2024年12月28日土曜日

2024年12月29日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書32章15節
賛美  新生讃美歌120番 主をたたえよ 力みつる主を
主の祈り
主の晩餐
賛美  新生讃美歌301番 いかなる恵みぞ
献金
聖句 使徒言行録1章6~11節
祈祷
宣教 「聖霊が降るとあなたがたは力を受ける」
祈祷
賛美 新生讃美歌 81番 父なるわが神
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏


 2024年最後の主日礼拝を今日私たちは迎えています。今年2024年も、御言葉を通して、主なる神が私たちに語りかけ続けてくださり、私たちを支え続けてくださり、導き続けてくださったことに、感謝をささげたいと思います。
今年度4月から、私(たち)は礼拝の中で旧約聖書の初めから新約聖書の終わりまで、聖書全体を一年間の礼拝メッセージで網羅しようという、大胆な(かつ無茶な?)試みに取り組んでいます。
聖書の初めから終わりまでを、大まかにでも網羅することで、私たちは主なる神が、私たち人間の思いと計画を超えた、偉大な思いとご計画をお持ちであることを知ることができます。
聖書の中心は、神の御子イエス・キリストの福音です。聖書はキリストが人となってこの世界にお生まれになり、そして私たちの罪の贖いのために十字架の上で死なれたことを、伝えています。

そしてイエス様が三日目に復活なさったことにより、神の思いとご計画、何よりも神の御愛がはっきりと私たちに示されました。
私たち人はそれぞれ、自分自身の願いや思い、色々な考えを持ち、計画を立てたりします。
しかし、十字架と復活の主キリストを主なる神と信じ、キリストの導きに従って歩むことこそが、わたしたち人が選び取るべき道だと、聖書から私たちは示されます。
「主の御言葉に立つ」という年間主題によって、今年度(2024年度)私たちの教会は歩んでいます。
もうすぐ新しい年(2025年)となりますが、新しい年もまた主の御言葉に立ち続け、御言葉によって霊的に養われ続けていきたいと私たちは願います。
礼拝メッセージのスケジュールは、先週のクリスマス礼拝までで、新約聖書の福音書までのメッセージを終えました。
新約聖書の中には、イエス・キリストが生まれてから、十字架にかけられて死に、そして復活するまでを描いた「福音書gospels」と言われる書が4つあります(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)。
そしてその4つの福音書の後、イエス・キリストが復活して天に昇って行かれた後、イエス様の弟子たち(使徒とも言われた弟子たち)が、イエス・キリストの福音を各地に伝えていく「使徒言行録」が続きます。

今日の聖書箇所は、使徒言行録1章からの箇所です。

先ほどお読みいただいた6節からの箇所のすぐ前の箇所ですが、使徒言行録1章3節に次のように書かれています。

イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

イエス様は苦難を受け(十字架にかかり死に)、そしてその後復活して“ご自分が生きていること”を数多くの証拠をもって使徒たちに示されました。
イエス様は、使徒たちが実際に見て、触ることもできるように、復活の体を伴って死から彼らの前にそのお姿を現されました。
イエス様の復活は、夢や幻覚などではなく、この地上で人の目にもはっきりと示された神のなさった出来事だったのです。
イエス様の弟子たちは、復活したイエス様に出会い、大変驚き、中には疑う者もいたのですが、しかし彼らは彼らの主が復活したことを目の当たりにし、再び大きな力と希望を受けました。
今日の箇所で、使徒たちがイエス様に次のように尋ねています。

「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」

弟子たちは、他のイエスラエルの民たちと同様、彼らの救い主がイスラエルを建て直してくださり、彼らを支配している国(ローマ帝国)の圧政から解放してくださる、とずっと信じていました。
しかし、彼らのその望みは、イエス様が無残に十字架にかかり殺されたことで完全に断たれた、と彼らは思って、彼らは絶望していました。
しかし、そんな彼らの前に復活した主イエス・キリストが現れたのです。彼らは復活の主と出会い、喜ぶと共に、“イスラエルが解放される”と言う望みもまだ終わっていない、とも思って喜んだのでしょう。
ですから彼らはイエス様に尋ねたのです。
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」

 イエス様はこうお答えになりました。(7節)

父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。

 自分たちの国が建て直され、解放される、と言う決定的な時は、それは天の父なる神が神の権威よって定めることだ、と言うのです。(人間が定めるのではない、と言うのです)
 私たち信仰者は、神がお定めになる時に従って、大切な時とタイミングを待つということが求められます。
  私たちには色々な願いや思いがあります。今日は今年最後の主日礼拝です。
 今年一年を振り返って、皆さんはそれぞれ、今年願っていたことが叶った、あるいはその通りにはならなかった、など色々な思いを持っておられるのではないでしょうか。
 願い通りにならなかったことで落胆している、がっかりしている、と言う方もいらっしゃるかもしれません。
 しかし、私たちはそのような時にこそ、聖書の御言葉を通して、神の御心を知り、神の時を待つ、神の御計画を信じる、と言うことを教えられます。
 私たちの思いや願いをはるかに超えた、神の御計画があります。そして神はお定めになった時に、そのご計画を成就されるのです。
  ですから私たちは、天の父なる神が、ご自分の権威によってお定めになった時と時期があることを信じ、神の御旨を求め、その御旨にしたがって歩んでいこうと、今日改めて決意をいたしましょう。
 イスラエルの国が建て直される、それはすなわち信仰的に、今の私たち信仰者一人ひとりの信仰が建て直される、罪からの解放の喜びが与えられということでもあります。

それには一つの徴(しるし)が伴うことが、今日の箇所に書かれています。
それが8節に書かれています。8節をお読みします。

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 聖霊が降ることによって与えられる力とは、どのような力でしょうか。

『エフェソの信徒への手紙』を書いたパウロが、その手紙の中で次のように、祈っています。

エフェソの信徒への手紙3章16~17節
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

 神の霊である聖霊が降る時、私たちの内なる人が強められる、とここでは書かれています。
  私たちの内なる人が強められるとは、すなわち私たちの心のうちに、聖霊によってイエス・キリストが住んでくださる、ということです。
  そして私たちの内にキリストが住まわれるとは、私たちがキリストの愛に根ざし、キリストの愛にしっかりと立つ者(キリストの愛によって建て上げられる者)となる、ということです。
  ですから聖霊が私たちに与えられるということは、キリストが私の心のうちに住んでくださっている確信によって測られると言うこともできるでしょう。
 そしてキリストが私たちの心の内におられること、キリストによってこの私がいかに尊い者とされ、愛されているかを確信することができる、というのも聖霊の働きです。
 そしてキリストの愛によって満たされた私たちが、その愛をもって自分以外の他者に、またこの社会に向き合うということを通して、神の国がこの世界に広がっていくようになるのです。
  聖書の神、主は最初イスラエル民族をお選びになり、彼らに救いの御業を示されました。やがてイスラエル民族は、神の救いは彼らだけに与えられていると信じるようになっていきます。
 しかし、聖霊が使徒たちに降ると、彼らはキリストの愛に満たされて、エルサレムばかりではなく、ユダヤ、サマリヤの全土、地の果てに至るまで、彼らはキリストの証人となる、と今日の箇所で言われています。
 エルサレム、ユダヤと言う枠を超えて、主の十字架と復活によってはっきりと示された罪の赦しと主の御愛は、地の果てにまで、あらゆる国や地域、すべての民に伝えられていくのです。
 そして福音がそのように伝えられていく原動力は、通常、ある国が他国を支配する時に用いる武力や、相手を無理やり押さえつけるような何らかの力ではないのです。
 それは聖霊によって与えられるイエス・キリストの愛だと、聖書は伝えるのです。
 キリストの愛が私たちの内に本当に満ちて、そのキリストの御愛に基づいて私たちが生き、行動する時、私たちは他者と本当に理解し合うことができるようになり、またキリストの愛が私たちを通して広がっていくでしょう。
 そして無理やり力によって相手に自分の要求を飲ませたりする方法によってではなく、キリストの愛に基づいて互いの間に理解と思いやりが生まれる時、そこから生まれる何か新しいことや変化、その出来事は、本当に力あるものになるのでしょう。
  今日の箇所で、イエス様は弟子たちの前から、“やがてまた私は戻ってくる”という約束と共に、天に昇っていかれました。
  今私たちの目に、イエス様は目には見えませんが、主はその約束通り、聖霊によって私たちの内に住んでくださり、主の御愛で私たちを満たしてくださっています。
  今年一年、私たちそれぞれ、また私たちの教会も、様々な失敗や挫折なども経験したと思います。逆に、達成できたことも、多くの喜び、恵みもあったと思います。
 私たちは、聖霊によって与えられる確信を持ちましょう。主が定めた時、その時その時期に主の大きなご計画は実現するのです。そのような主の時、神の時の中に私たちは生かされていることを信じましょう。
 そして私たちに、主の聖霊がさらに豊かに与えられ、主の御愛で満たされた私たちが、主の御愛をこの世に伝えていく器として、ますます大きく用いられますようにと願い、祈ろうではありませんか。

2024年12月3日火曜日

2024年12月22日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書9章1節
アドベントキャンドルの点火
賛美  新生讃美歌 157番 来たれ 友よ 喜びもて
主の祈り
賛美  新生讃美歌 301番 いかなる恵みぞ
献金
特別賛美
聖句 マタイによる福音書2章1~11節
祈祷
宣教 「最初のキリスト礼拝」
祈祷
賛美  新生讃美歌 167番 天にはさかえ
頌栄  新生讃美歌 679番
祝祷
後奏


 キリスト教会では、12月25日をイエス・キリストの誕生日として、記念し、お祝いをいたします。
 先ほどお読みいただいた今日の聖書箇所には、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と書かれています。
 実は聖書の中には、イエス様が「何月何日に生まれた」という記録はありません。ですから、12月25日がイエス様の本当のお誕生日かどうかは、私たちにはわからないのです。
 キリスト教会が12月25日をクリスマスとして祝うようになったのは、キリスト教初期の時代に、当時ローマで信じられていた太陽神ミトラ(Mithra)を崇拝するミトラ教が、“不敗の太陽神 (the Invincible Sun God)”を祝う祭りを12月25日に行っていたことに由来するようです。

 クリスチャンたちは、イエス・キリストこそが、”真の太陽“であり、新しい命を人間にもたらす唯一、真の神であることを信じました。
 ローマ帝国においてもキリスト教がだんだんと信じられるようになり、ミトラ教は衰退していきました。
そのような経緯で12月25日には、ミトラの神ではなく、クリスチャンたちがキリストの誕生を記念するようになっていったようです。
 ですから、12月25日という日付は、聖書の中には記録がありませんが、その日付は、聖書が伝える唯一真の神を多くの人たちが信じ、(人間が作り出した偶像を信じるのではなく)、真の神をあがめるようになった信仰の決意の歴史を表すものです。

 12月25日という日付自体には、キリストの誕生日としての正確な根拠がありませんが、しかしイエス・キリストが生まれた時代については、聖書にはっきりと書かれています。
 初めに私が申し上げましたように、今日の箇所の始めに「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と書かれています。
 ヘロデ王とは、通常“ヘロデ大王 Herod the Great”と言われる、当時ローマ帝国の庇護を受けながら、ユダヤを王として治めていた人でした。(その在位は紀元前37年から紀元前4年までと言われます)
 今日の箇所よりも後の箇所に書かれているように、ヘロデは“王としての自分の地位を脅かす新しい王が生まれた”という知らせ(ニュース)を恐れ、ベツレヘムの周辺一帯で生まれた二歳以下の男の子を一人残らず殺させました。
 ですから、ヘロデは、恐ろしく大変残忍な性格であったと言えます。
または、“彼(ヘロデ)の生い立ちや王という地位が、彼をそのような人にしてしまった、人間は誰でも彼(ヘロデ)のようになる可能性がある”ということを私たちは知るべきなのかもしれません。

 イエス様はそのような王がユダヤに君臨していた時(およそ2000年前)に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。
 そのとき「占星術の学者たち」(英語ではMagi (伝統的には“賢者”(wise men)とも訳されてきた)が、東の方からエルサレム(ユダヤの首都)のヘロデ王のところへやってきました。
 新共同訳聖書で「占星術の学者たち」と訳された理由は、彼らが星の動きを見ることによって、“ユダヤ人の新しい王(救い主)が生まれた”という解釈をすることができたから、だと思われます。
 彼らは、星(天体)の動きを観察し、それを解釈することができる、当時の天文学の専門家だったのです。
彼らの知識は、当時の水準としてはかなり高いものであり、彼らは当時の最先端の学者たちであったのでしょう。
 その彼らが東の方からはるばるエルサレムへとやってきました。“東の方”が正確にどこかは書かれていないので分かりません。
 それはかつてバビロン捕囚によってイスラエルの民たちが囚われていたバビロン、あるいはそのもっと東の方という説もあります。だとすると、彼らが辿った旅の道のりは千数百キロにも及びます。
 正確には分かりませんから推測するしかないのですが、彼ら学者たちが、相当の長い道のりを、それだけの危険を冒して、相当の日数をかけてエルサレムへたどり着いたことは確かだと私は思います。

 マタイ福音書は、その時お生まれになったイエスという人が、人間がそれほどの危険を冒し、時間をかけてでも、また持っているものの多く(全て)を捧げてでも、お会いすべきお方、私たちが信じるべき尊いお方なのだ、ということを告げているのです。
 また彼ら学者たちは、ユダヤ人ではなく、東の方の国出身の、ユダヤ人たちから見れば“異邦人たち”でした。
 彼ら異邦人の学者たちは、バビロン捕囚でバビロンの地域へ移り住んでいたユダヤ人たちからもたらされた聖書の話に親しんでいたのではないか、と思われます。
 “いずれユダヤに真の王、救い主がお生まれになる”という聖書の預言を、彼ら学者たちは信じて、大きな期待を持って待っていたのでしょう。
 ユダヤの王、救い主がお生まれになったという知らせが、ユダヤ人ではない異邦人たちによってヘロデ王に知らされた、という事実も、このお方(イエス様)が、イスラエル、ユダヤという地域や国、民族を超える、私たちすべての人間の救い主であることを表します。
 私はかつてキリストを信じる前は、“キリスト教は西洋のもの”という考えをもっており、日本人の私が信じられるものではない、と思っていました。
 正確には、キリスト教は歴史的には確かに西洋(ローマ、ヨーロッパ諸国)で発展しましたが、イエス・キリストはイスラエルでお生まれになったユダヤ人ですので、“キリスト教は西洋のもの”という認識は必ずしも正しくありません。
 かつて“キリスト教は西洋のもの”という理由で、キリスト教を拒絶していた私自身の中には、一種の偏見や壁(それは“差別prejudice”と言ってもいいかもしれません)があったのだなと、今私は思わされます。
 真実というものは、人間の世界での国とか民族、人種の違いを超えるものです。
人間の世界での私たちの違いを超える神の真実があるにもかかわらず、その真実よりも、人間の世界での国や民族の違いにこだわり、時には自分の所属する国や民族に偏った誇り(プライド)を大切にしようとすることは、正しいことでしょうか。
私たちはすべて神によって造られたものであり、神は私たち一人ひとりを、異なる特徴をもった者としてお造りになりました。
神によって造られた私たちは、一人一人違っても、しかし私たちをお造りになった唯一の神を知り、人間の世界での国や地域、人種や民族などの違いを超越した神を信じて共に生きていくようにと、神がそう望んでおられることを聖書は告げています。
わたしたちは、聖書の告げるその真実に、心を開き聖書の言葉に耳を傾け続けていきたいと願います。

そして今の私たちは幸いなことに、今日の聖書箇所での、占星術の学者たちのように、真の神、救い主を求めて、救い主とお会いするために、何百キロ、何千キロという旅をする必要はないのです。
わたしたちは神とお会いするために、エルサレムまで行く必要はないのです。なぜなら、神は今、ここに私たちと共におられるからです。それは本当でしょうか?
それは本当なのです。聖書には次のように書かれています。
 マタイによる福音書18章20節でイエス様が次のようにおっしゃっています。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」

 私たちが、キリストの名によって、すなわちキリストを神と信じ、その信仰によって結ばれて、心合わせて集うならば、その場にイエス様は共にいてくださる、というのです。
 私たちキリスト教会が、人間的な思いや欲によって集まるのではなく、キリストの名、イエス・キリストの恵みと愛に引き寄せられて集まる時、キリストにご栄光を共にお返しする時、その場にイエス様は共にいてくださいます。
 つまり、私たちがキリストへの信仰を持って集まるところであれば、どこであってもイエス様はその場に共にいてくださる、というのです。何という大きな恵みでしょうか。
 私たちはこれからも、聖書の御言葉を共に聞き、神の霊である聖霊の導きをいただいて、私たちがキリストの名を信じて集まる場に、イエス様が共にいてくださる、との恵みを分かち合って信仰生活を歩んでいこうではありませんか。

 また、今まだその信仰をお持ちでない、決心をしておられないお方も、ぜひ教会へ続けて来ていただいて、真の神との出会いを経験していただきたいと、私たちは心から願っております。
 学者たちが最初に行ったヘロデの宮殿に、ユダヤ人の王(イエス様)はおられませんでした。
イエス様は、大工のヨセフと母マリアとの間に、そのユダヤの普通の家庭で、一人の男の子としてお生まれになったからです。
 ヘロデに「その子のことを探し出してくれ、調べてくれ」と言われ(8節)、学者たちは出かけていきました。
すると彼らが東の方で見た星が彼らを導いて、そしてその幼子(イエス様)のいる場所の上に止まりました(10節)。

 そこで彼らは喜びにあふれ、そしてその家へと入っていきます。
 11節をお読みします。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 彼ら学者たちは、そこで見たひとりの幼子にひれ伏して、拝み、その子に、彼らが持っていた宝を捧げました。
 黄金は王であるお方への捧げもの、そして乳香(ある種の木の樹液から作られた香料)は、神と人とをつなぐ大祭司であるお方への捧げものを象徴すると言われます。
そして没薬とは、死者の体の腐敗を防ぐ防腐剤としても使われていたことから、すべての人の罪の贖いのために、やがて十字架で死なれるキリストの死を象徴するものだと言われます。
ですからその時、この学者たちは、彼らが持っていた宝物を、真の王であるお方、そして神と人とをつなぐ大祭司でもあるお方に、そして私たちのためにその命を捧げてくださるお方へと、宝物を捧げたのです。

彼らは、その時、最初のキリスト礼拝を捧げたと言ってよいと、私は思うのです。
今私たちは、キリストをどのように礼拝しているでしょうか。キリストを心から信じ、あがめ、私たちの宝をそのお方に捧げているでしょうか。
神であるお方が人としてお生まれになりました。そのお方がイエス・キリストです。それは私たちの罪の赦しと救いのためです。
キリストがそのようにして私たちの世界に生まれきてくださったことを信じ、喜び、そして感謝しましょう。
キリストの名によって私たちはこれからも集まり続け、私たちが持っている最良のものを、まず私たち自身をイエス様へとお捧げし、真のキリスト礼拝を捧げてまいりましょう。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」~イエス様のこの恵みの御言葉は、いつまでも真実であり、そして私たちにとっての現実であり続けます。

2024年12月2日月曜日

2024年12月15日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編32篇11節
アドベントキャンドルの点火(喜び)
讃美  新生讃美歌 173番 ああベツレヘムよ
主の祈り
讃美  新生讃美歌301番 いかなる恵みぞ
献金
聖句  ヨハネによる福音書3章22~26節
祈祷 
宣教  「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」
祈祷
讃美  新生讃美歌 160番 天なる神には
頌栄  新生讃美歌679番
祝祷
後奏


 今日は、クリスマス前の待降節(アドヴェント)第三日曜日です。
 礼拝の初めに、三本目のアドヴェントキャンドルに火が灯されました。その三本目のろうそくの火は「喜び」を表します。
 イエス・キリストが人として世に生まれてこられたクリスマスの出来事は、私たちにとっての大きな喜びです。私たちの喜びの源はイエス・キリストです。
 キリストがおられるところに喜びがあります。キリストがおられ、キリストが人々によって認められ、あがめられるところには喜びがあるのです。

 今日も私たちは教会で、礼拝を通して、キリストを主なる神と認め、キリストをあがめ、そしてキリストが私たちと共におられることの喜びを分かち合いたいと願います。
 今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書3章22節から30節までの箇所です。
次の一文で今日の箇所は始まります。

22その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。

 イエス様は、ご自分の弟子たちと一緒にユダヤ地方へ行かれ、そこに滞在して、そしてバプテスマ(洗礼)を授けておられました。
 先週、私たちの教会では一人の姉妹がバプテスマをお受けになりました。バプテスマとは、一人の人が、イエス・キリストを主、救い主と信じ、クリスチャンとして歩んでいくことを告白し、表明する儀式です。
 私たちキリスト教会は、人々にイエス・キリストの福音を伝え、そして信じる人にバプテスマを授けなさい、とイエス様によって命令されています。
マタイによる福音書28章19~20節に次のように書かれています。

19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

このように、イエス様の教えを世に伝え、信じる人にバプテスマを授けるのは、キリスト者の共同体である教会が、イエス様から受けた命令です。(それは、“大宣教命令”と言われます)
そして今日の箇所では、イエス様が自らバプテスマを人々に授けておられます。イエス様は、ご自分の弟子たちを連れ、ユダヤの各地方へ出かけていき、神の国について述べ伝えました。
 イエス様はそこで色々な人々に出会い、彼らに神の国を伝え、そして信じる者に信仰のしるしとしてのバプテスマを授けておられたのです。
 イエス様自身がバプテスマを授ける様子を見て、弟子たちは後に自分たちがバプテスマを授けるときに、イエス様のバプテスマの様子を思い出したでしょう。
 イエス様は、やがてご自分が天に上げられ、この地上では弟子たちと共にいなくなる時に備えておられたのだと私は思います。
イエス様は弟子たちと一緒にいる時に、“どのように神の国を伝道するのか”、“どのようにバプテスマを授けるのか”ということを、弟子たちに実際に見せながら教えていたのだと、私は想像します。

 私は今牧師として教会に仕えさせていただいています。今の自分の牧師としての働きには、かつて私自身の牧師だった方たち(過去所属した教会の牧師たち)から学んだことが、その基礎としてあります。
 イエス様が、ご自身で宣教する姿、バプテスマを授ける姿が弟子たちに伝えられ、そしてイエス様の弟子たちがそのようにして学んだことは、時代を超えて今のキリスト教会にも受け継がれているのだと、私は思います。
 私たちは今を生きる信仰者として、今の時代の現実にしっかりと目を据えながら、過去から継承されてきた伝道、信仰の内容も大切に、学び続けたいと願います。

23節に次のように書かれています。

23他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。

このヨハネとは、バプテスマのヨハネと言われた伝道者です。バプテスマのヨハネはイエス様にもバプテスマ(洗礼)を施した、新約聖書のイエス様の時代の宗教指導者の一人でした。
 バプテスマのヨハネは、その当時非常に影響力も、また人気もあった指導者だったと思われます。
 しかし、今日の箇所ではイエス様のバプテスマと、バプテスマのヨハネによるバプテスマには明らかな違いがあったことが描かれています。
それは、イエス様は神の子であるご自身の権威で、神の霊である聖霊によってバプテスマを授けていたのに対し、バプテスマのヨハネは、ただ水によってバプテスマを授けていたということです。
ヨハネ福音書1章31節以降の箇所で、バプテスマのヨハネが“わたしは水でバプテスマを授ける。しかし、水でバプテスマを授けるためにわたしをお遣わしになった方(キリスト)は聖霊によってバプテスマを授ける”と言っています。

 バプテスマのヨハネのバプテスマは、あくまで人間の手による(その本当の権威は神に拠るのであって、人にはない)バプテスマでした。
私たちキリスト教会は、神様の、いわば代理人として、今も水でバプテスマを授けます。しかし、聖霊によって真のバプテスマをお授けになるお方はイエス・キリストなのです。
 私たちは、私たちが神を信じ、そしてバプテスマを受けるように導かれる時、そのバプテスマを聖霊によって真に授けておられるのは、イエス・キリストの神であることを、牧師や教会の権威ではない、ということを胸に留めたいと思います。

 今日の箇所の26節を見てみましょう。
 26彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」

 ヨハネの弟子たちは、イエスという新しい指導者のもとへ、多くの人たちがひきよせられているのを見て、嫉妬の気持ちに駆られたようです。
 ヨハネの弟子たちは、イエスと言う人を、自分たちの先生のライバルのような存在として見ており、またイエス様に従う弟子たちを、自分たちと対抗(あるいは競争)する人たち、と考えたのでしょう。
 ヨハネの弟子たちは、“自分たちの先生のほうがもともとは人気があって、自分たちのグループの方に従う人のほうが多かったのに、今は多くの人が あのイエスという新しい指導者のところへ行ってしまっている”というのが悔しかったのでしょう。
 このようなライバル心、あるいは虚栄心は、私たち誰もが心の中に持っているものではないでしょうか。ヨハネの弟子たちの姿は、私たち自身の姿でもあるのでしょう。
しかし、自分の弟子たちにヨハネは次のように答えました。

天から与えられなければ、人は何も受けることができない。

 私たちは、様々なよいものを、天の神からいただきます。自分の能力、才能、その他すべての良いものを天の神から頂きます。
 バプテスマのヨハネは、伝道者としての資質、あるいはその使命自体を彼にお与えになったのは天の父なる神であると確信していました。
 バプテスマのヨハネは、天の父なる神が彼に与えてくださった使命に、与えられた賜物を用いて、ただ忠実に従うことに喜びを見いだしていました。
 神から与えられた賜物ですから、それを他人が与えられた賜物と比較したり、優劣を競ったりする必要はまったくないのです(そうすべきでないのです)。
私たちは、神がそのご計画に基づき私たちそれぞれに与えてくださったものを感謝し、喜ぶことが出来る者でありたいと願います。
 また頂いた賜物を大切に、その賜物を用いて、神の国の宣教の働きのために仕えていきたいと願います。
 さらにヨハネは自分を花嫁と花婿を結び付ける介添え人の役割に例えています(29節)。キリストが花婿であり、そしてキリストを信じ従う人たちのことを花嫁に例えているのです。
 バプテスマのヨハネは、多くの人がキリストを信じ、キリストに従うことができる道を備えるのが自分の使命だと示されていました。
 人々を、自分に従うようにするのではなく、人々をイエス・キリストを信じるように導くのが自分の使命であると、ヨハネは確信していたのです。

 ですから、多くの人が(花嫁が)イエス・キリスト(花婿)のところへ行き、その教えを受けている、と言う事実は、ヨハネにとってそれ以上の喜びはない喜びでした。
 ヨハネは、“わたしは喜びで満たされている”と言っています(29節)。キリストが来られた事、その声を聞き彼は喜びで満たされている、と言うのです。
 私たちも、イエス・キリストの声を聞くときに、キリストの声を私たちに命を与え導く、命の言葉として聞くとき、最上の喜びで満たされます。
 私たちを喜びで満たす神の言葉、キリストの御言葉を、私たちはいつも聞き、その御言葉によって養われ、そして私たちの人生を生きる力をも頂いてまいりましょう。

 今日の箇所最後の節である30節をお読みします。

30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

 “あの方”とは、言うまでもなくイエス・キリストです。イエス・キリストが栄えること、キリストの名があがめられ、キリストが信じられることが、私たち人にとっての最大の喜びであるのです。
 私たちの中で、キリストがあがめられる時、キリストが私たちの中で大きくなる時、逆に私たち自身は小さく、衰えていきます。
 自分中心の私たちは“わたしは、わたしは”という思いが、どうしても最初に来ます。それほどあからさまでなくても、私たちの正直な気持ちは“自分が先”でしょう。
 ですから自分の欲求が満たされない時、人が自分の思い通りにならない時、私たちは不満を抱きます。
 自分の思い通りにならない時、私たちは神に対してさえも不満を抱くでしょう。
しかし、私たち自身の中で、キリストがもっとも大きな存在となれば、キリストの思い、すなわち神の御心こそが最も大切なものとなります。
 キリストが私たちの中で大きくなり、栄えるならば、私たち自身の思いよりも、キリストの思いのほうがはるかに重要で大切なものになります。
“イエス様は、どう思っておられるのだろうか、イエス様はこの私にどのように生きてほしいとお望みなのだろうか”ということが私たちの最大の関心事になるのです。
 キリストこそが私たち一人ひとりの中で、また私たちの教会でもっとも栄えるお方であるように、そのような信仰を私たちはいただいてまいりましょう。
 私たちの中でもっとも栄えるべきお方、最もあがめられるべきお方、栄光の主が、小さな男の子としてこの世界にお生まれになったことを思い起こすクリスマスが、今年もやってきます。
主イエス・キリストが世に来られた事を心から喜ぶ、クリスマスを感謝して今年もお迎えいたしましょう。
そしてキリストこそが常に私たちの間で最もあがめられ、もっとも栄えるお方でありますようにと、祈り求めましょう。

2024年12月1日日曜日

2024年12月8日 主日礼拝

前奏
招詞  ローマの信徒への手紙12章16節
アドベントキャンドルの点火
賛美  新生讃美歌 149番 来たれやインマヌエル
主の祈り
信仰告白
献金
聖句  ゼカリヤ書6章9~15節
祈祷
宣教  「平和の計画が二人の間に生ずる」
祈祷
賛美  新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄  新生讃美歌 679番
祝祷
後奏

 今日はイエス・キリストのお誕生を記念し、感謝し、お祝いをするクリスマスの前の、「アドベント(待降節)」と言われる期間(クリスマス前の約4週間)の第二日曜日です。
 礼拝の初めに二本目のアドベントキャンドルに火が灯されました。
二本目のアドベントキャンドルには“平和”という意味と願いとが込められています。今日は、旧約聖書の『ゼカリヤ書』の中の一箇所から神様の平和の言葉を私たちは共に聞いていきます。
今日の箇所の初めの9節に「主の言葉がわたしに臨んだ」と書かれています。この“わたしme”というのは、ゼカリヤという名の預言者の事です。
ゼカリヤは、バビロン捕囚(バビロニア帝国に国を滅ぼされ、多くのイスラエルの民がバビロンへ連れていかれた出来事)が終わって、エルサレムにイスラエルの民たちが帰ることを許された時代の預言者でした。

バビロン捕囚は約70年続きました。イスラエルを滅ぼしたバビロニア帝国がペルシャ帝国に滅ぼされることによって、バビロンに囚われていたイスラエルの民たちは、ようやく国へ帰ることが許されました。
『エズラ記』の初めに次のように書かれています。

エズラ1:1~4
1ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。
2「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。
3あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。
4すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。」

聖書は、主である神がペルシャの王キュロスの心を動かされたので、イスラエルの民たちはバビロンからエルサレムへ帰ることが許された、と言います。
イスラエルの民たちが自分たちの国へ帰り、そこでかつてバビロニアによって破壊された神殿を再建するように許されたのも、それは神がペルシャ王キュロスの心をそのように動かしてくださったからだ、と言うのです。
つまり、バビロン捕囚の終結は、神の恵みであり、イスラエルの民たちが自力で成し遂げた出来事ではなかった、ということです。

私たちが聖書のそのようなメッセージに触れる時、私たちが今も頂く善きものは全て、神からの賜物と恵みであることを知らされます。
何か良き物を私たちが自分の努力や力で手に入れたり、それを成し遂げたと思おうとするときに、私たちは聖書を通した神のメッセージにより、“すべては神の恵みとして私たちに与えられた”という謙虚な思いにさせられるのです。
すべての恵みの源は、主なる神であることを覚えて、私たちは常に感謝の思いを持ち続けたいと願います。

エルサレムではバビロンによって破壊されていた神殿の再建工事が始まりました。しかし、神殿再建工事は、イスラエルの民たちが神殿を再建することをよく思わない他の住民たちに妨害されます(エズラ記4章にそのことが書かれています)。
そのように神殿再建の工事は一時中断しました。しかし、『エズラ記』5章の初めに次のように書かれているように、神殿再建の工事は再開されます。

エズラ5:1~2
1預言者ハガイとイドの子ゼカリヤが、ユダとエルサレムにいるユダの人々に向かってその保護者であるイスラエルの神の名によって預言したので、
2シェアルティエルの子ゼルバベルとヨツァダクの子イエシュアは立ち上がって、エルサレムの神殿建築を再開した。神の預言者たちも彼らと共にいて、助けてくれた。

預言者であったハガイとゼカリヤが、神の言葉を民たちに伝えることによって、民たちは立ち上がって神殿再建の工事に再び取り掛かることができたのです。
神の言葉こそが私たち人を励まし、一度は挫折してしまったことや、または新しいことをこれから始めようという時に、勇気と希望と力を与えてくれます。
 私たちが毎週こうして礼拝を通して、神の御言葉を共に聞き分かち合うのも、私たちは礼拝によって霊的な力、霊の糧を頂いて生きる者であるからです。
 御言葉によってこそ私たちは真の命を頂き、生きることができます。私たちはまず礼拝で御言葉を聞き分かち合うことによって、神の言葉こそが
私たちを強め生かすことを学び、神の言葉を私たちの力としていきましょう。

 アドベント第二日曜日の今日、ゼカリヤ書のこの箇所(6章9~15節)を私たちが聞こうとする理由は何でしょうか。
 それは今日の箇所の言葉が、実際にはイエス・キリストが生まれる何百年(約600年前)も前の出来事でありながら、今日の箇所の出来事は、やがてお生まれになるイエス・キリストの到来を預言している箇所であるからです。
11~12節に次のように書かれています。

11銀と金を受け取り、冠をつくり、それをヨツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭に載せて、
12宣言しなさい。万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す。

ここでゼカリヤの言葉を通して、『この人(ここでは大祭司ヨシュア)に冠をかぶせなさい(この人を王としなさい)』という命令が伝えられています。
そしてその王となるお方は「若枝」であると書かれています。そのお方は一つの小さな枝、生まれたばかりの若い枝のような王である、と言うのです。
それは大木のような強いイメージを持ったお方ではなく、その姿は小さな若い枝のようなお方なのです。それはまだ地面から生えたばかりの芽のようなお方です。それはまさに、わたしたちの主イエス・キリストです。
私たちは、クリスマスに、イエス・キリストが人間の子(赤ちゃん)として、ヨセフとマリアの間に生まれてきたことを知っています。
生まれたばかりの人間の赤ちゃんは、保護者の守りと世話がなければ一日も生きていくことはできない、本当に弱い存在です。
神であるお方がそんなお姿でこの世界にお生まれになったとは、信じられないことです。しかし、それが主なる神の御計画でした。

小さな赤ちゃんとして、まるで生え出たばかりの芽のようなお姿で私たちの間に来られる主を、私たちは私たちの王としてお迎えし、そのお方に王冠をお捧げいたしましょう。
私たちは、自分を中心とする罪を抱えています。言ってみれば私たちは自分が自分の王様であるのです。
私たちは、聖書が伝えるイエス・キリストを私たちの王として、私たちの自分の王冠を脱ぎ捨て、王なるキリストに、そのふさわしい王の冠をお返ししましょう。
そして今日の箇所は、その王は「神殿を立て直す」と言います(12節)。この神殿は、現実としては、その当時、バビロニア帝国によって一度壊されたエルサレムの神殿のことを指します。

 しかし、信仰的には、ここでその王が建て直す神殿とは、私たち信仰者一人ひとりのことです。私たちの王なるお方、キリストは私たちをキリストの神殿として建て直してくださるお方であるからです。
 私たち一人ひとりは神の神殿です。新約聖書のコリントの信徒への手紙一の3章16節に次のように書かれています。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」

私たちの王であるキリストは、私たち信仰者一人ひとりを、そしてまた私たちの教会を、主の神殿として、再び建て上げてくださいます。
私たちはいろいろと自分自身が壊されるような、それまで信じていたものが(あるいは自分自身が)信じられなくなったり、まったく自信を失ってしまったりするときがあると思います。
 何かに失敗して、“もう立ち直れない、自分の人生にはこれから先になんの希望もない”としか思えないような絶望を感じる時もあるでしょう。
 どこへ向かえばよいのか分からない、という時もあると思います。しかし、私たちの主は、主の神殿としての私たちを再建してくださるお方として、この世に来てくださいました。
 ですから私たちは何度失敗しても、倒れても、主なる神キリストが私たちの王として、私たちを再建してくださるという、聖書の御言葉に信頼をしましょう。
そして決してあきらめることなく、聖書の御言葉から希望を頂いて、生きていこうではありませんか。

13節をお読みします。
13彼こそ主の神殿を建て直し/威光をまとい、王座に座して治める。その王座の傍らに祭司がいて/平和の計画が二人の間に生ずる。

 キリストが私たち信仰者という神殿を立て直し、キリストが私たちの王として私たちをお治めになります。
 「その王座の傍らに(一人の)祭司がいて」と書かれていますが、これは王としてのキリストが、神と人とを結び付ける大祭司としての務めも果たされる、ということだと私は理解いたしました。
 王として、また大祭司としてのキリストが私たちを治め、導かれます。
そしてキリストによって私たちが治められる時、その時私たち人の間で平和(英語では“ハーモニー(調和)”と訳されています)が生ずる、というのです。
キリストが私たちを治めてくださり、また私たちがキリストを私たちの真の王としてあがめ、そのお言葉に聞き従って生きる時、私たち人同士の間で、真の平和(ヘブライ語のシャローム)が生まれる、というのです。
 そのような意味で本当に平和の王であるキリストの到来、キリストのお誕生を記念するクリスマスを前に、今私たちは改めて、王なるキリストに全ての栄光をお返ししましょう。
主なる神がご自分のすべてを私たちに与えてくださることで、今も私たちの間に平和をもたらしてくださる方であることを覚え、心からの感謝を主にお捧げしようではありませんか。

 

2024年11月29日金曜日

2024年12月1日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書7章14節
アドベントキャンドルの点火(希望)
賛美 新生讃美歌 148番 久しく待ちにし
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌301番 いかなる恵みぞ
献金
聖句 ローマの信徒への手紙8章18~25節
祈祷
宣教 「目には見えないものを望んで」
祈祷
賛美 新生讃美歌491番 信ぜよ み神を
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏

 今日から、教会の暦ではアドベント(待降節=誕生(キリストの誕生)を待つ時)と言われる期間に入ります。
アドベントは、クリスマス前の約4週間の期間を指し、今日から12月24日(クリスマス・イヴ)までがアドベントの期間になります。
 クリスマスには、私たちキリスト教会は、イエス・キリストがこの世界に生まれてこられたことを記念し、お祝いを致します。
 イエス・キリストは全ての人の救い主として、この世界に来てくださったと聖書は伝えます。

 新約聖書の『ヨハネの手紙一』の2章2節には、次のように書かれています。
 この方(*キリスト)こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。

 その“わたしたち”とは、キリストを信じるクリスチャンのことが言われているのだと思われます。
もしくは、旧約聖書の中で、神によって最初に選ばれ、神の救いが告知されたイスラエルの民のことが言われているのかもしれません。
 しかし、キリストがお生まれになったことにより、罪の赦しと贖いは全世界のあらゆる民に及ぶということが明らかになりました。
 同じ『ヨハネの手紙一』の4章14節には次のように書かれています。

わたしたちはまた、御父が御子(*キリスト)を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。

ここでも、「イエス・キリストは全世界の救い主として世に来られた」と伝えています。
 全世界の救い主が来られたという出来事を、私たちが常に記憶し、感謝し、喜ぶため、そしてその喜びの知らせを世に伝え続けるために、キリスト教会は毎年繰り返し、クリスマスを記念いたします。
キリストが救い主として私たちの世界に来られたということは、私たちは救い出される必要がある者だ、ということです。
 私たちはどのような状態から救い出される必要があるのでしょうか。

今日の聖書箇所の20節に次のように、「被造物は虚無に服している」と書かれています。英語訳(NIV)では”frustration”と訳されています。
“虚無”、あるいは“フラストレーション”いずれも、“失望”や“落胆”と言い換えてもよいと私は思います。
この世にあって私たちは誰もが失望や落胆の中に生きている、あるいはどうしても満たされない欲求(願い)を抱えながら生きている、と聖書は言うのです。
 私たちが、神が造られたこの世界にあって、どうしても満たされない心、不満や不安を抱えながら生きる原因は私たち人間による罪が原因であると、聖書は伝えています。

人は罪によって、私たちの世界の創造主である神のご栄光から自ら遠ざかってしまいました。
人は本来神に従って、神の栄光を頂いて生きる者として造られました。しかし人は、自分を中心にして生きるようになったため、罪が私たちの中に入り込みました。
自分中心に生きるようになったため、私たちは神からも離れ、また自分以外の他者からも離れて、互いに完全には理解し合えない存在として生きるようになりました。
本来、神の栄光を豊かに受けて生きるように造られ、また他者とも何事も隠すことなく理解し合って生きるように造られた者が、自分中心に生きる道を選んでしまったことが、私たちの苦しみの一つの原因としてあるのだと思います。

 私たちは神から離れてしまったので、神の御計画、神の御意志が分からなくなりました。ですから私たちは悩みます。
また自分以外の他者と完全に理解し合えず、時に怒りや憎しみさえも抱くようになり、そのために私たちは苦しむということもあります。
この世にあって、この世のものによってはどうしても満たされない私たちの心、虚無やフラストレーションを抱えて私たちは苦しんでいます。
 しかし、今日の箇所の初めの節であるローマの信徒への手紙8章18節を読んでみましょう。

18現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。

様々な事情や理由で苦しんでおられる方が、“現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りない”、“それは取るに足りない(大した問題ではない)”と言われると、納得できないかもしれません。
 しかし、この「ローマ人への手紙」の筆者(パウロ)がこのように表現したのは、人々の苦しみを軽視したのではなく、“将来わたしたちに現わされるはずの栄光”の素晴らしさを何とか強調したいために、このように彼は表現したのだと思います。
私たちにはこの世にあって苦しみがあり、理解できない理不尽な不幸に見舞われることもあります。それでも「同時に希望もある」と今日の箇所は言います(聖書全体がそう言います)。

今日の21節では、“滅びへの隷属 bondage to decay”という言葉が使われています。

神から離れ、神のご栄光を受けることができず、その結果他者とも本当の意味で理解し、受け入れ合うことができない状態が“滅び”であると言えるでしょう。それは神からも人からも離れた状態です。
しかし、その滅びへの隷属から解放される(自由になる)希望がある、と今日の箇所は伝えます。
今日の箇所で、「イエス・キリスト」という言葉ははっきりとは出てきませんが、イエス・キリストによる自由と解放の希望が今日の箇所で書かれていることは明らかです。
今の世では私たちには苦しみがあり、その苦しみを自分の力ではとても解決できないことも多いでしょう。
しかし現在の苦しみが、やがて神様による栄光へと変えられる、と言う希望があることを、聖書は伝えるのです。
先ほど私は「今日の箇所は、人の苦しみを決して軽視していない」と申し上げました。それは22節~23節の言葉を見ても、はっきりと理解できると思います。

22~23節
22被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
23被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

今神を信じる信仰者であっても、(信仰者でなくても)皆うめくように苦しんでいる、とこの箇所は言うのです。
この言葉を通して、私たちの造り主である神が、私たちの苦しみを本当に分かってくださっており、共に担ってくださっていることが分かります。
 この世ではどうしても満たされない心、現在の苦しみの先には、神のご栄光にあずかることができるという希望があるのです。その希望によって私たちは生きる力を頂くことができます。
神のご栄光にあずかるとは、やがて私たちは神の子とされ、この体が贖われる、すなわち復活のイエス・キリストと共に、永遠の命に生かされる、ということです。
この世界では、私たちは不完全で限界、欠点のある存在です。真の神から離れた不安定で不安な状態の中に生かされています。

しかし神は、御子イエス・キリストをこの世界にお遣わしになることで、キリストを通して私たちも神の子となることができる恵みを与えてくださいました。
今日の箇所より前の、ローマ6章5節には次のように書かれています。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

私たちはキリストを通して、キリストへの信仰によって、神の子としての身分を頂けるのです。私たちは復活のイエス・キリストと一体になり、復活の力と希望が私たちにも与えられるのです。
“この希望によって、私たちは今の世の苦しみから救われている”と今日の箇所は伝えます。どんなに困難なことがあっても、この希望を私たちから奪うものは何もありません。
キリストに繋がり、神の子となり復活するという希望を分かち合うために、私たちはこうして教会にもつながっています。
この希望を世に伝え続けるために、私たちはキリストの教会を建て上げています。
 この希望は今はっきりと目に見える(完全に理解できる)ものではありません。
しかしこの希望は、2000年前、人として確かにこの世界にお生まれになった、神の子イエス・キリストの誕生によって保証されている確かな希望です。

私たちは何かを期待して待つということが、どれほど嬉しいことであるかを、体験的にも知っていると思います。
 何か楽しい計画や予定が先にあることが分かっていると、それに向けて今を頑張ろうと私たちは思います。
  勉強や仕事にしても、その先にある夢や目標があるので、今の苦しみに何とか耐えよう、と私たちは頑張ることができます。
  もしそのような夢や目標がないと、今の苦しみに向き合うことは、とても難しくなるでしょう。
繰り返しますが、私たちの人生には苦しみがあります。今のこの苦しみには意味があるのか、こんなに苦しいのだったらこんな人生、生きていたくない、とさえ思うこともあるかもしれません。

 しかし神は、イエス・キリストを私たちに究極の希望として与えてくださり、キリストと共に神の子とされ、やがてキリストの復活にも結ばれる、と言う希望の約束を与えてくださいました。
 キリストと共にある永遠の命が私たちに約束されているので、私たちはこの世にあっても希望をもって生きることができます。
  この希望によって私たちは救われているのです。この目には見えない、しかし確かな希望によって救われているのです。
 イエス・キリストが人としてお生まれになったことによって、私たちの生きるこの人生には尊い意味があるのだと、苦しみは決して無駄、無意味ではないのだと、私たちは信じてよいのです。
 人として生まれ、そして私たちの罪のために十字架にかかって死なれたお方、そして三日後に復活したお方を信じ、そのお方と繋がることによって、私たちは希望を得ることができるのです。
 クリスマスは、その確かな希望の始まりを告げる出来事です。私たちはクリスマス、イエス・キリストのお誕生を覚えて、キリストにある希望を共にいただいていきましょう。
 アドベントは主イエス・キリストの御降誕(お誕生)を待ちわびる季節です。
主を待ち望む、その希望に生かされる幸いを覚えて、このアドベントの時を私たち共に過ごしてまいりましょう。

2024年11月23日土曜日

2024年11月24日 主日礼拝

前奏
招詞  出エジプト記19章5節
賛美  新生讃美歌1番 聖なる 聖なる 聖なるかな
主の祈り
主の晩餐
賛美  新生讃美歌236番 主の流された尊い血しお
世界バプテスト祈祷週間を覚えて
献金
聖句  マタイによる福音書28章16~20節
祈祷
宣教 「すべての民をわたしの弟子にしなさい」
祈祷
賛美  新生讃美歌 213番  われらに伝えよ
頌栄  新生讃美歌 676番
祝祷
後奏

 今日も、新しい一週間の初めの日を、こうして私たち共に礼拝をすることによって始めることができることを、私は大変うれしく思います。
 こうして礼拝をすることができる自由が私たちに与えられていることは、決して当たり前のことではありません。
 今週は、私たちの教会も加盟しています日本バプテスト連盟の「世界バプテスト祈祷週間」World Baptist Prayer Weekです。日本バプテスト連盟によって支援されている、国内外での宣教の働き、その働きに仕えている宣教師の方々などを覚えて、特に今日私たちは祈りを合わせます。
 国外では、信教の自由が保証されておらず、キリスト教信仰を持つことが困難な地域や国も沢山あります。(国内であっても、キリスト教宣教が非常に困難な地域もあるでしょう)

そのような場所で働いておられる宣教師や伝道師の方たちの働き、安全と生活とが守られますように祈りたいと思います。
 またそれらの地域、場所で、イエス・キリストの福音によって救われる人々が起こされますようにと、私たちは祈りを合わせたいと願います。
 私たちが信じ、礼拝する神は、イエス・キリストを通してご自身を現わされた神です。そしてイエス・キリストは十字架の上での死から、新しい命へとよみがえったお方です。
 今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書の最後の部分です。
イエス様の弟子たちが、復活の主イエス・キリストとお会いする今日の箇所から、神のメッセージを私たち共に聞いてまいりましょう。

最初の16節をお読みします。
16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。

十一人の弟子とは、イエス様の直弟子であった弟子たちで「使徒」とも言われた弟子たちでした。使徒は、それまでは十二人いました。
しかしそのうちの一人であってイスカリオテのユダは、イエス様をユダヤの当局者たちに売り渡したことへの罪の意識から自ら命を絶ってしまい、弟子たちは11人になっていました。
弟子たちは、自分たちの先生であるイエス様が十字架にかけられて死んだ衝撃と悲しみ、また仲間であったユダを失ったことの悲しみの中にもあったのだと私は想像します。
イエス様は、イスラエルのエルサレムで十字架にかけられ(死刑になり)殺されました。
 そしてイエス様は、週の始めの日(日曜日)の明け方に、その墓を見に来た二人の女性(マグダラのマリアともう一人のマリア)に姿を現わされました。マタイ28章の初めに、そのように書かれています。
 その女性たちにイエス様は、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言いました(28章10節)。
 二人のマリアはイエス様に言われた通り弟子たちに、イエスさまの言ったその言葉を伝えたのでしょう。弟子たちはその言葉に従って、エルサレムからガリラヤへと行きました。

 そこで、ある山の上で、弟子たちはイエス様に出会いました。十字架にかけられて死んだお方が復活されたのです。弟子たちはイエス様にひれ伏しました。
ひれ伏す、とは“礼拝する”という意味であり、英語訳聖書(NIV)ではそのように訳されています。
弟子たちがその時礼拝したように、今私たちも礼拝で、復活のイエス様にお会いし、復活のイエス・キリストを礼拝します。
復活のイエス・キリストがここに私たちと共におられ、私たちに語りかけ、私たちを力づけてくださるのです。
  イエス様は“ガリラヤへ行きなさい。そこで復活した私に会える”と弟子たちに約束され、その通り弟子たちにそのお姿を現わされました。
今のわたしたちにとってのガリラヤは教会です。私たちは教会で、死んでよみがえったお方、復活の主イエス・キリストにお会いできるのです。
死の力、闇の力を復活によって滅ぼされたイエス様に私たちは教会でお会いします。復活したイエス・キリストの力がみなぎる教会でありたいと、私たちは願います。
 しかし17節には“そこには疑う者もいたbut some doubted.”と書かれています。弟子たちの中には、復活のイエス様を目で見ても、まだ疑う者もいたのです。

イエス様の弟子たちの信仰は完璧ではなかったのです。人間は本来疑り深く、誰も完全な信仰を持った人などおりません。弟子たちもその例外ではありませんでした。
 それでも、そんな不完全な私たちにも、イエス様はご自身を現わされ、お言葉を通して教えてくださるお方です。私たちも、いつも何の疑いもなく、強い信仰を持っていられるわけではないでしょう。
時に信仰が揺らぎ、疑いさえ持つことが私たちにもあるのではないでしょうか。しかしそれでも、そんな私たちの疑いや弱さにも関わらず、復活の主イエス・キリストは出会ってくださり、み言葉を通して教えてくださるのです。
18節で“イエスは近寄って来て言われた”と書かれています。イエス様の方から弟子たちの方へ来てくださったのです。
 神なるお方がご自分から私たちのところへ来てくださいました。私たちの側から神様へ到達したのではないのです。そんなことは不可能です。
 私たちが神のところへ行ってお言葉を頂くのではなく、わたしたちが神の声を聴くことができるために、神のほうから私たちのほうへ来てくださったのです。その恵みを私たちは感謝したいと思います。

18節~20節前半をお読みします。
18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

イエス様は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」とおっしゃっています。すべての権能をお持ちのお方が、私たちを「すべての民をイエス様の弟子にするために」派遣するのです。
私たちはまず、キリスト者を宣教の働きのために派遣されるお方(イエス様)は、天と地のすべての権能(権威)をお持ちのお方であることを確信しましょう。
すべての権能をお持ちのお方が私たちを、福音宣教の働きのためにお遣わしになるのです。ですから、そのお方の許しがなければ、何も私たちを妨げたり、くじけさせるものはないのです。
そしてイエス様は「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とご命令しました。今のキリスト者もこの命令に従って生きる者です。
それにしても“すべての民をわたしの弟子にしなさい”というイエス様の御命令を達成するのに、一体どれほどの時間がかかるのでしょうか。
 すべての民をイエス・キリストの弟子に、という、このいわゆる“大宣教命令”は、今だに達成されていない壮大なご命令です。
これは、キリスト教会が場所と世代を超えてずっと課せられているものなのでしょう。
 すべての民をわたしの弟子(イエス様の弟子)にしなさい、というこの大命令(神様の壮大なビジョン)の実現のため、(それがいつ実現するかは確かでないままに)、キリスト教会はずっと存在してきているのです。

 一人ひとりは小さな私たちが、また私たちの教会も小さくても、神様のそんな壮大なご計画と使命のために私たちは生かされていると思うと、心が奮い立つような気がしないでしょうか。
私たち自身ではなく、全ての権威をお持ちのイエス・キリストの神に信頼しつつ、全ての民をイエス様の弟子にしなさい、というイエス様のご命令にしたがってまいりましょう。
そしてもちろん私たちキリスト者も、主の弟子として常に成長しつづける、終わりのない信仰の旅路を私たち共に歩んでまいりましょう。

イエス様の弟子になるとは、どういうことでしょうか。それはまず、父と子と聖霊の名によってバプテスマ(洗礼)を受けることです。
聖書は、父なる神と、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神が三つにして一つのお方であるという、三位一体の神を伝えています。
 父なる神と、御子イエス・キリスト、そして聖霊が、三つの区別されるお方でありながら、しかし同じ一つの神である、という人間の理屈では説明できない、大変不思議な、しかし真実を聖書は伝えます。
天の父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神の三位一体の神を信じる信仰を告白して、その信仰の証として、教会は新しい信仰者(決心者)にバプテスマを授けなさい、とイエス様ご自身によって、私たちははっきりと命じられているのです。
私たちの教会では再来週、一人の姉妹が信仰を告白し、バプテスマをお受けになります。私たちはそのことを大変うれしく思います。そして神に感謝をいたします。
キリストの命令によって、私たちは新たな信仰者にバプテスマを授ける権限が与えられていることを今一度覚え、その責任をも自覚したいと思います。
 そしてイエス様は「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われます。
イエス様は私たちに大切なことを沢山教えてくださいました。
その一つ一つを私たちが常に学び、理解と信仰を深めると同時に、イエス様の教えを残らず世に伝える、というのも私たちキリスト者に課せられた使命です。
 そう思うと、何だかとても私たちには担いきれない物凄く重い責任のように思えます。確かに、それは私たちだけで担える責任と使命ではありません。
 しかし、私たちは安心してよいのです。なぜなら、イエス様が次のように約束してくださっているからです。20節後半、今日の箇所の最後の言葉をお読みします。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
“わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる”~イエス様は大変な責任と使命を私たちにお与えになる共に、こんなに素晴らしい恵みをも、ここで約束してくださっているのです。

神の子イエス・キリストが世の終わりまで、いつもわたしたちと共にいてくださる、というのです。
 イエス・キリストの福音宣教の働きも、私たちだけで行うのではありません。イエス様が今も、また世の終わりまでいつも私たちと共にいて、私たちの働き導き、助けてくださるのです。
復活のイエス・キリストが、私たちの信仰生活を、そして私たちの福音宣教の働きを先頭に立って導いてくださいます。
今、国内外で様々な宣教の働きに仕えておられる方を覚えて祈ると同時に、私たち一人ひとり、私たちの教会も、福音宣教の働きにつかえる喜びとまた福音宣教に仕える決意を新たにしたいと願います。
 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる~イエス様のこのお約束は、いつまでも真実であり続けます。

2024年11月16日土曜日

2024年11月17日 主日礼拝

前奏
招詞 イザヤ書46章10節
賛美 新生讃美歌105番 くしき主の光
主の祈り
賛美 新生讃美歌236番 主の流された尊い血しお
証し
献金
聖句  ヨハネによる福音書19章28~30節
祈祷
宣教  「成し遂げられた」
祈祷
賛美 新生讃美歌379番 行きて告げよあまねく
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏


 私たちは誰もがいずれ最後の時、すなわち死の時を迎えます。わたしたちはやがて必ず訪れる死に、どう向き合えばよいのでしょうか。
自分の死に向きあうことは、“今をどう生きるのか”、“与えられたこの命をどう活かして、人生をどう生きるのか”ということを真剣に考えることにつながると私は思います。
 以前、私たちの教会の、年配のご夫婦と、人生の終わりに向けての学びをご一緒にしたことがあります。
お葬儀や、死後のお墓や遺骨のことについて、ただ自分の希望としてこうしたい、ああしたい、ではなくて“聖書はどう言っているのか”、“信仰に基づいて、自分のお葬儀や遺骨のことをどのように考えるべきなのか”を学んで準備を始めたいと、ご本人たちが希望なさったからです。
その学びは回数にしては2,3回ほどだったと思いますが、私がご夫妻を訪問した時に、一緒に聖書を読みながら、死に備えること、お葬儀や遺骨のことなどについて私たちは共に考えました。
それは、信仰的にどのように死に備えるかを改めて考える時として、私にとっても大変良い時となりました。

 死について考えることは、すなわち生について考えることです。そして、わたしたちが自分の生、人生について考えるとき、わたしたちは「わたしは何のために生まれてきたのか」、「人生の目的とは何だろうか」と考えることがあると思います。
 わたしたちは自分の人生の中で“何かを成し遂げたい”と、どこかで願っているのではないでしょうか。“成し遂げる”とまでは思わないとしても、人生の最後の時に「私の人生には少なくとも何かの意味があった」と、そう思いたいのではないでしょうか。

 今日私たちは、イエス様の十字架の上でのそのお姿と、その時イエス様が言われた最後のお言葉から、私たちが“人生で本当にすべきこと”について、考えたいと思います。

28節をお読みします。
この後(のち)、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして聖書の言葉が実現した

イエス様は十字架の上で「渇く I am thirsty」と言われました。そして「渇く」とイエス様が言われることにより、“聖書の言葉が実現した”と書かれています。
この“聖書の言葉”とは、詩編22篇15~16節(14~15 NIV)の言葉です。

詩編22篇15~16節 
「わたしは水となって注ぎ出され 骨はことごくはずれ 心は胸の中で蠟のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」

主が「渇く」苦しみを味わわれたのは、聖書に記された通りの苦しみに、イエス様を通して、主なる神自身が直面しているのだと、ヨハネ福音書の著者ヨハネは解釈したのです。
マルコ福音書によれば、イエス様は十字架の上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか)と大声で叫ばれました。
その言葉も詩編22篇の冒頭の言葉でした。ですからイエス様自身も、死にゆく十字架の上で、この詩編の言葉を思い浮かべていたのです。
イエス様は、ご自分に課せられた使命、苦難の意味を聖書の言葉、詩編の言葉の中に見いだし、聖書の言葉から力を得ていたのです。
私たちも、自分の人生の意味、意義を聖書の言葉の中にこそ見いだすことができます。そうして生きる力を聖書の言葉から頂くことができます。
私たちの人生には詩編で歌われているような苦しみの局面もあるでしょう。しかし同時に、詩編23篇のように、「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」という、本当に希望と力となる神の御言葉も同時に私たちは頂くのです。
 ですから、苦しい時にも私たちを支え、力を与えて導く、聖書の言葉に、私たちはいつも親しんでいたいと願います。

そしてイエス様が「渇く」と言われたことの意味はなんでしょうか。それは、私たち全ての人間を救おうとするための神の「渇き」です。それは“主は私たちに、全てを与えてくださった”ということです。
主なる神は、私たち人間に、もう他に与えるものは何もないほどに、何も出し惜しみすることなく、私たちの救いに必要なものを全てイエス様を通して与えてくださったのです。
 イエス様はヨハネ7章37節(John 7:37)で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われました。
イエス様を信じれば、私たちの内から生きた水が川のように流れ出る、朽ちることのない生きた水を頂けるというのです。

しかしそのためには、主ご自身が十字架の上で完全な“渇き”という苦しみを経験しなくてはなりませんでした。
“渇いているものはだれでも私のところに来て飲みなさい”と言われたイエス様ご自身が、十字架の上で徹底的に渇かれたのです。
渇いている者の苦しみを誰よりも主ご自身が経験されたのです。それによって私たちが癒され、満たされるためにです。
 このイエス様の姿を見て、私たちはどうするように促されるでしょうか。イエス様がなさったように全てを与えるということ、私たちにはできません。
しかし、『渇く』と言って、最後まで持てる全てを与え続けられた、主イエス・キリストの生き方に少しでも倣って生きようと努力することは、私たちにもできます。
私たちも、イエス様のように“与える”生き方をしたいと思います。「渇く」と言って私たちに命を与えてくださった主のお姿を見あげましょう。
そして私たちも、自分以外の他者の必要に気づいて、自分にできることがあるのならば、自分が持っている何かを、できる限りにおいて“与える”生き方をしていきたいと思います。

29節~30節をお読みします。
「そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」

最後に「頭を垂れて息を引き取られた」と書かれています。“息を引き取る”とはギリシア語では「霊を委ねる、明け渡す」という言い方がされています。
主イエスは、ご自身の霊を天の父なる神にお委ねになったのです。それは、“父なる神への完全な従順”であり“父なる神への完全な信頼”の姿です。
 十字架の上のイエス様に、「海綿(スポンジ)にふくまれたぶどう酒」を人々が差し出しました。このぶどう酒は、イエス様の渇きをほんの一瞬でも癒したでしょう。
 そのぶどう酒には、肉体の痛みを和らげる“麻酔”のような効果もあったのではないかと言われています。
イエス様は、差し出されたぶどう酒をお受けになりました。神であるイエス・キリストは、本来人の助けなど必要ない方です。
そのお方が、ご自分の持てるものを全て人のために与えつくして「渇く」と言われた後に、今度は苦しむ自分に人が差し出したぶどう酒を、まるで神が人からの憐みをお受けになるようにお受けになったのです。
そうして、そこで、成し遂げられねばならないことがすべて「成し遂げられた」とイエス様はおっしゃいました。

マタイ福音書の中のイエス様の言葉ですが、イエス様は弟子たちを派遣するときに、「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われました。
十字架の上でイエス様ご自身が、まさに“この小さな者の一人”になられて、人々が差し出すぶどう酒をお受けになられました。
私たち人にはプライド(自尊心)があります。プライドが自分を支えている、ということがよくあります。
私たちは“自分は自分の力で生きている”と思いたいですし、できるだけ人の世話にはなりたくない、と思っていないでしょうか。(私はそういう傾向が強いと思います)。
このプライドを捨てる、または乗り越えることができれば、私たちの間の人間関係の問題の多くは解決し、私たちは、聖書の言うように、自分以外の他者を自分よりも優れた者として尊敬することができるようになると思います。
そして私たちは他者から差し出される助けを感謝して受け取ることができるようになると思います。
主なる神イエス・キリストが、徹底的な苦しみの中、人から差し出されたぶどう酒を受けられました。ですからわたしたちも、お互いのために、ほんの少しの助けであっても互いに差し伸べましょう。
そして自分が一方的に与えるだけではなく、自分が苦しむ時、助けが必要な時には、他者から差し出される助けを感謝して受け取りましょう。

他者の助けによって私たちは生きていいのだと、そうやって生きるべきなのだと、イエス様の姿から私たちは教えられます。そのようにして私たちは共に生かされていくのです。
  私たちは時に過去を振り返り、そして現在の自分を見て、「わたしの人生とは一体何だったのだろうか、何なのだろうか」と疑問に思うことがあるかもしれません。
 しかし、私たちは十字架のイエス・キリストを見上げるならば、何かが不足しているように感じることも、また、“私はもっと何かをしなくてはいけないのでないか”と思って、焦る必要もありません。
なぜなら、主はわたしたちのために十字架の上で、“すべてを成し遂げてくださった”と聖書は伝えているからです。
私たちがすべきことは、ただこの十字架の主イエス・キリストを見あげて、そして、イエス・キリストが私たちにすべてを与えてくださった恵みを知り、感謝をすることだけです。
そして、この与えられた恵みを自分以外の他者と分かち合い、信仰を自らの生き方と言葉で告白し、生き方において信仰を実践していくことです。
そして人を支え、同時に自分も人に支えられながら、ただ自分だけが与える一方的な関係ではなくて、誰もがお互いに支え合う関係の中で私たちは生きていくのです。
 与え、そして受け取る(支えられる)、イエス・キリストが十字架の上で最後に見せてくださったそのお姿に倣い、私たちにとって必要なことは全て主によって「成し遂げられた」のだと感謝をして希望を持って、新しい週の日々も私たち共に生かされてまいりましょう。

 

2024年11月9日土曜日

2024年11月10日 主日礼拝宣教

前奏
招詞  詩編32篇7節
賛美  新生讃美歌 618番 主のためにわれは生く
主の祈り
賛美  新生讃美歌 236番 主の流された尊い血しおで
献金
聖句  ルカによる福音書9章18~27節
祈祷
宣教 「死と復活の予告」
祈祷
賛美  新生讃美歌230番 丘の上に立てる十字架
頌栄  新生讃美歌676番
祝祷
後奏

「イエス・キリスト」は、歴史上の偉大な人物、あるいは歴史に大きな影響を与えた人物の一人である、というのがキリスト教を信じていない人たちの間では、一般的な考え方であると思います。
 そのように一般的には、イエス・キリストはあくまで偉大な人間の一人と考えられています。イエス様は、隣人愛を人々に教え(自ら実践し)、多くの人たちの病を癒したりした、偉大な人間の一人、というのです。
 今日の聖書箇所でイエス様は一緒にいた弟子たちに次のようにお尋ねになりました。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とイエス様は弟子たちに聞いたのです。
 弟子たちは答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と人々は言っています。ほかに『エリヤだ』、または『誰か昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
  洗礼者ヨハネは、イエス様にもバプテスマ(洗礼)を授けた人でした。彼は、人々に神様へ立ち返ること(悔い改めること)を強く勧め続けた、当時の偉大な宗教指導者でした。

 エリヤは旧約聖書の時代の偉大な預言者の一人です。預言者とは、神の言葉を預かって人々に伝える役割を果たした人たちでした。
 『誰か昔の預言者が生き返ったのだ』とは、“このイエスという人は、とても素晴らしい業を行っているから、昔の偉大な預言者が生き返ったに違いない”という人たちがいた、ということです。
  “生き返った”というのは、正確には、それほど偉大な預言者の再来のようなお方だ、という意味でしょう。
 イエス様の何百年も前に死んだ預言者たちが、実際に生き返ったとは、それを言った人たちも信じてはいなかったと思います。
 しかし、洗礼者ヨハネも、またエリヤやその他の偉大な預言者たちも、彼らはあくまで人間でした。彼らは神ではありませんでした。

 現在の一般的な考えと同じく、イエス様の時代にも多くの人々はまだ、「イエスという人は偉大だが、あくまで一人の人間だ」と考えていたということです。
そこでイエス様は弟子たちに、次のように尋ねました。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(20節)。

“人々が私について色々言っているのは分かった。つまり人々は私のことを偉大ではあるが、人間の一人だと言っているのだろう。では、あなたたちは私を何者だと言うのか?”とイエス様は聞いたのです。
その問いに対して、ペトロが答えました。「神からのメシアです。」メシアとは、もともとヘブライ語で“油を注がれた者”という意味です。
それは、イスラエルで王や祭司が就任する時に特別な香油が注がれたことに由来し、やがて“神の救い主”を意味するようになった言葉だと言われます。
 新約聖書の時代、イエス様が生きられたその時代には、やがて来られるメシア(神の救い主)が、イスラエルの民たちを、彼らを支配しているローマ帝国から救い出すと信じられるようになっていました。
そのように、イエス様の時代、人々は政治的解放者(軍事的な指導者)としての救い主の到来を待ち望んでいたのです。
 ペトロが「あなたは、神からのメシアです」と答えると、イエス様は弟子たちを戒めて、そのことをだれにも言ってはいけない、と命じました(21節)。
 なぜイエス様は、弟子たちがそのように告白すること、“イエスはメシアだ”と告白することを止められたのでしょうか。
メシアはやがてギリシア語でキリストと訳され、イエス・キリスト、つまり“イエスはキリスト(救い主)”という信仰告白の言葉が生まれました。
「あなたは神からのメシアです」という、この言葉の内容は間違っていません。それは真実でした。イエス様は、間違いなく神から遣わされた真のメシア(救い主)でした。
しかし、イエス様はペトロのその告白に対して、弟子たちに“そのことをだれにも話してはいけない”と命じられました。なぜでしょうか?
それはペトロはじめ弟子たちが“メシア”が本当に意味すること、イエス様が成し遂げようとされていることをまだ理解していなかったからです。

 弟子たちは、イスラエルの国を再興してくれる、自分たちの国をローマ帝国から解放してくれる偉大なメシアを期待していました。
  しかしイエス様が来られたのは、そのようなメシアになるためではありませんでした。22節でイエス様は次のようにおっしゃいました。
 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

 イエス様は、これからご自分に降りかかろうとしていること、人々から拒絶され、十字架の上で殺されて、そしてその後三日目に復活することについて、話されました。
  キリストは、まず人々に拒絶されて殺される、そしてその後よみがえる、と言って、イエス様はご自分の死と復活について予告されたのです。
  イエス様は、神と同等であるご自分が命を差し出すことによって人々を救う、そのような意味で人を真の意味で解放する(人を罪から解放する)メシアである、とおっしゃったのです。
  イエス様は、人々の憎悪、悪意、嘲りを一身に受けて、そして人による不当な裁判で殺されていく、そのような死を通して、人を真の解放へと導くお方として、メシアであったのです。
 人を真に解放するためにまずご自分が死ななければならない、とイエス様はおっしゃいました。

実際にその出来事が起きた時、弟子たちがその現実に向き合うことができるように、イエス様はご自分の死と、そして復活について事前に予告しておられたのです。
 私たちは、今イエス・キリストをどのようなお方だと告白しているでしょうか。「あなたがたはわたしを何者だと言うか」とイエス様に今問われたら、私たちは何と答えるでしょうか。
  私たちは、自分で勝手に想像し作りあげた救い主のイメージでキリストを信じ、告白していないでしょうか。
 私たちは常に聖書に聞いて、聖霊に導かれて、聖書が伝えるイエス・キリストをその正しい姿で、理解をしたいと願います。
そして私たちも、“あなたは神のメシア(キリスト、救い主)です”と信仰の告白をしたいと願います。

私たちは心からそう信じて、「このお方が私たちを深い罪から救ってくださった」と信じ、喜んで、そのように告白をし続けようではありませんか。
イエス様は続けて次のようにもおっしゃいました。23~25節をお読みします。

23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
25人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。

 イエス様は弟子たちに、そして時代を超えて今の私たち信仰者にも、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。
  “自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って”とはどういうことでしょうか。十字架とは、普通に考えれば、私たちそれぞれが負っている“重荷”を意味すると考えられます。
 しかし、皆さんの中には、もうすでに十分な“重荷”を背負っておられ、辛い状況の中を生きておられる、という方もおられると思います。
  私たち誰もが生きている上での重荷を背負っています。そんな私たちにイエス様は、ご自分に従うために、さらに重たい重荷、そのような意味での十字架を背負え、と言うのでしょうか?
  私には、とてもそうは思えません。イエス様が、“日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい”という意味は、まずイエス様が私たちのために一番重い十字架を背負ってくださったことを知りなさい、という意味だと思います。
 そのイエス様が、私たちと共に今も歩んでくださっています。ですから、私たち一人ひとりに与えられた人生の重荷をイエス様にお委ねして、共に担ってもらって、歩んでいこう、生きていこうとイエス様は呼びかけておられるのだと、私は思います。

 日々(毎日)、私たちと共におられるイエス様に信頼して、イエス様と共に歩むことが信仰によって可能になるのです。イエス様の愛と憐れみの中に、この身を置いて生きる幸いを、今日また私たちは確信しようではありませんか。
  24節でイエス様がおっしゃったことをもう一度聞いてみましょう。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」

 このイエス様の言葉も、文字通りにではなく、その意味するところを理解せねばなりません。私たちが、イエス様のために自分の命を差し出す、ということではありません。
 イエス様は、私たちから命を差し出してもらう必要はありません。そうではなく、イエス様が私たちの罪の贖いのために、ご自身の命を捨ててくださったのです。
  イエス様が“私のために命を失う”とおっしゃったのは、私たちが生きる目的の中心をイエス様に置くということです。
  私たち自身の願いや思いを先に置くのではなく、イエス様を通して示された神の御心を生きる目的にして日々生きる、ということです。
  私たちは自分が願った通り、思い描いた通りに物事が進まないと満足できず不満を感じます。自分が願った通りにならないと、「私の人生は失敗した」とさえ思ってしまうかもしれません。
 しかし、私たちが生きる目的をイエス様に置いて、生きる方向性をイエス・キリストに向けるのならば、その時私たちは本当の命を生きることになります。

 キリストを心の真ん中に置いて、キリストに向かって生きる生き方へ方向転換をすることで、神中心でなく自分中心であった罪が正され、私たちの命は本当の意味で救われるのです。
  自分中心という罪と、その罪によって引き起こされる悲惨な状態から解放され(救われて)、神中心の確固たる平安に満ちた生き方へと方向転換することで、私たちは真の命を頂くことができます。
そのような真の命を頂くため、私たちはイエス・キリストを救い主であると、言葉と生き方両方によって告白をしながら、キリストに従って日々生きていきましょう。
 最も重い、私たちの罪の赦しのための十字架をイエス様が担い、その十字架の上で死んでくださいました。そのことを日々思い起こして、感謝と悔い改めの心を神に捧げてまいりましょう。
 私たちの人生の重荷を共に担ってくださるイエス様が共におられます。信仰の目で、共におられるイエス様を認め、信仰による希望と感謝の日々を私たちは歩んでいこうではありませんか。

2024年11月1日金曜日

 2024年11月3日 主日礼拝


前奏
招詞  エレミヤ書17章7節
賛美  新生讃美歌 339番 教会の基
主の祈り
賛美  新生讃美歌523番 主われを愛す
献金
聖書人形劇
特別賛美
聖句  ヨハネによる福音書14章1~14節
祈祷
宣教 「「わたしは道であり、真理であり、命である」
祈祷
賛美 新生讃美歌 338番 よきおとずれを語り伝え
頌栄 新生讃美歌 676番
祝祷
後奏

 人は、何かを信じて生きていくものだと、私は思います。何かを信じて生きていく、という時の「何かを信じる」とは、もっと詳しく言えば、どういうことでしょうか?
 人が何かを信じて生きるとは、その信じる対象が、その人にとって大変重要なものであり、その人が生きていくための指針や価値観の中心となっている、ということだと思います。
 別の言い方をすれば、それに従って生きていく、という対象です。皆さんにとって、それに従って生きていくという対象は何でしょうか?

  何らかの思想や信条、あるいは尊敬できる他の人、ひょっとしたら「正直に言えば、それはお金だ」と思う方もいらっしゃるでしょうか。確かに金銭は、誰にとっても、必要なものです。
  あるいは“信じるものは、自分自身だけ”という方もいらっしゃるでしょうか。あるいは、「何を信じて生きていくのか。そのような対象は特にない。人は、ただ生きているだけだ」という考えもあるかもしれません。
私にとって、それに従って生きていく、というその対象は神です。クリスチャンである私にとっての神とは、イエス・キリストというお方を通してご自身のことを人に現わされた神です。
 しかし私が、いつもキリストの神のお考えを理解し、いつも神に従って生きることができている、ということではありません。
クリスチャンであり、また今は牧師として教会のリーダーの役割を担わせていただいている私であっても、弱く欠点を持った人間である私は、神にいつも従うことができているわけではないのです。
 そもそも何が本当に神のお考えであるのか、神が私に何をお望みであるのかが、はっきりと分からない場合も多いのです。

 それでも私にとっての神とは、イエス・キリストを通してご自身のことを人に現わしてくださったお方であり、そのお方に従って生きていきたいと、私は少なくとも願っています。
イエス・キリストは約2,000年前に十字架にかかり(死刑になって)死にました。今、キリストの姿は目には見えません。キリストの声をはっきりと耳で聞くことも、通常は私たちにはできません。
しかし今も私たちは、イエス・キリストの行ったことと、イエス・キリストが言ったその言葉を、聖書を通して知ることができます。
 世の中には、様々な“神”と言われるものがありますが、キリスト教では、イエス・キリストを通してご自身を現わされたお方こそが、唯一真の神であると信じています。
  “イエス・キリストを通してご自身を現わされた”とは、神ご自身がイエスという人、一人の人間となってこの世に生まれ、他の人々と全く同じように人としての命を生きた、ということです。

 イエス様(教会で、クリスチャンは日本語でイエス・キリストのことを“イエス様”と呼ぶことが多いので、ご了承ください)自身が、ご自分が神と等しい存在であることを、はっきりとおっしゃいました。
  聖書にはそのことが書かれています。先ほどお読みいただいた聖書の箇所(ヨハネによる福音書)にも、イエス様がご自分は神と等しい存在であることを前提にして語った言葉が記されています。
先ほどお読みいただいた聖書箇所の初めで、イエス様は次のように言っています。
 神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
 “神を信じなさい”と言ったのに続いて“わたしをも信じなさい”とイエス様は言ったのです。これは、“神を信じるのと同じように、わたしをも信じなさい”つまりイエス様はご自身を神と等しいお方であると、表明したことになります。
  また、今日の箇所では、イエス様の弟子の一人であったフィリポという人が次のように言っています。

「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(8節)
“父をわたしたちに示してください”、とは“父なる神を私たちに見せてください”ということです。
フィリポの言ったことは、私たちもよく理解できるのではないでしょうか。人はよく、“目で見たら、何かの証拠を見せてくれたら、神を信じる”と言うことがあると思います。
私たちは自分の目で見ることができ、また誰が聞いても納得できるような証拠が示されれば、それを信じることができる、と通常は考えると思います。
フィリポに対してイエス様は次のようにお答えになりました。

わたしを見た者は、父を見たのだ。(9節)

次のようにもイエス様はおっしゃっています。10節をお読みします。

10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
 イエス様は、ご自分が父なる神の中にいて、そして父なる神もご自身(イエス様)のうちにおられる、と言っているのです。
 初めてお聞きになると、分かりにくい、あるいはとても信じられないことかもしれません。
 しかし、イエス様がおっしゃったことは、“父なる神とイエス様は等しいお方であること、つまりイエス様は神である”ということを伝えているのです。
そして聖書は、イエス・キリストを通してご自身を現わされた神が、唯一真の神である、と伝えています。
それがキリスト教が人気がない理由の一つであることを私は知っています。「神は唯一だ、などと言うから“キリスト教は視野が狭い”と思われるのだ」という意見が、クリスチャンの中にもあるかもしれません。

しかし、私は神の言葉を託された牧師として、その点(神は唯一、イエス・キリストのみ)を薄めたり、妥協してお伝えすることはできません。
今日の聖書箇所の中で、イエス様が次のように言っています。今日のメッセージのタイトルにもしました、6節に書かれている言葉です。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
イエス様は“わたしは一つの道(a way)であり、一つの真理(a truth)であり、一つの命(a life)である(わたし以外にも、神に至る道、真理、命はある)”とは、決して言っていません。

方向さえ正しければ、どの道を通っても、どの交通機関を利用しても、行先と方向が正しければ目的地に到着することができます。
もし道を間違っていれば、行きたい目的地へ到着することはできません。しかしイエス様は、ご自分こそが父なる神へと至る道そのものだ(他に道は無い)、と断言したのです。
もしただの人間がこんな主張をしたのであれば、それほど独善的で異常な主張はないでしょう。
ですから、イエス様の言うことを聞いた私たちには、“ご自分こそが父なる神に至る唯一の道、そしてご自分は神と等しいお方”と主張したイエス様の言うことを、完全に拒否するか、あるいは信じるのか、二つに一つの選択肢が示されます。

そこまでして、“独善的に”ご自身の唯一性を主張し、“わたしに従いなさい”と促す神とは一体、どのようなお方なのでしょうか?
一言で言えば“神は愛”です。聖書にそのものの言葉が記されています。ヨハネの手紙一4章16節に「神は愛です」と書かれています。時間があれば、ぜひその前後もお読みしたいのですが、皆さん聖書を手にとって、ぜひご自分でお読みください。
「神は愛です」とは、「あなたは神様にとって大切な存在です。神はあなたを愛しておられる(大切だと思っておられる)」ということです。
最初に私は、「私にとって、それに従って生きていくという対象は神(イエス・キリストの神)です」と申し上げました。
それだけ聞くと、神とは、人間にただ命令するだけの主人、マネージャーのようなお方だと思えるかもしれません。
そうではないのです。神はイエス・キリストを通して、イエス様の行いとお言葉を通して、今も私たちに向かって“あなたがたは大切な存在であり、愛された尊い存在だ”ということを伝えてくださるお方です。

そして、自分が神に愛されている、尊い存在であることが分かると、私たちはそのお方(神に)従いたいと願うようになります。
そして神に自分が愛されていることを知ると、人は自分自身と、また自分以外の他者をも愛せるように(大切にすることができる)ようになるのです。すくなくとも、他者を愛したいと願うようになります。(それができずに、悩みもします)。
ぜひ皆様には、そのような神、私たちを愛し、そして私たちに自分と他者をも愛するようにと促すイエス・キリストがおられると言う可能性に、心を開いていただきたいと願います。

最期に、今から6年前に、天に召された(亡くなった)教会のメンバーのお一人(女性)が、ご自分が亡くなることを悟られ、死の直前に教会の皆さんに残してくださったメッセージを、お読みします。
時々今でも私はこの小さなノートを見返すのですが、これは、一人の信仰者が、“愛なる神を信じて、神の平安のうちに確かに生きて、そしてこの地上での生を終えられた”という確かな証しです。

「信仰の友との出会いは 私に よろこびと平安をもたらし心から感謝します。大変しあわせな人生でした。聖霊(*神の霊)に抱かれて主イエスさまのもとへ参ります。祈って下さいね。皆様のおしあわせをお祈りしています。主イエスさまの御名に依り アーメン」

同じ方のメッセージがもう一つあります。そちらもお読みします。

「牧師さまへ 生前中は、大変お世話さまになりました。イエスさまの御手を(*わたしが)離さぬようにお祈り下さい」。

皆様がイエス・キリストの神と出会われますように。真実の神様の愛と平安が、皆様お一人お一人を満たしてくださいますように。

2024年10月25日金曜日

2024年10月27日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編107篇9節
賛美  新生讃美歌 124番この世はみな
主の祈り
主の晩餐
賛美  新生讃美歌 213番 われらに伝えよ
献金
聖句 マルコによる福音書6章30~44節
祈祷
宣教 「すべての人が食べて満腹した」
祈祷
賛美  新生讃美歌 21番 栄光と賛美を
頌栄  新生讃美歌674番
後奏

今日の聖書箇所は、イエス様の弟子たちが、それぞれの働きを終えてからイエス様のところへ戻ってきたという場面です。
弟子たちは、自分たちが人々に対して行(おこな)ったこと、人々に教えたことをイエス様に残らず報告した、と書かれています。
 彼らは「使徒apostles」と言われた、イエス様の12人の直弟子たちでした。
今日の箇所の前にあるマルコ6章7節以降の箇所で、イエス様が彼らを、働きのために送りだす(派遣する)様子が描かれています。

 イエス様が使徒たちを派遣したのは、彼らが人々に神様の御国について知らせ、教えて、そして悪霊を人々から追い出したり、病人を癒したりするためでした。
 使徒たちはイエス様に選ばれて弟子となり、そしてイエス様から力を受けて、それぞれの場へ行き、宣教と病の癒し、悪霊の追い出しなどの働きのために遣わされたのです。
 使徒たちのそのような働きを通して、人々に神の国の知らせ(福音)が伝えられるようにと、イエス様が望まれたのです。
“使徒(イエス様の直弟子)”と聞くと、彼らは、今の私達とは違った大変特別な人たちであると、私たちは想像するかもしれません。
 確かに、イエス様に選ばれて、イエス様と共に生活をしながら、イエス様と共に福音宣教活動をした彼ら使徒たちは、特別な人たちであったと言えます。

 しかし、“イエス様に選ばれたということ”、そして“イエス様から力を頂き、イエス様によって遣わされる”という点では、今の私たちキリスト者も同じなのです。
 私たちもイエス様から選ばれて教会へと導かれました。イエス様から選ばれて、私たちは“イエスは主”という告白へと導かれました。
 私たちキリスト者は、“ただ神の恵みによって、神から選ばれた”というその光栄を感謝して受けとめて、謙遜に信仰者としての歩みをしていきたいと願います。

 使徒たちはそれぞれの働きを終えて、イエス様のところへ戻ってきました。彼らはイエス様に「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告」しました。
 私は、この場面を想像しながら、キリスト者が礼拝からイエス様によって、それぞれの生活の場、働きの場へと遣わされ、そして再びイエス様のところ(礼拝)へと戻ってくる姿を思い浮かべました。
 キリスト者は、礼拝の場でイエス様とお会いし、イエス様のお言葉を聞きし、イエス様から力をいただき、そしてそれぞれの働きや生活の場へと遣わされていきます。
私たちそれぞれに神から与えられた賜物と、イエス・キリストの福音(良き知らせ)を携えて、私たちはここから毎週遣わされて行くのです。
 そして、使徒たちがそれぞれの働きの内容を全てイエス様に報告したように、私たちも過去一週間のそれぞれの生活や働きを振り返りながら、この礼拝の場で、私たちは自分たちがしたことをイエス様にご報告している、とも言えるのではないでしょうか。
 「先週一週間、こういうことがありました。あんなこともありました。上手くできたこともあれば、失敗したこともありました」などと、私たちは全てをありのままに、イエス様に申し上げることができる、ということです。
 毎日一日の終わりの時に、神への祈りの時間にそのようにしておられる方もおられるかと、思います。
 私たちが、私たちがしたことを全てイエス様にお伝えすると、イエス様は私たちの言うことを、ただ黙って、優しい眼差しをもって全て聞いてくださるのだと、わたしは想像します。

 今日の箇所で、イエス様は弟子たちからの報告を聞いた後、次のようにおっしゃいました。
 「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」(31節)
彼らの周りには、あまりに人が大勢いたので(イエス様や弟子たちから教えと癒しを受けたいと願って)、彼らは非常に忙しく、食事をする暇もそれまでなかったからだ、と今日の箇所は伝えます。
 このように、イエス様が私たちに与えてくださるものは休息です。心も体も、精神も魂も神の愛の中で憩い、休むことができる、そんな本当の休みをイエス様は私たちに与えてくださいます。
私たちは、イエス様からいただける真の休息の恵みを、まずこの礼拝でいただきます。
心身共に本当の休息を神を礼拝することから頂いて、またこの場から私たちは、それぞれが生きる場へと遣わされていくのです。

イエス様と使徒たちは、舟に乗って、人里離れたところへ行こうとしました。しかし、大勢の人たちがそれに気づいて、イエス様たちよりも先にその場所へ到着した、と今日の箇所に書かれています。
それほどまでに、多くの人々が神の癒しを必要としていたのです。神の恵みを誰もが必要としていたのです。そしてイエス様はその群衆を見て、深く憐れまれました。
憐れんだとは、ただ“可哀そうだ”と感情的に思うだけではありません。イエス様が大勢の群衆を憐れんだというのは、彼ら一人一人が抱える痛み、悲しみ、苦しみを、イエス様がご自身のこととして受け止めてくださったということです。
神が人となられたイエス様は、そのように私たちの痛み、苦しみ、悲しみを、まったくご自身のものとして引き受けることが、お出来になるお方なのです。
そのようなお方が私たちの神として、私たちと共にいてくださることを、私たちは喜び、感謝をしたいと願います。
 イエス様は彼らを深く憐れんで、そして“いろいろと教え始められた”と書かれています。イエス様はその時、ご自身の言葉(神の御言葉)を彼らに教えられました。
 イエス様は彼らを見て、彼らが“飼い主のいない羊のような有様”であるのを見て、深く憐れんだと書かれています。
 “飼い主のいない羊”とは、人生の指針を示してくれる人がいないので、どこへ向かって歩めばよいのかもわからず、たださまようだけの人です。
 そんな彼らにイエス様は、生き方のはっきりした指針と方向性を示すために、惜しみなく神の言葉を群衆に教えられました。

 神の言葉は、私たち人をその生涯にわたって支え、そして導く指針となります。私たちも、(特に今年度の教会標語は“主の御言葉に立つStanding on the Word of the Lord”です)主の御言葉を常に私たちの指針として、信仰の道を歩んでいきましょう。
 イエス様は人々を教え続けられましたが、かなり時間がたったので、弟子たちが次のようにイエス様に言いました。
「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
36人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」

 イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお応えになりました。
 弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言いました。(37節)“そんなこと、どう考えても無理です”と彼らは思ったのでしょう。
 二百デナリオンは分かりやすく現在の例に例えれば、約200万円です。そこには男性だけで五千人いたと書かれていますので、女性や子どもも含めれば、その二倍、三倍の人がいたことになります。
 私たちは、何か難しい課題に直面すると、それまでの自分の経験や、あるいは常識から判断して“それぐらいなら可能だ”、あるいは“それは無理だ”と判断すると思います。
 今ここで、二百デナリオンものパンを買ってきて、これだけの人々に食べ物を与えるなんて、考えるまでもなく無理に決まっている、と人の常識は言うのです。(そんなお金はそもそもない、と常識は言うのです)
しかし、神を信じる信仰者は、人の常識(そもそも人の常識が必ず正しいとは限らないのです)ではなく、神の言葉に信頼して、“御心ならば実現する”という希望の信仰に生きることができます。
 イエス様は、今日の箇所で、何をなさったのでしょうか。イエス様は、彼ら(弟子たち)に、パンはいくつあるのかを確認させました。
 弟子たちが確かめてくると、パンが五つと魚も二匹ありました。人の目には、“こんなに大勢の群衆に対して、たったこれだけ”という量の食べ物です。
しかし、イエス様にとっては違いました。そこにあったパン五つと二匹の魚は、イエス様エス様にとっては、十分な量でした。
 イエス様は、差し出されたパンと魚を手にとって、天を仰いで賛美の祈りを唱えて、そしてパンを裂いて、魚も増やして、弟子たちにお渡しになりました。
弟子たちは、そのパンと魚とが、そこにいた全ての人々に行き渡るようにしました。百人、あるいは50人の組になって座った人々全員が食べて、全員が満腹しました。

 これはすごい奇跡です。しかし、そこにいた大勢の人たちは、男性だけで5000人、家族も含めたら、1万数千から2万人だったかもしれません。
それだけの群衆だったので、彼らのうちの多くは、自分たちが食べたパンと魚が、実はイエス様が祈りと祝福で増やしたものだとは気づいてなかったかもしれません。
ただ近くにいた使徒たち、その周りにいた人たちだけが、実はそれは、イエス様が賛美の祈りによって増やしてくださった、もとは5つのパンと二匹の魚だけだった、という真実を知っていたという可能性があります。
そのように想像する時、私たちも、普段私たちに与えられている多くの恵み(神からの恵み)を、神の恵みと気づかずに、ただ受け取っているということがあるのではないか、と思わされます。
私たちの周りには神の恵みが満ちていますが、私たちはイエス様が豊かに与えてくださっているその恵みに気づかず、ただ当たり前のようにそれを受け取っているということがないでしょうか。

私たちは、信仰の目を開いて、私たちに日々、この瞬間も与えられている多くの神の恵みに目を止めましょう。イエス様が賛美の祈りをもって、その恵みをますます増やしてくださっていることを信じましょう。
もしそのように信じるのならば、神の恵みは私たちのものとなります。そして神の恵みを、ただ私たちのうちにとどめておくのではなく、神の恵みは私たち一人ひとりの手を通して、他者へと受け渡されていくことを、神が望んでおられます。
イエス様から与えられる神の恵みに私たちは気づき、そしてその恵みを皆で分かち合い、そして私たちの隣人、他者へと、その恵みを受け渡していく、豊かに与えることのできる信仰者、そしてそのような教会として、私たちは歩んでいきたいと願います。

2024年10月19日土曜日

2024年10月20日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書25章6節
賛美  新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
主の祈り
賛美  新生讃美歌 213番 われらに伝えよ
転入会の証し
献金
聖句  ルカによる福音書14章15~24節
祈祷
宣教  「大宴会のたとえ」
祈祷
賛美  新生讃美歌 521番 キリストには替えられません
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書14章15~24節の、新共同訳聖書では「大宴会のたとえ」という小見出しがつけられている箇所です。
 この箇所と似た話が、マタイによる福音書22章1~20節にも書かれています。マタイ福音書のその箇所では、その宴会は、“ある王が王子のために催した結婚式”という設定になっています。
 マタイ福音書では、その結婚式への招待を受けた人たちが、その招待を無視したり、ひどい人は、招待状を持ってきた王の家来たちを捕まえ、乱暴し、殺してしまった、と書かれています。
 マタイとルカのこの箇所で共通する点は、まず宴会(あるいは結婚式)が王、あるいは主人によって用意された、ということ。そしてその宴会への招待を受けた人たちが、その招待を拒んだ、という点です。
 マタイ福音書、ルカ福音書の該当箇所で、宴会(あるいは結婚式)、そしてそれへの招待を拒んだ人々とは、一体何を表しているのでしょうか?この箇所を通して、私たちは神のメッセージに耳を傾けてまいりましょう。

 15節で、ある人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言っています。この人は「食事を共にしていた客の一人」であった、と書かれています。
 この時、イエス様は弟子たちや他の人たちと一緒に、誰かの家の食事の席に招かれていたようです。(14章の1節には、イエス様が食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった、と書かれています)
そこで、そのうちの客の一人が「いずれ私たちが入ることを許される神の国の食事は、本当に素晴らしいものなのでしょうね」と言ったというのです。
その客は、「今、私たちが実際に楽しんでいる食事や宴会も楽しいけれども、神様の国での食事や宴会はもっと凄いのでしょうね」と想像して言ったのかもしれません。

 15節を見ますと、“その人は「これを聞いて」heard thisそのように言った”と書かれています。
「これを聞いて」の“これ”とは、今日の箇所の前の7節から14節に書かれている、イエス様が言ったお言葉です。
 イエス様はそこで「婚宴に招待されたら上席に着いてはならない。むしろ末席に座りなさい」と言って、あくまで謙虚な信仰姿勢を保つことを人々に教えられました。
 それはもちろん見た目の行動だけのことではありません。それは、大きな罪を赦された者として、神の赦しへの感謝をもって、謙遜になってむしろ他者に仕えなさい、という神から私たちへの大切な教えです。

 そしてイエス様は“宴会を催す時には、友人も兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたに招いてお返しをするかもしれないからである”とおっしゃいました(12節)。
 “宴会を催す時には、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ”ともイエス様はおっしゃいました(13~14節)。
 もしあなたたちが、他の人たちのために宴会を用意することができるほどに恵まれているのならば、あなたたちにお返し(お礼)をできないような人たちを招きなさい、というのです。
 “人に何かをしてあげる時、他者に与える時、その見返りを期待するな”ということです。
 私たちは、逆に自分が人から何かをしてもらう場合、“人に何かをしてもらったら、それ相応のお返し(お礼)をしなくてはならない”とも考えないでしょうか?
 それは、好意と善意からそのように考える場合もあります。しかし、「私は他の人に借りを作りたくない」という考えから、“お礼(お返し)をしなくてはならない”と考えることもあるのではないでしょうか。
 ですから神様は、聖書のこの箇所を通して、“あなたたちは人を宴会に招待する時、その見返りを期待してはいけない。
つまり“貸し借り”という考えから、あなたたちは自由になりなさい“と私たちに伝えておられるのだと、私は思います。
 それは、あなたたちは元々互いに支え合い、共に生きる存在である、というメッセージです。誰もが人から、そして誰よりも主なる神から支えられなければ、生きてはいけぬ存在である、ということです。
 通常の“貸し借り”ではなく、互いに支え合う(生きる)という意味で、誰もがお互いに、そもそも“借り”を、そして“貸し”も互いにいつも負っているのだ、ということを私たちは覚えていたいと願います。

 そして聖書は、神様が私たちのために用意してくださる宴会は、(それは神の国での交わりであり、そして信仰により与えられる、あらゆる喜びを含みます)あまりに大きく素晴らしいものであることを伝えます。
 神が私たちに、そこへ入ることを許してくださる神の国のすばらしさは、それに対して私たちが、それ相応のお返しをすることなど決してできないほどのものなのです。
 私たちが神を知り、神を信じ、そして神の国へ入ることを赦されたのは、イエス様が十字架の上でそのお命を捨ててくださったからです。
 イエス様が、私たちのために、私たちの救いの代価を全て支払ってくださいました。私たちが決して自分では払うことのできない、その救いの代価をイエス・キリストが払ったくださったことを私たちは覚えましょう。
 その神の国への招きが、私たちに与えられています。しかし、今日の箇所では、その宴会に招かれていた人たちは、宴会が実際に始まる段階になると、その招待を断ってしまいました。

 この当時のユダヤの宴会というのは、宴会の開催について事前に知らされ、具体的な日時はその直前まで知らされない、と言う習慣だったようです。
 ずいぶん大ざっばな習慣だな、と私たちに思えてしまいます。それぐらい、今の私たちが時間やスケジュールというものに縛られた生活を身に着けてしまっている、ということかもしれません。
 主人はすべてを用意して、宴会に招いておいた人たちが来てくれるのを待っていました。ところが、招待されていた人たちは、それぞれ理由を口にしながら、宴会に来るのを断りました。
 ある人は「私は畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」。他の人は「私は牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」。
 別の人は「わたしは妻を迎えたばかりなので、行くことができません。」という理由を言いました。それぞれに理由があって、その宴会には行けません、と断ったのです。
 この人たちは、その盛大な宴会への誘いをなぜ断ったのでしょうか。畑や牛を新しく買った、つまり自分の生活や経済的な必要を満たすことのほうが、その宴会へ出席するよりも優先順位がその人たちには高かったからです。
 では、この箇所が私たちに伝える教訓は、“自分自身の事柄を第一とし、神の国での豊かな交わり、神の国へ入る招待を断ることの愚かさ”ということなのでしょうか。
 この箇所が伝える第一義的な教訓は、その通りだと私は思います。私たちは、自分自身の思いや計画、自分を中心とすることで、神の国の偉大さ、その豊かさを見失っているのです。
もう一つの教訓(メッセージ)は、“私たちは神の国への招きを、ひとつの義務のように理解している”ということです。

本来、神の国への招きは、無償の大きな賜物です。それは純粋な恵みであり、私たちの喜びです。
しかし、神様からの呼びかけ、宴会への招待を、“果たすべき何か一つの義務(重荷)”のように私たちキリスト者が理解している、ということも、今日の箇所が私たちに伝える内容の一つです。
 今日の箇所で、招待を断った三番目の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言いました。
旧約聖書『申命記』Deuteronomyの24章5節に次のように書かれています。

人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。

 人が結婚したならば、兵役や公務を一年間免除され、夫婦生活を優先することが許される、という戒めです。
 しかし、この事情(新婚であること)が、神の国での宴会への参加を断る理由として用いられたのならば、この人は、神の国での宴会への出席を、“一つの義務、兵役や仕事”のように考えていた、ということになります。
 神の国での宴会は、それは完全な形では、私たちが天に召された時、そしてイエス・キリストが再びおいでになった時に実現されるものです。
 しかし、神の国での宴会は、その前触れが、私たちが今住むこの地上での生活においても、すでに始まっています。
 イエス様が人としてこの世界に来てくださり、そして十字架の上で死に、私たちの罪の贖いとなってくださいました。

そのようにして私たちの罪が赦され、私たちが再び神のもとへと行けるようになってから、神の国はこの地上でも実現しつつあるのです。
 そしてイエス・キリストとの交わり、キリストの体である教会での兄弟姉妹同士の交わり、私たちがキリストの神を礼拝するという形で、神の国での宴会の少なくともその“前触れ”を私たちは既に経験しているのです。
 しかし、もしその神の国での宴会に等しい、素晴らしい恵み(礼拝)を、何か“いやいやながら果たさなくてはならない一つの義務”のように感じるのならば、それは何かが間違っています。
礼拝やその他教会の集会に出席することも、もし私たちが、正直どこか億劫(する気になれないという気持ち)に感じているのならば、それは何かが間違っていると言わねばならないでしょう。
 その人が間違っているのではないかもしれません。教会が、あるいは教会の霊的リーダーである牧師の姿勢や資質に問題があるのかもしれません。
 それでも、私たちの主なる神は、イエス・キリストの恵みを通して、神の国での盛大な宴会へと私たちを招いておられることに、変わりはありません。
 その喜びは非常に大きいはずです。もし、神の国へ招かれていることへの喜びが、それほどには実感できないのならば、私たちは今一度キリストの福音、イエス様が共にいてくださるという聖書のメッセージに立ち帰りましょう。
 そして私たちに与えられたイエス・キリストへの信仰と、キリストへの信仰に基づいた礼拝、教会での交わりは、やがて完全な形で実現する神の国での盛大な宴会の、ひとつの“前触れ”である、ことを信じてまいりましょう。
神の国での盛大な宴会への招待状がすでに私たちのもとには届いています。それに対して何らお返しをする必要のない(お返しすることのできない)、神の国での宴会に招かれている喜びを覚え、感謝と希望の信仰を歩んでいこうではありませんか。

2024年10月12日土曜日

2024年10月13日 主日礼拝


前奏
招詞  ゼカリヤ書 1章3節
賛美  新生讃美歌 651番 イエスの愛にこたえ行く
主の祈り
賛美  新生讃美歌 213番 われらに伝えよ
献金
聖句  ルカによる福音書15章11~24節
祈祷 
宣教 「放蕩息子のたとえから」
祈祷
賛美  新生讃美歌 550番  ひとたびは死にし身も
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

*本日、メッセージの掲載はありません。

2024年10月5日土曜日

2024年10月6日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編103篇8~9節
賛美  新生讃美歌 626番 主はいのちを与えませり
祈りの時
主の祈り
賛美  新生讃美歌 213番 われらに伝えよ
献金
聖句  ルカによる福音書13章6~9節
祈祷 
宣教 「実のならないいちじくの木」
祈祷
賛美  新生讃美歌 81番 父なるわが神
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏


 今日の聖書箇所で、イエス様はあるたとえ話をされました。それはたとえなので、実際に起きた出来事ではありません。この話を通してイエス様がご自分の弟子たちに伝えようとしたメッセージがあるということです。
 聖書の御言葉は時を超えて、神のメッセージを今の私たちにも伝えます。ですから、今日このイエス様のたとえ話を通して、神が私たちに伝えようとされているメッセージがあるのです。
 これはたとえですから、ある程度私たちの想像力も働かせながら、イエス様の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

初めの6節をもう一度お読みします。
 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。

 ある人がぶとう園にいちじくの木を植えました。その様子を少し考えると、「なぜ、いちじくをぶどう園に植えるのだろうか?」という疑問が皆さんには浮かばなかったでしょうか?
 なぜ、いちじくをぶどう園に植えたのでしょうか?実はこれは、当時のユダヤでは普通に行われていた果物栽培の方法だったようです。
 現代の果樹園ならば、ぶどうならぶどう、いちじくならいちじく、みかんならみかんと、同じ種類の果物を同じ場所に沢山植えて、効率よくその果物を育て、収穫すると思います。
しかし新約聖書の書かれたこの当時、約2000年前のイスラエルでは、ぶどう園(vineyard)にいちじく、またその他のいろいろな果物の木を植えることが普通のことであったようです。
ぶどうは、他の木に絡みつくことで、上に向かって伸びていくことができます。そのためにも、ぶどう園の中にいちじくの木が植えられる理由がありました。
いちじくは、実をならす以外にもぶどう園のなかでの役割があったということです。いちじくの木の存在が、ぶどうの成長を助けていたからです。

イスラエルのぶどう園の中に色々な果物の木が植えられていたという光景を想像すると、色彩豊かで、(多少雑然としていたとは思いますが)、色々な果物がそれぞれの個性と役割を発揮しながら互いに支え合って成長している様子が想像されます。
場所はぶどう園であっても、その中には色々な果物の木が植えられており、それぞれの役割を果たしているのです。そしてお互いがお互いを支え合っているのです。
その様子は、私たちの教会を思わせないでしょうか。教会がそのような場所であったらよいな、と私たちに希望を抱かせないでしょうか。
私たち信仰者も、特に神に呼び集められた教会の中で、お互いの個性を尊び、違いを認め合い、支え合い、一人ひとりが特別に神から愛された存在であることを喜びあうことができます。
ぶどう園の中に、主人(すなわち神様)は特別な思いで一本のいちじくの木を植えられました。

私たち一人ひとりが一本のいちじく、またはざくろ、りんごなど多様な木でありながら、神様のご計画によって、同じ場所に植えられた果物のように、互いに神に愛された等しい価値ある者として、私たちはお互いを大切にしたいと願います。

 そのぶどう園にいちじくを植えた主人は、当然のことながら、いちじくがやがて実を結ぶことを期待し、実が豊かになることをずっと待っていました。
ところが、三年間もの間、“まだ実はならないか”と期待しながら、ずっといちじくの木を、この主人は見に来続けたにも関わらず、そのいちじくの木は全く実をならせませんでした。
 いちじくが最初に植えられてから実をつけるまでには、だいたい3年ぐらいかかるそうです。
ですから、この主人が三年もの間、そのいちじくの木に実を探しに通い続けた、ということは、最初にそのいちじくが植えられてからは、実に6年の時がたった、ということだと私は想像します。

それは神がいかに忍耐強いお方であるか、神が私たちが信仰の実をならせることを、どれほど切実に願っておられるか、ということを表します。
 私たちの信仰の実とは、どのようなものでしょうか。新約聖書の別の箇所の『ガラテヤの信徒への手紙Galatians』5章22節~23節に、次のように書かれています。

ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制~これらが霊の結ぶ実、つまりイエス・キリストへの信仰によって信仰者が結ぶと言われる実です。
喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、これらはいずれもイエス・キリストご自身が豊かに持っておられた神の御性質です。
私たちがイエス・キリストによる喜びと平和を頂いているのならば、私たちは他者への寛容や親切、善意、誠実、柔和(優しさ)、節制(自分の欲を制すること)をも身につけることができるということです。
 私たちは、信仰によるそのような果実を結んでいるでしょうか。神が私たちをご覧になって、そのような信仰の実を私たちの中に見つけることがおできになるでしょうか?
 “実”というものは、自身以外の他者に栄養(生きる糧)を提供します。ですから、私たちが結ぶべき信仰の実は、それが自分以外の他者をも潤し、生かすものであるはずです。
 私たちは、私たちの存在が、また私たちの教会が、キリストへの信仰による豊かな実を結ぶことによって、私たちの周りの人や、教会の周りの地域をも潤すことができるような存在となりたいと願います。
 私たちにはキリストによる喜びがあります。キリストによる平和が私たちには与えられています。それらを豊かな信仰の果実として、私たちは身につけ、それらを他者へも伝えていこうではありませんか。

 三年間、“実はなっていないか”と期待しながら、何度も何度も、見に来続けたぶどう園の主人でしたが、しかし、結局何の実も見つけることができませんでした。
 この主人は次のように言いました(7節)
 『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』

“このいちじくの木は、まったく実をならせない。土地を無駄にふさいでいるだけだ。切り倒せ”~ここで、私たち信仰者のことが例えられていると思うと、神様は大変残酷な方であるようにも思えます。
しかし、神が“切り倒せ”の一言を発するまでに、それまでに、いったいどれほどの忍耐をもって、私たちが、悔い改めの実を結ぶのを待ち続けてくださったのか、を私たちは知らねばなりません。

旧約聖書のイザヤ書に次のような神の言葉が記されています。神がいかに深い愛をもって、ご自分の民(イスラエルの民)を愛されたのかが、ぶどうをたとえにして語られています。

イザヤ書5章4節 (Isaiah 5:4)
わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。

 神は愛なるお方です。神は無限の愛をもって私たちを愛して、憐れんでくださるお方です。そして、本当の愛は、必要な時には厳しさをも伴うものです。
 神は真の愛なるお方ですから、私たちのために必要な厳しさをも併せ持ったお方なのです。神の大きな愛を頂く私たちは、神には私たちを厳しく裁かれる権威もお持ちのお方であることを、知らねばなりません。
 神が“このいちじくの木を切り倒せ”と言ったとき、そこで園丁が答えました。(8~9節)
『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。

「今年もこのままにしておいてください。私が木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もう一年待ってください」と必死になって主人に願うこの園丁とは、イエス・キリストを表しています。
このようにイエス様は、私たちのために、私たちに代わって天の父なる神に、私たちの赦しのために、執り成しの祈りと願いを捧げてくださっているのです。
 この園丁の言っていることはこういうことです。「私にできることは全ていたします。ただ水をやるだけでなく、木の周りを掘って、肥やしをやります。そのように徹底的に私がこのいちじくの木が成長できるように、必要なものは全て与え、世話をします」

そのように、私たちのために(私たちがそれぞれの使命と役割を果たし、信仰を成長させるために)必要なものを、惜しみなく全て与えてくださる方がおられることを、私たちは信じているでしょうか。
 牧師として今の私自身のことを顧みますと、本当に必要なものは全て与えられ、今も与えられ続けていることを、私は痛感せずにはいられませんでした。
 私は牧師として献身すると決意した時に、「全てをなげうって、神様が行けと言われるところならば、どこへでも行きます。イエス・キリストの福音を人々に伝えます」という決意を、神からの召命に基づいて自分でしました。
 しかし、私が何かをなげうつ前に、実は神が私のために必要なものはすべて整えて、与えてくださっていたのです。
神は、私が牧師として仕えることの許される教会をすでに備えてくださっており、私を牧師として迎え、立ててくださる皆さんを神は私に与えてくださいました。
 素晴らしい教会堂が素晴らしい場所に、(わたしの来るずっと前に)すでに与えられていました。私が自分でしたことなど、何一つありません。
 世界には自由にキリスト信仰を持つことができない、伝道ができない国や地域も多くあります。それらの場所で、キリスト宣教の使命に命をかけて仕えている宣教師、伝道師たちもたくさんおられます。
 今の私には、宣教活動、牧会活動に関わるそのような深刻な制限や迫害はありません。これら一つ一つがどれほど恵まれたことであるか、多くの場合私は忘れてしまっていたことに気づきました。

 これほどの神の恵みの中で、必要なものは全て与えられている中で、私が一キリスト者として、そして牧師、伝道者として主が望まれる実を結ばないのならば、私は切り倒されても仕方がない、神様には当然そのようになさる権利がある、と思わされました。
 神は、限りない愛と忍耐をもって、また大きなご計画をもって私たちをそれぞれの場に置かれました。
私たちそれぞれが置かれた場において、私たちは主イエス・キリストから頂く愛と憐れみ、キリストの恵みによって、きっと豊かな信仰の実を結ぶことができます。
 そして私たちが結ぶ信仰の実・霊の実は、私たちが共に生きる他者をも霊的に潤し、生かし、その人たちへキリストを伝えるものともなるでしょう。
 すべての恵みを与えてくださる神に感謝をし、神に繋がり続け、信仰の豊かな実を私たちは結んでいこうではありませんか。