2025年11月16日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書64章7節
賛美 新生讃美歌105番 くしき主の光
主の祈り
賛美 新生讃美歌554番 イエスに導かれ
献金
聖句 使徒言行録9章1~19a節
祈祷
宣教 「あなたのなすべきことが知らされる」
祈祷
賛美 新生讃美歌339番 教会の基
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内
新約聖書の『使徒言行録』を礼拝メッセージの聖書箇所として、今年度の初めから私たちは聞いてきております。今日は、その第9章からの箇所です。
サウロ(後のパウロ)が、キリストに従う者たちを激しく迫害していた迫害者から、キリストを信じ、キリストを熱心に伝道する伝道者として変えられるという、彼の劇的な回心の場面が今日の箇所には書かれています。
クリスチャンはそれぞれ、回心、つまりキリストを信じていない状態から、キリストを信じる者へと変えられた経験を持っています。
ある人は、家族や保護者がクリスチャンであり、幼い頃から教会へ通っていたという場合もあります。
そのような場合は、キリストを信じるようになったという変化(経緯)が、必ずしもはっきりしたものではない、(少なくとも、そのような自覚はあまりない)ということもあります。
しかし、特に私たちバプテスト教会では、自らの明確な希望と決断によって、公に信仰を告白し、そしてバプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになるという儀式を、大切にしています。
バプテスマは、ただの儀式(形だけのこと)ではなく、一人の信仰者の新たな誕生(回心)という、とても大きな意味がある出来事です。
私の場合は、バプテスマを受けたのは、今から26年前のことでした。
私はキリスト者の家庭で生まれ育ったわけではありません。
そんな私がキリスト者になり、牧師にまでなったという話を聞くと、多くの方が、「あなたがキリスト者になるきっかけ、牧師にまでなるきっかけは何だったのですか」と聞いてくださることがあります。
最初のきっかけは、やはり今の妻と出会って、クリスチャンであった彼女に教会に誘われ、聖書も読むように促されて、そして彼女によって熱心に祈られた、ということです。
ほかにも、教会の本当に多くの方々が私のために祈ってくださいました。
教会の交わりへと導かれ、聖書の御言葉に触れ、多くの方々に祈っていただくことを通して、私はキリストを信じる決心へと導かれました。
私の場合は、それは今日の箇所にあるように、ある時突然天から光が照らされ、復活のイエス様の声を直接聞くという劇的(瞬間的)な出来事ではありませんでした。
しかし、自分中心に歩んでいた自分の生き方が変えられ(方向転換させられ)、自分の中心に自分ではなく、イエス様をお迎えして生きようと、(少なくとも)決心をしたという意味で、私の場合も、それは大きな転機、回心であったと私は思います。
そしてそのように私が決断をすることができたのは、既にイエス・キリストが十字架にかかり私の罪を贖い、赦し、そして復活によって永遠の命と希望を与えてくださるという恵みの出来事が、神によってなされていたからです。
十字架と復活のイエス・キリストにより、私たちが救われるための道は既に用意されたのです。
そのことを私たちは信じて、神によって用意された救いの道、永遠の命へと続く希望の道を私たちは歩くことができる幸いを感謝したいと願います。
今日の箇所でサウロは、“この道に従う者”を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げて、エルサレムに連行しよう“としていました。そのための許可を、彼は大祭司から受けたのです。
“この道に従う(あるいは、属する)者”とはイエス・キリストを信じ、キリストという道を歩んでいる人(信仰を実践している人)のことです。
男女を問わず、つまり誰であっても、とにかくその人がキリストを信じているというならばサウロは決して容赦しようとはしませんでした。
それぐらい徹底的な迫害の姿勢をサウロは持っていたということです。
サウロにとっては、キリストに従うという者は誰であっても許せない相手でした。その一人ひとりが実際にどんな人なのか、などは関係なかったのです。
この道に従う者、すなわちキリストに従うという人は誰であっても、彼にとっては全てが敵だったのです。
人間は怒りや憤りに駆られると、サウロが”クリスチャンは全員敵だ“と見なしたように、実際の(生身の)人間一人ひとりの存在や、それぞれの人柄や性格に心を向けるということができなくなります。
行き過ぎた怒りや憤りの感情は、そのように私たちから正常な判断を奪うのです。
私たちは、人間一人ひとりの存在、出会わされるひとり一人の心に、思いを寄せることができる、そのような心を大切にしたいと私は願います。
男女を問わず、とにかくキリストの道に従う者ならば誰でも捕まえる、という迫害の息を弾ませてダマスコへの道を急いでいたサウロに、天から光が照らされました。
サウロは地に倒れました。そして彼に語りかける声が聞こえました。
「サウル、サウル(サウロの呼び名)、なぜ、わたしを迫害するのか」(4節)
その声は、主イエス・キリストの声でした。主イエス・キリストが、“サウル、サウル”と彼の名前を読んでサウロに語りかけたのです。
サウロにとっては、すべてのクリスチャンが敵でした。クリスチャンは全員迫害すべき敵であり、彼らにはそれぞれ名前があることなど、サウロには関係なかったでしょう。
そんなサウロに、復活の主イエス・キリストは「サウル、サウル」と彼の名前で呼びかけたのです。名前を呼ぶ、ということは、その人の人格を認め、尊重するということです。
私たちの主なる神は、私たちひとり一人を名前で呼んでくださるお方です。神は私たちの名前を呼んでくださり、私たちひとり一人を神の前に特別な一人だと認めてくださるお方です。
神は私たちひとり一人を名前をもって読んでくださるお方であり、神は私たちの心の内までをすべて知っていてくださるお方です。そのようなお方に知られている、大切なものとされていることを、私たちは大いに喜びましょう。
主の声は、サウロに、“起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる“Now get up and go into the city, and you will be told what you must do.”と告げました。(6節)
「あなたのなすべきことが知らされる」という主の言葉を、私は今日のメッセージの題ともいたしました。
それまでサウロは、自分の意志で、自分の怒りに基づいて、クリスチャンを激しく迫害していました。彼は自分ではそれを神に対して正しいことだ、とさえ思っていたでしょう。
しかし、そんなサウロに主は、“自分の考えや信念を中心にして生きることをやめ、自分に示される外からの声、神の御声に聞き従って生きる者になれ”と今日の箇所で、主は言われたのだと私は信じます。
それは、自分が中心ではなく、神は私に何をお望みなのか、神から示される、そして周りの人々を通しても示される神のみ旨を求めて、それに聞き従って生きる者になりなさい、と言う、私たちも向けられたメッセージです。
キリスト者は、自分の中心に自分をおくことを止めようと決心した者です。
自分中心ではなく、自分の心の中心に神に入ってきていただき、神に示されることに従って生きる者に、私達はなりたいと願います。
その時サウロが向かっていたダマスコに、アナニアというキリストの弟子がいました。彼に幻の中で主が現れて、サウロがいる家をたずねるように、と告げました。
アナニアにとって(アナニアだけでなく、多くのキリスト者にとって)サウロは、とんでもない人間でした。
サウロがキリストに従う者たちを激しく迫害していることは、広く知れ渡っていたのです。アナニアも当然そのことを知っていました。
13~14節のアナニアの言葉は、“あんな人のところへ行くのは絶対いやです”という彼の思いの表れだと私は思います。
しかし主は、サウロのことを、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるためにわたしが選んだ器であるThis man is my chosen instrument to proclaim my name to the Gentiles and their kings and to the people of Israel. 」と言われました。
この”器“(英語訳ではinstrument(道具))という言葉もとても大切です。私たちは神に選ばれた器(道具)です。神の言葉、神の愛、福音を頂き、そして他者に福音を伝える”器“です。
神は、私たちを神の福音を告げ広めるための器(道具)として用いられるのです。
私たちは神の”器“として、主導権をその器を用いられる神に明け渡して生きることを、神から期待されています。
私たちはそのような”器“として生きる用意があるでしょうか。神が私たちをお用いになって、神の福音、その良き知らせが伝えられるための器として、神に従って生きる用意があるでしょうか。
それとも自分自身に固執して、私たちは自分中心に生き続けるのでしょうか。
私たちは、神によって造られたものです。神によって造られた私たちは、神のご計画に基づいて、神のお定めになった大きな目的のために仕える”器“として生きる時に、最もその人らしく生きることができるのです。
ですから私たちは、神の”器“として生きる、そのような信仰者となる思いと決意を新たにしようではありませんか。
アナニアは、主の声に従い、主に言われた通りに、サウロのいる家にまで行きました。アナニアがサウロの上に手を置いて、彼は「兄弟サウル」と呼びかけました。
主に導かれて出会ったのでなければ、アナニアにとってサウロは“兄弟”(仲間)と呼びかけることができる相手ではありませんでした。
しかし主によって出会わされたサウロは、アナニアにとって今や自分の”兄弟“であったのです。私たちも、特に神によって出会わされた信仰の家族(友)者同士を”兄弟姉妹“と呼び合います。
私たちが同じ神を信じ、神によって互いに出会わされ、信仰の家族とされ、互いを”兄弟姉妹“と呼び合うことができるのは、何と幸いなことではないでしょうか。
最初に、わたしたちそれぞれがキリスト者になるきっかけ、ということを私はお話いたしました。私の場合は、申し上げましたように最初の直接のきっかけは妻との出会いでした。
そしてそれからも、導かれた教会で受け入れられて、そこで支えられて、愛されて、わがままで生意気だった私に教会の人たちの厚い祈りが注がれました。
神は私のために祈ってくれる、本当に多くの人たちと私を出会わせてくださいました。
その方々の祈りと願いが私をキリストを信じて生きる決心に導き、そして牧師として仕える決心へと導いてくれたと、私は信じています。
私たち教会が神から頂いた大きな祝福の恵み(賜物)であり、同時に重要な責務でもあることは、“祈り”です。
私たちは真の神に向かって祈ることができます。そして私たちは互いを覚えて、お互いのためにも祈り合うことができます。また、そうすることがキリスト者として責務でもあるのです。
サウロは今日の箇所で、劇的な回心を経験しますが、自分の上に手をおいて祈ってくれたアナニアは、それからもサウロにとって特別な人、信仰の友であり続けたでしょう。
私たちも、それぞれに信仰の友をいただき、また新たに誰かの信仰の友となりながら、他者のために祈る者となり、また互いに祈り合う関係の中にも生かされてまいりましょう。
私たちは、信仰による出会いの中で、互いに関わり、名前を呼び合い、祈り合うという神の家族同士であることを喜びながら生きることができます
そのような幸いな信仰を、私たちは生きていきたいと願います。
2025年11月15日土曜日
2025年11月8日土曜日
2025年11月1日土曜日
2025年11月2日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編96篇3節
賛美 新生讃美歌61番 さわやかな朝となり
主の祈り
祈りの時
献金
聖句 使徒言行録8章26~40節
祈祷
宣教 「読んでいることがお分かりになりますか」
祈祷
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所で、主の天使がフィリポに現われ、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへくだる道(寂しい道)に行け」と言いました。
フィリポは、キリストの伝道者であり、もともとはエルサレムの教会の中で発生した問題である「食事の公平な分配」という働きに仕えるために選ばれた7人のうちの一人でした。
その時代は今から約2000年前です。それは、イエス・キリストが十字架につけられて死に、そして復活し、天へと昇って行かれた後でした。
イエス様は今や人としてこの地上にお住まいにはならなくなりました。イエス様は弟子たちとは、肉体をもった人間としてはもう共にいなくなったのです。
しかし、神の霊である聖霊、イエス様が“あなたたちに私が送る”と約束なさった助け主である聖霊を弟子たちは受けました。
聖霊を受けた弟子たちによって、神の福音(イエス・キリストの福音)が、それから多くの人々に伝えられるようになっていきました。
現在も、私たちキリスト教会と、教会に連なる一人ひとりのキリスト者が、イエス・キリストの福音伝道の担い手として、その働きを続けています。
キリストを信じ、キリストの福音によって生かされて、キリストの福音を伝える働きに仕えることができるのは、私たちにとって大きな喜びです。
私たちは十字架と復活のイエス・キリストの恵みによって生かされています。
そのことを信じ喜ぶ私たちは、その嬉しい(喜びの)知らせを他者に知らせる働きにも、喜びをもって仕えていきたいと願います。
最初に申し上げましたように、今日の箇所でフィリポは主の天使の声を聞きます。主の天使とは神のメッセージを人に伝える存在です。
神を信じるとは、ただ頭の中で知的に神の存在を認めて信じる、ということだけではありません。
神を信じるとは、神の声に従って、神が示す道を進むということです。
しかし、フィリポにははっきりと主の(天使の)声が聞こえましたが、今の私たちに神の声がはっきりと耳で聞こえるということは、(全くないことはないとしても)通常はないことだと私は思います。
しかし、神の示す道を求めて、私たちが祈り、聖書の言葉の中にその答えを求める時、神はその御声を私たちに伝えてくださいます。
また、私たちが、信仰の友、信仰の家族と共に祈り、神が示す道を一緒に求める時、行くべき道が示されることがあります。
ですから私たちは、信仰の共同体の一員であるということが、とても大切なのです。
信仰の共同体の一員となり、共に祈り合える信仰の家族として、神が語る声を求めて、共に祈ることができることは、私たちにとって大きな喜びです。
そのような信仰共同体である、私たちの教会を私たちは愛し、大切にしてきたいと願います。
フィリポに今日の箇所で示された道は、「エルサレムからガザへくだる道」であり、そこは「寂しい道」であったと書かれます。
このエルサレムとガザという地名(都市名)は、皆さんご存じのように、今現在まさにその地で激しい、悲惨な対立と戦闘が行われている場所です。
そこで数多くの人たちが苦しんでいる、大切な命が失われていることが伝えられています。
憎しみの連鎖、対立が終わり、大切な命が守られますようにと、私たちはあきらめずに、祈り続けたいと願います。
フィリポは主に示されて、その時エルサレムからガザへと続く、その“寂しい道”へ進むようにと示されました。
寂しい道ですから、そこは、あまり人が行きたがらないような道、人気のない寂(さび)れた道(場所)であったのでしょう。
フィリポも本心としては、そのような寂しい道へはできれば行きたくなかったかもしれません。しかし彼は主(神)の声に聞き従いました。
私たちも、自分の進むべき道が、神によって示されたその道が、自分にとってはあまり好ましくない、嬉しくない場所であるという時があるかもしれません。
しかし、もし神の示しが与えられたのであれば、その方向(道)へと進んで行くことができる信仰者でありたいと私たちは願います。
なぜなら、その先には、私たちが考える以上の、あるいは想像さえできなかった、すばらしい出会いや神がご用意してくださった出来事が待っているかもしれないからです。
今日の箇所で起きていることは、まさにそのような一つの出会いでした。
エチオピアの女王カンダケの高官(王様に仕える高い地位の人)で、女王の全財産を管理していたというエチオピア人の宦官が登場します。
「宦官」は、通常は去勢された男性で、当時の王室に仕える高官のことでした。
この人は女王の全財産を管理していたといいますから、王国の財務大臣と言ってよいでしょう。それは相当高い地位であると言えます。
そのような高い地位の人も、また彼はエチオピア人であって、ユダヤ人から見れば外国人であり異邦人であった彼も、エルサレムに真の神を礼拝に来ていたのです。
どれほど高い地位にあっても、どれほど社会的な地位や名声があっても、真の神を求める心が、この人には与えられていたのです。
その宦官がエルサレムでの礼拝を終えて、馬車に乗って国へ帰るところでした。そして彼は馬車の中で、イザヤ書(旧約聖書の中の一つの書)を朗読していました。
29節によれば、そこで“霊”がフィリポに言いました。「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」。そしてフィリポが走り寄ると、その宦官がイザヤ書を朗読しているのが聞こえました。
フィリポはそこで、その宦官に尋ねます。“読んでいることがお分かりになりますか?”
フィリポが言ったことは、聞きようによっては、ずいぶん失礼な言い方です。
それは「随分熱心に聖書を読んでいるようですが、あなたはその内容が分かるのですか?」という質問だからです。
しかしフィリポは、その宦官がイザヤ書を朗読している様子から、彼が神の言葉を熱心に求め、神のメッセージをそこから聞きたいと本当に願っている、その思いを感じることができたのです。
そこでフィリポは、まさに“今が時だ”と直感して、「読んでいることがお分かりになりますか」と問いかけることで、神の言葉を伝える(神の言葉を分かち合う)機会を、そこでしっかりと捉えたのです。
宦官はこう答えました。「手引きしてくれる人がいなければ、どうしてわかりましょう
宦官のこの答えは非常に正直な答えです。彼は、“自分だけでは、ここ(聖書)に書かれていることの意味は分かりません”と告白しているからです。
分からないことを分からないと認めることは、私たちにとってなかなか難しいと思います。私たちにはプライド(見栄)があるからです。
プライドが邪魔をして、“わたしはできない”、“わたしは知らない”と言えない、(言いたくない)ことが私たちにはないでしょうか。
しかし、実際私たちは多くのこと(ほとんどのこと)を知りません。ほとんどの大事な事を自分は知らない、と認めて、謙虚に他者から教えてもらうということはとても大切です。
そのよう意味で、今日の箇所で、フィリポと宦官は、非常に率直な、お互いに心を開き合った会話(対話)をしています。このような対話が、私たちにもとても大切です。
聖書の言葉は自分一人でも読むことができます。
しかしそれと同時に、他の信仰者とも共に聖書を読み、その内容を互いに教え合い、他者の理解や受け止め方をも聞くときに、自分だけで読んでいては決して分からない(気づかない)、聖書の御言葉の深い意味を私たちは知ることができます。
聖書の言葉を共に聞き、教え合う、それを喜ぶ、成熟した信仰者として私たちひとり一人が、教会で成長していこうではありませんか。
フィリポは、その宦官が読んでいたイザヤ書53章の言葉から説明して、イエス・キリストについての福音を告げ知らせました。
イザヤ書53章のその箇所には、次のように書かれていました(今日の32~33節です)
「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。
33卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」
旧約聖書「イザヤ書」のこの箇所は、キリストがどのようにして人の罪を背負い、十字架にかけられるのか、キリストが何の抵抗もせずに、ただ黙ってその使命をお受けになるのか、ということが預言されている箇所です。
フィリポは、イザヤ書のこの預言の言葉が、イエス・キリストによって実現した、キリストは確かに世に来られて、そして人の罪を背負い十字架で死んだ、ということを、宦官に説明したのです。
聖書の言葉は旧約,新約を通して、イエス・キリストを指し示しています。
教会で宣教者(牧師)を通して語られるメッセージも、その土台は聖書であり、その主題はイエス・キリストです。
説教者そして伝道者としての私の切なる願いは、毎週の礼拝とそこで語られる聖書のメッセージを通して、皆さんがイエス・キリストに新しく出会われる、ということです。
礼拝を終えて教会を後にするときに、皆さんお一人お一人が、“今日の聖書の言葉を通してイエス様にお会いした”と思っていただきたいと私は願っています。
フィリポと宦官が、イエス・キリストの福音を分かち合いながら進んでいくと、彼らは水のある所にきました(36節)。
そこは“寂しい道”であって、“寂しい道”とは、“荒野”のような場所を意味すると言われます。荒野ですから、そこには水が非常に乏しかったと考えられます。
普通なら水を見つけることが難しい場所で、イエス・キリストの福音を分かちあっていたフィリポと宦官は、水がある場所に来た、というのです。
そこで宦官は言いました。
宦官は、“今がその時だ”、“聖書に書かれていることが今私は分かった。それはキリストの恵みなのだ”と信じたのです。
しかもそこには水がありました。“今こそ私がキリストを信じ、その証として洗礼(バプテスマ)を受ける時なのだ”、という確信が宦官には与えられました。
この二人の不思議な出会いと、彼らが進んでいたその道に、通常なら水を見つけることが難しい場所に水のある所を見つけた、という事実は、それらがいずれも神の(聖霊の)導きであったことを示しています。
フィリポとエチオピアの宦官とを、今日の場面で導いたのは、神の霊である聖霊でした。人同士が出会うとは不思議な出来事です。そこにはやはり神の采配があると、私たちは信じることができます。
私たちは、こうして教会で毎週礼拝をしています。こうしていつも共に神の御言葉を聞いています。
当たり前のように思えるこの出来事(私たちが共にする礼拝)も、やはりそれは神の霊の導きによって実現している、恵みの出来事(奇跡の出来事)と言ってよいと私は信じます。
私たちは、神の御言葉の恵みの計り知れなさを認め、感謝をし、御言葉を聞き、御言葉を共に分かち合うたびごとに、礼拝の度ごとにイエス様と新たに出会わせていただきましょう。
そしてキリストを信じ、新たに生きるという決心を、わたしたちはしていこうではありませんか。
前奏
招詞 詩編96篇3節
賛美 新生讃美歌61番 さわやかな朝となり
主の祈り
祈りの時
献金
聖句 使徒言行録8章26~40節
祈祷
宣教 「読んでいることがお分かりになりますか」
祈祷
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所で、主の天使がフィリポに現われ、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへくだる道(寂しい道)に行け」と言いました。
フィリポは、キリストの伝道者であり、もともとはエルサレムの教会の中で発生した問題である「食事の公平な分配」という働きに仕えるために選ばれた7人のうちの一人でした。
その時代は今から約2000年前です。それは、イエス・キリストが十字架につけられて死に、そして復活し、天へと昇って行かれた後でした。
イエス様は今や人としてこの地上にお住まいにはならなくなりました。イエス様は弟子たちとは、肉体をもった人間としてはもう共にいなくなったのです。
しかし、神の霊である聖霊、イエス様が“あなたたちに私が送る”と約束なさった助け主である聖霊を弟子たちは受けました。
聖霊を受けた弟子たちによって、神の福音(イエス・キリストの福音)が、それから多くの人々に伝えられるようになっていきました。
現在も、私たちキリスト教会と、教会に連なる一人ひとりのキリスト者が、イエス・キリストの福音伝道の担い手として、その働きを続けています。
キリストを信じ、キリストの福音によって生かされて、キリストの福音を伝える働きに仕えることができるのは、私たちにとって大きな喜びです。
私たちは十字架と復活のイエス・キリストの恵みによって生かされています。
そのことを信じ喜ぶ私たちは、その嬉しい(喜びの)知らせを他者に知らせる働きにも、喜びをもって仕えていきたいと願います。
最初に申し上げましたように、今日の箇所でフィリポは主の天使の声を聞きます。主の天使とは神のメッセージを人に伝える存在です。
神を信じるとは、ただ頭の中で知的に神の存在を認めて信じる、ということだけではありません。
神を信じるとは、神の声に従って、神が示す道を進むということです。
しかし、フィリポにははっきりと主の(天使の)声が聞こえましたが、今の私たちに神の声がはっきりと耳で聞こえるということは、(全くないことはないとしても)通常はないことだと私は思います。
しかし、神の示す道を求めて、私たちが祈り、聖書の言葉の中にその答えを求める時、神はその御声を私たちに伝えてくださいます。
また、私たちが、信仰の友、信仰の家族と共に祈り、神が示す道を一緒に求める時、行くべき道が示されることがあります。
ですから私たちは、信仰の共同体の一員であるということが、とても大切なのです。
信仰の共同体の一員となり、共に祈り合える信仰の家族として、神が語る声を求めて、共に祈ることができることは、私たちにとって大きな喜びです。
そのような信仰共同体である、私たちの教会を私たちは愛し、大切にしてきたいと願います。
フィリポに今日の箇所で示された道は、「エルサレムからガザへくだる道」であり、そこは「寂しい道」であったと書かれます。
このエルサレムとガザという地名(都市名)は、皆さんご存じのように、今現在まさにその地で激しい、悲惨な対立と戦闘が行われている場所です。
そこで数多くの人たちが苦しんでいる、大切な命が失われていることが伝えられています。
憎しみの連鎖、対立が終わり、大切な命が守られますようにと、私たちはあきらめずに、祈り続けたいと願います。
フィリポは主に示されて、その時エルサレムからガザへと続く、その“寂しい道”へ進むようにと示されました。
寂しい道ですから、そこは、あまり人が行きたがらないような道、人気のない寂(さび)れた道(場所)であったのでしょう。
フィリポも本心としては、そのような寂しい道へはできれば行きたくなかったかもしれません。しかし彼は主(神)の声に聞き従いました。
私たちも、自分の進むべき道が、神によって示されたその道が、自分にとってはあまり好ましくない、嬉しくない場所であるという時があるかもしれません。
しかし、もし神の示しが与えられたのであれば、その方向(道)へと進んで行くことができる信仰者でありたいと私たちは願います。
なぜなら、その先には、私たちが考える以上の、あるいは想像さえできなかった、すばらしい出会いや神がご用意してくださった出来事が待っているかもしれないからです。
今日の箇所で起きていることは、まさにそのような一つの出会いでした。
エチオピアの女王カンダケの高官(王様に仕える高い地位の人)で、女王の全財産を管理していたというエチオピア人の宦官が登場します。
「宦官」は、通常は去勢された男性で、当時の王室に仕える高官のことでした。
この人は女王の全財産を管理していたといいますから、王国の財務大臣と言ってよいでしょう。それは相当高い地位であると言えます。
そのような高い地位の人も、また彼はエチオピア人であって、ユダヤ人から見れば外国人であり異邦人であった彼も、エルサレムに真の神を礼拝に来ていたのです。
どれほど高い地位にあっても、どれほど社会的な地位や名声があっても、真の神を求める心が、この人には与えられていたのです。
その宦官がエルサレムでの礼拝を終えて、馬車に乗って国へ帰るところでした。そして彼は馬車の中で、イザヤ書(旧約聖書の中の一つの書)を朗読していました。
29節によれば、そこで“霊”がフィリポに言いました。「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」。そしてフィリポが走り寄ると、その宦官がイザヤ書を朗読しているのが聞こえました。
フィリポはそこで、その宦官に尋ねます。“読んでいることがお分かりになりますか?”
フィリポが言ったことは、聞きようによっては、ずいぶん失礼な言い方です。
それは「随分熱心に聖書を読んでいるようですが、あなたはその内容が分かるのですか?」という質問だからです。
しかしフィリポは、その宦官がイザヤ書を朗読している様子から、彼が神の言葉を熱心に求め、神のメッセージをそこから聞きたいと本当に願っている、その思いを感じることができたのです。
そこでフィリポは、まさに“今が時だ”と直感して、「読んでいることがお分かりになりますか」と問いかけることで、神の言葉を伝える(神の言葉を分かち合う)機会を、そこでしっかりと捉えたのです。
宦官はこう答えました。「手引きしてくれる人がいなければ、どうしてわかりましょう
宦官のこの答えは非常に正直な答えです。彼は、“自分だけでは、ここ(聖書)に書かれていることの意味は分かりません”と告白しているからです。
分からないことを分からないと認めることは、私たちにとってなかなか難しいと思います。私たちにはプライド(見栄)があるからです。
プライドが邪魔をして、“わたしはできない”、“わたしは知らない”と言えない、(言いたくない)ことが私たちにはないでしょうか。
しかし、実際私たちは多くのこと(ほとんどのこと)を知りません。ほとんどの大事な事を自分は知らない、と認めて、謙虚に他者から教えてもらうということはとても大切です。
そのよう意味で、今日の箇所で、フィリポと宦官は、非常に率直な、お互いに心を開き合った会話(対話)をしています。このような対話が、私たちにもとても大切です。
聖書の言葉は自分一人でも読むことができます。
しかしそれと同時に、他の信仰者とも共に聖書を読み、その内容を互いに教え合い、他者の理解や受け止め方をも聞くときに、自分だけで読んでいては決して分からない(気づかない)、聖書の御言葉の深い意味を私たちは知ることができます。
聖書の言葉を共に聞き、教え合う、それを喜ぶ、成熟した信仰者として私たちひとり一人が、教会で成長していこうではありませんか。
フィリポは、その宦官が読んでいたイザヤ書53章の言葉から説明して、イエス・キリストについての福音を告げ知らせました。
イザヤ書53章のその箇所には、次のように書かれていました(今日の32~33節です)
「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。
33卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」
旧約聖書「イザヤ書」のこの箇所は、キリストがどのようにして人の罪を背負い、十字架にかけられるのか、キリストが何の抵抗もせずに、ただ黙ってその使命をお受けになるのか、ということが預言されている箇所です。
フィリポは、イザヤ書のこの預言の言葉が、イエス・キリストによって実現した、キリストは確かに世に来られて、そして人の罪を背負い十字架で死んだ、ということを、宦官に説明したのです。
聖書の言葉は旧約,新約を通して、イエス・キリストを指し示しています。
教会で宣教者(牧師)を通して語られるメッセージも、その土台は聖書であり、その主題はイエス・キリストです。
説教者そして伝道者としての私の切なる願いは、毎週の礼拝とそこで語られる聖書のメッセージを通して、皆さんがイエス・キリストに新しく出会われる、ということです。
礼拝を終えて教会を後にするときに、皆さんお一人お一人が、“今日の聖書の言葉を通してイエス様にお会いした”と思っていただきたいと私は願っています。
フィリポと宦官が、イエス・キリストの福音を分かち合いながら進んでいくと、彼らは水のある所にきました(36節)。
そこは“寂しい道”であって、“寂しい道”とは、“荒野”のような場所を意味すると言われます。荒野ですから、そこには水が非常に乏しかったと考えられます。
普通なら水を見つけることが難しい場所で、イエス・キリストの福音を分かちあっていたフィリポと宦官は、水がある場所に来た、というのです。
そこで宦官は言いました。
宦官は、“今がその時だ”、“聖書に書かれていることが今私は分かった。それはキリストの恵みなのだ”と信じたのです。
しかもそこには水がありました。“今こそ私がキリストを信じ、その証として洗礼(バプテスマ)を受ける時なのだ”、という確信が宦官には与えられました。
この二人の不思議な出会いと、彼らが進んでいたその道に、通常なら水を見つけることが難しい場所に水のある所を見つけた、という事実は、それらがいずれも神の(聖霊の)導きであったことを示しています。
フィリポとエチオピアの宦官とを、今日の場面で導いたのは、神の霊である聖霊でした。人同士が出会うとは不思議な出来事です。そこにはやはり神の采配があると、私たちは信じることができます。
私たちは、こうして教会で毎週礼拝をしています。こうしていつも共に神の御言葉を聞いています。
当たり前のように思えるこの出来事(私たちが共にする礼拝)も、やはりそれは神の霊の導きによって実現している、恵みの出来事(奇跡の出来事)と言ってよいと私は信じます。
私たちは、神の御言葉の恵みの計り知れなさを認め、感謝をし、御言葉を聞き、御言葉を共に分かち合うたびごとに、礼拝の度ごとにイエス様と新たに出会わせていただきましょう。
そしてキリストを信じ、新たに生きるという決心を、わたしたちはしていこうではありませんか。
2025年10月25日土曜日
2025年10月26日 主日礼拝宣教
前奏
招詞 詩編40篇6節
賛美 新生讃美歌 650番 喜びて主に仕えよ
主の祈り
賛美 新生讃美歌146番 み栄えとみ座を去り
主の晩餐
献金
聖句 使徒言行録8章1~25節
祈祷
宣教 「サマリアでの宣教」
祈祷
賛美 新生讃美歌549番 思い悩み苦しむ者よ
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所は「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた And Saul approved of
殺害されたステファノとは、キリスト教で最初の殉教者と言われた、ステファノのことです。
今日の箇所の前の使徒言行録第7章で、ステファノが、ユダヤの最高法院(裁判所)で神を冒瀆したという容疑で尋問された場面が描かれていました。
ステファノは、自分のことを弁護するのではなく、聖書に伝えられた神の物語を語ることで、自分を訴える者たちに向かって、真の神についての知らせを宣べ伝えようとしました。
しかし結局ステファノは、怒りにかられた人々によって、石打の刑によって殺されてしまいました。
ステファノの最後の言葉は「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(7章60節)であったことを、先週私たちは礼拝メッセージの中で聞きました。
その時ステファノの殺害に賛成していたと書かれるサウロは、熱心なユダヤ教徒でした。彼は、イエス・キリストという人を救世主、主だと信じ宣教する者たちを憎み、激しく迫害していました。
サウロは後にパウロという名前になります。パウロは、復活のイエス・キリストに出会うことで、劇的に回心して、キリストの迫害者から大転換して、キリストの熱心な伝道者になりました。
そのパウロが、ステファノの殺害に賛成していた、ということを聖書ははっきりと記すのです。
それによって、いかなる人間も完全に清く、正しく、罪を犯したことがない者はいない、ということを聖書は伝えるのです。
聖書は、パウロをはじめ、いかなる人も英雄的な人物に描いたりは決してしないのです。
全ての人が弱さ、欠点、そして自分では決して消すことのできない罪を抱えている、という真実を聖書は一貫して伝えています。
私たち人が抱えるそのような弱さ、欠点を担い、そして罪を赦すために、一人の完全に清いお方、神の子であるイエス・キリストが世に来てくださいました。
そしてイエス様が十字架の上で私たちの救いを完成させてくださった、と聖書は伝えるのです。
サウロ(パウロ)は、ステファノが、自分に石を投げつける者たちに向かって「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んでいたのを、傍で聞いていました。
サウロがステファノのその声をどんな思いで聞いていたのかは、聖書には書かれていないので、私たちが想像するしかありません。
サウロは、ひょっとしたらステファノのその言葉(叫び)に心が触れられる思いがしたかもしれません。あるいは、頑なに、ステファノへの憎しみをただ募らせていたのかもしれません。
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言うステファノの叫びは、イエス様が今も私たちのことを、このように天の父なる神に向かって祈ってくださっている叫びの言葉でもあります。
私たちは、イエス様がそのように私たちのために祈ってくださっている、私たちの罪を負ってくださっていることを覚えて感謝し、神の言葉を聞き続け、神に聞き従って生きる決意を新たにしたいと願います。
今日の箇所(8章1節後半)で、「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」と書かれています。
ステファノの処刑がきっかけとなったのでしょうか。エルサレムの教会(キリストを信じる者たちの集まり)に大迫害が起きたのです。
「使徒たちのほかは皆」ユダヤとサマリアの地方に散らされていきました。使徒たち(キリストの弟子の中心的な人たち)はエルサレムに留まったという理由については、よくわかりません。
エルサレムはイエス様が十字架にかけられて殺された場所であり、そして復活のイエス様が弟子たちに現われた場所でした。
エルサレムは、信仰の中心地と言ってよい場所でした。ですから、多くのキリスト信者たちが各地へ散らされていっても、核となる使徒たち(信仰のリーダーたち)は、その信仰の中心地に留まり続けたのかもしれません。
散らされていった人たちが、いずれまた戻ってくることができる場所としてのエルサレムに、使徒たちは留まり続けたのかもしれません。
今の私たちの教会も、私たちが戻ってくることができる信仰の中心地としての役割、責任を担っています。
私たちが教会を守るのではなく、教会を守り導いてくださるのは神様です。
神様に願い頼りつつ、私たちに与えられた信仰の場所、信仰の家族が集う場所である教会を私たちは大切にしていきたいと願います。
4節以降を読みますと、人々は迫害のために散らされていきましたが、彼らは「福音を告げ知らせながら」巡り歩きました。
迫害によって人々は散らされていきましたが、結果として、そのことがキリストの福音が遠くの地域や国々へも伝えられていくきっかけとなったのです。
5節以降によれば、フィリポという人がサマリアの町に下って、そこでキリストを宣べ伝えました。
フィリポがサマリアの町へ行き、そこでキリストを宣べ伝えて、群衆が彼の行うしるし(奇跡)を見て、彼の話を聞いていた、というのは実は驚くべきことでした。
なぜなら、ユダヤ人たちにとって、サマリアという地域は、かつての北イスラエル王国であり、アッシリア帝国に滅ぼされ、そしてそこへ移住してきた外国人(異邦人)たちとの混血が進んだ地域であったからです。
民族の純潔を重んじるユダヤ人たちにとって、異邦人と混血したサマリアの人たちは、蔑みの対象でした。
迫害をきっかけとして、ユダヤ人たちとは反目しあっていたサマリア人が住む地域へとイエス・キリストの知らせが広がって行ったとは、これもまた神様のなさる不思議な御業の一つでした。
9節以降で、シモンという人が登場します。この人は「魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた」という人でした。
この“魔術”というものがどのようなものであったのかは分かりません。
いずれにしてもそれは、人々を驚かせ、また人々が彼(シモン)に注目して、その魔術に心奪われるようなものでした。
シモンにとっては、「自分は魔術を行うことができる」ということが「自分は偉大だ」と思える根拠だったようです。
そして人々は、シモン自身の人格とか彼の内面よりも、彼の行う驚くべき魔術のほうに心を奪われていました。
つまりシモンは人々と、人格的な心が通いあう関係性は築けていなかったのではないでしょうか。
そのような意味で、魔術という外面的な条件でしか他者とつながることができず、またそれによってしか自分の価値が分からなかったシモンは、神の前に憐れむべき人であったと言えると私は思います。
フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを、サマリアの人々は信じました。
12~13節を見ますと、おそらく多くの人たちが信じ、洗礼(バプテスマ)を受けました。
そしてシモンも信じてバプテスマを受けて、フィリポにつき従って、フィリポによって行われるしるしや奇跡(悪霊の追い出しや、病気の癒し)を見て、驚いていた、と書かれています。
14節以降を見てみましょう。
エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペトロとヨハネの二人をそこへ行かせました。
エルサレムの使徒たちは、ペトロとヨハネの二人を代表としてサマリアへ派遣して、そこでサマリア人たちも神を信じたということを確かめさせようとしたのでしょう。
ペトロとヨハネの二人がサマリアに下って来て、そこで二人は人々が“聖霊を受けるようにと”その人々のために祈りました(15節)。
16-17節をお読みします。
16人々は主イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。
17ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
「人々は主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかった」という意味については、はっきりとは分かりません。
それは、サマリアの人々は”主イエスの名“という、いわば一つの知識に基づいて、人の考えによってバプテスマを受けたけれども、聖霊(神の霊)の導きによって、神様に心から悔い改める、心からの回心がまだなされていなかった、ということではないでしょうか。
ですからペトロとヨハネは、主イエスを信じる信仰が、聖霊(神の霊)に自分自身を委ねる、心からの回心を伴う信仰となるようにという願いで、彼らの上に手を置いて祈ったのです。
すると人々は聖霊を受けた、と書かれています(17節)
シモンはその様子を見ていました。そして何と彼は、使徒たちが手を置くと”霊“が与えられる様子を見て、お金を持って来て「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」と言いました。
それに対するペトロの言葉の最初を見てみましょう。
「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。」
シモンは、お金と言う自分が持っているものと引き換えに、聖霊を授ける能力(人を驚かすことができる能力)が買える、と思っていました。
しかし、神様がくださる賜物は、私たちが持っている何かと引き換えに、頂くことができるものではありません。
神様は既に、私たちに多くの素晴らしい賜物を、無償で全て与えてくださっています。神を知るとは、私たちがそのことに気づく事です。
私たちが自分自身で得たもの、所有しているものなど(私たちはそう思っていても)、何もないのです。
シモンは、“お金で何でも買える”、あるいは“自分が持っているものを何か差し出して、それへの代価としてしか、何かを手に入れることは出来ない”と言う考えに完全に捕らわれてしまっていたのでしょう。
現在の私たちも、シモンのような考え方を持っていると、私は思わされました。
そんなシモンに、そして私たちに神は(ペトロの言葉を通して)言われます。
「あなたたちが持っているもの、手にしているものは、すべて主なる神である私からの賜物、無償の贈り物だ」、「あなたたちが自分で持っているもの、自分で得たものなど何もない」
神は言われます。「すべてを与えてくださる神を信じ、聖霊の導きを信じ、感謝し、神に信頼して生きていきなさい」
イエス・キリストの福音とは、神が私たちの救いのために、すべての代価、犠牲をご自分で払ってくださったという知らせです。
イエス様が十字架にかかられたとは、そのような知らせなのです。
すべてを頂いている、賜物として善きものを有り余るほど頂いていることを、信仰の目をもって私たちは認め、聖霊に導かれる幸いな日々を私たちは歩んでいきたいと願います。
前奏
招詞 詩編40篇6節
賛美 新生讃美歌 650番 喜びて主に仕えよ
主の祈り
賛美 新生讃美歌146番 み栄えとみ座を去り
主の晩餐
献金
聖句 使徒言行録8章1~25節
祈祷
宣教 「サマリアでの宣教」
祈祷
賛美 新生讃美歌549番 思い悩み苦しむ者よ
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所は「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた And Saul approved of
殺害されたステファノとは、キリスト教で最初の殉教者と言われた、ステファノのことです。
今日の箇所の前の使徒言行録第7章で、ステファノが、ユダヤの最高法院(裁判所)で神を冒瀆したという容疑で尋問された場面が描かれていました。
ステファノは、自分のことを弁護するのではなく、聖書に伝えられた神の物語を語ることで、自分を訴える者たちに向かって、真の神についての知らせを宣べ伝えようとしました。
しかし結局ステファノは、怒りにかられた人々によって、石打の刑によって殺されてしまいました。
ステファノの最後の言葉は「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(7章60節)であったことを、先週私たちは礼拝メッセージの中で聞きました。
その時ステファノの殺害に賛成していたと書かれるサウロは、熱心なユダヤ教徒でした。彼は、イエス・キリストという人を救世主、主だと信じ宣教する者たちを憎み、激しく迫害していました。
サウロは後にパウロという名前になります。パウロは、復活のイエス・キリストに出会うことで、劇的に回心して、キリストの迫害者から大転換して、キリストの熱心な伝道者になりました。
そのパウロが、ステファノの殺害に賛成していた、ということを聖書ははっきりと記すのです。
それによって、いかなる人間も完全に清く、正しく、罪を犯したことがない者はいない、ということを聖書は伝えるのです。
聖書は、パウロをはじめ、いかなる人も英雄的な人物に描いたりは決してしないのです。
全ての人が弱さ、欠点、そして自分では決して消すことのできない罪を抱えている、という真実を聖書は一貫して伝えています。
私たち人が抱えるそのような弱さ、欠点を担い、そして罪を赦すために、一人の完全に清いお方、神の子であるイエス・キリストが世に来てくださいました。
そしてイエス様が十字架の上で私たちの救いを完成させてくださった、と聖書は伝えるのです。
サウロ(パウロ)は、ステファノが、自分に石を投げつける者たちに向かって「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んでいたのを、傍で聞いていました。
サウロがステファノのその声をどんな思いで聞いていたのかは、聖書には書かれていないので、私たちが想像するしかありません。
サウロは、ひょっとしたらステファノのその言葉(叫び)に心が触れられる思いがしたかもしれません。あるいは、頑なに、ステファノへの憎しみをただ募らせていたのかもしれません。
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言うステファノの叫びは、イエス様が今も私たちのことを、このように天の父なる神に向かって祈ってくださっている叫びの言葉でもあります。
私たちは、イエス様がそのように私たちのために祈ってくださっている、私たちの罪を負ってくださっていることを覚えて感謝し、神の言葉を聞き続け、神に聞き従って生きる決意を新たにしたいと願います。
今日の箇所(8章1節後半)で、「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」と書かれています。
ステファノの処刑がきっかけとなったのでしょうか。エルサレムの教会(キリストを信じる者たちの集まり)に大迫害が起きたのです。
「使徒たちのほかは皆」ユダヤとサマリアの地方に散らされていきました。使徒たち(キリストの弟子の中心的な人たち)はエルサレムに留まったという理由については、よくわかりません。
エルサレムはイエス様が十字架にかけられて殺された場所であり、そして復活のイエス様が弟子たちに現われた場所でした。
エルサレムは、信仰の中心地と言ってよい場所でした。ですから、多くのキリスト信者たちが各地へ散らされていっても、核となる使徒たち(信仰のリーダーたち)は、その信仰の中心地に留まり続けたのかもしれません。
散らされていった人たちが、いずれまた戻ってくることができる場所としてのエルサレムに、使徒たちは留まり続けたのかもしれません。
今の私たちの教会も、私たちが戻ってくることができる信仰の中心地としての役割、責任を担っています。
私たちが教会を守るのではなく、教会を守り導いてくださるのは神様です。
神様に願い頼りつつ、私たちに与えられた信仰の場所、信仰の家族が集う場所である教会を私たちは大切にしていきたいと願います。
4節以降を読みますと、人々は迫害のために散らされていきましたが、彼らは「福音を告げ知らせながら」巡り歩きました。
迫害によって人々は散らされていきましたが、結果として、そのことがキリストの福音が遠くの地域や国々へも伝えられていくきっかけとなったのです。
5節以降によれば、フィリポという人がサマリアの町に下って、そこでキリストを宣べ伝えました。
フィリポがサマリアの町へ行き、そこでキリストを宣べ伝えて、群衆が彼の行うしるし(奇跡)を見て、彼の話を聞いていた、というのは実は驚くべきことでした。
なぜなら、ユダヤ人たちにとって、サマリアという地域は、かつての北イスラエル王国であり、アッシリア帝国に滅ぼされ、そしてそこへ移住してきた外国人(異邦人)たちとの混血が進んだ地域であったからです。
民族の純潔を重んじるユダヤ人たちにとって、異邦人と混血したサマリアの人たちは、蔑みの対象でした。
迫害をきっかけとして、ユダヤ人たちとは反目しあっていたサマリア人が住む地域へとイエス・キリストの知らせが広がって行ったとは、これもまた神様のなさる不思議な御業の一つでした。
9節以降で、シモンという人が登場します。この人は「魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた」という人でした。
この“魔術”というものがどのようなものであったのかは分かりません。
いずれにしてもそれは、人々を驚かせ、また人々が彼(シモン)に注目して、その魔術に心奪われるようなものでした。
シモンにとっては、「自分は魔術を行うことができる」ということが「自分は偉大だ」と思える根拠だったようです。
そして人々は、シモン自身の人格とか彼の内面よりも、彼の行う驚くべき魔術のほうに心を奪われていました。
つまりシモンは人々と、人格的な心が通いあう関係性は築けていなかったのではないでしょうか。
そのような意味で、魔術という外面的な条件でしか他者とつながることができず、またそれによってしか自分の価値が分からなかったシモンは、神の前に憐れむべき人であったと言えると私は思います。
フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを、サマリアの人々は信じました。
12~13節を見ますと、おそらく多くの人たちが信じ、洗礼(バプテスマ)を受けました。
そしてシモンも信じてバプテスマを受けて、フィリポにつき従って、フィリポによって行われるしるしや奇跡(悪霊の追い出しや、病気の癒し)を見て、驚いていた、と書かれています。
14節以降を見てみましょう。
エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペトロとヨハネの二人をそこへ行かせました。
エルサレムの使徒たちは、ペトロとヨハネの二人を代表としてサマリアへ派遣して、そこでサマリア人たちも神を信じたということを確かめさせようとしたのでしょう。
ペトロとヨハネの二人がサマリアに下って来て、そこで二人は人々が“聖霊を受けるようにと”その人々のために祈りました(15節)。
16-17節をお読みします。
16人々は主イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。
17ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
「人々は主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかった」という意味については、はっきりとは分かりません。
それは、サマリアの人々は”主イエスの名“という、いわば一つの知識に基づいて、人の考えによってバプテスマを受けたけれども、聖霊(神の霊)の導きによって、神様に心から悔い改める、心からの回心がまだなされていなかった、ということではないでしょうか。
ですからペトロとヨハネは、主イエスを信じる信仰が、聖霊(神の霊)に自分自身を委ねる、心からの回心を伴う信仰となるようにという願いで、彼らの上に手を置いて祈ったのです。
すると人々は聖霊を受けた、と書かれています(17節)
シモンはその様子を見ていました。そして何と彼は、使徒たちが手を置くと”霊“が与えられる様子を見て、お金を持って来て「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」と言いました。
それに対するペトロの言葉の最初を見てみましょう。
「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。」
シモンは、お金と言う自分が持っているものと引き換えに、聖霊を授ける能力(人を驚かすことができる能力)が買える、と思っていました。
しかし、神様がくださる賜物は、私たちが持っている何かと引き換えに、頂くことができるものではありません。
神様は既に、私たちに多くの素晴らしい賜物を、無償で全て与えてくださっています。神を知るとは、私たちがそのことに気づく事です。
私たちが自分自身で得たもの、所有しているものなど(私たちはそう思っていても)、何もないのです。
シモンは、“お金で何でも買える”、あるいは“自分が持っているものを何か差し出して、それへの代価としてしか、何かを手に入れることは出来ない”と言う考えに完全に捕らわれてしまっていたのでしょう。
現在の私たちも、シモンのような考え方を持っていると、私は思わされました。
そんなシモンに、そして私たちに神は(ペトロの言葉を通して)言われます。
「あなたたちが持っているもの、手にしているものは、すべて主なる神である私からの賜物、無償の贈り物だ」、「あなたたちが自分で持っているもの、自分で得たものなど何もない」
神は言われます。「すべてを与えてくださる神を信じ、聖霊の導きを信じ、感謝し、神に信頼して生きていきなさい」
イエス・キリストの福音とは、神が私たちの救いのために、すべての代価、犠牲をご自分で払ってくださったという知らせです。
イエス様が十字架にかかられたとは、そのような知らせなのです。
すべてを頂いている、賜物として善きものを有り余るほど頂いていることを、信仰の目をもって私たちは認め、聖霊に導かれる幸いな日々を私たちは歩んでいきたいと願います。
2025年10月18日土曜日
2025年10月19日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編31篇6節
賛美 新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
主の祈り
賛美 新生讃美歌146番 み栄えとみ座を去り
献金
聖句 使徒言行録7章51~60節
祈祷
宣教 「神の栄光を見上げて」
祈祷
賛美 新生讃美歌21番 栄光と賛美を
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内
新約聖書の中の『使徒言行録』の第7章で、ステファノと言うキリストの伝道者が、「神を冒瀆した」という理由で、ユダヤの最高法院(裁判所)で訴えられている場面の、最終箇所が、今日の聖書箇所です。
ステファノは、キリスト教徒として最初の殉教者、すなわち、キリストを信じ、キリストの教えを伝道したために迫害を受けて命を落とした(殺された)人と言われます。
今日の箇所で、ステファノは殉教します。人々(ユタヤ人たち)から石を投げられて、彼は死んでいきました。ステファノは、大変な痛み、苦しみの中で、悲惨に死んでいったと言えるでしょう。
今日の箇所で、ステファノが語った言葉、彼が死ぬ直前に語った言葉、そして彼のその時の姿から、神のメッセージを今日私たちは聞いていきましょう。
今日の最初の節の51節で、ステファノは自分のことを訴える人々(最高法院の議員たち)に向かって、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち」と言っています。
そして彼らに「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています」とステファノは続けて言います。聖霊とは神の霊であり、神様と同じ意味でここでは使われています。
「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない」とは、どういうことでしょうか。
割礼は、男性の包皮を切り取ることですが、それはイスラエル人たちにとって、とても重要な意味がありました。
割礼は、イスラエル民族の“信仰の父”と言われたアブラハムが、神から命じられたものでした。
旧約聖書『創世記』17章で、割礼に関する戒め(命令)をアブラハムが神から受け取ったことが書かれています。
アブラハムはその時神から「あなたは多くの国民の父となる。あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする」という約束を受けます。(創世記17章4~6節)
神はアブラハムを通して、イスラエルの民たちと永遠の契約を結ばれた、と創世記のその箇所では描かれます。
そして神はその時アブラハムに、イスラエルの民たちが神に選ばれた特別な人たちであることを表すしるしとして、生まれた男子に(生まれて八日目)に割礼をするように命じられました。
割礼は、イスラエル民族が神から特別に選ばれた民であること、彼らの祖先アブラハムを通して与えられた永遠の契約と祝福が彼らに与えられていることの、目に見えるしるしでした。
しかし、ステファノは言うのです。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。」
ステファノは、最高法院の議員たち(祭司や律法学者たち)の信仰の本質を指摘したのです。
割礼や、その他の宗教儀式や決まり事は、形の上ではしっかり守っていても、彼らの心はどうなbestowedのだ、とステファノは指摘したのです。
イスラエルの民たちの中には、特に祭司や律法学者たちのような特権的な地位を与えられた人たちの中には、割礼を受けている、すなわちイスラエル人(ユダヤ人)である、ということだけで、特別に選ばれた者としての誇りを持っていた人がいたのでしょう。
そんな彼らは、イスラエル民族以外の他の民族や異邦人たち、または同じイスラエル人でも、彼らと同様に宗教規則をしっかりと守ることができない者たちを見下すようになったのです。
しかし、割礼も、その他の宗教的規則なども、それには心の中で神を信じ、神の教えに従って実際に生きるということ、心の中での信仰が伴わなければなりません。
形ばかりの割礼は意味がない、ということは、新約聖書時代よりもずっと前の旧約聖書の時代(預言者の時代)から、すでに何度も言われていました。
旧約聖書『エレミヤ書』6章10節には次のように、神の言葉として書かれています。
誰に向かって語り、警告すれば/聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で/耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮り、受け入れようとしない。
形ばかりの宗教規則は守っているようでも、心と耳を主なる神に向かって開いていない、自分を神の前に低くしていないので、聖霊の導きを受けることができないのです。
私たちは、何が神の御心か分からない、聖霊の導きがどのように与えられるのか分からない、という場合があります。
そのような時、それは自分自身の頑なな心が原因でないのか、心の耳を自分で閉じてしまって聖霊の声が聞こえないように、自分でしてしまっているのではないか、と点検をする必要があるかもしれません。
私たちは頑なな者です。私たちは自分の聞きたいことだけを聞き、見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じようとする者です。
そのような時、“かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人!”という、自分に向けられた声に、謙虚に耳を傾ける者でありたいと、私たちは願います。
そして私たちは神に、私たちの心と、心の目と耳を開いてくださるように、厳しくも真実である神の言葉に耳を傾け、神から離れた自らの罪に気づき、神に立ちかえらせてくださるようにと、祈りたいと願います。
ステファノは、議員たちに向かって“あなたがたの先祖が多くの預言者たちを迫害したように、あなたがたも、救い主(52節の”正しい方 the Righteous One)を殺してしまった、と言います。
“あなた方は上辺だけの信仰があり、心の中では神の霊である聖霊にいつも逆らっている。あなたがたは、真の救い主を殺した”と言われて、穏やかでいられる人がいるでしょうか。
ステファノにそのように言われた人々は激しく怒りました。彼らはステファノに向かって歯ぎしりしたと書かれています(54節)。彼らはまるで猛獣のように、ステファノに向かおうとしたのです。
人々(ユダヤの議員たち、権力者たち)の怒りは頂点に達していました。それに対してステファノはどのように反応したのでしょうか。
55節~56節お読みします。
55ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
56天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
恐ろしいほどの人間の怒り、敵意、悪意、殺意に対してさえも、私たちは神の霊である聖霊で満たされることが可能だ、ということをステファノの姿は教えてくれます。
そして、自分に向けられた敵意や怒りに対して敵意、怒りをもってやり返すのではなく、ステファノの目は天を見つめました。
ステファノは天を見つめ(見上げ)、そこに神の栄光と神の右にたっておられるイエス(イエス・キリスト)を見たのです。
この地上では、人同士が悪意をぶつけ合って憎み合ったり、いがみ合ったりしている。人や国同士が深刻に互いを傷つけあっていても、私たちが信仰の目をもって天を見上げるならば、そこには神のご栄光と神の右に立っておられるイエス様がおられることが分かります。
私たちのために十字架にかかり、そして今は天の父なる神の右に座っておられ、私たちのためにとりなし(仲介)の祈りを捧げてくださっているイエス様がおられるのです。
ステファノを訴える人たちは大声で叫びながら耳を手でふさぎ(ステファノの声を聞こうとせず)、ステファノに襲いかかり、彼を都の外に引きずり出しました。
58節には、そこにサウロという若者がいて、人々が自分の着ているものをサウロの足元においた、と書かれています。
サウロは後のパウロです。パウロは最初は激しくクリスチャンを迫害していましたが、復活のイエス・キリストに出会った後、熱心なキリストの伝道者へと彼は変えられました。
ステファノが殉教するその場に、後にキリストのための大きな働きをすることになるサウロがいて、その場を目撃していたということは、サウロのそれからの生き方(信仰)に大きな影響を与えた、と言えます。
ステファノは死にながらも、多くの人々に、サウロ(パウロ)に、信仰のかけがえのない遺産を残した、と言ってもよいと思います。
ステファノが、人々から石を投げられながら、死ぬ直前に言った二つの言葉、今日の箇所に記されているそれらの言葉を聞いてみましょう。
「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」
ステファノは、最後の最後まで、彼の魂を受け止めてくださる方がおられることを確信していました。それは主イエス・キリストです。
たとえ自分がどれほど大変な、悲惨な、苦しい状況の中におかれても、自分の事を決して離すことなく、愛し、また受け止めてくださるイエス様がおられることをステファノは確信していたのです。
その信仰の確信は、今の私たちにも与えられています。私たちが心と耳を開き、主イエス・キリストを受け入れるならば、イエス様はステファノの魂を受けてくださったように、私たちの魂をも受けてくださいます。
そしてステファノは「この罪を彼らに負わせないでください」と最後に言うことができました。自分を訴え、自分に石を投げ続けて自分を殺す人々のことを、彼はこのように祈ることができたのです。
それは、イエス様が十字架の上から言われた言葉でもありました。イエス様は鞭打たれ、十字架に釘付けにされ、十字架にかけられた時、次のようにおっしゃいました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)
神の子であるイエス・キリストはそのように言って、人のために、私たちのために天の父なる神に願ってくださいました。
では、人間であるステファノが、なぜそのように祈ることができたのでしょうか。「この罪を彼らに負わせないでください」とステファノはなぜ最後に祈ることができたのでしょうか。
それはステファノ自身が、自分がイエス様によって罪赦されたことを確信し、そのことへの感謝で溢れていたからだと、私は信じます。
キリストによって罪赦された、だから私は生かされている、だから私は神によって深く愛されている、と言う確信がステファノに最後にそのように、他者のために祈ることができるようにさせたのです。
そのような神様のご愛、イエス様の赦しの力が私たちにも与えられます。
私たちは、キリスト教最初の殉教者ステファノの生き方と彼の言葉から私たちに伝えられる、神の愛と赦しの力を頂いて、今を生きる信仰者としての自分自身を振り返ろうではありませんか。
前奏
招詞 詩編31篇6節
賛美 新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
主の祈り
賛美 新生讃美歌146番 み栄えとみ座を去り
献金
聖句 使徒言行録7章51~60節
祈祷
宣教 「神の栄光を見上げて」
祈祷
賛美 新生讃美歌21番 栄光と賛美を
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内
新約聖書の中の『使徒言行録』の第7章で、ステファノと言うキリストの伝道者が、「神を冒瀆した」という理由で、ユダヤの最高法院(裁判所)で訴えられている場面の、最終箇所が、今日の聖書箇所です。
ステファノは、キリスト教徒として最初の殉教者、すなわち、キリストを信じ、キリストの教えを伝道したために迫害を受けて命を落とした(殺された)人と言われます。
今日の箇所で、ステファノは殉教します。人々(ユタヤ人たち)から石を投げられて、彼は死んでいきました。ステファノは、大変な痛み、苦しみの中で、悲惨に死んでいったと言えるでしょう。
今日の箇所で、ステファノが語った言葉、彼が死ぬ直前に語った言葉、そして彼のその時の姿から、神のメッセージを今日私たちは聞いていきましょう。
今日の最初の節の51節で、ステファノは自分のことを訴える人々(最高法院の議員たち)に向かって、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち」と言っています。
そして彼らに「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています」とステファノは続けて言います。聖霊とは神の霊であり、神様と同じ意味でここでは使われています。
「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない」とは、どういうことでしょうか。
割礼は、男性の包皮を切り取ることですが、それはイスラエル人たちにとって、とても重要な意味がありました。
割礼は、イスラエル民族の“信仰の父”と言われたアブラハムが、神から命じられたものでした。
旧約聖書『創世記』17章で、割礼に関する戒め(命令)をアブラハムが神から受け取ったことが書かれています。
アブラハムはその時神から「あなたは多くの国民の父となる。あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする」という約束を受けます。(創世記17章4~6節)
神はアブラハムを通して、イスラエルの民たちと永遠の契約を結ばれた、と創世記のその箇所では描かれます。
そして神はその時アブラハムに、イスラエルの民たちが神に選ばれた特別な人たちであることを表すしるしとして、生まれた男子に(生まれて八日目)に割礼をするように命じられました。
割礼は、イスラエル民族が神から特別に選ばれた民であること、彼らの祖先アブラハムを通して与えられた永遠の契約と祝福が彼らに与えられていることの、目に見えるしるしでした。
しかし、ステファノは言うのです。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。」
ステファノは、最高法院の議員たち(祭司や律法学者たち)の信仰の本質を指摘したのです。
割礼や、その他の宗教儀式や決まり事は、形の上ではしっかり守っていても、彼らの心はどうなbestowedのだ、とステファノは指摘したのです。
イスラエルの民たちの中には、特に祭司や律法学者たちのような特権的な地位を与えられた人たちの中には、割礼を受けている、すなわちイスラエル人(ユダヤ人)である、ということだけで、特別に選ばれた者としての誇りを持っていた人がいたのでしょう。
そんな彼らは、イスラエル民族以外の他の民族や異邦人たち、または同じイスラエル人でも、彼らと同様に宗教規則をしっかりと守ることができない者たちを見下すようになったのです。
しかし、割礼も、その他の宗教的規則なども、それには心の中で神を信じ、神の教えに従って実際に生きるということ、心の中での信仰が伴わなければなりません。
形ばかりの割礼は意味がない、ということは、新約聖書時代よりもずっと前の旧約聖書の時代(預言者の時代)から、すでに何度も言われていました。
旧約聖書『エレミヤ書』6章10節には次のように、神の言葉として書かれています。
誰に向かって語り、警告すれば/聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で/耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮り、受け入れようとしない。
形ばかりの宗教規則は守っているようでも、心と耳を主なる神に向かって開いていない、自分を神の前に低くしていないので、聖霊の導きを受けることができないのです。
私たちは、何が神の御心か分からない、聖霊の導きがどのように与えられるのか分からない、という場合があります。
そのような時、それは自分自身の頑なな心が原因でないのか、心の耳を自分で閉じてしまって聖霊の声が聞こえないように、自分でしてしまっているのではないか、と点検をする必要があるかもしれません。
私たちは頑なな者です。私たちは自分の聞きたいことだけを聞き、見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じようとする者です。
そのような時、“かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人!”という、自分に向けられた声に、謙虚に耳を傾ける者でありたいと、私たちは願います。
そして私たちは神に、私たちの心と、心の目と耳を開いてくださるように、厳しくも真実である神の言葉に耳を傾け、神から離れた自らの罪に気づき、神に立ちかえらせてくださるようにと、祈りたいと願います。
ステファノは、議員たちに向かって“あなたがたの先祖が多くの預言者たちを迫害したように、あなたがたも、救い主(52節の”正しい方 the Righteous One)を殺してしまった、と言います。
“あなた方は上辺だけの信仰があり、心の中では神の霊である聖霊にいつも逆らっている。あなたがたは、真の救い主を殺した”と言われて、穏やかでいられる人がいるでしょうか。
ステファノにそのように言われた人々は激しく怒りました。彼らはステファノに向かって歯ぎしりしたと書かれています(54節)。彼らはまるで猛獣のように、ステファノに向かおうとしたのです。
人々(ユダヤの議員たち、権力者たち)の怒りは頂点に達していました。それに対してステファノはどのように反応したのでしょうか。
55節~56節お読みします。
55ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
56天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
恐ろしいほどの人間の怒り、敵意、悪意、殺意に対してさえも、私たちは神の霊である聖霊で満たされることが可能だ、ということをステファノの姿は教えてくれます。
そして、自分に向けられた敵意や怒りに対して敵意、怒りをもってやり返すのではなく、ステファノの目は天を見つめました。
ステファノは天を見つめ(見上げ)、そこに神の栄光と神の右にたっておられるイエス(イエス・キリスト)を見たのです。
この地上では、人同士が悪意をぶつけ合って憎み合ったり、いがみ合ったりしている。人や国同士が深刻に互いを傷つけあっていても、私たちが信仰の目をもって天を見上げるならば、そこには神のご栄光と神の右に立っておられるイエス様がおられることが分かります。
私たちのために十字架にかかり、そして今は天の父なる神の右に座っておられ、私たちのためにとりなし(仲介)の祈りを捧げてくださっているイエス様がおられるのです。
ステファノを訴える人たちは大声で叫びながら耳を手でふさぎ(ステファノの声を聞こうとせず)、ステファノに襲いかかり、彼を都の外に引きずり出しました。
58節には、そこにサウロという若者がいて、人々が自分の着ているものをサウロの足元においた、と書かれています。
サウロは後のパウロです。パウロは最初は激しくクリスチャンを迫害していましたが、復活のイエス・キリストに出会った後、熱心なキリストの伝道者へと彼は変えられました。
ステファノが殉教するその場に、後にキリストのための大きな働きをすることになるサウロがいて、その場を目撃していたということは、サウロのそれからの生き方(信仰)に大きな影響を与えた、と言えます。
ステファノは死にながらも、多くの人々に、サウロ(パウロ)に、信仰のかけがえのない遺産を残した、と言ってもよいと思います。
ステファノが、人々から石を投げられながら、死ぬ直前に言った二つの言葉、今日の箇所に記されているそれらの言葉を聞いてみましょう。
「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」
ステファノは、最後の最後まで、彼の魂を受け止めてくださる方がおられることを確信していました。それは主イエス・キリストです。
たとえ自分がどれほど大変な、悲惨な、苦しい状況の中におかれても、自分の事を決して離すことなく、愛し、また受け止めてくださるイエス様がおられることをステファノは確信していたのです。
その信仰の確信は、今の私たちにも与えられています。私たちが心と耳を開き、主イエス・キリストを受け入れるならば、イエス様はステファノの魂を受けてくださったように、私たちの魂をも受けてくださいます。
そしてステファノは「この罪を彼らに負わせないでください」と最後に言うことができました。自分を訴え、自分に石を投げ続けて自分を殺す人々のことを、彼はこのように祈ることができたのです。
それは、イエス様が十字架の上から言われた言葉でもありました。イエス様は鞭打たれ、十字架に釘付けにされ、十字架にかけられた時、次のようにおっしゃいました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)
神の子であるイエス・キリストはそのように言って、人のために、私たちのために天の父なる神に願ってくださいました。
では、人間であるステファノが、なぜそのように祈ることができたのでしょうか。「この罪を彼らに負わせないでください」とステファノはなぜ最後に祈ることができたのでしょうか。
それはステファノ自身が、自分がイエス様によって罪赦されたことを確信し、そのことへの感謝で溢れていたからだと、私は信じます。
キリストによって罪赦された、だから私は生かされている、だから私は神によって深く愛されている、と言う確信がステファノに最後にそのように、他者のために祈ることができるようにさせたのです。
そのような神様のご愛、イエス様の赦しの力が私たちにも与えられます。
私たちは、キリスト教最初の殉教者ステファノの生き方と彼の言葉から私たちに伝えられる、神の愛と赦しの力を頂いて、今を生きる信仰者としての自分自身を振り返ろうではありませんか。
2025年10月11日土曜日
2025年10月12日 主日礼拝
前奏
招詞 レビ記18:5
賛美 新生讃美歌 278番 わが心は歌わん
主の祈り
賛美 新生讃美歌146番 み栄えとみ座を去り
献金
聖句 使徒言行録7章37~50節
祈祷
宣教 「命の言葉を受け、伝える」
祈祷
賛美 新生讃美歌521番 キリストには替えられません
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内
新約聖書の中の『使徒言行録』7章で、伝道者ステファノが、最高法院(裁判所)で「神を冒瀆している」という容疑を受けて、尋問されている場面を、私たちは礼拝の中で続けて読んでおります。
ステファノは、ユダヤ人にとって”信仰の父“と言われたアブラハムから始めて、神がいかにしてイスラエル民族を選び、彼らを通して神の救いを表してくださったかを宣べ伝えます。
今日の箇所では、ステファノは、イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から救い出したモーセに関する話を続けています。
今日の箇所の初めに、モーセの言葉として、ステファノが次のように言っています。
37このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』
モーセを通して、神は、“あなたがたのために、わたし(モーセ)のような預言者を神は立てられる”というメッセージをイスラエルの民たちに伝えました。
これは旧約聖書の『申命記』18章の中に記されている神の約束の言葉です。
ここで“わたし(モーセ)のような預言者”と言われるのは、モーセに続く他の旧約時代の預言者たちのことでもあります。
しかしイエス・キリストが既に人として世に来られ、人の罪の贖いのために十字架にかかって死んで復活した今、モーセによって言われたその“預言者”は、イエス・キリストのことだと、ここでステファノは意味しています。
神は、天地の造られるずっと前から、そしてアブラハムやモーセを通しても、“やがてイエス・キリストが来られ、神の言葉を伝える”、”イエス・キリストが世に来られ、人の罪を贖う“ということを伝え続けておられたと、私たちは聖書を通して信じることができます。
ステファノは、自分のことを訴えるユダヤ人たちに、“キリストは、モーセによって言われていた預言者であり、そして救い主なのだ”と何とか伝えたくて、モーセの言葉を引用したのです。
今日の38節で次のように書かれています。
38この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。
ここで“この人” (He)と言われるのは、モーセのことです。しかしここでも、モーセの姿を通して、やがて来られるイエス・キリストと、キリストがしてくださることが予言されています。
それは“命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれる”ということです。モーセのような預言者は神の言葉を、人々を代表して受けて、それを人々に伝えました。
そのような意味で、今の牧師も預言者としての役目を持っています。しかし、人間の預言者は完全ではありません。人間の預言者は間違いもしますし、正しくないことを言ってしまうこともあります。
しかし、イエス・キリストは完全な預言者であり、決して間違うことなく完全に正しく、神の命の言葉を人々に伝えてくださいました。イエス・キリストご自身が、神の命の言葉そのものであるお方でした。
“命の言葉”とは、私たちを真の意味で生かす、私たちに命を与える言葉、という意味です。
言葉には本当に力があります。人間が考え出したような言葉でも、その言葉が人を大いに励ましたり、慰めたりする力を持ち得ます。
まして、神の言葉は、私たちにとって生きる命そのものである、と言ってもよいほどの力を持ちます。私たちは神の言葉によって生きるのです。
モーセの働きで最重要なことは、“その命の言葉を受け、人々に伝える”ということでした。命の言葉、すなわち神の言葉を神から授かって、モーセはそれをイスラエルの民たちに伝えたのです。
命の言葉である聖書の言葉は、それを受けて信じた人によって、また他の人たちに伝えられていきます。
私たちを生かす命の言葉は、人間が考え出したり造りだしたりしたものではありません。そんなことは不可能です。神の命の言葉は、賜物として神から私たちに与えられるものです。
そしてその命の言葉は、イエス・キリストによって完全な形となって世に伝えられた後、人から人へと伝えられることによって広まっていくようになりました。
命の言葉を受けて伝えること、それは神を信じ神によって罪赦され、神によって救われた者、教会の使命です。
人を生かす命の言葉を私たち自身が豊かに受けて、それを人にも伝えていく、そのための器として私たちは用いられたいと、私たちは願います。
39節で、先祖たち(モーセの時代のイスラエルの民たち)が、モーセに従おうとせず、モーセの兄のアロンに次のように言ったということが記されます。
39節~40節をお読みします。
39けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、
40アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』
これは、旧約聖書『出エジプト記』の32章に書かれている話が元になっています。
そこでは、モーセがシナイ山に登って、そこで神から戒めの言葉を受けていました。
モーセは神から受け取った戒めの言葉をイスラエルの民たちに伝えるように、神から命じられました。
モーセはその時40日間シナイ山にいた、と言われます。そしてイスラエルの民たちは、モーセがなかなか降りてこないので、だんだんモーセを待っていられなくなりました。
忍耐を失った民たちは、モーセの兄であるアロンに、「モーセはどうなったか分からないから、私たちのために神々を造ってください」と願ったのです。
アロンはそこで、イスラエルの民たちに応えて、金の子牛の像を造って、彼らはそれを神として拝みました。
その時イスラエルの民たちが、モーセが山から降りてくるのを待っていられなくなって、神ではないもの(人間の手が作り出したもの)を神として拝む、偶像崇拝をするようになったとは、何とも愚かなことのように私たちには思えます。
しかし、私たちも忍耐をもって神の御心を求めて待つ、ということができない時があるのではないでしょうか。
待つことができず、あるいは、とにかく早く問題を解決したかったり、状況を打開したいと願うあまり、自分で早急に判断して「これが神の御心だ」と安易に決めてしまうことが私たちにもあると思います。
私たちはなかなか待つ、ということができません。静まって祈って、神の言葉、神からの示し、そして他者からの意見やアドバイスに謙虚に聞くということもなかなかできない時があります。
イスラエルの民たちが犯したような、人の手によって造られたものを神として拝むという、過ちを私たちも十分に犯し得る、ということを私たちは心に留めたいと思います。
そのような間違いを繰り返さないため、落ち着いて静まって謙虚に神と、また人の声にも耳を傾けることができるように、日ごろからそのような信仰を養っていきたいと願います。
44節をお読みします。
44わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。
証しの幕屋、あるいは幕屋とは、イスラエルの民たちが荒野を旅する間に、そこで彼らが礼拝するために建てられた移動式のテントの礼拝所でした。
神は荒野をイスラエルの民たちが移動中にも、彼らが礼拝できるように、モーセやアロン、祭司たちを通して神の言葉を聞くことができるように、“幕屋”を作ることを教えてくださり彼らが礼拝できるように整えてくださったのです。
やがてイスラエルの民はカナンの地に定住するようになり、ダビデがイスラエル全体の王となりました。
ダビデは、神のための神殿、テント式の幕屋ではなく、しっかりとした土台、基礎を持つ神殿を神のために建てたい、礼拝のために建てたいと願いました。
神の命令によって、実際に神殿を完成させたのはダビデの息子のソロモン王でした。
完成した神殿はイスラエルの民たちにとって霊的、信仰的な拠り所だったでしょう。今の私たちにとっても、教会は信仰的にとても大切な場所です。
教会は私たちが集い、共に礼拝を献げることができる場所です。
しかし、今日の箇所でステファノが言う次の言葉に私たちは耳を傾けたいと思います。
48~50節の言葉です。
48けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。
49『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。
50これらはすべて、/わたしの手が造ったものではないか。」』
神殿、今でいえば私たちの教会は、そこで神によって心動かされた人々が集まり、霊と真(真実)の礼拝を心から献げる時、特別な場所となります。
しかし同時に私たちは、自分自身について傲慢にならないようにと、いつも気をつけていなくてはなりません。私たちは今日の箇所のステファノの言葉から戒められます。
私たち人間が、神がお住みになる場所を造るのではないのです。そんなことは私たちにはできるはずがないのです。
私たちが神のために何かをお造りするのではなく、神が、私たちに必要なものを全て用意してくださるのです。
神が私たちのために必要なもの、場所、教会もすべてお造りくださるのです。
私たちは、神の許しと憐れみ、恵みによって、色々な物を与えられ、物や材料、与えられた賜物を用いて色々なものを造ることができます。
何一つとして、私たちがその最初から造り出すことができるものなど、ありません。
しかし、私たちは気をつけていないとつい、自分自身の力や信仰さえも誇り、“わたし(たち)が、これだけのことを(神様のために)している”と高ぶってしまうことがあります。
すべては天地を創造された神が与えてくださったものですから、すべて良い物は神がお造りになって、私たちに与えてくださるものです。
そしてその信仰は私たちに、“神が全て善きもの、必要なものを必ず私たちに与えてくださり、神が命の言葉をもって私たちを生かしてくださる”という希望と平安をも与えてくれます。
あらゆる恵みが、また私たちを生かす命の言葉が神から私たちに与えられていることを覚え、感謝をして、謙虚に、私たちは信仰の日々を歩んでいきたいと願います。
前奏
招詞 レビ記18:5
賛美 新生讃美歌 278番 わが心は歌わん
主の祈り
賛美 新生讃美歌146番 み栄えとみ座を去り
献金
聖句 使徒言行録7章37~50節
祈祷
宣教 「命の言葉を受け、伝える」
祈祷
賛美 新生讃美歌521番 キリストには替えられません
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内
新約聖書の中の『使徒言行録』7章で、伝道者ステファノが、最高法院(裁判所)で「神を冒瀆している」という容疑を受けて、尋問されている場面を、私たちは礼拝の中で続けて読んでおります。
ステファノは、ユダヤ人にとって”信仰の父“と言われたアブラハムから始めて、神がいかにしてイスラエル民族を選び、彼らを通して神の救いを表してくださったかを宣べ伝えます。
今日の箇所では、ステファノは、イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から救い出したモーセに関する話を続けています。
今日の箇所の初めに、モーセの言葉として、ステファノが次のように言っています。
37このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』
モーセを通して、神は、“あなたがたのために、わたし(モーセ)のような預言者を神は立てられる”というメッセージをイスラエルの民たちに伝えました。
これは旧約聖書の『申命記』18章の中に記されている神の約束の言葉です。
ここで“わたし(モーセ)のような預言者”と言われるのは、モーセに続く他の旧約時代の預言者たちのことでもあります。
しかしイエス・キリストが既に人として世に来られ、人の罪の贖いのために十字架にかかって死んで復活した今、モーセによって言われたその“預言者”は、イエス・キリストのことだと、ここでステファノは意味しています。
神は、天地の造られるずっと前から、そしてアブラハムやモーセを通しても、“やがてイエス・キリストが来られ、神の言葉を伝える”、”イエス・キリストが世に来られ、人の罪を贖う“ということを伝え続けておられたと、私たちは聖書を通して信じることができます。
ステファノは、自分のことを訴えるユダヤ人たちに、“キリストは、モーセによって言われていた預言者であり、そして救い主なのだ”と何とか伝えたくて、モーセの言葉を引用したのです。
今日の38節で次のように書かれています。
38この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。
ここで“この人” (He)と言われるのは、モーセのことです。しかしここでも、モーセの姿を通して、やがて来られるイエス・キリストと、キリストがしてくださることが予言されています。
それは“命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれる”ということです。モーセのような預言者は神の言葉を、人々を代表して受けて、それを人々に伝えました。
そのような意味で、今の牧師も預言者としての役目を持っています。しかし、人間の預言者は完全ではありません。人間の預言者は間違いもしますし、正しくないことを言ってしまうこともあります。
しかし、イエス・キリストは完全な預言者であり、決して間違うことなく完全に正しく、神の命の言葉を人々に伝えてくださいました。イエス・キリストご自身が、神の命の言葉そのものであるお方でした。
“命の言葉”とは、私たちを真の意味で生かす、私たちに命を与える言葉、という意味です。
言葉には本当に力があります。人間が考え出したような言葉でも、その言葉が人を大いに励ましたり、慰めたりする力を持ち得ます。
まして、神の言葉は、私たちにとって生きる命そのものである、と言ってもよいほどの力を持ちます。私たちは神の言葉によって生きるのです。
モーセの働きで最重要なことは、“その命の言葉を受け、人々に伝える”ということでした。命の言葉、すなわち神の言葉を神から授かって、モーセはそれをイスラエルの民たちに伝えたのです。
命の言葉である聖書の言葉は、それを受けて信じた人によって、また他の人たちに伝えられていきます。
私たちを生かす命の言葉は、人間が考え出したり造りだしたりしたものではありません。そんなことは不可能です。神の命の言葉は、賜物として神から私たちに与えられるものです。
そしてその命の言葉は、イエス・キリストによって完全な形となって世に伝えられた後、人から人へと伝えられることによって広まっていくようになりました。
命の言葉を受けて伝えること、それは神を信じ神によって罪赦され、神によって救われた者、教会の使命です。
人を生かす命の言葉を私たち自身が豊かに受けて、それを人にも伝えていく、そのための器として私たちは用いられたいと、私たちは願います。
39節で、先祖たち(モーセの時代のイスラエルの民たち)が、モーセに従おうとせず、モーセの兄のアロンに次のように言ったということが記されます。
39節~40節をお読みします。
39けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、
40アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』
これは、旧約聖書『出エジプト記』の32章に書かれている話が元になっています。
そこでは、モーセがシナイ山に登って、そこで神から戒めの言葉を受けていました。
モーセは神から受け取った戒めの言葉をイスラエルの民たちに伝えるように、神から命じられました。
モーセはその時40日間シナイ山にいた、と言われます。そしてイスラエルの民たちは、モーセがなかなか降りてこないので、だんだんモーセを待っていられなくなりました。
忍耐を失った民たちは、モーセの兄であるアロンに、「モーセはどうなったか分からないから、私たちのために神々を造ってください」と願ったのです。
アロンはそこで、イスラエルの民たちに応えて、金の子牛の像を造って、彼らはそれを神として拝みました。
その時イスラエルの民たちが、モーセが山から降りてくるのを待っていられなくなって、神ではないもの(人間の手が作り出したもの)を神として拝む、偶像崇拝をするようになったとは、何とも愚かなことのように私たちには思えます。
しかし、私たちも忍耐をもって神の御心を求めて待つ、ということができない時があるのではないでしょうか。
待つことができず、あるいは、とにかく早く問題を解決したかったり、状況を打開したいと願うあまり、自分で早急に判断して「これが神の御心だ」と安易に決めてしまうことが私たちにもあると思います。
私たちはなかなか待つ、ということができません。静まって祈って、神の言葉、神からの示し、そして他者からの意見やアドバイスに謙虚に聞くということもなかなかできない時があります。
イスラエルの民たちが犯したような、人の手によって造られたものを神として拝むという、過ちを私たちも十分に犯し得る、ということを私たちは心に留めたいと思います。
そのような間違いを繰り返さないため、落ち着いて静まって謙虚に神と、また人の声にも耳を傾けることができるように、日ごろからそのような信仰を養っていきたいと願います。
44節をお読みします。
44わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。
証しの幕屋、あるいは幕屋とは、イスラエルの民たちが荒野を旅する間に、そこで彼らが礼拝するために建てられた移動式のテントの礼拝所でした。
神は荒野をイスラエルの民たちが移動中にも、彼らが礼拝できるように、モーセやアロン、祭司たちを通して神の言葉を聞くことができるように、“幕屋”を作ることを教えてくださり彼らが礼拝できるように整えてくださったのです。
やがてイスラエルの民はカナンの地に定住するようになり、ダビデがイスラエル全体の王となりました。
ダビデは、神のための神殿、テント式の幕屋ではなく、しっかりとした土台、基礎を持つ神殿を神のために建てたい、礼拝のために建てたいと願いました。
神の命令によって、実際に神殿を完成させたのはダビデの息子のソロモン王でした。
完成した神殿はイスラエルの民たちにとって霊的、信仰的な拠り所だったでしょう。今の私たちにとっても、教会は信仰的にとても大切な場所です。
教会は私たちが集い、共に礼拝を献げることができる場所です。
しかし、今日の箇所でステファノが言う次の言葉に私たちは耳を傾けたいと思います。
48~50節の言葉です。
48けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。
49『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。
50これらはすべて、/わたしの手が造ったものではないか。」』
神殿、今でいえば私たちの教会は、そこで神によって心動かされた人々が集まり、霊と真(真実)の礼拝を心から献げる時、特別な場所となります。
しかし同時に私たちは、自分自身について傲慢にならないようにと、いつも気をつけていなくてはなりません。私たちは今日の箇所のステファノの言葉から戒められます。
私たち人間が、神がお住みになる場所を造るのではないのです。そんなことは私たちにはできるはずがないのです。
私たちが神のために何かをお造りするのではなく、神が、私たちに必要なものを全て用意してくださるのです。
神が私たちのために必要なもの、場所、教会もすべてお造りくださるのです。
私たちは、神の許しと憐れみ、恵みによって、色々な物を与えられ、物や材料、与えられた賜物を用いて色々なものを造ることができます。
何一つとして、私たちがその最初から造り出すことができるものなど、ありません。
しかし、私たちは気をつけていないとつい、自分自身の力や信仰さえも誇り、“わたし(たち)が、これだけのことを(神様のために)している”と高ぶってしまうことがあります。
すべては天地を創造された神が与えてくださったものですから、すべて良い物は神がお造りになって、私たちに与えてくださるものです。
そしてその信仰は私たちに、“神が全て善きもの、必要なものを必ず私たちに与えてくださり、神が命の言葉をもって私たちを生かしてくださる”という希望と平安をも与えてくれます。
あらゆる恵みが、また私たちを生かす命の言葉が神から私たちに与えられていることを覚え、感謝をして、謙虚に、私たちは信仰の日々を歩んでいきたいと願います。
2025年10月4日土曜日
2025年10月5日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編32篇8節
賛美 新生讃美歌507番 主の手に委ねて
主の祈り
賛美 新生讃美歌320番 輝いて生きる
祈りの時
献金
聖句 使徒言行録7章17~36節
祈祷
宣教 「あなたをエジプトへ遣わそう」
祈祷
賛美 新生讃美歌544番 ああ嬉しわが身も
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所である、新約聖書『使徒言行録』7章の中から、ステファノというキリストの伝道者による宣教の言葉を、私たちは聞いています。
そこでステファノが語っているのは、モーセという人に関する物語、モーセの生涯についてです。
モーセは旧約聖書の中の『出エジプト記』に登場する人物で、イスラエル民族の信仰にとって、とても重要な人物の一人です。
聖書は、『旧約聖書』と『新約聖書』の二つがあり、旧約聖書と新約聖書を合わせて『聖書』です。
旧約聖書は、神が天地を創造したことから語られる『創世記』から始まります。そして、神がイスラエル民族をお選びになり、彼らにご自身を現わされた歴史が伝えられます。
旧約聖書には、多くの預言者の言葉も残されており、彼ら預言者を通して、神がどのような言葉や戒めをイスラエルの民に伝えたかを、私たちは知ることができます。
旧約聖書にはイエス・キリストは直接は登場しません。旧約聖書の時代は、キリストが人として生まれる、ずっと前の時代であるからです。
キリスト教はイエス・キリストを神として信じていますから、キリストの生涯とそのお言葉を中心として書かれた新約聖書を、私たちの信仰の中心として読みます。
しかし、キリストのことが直接は記録されていない旧約聖書も、クリスチャンにとって、神の言葉としてとても大切です。
なぜなら神が、天地創造と、イスラエル民族を選んだその出来事を通して、救い主キリストを世界に送るご計画と、その準備をされていたことを、旧約聖書は伝えているからです。
エフェソの信徒への手紙1章4節に次のように書かれています。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
この言葉から、旧約聖書を通しても、その全てを貫いているのは、神が私たちをキリストによって選び、私たちを愛し、私たちを神の前に聖なる者にしようとしてくださっている、ということであることが分かります。
ステファノは、最高法院で、“神を冒瀆した”という容疑のために尋問されていました。
そこでステファノが聖書の話をした理由は、真の神のご計画、神の真実を、彼を非難している者たちに知らせたい、という強い願いがあったからでした。
神の言葉は、聖書の言葉を通してこそ、最も力強く、人の心を捉える力をもって語られるからです。
今日のステファノの話の中では、モーセという人の一生が、神が彼をどのように用いられたのかが、本当に短く凝縮されています。
モーセは120歳まで生きた、イスラエル民族の指導者でした。その一生を短い言葉や内容で説明しきることはできません。
しかし、たとえ短い言葉の中にも、モーセと言う人が神に選ばれ、どのような働きをしたのか、という点については知ることができます。
私たちはモーセ自身を知るというよりも、神がモーセを通して、どのようなことをしてくださったのか、むしろそのことを知らされます。
モーセが生まれた時、イスラエル民族(彼らはヘブライ人とも言われた)の数がエジプト中に増えていました。
そしてそれがエジプトの王には脅威に映ったのです。
出エジプト記1章8~10節に次のように書かれています。
8そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、
9国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。
10抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」
ヨセフは神の助けによって、エジプトで大きな働きをしたイスラエル人でしたが、その新しい王は、そのように、かつてヨセフを通して現わされた神の御業を知らない王でした。
そんな王にとって、どんどん数を増していくイスラエル人たちは、ただ恐れの対象でしかありませんでした。
イスラエル人たちが増えることを恐れた王は、生まれてくるイスラエル人の男の子を殺害するように、助産婦たちに命じました。
後にイエス様が生まれた時にも、“ユダヤ人の新しい王が生まれた”という知らせを聞いて怒ったヘロデ王が、幼い男の子全員の殺害を命じた出来事が、新約聖書に記されています。
ですから聖書が(旧新約を通して)伝えていることの一つは、人間が、状況によってはどれほど残忍になれるのか、ということです。
そしてその人間の罪の性質は、時代を経ても決して変わっていない、ということを聖書は伝えています。
その罪を、私たち人間は自分自身で乗り越えて、罪を無くすことはできないのです。
その罪は、人間を超えた大いなるお方、すなわち創造主なる神様に赦していただくしか解決方法がないのです。
私たちが抱える、深刻で根深いその罪を赦すため、イエス・キリストがこの世界にお生まれになり、十字架にかかって死んでくださいました。
ですから私たちは、キリストの十字架によって罪赦されたというその一点において、辛く悲しい現実の中、私たちの罪の性質の中にも、希望をもって生きることができるのです。
時代が変わっても、人の世がどれほど移り変わっても、決して変わらない神の愛と罪の赦しが、キリストを通して私たちに与えられていることを私たちは喜び、そのことに感謝をささげようではありませんか。
今日の22節に、「モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。」と書かれています。
しかし実際には、神がモーセを、イスラエル人の指導者となるように呼び出した時、彼は“わたしは話しが上手ではありません。誰も私の話など聞きません”と言って、何度も神からの呼びかけを拒みました。
しかし神から見たモーセは、人々に神の言葉を伝えるために必要な賜物を、すばらしい話と行いができるその賜物を、エジプトで受けた教育を通して、既に与えられた人だったのです。
モーセは、不思議な運命(神の助け)により、エジプトの王室で育てられることになりました。そこで、後にイスラエルの偉大な指導者となるために必要な素養が授けられたのです。
モーセに、指導者となるために必要な教育を(エジプトを通して)神が与えてくださっていたように、神は今も私たちにも、様々な方法を通して、私たちが自分では気づいていないかもしれないよき賜物、素質を沢山与えてくださっています。
それは、私たちにとっては好ましくない、困難で苦しい経験を通して与えられることもあります。
ですから私たちは、自分にとって辛く、難しい状況の中でも、“今神はこのことを通して、わたしに何を教え、何を与えようとしてくださっているのか”という信仰を持ちたいと願います。
23節以降で、モーセが同胞のイスラエル人たちを助けようと思い立った、ということが書かれています。
モーセは、一人のイスラエル人がエジプト人に虐待されている場面を目撃します。それでモーセはそのエジプト人を殴り殺してしまうのです。出エジプト記2章にそのことが記されています。
25節に次のように書かれています。
25モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。
モーセは、自分の手を通して神が兄弟たち(同胞のイスラエル人たち)を救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思っていました。
その時モーセはまだ、自分だけの正義感が先走って、強引に自分が正しいと思うことを衝動的にしてしまう、未熟な人だったのでしょう。
周りからも指導者と認められるほどに彼はまだ成熟していませんでした。そしてモーセは、そこからミディアンという地方に逃れて行って、そこに40年間滞在します。
ミディアン地方での40年間は、それはモーセがイスラエルの指導者としての役割を後に果たすための準備の期間であったと言えます。
イエス様は、人間としての年齢では30歳ぐらいの時に、公の伝道活動を始められたことが福音書で伝えられています。
イエス様も、人としての生活と経験をそれまで積み重ねる中で、伝道者としての活動を始める準備をしておられたと言ってよいと私は思います。
そしてイエス様は公の伝道活動を始められたとき、その初めに荒野で40日間、悪魔からの試みを受けました。(マタイ4章、ルカ4章)
信仰者として成長し、準備万端整えてスタートすれば、あとはもうどんな苦難も困難もない、ということではないのです。
むしろ信仰生活は、ずっと困難の連続であるとも言えます。
しかし信仰による苦難は、それを試練として、私たちが自分自身の弱さ、罪に気づき、それに向き合い、そして“神がこの私と共にいてくださるので、神によってこの私は力を得て生きていくことができる”と増々確信することができる過程でもあります。
ですから、今試練のただなかにある方がおられましたら、神の助け、神が共におられることを信じ、イエス様に委ねて、歩まれますように、また私たちがお互いに支え、祈ることができますようにと私は心より願います。
神はミディアン地方で40年間過ごしたモーセを呼び出して、彼をエジプトへ遣わそうとされました。
モーセがそれまでに歩んできた道、彼が経験してきたすべてのことは、神によってエジプトへ遣わされ、奴隷状態にあるイスラエルの民をエジプトから救い出すためでした。
かつて同胞を助けようとして、そして同胞もそれを理解してくれるはずだと独善的に思っていたモーセとは違い、その時には神がはっきりとモーセを召し出したのです。
今日の34節に、神の言葉が、記されています。
34わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』
今日の箇所で、ステファノは、モーセの物語を語りながら、モーセと共におられ、モーセに使命をお与えになった主なる神が、ステファノ自身とも共におられることを確信していたのだと思います。
そしてその神の恵みが、今やイエス・キリストを通して完全に現わされたことを同胞のユダヤ人たちに何とか伝えたいと強く、強くステファノは望んでいたのでしょう。
ステファノの宣教(メッセージ)の言葉を通して伝えられる神の業と神の愛を、私たちも一層確信し、神から力を受けて、信仰の日々を歩んでまいりましょう。
私たちの日々の一歩一歩の歩み、そしてこれから進むべき道を、私たちは聖書の御言葉によって、聖霊によって示されていきたいと願います。
そして、神がわたしたちに“あなたがたを遣わす”と言われる、その方向へ向かって、私たちは歩んでいこうではありませんか。
前奏
招詞 詩編32篇8節
賛美 新生讃美歌507番 主の手に委ねて
主の祈り
賛美 新生讃美歌320番 輝いて生きる
祈りの時
献金
聖句 使徒言行録7章17~36節
祈祷
宣教 「あなたをエジプトへ遣わそう」
祈祷
賛美 新生讃美歌544番 ああ嬉しわが身も
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所である、新約聖書『使徒言行録』7章の中から、ステファノというキリストの伝道者による宣教の言葉を、私たちは聞いています。
そこでステファノが語っているのは、モーセという人に関する物語、モーセの生涯についてです。
モーセは旧約聖書の中の『出エジプト記』に登場する人物で、イスラエル民族の信仰にとって、とても重要な人物の一人です。
聖書は、『旧約聖書』と『新約聖書』の二つがあり、旧約聖書と新約聖書を合わせて『聖書』です。
旧約聖書は、神が天地を創造したことから語られる『創世記』から始まります。そして、神がイスラエル民族をお選びになり、彼らにご自身を現わされた歴史が伝えられます。
旧約聖書には、多くの預言者の言葉も残されており、彼ら預言者を通して、神がどのような言葉や戒めをイスラエルの民に伝えたかを、私たちは知ることができます。
旧約聖書にはイエス・キリストは直接は登場しません。旧約聖書の時代は、キリストが人として生まれる、ずっと前の時代であるからです。
キリスト教はイエス・キリストを神として信じていますから、キリストの生涯とそのお言葉を中心として書かれた新約聖書を、私たちの信仰の中心として読みます。
しかし、キリストのことが直接は記録されていない旧約聖書も、クリスチャンにとって、神の言葉としてとても大切です。
なぜなら神が、天地創造と、イスラエル民族を選んだその出来事を通して、救い主キリストを世界に送るご計画と、その準備をされていたことを、旧約聖書は伝えているからです。
エフェソの信徒への手紙1章4節に次のように書かれています。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
この言葉から、旧約聖書を通しても、その全てを貫いているのは、神が私たちをキリストによって選び、私たちを愛し、私たちを神の前に聖なる者にしようとしてくださっている、ということであることが分かります。
ステファノは、最高法院で、“神を冒瀆した”という容疑のために尋問されていました。
そこでステファノが聖書の話をした理由は、真の神のご計画、神の真実を、彼を非難している者たちに知らせたい、という強い願いがあったからでした。
神の言葉は、聖書の言葉を通してこそ、最も力強く、人の心を捉える力をもって語られるからです。
今日のステファノの話の中では、モーセという人の一生が、神が彼をどのように用いられたのかが、本当に短く凝縮されています。
モーセは120歳まで生きた、イスラエル民族の指導者でした。その一生を短い言葉や内容で説明しきることはできません。
しかし、たとえ短い言葉の中にも、モーセと言う人が神に選ばれ、どのような働きをしたのか、という点については知ることができます。
私たちはモーセ自身を知るというよりも、神がモーセを通して、どのようなことをしてくださったのか、むしろそのことを知らされます。
モーセが生まれた時、イスラエル民族(彼らはヘブライ人とも言われた)の数がエジプト中に増えていました。
そしてそれがエジプトの王には脅威に映ったのです。
出エジプト記1章8~10節に次のように書かれています。
8そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、
9国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。
10抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」
ヨセフは神の助けによって、エジプトで大きな働きをしたイスラエル人でしたが、その新しい王は、そのように、かつてヨセフを通して現わされた神の御業を知らない王でした。
そんな王にとって、どんどん数を増していくイスラエル人たちは、ただ恐れの対象でしかありませんでした。
イスラエル人たちが増えることを恐れた王は、生まれてくるイスラエル人の男の子を殺害するように、助産婦たちに命じました。
後にイエス様が生まれた時にも、“ユダヤ人の新しい王が生まれた”という知らせを聞いて怒ったヘロデ王が、幼い男の子全員の殺害を命じた出来事が、新約聖書に記されています。
ですから聖書が(旧新約を通して)伝えていることの一つは、人間が、状況によってはどれほど残忍になれるのか、ということです。
そしてその人間の罪の性質は、時代を経ても決して変わっていない、ということを聖書は伝えています。
その罪を、私たち人間は自分自身で乗り越えて、罪を無くすことはできないのです。
その罪は、人間を超えた大いなるお方、すなわち創造主なる神様に赦していただくしか解決方法がないのです。
私たちが抱える、深刻で根深いその罪を赦すため、イエス・キリストがこの世界にお生まれになり、十字架にかかって死んでくださいました。
ですから私たちは、キリストの十字架によって罪赦されたというその一点において、辛く悲しい現実の中、私たちの罪の性質の中にも、希望をもって生きることができるのです。
時代が変わっても、人の世がどれほど移り変わっても、決して変わらない神の愛と罪の赦しが、キリストを通して私たちに与えられていることを私たちは喜び、そのことに感謝をささげようではありませんか。
今日の22節に、「モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。」と書かれています。
しかし実際には、神がモーセを、イスラエル人の指導者となるように呼び出した時、彼は“わたしは話しが上手ではありません。誰も私の話など聞きません”と言って、何度も神からの呼びかけを拒みました。
しかし神から見たモーセは、人々に神の言葉を伝えるために必要な賜物を、すばらしい話と行いができるその賜物を、エジプトで受けた教育を通して、既に与えられた人だったのです。
モーセは、不思議な運命(神の助け)により、エジプトの王室で育てられることになりました。そこで、後にイスラエルの偉大な指導者となるために必要な素養が授けられたのです。
モーセに、指導者となるために必要な教育を(エジプトを通して)神が与えてくださっていたように、神は今も私たちにも、様々な方法を通して、私たちが自分では気づいていないかもしれないよき賜物、素質を沢山与えてくださっています。
それは、私たちにとっては好ましくない、困難で苦しい経験を通して与えられることもあります。
ですから私たちは、自分にとって辛く、難しい状況の中でも、“今神はこのことを通して、わたしに何を教え、何を与えようとしてくださっているのか”という信仰を持ちたいと願います。
23節以降で、モーセが同胞のイスラエル人たちを助けようと思い立った、ということが書かれています。
モーセは、一人のイスラエル人がエジプト人に虐待されている場面を目撃します。それでモーセはそのエジプト人を殴り殺してしまうのです。出エジプト記2章にそのことが記されています。
25節に次のように書かれています。
25モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。
モーセは、自分の手を通して神が兄弟たち(同胞のイスラエル人たち)を救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思っていました。
その時モーセはまだ、自分だけの正義感が先走って、強引に自分が正しいと思うことを衝動的にしてしまう、未熟な人だったのでしょう。
周りからも指導者と認められるほどに彼はまだ成熟していませんでした。そしてモーセは、そこからミディアンという地方に逃れて行って、そこに40年間滞在します。
ミディアン地方での40年間は、それはモーセがイスラエルの指導者としての役割を後に果たすための準備の期間であったと言えます。
イエス様は、人間としての年齢では30歳ぐらいの時に、公の伝道活動を始められたことが福音書で伝えられています。
イエス様も、人としての生活と経験をそれまで積み重ねる中で、伝道者としての活動を始める準備をしておられたと言ってよいと私は思います。
そしてイエス様は公の伝道活動を始められたとき、その初めに荒野で40日間、悪魔からの試みを受けました。(マタイ4章、ルカ4章)
信仰者として成長し、準備万端整えてスタートすれば、あとはもうどんな苦難も困難もない、ということではないのです。
むしろ信仰生活は、ずっと困難の連続であるとも言えます。
しかし信仰による苦難は、それを試練として、私たちが自分自身の弱さ、罪に気づき、それに向き合い、そして“神がこの私と共にいてくださるので、神によってこの私は力を得て生きていくことができる”と増々確信することができる過程でもあります。
ですから、今試練のただなかにある方がおられましたら、神の助け、神が共におられることを信じ、イエス様に委ねて、歩まれますように、また私たちがお互いに支え、祈ることができますようにと私は心より願います。
神はミディアン地方で40年間過ごしたモーセを呼び出して、彼をエジプトへ遣わそうとされました。
モーセがそれまでに歩んできた道、彼が経験してきたすべてのことは、神によってエジプトへ遣わされ、奴隷状態にあるイスラエルの民をエジプトから救い出すためでした。
かつて同胞を助けようとして、そして同胞もそれを理解してくれるはずだと独善的に思っていたモーセとは違い、その時には神がはっきりとモーセを召し出したのです。
今日の34節に、神の言葉が、記されています。
34わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』
今日の箇所で、ステファノは、モーセの物語を語りながら、モーセと共におられ、モーセに使命をお与えになった主なる神が、ステファノ自身とも共におられることを確信していたのだと思います。
そしてその神の恵みが、今やイエス・キリストを通して完全に現わされたことを同胞のユダヤ人たちに何とか伝えたいと強く、強くステファノは望んでいたのでしょう。
ステファノの宣教(メッセージ)の言葉を通して伝えられる神の業と神の愛を、私たちも一層確信し、神から力を受けて、信仰の日々を歩んでまいりましょう。
私たちの日々の一歩一歩の歩み、そしてこれから進むべき道を、私たちは聖書の御言葉によって、聖霊によって示されていきたいと願います。
そして、神がわたしたちに“あなたがたを遣わす”と言われる、その方向へ向かって、私たちは歩んでいこうではありませんか。
2025年9月27日土曜日
2025年9月28日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編105篇7節
賛美 新生讃美歌507番 主の手に委ねて
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
主の晩餐
献金
聖句 使徒言行録7章1~16節
祈祷
宣教 「私たちの父アブラハム」
祈祷
賛美 新生讃美歌255番 わが罪のために
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内
古代の人たちは、地球を中心にして、他の星や宇宙が地球の周りを回転していると考えていました。それは“天動説”と言われます。
私たちは科学的発見や研究の結果、天動説ではなく地動説(地球が太陽の周りをまわって動いている)が正しいということを知るようになりました。
しかし、私たち人の生き方においては、私たちは依然として天動説(自分の周りを世界が動いている)、あるいは”天動説であるべきだ“という考え方に留まっているのではないか、と私は思います。
私たちは普通、自分に起こる出来事を自分中心の視点から見ます。それは、周りの状況を、自分を基準として、自分が望む通り(正しいと思う通り)に進行しているかどうかによって判断するということです。
しかしもし、この私は世界の中心ではないということを知れば(認めれば)、私たちが私たちの身の周りの出来事、また周りの人を見る目や、人への接し方も大きく変わってくるのではないかと思います。
自分が世界の中心ではないとすれば、何が世界の中心であるのでしょうか。聖書は、この世界のすべては、あるお方によって目的をもって創造された(作られた)と伝えます。
そうであれば、世界を目的をもってお造りになったそのお方、創造主である神が世界の中心である、と考えるのが自然です。
聖書は、世界をお造りになった創造主である神が、人となって生まれて来られたと伝えます。神が人となって来られたお方がイエス・キリストです。
イエス・キリストは、罪を犯して神から離れて、神のことが分からなくなってしまった私たち人間に、神を示すために世に生まれてきてくださいました。
キリストを通して私たちが神の深い御愛を知ることができるように、キリストは世に来てくださったのです。
聖書は私たちに、わたしたちの世界はまさに神中心であること、神が人となったイエス・キリストが中心であることを認めて、キリストの神を信じて生きる生き方へと私たちを招き入れます。
自分が自分の中心でなく、神を中心にして私たちの周りの状況や世界を見ることができるようになると、ある変化が生まれます。
それは、どんな状況も、それが自分にとって不利な、たとえ危機的な状況であっても、より大きな善い目的(神の目的)のために、その機会を用いることができるようになるということです。
今日の聖書箇所は使徒言行録7章の初めの部分です。キリストを信じ、キリストを伝道して生きる者となったステファノが、ユダヤの最高法院で訴えられています。
今日の箇所から私たちは、自分にとって危機的であり不利な状況、大勢の敵に囲まれている状況の中でも、神の希望に生きる人の姿を知らされます。
今日の聖書箇所でステファノの語った言葉から、神の言葉を私たちは共に聞いてまいりましょう。
大祭司が、ステファノに尋ねました。「訴えのとおりか」。ステファノは「神を冒瀆している」という容疑で、ユダヤ人たちから訴えられていたのです。
「この男は、偉大な預言者であるモーセと、神をも冒涜している」、「聖なる場所(神殿)と律法(聖書の言葉)を冒瀆している」と言って、他のユダヤ人たちはステファノを訴えていました。
しかし、彼らの訴えは偽証(うそ)でした。それは根拠のない訴えでした。ユダヤ人たちはとにかくステファノのことが憎くて、嘘を言ってでも彼を訴えて有罪判決を下そうとしていたのです。
ステファノにとってはまさに危機的な状況です。自分の無実を証明しなければ命が危うくなるのです。
しかしステファノは「訴えの通りか」と聞かれて、どのように答えたのでしょうか。そこでステファノは自分自身を弁護しようとは全くしませんでした。
ステファノは、その危機的な状況を「神を述べ伝える絶好の機会」と考えたのです。
ステファノは、神が自分と共にいてくださることを確信していたのでしょう。だから、(自分が望むよりも)神が自分に望まれるように語りたいと、ステファノは願ったのです。
自分を訴える大祭司や他の人たちに、ステファノは「兄弟であり父である皆さん、聞いてください」と呼びかけました。
自分を訴える者たちを自分の“敵”と見なすのではなく、ステファノは彼らを“わたしの兄弟であり父”と呼びました。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とイエス様は言われました。そんなことが可能なのか(無理ではないか)、と私たちは思うと思います。
しかし、イエス様のそのお言葉を確かに実践して生きた信仰者の姿が、今日の箇所でのステファノを通して描かれています。
自分の命を狙う敵である人々を、イエス・キリストへの信仰によって“わたしの兄弟であり、またわたしの父である皆さん”とみなすことがステファノにはできたのです。
“信仰を通して、他者同士が神の家族になることができる、敵さえも神の家族同士になることができる”という信仰の恵みを、ステファノの言葉と姿は表しています。
いきなり“敵を愛せ”と言われても、私たちはたじろくでしょう。しかし、その言葉を信じ、その通りに生きた信仰者が確かにいたし、きっと今この時代にもいる、と私たちは信じてよいと私は思います。
そして私たちも、少しでもそのような者になるように、少なくとも努力をすることは可能であると、私たちは思わされます。
ステファノは、聖書が伝える神の物語、神がいかにしてイスラエル民族を選び救われたのかを、旧約聖書『創世記』に記されているアブラハムの物語から語り始めます。
ユダヤ人たちにとって“信仰の父”と言われたアブラハムに、最初に与えられた主の言葉(命令)は、「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」というものでした。
『創世記』12章に、主なる神がアブラハムに現われて、そのように言われたことが書かれています。
自分の慣れ親しんだ土地や家族を離れ、わたし(神)が示す土地に行きなさい。あなたが行くべき道を示す、あなたの主は私だ、と主はアブラハムに言われたのです。
生きるということは、確かに、先の見えない、行先不明の旅を続けるようなものです。時には自分にとって慣れた場所、家族を離れなくてはならない時もあります。
しかし、これから先どうなるのか分からなくても、またどこへ行くのかその場所や方向がはっきりとは分からなくても、その度に道を指し示してくださる神が私たちにはおられます。
それが神がアブラハムに与えた約束であり、同じ神を信じる者に今も与えられている約束なのです。
私たちが聖書の御言葉を読み(御言葉に聞き)、祈り、神を信頼して心を開くことによって、私たちが行くべき道を指し示してくださる神がおられることを、私たちは聖書の御言葉を通して信じていきましょう。
9節からは、アブラハムからみればひ孫であるヨセフのことが語られます。
創世記の中でも多くの章が、このヨセフに関する物語に費やされています。
ヨセフは、父のヤコブに溺愛され、そのために兄たちから疎まれました。(ヨセフ自身にも、兄たちから疎まれるような問題がありました)9節の“この族長たち”とは、ヤコブの息子たち、すなわちヨセフの兄たちのことです。
ヨセフの兄たちは、ヨセフをエジプトに奴隷として売り飛ばしてしまいます。弟を売り飛ばすとは、彼らがどれほどヨセフを憎んでいたのかが、分かります。
しかし神はそれからもヨセフを離れず、ヨセフはエジプトで王のファラオに用いられて、エジプトの国全体を司る大臣にまで上り詰めました。
ヨセフに関する話は『創世記』に詳しく記されていますので、ぜひ皆さんご自分でも創世記をお読みいただければと願います。
ヨセフが兄たちからの妬みを買ったのには、ヨセフ自身の未熟で傲慢な性格や行動にも原因がありました。しかしそれでもヨセフが辿った道には多くの苦難がありました。
しかし、9節に書かれている通り、神はヨセフを離れることはありませんでした。
そのように、聖書が伝える神、天地創造の神は、私たちを決して離れない、私たちを見放すことがない神です。イエス・キリストの神は、“いつも私たちとともにいてくださる神”です。
神がおられるので、私たちは苦難、困難、悩みの中にあっても、平安をもって生きることができるのです。
どんな苦難や困難、悩みよりも、はるかに大きな神が私たちと共におられるので、私たちは神に信頼することで、安心できるのです。
ヨセフはやがて兄たちと、父ヤコブとも再会を果たすことになります。父と兄弟たちと、その他親族一同がカナンの地からエジプトへ来て、そこで住むようになりました。
しかし、父ヤコブが死ぬと、兄たちは恐れました。自分のことを売りとばしたことに、まだ恨みを持ったヨセフが自分たちに復讐するのではないかと言って彼らは恐れたのです。
しかし、そのように恐れた兄たちにヨセフは次のように言いました。
創世記50章19~20節
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
20あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
自分のことだけを考えれば、ヨセフは兄たちに復讐できる立場にあり、また彼にはそうしてもよい理由もあったと言ってもよいでしょう。
しかしヨセフは自分のことよりも、神の大きな御計画、人がたくらむ悪をも善に変えることができる神の視点から、自分と兄たちの間に起きたことを見ることが出来るようになっていたのです。
ヨセフは、兄たちが自分をエジプトに売り渡したことや、それを引き起こした自分にも原因があったことなどのすべてを神は用いて、それによって多くの民の命を救ってくださった、と言うことに気づいたのです。
ヨセフは自分中心ではなく、神の視点から自分の人生、そして自分の兄弟たちを、世界を見ることができるようになっていたのです。
イエス・キリストが世に来られて、人を救う神の知らせ(福音)について人々に知らせました。しかし人々は妬みや恨みのため、キリストを十字架につけて殺してしまいました。
しかし、神はそんな人間の悪をも善に変えることができるお方です。キリストの十字架は、私たち人の罪を救う偉大な出来事となったのです。
ステファノは、自分たちの信仰の父であるアブラハムにまで立ちかえることによって、神が人間を救う救いのご計画は、自分たちが生まれるずっと以前から既に始まっていたことを、語りました。
その救いのご計画に、今の私たちも入れられています。
私たちには、とてもつらく、苦しい、困難な経験や出来事が与えられることがあります。
しかしたとえ何があっても、救いの神は今も私たちと共にいてくださり、これからも私たちを救ってくださる、私たちは信じることができるのです。
たとえ今はそう信じられなくても、後になって振り返ってみる時に、神は私と共におられ、神の守りは確かに私と共にあった、とイエス・キリストを通して振り返って信じることができる時が必ず来ます。
そのような神の守りと恵みが与えられていることを、私たちは信じ、感謝を捧げて歩んでいこうではありませんか。
前奏
招詞 詩編105篇7節
賛美 新生讃美歌507番 主の手に委ねて
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
主の晩餐
献金
聖句 使徒言行録7章1~16節
祈祷
宣教 「私たちの父アブラハム」
祈祷
賛美 新生讃美歌255番 わが罪のために
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内
古代の人たちは、地球を中心にして、他の星や宇宙が地球の周りを回転していると考えていました。それは“天動説”と言われます。
私たちは科学的発見や研究の結果、天動説ではなく地動説(地球が太陽の周りをまわって動いている)が正しいということを知るようになりました。
しかし、私たち人の生き方においては、私たちは依然として天動説(自分の周りを世界が動いている)、あるいは”天動説であるべきだ“という考え方に留まっているのではないか、と私は思います。
私たちは普通、自分に起こる出来事を自分中心の視点から見ます。それは、周りの状況を、自分を基準として、自分が望む通り(正しいと思う通り)に進行しているかどうかによって判断するということです。
しかしもし、この私は世界の中心ではないということを知れば(認めれば)、私たちが私たちの身の周りの出来事、また周りの人を見る目や、人への接し方も大きく変わってくるのではないかと思います。
自分が世界の中心ではないとすれば、何が世界の中心であるのでしょうか。聖書は、この世界のすべては、あるお方によって目的をもって創造された(作られた)と伝えます。
そうであれば、世界を目的をもってお造りになったそのお方、創造主である神が世界の中心である、と考えるのが自然です。
聖書は、世界をお造りになった創造主である神が、人となって生まれて来られたと伝えます。神が人となって来られたお方がイエス・キリストです。
イエス・キリストは、罪を犯して神から離れて、神のことが分からなくなってしまった私たち人間に、神を示すために世に生まれてきてくださいました。
キリストを通して私たちが神の深い御愛を知ることができるように、キリストは世に来てくださったのです。
聖書は私たちに、わたしたちの世界はまさに神中心であること、神が人となったイエス・キリストが中心であることを認めて、キリストの神を信じて生きる生き方へと私たちを招き入れます。
自分が自分の中心でなく、神を中心にして私たちの周りの状況や世界を見ることができるようになると、ある変化が生まれます。
それは、どんな状況も、それが自分にとって不利な、たとえ危機的な状況であっても、より大きな善い目的(神の目的)のために、その機会を用いることができるようになるということです。
今日の聖書箇所は使徒言行録7章の初めの部分です。キリストを信じ、キリストを伝道して生きる者となったステファノが、ユダヤの最高法院で訴えられています。
今日の箇所から私たちは、自分にとって危機的であり不利な状況、大勢の敵に囲まれている状況の中でも、神の希望に生きる人の姿を知らされます。
今日の聖書箇所でステファノの語った言葉から、神の言葉を私たちは共に聞いてまいりましょう。
大祭司が、ステファノに尋ねました。「訴えのとおりか」。ステファノは「神を冒瀆している」という容疑で、ユダヤ人たちから訴えられていたのです。
「この男は、偉大な預言者であるモーセと、神をも冒涜している」、「聖なる場所(神殿)と律法(聖書の言葉)を冒瀆している」と言って、他のユダヤ人たちはステファノを訴えていました。
しかし、彼らの訴えは偽証(うそ)でした。それは根拠のない訴えでした。ユダヤ人たちはとにかくステファノのことが憎くて、嘘を言ってでも彼を訴えて有罪判決を下そうとしていたのです。
ステファノにとってはまさに危機的な状況です。自分の無実を証明しなければ命が危うくなるのです。
しかしステファノは「訴えの通りか」と聞かれて、どのように答えたのでしょうか。そこでステファノは自分自身を弁護しようとは全くしませんでした。
ステファノは、その危機的な状況を「神を述べ伝える絶好の機会」と考えたのです。
ステファノは、神が自分と共にいてくださることを確信していたのでしょう。だから、(自分が望むよりも)神が自分に望まれるように語りたいと、ステファノは願ったのです。
自分を訴える大祭司や他の人たちに、ステファノは「兄弟であり父である皆さん、聞いてください」と呼びかけました。
自分を訴える者たちを自分の“敵”と見なすのではなく、ステファノは彼らを“わたしの兄弟であり父”と呼びました。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とイエス様は言われました。そんなことが可能なのか(無理ではないか)、と私たちは思うと思います。
しかし、イエス様のそのお言葉を確かに実践して生きた信仰者の姿が、今日の箇所でのステファノを通して描かれています。
自分の命を狙う敵である人々を、イエス・キリストへの信仰によって“わたしの兄弟であり、またわたしの父である皆さん”とみなすことがステファノにはできたのです。
“信仰を通して、他者同士が神の家族になることができる、敵さえも神の家族同士になることができる”という信仰の恵みを、ステファノの言葉と姿は表しています。
いきなり“敵を愛せ”と言われても、私たちはたじろくでしょう。しかし、その言葉を信じ、その通りに生きた信仰者が確かにいたし、きっと今この時代にもいる、と私たちは信じてよいと私は思います。
そして私たちも、少しでもそのような者になるように、少なくとも努力をすることは可能であると、私たちは思わされます。
ステファノは、聖書が伝える神の物語、神がいかにしてイスラエル民族を選び救われたのかを、旧約聖書『創世記』に記されているアブラハムの物語から語り始めます。
ユダヤ人たちにとって“信仰の父”と言われたアブラハムに、最初に与えられた主の言葉(命令)は、「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」というものでした。
『創世記』12章に、主なる神がアブラハムに現われて、そのように言われたことが書かれています。
自分の慣れ親しんだ土地や家族を離れ、わたし(神)が示す土地に行きなさい。あなたが行くべき道を示す、あなたの主は私だ、と主はアブラハムに言われたのです。
生きるということは、確かに、先の見えない、行先不明の旅を続けるようなものです。時には自分にとって慣れた場所、家族を離れなくてはならない時もあります。
しかし、これから先どうなるのか分からなくても、またどこへ行くのかその場所や方向がはっきりとは分からなくても、その度に道を指し示してくださる神が私たちにはおられます。
それが神がアブラハムに与えた約束であり、同じ神を信じる者に今も与えられている約束なのです。
私たちが聖書の御言葉を読み(御言葉に聞き)、祈り、神を信頼して心を開くことによって、私たちが行くべき道を指し示してくださる神がおられることを、私たちは聖書の御言葉を通して信じていきましょう。
9節からは、アブラハムからみればひ孫であるヨセフのことが語られます。
創世記の中でも多くの章が、このヨセフに関する物語に費やされています。
ヨセフは、父のヤコブに溺愛され、そのために兄たちから疎まれました。(ヨセフ自身にも、兄たちから疎まれるような問題がありました)9節の“この族長たち”とは、ヤコブの息子たち、すなわちヨセフの兄たちのことです。
ヨセフの兄たちは、ヨセフをエジプトに奴隷として売り飛ばしてしまいます。弟を売り飛ばすとは、彼らがどれほどヨセフを憎んでいたのかが、分かります。
しかし神はそれからもヨセフを離れず、ヨセフはエジプトで王のファラオに用いられて、エジプトの国全体を司る大臣にまで上り詰めました。
ヨセフに関する話は『創世記』に詳しく記されていますので、ぜひ皆さんご自分でも創世記をお読みいただければと願います。
ヨセフが兄たちからの妬みを買ったのには、ヨセフ自身の未熟で傲慢な性格や行動にも原因がありました。しかしそれでもヨセフが辿った道には多くの苦難がありました。
しかし、9節に書かれている通り、神はヨセフを離れることはありませんでした。
そのように、聖書が伝える神、天地創造の神は、私たちを決して離れない、私たちを見放すことがない神です。イエス・キリストの神は、“いつも私たちとともにいてくださる神”です。
神がおられるので、私たちは苦難、困難、悩みの中にあっても、平安をもって生きることができるのです。
どんな苦難や困難、悩みよりも、はるかに大きな神が私たちと共におられるので、私たちは神に信頼することで、安心できるのです。
ヨセフはやがて兄たちと、父ヤコブとも再会を果たすことになります。父と兄弟たちと、その他親族一同がカナンの地からエジプトへ来て、そこで住むようになりました。
しかし、父ヤコブが死ぬと、兄たちは恐れました。自分のことを売りとばしたことに、まだ恨みを持ったヨセフが自分たちに復讐するのではないかと言って彼らは恐れたのです。
しかし、そのように恐れた兄たちにヨセフは次のように言いました。
創世記50章19~20節
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
20あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
自分のことだけを考えれば、ヨセフは兄たちに復讐できる立場にあり、また彼にはそうしてもよい理由もあったと言ってもよいでしょう。
しかしヨセフは自分のことよりも、神の大きな御計画、人がたくらむ悪をも善に変えることができる神の視点から、自分と兄たちの間に起きたことを見ることが出来るようになっていたのです。
ヨセフは、兄たちが自分をエジプトに売り渡したことや、それを引き起こした自分にも原因があったことなどのすべてを神は用いて、それによって多くの民の命を救ってくださった、と言うことに気づいたのです。
ヨセフは自分中心ではなく、神の視点から自分の人生、そして自分の兄弟たちを、世界を見ることができるようになっていたのです。
イエス・キリストが世に来られて、人を救う神の知らせ(福音)について人々に知らせました。しかし人々は妬みや恨みのため、キリストを十字架につけて殺してしまいました。
しかし、神はそんな人間の悪をも善に変えることができるお方です。キリストの十字架は、私たち人の罪を救う偉大な出来事となったのです。
ステファノは、自分たちの信仰の父であるアブラハムにまで立ちかえることによって、神が人間を救う救いのご計画は、自分たちが生まれるずっと以前から既に始まっていたことを、語りました。
その救いのご計画に、今の私たちも入れられています。
私たちには、とてもつらく、苦しい、困難な経験や出来事が与えられることがあります。
しかしたとえ何があっても、救いの神は今も私たちと共にいてくださり、これからも私たちを救ってくださる、私たちは信じることができるのです。
たとえ今はそう信じられなくても、後になって振り返ってみる時に、神は私と共におられ、神の守りは確かに私と共にあった、とイエス・キリストを通して振り返って信じることができる時が必ず来ます。
そのような神の守りと恵みが与えられていることを、私たちは信じ、感謝を捧げて歩んでいこうではありませんか。
2025年9月20日土曜日
2025年9月21日 主日礼拝
前奏
招詞 列王記上10章8節
賛美 新生讃美歌2番 来たれ全能の主
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
信仰告白
献金
聖句 使徒言行録6章8~15節
祈祷
宣教 「知恵と霊とによって」
祈祷
賛美 新生讃美歌262番 み霊よくだりて
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所の初め(8節)に、“ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた” と書かれています。
今日の箇所の前の箇所で、ステファノを含む7人が、キリストを信じる弟子たちの中から、“食事の分配”の働きのために選ばれました。
7人が選ばれて、そして使徒たち(キリスト信者たちの中でリーダー的な存在であった人たち)が彼ら7人の上に手を置いて祈りました。
それは、彼ら(7人)に神の力と恵みが注がれ、彼らの働きの上に神の導きがありますようにという祈りでした。
その祈りは聞かれ、ステファノは神の恵みと神の力に満たされて、イエス・キリストの福音を伝えるための業やしるしを行うようにまでなったのです。
ステファノは、食事の分配と言う働きをするために教会の弟子たちの中から選ばれた7人の中の一人でした。
そのステファノが、イエス様や、使徒たちのように、福音宣教のための働きをする伝道者として、今日の箇所では描かれています。
ステファノは食事の分配という働きのために選ばれましたが、彼の働きや賜物は、その働きだけに限定されてはいなかったということです。
あるいはステファノが、食事の分配という働きをしながら、だんだんと、御言葉を語り伝えるという彼に与えられていた別の賜物も活かされるようになった、ということかもしれません。
いずれにしても、神の国、イエス・キリストの福音について語り伝える伝道の働きは、使徒のような、信者たちの中でのリーダーたちだけに限定されてはいなかったのです。
最初の頃の教会では、弟子たちひとり一人がその賜物に応じて御言葉を語ることができた、ということだと私は思います。
先週は、わたしたちの教会の信徒の方(牧師ではない方)が礼拝での宣教を担ってくださいました。
私たちの教会では、牧師でなくても、教会の委託と信認を受けた信徒の方に、礼拝での宣教(メッセージ)をお願いすることがあります。
私たちひとり一人がキリスト者として、専任の伝道者であるないに関わらず、神の言葉をそれぞれの賜物に応じて語ることができるのです。
そのように、一人ひとりに与えられた色々な賜物が、聖霊の導きによって、生き生きと活かされるような教会になりたいと、私たちは願います。
しかし、今日の箇所で、その時のステファノの伝道の働きに反対する人たちがいました。
彼らはキレネとアレクサンドリア(北アフリカの都市)出身で「解放された奴隷の会堂」(ローマ帝国によって奴隷にされていた人たちで解放されたユダヤ人たちの会堂)に属する人、そしてキリキア州とアジア州(今のトルコ地方)の人たちでした。
彼らはユダヤ人でしたが、イスラエル以外の国、地域の出身で、イスラエルに移り住むようになった、おそらく今日の前の箇所で描かれる“ギリシア語を話すユダヤ人”たちでした。
彼らはユダヤ教の教えと慣習に従っていたので、ステファノの語るイエス・キリストの福音に反対するため、ステファノと議論しました。
しステファノが知恵と霊とによって語るので、彼らはステファノに歯が立たなかった、と10節に書かれています。
ステファノに反対する人たちは、理屈や力によって、ステファノを言い負かそうとしたのでしょう。
しかし、議論や理屈ではなく、神から与えられた知恵と霊によって語られる神の言葉は、どんな議論や理屈よりも強いのです。それは神の言葉が真実であるからです。
聖書に伝えられるイエス様のお言葉、また聖書の言葉全体がなぜ私たちを捉え、心に響くのでしょうか。
それは聖書の言葉は神の霊感によって心を動かされた人たちが、神の知恵と霊をもって書き記した真実の神の言葉であるからです。
人間の理屈や議論の結果の言葉ではなく、知恵と霊とによって伝えられた神の言葉、聖書の言葉にこそ、私たちの心を震わせ、感動させる力があるのです。
そのような真実の聖書の言葉を土台として私たちは自分自身の信仰、また私たちの教会の信仰を建て上げていきましょう。
ステファノに反対する人たちは他の人々を、ユダヤ教の長老や律法学者たちまで扇動して、ステファノを捕まえて最高法院(裁判所)へ引いて行きました。
彼らに扇動された人々の姿を想像すると、私たち人が、いかに簡単に扇動されてしまう者であるか、感情や心を簡単に操作されてしまう者であるかを考えさせられます。
私たちも、今日の箇所で扇動されて、嘘の証言までするようにそそのかされた人たちと同じようになってしまう可能性が十分にあるのです。
私たちは弱く、罪深い存在であるからです。私たちは、自分と異なる意見や立場の人たちに反対し、その人たちを力づくでも押さえつけてしまいたいと思うことがあるからです。
そのように、扇動されたり、嘘の証言までしてしまうことを避けるため、私たちはどうすればよいのでしょうか。
それは、いつも聖書の御言葉に聞いて、御言葉に根ざして、神様の真実に触れ続けることです。
イエス・キリストの愛と恵みに触れて、罪赦されたことに感謝をし、神と人の前に謙虚であり続けることです。
御言葉に繋がり続け、御言葉を通して私たちをつかんでいてくださる神様の手を、私たちの側から離すことを決してしないことです。
信仰生活の習慣としては、聖書を読み(神の声を聞き続ける)、教会の礼拝に参加し(神の体の一部として、その体に留まり、繋がりつづける)、そして祈り(神に語りかけ)続けることです。
そして私たちは神の家族として互いに繋がりあって、悪しき力に屈したり、真実でないものに惑わされたりしないように、互いに励まし、支え合おうこともとても大切です。
私たちは弱くとも、強く、優しい、真実なる神が御言葉をもって常に必要なことを教えてくださいます。神の言葉に従って、私たちは歩んでいきましょう。
今日の聖書箇所で人々は、「この男は聖なる場所(神殿)と律法をけなしている」、「ナザレの人イエスは、神殿を破壊して、モーセの伝えた慣習を変えようとしている」などと言ってステファノを訴えました。
それらは嘘の証言でした。ステファノが伝えていたことは、イエス・キリストの神の真実であり、イエス様が伝えた真の神の愛でした。
悪意に満ちた反対者たちの中に立たされても、“ステファノの顔はさながら天使のようであった”、と今日の箇所の最後の節に書かれています。
それは、イエス・キリストを信じ、キリストが内に住まわる人はだれでもキリストのような光を放つことができる、ということです。
イエス・キリストが私たちの中心におられるならば、私たちは不完全な者であっても、私たちはキリストの光を、まるで天使のように、放つことができるようになるのです。
コリントの信徒への手紙二の3章18節(2 Corinthians 3:18)に次のように書かれています。
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
主の霊によって、私たちはキリストの光、神の栄光を映し出すことができるようになる、と言うのです。
キリストを信じ、キリストが私たちの内に住まわることで、キリストの光を私たちは放ち、キリストの栄光を映し出す者となることができるのです。
神に造られた者として、キリストの栄光、神の栄光を表すことができる、それ以上の光栄が他にあるでしょうか。
今日はお二人の方が、キリストへの信仰を新たに告白し、バプテスマ(洗礼)を受けられます。私たちの教会にとって、それは大きな喜びです。
信仰の新たな家族をお迎えして、私たちは神の言葉を、私たちの生き方と言葉と両方において実践し、世にキリストの光を放つ信仰者として、共に成長してまいりましょう。
キリストが私たちの内に住んでくださり、私たちがキリストの光を放ち、世がその光を認めることができますように。
前奏
招詞 列王記上10章8節
賛美 新生讃美歌2番 来たれ全能の主
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
信仰告白
献金
聖句 使徒言行録6章8~15節
祈祷
宣教 「知恵と霊とによって」
祈祷
賛美 新生讃美歌262番 み霊よくだりて
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所の初め(8節)に、“ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた” と書かれています。
今日の箇所の前の箇所で、ステファノを含む7人が、キリストを信じる弟子たちの中から、“食事の分配”の働きのために選ばれました。
7人が選ばれて、そして使徒たち(キリスト信者たちの中でリーダー的な存在であった人たち)が彼ら7人の上に手を置いて祈りました。
それは、彼ら(7人)に神の力と恵みが注がれ、彼らの働きの上に神の導きがありますようにという祈りでした。
その祈りは聞かれ、ステファノは神の恵みと神の力に満たされて、イエス・キリストの福音を伝えるための業やしるしを行うようにまでなったのです。
ステファノは、食事の分配と言う働きをするために教会の弟子たちの中から選ばれた7人の中の一人でした。
そのステファノが、イエス様や、使徒たちのように、福音宣教のための働きをする伝道者として、今日の箇所では描かれています。
ステファノは食事の分配という働きのために選ばれましたが、彼の働きや賜物は、その働きだけに限定されてはいなかったということです。
あるいはステファノが、食事の分配という働きをしながら、だんだんと、御言葉を語り伝えるという彼に与えられていた別の賜物も活かされるようになった、ということかもしれません。
いずれにしても、神の国、イエス・キリストの福音について語り伝える伝道の働きは、使徒のような、信者たちの中でのリーダーたちだけに限定されてはいなかったのです。
最初の頃の教会では、弟子たちひとり一人がその賜物に応じて御言葉を語ることができた、ということだと私は思います。
先週は、わたしたちの教会の信徒の方(牧師ではない方)が礼拝での宣教を担ってくださいました。
私たちの教会では、牧師でなくても、教会の委託と信認を受けた信徒の方に、礼拝での宣教(メッセージ)をお願いすることがあります。
私たちひとり一人がキリスト者として、専任の伝道者であるないに関わらず、神の言葉をそれぞれの賜物に応じて語ることができるのです。
そのように、一人ひとりに与えられた色々な賜物が、聖霊の導きによって、生き生きと活かされるような教会になりたいと、私たちは願います。
しかし、今日の箇所で、その時のステファノの伝道の働きに反対する人たちがいました。
彼らはキレネとアレクサンドリア(北アフリカの都市)出身で「解放された奴隷の会堂」(ローマ帝国によって奴隷にされていた人たちで解放されたユダヤ人たちの会堂)に属する人、そしてキリキア州とアジア州(今のトルコ地方)の人たちでした。
彼らはユダヤ人でしたが、イスラエル以外の国、地域の出身で、イスラエルに移り住むようになった、おそらく今日の前の箇所で描かれる“ギリシア語を話すユダヤ人”たちでした。
彼らはユダヤ教の教えと慣習に従っていたので、ステファノの語るイエス・キリストの福音に反対するため、ステファノと議論しました。
しステファノが知恵と霊とによって語るので、彼らはステファノに歯が立たなかった、と10節に書かれています。
ステファノに反対する人たちは、理屈や力によって、ステファノを言い負かそうとしたのでしょう。
しかし、議論や理屈ではなく、神から与えられた知恵と霊によって語られる神の言葉は、どんな議論や理屈よりも強いのです。それは神の言葉が真実であるからです。
聖書に伝えられるイエス様のお言葉、また聖書の言葉全体がなぜ私たちを捉え、心に響くのでしょうか。
それは聖書の言葉は神の霊感によって心を動かされた人たちが、神の知恵と霊をもって書き記した真実の神の言葉であるからです。
人間の理屈や議論の結果の言葉ではなく、知恵と霊とによって伝えられた神の言葉、聖書の言葉にこそ、私たちの心を震わせ、感動させる力があるのです。
そのような真実の聖書の言葉を土台として私たちは自分自身の信仰、また私たちの教会の信仰を建て上げていきましょう。
ステファノに反対する人たちは他の人々を、ユダヤ教の長老や律法学者たちまで扇動して、ステファノを捕まえて最高法院(裁判所)へ引いて行きました。
彼らに扇動された人々の姿を想像すると、私たち人が、いかに簡単に扇動されてしまう者であるか、感情や心を簡単に操作されてしまう者であるかを考えさせられます。
私たちも、今日の箇所で扇動されて、嘘の証言までするようにそそのかされた人たちと同じようになってしまう可能性が十分にあるのです。
私たちは弱く、罪深い存在であるからです。私たちは、自分と異なる意見や立場の人たちに反対し、その人たちを力づくでも押さえつけてしまいたいと思うことがあるからです。
そのように、扇動されたり、嘘の証言までしてしまうことを避けるため、私たちはどうすればよいのでしょうか。
それは、いつも聖書の御言葉に聞いて、御言葉に根ざして、神様の真実に触れ続けることです。
イエス・キリストの愛と恵みに触れて、罪赦されたことに感謝をし、神と人の前に謙虚であり続けることです。
御言葉に繋がり続け、御言葉を通して私たちをつかんでいてくださる神様の手を、私たちの側から離すことを決してしないことです。
信仰生活の習慣としては、聖書を読み(神の声を聞き続ける)、教会の礼拝に参加し(神の体の一部として、その体に留まり、繋がりつづける)、そして祈り(神に語りかけ)続けることです。
そして私たちは神の家族として互いに繋がりあって、悪しき力に屈したり、真実でないものに惑わされたりしないように、互いに励まし、支え合おうこともとても大切です。
私たちは弱くとも、強く、優しい、真実なる神が御言葉をもって常に必要なことを教えてくださいます。神の言葉に従って、私たちは歩んでいきましょう。
今日の聖書箇所で人々は、「この男は聖なる場所(神殿)と律法をけなしている」、「ナザレの人イエスは、神殿を破壊して、モーセの伝えた慣習を変えようとしている」などと言ってステファノを訴えました。
それらは嘘の証言でした。ステファノが伝えていたことは、イエス・キリストの神の真実であり、イエス様が伝えた真の神の愛でした。
悪意に満ちた反対者たちの中に立たされても、“ステファノの顔はさながら天使のようであった”、と今日の箇所の最後の節に書かれています。
それは、イエス・キリストを信じ、キリストが内に住まわる人はだれでもキリストのような光を放つことができる、ということです。
イエス・キリストが私たちの中心におられるならば、私たちは不完全な者であっても、私たちはキリストの光を、まるで天使のように、放つことができるようになるのです。
コリントの信徒への手紙二の3章18節(2 Corinthians 3:18)に次のように書かれています。
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
主の霊によって、私たちはキリストの光、神の栄光を映し出すことができるようになる、と言うのです。
キリストを信じ、キリストが私たちの内に住まわることで、キリストの光を私たちは放ち、キリストの栄光を映し出す者となることができるのです。
神に造られた者として、キリストの栄光、神の栄光を表すことができる、それ以上の光栄が他にあるでしょうか。
今日はお二人の方が、キリストへの信仰を新たに告白し、バプテスマ(洗礼)を受けられます。私たちの教会にとって、それは大きな喜びです。
信仰の新たな家族をお迎えして、私たちは神の言葉を、私たちの生き方と言葉と両方において実践し、世にキリストの光を放つ信仰者として、共に成長してまいりましょう。
キリストが私たちの内に住んでくださり、私たちがキリストの光を放ち、世がその光を認めることができますように。
2025年9月12日金曜日
2025年9月6日土曜日
2025年9月7日 主日礼拝
前奏
招詞 歴代誌上17章26~27節
賛美 新生讃美歌4番 来たりて歌え
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
祈りの時
証し
献金
聖句 使徒言行録6章1~7節
祈祷
宣教 「御言葉の奉仕」
祈祷
賛美 新生讃美歌506番 主と主のことばに
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内
本日の聖書箇所である使徒言行録6章1節から7節までの箇所には、キリスト者として、またキリスト教会として考えさせられること、教えられることが、実に多く語られています。
約2000年前の初期のキリスト教会の内部で、どのような問題が起きていたのかを、今日の箇所ははっきりと描き出しています。
初期のキリスト教会の信者たちは、ユダヤ教の権力者たちから迫害を受けていました。
ペトロをはじめとする、使徒と言われた12人のキリストの弟子たちは、イエス・キリストの名によって神の国の福音と救いを伝え始めました。
そして彼らを信じ、キリストを信じる弟子となる人たちが増えていきました。
それに対してユダヤ教の祭司や議員たち、権力者たちは、使徒たちに伝道活動をやめさせようとして、彼らを牢に入れたり、鞭打ったりして、なんとかして彼らの働きを妨害しようとしました。
しかし使徒たちはそれにも屈しないで、今日の箇所の直前の箇所では、彼らは鞭を打たれ宣教を禁じられながらも、使徒たちは“イエスの名のために、辱めを受けるほどの者となったことを喜んだ”と書かれています(使徒5章41節)。
イエス・キリストのために、神の働きをすることによって迫害されるのならば、それは十字架の上で人の罪のために死なれたイエス様に少しでも近づけるということだ、と彼らは思って、そのことを彼らは喜んだのです。
それは、この世界の普通の価値観とは全く違う生き方です。それは、困難や苦しみの中に、キリストと共にある幸いを見い出すという、信仰を通した新しい生き方です。
それはまた、自分を迫害する者を憎んだり反撃したりするのではなくて、キリストによる愛と憐れみによって、自分を迫害する者のためにさえ祈り、彼らの救いをも願って福音を語り続ける、という生き方でもあったと私は考えます。
使徒たち、他の弟子たちの働きによって、キリストに従う弟子の数は増えていきました。
今日の箇所では、弟子の数が増えてきたことによって、ある問題が起こったことが書かれています。
弟子の数が増えることで、迫害という外部からの問題だけでなく、彼ら教会の内部からも問題が起きたことを、今日の箇所は伝えているのです。
キリスト教会は人間の集まりです。罪のない人は誰もいない以上、教会も罪ある人間の集まりです。
人が集まるところには必ず何らかの問題や軋轢、衝突が起こります。それは避けられないということを、聖書ははっきりと伝えます。
今日の箇所で、“ギリシア語を話すユダヤ人”と“ヘブライ語を話すユダヤ人”と言われる人たちが登場します。
彼らはどちらもユダヤ人でしたが、ギリシア語を話すユダヤ人とは、イスラエル以外の国や地域で育ち、当時の地中海世界の共通語であったギリシア語を母語として身につけたユダヤ人たちでした。
古くはアッシリア帝国や、バビロン帝国、そしてイエス様の時代にはローマ帝国にイスラエルは支配されたことで、多くのユダヤ人たちがイスラエルを離れて外国に住むように(住まわされるように)なっていました。
そのように離散させられて諸外国に住むようになった彼らの中から、祖先の故国であるイスラエルに戻ってきた人たちがいました。それがギリシア語を話すユダヤ人と今日の箇所で言及されている人たちです。
一方ヘブライ語を話すユダヤ人とは、イスラエルの地で生まれ育ったユダヤ人であり、彼らの母語はヘブライ語でした。いわば、彼らは生粋のユダヤ人であったと言ってよいでしょう。
彼らは同じユダヤ人でしたが、第一言語が異なること、生まれ育った文化や環境も異なることから、彼らの間には色々な問題などが起きていたようです。
今日の箇所では、ギリシア語を話すユダヤ人たちのやもめ(夫をなくした女性たち)が、日々の食べ物の分配のことで不利益を受けていた、と描かれます。
立場的にはヘブライ語を話すユダヤ人たちのほうが優位な立場にあったのではないかと思われます。
彼らは同じユダヤ人でしたが、母語や生まれ育った文化、環境が違う、という違いのほうに彼らの関心は向けられていたのかもしれません。それが原因となって問題が生じたのでしょう。
私たちも、お互いの間の共通点を見いだすよりも、互いに違う部分、相容れない部分のほうに目が行きやすく、それが原因で他者との間に問題や軋轢が生じることも多いと思います。
私たちは、互いの間の共通点、互いの良い点を見いだすことによって(違いに目を向け、それを非難することよりも)、互いにより良い関係を築いていきたいと願います。
しかし、今日の箇所で描かれるように、苦情が表明されるということは決して悪いことばかりではありません。
誰かが不平や不満を感じている、実際に不利益があるのならば、それらが明らかにされることは、問題の解決のために必要なことです。
不満や疑問があっても、それを口にすることができず、力の弱い人たちが我慢し続けなければならないことが教会にあるのならば、それは決して良いことではありません。
あくまで互いに配慮と礼儀が求められますが、問題があれば、それを隠したり見ぬふりをしたりするのではなく、問題を明るみにだして、問題に向き合い解決を目指して、正直に共に祈り合える教会を私たちは目指したと思います。
弟子たちはその時、その問題にどのように対処したのでしょうか。12人の弟子、使徒たちが言った言葉を聞いてみましょう。
2~3節の言葉です。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊“と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう」
12人の使徒たちは、自分たち(12使徒たち)が一番大切にすべき務めは何か、についてまず思いを巡らせました。
そして彼らが一番大切にしなくてはならない務め、使徒たちが神と教会から託された務めは、“神の言葉への奉仕”、“祈りと御言葉の奉仕”だと、彼らは思い至ったのです。
食事の分配も信者たちの生活に関わる大切な務めでした。しかし使徒たちがそのような職務に専念して、祈りと御言葉の奉仕という彼らの最も大切な働きが犠牲になるのならば、それは教会全体にとってよいことではない、ということです。
神は、私たちひとり一人に、それぞれ異なる賜物を与えてくださいました。その賜物に優劣はありません。
祈りと御言葉への奉仕も、信者の集まりの中での食事の分配と言う働きも、どちらもイエス・キリストへの信仰を土台としている限り、神の国のための尊い働きです。
私たちも教会で、互いに与えられた賜物を認め合い、尊重し合いながら、また自分一人で色々なことができるわけではないことも認めつつ、互いに支え合って、互いの賜物が生かされながら主の教会を建て上げていきたいと願います。
2節に、“12人の使徒たちは、弟子をすべて呼び集めた”と書かれています。弟子がすべて集められたとは、今の私たちの教会で言えば、言わば“教会総会”が開かれたということです。
その事柄が教会全体に関係する大切なことであったので、弟子が全員集められ、全員参加による話し合いがもたれたのです。
私たちの教会はバプテスト教会です。バプテスト教会では、教会にとって大切なことは、教会員全員による祈りと話し合いによって決めるということを、とても大切にしています。
早く決めようと思えば、あるいはより効果的な決断を下そうと思えば、誰か優秀な人、あるいその事柄に専門的に通じた人だけで決めたほうが早いでしょう。
皆の意見を聞いて話し合って、異なる意見を纏めていくのは大変忍耐を要する過程であり、時間もかかります。
しかしそのような方法を通して、一人ひとりの思いや考えができるだけ尊重されること、その過程を通して神の御心を見い出すことを、私たちは大切にしています。
使徒たちは、集まった弟子たちに“あなたがたが7人を選び、霊と知恵に満ちた評判の人を選びなさい”と言いました。
一同はその提案に賛成し、そして彼ら弟子たち自身によって、信仰と聖霊に満ちている人々が7人選ばれました。
使徒たちは祈って彼ら7人の上に手を置きました。選ばれた7人が、誠実な信仰をもって、託された務めを果たしていくことができるように、使徒たちは彼らのために祈ったのです。
選んであとは彼らに任せておしまい、ではなく、使徒たちは選ばれた者たちのために祈り、それからも彼らを励まし続け、彼らのために祈り続けたと私は思います。
私(酒井)も別府国際バプテスト教会の牧師に就任した時、就任式で教会の皆さんに私の上に手を置いて祈っていただきました。
その祈りは、私が牧師としての務め、教会の皆様から託された御言葉の取り次ぎという働きに、聖霊の導きが豊かに与えられ、私がその働きに専念することができるように、という皆さんの願いが表された祈りでした。
今日の箇所を通して、私は私自身が皆さんに手をおいて祈っていただいた、あの時のことを鮮明に思い出します。
御言葉の宣教、また祈りという牧師にとっての第一義的な働きの大切さを改めて私は思い起こしています。御言葉の取り次ぎに私が専念できますように、皆さんには祈っていただきたいと願います。
先ほど申し上げたように、人が集まる以上、教会であっても(むしろ教会だからこそ)常に問題は起きます。しかし、問題が起きないことが大切なのではありません。
大切なことは、問題が起きたとき、それに対してどのように向き合うのか、教会に連なる一人ひとりが信仰をもって互いに祈り、互いに配慮しあって、愛をもって、その問題に向き合うことができるかが大切です。
今日の箇所では、食事の配給での公平さが保たれるため、その働きのために7人の“知恵と聖霊に満ちた人”が選ばれました。
彼らは私たちとは違う、何か特別な人たちだったのでしょうか。そうではありません。神は、今の私たちにも、聖霊と知恵とを豊かに与えてくださいます。
私たちが聖霊と知恵を与えてくださるように神に願うならば、その時神は必ず聖霊と知恵とを私たちに豊かに与えてくださいます。
私たちはキリストの弟子として、それぞれが与えられた果たすべき務めがあります。その務めに私たちが忠実であることができるように、イエス様に願い求めてまいりましょう。
そして祈りと御言葉、この二つは使徒や、現在で言えば牧師や伝道者だけでなく、全てのキリスト者とキリスト教会にとって最も大切な働きです。
祈りとは心を打ち明けて神と霊的に会話をすること、そして御言葉とは聖書の言葉であり、礼拝で語られる宣教メッセージです。
祈りと御言葉こそが、私たちの本当の霊の糧であり、祈りと御言葉への奉仕こそはキリスト教会だけに託された尊い務めです。
祈りと御言葉という、キリスト教会だけが頂いている宝物であり、また賜物を大切にしながら、その務めに専念をする、御言葉に奉仕するキリスト教会で私たちはあり続けましょう。
前奏
招詞 歴代誌上17章26~27節
賛美 新生讃美歌4番 来たりて歌え
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
祈りの時
証し
献金
聖句 使徒言行録6章1~7節
祈祷
宣教 「御言葉の奉仕」
祈祷
賛美 新生讃美歌506番 主と主のことばに
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内
本日の聖書箇所である使徒言行録6章1節から7節までの箇所には、キリスト者として、またキリスト教会として考えさせられること、教えられることが、実に多く語られています。
約2000年前の初期のキリスト教会の内部で、どのような問題が起きていたのかを、今日の箇所ははっきりと描き出しています。
初期のキリスト教会の信者たちは、ユダヤ教の権力者たちから迫害を受けていました。
ペトロをはじめとする、使徒と言われた12人のキリストの弟子たちは、イエス・キリストの名によって神の国の福音と救いを伝え始めました。
そして彼らを信じ、キリストを信じる弟子となる人たちが増えていきました。
それに対してユダヤ教の祭司や議員たち、権力者たちは、使徒たちに伝道活動をやめさせようとして、彼らを牢に入れたり、鞭打ったりして、なんとかして彼らの働きを妨害しようとしました。
しかし使徒たちはそれにも屈しないで、今日の箇所の直前の箇所では、彼らは鞭を打たれ宣教を禁じられながらも、使徒たちは“イエスの名のために、辱めを受けるほどの者となったことを喜んだ”と書かれています(使徒5章41節)。
イエス・キリストのために、神の働きをすることによって迫害されるのならば、それは十字架の上で人の罪のために死なれたイエス様に少しでも近づけるということだ、と彼らは思って、そのことを彼らは喜んだのです。
それは、この世界の普通の価値観とは全く違う生き方です。それは、困難や苦しみの中に、キリストと共にある幸いを見い出すという、信仰を通した新しい生き方です。
それはまた、自分を迫害する者を憎んだり反撃したりするのではなくて、キリストによる愛と憐れみによって、自分を迫害する者のためにさえ祈り、彼らの救いをも願って福音を語り続ける、という生き方でもあったと私は考えます。
使徒たち、他の弟子たちの働きによって、キリストに従う弟子の数は増えていきました。
今日の箇所では、弟子の数が増えてきたことによって、ある問題が起こったことが書かれています。
弟子の数が増えることで、迫害という外部からの問題だけでなく、彼ら教会の内部からも問題が起きたことを、今日の箇所は伝えているのです。
キリスト教会は人間の集まりです。罪のない人は誰もいない以上、教会も罪ある人間の集まりです。
人が集まるところには必ず何らかの問題や軋轢、衝突が起こります。それは避けられないということを、聖書ははっきりと伝えます。
今日の箇所で、“ギリシア語を話すユダヤ人”と“ヘブライ語を話すユダヤ人”と言われる人たちが登場します。
彼らはどちらもユダヤ人でしたが、ギリシア語を話すユダヤ人とは、イスラエル以外の国や地域で育ち、当時の地中海世界の共通語であったギリシア語を母語として身につけたユダヤ人たちでした。
古くはアッシリア帝国や、バビロン帝国、そしてイエス様の時代にはローマ帝国にイスラエルは支配されたことで、多くのユダヤ人たちがイスラエルを離れて外国に住むように(住まわされるように)なっていました。
そのように離散させられて諸外国に住むようになった彼らの中から、祖先の故国であるイスラエルに戻ってきた人たちがいました。それがギリシア語を話すユダヤ人と今日の箇所で言及されている人たちです。
一方ヘブライ語を話すユダヤ人とは、イスラエルの地で生まれ育ったユダヤ人であり、彼らの母語はヘブライ語でした。いわば、彼らは生粋のユダヤ人であったと言ってよいでしょう。
彼らは同じユダヤ人でしたが、第一言語が異なること、生まれ育った文化や環境も異なることから、彼らの間には色々な問題などが起きていたようです。
今日の箇所では、ギリシア語を話すユダヤ人たちのやもめ(夫をなくした女性たち)が、日々の食べ物の分配のことで不利益を受けていた、と描かれます。
立場的にはヘブライ語を話すユダヤ人たちのほうが優位な立場にあったのではないかと思われます。
彼らは同じユダヤ人でしたが、母語や生まれ育った文化、環境が違う、という違いのほうに彼らの関心は向けられていたのかもしれません。それが原因となって問題が生じたのでしょう。
私たちも、お互いの間の共通点を見いだすよりも、互いに違う部分、相容れない部分のほうに目が行きやすく、それが原因で他者との間に問題や軋轢が生じることも多いと思います。
私たちは、互いの間の共通点、互いの良い点を見いだすことによって(違いに目を向け、それを非難することよりも)、互いにより良い関係を築いていきたいと願います。
しかし、今日の箇所で描かれるように、苦情が表明されるということは決して悪いことばかりではありません。
誰かが不平や不満を感じている、実際に不利益があるのならば、それらが明らかにされることは、問題の解決のために必要なことです。
不満や疑問があっても、それを口にすることができず、力の弱い人たちが我慢し続けなければならないことが教会にあるのならば、それは決して良いことではありません。
あくまで互いに配慮と礼儀が求められますが、問題があれば、それを隠したり見ぬふりをしたりするのではなく、問題を明るみにだして、問題に向き合い解決を目指して、正直に共に祈り合える教会を私たちは目指したと思います。
弟子たちはその時、その問題にどのように対処したのでしょうか。12人の弟子、使徒たちが言った言葉を聞いてみましょう。
2~3節の言葉です。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊“と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう」
12人の使徒たちは、自分たち(12使徒たち)が一番大切にすべき務めは何か、についてまず思いを巡らせました。
そして彼らが一番大切にしなくてはならない務め、使徒たちが神と教会から託された務めは、“神の言葉への奉仕”、“祈りと御言葉の奉仕”だと、彼らは思い至ったのです。
食事の分配も信者たちの生活に関わる大切な務めでした。しかし使徒たちがそのような職務に専念して、祈りと御言葉の奉仕という彼らの最も大切な働きが犠牲になるのならば、それは教会全体にとってよいことではない、ということです。
神は、私たちひとり一人に、それぞれ異なる賜物を与えてくださいました。その賜物に優劣はありません。
祈りと御言葉への奉仕も、信者の集まりの中での食事の分配と言う働きも、どちらもイエス・キリストへの信仰を土台としている限り、神の国のための尊い働きです。
私たちも教会で、互いに与えられた賜物を認め合い、尊重し合いながら、また自分一人で色々なことができるわけではないことも認めつつ、互いに支え合って、互いの賜物が生かされながら主の教会を建て上げていきたいと願います。
2節に、“12人の使徒たちは、弟子をすべて呼び集めた”と書かれています。弟子がすべて集められたとは、今の私たちの教会で言えば、言わば“教会総会”が開かれたということです。
その事柄が教会全体に関係する大切なことであったので、弟子が全員集められ、全員参加による話し合いがもたれたのです。
私たちの教会はバプテスト教会です。バプテスト教会では、教会にとって大切なことは、教会員全員による祈りと話し合いによって決めるということを、とても大切にしています。
早く決めようと思えば、あるいはより効果的な決断を下そうと思えば、誰か優秀な人、あるいその事柄に専門的に通じた人だけで決めたほうが早いでしょう。
皆の意見を聞いて話し合って、異なる意見を纏めていくのは大変忍耐を要する過程であり、時間もかかります。
しかしそのような方法を通して、一人ひとりの思いや考えができるだけ尊重されること、その過程を通して神の御心を見い出すことを、私たちは大切にしています。
使徒たちは、集まった弟子たちに“あなたがたが7人を選び、霊と知恵に満ちた評判の人を選びなさい”と言いました。
一同はその提案に賛成し、そして彼ら弟子たち自身によって、信仰と聖霊に満ちている人々が7人選ばれました。
使徒たちは祈って彼ら7人の上に手を置きました。選ばれた7人が、誠実な信仰をもって、託された務めを果たしていくことができるように、使徒たちは彼らのために祈ったのです。
選んであとは彼らに任せておしまい、ではなく、使徒たちは選ばれた者たちのために祈り、それからも彼らを励まし続け、彼らのために祈り続けたと私は思います。
私(酒井)も別府国際バプテスト教会の牧師に就任した時、就任式で教会の皆さんに私の上に手を置いて祈っていただきました。
その祈りは、私が牧師としての務め、教会の皆様から託された御言葉の取り次ぎという働きに、聖霊の導きが豊かに与えられ、私がその働きに専念することができるように、という皆さんの願いが表された祈りでした。
今日の箇所を通して、私は私自身が皆さんに手をおいて祈っていただいた、あの時のことを鮮明に思い出します。
御言葉の宣教、また祈りという牧師にとっての第一義的な働きの大切さを改めて私は思い起こしています。御言葉の取り次ぎに私が専念できますように、皆さんには祈っていただきたいと願います。
先ほど申し上げたように、人が集まる以上、教会であっても(むしろ教会だからこそ)常に問題は起きます。しかし、問題が起きないことが大切なのではありません。
大切なことは、問題が起きたとき、それに対してどのように向き合うのか、教会に連なる一人ひとりが信仰をもって互いに祈り、互いに配慮しあって、愛をもって、その問題に向き合うことができるかが大切です。
今日の箇所では、食事の配給での公平さが保たれるため、その働きのために7人の“知恵と聖霊に満ちた人”が選ばれました。
彼らは私たちとは違う、何か特別な人たちだったのでしょうか。そうではありません。神は、今の私たちにも、聖霊と知恵とを豊かに与えてくださいます。
私たちが聖霊と知恵を与えてくださるように神に願うならば、その時神は必ず聖霊と知恵とを私たちに豊かに与えてくださいます。
私たちはキリストの弟子として、それぞれが与えられた果たすべき務めがあります。その務めに私たちが忠実であることができるように、イエス様に願い求めてまいりましょう。
そして祈りと御言葉、この二つは使徒や、現在で言えば牧師や伝道者だけでなく、全てのキリスト者とキリスト教会にとって最も大切な働きです。
祈りとは心を打ち明けて神と霊的に会話をすること、そして御言葉とは聖書の言葉であり、礼拝で語られる宣教メッセージです。
祈りと御言葉こそが、私たちの本当の霊の糧であり、祈りと御言葉への奉仕こそはキリスト教会だけに託された尊い務めです。
祈りと御言葉という、キリスト教会だけが頂いている宝物であり、また賜物を大切にしながら、その務めに専念をする、御言葉に奉仕するキリスト教会で私たちはあり続けましょう。
2025年8月30日土曜日
2025年8月31日 主日礼拝
前奏
招詞 コヘレトの言葉3章14節
賛美 新生讃美歌618番 主のためにわれは生く
主の祈り
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
献金
聖句 使徒言行録5章27~42節
祈祷
宣教 「神から出たものであれば」
祈祷
賛美 新生讃美歌520番 人生の海のあらしに
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
キリスト者(クリスチャン)とは、キリストに従う者です。いつもキリストに従って生きることはできないとしても、キリスト者は、神であるキリストに従って生きることを決意している者です。
私たちは何かに従って生きていきます。それを私たちが意識しているか、していないかに関わらず、私たちは何らかの考え、自分の経験、自分の希望、他の人からの指示や助言といったものに従って、生きています。
キリスト者も、自分自身の考えや希望、また他の人からの助言などにも、もちろん耳を傾けます。
しかしキリスト者は、神であるキリストの教え、聖書の御言葉を最も大切な指針と基準として生きていきます。
もし自分自身の指針、あるいは希望と、神が言われることが違う場合には、キリスト者は神に従って生きます。
キリスト者はそう決意しているはずです。しかし、それは簡単なことではありません。
今日の聖書箇所で、ペトロと他のキリストの弟子たち(使徒と言われた、初期の教会の中心的メンバーたち)が「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言っています(29節)。
彼らのその姿から、神に従って生きること、神の御心を求めて生きること、について今日私たちは共に考えたいと思います。
今日の前の箇所(先週の礼拝メッセージで私たちが聞いた場面)で、使徒たちは捕らえられて牢に入れられていました。
イエス・キリストの名によって話してはならない、と命じられていたのに、彼らはキリストの福音を宣教し続けていたので、彼らは捕まってしまったのです。
しかし主の天使が来て牢の戸を開け、彼らを外へ連れ出しました。その時、主の天使が彼らに言いました。
「行って、神殿の境内に立ち、命の言葉(神の言葉)を残らず民衆に告げなさい」(20節)。
その声に従い、使徒たちは神殿の境内で、再び人々を教えていました。
そして彼らは再び捕らえられ、最高法院(当時のユダヤ社会の最高裁判所のようなもの)の中に立たされた、というのが今日の聖書箇所です。
最高法院は、当時のユダヤ社会の最高の権威であり、最も力のある機関(組織)であったと言ってよいでしょう。
大祭司が使徒たちに言います。
「あの名(イエス・キリストの名)によって教えてはならないと、厳しく命じたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」(28節)
そこでペトロと他の使徒たちは答えます。
「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません
相当な力と権威をもった最高法院で、しかも大祭司という宗教的に一番高い地位にある人から尋問されても、ペトロ達はそのように堂々と答えることができました。
ペトロたちをそのように堂々と振舞わせたのは、彼ら自身の強さだったのでしょうか。そうではなく、それは十字架と復活のイエス・キリストでした。
31節をお読みします。ペトロたちの言葉です。
31神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。
“この方(him)”とは、イエス・キリストです。なぜキリストが十字架で死に、そして復活したのか。
それは、イスラエル全体、最後にはすべての人々に罪を自覚させ、神に立ち返って、人々が罪赦されて、救われるためだ、とペトロは言うのです。
その確信が、大祭司を前にしても、ペトロに堂々と語らせる力となっていたのです。
十字架と復活のキリストに救われた者は、“人間に従うよりは、神に従わねばならない”という確信をもって、何とかその通りに生きようと努力をする者になるのです。
人間に従うのではなく神に従う、とは、人のことを軽視したり無視したりすることではありません。それは、人間よりも主、神を恐れるということです。
“私たちの命の源であり、この世界のすべてをお造りになったお方である神をこそ、神のみを私たちは恐れなさい”、と聖書は私たちに命じます。
神への恐れを正しく持つと、私たちは人に従うのではなく神に従う、という生き方がだんだんとできるようになると、私は信じます。
私たちは神を恐れ敬うことを知ると、自分以外の他者をも敬って、大切な存在として向き合うことができるようになります。
そして、もし神が私たちに指し示すことと、人や、私たちの周りの社会が私たちに指し示すことが異なる場合には、キリスト者として神に従うことができますようにと、私たちは願います。
私たち信仰者一人ひとりが、そして教会が、“人間に聞き従うよりも、神に聞き従うこと”の意味を考え続け、それを実践していくことができるようにと私たちは願います。
今日の箇所で、そのような使徒たちの言葉を聞いた最高法院の人たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうとしました(33節)。
しかし、その時本当に思わぬところ(人)から、使徒たちへの助けの手が差し伸べられたのです。
その時、最高法院の中で立ち上がって、議員たち全員に冷静な判断を呼び掛けたのは、外ならぬその最高法院のメンバーの一人でした。
彼は、”民衆全体から尊敬されていた律法の教師“で、ファリサイ派に属するガマリエルという教師でした。
普通に考えれば、彼(ガマリエル)は最高法院の議員たちの側の人であり、使徒たちとは対立する立場の人であったはずです。
しかしガマリエルは、大祭司や他の議員たちとは違い、非常に公平な、知恵のある判断をして、“あの者たち(使徒)の取り扱いは慎重にすべきだ”と主張しました。
ガマリエルは過去にあった出来事を議員たちに思い起こさせて、それらを教訓として、冷静に判断をしよう、と呼びかけます。
最初の出来事は、“かつてテウダという人が自分のことを何か偉い者のように言って立ち上がり、400人ぐらいの人が彼に従った”という騒乱のことでした。
その時テウダは殺され、従っていた者たちも皆散り散りになった、と言います。
次の出来事は、ガリラヤのユダという人が民衆を率いて起こした反乱です。結局、彼(ユダ)も滅び、彼につき従った者たちも皆、ちりぢりにさせられた、という出来事でした。
そしてガマリエルは、最高法院の議員たちに、“今回、彼ら(ペトロと使徒たち)からは手を引きなさい。何もするな”と言いました。
38節~39節の彼の言葉を聞きましょう。
38そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
39神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」
このような判断をすることができたガマリエルと言う人はすごい人物であったと、私は思います。
ガマリエルにこのような知恵ある判断と言葉を与えたのは、まさに神であったと言ってよいと思います。
ガマリエルの言葉は、神から私たちへの大切な教えをいくつも含んでいると私は考えます。私が思わされた、その中の二つを申し上げます。
一つは、やはり大切なことは何事も慎重に、神の御心を求めて祈り、決して早急に判断したり行動したりしない、ということです。
「何とかしなくては」という焦りや、自分自身の感情(怒りの感情など)だけに大きく突き動かされて行動しない、ということです。
重要であればあるほど、慎重に、感情的な判断をするのではなく、祈り、考え、神の御心を求めることによって最適な判断をくだすことができるように、私たちは務めましょう。
そしてもう一つは、“それが人間から出たものならば自滅する。それが神から出たものならば、それを滅ぼすことはできない”ということです。
ガマリエルには、ペトロたちの働きが神から出たものだ、という思いがあったのかもしれません。
いずれにしても彼は、“もしそれが人間から出たものであれば、自滅する。決してそれは成功することはない。しかし、もしそれが神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことは決してできない。神が彼らと共におられるのだから”と考えたのです。
このような知恵の言葉、冷静で信仰的な判断が、使徒たちとは本来反対の立場の者の中から出たとは、驚きです。
この時ペトロと他の使徒たちは、敵の側によって助けられた、と言ってよいと私は思います。これも、神のなさる不思議な業です。
神はこのように様々な人を用いて、ご自身のご計画を進められることがあります。神は色々な人を通して語ることがあるのです。
ですから私たちは、自分以外の色々な人の声や意見、自分とは異なる考えや意見を持つ人々の声、互いの声に耳を傾け合うことを大切にいたしましょう。
ガマリエルの意見は聞き入れられましたが、しかし使徒たちは釈放される前に、鞭で打たれて、そして“イエスの名によって話してはならない”と再び命令されました。
40節を見ますと、弟子たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と書かれています。
そして彼らはそれからも境内で、またあちらこちらの家でメシア(救い主)・イエスについて、その福音を告げ知らせ続けた、という描写で今日の箇所は終わります。
鞭打たれたことは彼らには痛く、またそれは屈辱でもあったはずです。
しかし、体の痛みや屈辱を上回る喜びが彼らには与えられました。それはキリストの福音を告げ知らせる、という喜びでした。
今、直接的な迫害は受けていない私たちには、この箇所は理解しにくいかと、思います。
しかし、現代の信仰者である私たちも、キリスト者としての信仰と、私たちが生きる社会、世の中の風潮や考え方が対立することで、辱めとまでは言えなくても、不都合な思いや、嫌な思いをすることがあるかもしれません。
私たちは、私たちが生きる社会、世界のためにも祈ります。
そしてキリストによって救われた私たちは、やはり“神からでたもの”を大切にした信仰に根ざした生き方を、世が求める風潮や常識よりも大切にしていきたいと願います。
初期の頃のキリスト信者たち、ペトロや他の使徒たちが、迫害の中でも、神や他の人々の助けを得ながら福音を語り続けたその歴史の上に、今の私たちも生かされています。
信仰を持っていることで経験する困難や苦難があっても、そのために嫌な思いをすることがあっても、“それが神から出たものであれば、決して滅ぼされない”という希望と確信をもって、私たちは信仰を生きていきたいと願います。
前奏
招詞 コヘレトの言葉3章14節
賛美 新生讃美歌618番 主のためにわれは生く
主の祈り
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
献金
聖句 使徒言行録5章27~42節
祈祷
宣教 「神から出たものであれば」
祈祷
賛美 新生讃美歌520番 人生の海のあらしに
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
キリスト者(クリスチャン)とは、キリストに従う者です。いつもキリストに従って生きることはできないとしても、キリスト者は、神であるキリストに従って生きることを決意している者です。
私たちは何かに従って生きていきます。それを私たちが意識しているか、していないかに関わらず、私たちは何らかの考え、自分の経験、自分の希望、他の人からの指示や助言といったものに従って、生きています。
キリスト者も、自分自身の考えや希望、また他の人からの助言などにも、もちろん耳を傾けます。
しかしキリスト者は、神であるキリストの教え、聖書の御言葉を最も大切な指針と基準として生きていきます。
もし自分自身の指針、あるいは希望と、神が言われることが違う場合には、キリスト者は神に従って生きます。
キリスト者はそう決意しているはずです。しかし、それは簡単なことではありません。
今日の聖書箇所で、ペトロと他のキリストの弟子たち(使徒と言われた、初期の教会の中心的メンバーたち)が「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言っています(29節)。
彼らのその姿から、神に従って生きること、神の御心を求めて生きること、について今日私たちは共に考えたいと思います。
今日の前の箇所(先週の礼拝メッセージで私たちが聞いた場面)で、使徒たちは捕らえられて牢に入れられていました。
イエス・キリストの名によって話してはならない、と命じられていたのに、彼らはキリストの福音を宣教し続けていたので、彼らは捕まってしまったのです。
しかし主の天使が来て牢の戸を開け、彼らを外へ連れ出しました。その時、主の天使が彼らに言いました。
「行って、神殿の境内に立ち、命の言葉(神の言葉)を残らず民衆に告げなさい」(20節)。
その声に従い、使徒たちは神殿の境内で、再び人々を教えていました。
そして彼らは再び捕らえられ、最高法院(当時のユダヤ社会の最高裁判所のようなもの)の中に立たされた、というのが今日の聖書箇所です。
最高法院は、当時のユダヤ社会の最高の権威であり、最も力のある機関(組織)であったと言ってよいでしょう。
大祭司が使徒たちに言います。
「あの名(イエス・キリストの名)によって教えてはならないと、厳しく命じたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」(28節)
そこでペトロと他の使徒たちは答えます。
「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません
相当な力と権威をもった最高法院で、しかも大祭司という宗教的に一番高い地位にある人から尋問されても、ペトロ達はそのように堂々と答えることができました。
ペトロたちをそのように堂々と振舞わせたのは、彼ら自身の強さだったのでしょうか。そうではなく、それは十字架と復活のイエス・キリストでした。
31節をお読みします。ペトロたちの言葉です。
31神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。
“この方(him)”とは、イエス・キリストです。なぜキリストが十字架で死に、そして復活したのか。
それは、イスラエル全体、最後にはすべての人々に罪を自覚させ、神に立ち返って、人々が罪赦されて、救われるためだ、とペトロは言うのです。
その確信が、大祭司を前にしても、ペトロに堂々と語らせる力となっていたのです。
十字架と復活のキリストに救われた者は、“人間に従うよりは、神に従わねばならない”という確信をもって、何とかその通りに生きようと努力をする者になるのです。
人間に従うのではなく神に従う、とは、人のことを軽視したり無視したりすることではありません。それは、人間よりも主、神を恐れるということです。
“私たちの命の源であり、この世界のすべてをお造りになったお方である神をこそ、神のみを私たちは恐れなさい”、と聖書は私たちに命じます。
神への恐れを正しく持つと、私たちは人に従うのではなく神に従う、という生き方がだんだんとできるようになると、私は信じます。
私たちは神を恐れ敬うことを知ると、自分以外の他者をも敬って、大切な存在として向き合うことができるようになります。
そして、もし神が私たちに指し示すことと、人や、私たちの周りの社会が私たちに指し示すことが異なる場合には、キリスト者として神に従うことができますようにと、私たちは願います。
私たち信仰者一人ひとりが、そして教会が、“人間に聞き従うよりも、神に聞き従うこと”の意味を考え続け、それを実践していくことができるようにと私たちは願います。
今日の箇所で、そのような使徒たちの言葉を聞いた最高法院の人たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうとしました(33節)。
しかし、その時本当に思わぬところ(人)から、使徒たちへの助けの手が差し伸べられたのです。
その時、最高法院の中で立ち上がって、議員たち全員に冷静な判断を呼び掛けたのは、外ならぬその最高法院のメンバーの一人でした。
彼は、”民衆全体から尊敬されていた律法の教師“で、ファリサイ派に属するガマリエルという教師でした。
普通に考えれば、彼(ガマリエル)は最高法院の議員たちの側の人であり、使徒たちとは対立する立場の人であったはずです。
しかしガマリエルは、大祭司や他の議員たちとは違い、非常に公平な、知恵のある判断をして、“あの者たち(使徒)の取り扱いは慎重にすべきだ”と主張しました。
ガマリエルは過去にあった出来事を議員たちに思い起こさせて、それらを教訓として、冷静に判断をしよう、と呼びかけます。
最初の出来事は、“かつてテウダという人が自分のことを何か偉い者のように言って立ち上がり、400人ぐらいの人が彼に従った”という騒乱のことでした。
その時テウダは殺され、従っていた者たちも皆散り散りになった、と言います。
次の出来事は、ガリラヤのユダという人が民衆を率いて起こした反乱です。結局、彼(ユダ)も滅び、彼につき従った者たちも皆、ちりぢりにさせられた、という出来事でした。
そしてガマリエルは、最高法院の議員たちに、“今回、彼ら(ペトロと使徒たち)からは手を引きなさい。何もするな”と言いました。
38節~39節の彼の言葉を聞きましょう。
38そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
39神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」
このような判断をすることができたガマリエルと言う人はすごい人物であったと、私は思います。
ガマリエルにこのような知恵ある判断と言葉を与えたのは、まさに神であったと言ってよいと思います。
ガマリエルの言葉は、神から私たちへの大切な教えをいくつも含んでいると私は考えます。私が思わされた、その中の二つを申し上げます。
一つは、やはり大切なことは何事も慎重に、神の御心を求めて祈り、決して早急に判断したり行動したりしない、ということです。
「何とかしなくては」という焦りや、自分自身の感情(怒りの感情など)だけに大きく突き動かされて行動しない、ということです。
重要であればあるほど、慎重に、感情的な判断をするのではなく、祈り、考え、神の御心を求めることによって最適な判断をくだすことができるように、私たちは務めましょう。
そしてもう一つは、“それが人間から出たものならば自滅する。それが神から出たものならば、それを滅ぼすことはできない”ということです。
ガマリエルには、ペトロたちの働きが神から出たものだ、という思いがあったのかもしれません。
いずれにしても彼は、“もしそれが人間から出たものであれば、自滅する。決してそれは成功することはない。しかし、もしそれが神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことは決してできない。神が彼らと共におられるのだから”と考えたのです。
このような知恵の言葉、冷静で信仰的な判断が、使徒たちとは本来反対の立場の者の中から出たとは、驚きです。
この時ペトロと他の使徒たちは、敵の側によって助けられた、と言ってよいと私は思います。これも、神のなさる不思議な業です。
神はこのように様々な人を用いて、ご自身のご計画を進められることがあります。神は色々な人を通して語ることがあるのです。
ですから私たちは、自分以外の色々な人の声や意見、自分とは異なる考えや意見を持つ人々の声、互いの声に耳を傾け合うことを大切にいたしましょう。
ガマリエルの意見は聞き入れられましたが、しかし使徒たちは釈放される前に、鞭で打たれて、そして“イエスの名によって話してはならない”と再び命令されました。
40節を見ますと、弟子たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と書かれています。
そして彼らはそれからも境内で、またあちらこちらの家でメシア(救い主)・イエスについて、その福音を告げ知らせ続けた、という描写で今日の箇所は終わります。
鞭打たれたことは彼らには痛く、またそれは屈辱でもあったはずです。
しかし、体の痛みや屈辱を上回る喜びが彼らには与えられました。それはキリストの福音を告げ知らせる、という喜びでした。
今、直接的な迫害は受けていない私たちには、この箇所は理解しにくいかと、思います。
しかし、現代の信仰者である私たちも、キリスト者としての信仰と、私たちが生きる社会、世の中の風潮や考え方が対立することで、辱めとまでは言えなくても、不都合な思いや、嫌な思いをすることがあるかもしれません。
私たちは、私たちが生きる社会、世界のためにも祈ります。
そしてキリストによって救われた私たちは、やはり“神からでたもの”を大切にした信仰に根ざした生き方を、世が求める風潮や常識よりも大切にしていきたいと願います。
初期の頃のキリスト信者たち、ペトロや他の使徒たちが、迫害の中でも、神や他の人々の助けを得ながら福音を語り続けたその歴史の上に、今の私たちも生かされています。
信仰を持っていることで経験する困難や苦難があっても、そのために嫌な思いをすることがあっても、“それが神から出たものであれば、決して滅ぼされない”という希望と確信をもって、私たちは信仰を生きていきたいと願います。
2025年8月23日土曜日
2025年8月24日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編33篇6節
賛美 新生讃美歌 495番 主よ み手もて
主の祈り
賛美 新生讃美歌 510番 主の言葉の
主の晩餐
献金
聖句 使徒言行録5章12~26節
祈祷
宣教 「命の言葉を残らず民衆に告げなさい」
祈祷
賛美 新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」という一文で今日の聖書箇所は始まります。
使徒と言われた、キリストの弟子たちの中でも中心的な役割を担った弟子たちによって、多くのしるしと不思議な業が行われていました。
それは、人々の病気を癒したり、悪霊につかれた人たちから悪霊を追い出したりといった働きでした。
使徒たちによってそのような働きがなされていたのですが、それを可能にしたのは、彼ら自身の力ではありませんでした。
それは、主なる神の力でした。
そして、使徒たちの手によって、多くのしるしや不思議な業がなされていたことは、彼らの祈りに神が答えてくださったという証拠でも、ありました。
彼らは、今日の箇所よりも前の箇所で、次のように祈ったことがありました。
使徒言行録4章29~30節
29主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
30どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」
使徒たちは、自分たちの伝道活動を妨害しようとする者たちからの迫害にあっても、大胆に神の言葉を語ることができるように、と祈りました。
そして厳しい状況の中でも、神が差し伸べてくださる手によって、そしてイエス・キリストの名によって病気が癒され、苦しむ人々が助けられますように、と彼らは祈ったのです。
それはすなわち“神の働きがなされますように。そのために、私たちは自分を捧げ、あなた(主なる神)の手足となって働きます”という、使徒たちの決意でもありました。
神は、私たちが自分を神に捧げ、“神のために働きます”と願い、そう祈るときに、きっとその祈りに応えてくださいます。
神が私たちの祈りを聞いてくださるかどうかは、それはキリストを信じ祈る者が、自分を神に献げるという決意をするかどうかにかかっているのです。
私たちが自分自身を捧げ、そして神の業が自分たちを通して行われるという信仰の経験を重ねる度毎に、私たちの信仰は強くされ、そして成長していきます。
自分自身を神に委ね、神に捧げて、そして神の業が実現していく、そのような信仰経験を私たちは共に積み重ねたいと願います。
今日の箇所で、使徒たちは心を一つにして「ソロモンの回廊に集まっていた、とも書かれています。「ソロモンの回廊とは、エルサレムの神殿の外の庭にあった長い廊下のことです。
ソロモンの回廊は、かつてイエス様が御自分のことを“わたしはメシア”だとユダヤ人たちにはっきりと言った場所でした。
ヨハネによる福音書10章22節からの箇所で、イエス様がソロモンの回廊を歩いておられた時のことが書かれています。
そこでユダヤ人たちがイエス様を囲んで、「もしあなたがメシア(救い主)なら、はっきりそう言いなさい」と問い詰めました(ヨハネ10:24)
イエス様はそこで「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証をしている“とお答えになりました(ヨハネ10:25)。
今日の箇所で、イエス様は目に見える人としては使徒たちとはもう共におられませんでしたが、使徒たちはかつてソロモンの回廊でイエス様がおっしゃったことを思い出していたのだと私は想像します。
イエス様は、ご自分がメシア(人の罪を救う救い主)であることを言葉でも述べました。イエス・キリストこそがメシアである、それは使徒たちがその上に立つ真実そのものでした。
そしてイエス様は、“信じない人たちもいるが、ご自身がなさる色々な業(行い)が、ご自身について証しをする”とも言ったのでした。
使徒たちはイエス様の、そのお言葉と行いを思い起こしながら、彼らの言葉だけでなく、彼らの実際の働きを通しても、神のご栄光が明らかになりますようにと願っていたのでしょう。
彼らのその願いと祈りは神に聞かれました。様々な力ある業が使徒たちによってなされながら、それらを通して神の国が人々に伝えられていきました。
15節以降の箇所には、“人々が病人を大通りに運び出して、ペトロが通りがかる時に、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした”と書かれています。
16節には、多くの病人や汚れた霊に悩まされている人々が使徒たちのもとへ連れて来られ、一人残らずいやされた、と書かれています。
“一人残らずいやされた”とは、誰もが自分が本当に望んでいたものを得た、ということです。
私はこのことから、現在の教会が“だれもが自分が本当に望むものを得る”ことができる場所であればいいな、と思わされました。
私たちが本当に望むものとは、何でしょうか。
人はそれぞれ、満たされない心を抱えていると私は思います。なぜか満たされないその心を何かによって満たしたいという願いを私たちは持っています。
それは霊的な渇望であり魂の欲求です。それは、私たちは色々なものでとにかく満たそうとします。
しかし、私たちの魂と霊の渇きを本当に満たしてくださるお方は主なる神のみです。キリストを通して現わされた神の愛のみが私たちの心を満たします。
教会で、私たちの心と魂を本当に満たしてくださるお方、神によって、教会に連なる一人ひとりが、全て満たされますように、一人残らず私たちが癒されますようにと私は願います。
一時的なものではなく、永続的で確実、真実であるお方、神の愛で私たちひとり一人が、満たされますように。教会がそのような神の愛で常に満たされますようにと、私は心より願っています。
今日の箇所の後半で、大祭司と仲間のサドカイ派たちから使徒たちへのねたみが起こったことが書かれています。彼らは使徒たちを捕まえて牢にいれてしまいました。
“ねたみ”は人の罪の性質の中でも最たるものの一つです。人々がイエス・キリストを十字架につけたのも、ユダヤの権力者たちの妬みのためだったと、聖書には書かれています。
大祭司やサドカイ派という、ユダヤ教の主要な派を形成する彼らにとって、使徒たちの手によって力ある業が行われ、そして彼らが人々から賞賛されていたことは、我慢ならないことだったのです。
大祭司もサドカイ派も神を信じ、神の御心を人々に伝え、神に仕えることへと人を促すような働きをすべき人たちでした。
彼らが彼らの職務に本当に忠実であったならば、キリストの使徒たちにねたみを起こすような必要はなかったはずです。神の業が彼らによって行われていたからです。
しかし彼らは、使徒たちの手によって素晴らしい業が行われていることを認めるよりも、自分たちが受けるべき(と彼が思っていた)人々からの称賛が、使徒たちに向けられていることにねたみを感じ、そのねたみが彼らの心を燃やしました。
そして彼らは使徒たちを牢に入れたのです。しかし、主は天使を遣わして使徒たちを助けられました。
私たちも危機的な状況に陥ることがあり得ます。しかし主なる神は、私たちがもう助からないと思う時にも、神のご計画に基づいて、必要な助け、そして助け手を私たちに送ってくださいます。
イエス様が十字架にかけられて死に、墓に葬られた後、三日目に婦人たちがイエス様のお身体に香料を塗ろうと思って墓へ行きました。イースター(復活日)の朝でした。
墓の入り口は大きな石で覆われていましたが、婦人たちは誰がその岩を転がしてくれるのかは分からないまま、墓へと急ぎました。(マルコ16章)しかし婦人たちが墓へ到着すると石はわきへ転がしてあったのです。
大きな障害物であったキリストの墓の入り口の石が動かされていたように、私たちも、“どうすればよいのだろう”と迷い、悩む時、その時神が必ず助けを与えてくださいます。
神は神のご計画に沿って、必要な助けと導きを必ず私たちに与えてくださいますから、神を信頼して困難な中でも私たちは、少しづつでも歩み続けようではありませんか。
主の天使が、使徒たちが入れられていた牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、次のように言いました。
20節「行って、神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」
「この命の言葉を残らず民衆(人々)に告げなさい」~これは今も私たちに与えられているキリスト者としての使命です。
教会では神の言葉(聖書の言葉)が聞かれ、分かち合われます。そして神の言葉は命の言葉なのです。私たち人は神の言葉によってこそ生きる者であるからです。
神の言葉は、“人が生きる上で役に立つから、聞かないよりは聞いておいたほうがよい”という程度の言葉ではありません。神の言葉は私たちが生きるための命の言葉です。
その言葉がそれを信じる者たちによって守られ、また教会によって守られ、聞かれ、世に伝えられていくようにと、神はお定めになりました。
今日の箇所で、主なる神が天使を遣わして使徒たちを助けたのは、それはその時彼ら使徒だけが助かるためではありませんでした。
それは、命の言葉、すなわち神の言葉が多くの人々へ、やがて世界中へと伝えられていくためでした。
神の言葉に聞き、神の言葉に生き、そして神の言葉を世に伝えると言う働きは、約2000年前の最初のキリスト教会の時代から今に至るまでずっと続けられてきました。
”命の言葉を残らず全て語る“~それは一人のキリスト者、一つの教会、一つの時代だけで完成させることができるものではありません。
しかし、その完成を目指して、キリスト者は、神の言葉を残らず語り続けるのです。そのような働きを通しても、私たちは神の言葉によって生きる、生かされることになるのです。
神は、私たちへ向けられた命の言葉である神の言葉を、イエス・キリストを通して私たちに与えてくださいました。
命の言葉である神の言葉を、どこかに隠して閉じ込めたままにしておくことは決してできません。
イエス・キリストが生涯をかけて語ってくださった御言葉を、私たちは残らず聞き取ってまいりましょう。
神の言葉によって満たされて、その溢れる恵みを他者と分かち合い、世にも伝えていこうではありませんか。
前奏
招詞 詩編33篇6節
賛美 新生讃美歌 495番 主よ み手もて
主の祈り
賛美 新生讃美歌 510番 主の言葉の
主の晩餐
献金
聖句 使徒言行録5章12~26節
祈祷
宣教 「命の言葉を残らず民衆に告げなさい」
祈祷
賛美 新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」という一文で今日の聖書箇所は始まります。
使徒と言われた、キリストの弟子たちの中でも中心的な役割を担った弟子たちによって、多くのしるしと不思議な業が行われていました。
それは、人々の病気を癒したり、悪霊につかれた人たちから悪霊を追い出したりといった働きでした。
使徒たちによってそのような働きがなされていたのですが、それを可能にしたのは、彼ら自身の力ではありませんでした。
それは、主なる神の力でした。
そして、使徒たちの手によって、多くのしるしや不思議な業がなされていたことは、彼らの祈りに神が答えてくださったという証拠でも、ありました。
彼らは、今日の箇所よりも前の箇所で、次のように祈ったことがありました。
使徒言行録4章29~30節
29主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
30どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」
使徒たちは、自分たちの伝道活動を妨害しようとする者たちからの迫害にあっても、大胆に神の言葉を語ることができるように、と祈りました。
そして厳しい状況の中でも、神が差し伸べてくださる手によって、そしてイエス・キリストの名によって病気が癒され、苦しむ人々が助けられますように、と彼らは祈ったのです。
それはすなわち“神の働きがなされますように。そのために、私たちは自分を捧げ、あなた(主なる神)の手足となって働きます”という、使徒たちの決意でもありました。
神は、私たちが自分を神に捧げ、“神のために働きます”と願い、そう祈るときに、きっとその祈りに応えてくださいます。
神が私たちの祈りを聞いてくださるかどうかは、それはキリストを信じ祈る者が、自分を神に献げるという決意をするかどうかにかかっているのです。
私たちが自分自身を捧げ、そして神の業が自分たちを通して行われるという信仰の経験を重ねる度毎に、私たちの信仰は強くされ、そして成長していきます。
自分自身を神に委ね、神に捧げて、そして神の業が実現していく、そのような信仰経験を私たちは共に積み重ねたいと願います。
今日の箇所で、使徒たちは心を一つにして「ソロモンの回廊に集まっていた、とも書かれています。「ソロモンの回廊とは、エルサレムの神殿の外の庭にあった長い廊下のことです。
ソロモンの回廊は、かつてイエス様が御自分のことを“わたしはメシア”だとユダヤ人たちにはっきりと言った場所でした。
ヨハネによる福音書10章22節からの箇所で、イエス様がソロモンの回廊を歩いておられた時のことが書かれています。
そこでユダヤ人たちがイエス様を囲んで、「もしあなたがメシア(救い主)なら、はっきりそう言いなさい」と問い詰めました(ヨハネ10:24)
イエス様はそこで「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証をしている“とお答えになりました(ヨハネ10:25)。
今日の箇所で、イエス様は目に見える人としては使徒たちとはもう共におられませんでしたが、使徒たちはかつてソロモンの回廊でイエス様がおっしゃったことを思い出していたのだと私は想像します。
イエス様は、ご自分がメシア(人の罪を救う救い主)であることを言葉でも述べました。イエス・キリストこそがメシアである、それは使徒たちがその上に立つ真実そのものでした。
そしてイエス様は、“信じない人たちもいるが、ご自身がなさる色々な業(行い)が、ご自身について証しをする”とも言ったのでした。
使徒たちはイエス様の、そのお言葉と行いを思い起こしながら、彼らの言葉だけでなく、彼らの実際の働きを通しても、神のご栄光が明らかになりますようにと願っていたのでしょう。
彼らのその願いと祈りは神に聞かれました。様々な力ある業が使徒たちによってなされながら、それらを通して神の国が人々に伝えられていきました。
15節以降の箇所には、“人々が病人を大通りに運び出して、ペトロが通りがかる時に、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした”と書かれています。
16節には、多くの病人や汚れた霊に悩まされている人々が使徒たちのもとへ連れて来られ、一人残らずいやされた、と書かれています。
“一人残らずいやされた”とは、誰もが自分が本当に望んでいたものを得た、ということです。
私はこのことから、現在の教会が“だれもが自分が本当に望むものを得る”ことができる場所であればいいな、と思わされました。
私たちが本当に望むものとは、何でしょうか。
人はそれぞれ、満たされない心を抱えていると私は思います。なぜか満たされないその心を何かによって満たしたいという願いを私たちは持っています。
それは霊的な渇望であり魂の欲求です。それは、私たちは色々なものでとにかく満たそうとします。
しかし、私たちの魂と霊の渇きを本当に満たしてくださるお方は主なる神のみです。キリストを通して現わされた神の愛のみが私たちの心を満たします。
教会で、私たちの心と魂を本当に満たしてくださるお方、神によって、教会に連なる一人ひとりが、全て満たされますように、一人残らず私たちが癒されますようにと私は願います。
一時的なものではなく、永続的で確実、真実であるお方、神の愛で私たちひとり一人が、満たされますように。教会がそのような神の愛で常に満たされますようにと、私は心より願っています。
今日の箇所の後半で、大祭司と仲間のサドカイ派たちから使徒たちへのねたみが起こったことが書かれています。彼らは使徒たちを捕まえて牢にいれてしまいました。
“ねたみ”は人の罪の性質の中でも最たるものの一つです。人々がイエス・キリストを十字架につけたのも、ユダヤの権力者たちの妬みのためだったと、聖書には書かれています。
大祭司やサドカイ派という、ユダヤ教の主要な派を形成する彼らにとって、使徒たちの手によって力ある業が行われ、そして彼らが人々から賞賛されていたことは、我慢ならないことだったのです。
大祭司もサドカイ派も神を信じ、神の御心を人々に伝え、神に仕えることへと人を促すような働きをすべき人たちでした。
彼らが彼らの職務に本当に忠実であったならば、キリストの使徒たちにねたみを起こすような必要はなかったはずです。神の業が彼らによって行われていたからです。
しかし彼らは、使徒たちの手によって素晴らしい業が行われていることを認めるよりも、自分たちが受けるべき(と彼が思っていた)人々からの称賛が、使徒たちに向けられていることにねたみを感じ、そのねたみが彼らの心を燃やしました。
そして彼らは使徒たちを牢に入れたのです。しかし、主は天使を遣わして使徒たちを助けられました。
私たちも危機的な状況に陥ることがあり得ます。しかし主なる神は、私たちがもう助からないと思う時にも、神のご計画に基づいて、必要な助け、そして助け手を私たちに送ってくださいます。
イエス様が十字架にかけられて死に、墓に葬られた後、三日目に婦人たちがイエス様のお身体に香料を塗ろうと思って墓へ行きました。イースター(復活日)の朝でした。
墓の入り口は大きな石で覆われていましたが、婦人たちは誰がその岩を転がしてくれるのかは分からないまま、墓へと急ぎました。(マルコ16章)しかし婦人たちが墓へ到着すると石はわきへ転がしてあったのです。
大きな障害物であったキリストの墓の入り口の石が動かされていたように、私たちも、“どうすればよいのだろう”と迷い、悩む時、その時神が必ず助けを与えてくださいます。
神は神のご計画に沿って、必要な助けと導きを必ず私たちに与えてくださいますから、神を信頼して困難な中でも私たちは、少しづつでも歩み続けようではありませんか。
主の天使が、使徒たちが入れられていた牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、次のように言いました。
20節「行って、神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」
「この命の言葉を残らず民衆(人々)に告げなさい」~これは今も私たちに与えられているキリスト者としての使命です。
教会では神の言葉(聖書の言葉)が聞かれ、分かち合われます。そして神の言葉は命の言葉なのです。私たち人は神の言葉によってこそ生きる者であるからです。
神の言葉は、“人が生きる上で役に立つから、聞かないよりは聞いておいたほうがよい”という程度の言葉ではありません。神の言葉は私たちが生きるための命の言葉です。
その言葉がそれを信じる者たちによって守られ、また教会によって守られ、聞かれ、世に伝えられていくようにと、神はお定めになりました。
今日の箇所で、主なる神が天使を遣わして使徒たちを助けたのは、それはその時彼ら使徒だけが助かるためではありませんでした。
それは、命の言葉、すなわち神の言葉が多くの人々へ、やがて世界中へと伝えられていくためでした。
神の言葉に聞き、神の言葉に生き、そして神の言葉を世に伝えると言う働きは、約2000年前の最初のキリスト教会の時代から今に至るまでずっと続けられてきました。
”命の言葉を残らず全て語る“~それは一人のキリスト者、一つの教会、一つの時代だけで完成させることができるものではありません。
しかし、その完成を目指して、キリスト者は、神の言葉を残らず語り続けるのです。そのような働きを通しても、私たちは神の言葉によって生きる、生かされることになるのです。
神は、私たちへ向けられた命の言葉である神の言葉を、イエス・キリストを通して私たちに与えてくださいました。
命の言葉である神の言葉を、どこかに隠して閉じ込めたままにしておくことは決してできません。
イエス・キリストが生涯をかけて語ってくださった御言葉を、私たちは残らず聞き取ってまいりましょう。
神の言葉によって満たされて、その溢れる恵みを他者と分かち合い、世にも伝えていこうではありませんか。
2025年8月16日土曜日
2025年8月17日 召天者記念礼拝
前奏
招詞 ペトロの手紙二 1章3節
賛美 新生讃美歌 240番 救いの主はハレルヤ
主の祈り
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
献金
召天者を覚えて
聖句 哀歌3章22~33節
祈祷
宣教 「主の慈しみは決して絶えない」
祈祷
賛美 新生讃美歌 601番 やがて天にて
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
本日は、「召天者記念礼拝」として、主日(日曜)礼拝を、私たちは捧げています。
皆さんの前に、私たちの教会の召天者の方々のお写真が飾られています。先ほど、その方たちのお名前を私が読み上げさせていただきました。
召天者の方々は、私たちの教会の教会員であった方、あるいは教会員のご家族の方、あるいは教会の会員ではなくても、教会や牧師がその方の召天に関わり、教会で告別式をさせていただいた方々などです。
私が直接関わりを持たせていただいた方の中には、ご自身の死期が迫っていることを自覚され、死への準備をしておられる方もおられました。
また、本当に思いがけず、突然という状況で、天へ召された方もおられました。
死は私たちに必ずやってきます。死がいつ、どのような形で訪れるのかは、誰にも分かりません。分からないので、死というものは私たちに不安をもたらします。
また、特に愛する人を亡くすことは、私たちに大きな悲しみをもたらします。
愛する人を亡くす悲しみ、またそのほかにも、私たちの人生には私たちを辛く、悲しく、時に絶望さえも感じさせる、苦しいことが起こることがあります。
私たちはそのような悲しみに、あるいは絶望ともいえる状況に、どのように向き合えばよいのでしょうか。今日の聖書箇所である旧約聖書の『哀歌』の一部から、聞いていきたいと思います。
哀歌は、エレミヤという預言者(神様からの言葉を預かり、人々に伝えた人)の嘆きの言葉を伝えています。
エレミヤの預言の言葉は、『哀歌』の前の『エレミヤ書』に記されています。
エレミヤは、この『哀歌』で、ある一つの死について嘆いています。それは彼自身の国の死でした。彼の国(南ユダ王国)が、隣の帝国(バビロン帝国)に滅ぼされたのです。
なぜ彼の国は滅ぼされてしまったのか。そのことにエレミヤは大きな疑問、悲しみ、そして苦しみを感じていたのだと私は信じます。
エレミヤが最初に、どのようにして神様から呼びかけられて、預言者として立てられたのかは、『エレミヤ書』の初めに記されています。
『エレミヤ書』1章4~5節の言葉をお読みします。
4 主の言葉がわたしに臨んだ。
5「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」
これは、紀元前7世紀から6世紀ごろ、場所は現在のイスラエルでの話です。
その時イスラエルは北イスラエルと南ユダに分かれており、北イスラエルはアッシリアという帝国によって既に滅ぼされていました。
主なる神に“私はあなたを生まれる前から預言者として選んでいたのだ”と言われても、エレミヤは「私は若者にすぎません。語る言葉を知りません」と言って、主の呼びかけに応えることを躊躇しました。
しかし神は「あなたは自分のことを若者にすぎないと言ってはならない」と言ってエレミヤを力づけました。
神はエレミヤに次のようにもおっしゃいました。エレミヤ書1章9節をお読みします。
主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。
“あなたが人々に語るべき言葉は、私があなたに与えるから、あなたは心配しなくてよい”と、神はエレミヤに約束してくださったのです。
そしてエレミヤは預言者として、神の言葉をイスラエルの人々に伝え続け、“神を信じて、罪から離れて神に立ち返るように”と呼びかけ続けました。
預言者エレミヤは、預言者としての、その働きを成功させたのでしょうか。
最初に私が申し上げましたように、結局彼の国(南ユダ王国)は滅び、神殿は破壊され、彼らを征服したバビロン帝国へ、多くのユダヤの民が捕囚として連れ去られることになりました。
国の滅亡を目の当たりにして、エレミヤは、自分の預言者としての働きは失敗だった、と思って失望したでしょう。
エレミヤは大変苦しく、そして悲しかったはずです。その嘆きの思いが「哀歌」として残されました。
どんな人の人生にも、悲しみがあると思います。どんな人の人生にも苦しみがあると思います。悲しみ、苦しみのない人生はないでしょう。
エレミヤの悲しみ、苦しみの原因は、”一生懸命、神の言葉を自分の国(イスラエル)の人々に伝え続けたのに、多くの人たちは彼の言葉に耳を傾けず、結局国は滅んだ“ことでした。
エレミヤは自分自身にも絶望したようです。「自分のしてきたことは無駄だった。私の人生、働きには何か意味があったのだろうか」と彼は思ったのではないでしょうか。
確かにエレミヤは、自分自身の限界にぶち当たりました。
それは、今日の箇所の前の18節前半に、次のように書かれていることからも分かります。
わたしは言う 「わたしの生きる力を絶えた」
エレミヤは、“わたしの生きる力は絶えた”と言います。それは自分自身の力で生きることはもう無理だ、とうことです。
しかし、そのように“もう無理だ、自分の力では何もできない”ということが分かったエレミヤに、大切な真理が示されました。
それが今日の聖書箇所の言葉“主(神様)の慈しみは決して絶えない”、“主の憐れみは決して尽きない”ということです。
エレミヤは、「わたしの生きる力は絶えた」と、自分自身の力のなさ、弱さ、無力さをはっきりと自覚しました。
しかし、主なる神の慈しみ(愛)は絶えない、なくならない、主なる神の憐れみは私たちに決して尽きることはない、ということが、自分の無力さを知ったエレミヤにはっきりと示されたのです。
聖書全体を通して伝えられることは、“神に選ばれたイスラエル民族が、どれほど神に背き続けても、それでも神は御自分の民である彼らへの愛をお諦めにはならなかった”、ということです。
現在の私たちも、どれほど神に背き続けて、罪人であっても、神が私たちを完全に見放すということはない、とエレミヤの言葉は私たちに伝えます。
国が滅びて、もう何の希望もなくなったように見えても、自分の力では生きていけないと思えても、実はむしろそのような時こそが、新しい始まりなのです。
キリスト教会では毎週礼拝をしています。礼拝の中心はイエス・キリストであり、イエス・キリストの御言葉、すなわち聖書の言葉です。
聖書の言葉は、まさに今日の箇所に書かれている通り、「主の慈しみは決して絶えず、それは朝ごとに新しい」という希望を私たちに伝えます。
私たちが心を開いて、主なる神の前に謙虚になって(自分の無力さを認めて)神の御言葉に向き合うのならば、その度に聖書の御言葉は新しい響きと力をもって私たちに迫ってきます。
十字架の上で、そのお命を私たちのために捨ててくださったイエス・キリストが、今も私たちに向かって「わたしはあなたを愛している。わたしはあなたを決してあきらめない」と言い続けてくださっています。
そのような尽きることのない主の慈しみ(愛)と憐れみが聖書の言葉を通して私たちに知らされます。ですから私たちは聖書の言葉を聞き続け、聖書の言葉を中心とした礼拝を続けるのです。
聖書の中で、イエス・キリストが、5つのパンと二匹の魚を祈りによって増やし、それを何千人もの群衆に与えると、皆が満腹したという話が記されています。キリストによる偉大な奇跡の業です。
キリストはそのように、今も御言葉の力によって、私たちの霊、魂、心の飢え渇きを満たし、生きる力を与えてくださいます。
私たち自身の力が絶えても、むしろ私たちたち自身の力が絶えて、すべてを神に委ねる時に、“神の愛は決して絶えず、なくなることがない”という真実を、私たちは確信するようになるのです。
絶えることのない(尽きない)主のご愛を、私たちは御言葉から、礼拝を通して、常に頂けることの幸いを、心から感謝したいと願います。
今日の箇所の27~28節をお読みします。
27~28節
27若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
28軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。
軛(くびき)yokeとは、農作業のために(畑を耕すために)牛や馬などの首にかけられる道具です。軛をかけられると、牛や馬は自分の自由には動くことができなくなります。
そのことから、軛とは、私たちが生きていく上で負わされる重荷、苦難や苦しみの例えです。
誰の人生にも、まるで首に軛をかけられるような、重荷を背負わされることがあり得ます。その時、“黙して黙って座る”とは、“何もするな”、“ただ我慢しろ”ということではありません。
それは、”自分の力を捨てて、主に委ねよ。神のもとへ立ち返れ“、ということです。
イエス・キリストが次のようにおっしゃっています。
28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイによる福音書11章28~30節)
私たちは色々な“軛”と言えるものを、生きる上で背負うことがあると思います。
そんな私たちにイエス様は「わたしのもとに来て、わたしの(キリストの)軛を負いなさい。そうすれば安らぎを得られる」と言われます。
イエス様の軛はなぜ“負いやすい”のでしょうか。それはイエス様が私たちと一緒にその軛を負ってくださっているからです。
私たちが一人で背負っているように思う軛(重荷)もい、イエス様が共にいてその軛を私たちと共に担ってくださっています。
私たちの軛(重荷)を共に担ってくださっているイエス様、イエス・キリストを、私たちは信じて生きて行こうではありませんか。
今日私たちが覚えている召天者の方々も、それぞれの生き方の中で、軛(重荷)と言えるような、苦しさ、悲しみをそれぞれ抱えることが、きっとあったはずです。
その苦しみ、悲しみを覚えると、特に親しい方々や近いご家族の方々は、いまだに胸を痛める、締めつけられるように悲しく思われる方もおられるかもしれません。
しかし、イエス様が、召天者の方々の苦しみ、悲しみに寄り添い、その軛を共に担ってくださっていたと、私達は信じることができます。
そしてイエス様は、この私たちの今の軛をも、共に担ってくださっています。自分の力だけでは担えずとも、共に軛を負ってくださるイエス様にお委ねし、私たちは生きていくことができます。
生きることには痛み、悲しみが伴います。
しかし悲しみはやがて、私たちが、その愛は決して絶えることのない神様を知ることへつながる、神へ導く、と聖書は伝えています。
いかなる悲しみ、苦しみの中にも、私たちが神を礼拝し、祈り、賛美(神様をたたえる、人間をたたえるのではない)することを妨げるものはありません。
召天者の方々を覚える今日の礼拝の中で、私たちは、朝毎に新しい主の慈しみ、御愛、そして憐れみの中に生かされていることを改めて信じ、そのことを喜び、感謝をし、これからの日々を歩む決意を致しましょう。
前奏
招詞 ペトロの手紙二 1章3節
賛美 新生讃美歌 240番 救いの主はハレルヤ
主の祈り
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
献金
召天者を覚えて
聖句 哀歌3章22~33節
祈祷
宣教 「主の慈しみは決して絶えない」
祈祷
賛美 新生讃美歌 601番 やがて天にて
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
本日は、「召天者記念礼拝」として、主日(日曜)礼拝を、私たちは捧げています。
皆さんの前に、私たちの教会の召天者の方々のお写真が飾られています。先ほど、その方たちのお名前を私が読み上げさせていただきました。
召天者の方々は、私たちの教会の教会員であった方、あるいは教会員のご家族の方、あるいは教会の会員ではなくても、教会や牧師がその方の召天に関わり、教会で告別式をさせていただいた方々などです。
私が直接関わりを持たせていただいた方の中には、ご自身の死期が迫っていることを自覚され、死への準備をしておられる方もおられました。
また、本当に思いがけず、突然という状況で、天へ召された方もおられました。
死は私たちに必ずやってきます。死がいつ、どのような形で訪れるのかは、誰にも分かりません。分からないので、死というものは私たちに不安をもたらします。
また、特に愛する人を亡くすことは、私たちに大きな悲しみをもたらします。
愛する人を亡くす悲しみ、またそのほかにも、私たちの人生には私たちを辛く、悲しく、時に絶望さえも感じさせる、苦しいことが起こることがあります。
私たちはそのような悲しみに、あるいは絶望ともいえる状況に、どのように向き合えばよいのでしょうか。今日の聖書箇所である旧約聖書の『哀歌』の一部から、聞いていきたいと思います。
哀歌は、エレミヤという預言者(神様からの言葉を預かり、人々に伝えた人)の嘆きの言葉を伝えています。
エレミヤの預言の言葉は、『哀歌』の前の『エレミヤ書』に記されています。
エレミヤは、この『哀歌』で、ある一つの死について嘆いています。それは彼自身の国の死でした。彼の国(南ユダ王国)が、隣の帝国(バビロン帝国)に滅ぼされたのです。
なぜ彼の国は滅ぼされてしまったのか。そのことにエレミヤは大きな疑問、悲しみ、そして苦しみを感じていたのだと私は信じます。
エレミヤが最初に、どのようにして神様から呼びかけられて、預言者として立てられたのかは、『エレミヤ書』の初めに記されています。
『エレミヤ書』1章4~5節の言葉をお読みします。
4 主の言葉がわたしに臨んだ。
5「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」
これは、紀元前7世紀から6世紀ごろ、場所は現在のイスラエルでの話です。
その時イスラエルは北イスラエルと南ユダに分かれており、北イスラエルはアッシリアという帝国によって既に滅ぼされていました。
主なる神に“私はあなたを生まれる前から預言者として選んでいたのだ”と言われても、エレミヤは「私は若者にすぎません。語る言葉を知りません」と言って、主の呼びかけに応えることを躊躇しました。
しかし神は「あなたは自分のことを若者にすぎないと言ってはならない」と言ってエレミヤを力づけました。
神はエレミヤに次のようにもおっしゃいました。エレミヤ書1章9節をお読みします。
主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。
“あなたが人々に語るべき言葉は、私があなたに与えるから、あなたは心配しなくてよい”と、神はエレミヤに約束してくださったのです。
そしてエレミヤは預言者として、神の言葉をイスラエルの人々に伝え続け、“神を信じて、罪から離れて神に立ち返るように”と呼びかけ続けました。
預言者エレミヤは、預言者としての、その働きを成功させたのでしょうか。
最初に私が申し上げましたように、結局彼の国(南ユダ王国)は滅び、神殿は破壊され、彼らを征服したバビロン帝国へ、多くのユダヤの民が捕囚として連れ去られることになりました。
国の滅亡を目の当たりにして、エレミヤは、自分の預言者としての働きは失敗だった、と思って失望したでしょう。
エレミヤは大変苦しく、そして悲しかったはずです。その嘆きの思いが「哀歌」として残されました。
どんな人の人生にも、悲しみがあると思います。どんな人の人生にも苦しみがあると思います。悲しみ、苦しみのない人生はないでしょう。
エレミヤの悲しみ、苦しみの原因は、”一生懸命、神の言葉を自分の国(イスラエル)の人々に伝え続けたのに、多くの人たちは彼の言葉に耳を傾けず、結局国は滅んだ“ことでした。
エレミヤは自分自身にも絶望したようです。「自分のしてきたことは無駄だった。私の人生、働きには何か意味があったのだろうか」と彼は思ったのではないでしょうか。
確かにエレミヤは、自分自身の限界にぶち当たりました。
それは、今日の箇所の前の18節前半に、次のように書かれていることからも分かります。
わたしは言う 「わたしの生きる力を絶えた」
エレミヤは、“わたしの生きる力は絶えた”と言います。それは自分自身の力で生きることはもう無理だ、とうことです。
しかし、そのように“もう無理だ、自分の力では何もできない”ということが分かったエレミヤに、大切な真理が示されました。
それが今日の聖書箇所の言葉“主(神様)の慈しみは決して絶えない”、“主の憐れみは決して尽きない”ということです。
エレミヤは、「わたしの生きる力は絶えた」と、自分自身の力のなさ、弱さ、無力さをはっきりと自覚しました。
しかし、主なる神の慈しみ(愛)は絶えない、なくならない、主なる神の憐れみは私たちに決して尽きることはない、ということが、自分の無力さを知ったエレミヤにはっきりと示されたのです。
聖書全体を通して伝えられることは、“神に選ばれたイスラエル民族が、どれほど神に背き続けても、それでも神は御自分の民である彼らへの愛をお諦めにはならなかった”、ということです。
現在の私たちも、どれほど神に背き続けて、罪人であっても、神が私たちを完全に見放すということはない、とエレミヤの言葉は私たちに伝えます。
国が滅びて、もう何の希望もなくなったように見えても、自分の力では生きていけないと思えても、実はむしろそのような時こそが、新しい始まりなのです。
キリスト教会では毎週礼拝をしています。礼拝の中心はイエス・キリストであり、イエス・キリストの御言葉、すなわち聖書の言葉です。
聖書の言葉は、まさに今日の箇所に書かれている通り、「主の慈しみは決して絶えず、それは朝ごとに新しい」という希望を私たちに伝えます。
私たちが心を開いて、主なる神の前に謙虚になって(自分の無力さを認めて)神の御言葉に向き合うのならば、その度に聖書の御言葉は新しい響きと力をもって私たちに迫ってきます。
十字架の上で、そのお命を私たちのために捨ててくださったイエス・キリストが、今も私たちに向かって「わたしはあなたを愛している。わたしはあなたを決してあきらめない」と言い続けてくださっています。
そのような尽きることのない主の慈しみ(愛)と憐れみが聖書の言葉を通して私たちに知らされます。ですから私たちは聖書の言葉を聞き続け、聖書の言葉を中心とした礼拝を続けるのです。
聖書の中で、イエス・キリストが、5つのパンと二匹の魚を祈りによって増やし、それを何千人もの群衆に与えると、皆が満腹したという話が記されています。キリストによる偉大な奇跡の業です。
キリストはそのように、今も御言葉の力によって、私たちの霊、魂、心の飢え渇きを満たし、生きる力を与えてくださいます。
私たち自身の力が絶えても、むしろ私たちたち自身の力が絶えて、すべてを神に委ねる時に、“神の愛は決して絶えず、なくなることがない”という真実を、私たちは確信するようになるのです。
絶えることのない(尽きない)主のご愛を、私たちは御言葉から、礼拝を通して、常に頂けることの幸いを、心から感謝したいと願います。
今日の箇所の27~28節をお読みします。
27~28節
27若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
28軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。
軛(くびき)yokeとは、農作業のために(畑を耕すために)牛や馬などの首にかけられる道具です。軛をかけられると、牛や馬は自分の自由には動くことができなくなります。
そのことから、軛とは、私たちが生きていく上で負わされる重荷、苦難や苦しみの例えです。
誰の人生にも、まるで首に軛をかけられるような、重荷を背負わされることがあり得ます。その時、“黙して黙って座る”とは、“何もするな”、“ただ我慢しろ”ということではありません。
それは、”自分の力を捨てて、主に委ねよ。神のもとへ立ち返れ“、ということです。
イエス・キリストが次のようにおっしゃっています。
28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイによる福音書11章28~30節)
私たちは色々な“軛”と言えるものを、生きる上で背負うことがあると思います。
そんな私たちにイエス様は「わたしのもとに来て、わたしの(キリストの)軛を負いなさい。そうすれば安らぎを得られる」と言われます。
イエス様の軛はなぜ“負いやすい”のでしょうか。それはイエス様が私たちと一緒にその軛を負ってくださっているからです。
私たちが一人で背負っているように思う軛(重荷)もい、イエス様が共にいてその軛を私たちと共に担ってくださっています。
私たちの軛(重荷)を共に担ってくださっているイエス様、イエス・キリストを、私たちは信じて生きて行こうではありませんか。
今日私たちが覚えている召天者の方々も、それぞれの生き方の中で、軛(重荷)と言えるような、苦しさ、悲しみをそれぞれ抱えることが、きっとあったはずです。
その苦しみ、悲しみを覚えると、特に親しい方々や近いご家族の方々は、いまだに胸を痛める、締めつけられるように悲しく思われる方もおられるかもしれません。
しかし、イエス様が、召天者の方々の苦しみ、悲しみに寄り添い、その軛を共に担ってくださっていたと、私達は信じることができます。
そしてイエス様は、この私たちの今の軛をも、共に担ってくださっています。自分の力だけでは担えずとも、共に軛を負ってくださるイエス様にお委ねし、私たちは生きていくことができます。
生きることには痛み、悲しみが伴います。
しかし悲しみはやがて、私たちが、その愛は決して絶えることのない神様を知ることへつながる、神へ導く、と聖書は伝えています。
いかなる悲しみ、苦しみの中にも、私たちが神を礼拝し、祈り、賛美(神様をたたえる、人間をたたえるのではない)することを妨げるものはありません。
召天者の方々を覚える今日の礼拝の中で、私たちは、朝毎に新しい主の慈しみ、御愛、そして憐れみの中に生かされていることを改めて信じ、そのことを喜び、感謝をし、これからの日々を歩む決意を致しましょう。
2025年8月9日土曜日
2025年8月10日 主日(平和)礼拝
前奏
招詞 詩編36編10節
賛美 新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
主の祈り
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
献金
聖句 イザヤ書2章1~5節
祈祷
宣教 「主の光の中を歩もう」
祈祷
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日私たちは、平和を覚える礼拝を捧げています。
先の大戦(第二次世界大戦)が1945年8月に、日本の敗戦をもって終了したことから、わたしたちは特に8月に平和への思いを強く致します。
今年2025年は、第二次大戦の終結から80年と言う節目の年です。しかし、その大戦以前にも、古来よりずっと人類には戦い、争いの歴史がありました。
そしてその大戦以後もさまざまな紛争、戦争が世界では起きましたし、今も各地で争いが続いています。
平和は本当に実現するのか、それは無理ではないのか、と私たちはあきらめたくなるかもしれません。
しかし私たちは、私たちに与えられた聖書の御言葉から、あらためて平和について思いを巡らし、どのようにして主の平和が私達の世界で(私たちの身近で)実現されるのか、今日私たちは共に考えたいと願います。
今日の聖書の箇所は旧約聖書『イザヤ書』の御言葉です。イザヤは旧約時代の預言者の一人でした。彼のことは「アモツの子イザヤ」と、イザヤ書1章1節に書かれています。
イザヤは、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に南ユダ王国(イスラエル人たちの国は当時、北イスラエルと南ユダに分かれていました)で活動した預言者でした。
イザヤの時代は、だいたい紀元前8世紀後半から7世紀前半です。
預言者とは、神の言葉を預かり、それを人々に伝える務めを担った人たちでした。預言者は一人だけではなく大勢いました。同じ時代にも大勢の人が預言者として立てられました。
神の言葉は、ただ一人の人間だけを通して語られるのではなかったのです。
神は多くの人をお選びになり、彼ら複数の人々の言葉を通して、それぞれの時代と場所で、神の御言葉が伝えられるようにされました。
私は別府国際バプテスト教会で牧師としての職を任されて、聖書の御言葉をメッセージとして語るという務めを主な職務として担っています。
牧師の職を担っている人は他にも大勢(日本中、世界中に)いますし、キリスト教会も沢山あります。
それぞれの教会が、そして牧師が、また信徒も一人ひとりも、自分に伝えられた御言葉に生き、その御言葉を他の人に伝える務めを担っています。
だれか一人だけ、一つの教会だけが正解(真理)を握っているのではないのです。
もし「自分の言っていることだけが真理だ」という牧師や、「自分たちの教会が言っていることだけが真理だ」という教会があれば、そのような牧師や教会は信頼しないでください。
人間である限り、どの牧師も、またどの教会も、いつも正しく完全ということはあり得ません。私たち誰もが不完全で、いつでも間違いを犯す可能性があるのです。
しかし「どうせ人間は不完全だから、神さまのことも何も分からない」と私たちはあきらめてしまうのではありません。
私たち人間は不完全でも、私たちの父なる神は完全なお方であり、その神は御子イエス・キリストを通して、御自身のことを私たちに現わしてくださったのです。
そして今、私たちは、唯一完全なお方である神の御言葉(聖書の言葉)を頂いていると言う点で私たちは迷う必要はないのです。
神の御言葉を私たちは聞き間違え、正しく受け取ることができないこともあるかもしれません。
しかし、完全に正しいお方、絶対的な真理であるイエス・キリストの神がおられる、という点で私たちは安心してよいのです。
神は聖書の言葉を通して、私たちが神のメッセージと神の真理に触れることができるようにしてくださいました。
キリストはいつまでも変わらず私たちと共におられ、キリストを伝える聖書の御言葉はいつも私たちの身近にあります。
ですから私たちは常に聖書の言葉を通して、私たちに語られる神の声、メッセージを共に聞きとってまいりましょう。
今日の箇所の2節に「終わりの日に In the last days」という言葉があります。
今日の箇所の言葉は、預言者イザヤが見た幻でした。それは、彼(イザヤ)の時代よりも後に(将来に)起こることを幻としてイザヤが見た光景です。
「終わりの日」は、キリスト教にとってとても重要な事柄です。それは神の国が完成する時、でもあります。
聖書は、「初めに、神は天地を創造されたIn the beginning God created the heavens and the earth.」と『創世記』1章1節(聖書の一番初めの言葉)で伝えています。
神が初めに天と地を、私たちの世界のすべてをお造りになったのです。
“はじめとか、終わりとかはない、世界は偶然に出来て、人もただ偶然に生まれて、ただ生き、そして死んでいくのだ”という考え方もあります。
しかし聖書ははっきりと、初めに神が世界を創造なさったと伝えます。しかも神は目的と意志とをもって、この世界を創造なさったのです。
神はお造りになったこの世界を、「良きもの」としてお造りになりました。そして神は私たち人に、この良き世界を支配するようにお命じになりました(創世記1章28節)。
支配するとは、自分たちの好きなように自分たちの利益や楽しみのためだけに自然や他の動植物を利用する、というのではありません。
そうではなく、世界の善き管理者として、神が造られたこの世界の調和と平和を保つ使命を、私たち人は神から託されています。
私たちがその使命を果たすためには、私たちは常に私たちの造り主であるお方の御意志と声に従うことが、必要です。そうしてこそ、私たちに与えられた使命を私たちは果たすことができます。
私たちの創造主であり、私たちを目的をもってお造りになった方のお言葉である聖書の言葉を、私たちの生き方の指針としても、私たちは謙虚に聞いてまいりましょう。
神によって始まったこの世界は、やがて終わりの日、完成の日を迎えます。
その日にどのようなことが起こるのでしょうか。今日の箇所の2~3節をもう一度お読みします。
2終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
3多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
”その終わりの日には、主の神殿の山が、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえ、そして国々はこぞって大河のようにそこに向かう“と書かれています。
あらゆる国々、多くの民が、主の神殿の山という同じ目標地点に向かって上って行く、というのです。
“その主の山で、主は私たちに(人々に)道を示してくださるので、私たちはその道を歩もう”と書かれています。
今私たちの世界に平和がないのは、あるいは平和が完成しないのは、互いが(国々と人々が)ばらばらで別々の方向へ向かって歩んでいるからではないでしょうか。
そしてお互いに、自分が進んでいる道が正しい道だ、正しい方向だと主張し、互いに裁き合っていることが、私たちの周りの争いの原因だと私は思います。
私たちはどうすれば一致して、同じ道を歩むことができるのでしょうか。
「主はわたしたちに道を示される わたしたちはその道を歩もうHe will teach us his ways, so that we may walk in his paths.」と、イザヤが見た幻の中で言われるその道とは、イエス・キリストです。
あらゆる国々が、あらゆる人々がイエス・キリストという唯一の真理である道を歩む時、そのお方の前にへりくだる時、その時真の平和が私たちの世界に訪れます。
なぜなら、私たちが、イエス・キリストというその真理の道を歩むとき、今日の箇所の中の次の預言の言葉が実現するからです。
4節をお読みします。
4主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
主が国々の争いを裁き、多くの民を戒められると書かれています。私たち人間が裁くのではなく、神こそが私たちの真の裁き主です。
神こそが善悪とは何かを完全にご存じのお方であるからです。そして主なる神が私たちの間の争いを解決してくださる、というのです。
私たちが主の御言葉を真剣に聞き、主の教えに従って生き、そして他者と向き合う時、その時次のようなことが起こる、と書かれています。4節の後半をもう一度お読みします。
彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
同じ材料(鉄や木材など)から、私たちは他者に危害を加える剣や槍という武器を作ることもできるし、その同じ材料から、食物を収穫するため(共に生きるため)の道具を作ることもできるのです。
私たちはいかにして、剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すことができるのでしょうか。
そのために、私たちは常に、イエス様が私たちのために成し遂げてくださったことを思い起こす必要があります。
キリストは、本来私たちが受けるべき裁き(罰)を、私たちに代わって十字架の上で受けてくださいました。
天の父なる神は、私たちに代わって、ご自分の独り子であるイエス・キリスト、全く罪のなかったそのお方を十字架の上でお裁きになりました。
イエス様は、私たち人が互いに争いあうことの原因である、私たちの中の敵意、憎悪、そねみ、妬み、蔑み、それらすべてのものを、一身に十字架の上で受けてくださいました。
そのようにして、イエス様が、すべての悪を、私たち人の罪の性質をお受けになってくださいました。
私たちがイエス様の御言葉に聞き従って生きる時、十字架の上でイエス様が成し遂げてくださったことを思い起こす時、私たちは自分自身の剣や槍を、鋤や鎌に変えることがきっとできるようになります。
平和に敵対する、私たちの中の罪の性質を、イエス様が全てその身に引き受けてくださったからです。それが聖書の約束です。
今日の箇所の最後の言葉(本日のメッセージ題)をお読みします。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
”ヤコブの家(英語では“ヤコブの子孫”)とは、イスラエル民族全体のことであり、そして現在のキリスト者すべての者を指します。
神から離れた暗闇、自分の罪の中に閉じこもる暗闇でなく、私たちはイエス・キリストの光の中、御言葉の光の中を私たちは歩んでまいりましょう。
その道は、人同士が傷つけあう道ではなく、互いにいたわり合い、助け合って共に生きる道です。それは、共に生きるための食べ物を皆で収穫しあう平和の道であり、神の国へと至る道です。
そしてこれは遥か遠い将来に起こる、遠い未来の夢物語でありません。
そうではなく、それはイエス・キリストが一度私たちの救いのために世に来られた今、すでに実現しつつある出来事だと、私たちは信じてよいのです。
最後に詩編36編10節の御言葉をお読みします。
詩編36篇10節 (v.9 NIV)
命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る。
キリストの光の中を、私たち共に歩んでまいりましょう。
前奏
招詞 詩編36編10節
賛美 新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
主の祈り
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
献金
聖句 イザヤ書2章1~5節
祈祷
宣教 「主の光の中を歩もう」
祈祷
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日私たちは、平和を覚える礼拝を捧げています。
先の大戦(第二次世界大戦)が1945年8月に、日本の敗戦をもって終了したことから、わたしたちは特に8月に平和への思いを強く致します。
今年2025年は、第二次大戦の終結から80年と言う節目の年です。しかし、その大戦以前にも、古来よりずっと人類には戦い、争いの歴史がありました。
そしてその大戦以後もさまざまな紛争、戦争が世界では起きましたし、今も各地で争いが続いています。
平和は本当に実現するのか、それは無理ではないのか、と私たちはあきらめたくなるかもしれません。
しかし私たちは、私たちに与えられた聖書の御言葉から、あらためて平和について思いを巡らし、どのようにして主の平和が私達の世界で(私たちの身近で)実現されるのか、今日私たちは共に考えたいと願います。
今日の聖書の箇所は旧約聖書『イザヤ書』の御言葉です。イザヤは旧約時代の預言者の一人でした。彼のことは「アモツの子イザヤ」と、イザヤ書1章1節に書かれています。
イザヤは、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に南ユダ王国(イスラエル人たちの国は当時、北イスラエルと南ユダに分かれていました)で活動した預言者でした。
イザヤの時代は、だいたい紀元前8世紀後半から7世紀前半です。
預言者とは、神の言葉を預かり、それを人々に伝える務めを担った人たちでした。預言者は一人だけではなく大勢いました。同じ時代にも大勢の人が預言者として立てられました。
神の言葉は、ただ一人の人間だけを通して語られるのではなかったのです。
神は多くの人をお選びになり、彼ら複数の人々の言葉を通して、それぞれの時代と場所で、神の御言葉が伝えられるようにされました。
私は別府国際バプテスト教会で牧師としての職を任されて、聖書の御言葉をメッセージとして語るという務めを主な職務として担っています。
牧師の職を担っている人は他にも大勢(日本中、世界中に)いますし、キリスト教会も沢山あります。
それぞれの教会が、そして牧師が、また信徒も一人ひとりも、自分に伝えられた御言葉に生き、その御言葉を他の人に伝える務めを担っています。
だれか一人だけ、一つの教会だけが正解(真理)を握っているのではないのです。
もし「自分の言っていることだけが真理だ」という牧師や、「自分たちの教会が言っていることだけが真理だ」という教会があれば、そのような牧師や教会は信頼しないでください。
人間である限り、どの牧師も、またどの教会も、いつも正しく完全ということはあり得ません。私たち誰もが不完全で、いつでも間違いを犯す可能性があるのです。
しかし「どうせ人間は不完全だから、神さまのことも何も分からない」と私たちはあきらめてしまうのではありません。
私たち人間は不完全でも、私たちの父なる神は完全なお方であり、その神は御子イエス・キリストを通して、御自身のことを私たちに現わしてくださったのです。
そして今、私たちは、唯一完全なお方である神の御言葉(聖書の言葉)を頂いていると言う点で私たちは迷う必要はないのです。
神の御言葉を私たちは聞き間違え、正しく受け取ることができないこともあるかもしれません。
しかし、完全に正しいお方、絶対的な真理であるイエス・キリストの神がおられる、という点で私たちは安心してよいのです。
神は聖書の言葉を通して、私たちが神のメッセージと神の真理に触れることができるようにしてくださいました。
キリストはいつまでも変わらず私たちと共におられ、キリストを伝える聖書の御言葉はいつも私たちの身近にあります。
ですから私たちは常に聖書の言葉を通して、私たちに語られる神の声、メッセージを共に聞きとってまいりましょう。
今日の箇所の2節に「終わりの日に In the last days」という言葉があります。
今日の箇所の言葉は、預言者イザヤが見た幻でした。それは、彼(イザヤ)の時代よりも後に(将来に)起こることを幻としてイザヤが見た光景です。
「終わりの日」は、キリスト教にとってとても重要な事柄です。それは神の国が完成する時、でもあります。
聖書は、「初めに、神は天地を創造されたIn the beginning God created the heavens and the earth.」と『創世記』1章1節(聖書の一番初めの言葉)で伝えています。
神が初めに天と地を、私たちの世界のすべてをお造りになったのです。
“はじめとか、終わりとかはない、世界は偶然に出来て、人もただ偶然に生まれて、ただ生き、そして死んでいくのだ”という考え方もあります。
しかし聖書ははっきりと、初めに神が世界を創造なさったと伝えます。しかも神は目的と意志とをもって、この世界を創造なさったのです。
神はお造りになったこの世界を、「良きもの」としてお造りになりました。そして神は私たち人に、この良き世界を支配するようにお命じになりました(創世記1章28節)。
支配するとは、自分たちの好きなように自分たちの利益や楽しみのためだけに自然や他の動植物を利用する、というのではありません。
そうではなく、世界の善き管理者として、神が造られたこの世界の調和と平和を保つ使命を、私たち人は神から託されています。
私たちがその使命を果たすためには、私たちは常に私たちの造り主であるお方の御意志と声に従うことが、必要です。そうしてこそ、私たちに与えられた使命を私たちは果たすことができます。
私たちの創造主であり、私たちを目的をもってお造りになった方のお言葉である聖書の言葉を、私たちの生き方の指針としても、私たちは謙虚に聞いてまいりましょう。
神によって始まったこの世界は、やがて終わりの日、完成の日を迎えます。
その日にどのようなことが起こるのでしょうか。今日の箇所の2~3節をもう一度お読みします。
2終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
3多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
”その終わりの日には、主の神殿の山が、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえ、そして国々はこぞって大河のようにそこに向かう“と書かれています。
あらゆる国々、多くの民が、主の神殿の山という同じ目標地点に向かって上って行く、というのです。
“その主の山で、主は私たちに(人々に)道を示してくださるので、私たちはその道を歩もう”と書かれています。
今私たちの世界に平和がないのは、あるいは平和が完成しないのは、互いが(国々と人々が)ばらばらで別々の方向へ向かって歩んでいるからではないでしょうか。
そしてお互いに、自分が進んでいる道が正しい道だ、正しい方向だと主張し、互いに裁き合っていることが、私たちの周りの争いの原因だと私は思います。
私たちはどうすれば一致して、同じ道を歩むことができるのでしょうか。
「主はわたしたちに道を示される わたしたちはその道を歩もうHe will teach us his ways, so that we may walk in his paths.」と、イザヤが見た幻の中で言われるその道とは、イエス・キリストです。
あらゆる国々が、あらゆる人々がイエス・キリストという唯一の真理である道を歩む時、そのお方の前にへりくだる時、その時真の平和が私たちの世界に訪れます。
なぜなら、私たちが、イエス・キリストというその真理の道を歩むとき、今日の箇所の中の次の預言の言葉が実現するからです。
4節をお読みします。
4主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
主が国々の争いを裁き、多くの民を戒められると書かれています。私たち人間が裁くのではなく、神こそが私たちの真の裁き主です。
神こそが善悪とは何かを完全にご存じのお方であるからです。そして主なる神が私たちの間の争いを解決してくださる、というのです。
私たちが主の御言葉を真剣に聞き、主の教えに従って生き、そして他者と向き合う時、その時次のようなことが起こる、と書かれています。4節の後半をもう一度お読みします。
彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
同じ材料(鉄や木材など)から、私たちは他者に危害を加える剣や槍という武器を作ることもできるし、その同じ材料から、食物を収穫するため(共に生きるため)の道具を作ることもできるのです。
私たちはいかにして、剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すことができるのでしょうか。
そのために、私たちは常に、イエス様が私たちのために成し遂げてくださったことを思い起こす必要があります。
キリストは、本来私たちが受けるべき裁き(罰)を、私たちに代わって十字架の上で受けてくださいました。
天の父なる神は、私たちに代わって、ご自分の独り子であるイエス・キリスト、全く罪のなかったそのお方を十字架の上でお裁きになりました。
イエス様は、私たち人が互いに争いあうことの原因である、私たちの中の敵意、憎悪、そねみ、妬み、蔑み、それらすべてのものを、一身に十字架の上で受けてくださいました。
そのようにして、イエス様が、すべての悪を、私たち人の罪の性質をお受けになってくださいました。
私たちがイエス様の御言葉に聞き従って生きる時、十字架の上でイエス様が成し遂げてくださったことを思い起こす時、私たちは自分自身の剣や槍を、鋤や鎌に変えることがきっとできるようになります。
平和に敵対する、私たちの中の罪の性質を、イエス様が全てその身に引き受けてくださったからです。それが聖書の約束です。
今日の箇所の最後の言葉(本日のメッセージ題)をお読みします。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
”ヤコブの家(英語では“ヤコブの子孫”)とは、イスラエル民族全体のことであり、そして現在のキリスト者すべての者を指します。
神から離れた暗闇、自分の罪の中に閉じこもる暗闇でなく、私たちはイエス・キリストの光の中、御言葉の光の中を私たちは歩んでまいりましょう。
その道は、人同士が傷つけあう道ではなく、互いにいたわり合い、助け合って共に生きる道です。それは、共に生きるための食べ物を皆で収穫しあう平和の道であり、神の国へと至る道です。
そしてこれは遥か遠い将来に起こる、遠い未来の夢物語でありません。
そうではなく、それはイエス・キリストが一度私たちの救いのために世に来られた今、すでに実現しつつある出来事だと、私たちは信じてよいのです。
最後に詩編36編10節の御言葉をお読みします。
詩編36篇10節 (v.9 NIV)
命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る。
キリストの光の中を、私たち共に歩んでまいりましょう。
2025年8月2日土曜日
2025年8月3日 主日礼拝
前奏
招詞 エレミヤ書32章39節
賛美 新生讃美歌27番 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
祈りの時
献金
聖句 使徒言行録4章32~5章11節
祈祷
宣教 「心も思いも一つにし」
祈祷
賛美 新生讃美歌59番 父の神よ 汝がまこと
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していたAll the believers were one in heart and mind. No one claimed
イエス・キリストが死から復活し、天へと昇って行かれた後、神の霊である聖霊の力を受けた、初期の頃のキリスト信者たちは、そのように心と思いを一つにした信仰の群れを形成していました。
「心も思いも一つにし」とは、どういうことでしょうか。
それは、彼らがどんなことに関しても、同じ意見や考え方を持っており、好みも一致していた、ということではありません。
今の私たちと同じように、最初の頃のキリスト者たちも、色々な考え方や好みの違い、異なる立場や多様な背景を持った人々の集まりであったはずです。
私たちの教会(別府国際バプテスト教会)は「多様性の中にある豊かさを喜ぶ」ことを大切にしています。特に私たちの教会には色々な国や地域の方々が集っています。
互いに違うという多様性の中にある豊かさを認め(見つけ)、そのことを喜ぶ、ということを私たちはいつも覚え、信仰的にそれを実践していきたいと願います。
私たちが互いに違いがありながらも、同じ心と思いによって一致することができる、そのことを可能にしてくださるお方が、おられます。
それはイエス・キリストです。イエス・キリストが私達と共にいてくださるので、私たちはキリストによって思いと心を一つに結び合わされます。
同じイエス・キリストの神を信じ、キリストによって導かれているので、私たちは一つの群れ、信仰の家族と言えるのです。
復活したキリストによって、霊的な生まれ変わりを経験した信者同士は、キリストによって神の子とされた一つの家族です。そのような意味で、確かに、「キリスト(主)にあって、私たちは一つ」です。
今日の箇所で、最初の頃の教会の信者たちの群れは、「すべての持ち物を共有していた」と書かれています。
彼らの中ではだれ一人、持ち物を自分のものだと言う者はなかった、とも書かれています。
現在の私たちは、個人が物や財産を所有することは、大切な一つの権利だと思っています。しかし、やはりキリスト者は、色々なものを個人として所有しつつも、それらにあまりに執着はされないようにと、御言葉から教えられます。
何かに対して、“これは自分のもの”という執着が強すぎると、それが失われたりした時に、私たちは失望したり、憤ったりさえすることがあります。
しかし、キリスト者は、「全ては神から与えられたもの」という信仰を頂いています。
新約聖書の別の箇所、『コリントの信徒への手紙一』4章7節に、次のように書かれています。
あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。
この言葉から、私たちは「これはわたしのもの。これは私が努力によって得たもの」とあまり強く思わないように、と促されます。
わたしたちに与えられた色々なもの、豊かな賜物、才能や色々な機会(チャンス)に恵まれるなどの幸運も、それらすべては主なる神から私たちに与えられるものです。
それが自分のものだと思うと、私たちは高ぶって、傲慢になったりします。私たちは常に、恵みは全て神様から与えられたもの、という信仰に立ち続けたいと願います。
今日の箇所の4章34~35節には、次のように書かれています。
「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである
その時の信者たちを、そのように互いに助け合い、貧しい者が一人もないようにさせていたものは、何だったのでしょうか。
彼らをそのように互いに支え合う者としていたもの、それも彼らが証していた(述べ伝えていた)復活の主イエス・キリストでした。
彼らは“復活のキリストによって自分たちも生かされている”と、確信していたのでしょう。
復活する前にキリストは十字架の上で、御自身の命を捨ててくださいました。それはキリストが十字架の上で、私たち人に文字通り全てを与えてくださった、ということです。
「キリストが私達に全てを与えてくださった」という感謝と喜びが、彼らの原動力でした。
キリストによって新しい命を、全てのものをいただいたという喜びと感謝が、互いを支えるという生き方となっていたのです。
皆がキリストの愛で満たされ、一人も貧しい人がいないように、全ての人の命が支えられるように、皆が豊かであるように、という思いで彼らは一致し、その願いが実現していたのです。
それは素晴らしい信仰の家族の姿であり、そのような信仰の共同体を私たちも作り上げていきたいと願わされます。
しかし、今日の聖書箇所では、最初の頃のキリスト信者の群れが、信仰において決して完全な共同体ではなかった、という冷徹な事実を描き出しています。
5章1節からのアナニアとサフィラに関する話は、一読すると恐ろしい箇所です。
捧げもの(献金)の額をごまかしたアナニアとサフィラ夫婦に起きた出来事から、私たちはどのような神のメッセージを聞くべきなのでしょうか。
“信じた人々は、みな自分の持ち物を売り、必要に応じて互いに分配していた”、という中で、アナニアとサフィラという夫婦は、その金額について事実でないこと(嘘)を言いながら、それを使徒たちに差し出しました。
ここで私たちは、献げものに関しては、今日の箇所においても、信者たちの自発的な意志に基づいていた(強制ではなかった)ということを知る必要があります。
5章4節のペトロの言葉を見てみましょう。
売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったではないか。
このペトロの言葉から分かるように、誰も献金やささげものを強制されてはいなかったのです。神が信仰者に求めるものは、自発的な喜びの捧げものであるからです。
しかしアナニアは妻のサフィラと相談して、土地を売ったのとは違う値段を、おそらく「これが私たちの土地を売った全額です」と言って差し出したようです。そしてそれは事実ではありませんでした。
アナニアとサフィラはなぜ事実と異なる、そのような嘘を言ったのでしょうか。他の人たちの目が気になって、自分たちを誇りたい、という気持ちがあったのかもしれません。
そのようなアナニアとサフィラの姿の中に、私たちは私たち自身の姿を見るようにと促されます。
私たちはどうしても、人からの評価、人が自分をどう見るか、自分の信仰さえも、人からどう評価されるだろうか、ということが気になってしまうのではないでしょうか。
しかし、信仰は人に見せるものではありません。他者から評価されるものでもありません。
信仰は神からいただいた賜物と恵みを、わたしたちがどれだけ認めることができているかにかかっています。そして、その恵みにどれほど自発的に応答しているか、ということが大切なのです。
もし自分自身が、神の恵みで満たされていない、というのならば、私たちを恵みと喜びとで必ず満たしてくださるイエス・キリストと私たちは出会い直す必要があります。
聖書の御言葉、祈り、そして神との人格的な交わりを通して、自分自身の心(特に自分の中の暗い、罪の部分)に正直に向き合うことで、キリストによって赦された者としての自分を私たちは見つけ直してまいりましょう。
そして主キリストに赦された恵み、喜びで、わたしたちは満たされてまいりましょう。
アナニアとサフィラは夫婦でした。夫婦は、その親密な関係によって協力して、一致して神のための働きをすることができます。
しかし今日の箇所のように、夫婦のような親密な関係によって、私たちは神を欺くこともできてしまう、ということを私たちは教えられます。
5章4節のペトロの言葉をもう一度見てみましょう。
あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
アナニアとサフィラに、“神を欺いた”という自覚があったかどうかは、分かりません。おそらく、ペトロに指摘されるまでは、それほどまでの自覚はなかったのでしょう。
「これぐらいのことは許されるはずだ」という思いが、アナニアとサフィラにはあったかもしれません。
しかし、今日の箇所でのアナニアとサフィラのしたこと(彼らの生き方)は、人を欺いたのではなく、神を欺いたことになるのだ、というメッセージを、私たちは真剣に受け止めなくてはなりません。
もし私たちが人に対して誠実でない場合、それは神に対しても誠実ではない、ということであり神を欺くことになるのです。
私達は、多少の不誠実さは人に対してごまかせる、と思っているのではないでしょうか。
しかし、私たちの不誠実さを、神様の前にもごまかすことができる、と思うならば、それは大変大きな致命的な間違いなのだ、と今日の箇所は私たちに告げています。
決して欺いてはいけないお方である神を欺く(神に対して誠実でない)のならば、それは私たちの命に係わる問題だということを、私たちは真剣に受け止めなくてはなりません。
神はなぜ私たち人間に、これほどまでの自由をお与えになったのでしょうか。あえていうなら、“神を欺いて生きる自由”(それを自由と呼ぶのは躊躇しますが)さえ、私たちには与えられているのです。
それほどまでに神は私たちと、本当に人格的な関係を結び、私たちが神の愛への応答として自発的に生きる、自発的に喜び自らを捧げる者となることを願ってくださっているのです。
そのような者として神は私たちひとり一人をお造りになりました。
私たちひとり一人は弱く、欲ぶかく、不誠実な者です。そんな私がキリストの愛によって満たされて、思いも心も一つにされ、励まし合うことで、少しずつ、誠実な信仰者へと共に成長していくことができると、私は信じます。
大変厳しい、今日の聖書の箇所のメッセージに心をとめつつ、命の支配者である神に対して正しく怖れを抱きつつ、しかし神から与えられている豊かな賜物に感謝をしながら、私たちは生きていきたいと願います。
前奏
招詞 エレミヤ書32章39節
賛美 新生讃美歌27番 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
祈りの時
献金
聖句 使徒言行録4章32~5章11節
祈祷
宣教 「心も思いも一つにし」
祈祷
賛美 新生讃美歌59番 父の神よ 汝がまこと
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していたAll the believers were one in heart and mind. No one claimed
イエス・キリストが死から復活し、天へと昇って行かれた後、神の霊である聖霊の力を受けた、初期の頃のキリスト信者たちは、そのように心と思いを一つにした信仰の群れを形成していました。
「心も思いも一つにし」とは、どういうことでしょうか。
それは、彼らがどんなことに関しても、同じ意見や考え方を持っており、好みも一致していた、ということではありません。
今の私たちと同じように、最初の頃のキリスト者たちも、色々な考え方や好みの違い、異なる立場や多様な背景を持った人々の集まりであったはずです。
私たちの教会(別府国際バプテスト教会)は「多様性の中にある豊かさを喜ぶ」ことを大切にしています。特に私たちの教会には色々な国や地域の方々が集っています。
互いに違うという多様性の中にある豊かさを認め(見つけ)、そのことを喜ぶ、ということを私たちはいつも覚え、信仰的にそれを実践していきたいと願います。
私たちが互いに違いがありながらも、同じ心と思いによって一致することができる、そのことを可能にしてくださるお方が、おられます。
それはイエス・キリストです。イエス・キリストが私達と共にいてくださるので、私たちはキリストによって思いと心を一つに結び合わされます。
同じイエス・キリストの神を信じ、キリストによって導かれているので、私たちは一つの群れ、信仰の家族と言えるのです。
復活したキリストによって、霊的な生まれ変わりを経験した信者同士は、キリストによって神の子とされた一つの家族です。そのような意味で、確かに、「キリスト(主)にあって、私たちは一つ」です。
今日の箇所で、最初の頃の教会の信者たちの群れは、「すべての持ち物を共有していた」と書かれています。
彼らの中ではだれ一人、持ち物を自分のものだと言う者はなかった、とも書かれています。
現在の私たちは、個人が物や財産を所有することは、大切な一つの権利だと思っています。しかし、やはりキリスト者は、色々なものを個人として所有しつつも、それらにあまりに執着はされないようにと、御言葉から教えられます。
何かに対して、“これは自分のもの”という執着が強すぎると、それが失われたりした時に、私たちは失望したり、憤ったりさえすることがあります。
しかし、キリスト者は、「全ては神から与えられたもの」という信仰を頂いています。
新約聖書の別の箇所、『コリントの信徒への手紙一』4章7節に、次のように書かれています。
あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。
この言葉から、私たちは「これはわたしのもの。これは私が努力によって得たもの」とあまり強く思わないように、と促されます。
わたしたちに与えられた色々なもの、豊かな賜物、才能や色々な機会(チャンス)に恵まれるなどの幸運も、それらすべては主なる神から私たちに与えられるものです。
それが自分のものだと思うと、私たちは高ぶって、傲慢になったりします。私たちは常に、恵みは全て神様から与えられたもの、という信仰に立ち続けたいと願います。
今日の箇所の4章34~35節には、次のように書かれています。
「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである
その時の信者たちを、そのように互いに助け合い、貧しい者が一人もないようにさせていたものは、何だったのでしょうか。
彼らをそのように互いに支え合う者としていたもの、それも彼らが証していた(述べ伝えていた)復活の主イエス・キリストでした。
彼らは“復活のキリストによって自分たちも生かされている”と、確信していたのでしょう。
復活する前にキリストは十字架の上で、御自身の命を捨ててくださいました。それはキリストが十字架の上で、私たち人に文字通り全てを与えてくださった、ということです。
「キリストが私達に全てを与えてくださった」という感謝と喜びが、彼らの原動力でした。
キリストによって新しい命を、全てのものをいただいたという喜びと感謝が、互いを支えるという生き方となっていたのです。
皆がキリストの愛で満たされ、一人も貧しい人がいないように、全ての人の命が支えられるように、皆が豊かであるように、という思いで彼らは一致し、その願いが実現していたのです。
それは素晴らしい信仰の家族の姿であり、そのような信仰の共同体を私たちも作り上げていきたいと願わされます。
しかし、今日の聖書箇所では、最初の頃のキリスト信者の群れが、信仰において決して完全な共同体ではなかった、という冷徹な事実を描き出しています。
5章1節からのアナニアとサフィラに関する話は、一読すると恐ろしい箇所です。
捧げもの(献金)の額をごまかしたアナニアとサフィラ夫婦に起きた出来事から、私たちはどのような神のメッセージを聞くべきなのでしょうか。
“信じた人々は、みな自分の持ち物を売り、必要に応じて互いに分配していた”、という中で、アナニアとサフィラという夫婦は、その金額について事実でないこと(嘘)を言いながら、それを使徒たちに差し出しました。
ここで私たちは、献げものに関しては、今日の箇所においても、信者たちの自発的な意志に基づいていた(強制ではなかった)ということを知る必要があります。
5章4節のペトロの言葉を見てみましょう。
売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったではないか。
このペトロの言葉から分かるように、誰も献金やささげものを強制されてはいなかったのです。神が信仰者に求めるものは、自発的な喜びの捧げものであるからです。
しかしアナニアは妻のサフィラと相談して、土地を売ったのとは違う値段を、おそらく「これが私たちの土地を売った全額です」と言って差し出したようです。そしてそれは事実ではありませんでした。
アナニアとサフィラはなぜ事実と異なる、そのような嘘を言ったのでしょうか。他の人たちの目が気になって、自分たちを誇りたい、という気持ちがあったのかもしれません。
そのようなアナニアとサフィラの姿の中に、私たちは私たち自身の姿を見るようにと促されます。
私たちはどうしても、人からの評価、人が自分をどう見るか、自分の信仰さえも、人からどう評価されるだろうか、ということが気になってしまうのではないでしょうか。
しかし、信仰は人に見せるものではありません。他者から評価されるものでもありません。
信仰は神からいただいた賜物と恵みを、わたしたちがどれだけ認めることができているかにかかっています。そして、その恵みにどれほど自発的に応答しているか、ということが大切なのです。
もし自分自身が、神の恵みで満たされていない、というのならば、私たちを恵みと喜びとで必ず満たしてくださるイエス・キリストと私たちは出会い直す必要があります。
聖書の御言葉、祈り、そして神との人格的な交わりを通して、自分自身の心(特に自分の中の暗い、罪の部分)に正直に向き合うことで、キリストによって赦された者としての自分を私たちは見つけ直してまいりましょう。
そして主キリストに赦された恵み、喜びで、わたしたちは満たされてまいりましょう。
アナニアとサフィラは夫婦でした。夫婦は、その親密な関係によって協力して、一致して神のための働きをすることができます。
しかし今日の箇所のように、夫婦のような親密な関係によって、私たちは神を欺くこともできてしまう、ということを私たちは教えられます。
5章4節のペトロの言葉をもう一度見てみましょう。
あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
アナニアとサフィラに、“神を欺いた”という自覚があったかどうかは、分かりません。おそらく、ペトロに指摘されるまでは、それほどまでの自覚はなかったのでしょう。
「これぐらいのことは許されるはずだ」という思いが、アナニアとサフィラにはあったかもしれません。
しかし、今日の箇所でのアナニアとサフィラのしたこと(彼らの生き方)は、人を欺いたのではなく、神を欺いたことになるのだ、というメッセージを、私たちは真剣に受け止めなくてはなりません。
もし私たちが人に対して誠実でない場合、それは神に対しても誠実ではない、ということであり神を欺くことになるのです。
私達は、多少の不誠実さは人に対してごまかせる、と思っているのではないでしょうか。
しかし、私たちの不誠実さを、神様の前にもごまかすことができる、と思うならば、それは大変大きな致命的な間違いなのだ、と今日の箇所は私たちに告げています。
決して欺いてはいけないお方である神を欺く(神に対して誠実でない)のならば、それは私たちの命に係わる問題だということを、私たちは真剣に受け止めなくてはなりません。
神はなぜ私たち人間に、これほどまでの自由をお与えになったのでしょうか。あえていうなら、“神を欺いて生きる自由”(それを自由と呼ぶのは躊躇しますが)さえ、私たちには与えられているのです。
それほどまでに神は私たちと、本当に人格的な関係を結び、私たちが神の愛への応答として自発的に生きる、自発的に喜び自らを捧げる者となることを願ってくださっているのです。
そのような者として神は私たちひとり一人をお造りになりました。
私たちひとり一人は弱く、欲ぶかく、不誠実な者です。そんな私がキリストの愛によって満たされて、思いも心も一つにされ、励まし合うことで、少しずつ、誠実な信仰者へと共に成長していくことができると、私は信じます。
大変厳しい、今日の聖書の箇所のメッセージに心をとめつつ、命の支配者である神に対して正しく怖れを抱きつつ、しかし神から与えられている豊かな賜物に感謝をしながら、私たちは生きていきたいと願います。
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