって神の約束は受け継がれ、彼らによって実現していくのです。
 続いて主はこういわれます。(5節)

一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。

私たちは、色々な状況や周りの環境などが、私たちの望みや計画を挫(くじ)くと思うことがないでしょうか。
 しかし、主を信じ、主の御心に従い、その実現のために歩む信仰者は、その一生の間、その行く手を阻まれることはない、というのです。
それは主の御心ならば、主のご計画ならば必ず実現するということです。その御心に沿った道を私たちが歩むならば、私たちの行く手を阻まれることはないと、私たちも強く信じようではありませんか。
 ただ、私たちにはなにが御心なのか、はっきりとは分からない時のほうが多いかもしれません。
モーセやヨシュアに主がはっきりと語ってくださったように、今の私たちに主がはっきりと私たちの耳に聞こえる声で語るということは、普通はないでしょう。
 しかし、私たちには聖書の御言葉があります。そして神は聖霊を私たちに、御言葉を読み解く助け主として送ってくださいます。
私たちは共に祈り求め、聖霊の導きをいただきながら、御言葉によって主なる神が私たちに示す道を選んで歩んでまいりましょう。
祈りと御言葉によって示された道を私たちが歩むとき、その道が阻まれることは決してありません。

 その後の6節で、主はヨシュアに「強く。雄々しくあれ」と言われました。その言葉は今日のメッセージの題です。そして今日の箇所で主は三度、その言葉をヨシュアに告げています。
主がヨシュアに「強く、雄々しくあれ」とこのように何度も言われたのは、神の言葉を聞いても、それでも様々なことを恐れる人間の弱さを主はよくご存じであったからでしょう。
 主はヨシュアが、そして彼に従うイスラエルの人々と今の私たちも、神よりも自分を見て、また自分を頼ろうとするので、どうしても恐れてしまう者であることを、主はよくご存じであったのです。
 ですから神は何度も私たちを「強く、雄々しくあれ」と私たちを励ましてくださり、私たち自身や状況に注目するのではなく、主なる神に注目するようにと、促されるのです。
 今日の箇所には、“律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない”、また“この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい”と書かれています。
 主の律法、今の私たちにとっては聖書の御言葉を忠実に守ることによって、私たちは強く、雄々しくあることができます。
 “右にも左にもそれない”とは、御言葉をあまりに自分勝手な解釈をして読まない、ということでしょう。
 昼も夜も口ずさみ、とはまさに一日中御言葉と共に、御言葉に支えられて、御言葉を忘れことがないように、ということです。
 いつも御言葉を覚えている、というのはかなりハードルが高いように私たちには思われます。しかし、私たちは御言葉によって生きる者ですから、信仰者として、やはりつねに御言葉を覚えて生きているべきなのです。

 そして肝心ことは、聖書の言葉が私たちは生かすとは、その言葉を守り実行するときである、ということです。
 私はキリスト者になってからしばらくの間、“イエス・キリストを信じればそれだけで人は救われる”と信じていました。
 そうなのですが、しかし、ある意味その考えは正しくありません。“イエス・キリストを信じるだけで救われる“とは真実なのですが、そのためには“信じる”の意味を考えなくてはなりません。

 ヤコブの手紙の2章19節(James 2:19)に次のように書かれています。

「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じておののいています」

悪霊であっても、“主なる神は唯一のお方だと信じておののいている”のです。ですから、どのように信じているのか、が重要になります。
主を「信じる」ということは、主を信頼し、主に従うこと、すなわち主の御言葉に従って生きるということです。
自分を主とせず、主なる神をこそ主として、神の僕、そして人の僕として歩む、ということ、そして主の言われることにすべて従って生きる、信仰を実践するということが“主を信じる”という意味です。
 そのように私たちが主に従って、御言葉に忠実に生きるとき、私たちはきっと主が望まれるように“強く、雄々しく”生きることができるようになるでしょう。

 最後に、今日の箇所の最後の節(9節)で言われる主のお言葉を聞きたいと思います。

9わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

 主はヨシュアに、“あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる”と約束してくださいました。
 神が人となったイエス・キリストも復活して弟子たちに現われ、そして「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)と約束してくださいました。
 私たちも、この“主なる神がいつも、私たちがどこに行っても共にいてくださる”という、本当に大きな希望の約束をいただいています。
 主が、主の僕モーセを導き、またヨシュアを強め、ヨシュアを導いたように、主は変わらず今も私たちとも共にいてくださり、私たちを導いてくださいます。
主の御言葉に従い、御言葉に立って、主が示してくださる道、主が私たちに与えようとしてくださっている恵みへと向かって、私たちも今こそ立ち上がり、歩みだしていきましょう。