2024年8月31日土曜日

2024年9月1日 主日礼拝

前奏
招詞  箴言3章19節
賛美  新生讃美歌125番 造られしものよ
祈りの時
主の祈り
賛美  新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
献金
証し
聖句  ヨハネによる福音書1章1節~5節
祈祷
宣教  「初めに言があった」
祈祷
賛美  新生讃美歌 506番 主と主のことばに
頌栄  新生讃美歌 679番
祝祷
後奏


今年4月の初めから先週まで、主に旧約聖書から続けて私たちは礼拝メッセージとして聞いてまいりました。今日から新約聖書を礼拝メッセージの中で、私たちは聞いていきます。
今日の聖書箇所は、4つある福音書の中の4番目の福音書である『ヨハネによる福音書』の最初の部分です。
 旧約聖書の中には、イエス・キリストは直接は登場いたしません。いよいよ新約聖書の中で、イエス・キリストが人としてお生まれになったことが記されていきます。
イエス・キリストの生涯、そしてイエス・キリストのお言葉を記した福音書は、新約聖書の中に4つあります。(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書です)

 マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、内容に共通する部分も多い福音書です。しかし、ヨハネによる福音書は、他の3つの福音書と比べて、際立った特徴があります。
 なぜ福音書が4つあるのでしょうか。時々、同じ内容の記事でも、福音書毎に微妙に異なる部分があったりして、私たちは“どちらかの記事が正確で、どちらかの記事が記録として正確ではないのだろうか”と思ったりするかもしれません。
 しかし、福音書が4つあることで、イエス・キリストに関する知らせ、その良い知らせ(福音とは“良い知らせ”という意味です)の内容が、より豊かに伝えられると私は信じます。
 一つの福音書だけでなく、それぞれの福音書がそれぞれの視点から、イエス・キリストに関する知らせ、神の福音を私たちに伝えてくれるのです。
 それぞれの福音書には特徴があります。マタイ福音書は系図から始まります。アブラハムから始まり、ダビデを経て、そしてイエス様誕生へと至る系図が最初に書かれています。

 マタイ福音書はおそらく主にユダヤ人のキリスト者に向けて書かれたと言われます。
ですから、ユダヤ人にとっての信仰の父と言われたアブラハムから、そして偉大なダビデ王につらなる系図の中にイエス・キリストが生まれた系図が最初に記されました。
 そしてマタイ福音書は、イエス様の母マリアが夫のヨセフと夫婦の関係を持つ前に、聖霊によってイエス様を身ごもった出来事を伝え、イエス様が確かに神の子であることを示しました。
マルコ福音書はイエス様の生まれた時の話を記しません。
マルコ福音書は、先週の礼拝メッセージの箇所であるマラキ書に予言されていた洗礼者(バプテスマ)ヨハネの荒れ野での宣教活動の様子、そしてヨハネがイエス様にバプテスマを授けたことから始まります。
 マルコ福音書は、イエス様が実際になさった行い、そのお働きに重点をおいて書かれたと言ってよいと私は思います。

 ルカ福音書は、バプテスマのヨハネの誕生の記録から始まり、また福音書の中では唯一、イエス様の少年時代(12歳の時)の話も記されています。
 それは、イエス様が12歳の時、両親に連れられ過越祭にエルサレムへ旅した時の話でした。エルサレムからの帰り道、息子のイエスが見当たらなくなってしまったので、ヨセフとマリアはイエス様を探して、エルサレムまで引き返しました。
 するとイエス様は神殿の中で、学者たちの真ん中に座り、彼らの話を聞いたり質問したりしていました。人々はイエス様の賢い受け答えに驚いたと記されています(ルカ2:47)。

 福音書はいずれもイエス様が神の子であったこと、そしてイエス様は最後には十字架にかけられ死に、墓に葬られ、三日後に復活したことを伝えています。福音書はいずれもイエス様が神の子であり、また神と等しいお方であることを告げているのです。

ヨハネ福音書の始まりは、非常に独特です。「初めに言(言葉)があった」。この言葉から、私たちは旧約聖書『創世記』の初めの言葉を思い出すと思います。
 今年度の最初の主日である、4月7日の日曜日には、聖書の一番初めの部分である旧約聖書『創世記』1章1~5節の御言葉から、私たちは神のメッセージを聞きました。
  創世記の冒頭は「初めに神は天地を創造された」と言う言葉から始まり、神が私たちの世界のすべてをお造りになったことを宣言します。
 「初めに、神は天地を創造された」。神は「光あれ」という第一声によって、世界の創造を始められました。神の一声によって、何もない闇の中に光が生まれたのです。

 「初めに言があった」というヨハネ福音書の最初の言葉は、神の創造の業と直結しています。そしてヨハネ福音書1章を今日の箇所以降もずっと読み進めていきますと、ここで“言(ことば)”と言われているのは、イエス・キリストのことであることが分かります。
 14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書かれています。言(ことば)、すなわちイエス・キリストが肉(肉体を持った人)として世に生まれ、人々と共に生活した、ということです。
 神が人となったお方がイエス・キリストであり、そのイエス・キリストが人として私たちと同じように肉体をもって生きたとは、驚くべき知らせです。
 神が人となり、私たちと同じように肉体をもって一つの生涯を生きられたということは、私たちが生きることには、神の前に大きな意味がある、ということを伝えています。
 この地上での私たちの命は限りあるものですが、その中で私たちは神に出会い、神の言葉によって力づけられ、自らの存在の尊さを知ることができます。
 初めに言があった、とはイエス・キリストは世の初めからおられたということです。イエス・キリストが神であり創造主である、ということです。

 今日の3節には「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と書かれています。
 繰り返しますが、ヨハネ福音書で“言(ことば)”とはイエス・キリストのことを表しますから、“すべてのものはイエス・キリストによって造られた、存在するようになった”とヨハネ福音書は述べるのです。
「コロサイの信徒への手紙」の1章16節には次のように書かれています。
 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子(*神の子イエス・キリスト)において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

この最後の“御子のために造られ”(created for him)というところがとても重要です。私たちは御子イエス・キリストのために造られたということです。
 生きる上での苦しみの一つは、私たちが生きる意義や意味を見いだせない、ということです。それに対して聖書は一つの答えを明確に示すのです。それは“私たちは、キリストによって、キリストのために造られた”のです。
 ですから私たちの生きる意味は“キリストのために生きること”ということです。私たちは聖書を通してイエス・キリストを知らされ、そしてイエス・キリストを主、救い主であると信じます。
 そして私たちはキリストのために造られたのですから、私たちの生き方、日々の生活がキリストのためになっているかどうかを、吟味し、考えなら生きたいと願います。
 私たちがキリストのために生きているかどうか、その一つの指標は、私たちの言葉や行いがイエス・キリストを人々に指し示しているかどうかです。
 私たちの教会が、イエス・キリストを人々に指し示しているかどうか、それが私たちがキリストのために生きているかどうかの指標です。
 つまり、私たちの信仰生活、生き方そのものを通して、キリストが人々に見えるかどうか、ということです。

 私たちが主によって生かされている喜びと力が私たちを通して人に見えるかどうか、ということです。
 ですから、大切なことは、牧師のメッセージを聞いた後に人々が「〇〇牧師の話は素晴らしいね」と思うのではなく、「イエス・キリストは素晴らしいね!」と思えるかどうかです。
 私たちの教会に人々が来て、「別府国際教会は良い教会だね」と思うのではなく(そう思っていただければ確かに私たちは嬉しいのですが)、それよりも「イエス・キリストって素晴らしいですね」と思ってくださるかどうかが、重要なのです。
 神を信じ神の御言葉に生かされている人は、きっとそのような生き方、そのような顔(表情)をしているはずなのです。
 御言葉に立ち、イエス・キリストによって生かされている私たちが、私たちの生き方を通してキリストを表すことができますようにと、私たちは願います。
 今日の4節で「言(ことば)のうちに命があった。命は人間を照らす光であった」と書かれています。
イエス・キリストの中にこそ、真の命があるのです。その命が光として私たちを照らし、そして私たちもキリストの光によって私たちの周りをきっと明るく照らし出すのです。

 今日の箇所の最後の5節をお読みします。
 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 私たちの世界には、たしかに“暗闇”と言うしかないような現実も存在します。人と人、国と国とが争い、憎しみ合い、殺し合う戦争の現実もあります。
 何よりも、私たち人の罪の問題があります。しかし、キリストは真の光、決して消えることのない光として暗闇の中にも輝いています。
 その暗闇が決して勝つことのできない光として、イエス・キリストの光はいつも、またいつまでも輝き続けます。私たちはそのような永遠の光を頂いて、生きることができるのです。

 後にイエス様が次のように言われました。
 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネによる福音書8章12節)

私たち共にイエス様に従い、イエス様の命の光を頂き、その光によって生かされ、光の中を日々歩んでまいりましょう。

2024年8月24日土曜日

2024年8月25日 主日礼拝

前奏
招詞  ヨハネの黙示録1章8節
賛美  新生讃美歌104番 雨を降り注ぎ
主の祈り
主の晩餐
賛美  新生讃美歌 513番 長き道 山や谷
献金
聖句  マラキ書3章1~6節
祈祷
宣教  「見よ、わたしは使者を送る」
祈祷
賛美  新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
頌栄  新生讃美歌 676番
祝祷
後奏

今年度の私たちの教会の主題は「主の御言葉に立つStanding on the Word of the Lord」です。御言葉、すなわち神の言葉(聖書の言葉)全体が私たちを支え、生かします。
神は聖書を通して今も私たちに語ってくださいます。聖書を通して神は命の御言葉を私たちに語ってくださいます。
私たちを支える、そのような神の言葉(聖書)全体を味わいたいと願い、今年度4月から、旧約聖書、新約聖書全体を私たちは礼拝メッセージの中で網羅しようとしております。
ただ、礼拝メッセージで取り上げることができるのは、聖書の本当にほんの一部でしかありません。
ですから皆さんはぜひご自分でも毎日聖書を読み、また祈祷会、教会学校などでも御言葉に親しみ、また御言葉を他の人と分かち合うということを通して、御言葉の豊かさに養われていただきたいと私は願います。

今日の聖書箇所は、旧約聖書の最後の書である『マラキ書』です。
 旧約聖書と新約聖書はつながっています。それは、新約聖書も旧約聖書も共に神の言葉であり、そしてどちらもイエス・キリストについて書かれている、ということです。
旧約聖書にイエス・キリストは直接は出てきませんが、イエス様ご自身が旧約聖書の言葉をよく引用しておられました。
 イエス様の時代、新約聖書はまだありませんでしたので、イエス様が読み、引用された聖書は今の旧約聖書でした。
 イエス様も聖書をお読みになり、そして聖書の御言葉を覚えて、大切な時に御言葉を引用しておられた、ということは、私たちにとって聖書の言葉がどれほど大切であるのかを、改めて私たちに思い起こさせます。

 荒野で悪魔の誘惑をお受けになった時、イエス様は聖書の御言葉で悪魔の誘惑に対抗しました。
そのようにして、イエス様は、“私たちは御言葉によってこそ、大きな試練と苦難に立ち向かうことができる”ということを身をもって示してくださったのです。
 私たちにもいろいろな試練が訪れます。そのような時、御言葉で試練に立ち向かえるように、御言葉から生き抜く力が与えられるように、普段から大切な聖書の御言葉を心に蓄えておきたいと願います。
 私たちは御言葉に立ち、日々を歩んでいきたいと願います。迷い、悩むときに御言葉から導きを頂きたいと願います。そのように生涯を通して、御言葉に親しみ、御言葉によって支えられて生きていきましょう。

 マラキ書が書かれた時代背景について正確には分かっていません。しかし、先週私たちが礼拝メッセージとして分かちあった「ネヘミヤ書」のエズラ・ネヘミヤの時代ではないかと言われています。
それは紀元前約450~400年頃で、ユダヤ人たちがバビロン捕囚からの帰還を許されて100年ぐらい経っていた時です。
捕囚から帰ってきた後の時代、イスラエルの民たちは、エズラ、ネヘミヤのような指導者に率いられ神殿と城壁を再建したりしました。
しかし彼らの信仰は、再び神から離れたものになってしまっていたようです。マラキ書には、最初の章から厳しい言葉が続いています。
例えば2章を見ますと、神殿で神に仕える祭司たちさえもその責任を果たさず、神の命令に背いていたことが分かります。定められた通りの献げ物もなされず、誠実な礼拝が行われていなかった様子がそこから分かります。

今日の箇所の直前のマラキ書2章17節には次のように書かれています。
あなたたちは、自分の語る言葉によって/主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う/どのように疲れさせたのですか、と。あなたたちが/悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか/主は彼らを喜ばれるとか/裁きの神はどこにおられるのか、などと/言うことによってである。

「悪を行うほうがよい、自分の好き勝手に生きた方が楽しいし、裁きの神などおられない」などという思いがイスラエルの民たちの間に蔓延していたことが分かります。
それほどまでに人々の心が主なる神から離れしまっていたイスラエルの民たちに、今日の箇所では希望の言葉が語られます。

彼らが待ち望んでいた救い主、メシア(救世主)が来られるという言葉です。

今日の一節をもう一度お読みします。
1見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。

この言葉は、この時から見た将来に起きることが予言されています。「見よ、わたしは使者を送る」の使者は、福音書に登場するバプテスマ(洗礼者)のヨハネのことを言っています。
イエス様自身が、マラキ書のこの箇所を引用して、“それは、バプテスマのヨハネのことだ”と言っています。(マタイ福音書11章2~15節をご覧ください)
イエス様にとって、バプテスマのヨハネは特別な人でした。イエス様にバプテスマを授けたのがバプテスマのヨハネでした。
イエス様は神と等しいお方であり、罪を全くお持ちでない方でした。ですから、私たちと同じように罪の赦しのためのバプテスマ(洗礼)を受ける必要はありませんでした。
それにも関わらずイエス様は、受ける必要のないバプテスマをご自分からお受けになることで、私たちに神を信じて生きる者の生き方を実践して見せてくださったのです。
そしてそれは、自らを徹底的に低くすること(謙遜になること)でもありました。神の子イエス・キリストが、バプテスマを受けられたのですから、まして私たちは神の前に、また人の前に高ぶることなく、自分を低くすること、キリストに示された自分の罪を認めることの大切さを教えられます。

 その使者(バプテスマのヨハネ)は、主イエス・キリストの前に道を備える役割を担いました。“このお方にこそ、神の救いと赦しがあるのだ”ということを人々に指し示すことが、バプテスマのヨハネの役割だったのです。
 イエス様にバプテスマを授けるほどに特別な役割を担ったバプテスマのヨハネでしたが、“イエス・キリストを人々に指し示す”というその点では、今の私たちキリスト者、そして教会も同じ役割を担うように、その働きを神から託されています。
 私たちキリスト者の生き方、私たちの教会はイエス・キリストを指し示しているでしょうか。私たちの礼拝を通して、イエス・キリストがあがめられているでしょうか。
 私たちは自分があがめられよう、あるいは自分たちの教会があがめられようと実は願っていないでしょうか。そうではなく、キリストこそが私たち一人ひとり、また私たちの教会を通してあがめられなくてはなりません。
 キリストがあがめられていることが、キリスト者でない方々が私たちの教会に来られても、伝わるでしょうか。
ぜひ、私たち一人ひとりの生き方、そして私たちの教会の集会が、私たち人ではなく、イエス・キリストを指し示すものとなるようにと私たちはそのために心を合わせようではありませんか。

待望の救い主が来られる、という希望の知らせが今日の箇所で語られています。しかし、2節を読みますと、“主が来られるが、実は本来私たちはそのことには耐えられない”ということが書かれます。
イスラエルの民たちは彼らの救世主の到来を待ちわびていました。彼らが待ちわびていたのは、イスラエルを他国の支配から軍事的に力によって解放してくれる強い指導者でした。
 しかし今日の箇所では、その方が来られると、誰もそのお方に耐えることはできない、と告げられているのです。
 3節に「彼は精錬する者、銀を清める者として座し レビの子らを清め 金や銀のように彼らの汚れを除く」と書かれています。
救い主は不純物を洗い落とすように私たち人の罪(汚れ)を除くお方であり、レビの子らさえも例外ではない、と言うのです。

レビとは神殿で神に仕える祭司の職にあった人たちです。祭司であっても例外なく、汚れをもった罪人であり、そのままの状態では神の裁きには耐えられない、と言うのです。
人々からは、おそらく神に近い立場の者としての尊敬も受けていたであろう祭司であっても、誰もが例外なく罪人であり、神によって罪を取り除いてもらわなくてはならなかったのです。
 5節で列挙されている様々な罪の告発は、私たちの多くは“私は、こんなに悪いことはしていない”と思う内容かもしれません。
しかし、罪の全くない、完全に清いお方である神の告発の前に、まったくの罪のなさを証明できる人は誰もいません。
繰り返しますが誰もが罪人です。つまり、誰もが救い主イエス・キリストの赦しが必要だということです。

 イスラエルの民たちが待望していた救い主が、実は厳しい裁きを彼らにもたらすお方だということが今日の箇所では書かれているのです。この言葉を聞いてイスラエルの民たちはどう思ったのでしょうか。
 また今私たちはこの言葉をどのように聞きますか?
人々はそのことにただ恐れおののくしかなく、私たちもただ恐れるしかないのでしょうか。そうではありません。今日の6節を見てみましょう。

6まことに、主であるわたしは変わることがない。あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。

 主が変わらないということは、主の言葉が変わらず永遠であることです。イザヤ書40章6~8節に次のように書かれています。

*イザヤ書40:6~8 (Isaiah 40:6~8)
呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
7草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
8草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

そして神は、“あなたたちは滅ぼされない”と言うのです。また別の箇所、エゼキエル書33章11節には次のように書かれています。
彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

神は誰も滅ぶことを、霊的に死ぬことを望んでおられません。イエス・キリストの救いと、キリストによる新しい命を御言葉を通して私たちが受け取ることを神は望んでおられます。
その神の願いとメッセージを伝える御言葉(聖書)は私たちと共にあります。私たちは聖書の言葉を信じ、聖書の言葉に立ち続け、真の命を頂いてまいりましょう。
言葉はイエス・キリストとして、人となって世に来てくださいました。救い主が私たちと同じ人となり、この世界に降ってこられたのです。
 キリストによってもたらされた新しい時代、新しい命を生きる幸いを私たちは喜び、感謝しつつ、信仰の日々を生きてまいりましょう。

2024年8月17日土曜日

2024年8月18日主日礼拝

前奏
招詞  テモテへの手紙二 1章9節a
賛美  新生讃美歌 104番 雨を降り注ぎ 
主の祈り
賛美  新生讃美歌 92番 喜びたたえよ
献金
聖句 ネヘミヤ記7章72節b~8章8節
祈祷
宣教 「人々はその朗読を理解した」
祈祷
賛美 新生讃美歌 260番 み言葉もて霊の火を
頌栄 新生賛美歌 676番
祝祷
後奏

 今日の聖書の箇所は、旧約聖書『ネヘミヤ記』からの一場面です。今年度2024年度は4月から一年間かけて、礼拝メッセージで新旧約聖書全体からメッセージを、私はしようとしています。
 4月から始まった旧約聖書からのメッセージは、(たった4か月でしたが)来週の『マラキ書』で、一旦終わりとなります。
 しかし、キリスト者にとっても、旧約聖書はとても重要です。
旧約聖書にイエス・キリストは、直接は登場いたしません。イエス様が人としてお生まれになるずっと以前の歴史、神がイスラエルの民を選び、彼らを救われたメッセージが旧約聖書には記されています。

 旧約聖書に記される数々のメッセージ、物語は、やがて来られる救世主イエス・キリストを指し示しています。ですから、私たち(キリスト者)は、旧約聖書も新約聖書同様に、神のメッセージとして、イエス・キリストの光を通して今も読むのです。
 『ネヘミヤ記』の時代は、イスラエルの民たちが国をバビロン帝国に滅ぼされ、多くの人々が捕囚としてバビロンへ連れていかれたバビロン捕囚の終わり頃の時代です。
 バビロン帝国が衰退し、今度はペルシア帝国がイスラエルの支配国となりました。
ペルシア帝国の王(キュロス)は、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの人々を解放し、バビロン帝国によって破壊された神殿をエルサレムに再建することを、彼らに許可しました。
 少し長い引用となりますが、『歴代誌下』36章22~23節をお読みします。

22ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口を通して約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。
23「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように。」

 このように、聖書は、主なる神がペルシアのキュロス王の心を動かしたので、キュロスはイスラエルの民たちを解放し、彼らがエルサレムに神殿を建てる(再建する)ことを許した、と記しています。
 歴史的には、ペルシア帝国は、支配した地域や国々のそれぞれの宗教に寛容であったと言われます。それには、ぺルシアとしては、他国を支配する上での政治的な思惑もあったのでしょう。
 しかし聖書は、“主がぺルシアの王の心を動かされたので、イスラエルの民たちはバビロンから解放され、エルサレムに神殿を再建することが許された”、と記すのです。
 つまり、全ては神の采配であり神の恵みであった、ということです。
私たちも、私たちが受け取る善きものを、全て神からの賜物、そして恵みとして、感謝をしながら生きていきたいと願います。

 私は会社員時代に、海外の取り引き先と、仕事上の連絡や交渉をするような仕事によく携わっていました。
 問題が発生した時の解決のための話し合いや交渉、製品の購買などに関する契約書の内容の交渉などにも私は携わっていました。
 お互いの会社の利害がかかっている商売に関する契約書の交渉では、お互いができるだけ自社に有利な条件にしたいので、時に長い時間、何日、何か月もかけてその内容の交渉をしたりもしました。
 そのような交渉の中で、私は、自社に有利な契約内容で合意できたりしたときなど、私は嬉しくなり、心の中のどこかで“これは私の交渉能力が優れていたから、できたのだ”と思っていたように思います。
 しかし、今振り返ると、もちろんそうではなかったのです。私の力など、何でもなかったのです。人の心を変える、動かすことができるのは神であるからです。
ですから、もし私が自社に有利な契約締結に成功していたとしても、それは神がそのように相手の心を変えてくださったのだと、今は分かります。
 キリスト者は、自らの力や能力が何かを成し遂げた、と思う心(自分を誇る心)からは自由にされている者です。
神をこそ、神の恵みこそ、私たちは誇るのです。神を誇ることが、私たちの真の喜びです。
 自分を誇るのではなく、唯一真の神をこそ、私たちは常に誇ろうではありませんか。

 ペルシア帝国に覇権が移り、イスラエルの民たちは国へ帰って、神殿を再建することが許されました。その経緯が『エズラ記』、『ネヘミヤ記』に記されています。
  エズラは書記官(the teacher of the law)、また祭司(priest)でもありました。そしてネヘミヤは献酌官(cup bearer)として、ペルシアの王の食事に責任を持つ、大変高い地位についていました。
 ネヘミヤは後にユダの地の長官としても任命されます。(5章)
 エズラ、ネヘミヤが中心となって、エルサレムでの神殿再建がなされ、そして城壁も再建がされました。今日の箇所は、そのような背景をもとにしています。

今日の箇所の初め、7章72bから8章1節をお読みします。

第七の月になり、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、
民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。

 神殿と城壁が再建されました。そして民は集まって「一人の人のようになった」と書かれています。
 神殿は、人々が神を礼拝し、神に出会う場所です。神殿が再建された今、人々は一人の人のようになった。それは彼らが同じ思いと希望によって一つとされていた、ということです。
 彼らはエズラに、モーセの律法(おそらく『創世記』から『申命記』を含む、いわゆるモーセ五書であると思われます)を持って来て、彼らに読み聞かせてほしい、と願いました。
  神殿完成後、彼らが一人の人にようになって集まったのは、彼らが“神の言葉を聞きたい”という思いと希望をもっていたのが、その理由でした。

 私たちは神の言葉を聞きたいと願います。神の言葉こそが私たちと強め、励まし、生かすからです。
 私たちキリスト者が教会へ集う目的は神を礼拝し、礼拝の中で神の言葉を聞くことです。
神が礼拝を通して、私たちに語ってくださいますようにと、私たちは祈り、願いつつ、希望と期待をもって、いつも教会に集いたいと願います。
 私の母教会の牧師が、牧師としての働きを始めた若いころ、礼拝のメッセージに、映画や小説の話を織り交ぜながら、どちらかというと教会の人たち(教会員)よりも、教会に来ていた若い学生たちを意識した話をしていた時があったそうです。
 すると、その時一緒に教会で仕えていたアメリカ出身の宣教師が、牧師の書斎に入ってきて、入ってくるなり「だれも先生の(あなたの)話など聞きたくありません。みんなは御言葉が聞きたいのです」と言われたそうです。
 牧師は、その率直さにびっくりしましたが、それ以降説教(宣教)に関する考え、姿勢が変えられたので、その宣教師の指摘は大変感謝であったと思い起こしていました。
 私たちは教会に、神の言葉、キリストの言葉が聞きたいという願いを持って集まります。神の言葉によって強められ、そして神の言葉によって変えられたいと私たちは願って教会に集います。

 そのような神の言葉が教会で語られるように、ぜひ皆さんにはいつも祈っていただきたいと、お願いいたします。
 エズラ、そして他の祭司たちがモーセの律法を読み上げました。彼らはどのようにして聖書の言葉を朗読したのでしょうか。今日の箇所の最後の8節をお読みします。
8彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。

 「彼らは神の律法の書を翻訳し」と日本語聖書には訳されています。英語訳(NIV)では、“明らかにしながら、意味を説明し”と書かれています。
 この“明らかにする”という意味の元のヘブライ語(パラシュparash)には、“翻訳する”という意味もあるのです。
 聖書の言葉がなぜ翻訳される必要があったのでしょうか。旧約聖書は元々イスラエルの民たちが話していたヘブライ語で書かれました。
 しかし、イスラエルが他国に征服されたり、バビロン捕囚が長引いたりする中で、イスラエルの民たちはだんだんと自分たちのヘブライ語を話し、理解することができなくなっていたのです。

 ヘブライ語よりも、当時中東で広く話されていたアラム語という言葉のほうを、イスラエルの人々も話すようになり、だんだんとヘブライ語は話されなくなっていきました。
  ですから聖書を人々が理解するためには、ヘブライ語の理解力を維持していた祭司のような人たちが聖書を読み、そしてそれを人々が分かるアラム語に翻訳しつつ、意味を明らかにしながら話して聞かせる必要があったのです。
 そのように聖書の言葉が読まれ、必要ならば人々が分かる言葉に翻訳され、意味が明らかにされて、人々に語り聞かせられました。
 私たち別府国際バプテスト教会では、礼拝を基本的に二か国語で行っています。礼拝メッセージも、毎回英語の翻訳も用意をしています。
 宣教翻訳のご奉仕をしてくださる方が多くおられ、また宣教翻訳者の方と、その奉仕スケジュールの奉仕をしてくださる方もおられ、私たちの教会は大変恵まれています。
 そのような働きが私たちの教会で大切にされてきたのも“日本語の理解が困難な方とも、できるだけ一緒に神の言葉を分かち合って、一緒に礼拝したい”という思いと希望が私たちの教会には与えられてきたからです。
 そのような思いが私たちの教会に与えられたのも、それは神の恵みと賜物であると言ってもよいでしょう。その賜物をこれからも私たちは大切にしていきたいと願います。

 毎回、日英両方の宣教を翻訳者の方と一緒に準備する中で、“私は毎回翻訳者の方と一緒に宣教を準備している”という思いを持っています。自分一人だけで宣教を準備していては得られない恵みを私自身がいただいています。
 神の御言葉は、全ての人へ向けられています。神の御言葉は、あらゆる国や地域の人々へ伝えられるべき恵みの言葉です。
 宣教の歴史上、聖書が色々な国の言語に翻訳され、現在もそのような翻訳の働きは続いています。各言語への聖書翻訳の働きのことも覚えて、私たちは祈りたいと願います。
 そして、私たちは自分が理解できる言葉で聖書を読み、メッセージを聞くことができる、という恵みと幸いにも感謝をいたしましょう。
 神の言葉を聞くことのできる幸い、神の言葉によって励まされ生かされる恵みを、私たちはこれからもお互いに分かち合い、そしてその恵みを私たちの周りの人々へも述べ伝えていこうではありませんか。

2024年8月10日土曜日

2024年8月11日 主日(召天者記念)礼拝

前奏
招詞  詩編23篇4節
賛美  新生讃美歌104番 雨を降り注ぎ
主の祈り
賛美  新生讃美歌 21番 栄光と賛美を
献金
召天者の紹介
聖句   ヘブライ人への手紙11章3~16節
祈祷
宣教  「神は彼らのために都を準備されていた」
祈祷
賛美  新生讃美歌 336番 世の終わりのラッパ鳴りわたる時
頌栄  新生讃美歌 676番
祝祷
後奏

今日の礼拝は「召天者記念礼拝」です。私たちより先に、天の国へと召されていった方々を覚えつつ、私たちは今日、主なる神を礼拝いたします。
キリスト教では、故人を崇める、死者を拝む、ということはいたしません。私たちが褒め称えるお方、私たちが拝む(礼拝する)対象は、主なる神のみです。
ですからキリスト教では、亡くなった方を覚えて行う葬儀(告別式)でも、それを一つの「礼拝」として神にささげます。
お葬儀では、私たちは、地上での命を終えた人の魂を神に委ね、天の国での平安を願います。そして地上に残されたその方のご家族の気持ち、その悲しみに神が寄り添ってくださることを、お葬儀の場で私たちは祈り願うのです。

聖書は、いかなる人も決して神のように礼拝されてはならないことを伝えています。どんな人間も欠点と弱点、限りのある不完全な存在であるからです。
 イエス様も、荒野で悪魔の誘惑(試み)をお受けになった時、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という御言葉で悪魔に対抗しました。
私たちが拝み(礼拝し)、仕えるべきお方は、主なる神お一人です。
しかし同時に聖書は、私たち人間がいかに尊い存在であるかを告げています。正確には、塵から造られた私たち人が、神によってどれほど愛された存在であるかを、聖書はその中心的なメッセージとして伝えています。

神は、御子イエス・キリストを通して、私たち一人ひとりをどれほど神が愛してくださっているか、神が私たちをどれほど尊い者だと思ってくださっているかを、教えてくださいました。
私たちをそれほど前に愛し、私たちの存在が本当に尊いと、言ってくださる神がおられることを私たちは喜びたいと思います。
 今日の召天者記念礼拝の聖書箇所として、私は新約聖書のヘブライ人への手紙の11章の御言葉を選びました。

 今日の箇所に繰り返し出てくる言葉は「信仰Faith」です。
今日の箇所の初めの3節に次のように書かれています。
信仰により、わたしたちはこの世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。(3節)
 神を信じる信仰によって、私たちは、私たちのこの世界が、神の言葉によって創造されたということを信じることができます。
旧約聖書の『創世記』の初めに、「初めに、神は天地を創造された」と書かれています。神を信じる信仰によってこの一文を読む時、私たちにはこのとても簡潔な一文が、非常な力強さをもって真実として迫ってきます。
全ては神がお始めになったことなのです。そして私たち人の命もすべてそのお方、神によって造られたのです。
 そして聖書は、私たちが神を信じ、神と共にこの地上での命を生きてほしいと、神が願っておられることも伝えています。

 神を信じ神と共に歩むとは、神の言葉を信じ、神の言葉と教えとに従って生きるということです。
『申命記』の5章33節に次のように書かれています。
あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる。

 私たち人は誰もが幸せに生きたいと願っています。幸せに生きるための道がこのように聖書にははっきりと書かれているのです。
 それは主なる神が命じられた道を歩むことです。主と共に歩むことです。そうしてこそ私たちは本当の幸いを頂き、この地上での命を生きることができるのです。
 ですから私たちは神の言葉である聖書を通して、真の幸いに生きる道を、求めていきたいと願います。

聖書の中には多くの人物が登場いたします。聖書は、聖書の中に描かれる様々な人を通して、神がいかにしてご自身を表されたのか、神がどのようにして彼ら彼女らと実際に関わってくださったのかを伝えています。
私たちは、聖書に登場する多くの人物たちが、どのように神によって愛されたのか、あるいはどのように訓練されたのか、などの物語を通して、私たちは、信仰とは何かということを学ぶことができます。

今日の聖書箇所(ヘブライ人への手紙11章3~16節)には、旧約聖書の『創世記』に描かれる、何人かの代表的な人物を通し、“信仰とは何か”ということが描かれます。
4節ではアベルとカインの話が描かれます。それは、創世記で描かれるアベルとカインの物語についてです。
アベルとカインは、神によって最初に造られた人であるアダムとエバの子どもでした。兄のカインは土を耕す人となり、神に土地からの収穫物(穀物)を捧げました。アベルは羊を飼う者になり、神に羊の初子(ういご)を捧げました。
その時主はアベルとその献げ物には目を留められましたが、カインとその献げ物には目を留められませんでした(創世記4章)
そこで兄のカインは怒り、弟のアベルを殺してしまいました。それは、聖書が伝える人類最初の殺人事件だと言われます。

今日の箇所では、カインがアベルを殺したことには触れられず、“アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明された”と書かれます。
アベルが捧げたのは羊(肉)であり、カインがささげたのは地の穀物でした。神は、献げられたものそのものよりも、どれほどの信仰がその献げ物には込められていたのか、ということをご覧になったのです。
 信仰生活とは、献げる生活です。それは主なる神に献げる生活です。主は私たちがどれほどの心を献げ物に込めているかをご覧になります。
 私たちの神は、私たちの献げ物に込められた心をご覧になり、その心をこそお喜びになります。私たち人は、他者をその人の見た目でしか判断できないところがあります。
私たちは、どうしても人の目が気になってしまうことがあります。自分が人からどう見られるか、にいつも私たちはとらわれていないでしょうか。

 しかし、本当に私たちの心の中をご覧になり、私たちの心の内を知ってくださっている神がおられるのです。
その神との関係の中に生きることで、私たちは心に平安と自由、そして幸いを頂くことができるのです。
 私たちの心までを全てご存じの神との関係を信仰によっていただき、確立することで、真の平安、自由、そして幸いを私たちはいただいてまいりましょう。
 7節には、ノアの例が挙げられています。創世記6章以降で描かれるノアの洪水に関することです。

神は、人の心が悪い思いで満ちていることに心を痛め、この世界を洪水によって滅ぼそうとされました。それは大変残酷とも思える悲しい出来事ですが、その時の神ご自身の痛み、悲しみを私たちは想像すべきでしょう。
 しかしその時、ノアは神に従う人でした。そして神はノアに語りかけ、箱舟を造って彼の家族と他の生き物たちを洪水から救うようにと彼に命じました。
神に命じられた通りノアは巨大な箱舟を造りました。他の人たちから見れば、ノアのしたことは正気の沙汰とは思えなかったでしょう。
それだけの箱舟を造るのに、どれほどの時間と財(お金というものはまだなかったかもしれませんが)を必要としたのでしょうか。
 しかし、周りの人の目や評判を気にするよりも、ノアは神の言葉に従うことで、結果彼の家族とまた他の多くの生き物の命を(いってみれば世界を)救うことになったのです。
 信仰者が神の言葉に従って生きるということは、その結果まさにこの世が救われるかどうかという問題であることが、ノアの物語から分かります。
 ですから私たちも人の目とか、世の常識や流行というものに妥協し(それらを恐れ)神の言葉と教えから目と耳をそらすことなく、神の言葉に従って生きていこうではありませんか。
 この世にあって信仰の道を歩き続けることは時に辛く困難なことでもあります。世の中の流れ通りに、ただ普通に暮らした方が楽だ、と思える時があるかもしれません。

しかし、神の言葉にこそ救いがあり、希望、幸いがあると、聖書は伝えています。ですから、神に従って歩む生き方を私たちは互いに励まし合って続けてまいりましょう。
 8節からはアブラハムのことが書かれています。アブラハムは75歳の時に、慣れ親しんだ土地を離れて、神が示す土地へ行きなさい、という主の命令に従って歩みだしました。(創世記12章)
 アブラハムは実際どこへ行くのかの行く先は示されないまま、ただ神の命令と祝福の約束に従って旅立ちました。
 具体的な行先は示されませんでしたが、神はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように」という祝福の約束を与えました。(創世記12章2節)
行く先という目に見えるものではなく、目には見えなくとも確かな神の約束、神の言葉をアブラハムは信じたのです。
 アブラハム、また今日の箇所で描かれる信仰の先達たちはいずれも、自分の目に見えること、この地上での生涯の先にまで続く、神の大いなる約束に希望を置いた人たちでした。
 彼らはいずれも、今日の箇所で描かれる「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都」(10節)、「天の故郷」(16節)を待望し、信じていました。
 私が個人的に知り得た信仰の先達にも、天の御国、神が準備してくださっている都への恵みにあふれている人たちがいました。
 私がアメリカに語学留学中であったころ、キリストを信じる前の、非常に生意気で態度も無礼だった私を、大きな愛とやさしさをもって受け止め、聖書の御言葉を教えてくれた人の中に、べシー・バーク(Bessie

 べシーさんは、早くにご主人を亡くされ一人暮らしでしたが(現役のころは、美容師のお仕事をされ、自分のお店ももっていたとお聞きしました)、わたしや他の留学生たちを自宅に招いて歓待してくれたり、聖書も教えてくれたりしました。
 私は日本に帰国してからも、べシーさんとはずっと連絡を取り続けていました。べシーさんは2011年に93歳に亡くなりました。
生前に彼女と手紙や電話でやり取りする中で、べシーさんがいかに天の御国への希望にあふれているかが私には伝わってきました。
 そして天の御国、神の都への希望が、べシーさんのこの地上での命をも生き生きとさせ、他者にもあふれる愛情となっていたのだと、今私は理解することができます。
 天の御国、神が用意してくださっている都の希望は、私たちすべての者に与えられています。イエス・キリストを主と信じる信仰により、その都への希望を私たち共にいただいてまいりましょう。
 今日私たちは、先に召された方々を覚える召天者記念礼拝を献げています。召天者の方々お一人お一人が精一杯この地上での生を生きられ、その命は主の御手のうちに守られていた、と私たちは信じることができます。
そして私たちいずれ、天の御国で互いに再会できるという期待と思いを、信仰によっていただいていまいりましょう。そして与えられたこの地上での命の日々を私たち共に、御国への希望を携えつつ、歩んでまいりましょう。




2024年8月3日土曜日

2024年8月4日 主日礼拝 

前奏
招詞  マルコによる福音書6章34節
賛美 新生讃美歌104番 雨を降り注ぎ
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌 3番 あがめまつれ うるわしき主
献金
聖句  ヨナ書3章10節-4章11節
祈祷
宣教  「ニネベの人を惜しむ神」
祈祷
賛美 新生讃美歌 639番 主の恵みに生きる
頌栄 新生讃美歌 676番
祝祷
後奏

皆さん、おはようございます。
私たちの教会は、今、教会のミッション・ステートメント「わたしたちの教会の働き」の見直しをしようとしています。その中に、繰り返し、「伝道」あるいは「福音宣教」という言葉が記されています。
そして、どのように見直しをするにしても、伝道――福音を伝えるということ――が、私たちクリスチャンにとって、そして教会にとって、大切な使命であることに変わりはない、と私は思います。
そこで今日は、旧約聖書のヨナ書から、特に、伝道について、神様の語りかけを聞きたいと思います。

今日は、先ほど読んでいただきました、3章10節から4章11節の部分を中心にお話ししたいと思いますが、ヨナ書をまだ読んだことのない方もおられるかもしれませんので、全体の内容をまず簡単にお話しします。
ヨナ書は、小預言書の一つに数えられています。実際、1章1節に「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」と、いかにも預言書らしいスタイルで書き出されています。
ところで、ヨナについては、旧約聖書では、ヨナ書以外ではたった1度、列王記下14章25節にしか登場しません。そこにはこう書かれています。
「しかし、イスラエルの神、主が、ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイの子ヨナを通して告げられた言葉のとおり、彼はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した。」

ここで「彼」と言われているのは、23節から、「イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアム」のことだと分かります。「ヨアシュの子ヤロブアム」とは、歴史上ではヤロブアム2世と言われる、北イスラエル王国の第13代の王のことです。その治世は紀元前793-753年で、ヨナは彼と同時代かそれ以前、およそ紀元前8世紀前半に活躍したと思われます。
ヨナ書のヨナと列王記のヨナが別人である可能性も皆無ではありませんが、父親の名アミタイも聖書の中では他に見られない名前ですし、同一人物と見て良いと思います。
さて、そのヨナに臨んだ主の言葉は、「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」というものでした。
「ニネベ」は、メソポタミアのティグリス川の上流近く、現在のイラクのモスルの対岸(東岸)にあった町で、紀元前9世紀から8世紀にかけて、西アジア全域に強大な勢力を誇った軍事大国アッシリア帝国の主要都市の一つで、王のお城がありました。
そして、ヨナの時代より半世紀ほど後の、前8世紀の終わり頃には正式に帝国の首都とされました。発掘調査の結果では、南北5km、東西2.5kmほどの大きさの町であった、と言われています。

そして、3章8節、新共同訳で「不法」と訳されている語が、新しい聖書協会共同訳で「暴虐」〔英語訳で“violence”(NIV他)〕と訳されているように、アッシリア帝国は、その残虐さのゆえに、周囲の国々から恐れられていました。イスラエルの国も、このアッシリアの脅威にさらされていたのです。
さて、ヨナはその敵国アッシリアの町ニネベに宣教に行くようにと言われたわけです。
ところが、1章3節、「ヨナは主から逃れようとして・・・タルシシュに向か」い、「折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込」みました。
タルシシュというのは、正確な場所は分かっていないようですが、地中海の島か、地中海の西の端、スペインの南部の町であっただろうと、考えられています。すなわち、ニネベとは全く逆方向になります。
神様は「大風を」起こしてヨナの逃亡を阻止し、更に「巨大な魚」を備えて、ヨナを荒海の中から救い出します。この、ヨナが「巨大な魚」に呑み込まれ、「三日三晩」その腹の中にいたという、ちょっと信じられないような出来事が記されているために、本書をたとえ話や寓話と考える人たちも少なくないようです。

「三日三晩」と言うと、現代の私たちは、「丸三日」――およそ72時間前後――を意味するように思うかもしれませんが、これは現代の正確な言い方では「足掛け三日」、すなわち「二泊三日」のことです。
イエス様は、マタイによる福音書の12章40節で、このヨナのことを引用して、
「・・・ヨナが三日三晩、大魚(たいぎょ)の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」と言っています。
福音書の記録によれば、イエス様が墓に葬られたのは金曜日の夕方、安息日が始まる直前の金曜日の日没前でした。そして、マグダラのマリアを始めとする女性たちが、「週の初めの日(すなわち日曜日の)、朝ごく早く、日の出とともに墓に行った」ときには、イエス様はすでに復活していました。
つまり、イエス様が墓の中にいたのは、長く見ても、金曜日の日没前から、日曜日の明け方近くまでであって、およそ36時間ほどであったことになります。
と言うことは、ヨナが大きな魚の腹の中にいたのも、同じぐらいの時間であったと考えられます。

地震や土砂崩れなどの災害が発生したとき、発生から丸三日、72時間を越えると、建物などの下に閉じ込められた人の生存率が急激に下がる、と言われています。しかし、中には一週間以上も経ってから、無事に救出される方もいます。
ヨナが丸一日半ほどを過ごした、大きな魚の腹の中がどんな状態だったのかわかりませんが、2章1節(口語訳やNIVでは1章17節)の口語訳によれば、その大きな魚は神様が「備えて」くださったものであることが分かります。
であれば、実際に神様が大きな魚の腹の中でヨナの命を守って下さった、と考えても無理ではないでしょう。このヨナ書の出来事を歴史的事実と考えることに、不都合はないと私は思います。
さて2章によれば、ヨナはこの大きな魚の腹の中で、命が守られたことに対する感謝の祈りをささげています。そして主の命令によって、ヨナはもう一度、陸地に吐き出され、3章1節、「主の言葉が再びヨナに臨」みます。

ヨナは、今度は命じられたとおりに、ニネベに行って、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と、神様から語れと言われた言葉を「叫び」ながら、丸一日かけてニネベの町を巡り歩きました。
一回りするだけでも三日かかったということですから、宣教しながらであればもっとかかっただろうと思われますが、ヨナが三日以上かけて、ニネベの町を隅々まで巡り歩いたかどうかは記されていません。
ところが驚くべきことに、ニネベの町の人々は悔い改め、それを伝え聞いた王までも悔い改めたのです。

その結果、3章10節、「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた」のです。
ところが、また、ところが、です。本書には私たちにとって意外に思えることがたくさん記されています。

4章1節を見ると、「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒(いか)った」とあります。4章2節の言葉からも分かるように、ヨナはまだ、敵であるニネベの人々は、神様の宣告通りに滅びてほしい、と思っていたのです。イスラエルの国の置かれていた状況を考えると、無理もないことかもしれませんが。
ヨナは、主の言葉に従って、ニネベで宣教しました。しかし、内心では、ニネベの人々が救われてほしいとは思っていませんでした。神様に言われたから、仕方なしに、宣教したのです。ところが、ヨナのひそかな願いに反して、ニネベの人々は悔い改め、神様は彼らを赦しました。
4章3節、ヨナは自分の願うとおりにならなかったために、ふてくされています。「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
神様はこのヨナを、すぐに叱ったりせず、じっくりと取り扱います。まず4節、「お前は怒るが、それは正しいことか」と、穏やかにヨナに問いかけます。しかし、ヨナはそれには全く答えません。とにかく、事の成り行きを「見届けようとし」ます。

神様は、「とうごまの木」を生えさせて、ヨナのために暑さを避けるための日陰を作ってやります。ところが、ヨナが喜んだのも束の間、神様はすぐその翌朝、「虫に命じて」その「とうごまの木を食い荒らさせ」ます。そして神様は更に、「焼けつくような東風」を吹きつけさせます。
再び死を願って、「死ぬほうがましです」と言うヨナに、神様はもう一度、「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」と問いかけます。「もちろんです。・・・」と言うヨナに対して、神様がこう言われます。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
ここで、唐突にヨナ書は終ります。神様は私たちに何を語ろうとしておられるのでしょうか。
私自身が神様から語りかけられたことを、幾つかお話しして、今日のメッセージとしたいと思います。
私は、思い違いをしていました。私は、自分が立派なクリスチャンにならなければ伝道ができない、と無意識のうちに思っていたようです。そのために、これまで積極的に伝道することができませんでした。しかし、ここで気づかされたのは、とにかく伝えることが大事だ、ということです。誰かが伝えなければ、人々は福音を聞くことができません。
ローマ書10章14節に、こう書かれています。途中からですが、
「・・・聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」

私たちの奉仕は不十分かもしれません。ヨナは、内心、ニネベの人々は滅ぼされてほしいと願っていました。人々が救われてほしいと思って、宣教したわけではありません。しかし、人々はヨナが伝えた、神様の言葉を聞いて、悔い改め、救われたのです。とにかく福音を伝えることが大事なのではないでしょうか。
最後の2節(10-11節)の言葉から分かることは、神様は御自分が造られた人間を惜しんでおられる、ということです。この「惜しむ」という言葉は、「憐れむ」とも訳せる言葉です。
招詞でお読みしましたように、イエス様も、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」んでおられます。
ニネベの町の人々は、ヨナにとっては敵でした。しかし、神様にとっては、御自分が造られた、しかも、「右も左もわきまえぬ」――「飼い主のいない羊のような」――人々だったのです。
神様は、私たちが敵と思うような人々をさえ、「惜しい」と思い、憐れんでおられるということです。
もう一つ、口語訳聖書を見ますと、4章6節の「とうごまの木」も、7節の「虫」も、8節の「焼けつくような東風」も、更に2章1節(口語訳やNIV、1章17節)の「巨大な魚」も、皆神様が「備えた」ものであることが分かります。神様がある目的をもって、ヨナを取り扱っているのです。
ヨナは、4章2節から分かるように、神様が誰に対しても憐れみ深いお方であることを知っていました。しかし彼は、自分の思いの方に囚われて、その神様の思いを、自分の思いとすることができませんでした。彼の思いは――敵に対する彼の思いは――自分が大いなる奇跡的な救出の経験をしても、変わっていませんでした。

神様はそのヨナを忍耐深く取り扱い、「とうごまの木」という実物教訓を通して、ニネベの町の人々に対する神様の思いを吐露されたのです。ヨナにも、私と同じ思いになってほしい。少しでも私の思いが分かってほしい。神様はそう願って、ヨナを取り扱っておられたのではないでしょうか。
私たちも、神様がすべての人を愛し、すべての人が救われることを願っておられること、そして、そのことを実現するために、御自分のひとり子であるイエス・キリストを、私たちの罪のための犠牲として下さったことを知っています。
しかし、その、人を救おうとする神様の熱い思いを、私たちはどれだけ自分のものとしているでしょうか。
別府市の人口は、現在11万2千人ほどです。「暴虐」を極めたニネベの町の人々をさえも、神様は「惜しい」と思われたのですから、この別府の町の人々を、どんなにか惜しんでおられるのではないでしょうか。その神様の思いを、誰が、この人々に伝えるのでしょうか。