2025年1月19日 主日礼拝
前奏
招詞 申命記31章8節
賛美 新生讃美歌 16番 み栄えあれ 愛の神
主の祈り
賛美 新生讃美歌 261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 コリントの信徒への手紙二 4章7~15節
祈祷
宣教 「このような宝を土の器に」
祈祷
賛美 新生讃美歌 550番 ひとたびは死にし身も
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏
今日の聖書箇所である「コリントの信徒への手紙二」の最初の節である4章7節に、この手紙を書いたパウロは「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」と書いています。
「わたしたち」とは、私たち一人ひとりのことです。そして「土の器」とパウロが表現しているのは、私たち人間の体のことです。
人間の体の例えとしての土の器は、より広い意味でいえば、物理的な身体だけでなく、精神、心といった私たち人の内面をも含む、一人の人間全体のことと言ってよいでしょう。
「土の器」と聞いて、私たちが思い浮かべるのは、やはりその“脆さ”、“はかなさ”ではないでしょうか。それは、気をつけて取り扱われなければ、非常に壊れやすいものです。
私は以前、土器のお茶碗を友人からいただいたことがあります。
そのお茶碗を手に持つと、手に持った感触は心地よく、そして気のせいだったかとは思うのですが、そのお茶碗で食べるご飯(お米)は、普通の茶碗で食べる時よりも、とてもおいしく感じられました。
それには手作りの感触がありました。毎日手にとってご飯を食べる時に、私は目でその茶碗と、その茶碗に盛られたご飯を、ゆっくり眺めたりもしていました。
しかしある日、そのお茶碗をいただいてから数か月ぐらい経った時だったと思うのですが、私は立ちながらそのお茶碗を手に持っている時に、うっかりそれを手から落としてしまったのです。
そのお茶碗は床の上で真っ二つに割れました。既成の安価なお茶碗ですと、床に落ちて割れたりすると、割れる派手な音とともに、いくつかの破片に割れるのが普通だと思います。
しかし、私が割ってしまったその土器のお茶碗は、床の上で、ある鈍い音と共に、粉々に砕けるのではなくて、見事に真っ二つに割れました。
気に入っていた茶碗だったので、落ちて(落として)割れてしまったのは、とても残念でした。
そして真っ二つに割れた茶碗を見て、やはり“造られたものの弱さ、脆弱(ぜいじゃく)さ”を思わされました。
私たちの体も、そしてまた心も、ちょっとしたことでも傷ついたり、また壊れたりする、とても弱いものではないでしょうか。
しかし、私たちのその弱さも、それは神が私たちをそのように繊細なものとして造られたということの表れです。
私たちが土器ならば、それをお造りになった方(陶器師)は、神です。神は私たち一人ひとりを、愛情を込めて、本当に特別な思いをもって、作ってくださったのです。
人間の陶器師も、一つ一つの作品を、魂を込めて愛情をもって造ると、私は思います。まして天の父なる神は、本当に大きな愛と、また神の特別な御計画をもって私たちを造ってくださったはずではないでしょうか。
神は私たちを愛情込めて“土の器”のようなものとしてお造りになりました。
土の器は弱く、壊れやすいものです。しかし、人は皆そのように弱いものだ、ということが本当に分かるならば、私たちはそんな弱い自分自身と、また自分以外の他者をも大切にしよう、という気持ちが与えられると思います。
弱い私たちが、自分自身を頼りにすることなく、主なる神の力を頼りにして生きるように造られたことをも覚えて、私たちは日々、そのような信仰によって支えられ生きていきたいと私は願います。
しかし、今日の箇所は、私たち人間がただの“土の器”であり、弱く、もろく、儚い、とだけ言っているだけではありません。
今日の箇所では、私たちが私たちというこの“土の器”の中に、ある“宝”を納めている、というのです。
この宝とは、今日の箇所の一節前の6節に次のように書かれています。
「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
わたしたちが、土の器としての私たち自身の中に頂いているのは、“光”であり、それは“イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光”である、というのです。
”イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を知る光“とは、”イエス・キリストを通して、神を知るという喜びの光“、”イエス・キリストの福音によって生かされる希望の光“などと、色々と言い換えても良いと思います。
それほどの宝を、私たちは土の器である私たちの中に、神から頂いているのです。
イエス様は人として生きておられる時に、人々に“あなたがたは世の光である”と言われました。(マタイによる福音書5章14節)
私たちは自分自身で光っているのではないのです。私たちが聖書の御言葉を通して、そして聖霊の導きによってイエス・キリストを知り、イエス・キリストを信じる時に、キリストが私たちの内面に住まわれて、キリストが私たちの中で輝く光となるのです。
7節の後半には、
「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」と書かれています。
コリントの信徒への手紙を書いたパウロは自分自身で、この“並外れて偉大な力”が彼をとおして働いていることを本当に実感したのだと思います。
それは聖書の御言葉こそが人を生かすという力です。そしてそれは、イエス・キリストの御名が人に与える希望の力です。
パウロは「コリントの信徒への手紙一」の2章4~5節で次のように書いています。
4わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
5それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
パウロは、“考えてみれば、自分は言葉も巧みでなく、宣教も洗練された知恵に溢れたような言葉で語ることはできなかった。それでも多くの人がイエス・キリストの福音を自分の宣教を通して信じるようになった。それは神の力が自分を通して働いたからなのだ(自分の力ではなかったのだ)”と悟ったのでしょう。
パウロ自身も色々と弱さを抱えていたはずです。彼には何らかの慢性的な病、あるいは何らかの障害があったと言われています。
パウロは随分気の強い人のようにも想像されますが、そんな彼でも人として、とても弱く傷つきやすい心をも持っていたでしょう。
色々な欠点も、またキリストを信じる者たちを激しく迫害していたという過去も、パウロは抱えていました。
それでも、イエス・キリストの神の力が彼を通して働いて、“パウロを通して働かれているのは、パウロ自身ではなくて、キリストの神なのだ”ということが人々に明らかになったのです。
私たちも、自分の弱さを知り、自分の欠点をも認め、しかしそんな弱さ、欠点を抱えた私たちを通して神は働かれ、そして私たちの中には、キリストの神の偉大な力が与えられているのだ、ということを知りましょう。
そして私たちを通して、キリストのその力が人々にも明らかになるようにと、願いましょう。
今日の8~9節には次のように書かれています。
8わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
9虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
”四方から苦しめられる“、”途方に暮れる“、”虐げられる“、そして”打ち倒される“。これらは全てパウロ自身がキリストの伝道者として経験したことでした。
私たちも、それぞれ苦しい思い、打ちのめされるような思い、立ち上がることもできないような辛い経験をするときがあると思います。
今まさにそのような苦しさのただ中にいる、という方もおられるかもしれません。
しかし、パウロは言うのです。“どんなに苦しめられても、途方に暮れても、打ち倒されても、イエス・キリストの神は共におられる。その神が私を支えてくださる”と、彼は言います。
“どんなに苦しめられても、打ちのめされても、私が完全に失望しきることはない。私は見捨てられ、滅ぼされることない。なぜなら、キリストは私を見捨てることがないから”とパウロは確信していたのです。
彼のその確信は、神を信じる信仰により、今の私たちにも賜物として与えられます。
信仰者であっても苦しみ、悲しみ、痛みの経験をするときがあります。そして私たちは誰もが”土の器“ですから、とても傷つき、そして壊れそうになる、壊れてしまうこともあります。
私たちには悲しみに暮れる時、どうしていいか分からない時、打ち倒されるような時があります。
しかしイエス・キリストは私たちと共におられます。イエス様が痛む私たちと共に泣いてくださっています。
そしてイエス様は御言葉を通して私たちを慰め、私たちが倒れても、いつかまた立ち上がることができるように、私たちの手を優しく取って、私たちを立たせてくださいます。
今日の14節に「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させる」と書かれています。
この復活とは、私たちが実際に死んだ後の霊的な復活のことを指しています。
それと同時に、この復活とは、私たちの日々の生活の中で、人生の中で私たちが死ぬほどの辛い時を通る時に、神が力を与えてくださって私たちを再び立たせてくださることをも指すのです。
どんなに打ちのめされても神は私たちを見捨てず、わたしたちを決して滅ぼされないのです。
旧約聖書の『申命記』の31章8節で、モーセが自分の後継者であるヨシュアに次のように伝えました。
申命記31章8節
主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」
この言葉は永遠の真実です。私たちは、私たちを決して見捨てることがない、という神の真実と神の御言葉にしがみついていこうではありませんか。
死んだイエス様を復活させた神の偉大な力が、私たちが倒れても、私たちを必ず再び起き上がらせ、そして私たちを復活の力と希望とで満たしてくださいます。
そのようにして、弱くもろい私たちの中で、キリストの偉大なお力がますます強く働かれることで、キリストの光と力とが私たちを通して、また別の人々へも伝えられていくのです。
そのような尊い働きのための器として私たちを用いてくださり、また私たちをいつも励まし慰めてくださる神に寄り頼みながら、私たちは日々をキリストの信仰者として、そしてキリストを述べ伝える宣教者として、生きてまいりましょう。
2025年1月18日土曜日
2025年1月11日土曜日
2025年1月12日 主日礼拝
前奏
招詞 出エジプト記20章3節
賛美 新生讃美歌59番 父の神よ 汝がまこと
主の祈り
賛美 新生讃美歌261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 フィリピの信徒への手紙1章12~21節
祈祷
宣教 「生きるとはキリストである」
祈祷
賛美 新生讃美歌 491番 信ぜよ み神を
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏
復活のイエス・キリストに出会い、それまではキリスト信者を激しく迫害していたパウロが、キリストの福音を熱心に伝道する者へと変えられました。
先週の礼拝メッセージで、私たちは、パウロの回心について、使徒言行録(Acts)から御言葉を共にお聞きしました。
しかしパウロはキリストの伝道者となったために、それ以来、大変に苦しい道を歩むことになります。
パウロはキリストを宣教したために何度も投獄され、そして(そのことは聖書にははっきりと書いてありませんが)パウロは最期は処刑されたのだろう、と言われています。
このフィリピの信徒への手紙も、パウロがローマで投獄されているときに牢獄から書かれた手紙であると言われます。
しかし、牢獄にあってもパウロから希望と力が奪われることはありませんでした。
今日の箇所の少し前の、フィリピの信徒への手紙1章3~4節に次のように書かれています。
わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
獄中にあってパウロを支えたのは、何よりもイエス・キリスト、復活のイエス・キリストが彼といつも共にいてくださる、という確信でありその信仰でした。
そして、パウロにとっては、祈ることが大きな喜びであったことが分かります。何かのために、特に信仰の友のために祈ることができる喜びが、パウロを支えていたのです。
パウロにとっては、フィリピの信徒たちのことを思い起こし、神に感謝しながら彼らのために祈ることが喜びであったのです。
フィリピの教会は、パウロが伝道したことによって建てられました。フィリピの教会の信徒たちは、パウロがフィリピを離れてからも、物心両面でパウロを支えたようです。
フィリピの信徒への手紙4章15~16節に次のように書かれています。
フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
パウロは、天幕(テント)作りという専門職を持っており、自ら働いて生計を立てながら伝道をした、とパウロの他の手紙の箇所に書かれています。
しかし、フィリピの教会の信徒たちからは、パウロは物質的な援助(物やおそらく献金も)受け取っていたことが、今お読みした箇所から分かります。
そのことから、フィリピの教会の信徒たちとパウロの間には、特別な信頼関係と強い愛情がはぐくまれていたのだろうと想像できます。(他の教会からはそうしなかったけれども、フィリピの教会から援助を受け取った、ということから)
そしてパウロにとっては、自分を支えてくれたフィリピの信徒を覚えて、祈ることができることが、この上ない喜びであったのです。
信仰の友であり家族である人たちのために祈ることができるということは、神を信じる者に大きな喜びをもたらすのです。
私たちも自分以外の他者のことを覚えて(自分の家族であったり、特に教会の兄弟姉妹、友人知人)を覚えて祈ります。
パウロが喜びをもってフィリピの信徒たちを覚えて祈ったように、私達も、信仰によって誰かのために祈ることができる、そのこと自体が大きな喜びであることを知っていきたいと願います。
なぜ祈りが喜びとなるのでしょうか。それは、私たちの祈りを聞いてくださる神が確かにおられるからです。
イエス・キリストの名によって私たちが祈る時、キリストの名のゆえに、神は私たちの祈りを確かに聞いてくださるのです。
そのような聖書の約束を信じ、私たちは喜びをもって祈る者、祈る信仰者でありたいと願います。
今日の箇所の12節をお読みします。
12兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
「わたしの身に起こったこと」とは、パウロがキリストの福音を伝えたために、彼が激しい妨害、迫害にあい、牢にまで閉じ込められた、などの経験のことです。
普通に考えれば、神のため、そして神の救いを人に伝えるために働いているのに、そのために捕まり投獄されるということは辛いことです。
自分が捕まってしまっては、キリストの福音を宣教することができなくなってしまう、と最初パウロは思ったかもしれません。
しかしパウロは、彼に起きたそれらの出来事を、自分の視点から見るのではなく、神の視点から、そして“キリストの福音が伝えられる”という視点から見ることができました。
パウロは牢獄に入れられましたが、彼がそのような境遇に置かれたことで、逆に福音が前進することに役立った、とパウロは言うのです。
『使徒言行録』の16章に、パウロがフィリピで投獄された時の様子が書かれています。
フィリピで宣教をしていたパウロと仲間のシラスに対して、人々から「彼らは町を混乱させている」という訴えが出されました。そのため彼ら二人は何度も鞭打たれ、そして投獄されました。
真夜中頃、パウロとシラスは賛美の歌を歌って神に祈っていました。そこで突然大きな地震が起こり、牢獄の土台までが揺れて、囚人たちが閉じ込められていた牢の扉がみな開き、囚人の鎖もはずれてしまいました。
そこで牢を見張っていた看守は、“囚人たちが逃げてしまった”、“自分の責任が問われる”と恐れて、彼は自殺しようとします(使徒言行録16章27節)。
しかしパウロは大声で叫びます。「自害してはいけいない。わたしたちは皆ここにいる“Don’t harm yourself! We are all here!”」(使徒16:28)。
その看守はパウロとシラスに聞きました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」
二人(パウロとシラス)は答えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
その看守は家族と共に洗礼(バプテスマ)を受け、そして看守は家族も一緒に神を信じる者になったことを、家族と一緒に喜んだと書かれています。
投獄という彼(パウロ)にとっては理不尽な(不当な)経験も、主なる神によってそのように大きく用いられて、キリストの福音が人々に伝わることに繋がる、ということをパウロは経験しました。
パウロは彼自身のことよりも、“福音の前進”という出来事に目をとめて、福音がいかに広がっていくかという視点から、彼に起きたことを振り返る(思い起こす)ことができたのです。
私たちも、自分自身の思いや願い、感情や満足(それらも大切であり、自分の願いや感情を捨てることは私たちにはできませんが)を基準にして私達の人生を見るのではなく、キリストの福音の前進という視点から、私達に起こる出来事を捉える(受け止める)必要を教えられます。
キリストが共におられ、私たちに起こる出来事を通して、キリストが、福音が前進するために働いてくださいます。
そのことを信じ、福音に生かされながら、福音の前進のために私たちも生きていきたいと私たちは願います。
今日の箇所の15節以降では、人々がキリストを述べ伝える動機について書かれています。
15キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
そして16~17節には“パウロに対する愛の動機から、または逆にパウロを苦しめてやろうという動機で、キリストを広める者もいる”、と書かれています。
しかし18節にこう書かれています。
18だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
これもすごい言葉です。“愛なるキリストを伝道するならば、その動機こそが重要だ”と私たちは考えないでしょうか。
キリストを伝えたい、という純粋な思いこそが大切であって、そこに妬みや争いが持ち込まれるならば、それでは福音の宣教にはならない、と私たちは思わないでしょうか。
ここでパウロが言いたいことは、私達人間の不純な動機さえも、キリストの福音はそれらよりも強く、福音はそれら(人の不純な動機や心)さえも凌駕(りょうが)する、ということです。
キリスト者も、またキリスト教会も、罪を抱えた人間であり、罪人の集まりであるので、妬みや争いというものが私たちの間にも、残念ながら起こることがあります。
それでも、キリストの福音は私たち人のそのような罪の性質をも包み込むのです。
むしろ、妬み、争いを引き起こす私達人間の自我、罪深い性質を、私たちが悔い改めて、それを正直に神の前に差し出す時、福音はそんな私たちを通しても広がっていくのではないでしょうか。
キリストの恵みが、罪深い私たちをキリストに似た者に変えてくださるようにと願いつつ、それでも罪ある私たちを通しても、キリストが(キリストだけが)そんな私たちの間で述べ伝えられ、あがめられますようにと私たちは願いたいと思います。
今日の箇所の最後の節である21節をお読みします。
21わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
パウロにとって“生きることはキリスト”であったのです。パウロも一伝道者として、色々と大変な経験もし、また色々なことに悩みもしたと思います。
パウロも一人の人間ですから、多くの欠点も抱え、また彼は随分激しい性格でもあったようですから、彼は色々と教会内部でも不和や衝突を経験していたことが、聖書では伝えられています。
しかし、パウロにとって「生きることはキリスト」というその一点においては、何の迷いもありませんでした。
“キリストが生きておられるので、この私の命がある”。“キリストが生きておられるので、今日も私は生きる”。“キリストを伝える使命があるので、今日もまた生きることを許されている”とパウロは思っていたのでしょう。
私たちにとって、主イエス・キリストが生きておられるとは、何か漠然とした実態のない、考えや願い、理想ではありません。
それは、私たちのために十字架にかかり死に、そしてよみがえったお方が、今は聖霊によって私たちに神の力と生きる希望とを与えて続けてくださっている、という現実です。
そのようにして、確かにキリストは生きておられるのです。キリストが私たちを生かしておられるのですから、私たちにとって”生きることはキリスト“なのです。
私たちがもし、“私は何のために生きているのか”、“私が生きていることに何か意味があるのか”という疑問を持つ時があるのなら、その時はキリストを見上げましょう。
聖書の御言葉を通して語られるキリストの御言葉に私たちは耳を傾け続けましょう。そしてキリストによって生かされる真実を知って、私たちは喜びましょう。
私たちにとって、生きるとはキリスト、すなわちキリストが生きておられるので、私たちも生きるのです。
不完全で限りある、罪あるこの私たちが、完全で罪のないイエス・キリストによって贖われ、罪赦され罪から解放されたので、私たちは喜びの命を生きることができるのです。
そのような聖書の約束に信頼し、主と共に生きる、主キリストのために生きる日々を、私達これからも歩んでまいりましょう。
前奏
招詞 出エジプト記20章3節
賛美 新生讃美歌59番 父の神よ 汝がまこと
主の祈り
賛美 新生讃美歌261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 フィリピの信徒への手紙1章12~21節
祈祷
宣教 「生きるとはキリストである」
祈祷
賛美 新生讃美歌 491番 信ぜよ み神を
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏
復活のイエス・キリストに出会い、それまではキリスト信者を激しく迫害していたパウロが、キリストの福音を熱心に伝道する者へと変えられました。
先週の礼拝メッセージで、私たちは、パウロの回心について、使徒言行録(Acts)から御言葉を共にお聞きしました。
しかしパウロはキリストの伝道者となったために、それ以来、大変に苦しい道を歩むことになります。
パウロはキリストを宣教したために何度も投獄され、そして(そのことは聖書にははっきりと書いてありませんが)パウロは最期は処刑されたのだろう、と言われています。
このフィリピの信徒への手紙も、パウロがローマで投獄されているときに牢獄から書かれた手紙であると言われます。
しかし、牢獄にあってもパウロから希望と力が奪われることはありませんでした。
今日の箇所の少し前の、フィリピの信徒への手紙1章3~4節に次のように書かれています。
わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
獄中にあってパウロを支えたのは、何よりもイエス・キリスト、復活のイエス・キリストが彼といつも共にいてくださる、という確信でありその信仰でした。
そして、パウロにとっては、祈ることが大きな喜びであったことが分かります。何かのために、特に信仰の友のために祈ることができる喜びが、パウロを支えていたのです。
パウロにとっては、フィリピの信徒たちのことを思い起こし、神に感謝しながら彼らのために祈ることが喜びであったのです。
フィリピの教会は、パウロが伝道したことによって建てられました。フィリピの教会の信徒たちは、パウロがフィリピを離れてからも、物心両面でパウロを支えたようです。
フィリピの信徒への手紙4章15~16節に次のように書かれています。
フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
パウロは、天幕(テント)作りという専門職を持っており、自ら働いて生計を立てながら伝道をした、とパウロの他の手紙の箇所に書かれています。
しかし、フィリピの教会の信徒たちからは、パウロは物質的な援助(物やおそらく献金も)受け取っていたことが、今お読みした箇所から分かります。
そのことから、フィリピの教会の信徒たちとパウロの間には、特別な信頼関係と強い愛情がはぐくまれていたのだろうと想像できます。(他の教会からはそうしなかったけれども、フィリピの教会から援助を受け取った、ということから)
そしてパウロにとっては、自分を支えてくれたフィリピの信徒を覚えて、祈ることができることが、この上ない喜びであったのです。
信仰の友であり家族である人たちのために祈ることができるということは、神を信じる者に大きな喜びをもたらすのです。
私たちも自分以外の他者のことを覚えて(自分の家族であったり、特に教会の兄弟姉妹、友人知人)を覚えて祈ります。
パウロが喜びをもってフィリピの信徒たちを覚えて祈ったように、私達も、信仰によって誰かのために祈ることができる、そのこと自体が大きな喜びであることを知っていきたいと願います。
なぜ祈りが喜びとなるのでしょうか。それは、私たちの祈りを聞いてくださる神が確かにおられるからです。
イエス・キリストの名によって私たちが祈る時、キリストの名のゆえに、神は私たちの祈りを確かに聞いてくださるのです。
そのような聖書の約束を信じ、私たちは喜びをもって祈る者、祈る信仰者でありたいと願います。
今日の箇所の12節をお読みします。
12兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
「わたしの身に起こったこと」とは、パウロがキリストの福音を伝えたために、彼が激しい妨害、迫害にあい、牢にまで閉じ込められた、などの経験のことです。
普通に考えれば、神のため、そして神の救いを人に伝えるために働いているのに、そのために捕まり投獄されるということは辛いことです。
自分が捕まってしまっては、キリストの福音を宣教することができなくなってしまう、と最初パウロは思ったかもしれません。
しかしパウロは、彼に起きたそれらの出来事を、自分の視点から見るのではなく、神の視点から、そして“キリストの福音が伝えられる”という視点から見ることができました。
パウロは牢獄に入れられましたが、彼がそのような境遇に置かれたことで、逆に福音が前進することに役立った、とパウロは言うのです。
『使徒言行録』の16章に、パウロがフィリピで投獄された時の様子が書かれています。
フィリピで宣教をしていたパウロと仲間のシラスに対して、人々から「彼らは町を混乱させている」という訴えが出されました。そのため彼ら二人は何度も鞭打たれ、そして投獄されました。
真夜中頃、パウロとシラスは賛美の歌を歌って神に祈っていました。そこで突然大きな地震が起こり、牢獄の土台までが揺れて、囚人たちが閉じ込められていた牢の扉がみな開き、囚人の鎖もはずれてしまいました。
そこで牢を見張っていた看守は、“囚人たちが逃げてしまった”、“自分の責任が問われる”と恐れて、彼は自殺しようとします(使徒言行録16章27節)。
しかしパウロは大声で叫びます。「自害してはいけいない。わたしたちは皆ここにいる“Don’t harm yourself! We are all here!”」(使徒16:28)。
その看守はパウロとシラスに聞きました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」
二人(パウロとシラス)は答えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
その看守は家族と共に洗礼(バプテスマ)を受け、そして看守は家族も一緒に神を信じる者になったことを、家族と一緒に喜んだと書かれています。
投獄という彼(パウロ)にとっては理不尽な(不当な)経験も、主なる神によってそのように大きく用いられて、キリストの福音が人々に伝わることに繋がる、ということをパウロは経験しました。
パウロは彼自身のことよりも、“福音の前進”という出来事に目をとめて、福音がいかに広がっていくかという視点から、彼に起きたことを振り返る(思い起こす)ことができたのです。
私たちも、自分自身の思いや願い、感情や満足(それらも大切であり、自分の願いや感情を捨てることは私たちにはできませんが)を基準にして私達の人生を見るのではなく、キリストの福音の前進という視点から、私達に起こる出来事を捉える(受け止める)必要を教えられます。
キリストが共におられ、私たちに起こる出来事を通して、キリストが、福音が前進するために働いてくださいます。
そのことを信じ、福音に生かされながら、福音の前進のために私たちも生きていきたいと私たちは願います。
今日の箇所の15節以降では、人々がキリストを述べ伝える動機について書かれています。
15キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
そして16~17節には“パウロに対する愛の動機から、または逆にパウロを苦しめてやろうという動機で、キリストを広める者もいる”、と書かれています。
しかし18節にこう書かれています。
18だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
これもすごい言葉です。“愛なるキリストを伝道するならば、その動機こそが重要だ”と私たちは考えないでしょうか。
キリストを伝えたい、という純粋な思いこそが大切であって、そこに妬みや争いが持ち込まれるならば、それでは福音の宣教にはならない、と私たちは思わないでしょうか。
ここでパウロが言いたいことは、私達人間の不純な動機さえも、キリストの福音はそれらよりも強く、福音はそれら(人の不純な動機や心)さえも凌駕(りょうが)する、ということです。
キリスト者も、またキリスト教会も、罪を抱えた人間であり、罪人の集まりであるので、妬みや争いというものが私たちの間にも、残念ながら起こることがあります。
それでも、キリストの福音は私たち人のそのような罪の性質をも包み込むのです。
むしろ、妬み、争いを引き起こす私達人間の自我、罪深い性質を、私たちが悔い改めて、それを正直に神の前に差し出す時、福音はそんな私たちを通しても広がっていくのではないでしょうか。
キリストの恵みが、罪深い私たちをキリストに似た者に変えてくださるようにと願いつつ、それでも罪ある私たちを通しても、キリストが(キリストだけが)そんな私たちの間で述べ伝えられ、あがめられますようにと私たちは願いたいと思います。
今日の箇所の最後の節である21節をお読みします。
21わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
パウロにとって“生きることはキリスト”であったのです。パウロも一伝道者として、色々と大変な経験もし、また色々なことに悩みもしたと思います。
パウロも一人の人間ですから、多くの欠点も抱え、また彼は随分激しい性格でもあったようですから、彼は色々と教会内部でも不和や衝突を経験していたことが、聖書では伝えられています。
しかし、パウロにとって「生きることはキリスト」というその一点においては、何の迷いもありませんでした。
“キリストが生きておられるので、この私の命がある”。“キリストが生きておられるので、今日も私は生きる”。“キリストを伝える使命があるので、今日もまた生きることを許されている”とパウロは思っていたのでしょう。
私たちにとって、主イエス・キリストが生きておられるとは、何か漠然とした実態のない、考えや願い、理想ではありません。
それは、私たちのために十字架にかかり死に、そしてよみがえったお方が、今は聖霊によって私たちに神の力と生きる希望とを与えて続けてくださっている、という現実です。
そのようにして、確かにキリストは生きておられるのです。キリストが私たちを生かしておられるのですから、私たちにとって”生きることはキリスト“なのです。
私たちがもし、“私は何のために生きているのか”、“私が生きていることに何か意味があるのか”という疑問を持つ時があるのなら、その時はキリストを見上げましょう。
聖書の御言葉を通して語られるキリストの御言葉に私たちは耳を傾け続けましょう。そしてキリストによって生かされる真実を知って、私たちは喜びましょう。
私たちにとって、生きるとはキリスト、すなわちキリストが生きておられるので、私たちも生きるのです。
不完全で限りある、罪あるこの私たちが、完全で罪のないイエス・キリストによって贖われ、罪赦され罪から解放されたので、私たちは喜びの命を生きることができるのです。
そのような聖書の約束に信頼し、主と共に生きる、主キリストのために生きる日々を、私達これからも歩んでまいりましょう。
2025年1月4日土曜日
2025年1月5日 主日礼拝
前奏
招詞 歴代誌下7章14節
賛美 新生讃美歌2番 来たれ全能の主
前奏
招詞 歴代誌下7章14節
賛美 新生讃美歌2番 来たれ全能の主
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 使徒言行録9章1~9節
祈祷
宣教 「パウロの回心」
祈祷
賛美 新生讃美歌563番 すべての恵みの
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
新約聖書は、4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)、そして今日の聖書箇所である『使徒言行録Acts』、それに続く幾つかの手紙形式の書、そして「ヨハネの黙示録」という書から成り立っています。
新約聖書の中の手紙の部分の多くを書いたのが、パウロでした。そのパウロが、今日の聖書箇所に出てくるサウロです。パウロとサウロは同一人物です。
今日の箇所の初めに次のように書かれています。
1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
“主の弟子とは、イエス・キリストに従う者たちです。この時イエス様は既に殺されて、そして復活して、天に昇っていかれた後でした。
イエス様が天に昇って行かれた後、主の聖霊がイエス様の弟子たちに降り、弟子たちは聖霊によって力を受けました。
そして弟子たちは、“イエス・キリストが神であること”、“キリスト以外に人の救いはない”ということを力強く伝道していくようになりました。
聖霊によって力を受けた弟子たちによる伝道活動が、この「使徒言行録」に詳しく記されています。
後にキリストの伝道者となって、新約聖書に含まれている手紙の多くを書くようになったパウロは、イエス・キリストの教えに従う者たちを、始めは激しく迫害していたのです。
彼は、主の弟子たちを脅迫し、殺そうとまでしていました。
パウロは大祭司から、キリストに従う者を迫害する許可を得て、迫害の息をはずませて、ダマスコへ向かっていました。
そこでキリストに従う者たちを、男女の別なく縛り上げてエルサレムへ連行するためでした。
パウロがこの時期に、どれほど激しい迫害をしていたのかは、パウロが自分自身で、手紙の中で言及している箇所が何箇所かあるので、そこから私たちは知ることができます。
ガラテヤの信徒への手紙の1章13節(Galatian 1:13)には次のように書かれています。
あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。
パウロは、神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとまでしていたのです。そしてそのことを通して、パウロは自分は熱心に神に仕えていると信じていました。
そのことが、ガラテヤの同じ箇所、次の節1章14節に書かれていることから分かります。
また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。
パウロは、“自分はとても熱心だったのだ”と言っています。
しかし、“ユダヤ教に徹しようとしていた”、“先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心だった”という言葉の意味を深く考えると、パウロが、主なる神への愛と誠の心というよりも、彼自身の熱心さのほうに重点をおいていたことが、推測できないでしょうか。
見た目には熱心な信仰者に見えても、彼(パウロ)は神の御愛と憐れみ、神から来る喜びの中には生きていなかったということが、想像できるのではないでしょうか。
そしてそのことに、パウロの内面は実は苦しんでいた、という可能性もあると私は思うのです。
そのようなパウロが、キリストに従う者たちへの迫害の息を弾ませながら、いよいよ目的地であるダマスコに近づいたとき、天からの光が彼を照らしました。
パウロは地に倒れました。そしてある声がパウロに聞こえました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。それはイエス・キリストの声でした。
その声は「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と言いました。
イエス様は、「わたしを迫害するのをやめなさい」とは言わず、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか?」と疑問形でパウロに問いかけたのです。
それはパウロ自身の内面をパウロ自身が見つめ直すようにと促すお言葉でした。
「なぜ、あなたはわたしを迫害するのか。そうしている、あなたの動機は何なのか?何があなたを突き動かしているのか?」とイエス様の声はパウロに問いかけたのです。
このように、イエス様に出会うとは、私たちが自分自身に向き合わされる経験となるのです。
私たちは今も御言葉を通してイエス様と出会い、そしてイエス様に問いかけられながら、自分自身に向き合わされます。
イエス様に問いかけられながら、イエス様と霊的に(祈りを通して)対話しながら、私たちは、“私は本当は何を望んでいるのか”、“私は一体何者であるのか”ということを、私たちは深く考えさせれ、知っていくのです。
パウロがこの時、どのように彼自身に向き合ったのかは分かりません。この後パウロは目が見えなくなります。
そして今日の箇所の後の箇所では、パウロがアナニアという人によって目を再び開けられ、それからイエス様のことを熱心に宣教する伝道者に変わったことが伝えられています。
その時パウロはキリストの迫害者から、熱心にキリストを伝道する者へと一瞬にして変えられたような印象を私達は受けるかもしれません。
しかしそのような変化は、実はパウロがキリストに従う者たちを迫害している中で、彼の中で徐々に起きていたのではないか、と私は考えています。
キリストに従う者たち、主の道を歩んで生きる者たちの姿を見て、彼らを迫害しながらも実はパウロの中で、“イエス・キリストこそが神の子であり、真の神その人である”、という信仰が生まれる素地は、生まれつつあったのではないでしょうか。
パウロは、生きている時のイエス様とは会ったことがありませんでした。しかし、キリストに従う者たちの生き方を見ることによって、パウロはイエス様と出会っていたと言えます。
今日の箇所の前の箇所の使徒言行録の7章に、ステファノという人が殉教(キリストを伝道したために、殺されること)した時の話が記されています。
ステファノはキリストを宣教することで、人々からどれほど反対され憎悪されても、彼らを憎み返すことはしませんでした。
人々はステファノに激しく怒り、ステファノに次々と石を投げつけて殺してしまいました。
その時ステファノはこう言いました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7章60節)。
その場にはパウロもいました。パウロはステファノを殺すことに賛成していた、と書かれています。(使徒言行録8章1節)
パウロが、ステファノが処刑されるその様子をどんな思いで見ていたのかは聖書には書かれていません。
しかし、死にゆくなかで、自分に石を投げつける人たちのことを「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈るステファノの言葉と姿にパウロの心は激しく揺れたのではないでしょうか。
ステファノ以外にも、パウロが迫害した他の信仰者たちの姿から、パウロは何かを感じ、彼は知らず知らずに徐々に変えられ始めていたのではないでしょうか。
イエス様がパウロに「なぜ、わたしを迫害するのか」と問いかけたとき、パウロはステファノの死にゆく姿や、ステファノの処刑に賛成していた自分自身について、その他いろいろなことを思い出し、考えさせられたのだと思います。
パウロは人一倍ユダヤ教の教えと実践には熱心でした。しかし、パウロは神の本質である、神の御愛と神の赦しについては知らなかったことに気づかされたのではないでしょうか。
パウロはその声に問いかけます。「主よ、あなたはどなたですか」
パウロは、そのお方がイエス様だと分かっていたでしょう。パウロが聞いたのは「神であるあなたは、私の命とどういう関わりがあるお方なのですか」という本質的な問いだったのだと、思います。
私たちも主の言葉を聞く時、「あなたはどなたですか?」、「あなたは、今わたしの命とどのように関わってくださっているのですか」と問いかけることが許されています。
パウロのように、天から光が射して声が聞こえるような劇的な経験をすることは、通常私たちにはないでしょう。
しかし聖書の御言葉を通して、また神様は他の人々や様々な状況を通しても、私たちに語ってくださることがあります。
その時私たちは、「あなたはどなたですか」、「わたしはどうすればよいのでしょうか」と問いかけながら、その度に示される道を一歩一歩、進んでいきたいと願います。
パウロはこの後目が見えなくなります。人々に手を引かれて、彼はダマスコに連れていかれました。
そこでパウロは三日間目が見えず、そして食べることも飲むこともしなかった、と書かれています。
今日の箇所は、キリストの伝道者、しかもユダヤ人の枠を越えた異邦人(外国人)への福音宣教者に後になるパウロが、新しく生まれ変わったという意味で、大変重要な箇所です。
パウロはキリストの宣教者としてそれから大きな働きをするようになりました。
しかしパウロがそれより以前には、キリストに従う者たちを激しく迫害(殺害さえ)していたという事実は、それ以降も変わらない事実としてパウロに付きまとったでしょう。
しかしそれが神の御計画でした。神は人間の目からみて相応しい、適任だと思える人ばかりを福音伝道の働きに用いられるとは限らないのです。
むしろパウロのような、キリストの伝道者となるには、あまりにも都合が悪い過去(ハンディキャップ)を抱えたような者が、神によって選ばれたのです。
パウロが福音伝道をしようとしても、多くの人たちから「あなたは今までキリストに従う者を、あんなにひどく迫害していたではないか」と言って反発された(恐れられた)と思います。
パウロはそのような声に向き合いながら、また自分自身の過去と罪にもしっかりと向き合いながら、神の愛と赦しを確信していったのです。
つまりパウロは、キリストの迫害者であった彼が神に選ばれて、神に赦された喜びをもって、キリストの伝道者となっていったのです。
そして彼の思いをはるかに超えた神の大きなご計画の中で、イエス・キリストの福音を伝道する者になるように自分は召されたのだ、ということをパウロは増々確信していったのでしょう。
私たちも、キリストに出会うことで、キリストの言葉に問いかけられることで、自分自身に向き合います。
それにより、できれば向き合いたくないような自分の内面、自分の罪にも向き合わされることになるかもしれません。
しかし、そのような過程を経てこそ、私たちはイエス様が十字架の上で、この私の罪を贖うために本当に死んでくださった、だから私は罪赦されたという確信と喜びに至るのです。
イエス様から与えられるその信仰に基づき、私たちは自分自身にもしっかりと向かいつつ、そして罪赦された喜びと感謝をもって、キリストに従う道をこれからも共に歩んでまいりましょう。
主の祈り
賛美 新生讃美歌261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 使徒言行録9章1~9節
祈祷
宣教 「パウロの回心」
祈祷
賛美 新生讃美歌563番 すべての恵みの
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
新約聖書は、4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)、そして今日の聖書箇所である『使徒言行録Acts』、それに続く幾つかの手紙形式の書、そして「ヨハネの黙示録」という書から成り立っています。
新約聖書の中の手紙の部分の多くを書いたのが、パウロでした。そのパウロが、今日の聖書箇所に出てくるサウロです。パウロとサウロは同一人物です。
今日の箇所の初めに次のように書かれています。
1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
“主の弟子とは、イエス・キリストに従う者たちです。この時イエス様は既に殺されて、そして復活して、天に昇っていかれた後でした。
イエス様が天に昇って行かれた後、主の聖霊がイエス様の弟子たちに降り、弟子たちは聖霊によって力を受けました。
そして弟子たちは、“イエス・キリストが神であること”、“キリスト以外に人の救いはない”ということを力強く伝道していくようになりました。
聖霊によって力を受けた弟子たちによる伝道活動が、この「使徒言行録」に詳しく記されています。
後にキリストの伝道者となって、新約聖書に含まれている手紙の多くを書くようになったパウロは、イエス・キリストの教えに従う者たちを、始めは激しく迫害していたのです。
彼は、主の弟子たちを脅迫し、殺そうとまでしていました。
パウロは大祭司から、キリストに従う者を迫害する許可を得て、迫害の息をはずませて、ダマスコへ向かっていました。
そこでキリストに従う者たちを、男女の別なく縛り上げてエルサレムへ連行するためでした。
パウロがこの時期に、どれほど激しい迫害をしていたのかは、パウロが自分自身で、手紙の中で言及している箇所が何箇所かあるので、そこから私たちは知ることができます。
ガラテヤの信徒への手紙の1章13節(Galatian 1:13)には次のように書かれています。
あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。
パウロは、神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとまでしていたのです。そしてそのことを通して、パウロは自分は熱心に神に仕えていると信じていました。
そのことが、ガラテヤの同じ箇所、次の節1章14節に書かれていることから分かります。
また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。
パウロは、“自分はとても熱心だったのだ”と言っています。
しかし、“ユダヤ教に徹しようとしていた”、“先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心だった”という言葉の意味を深く考えると、パウロが、主なる神への愛と誠の心というよりも、彼自身の熱心さのほうに重点をおいていたことが、推測できないでしょうか。
見た目には熱心な信仰者に見えても、彼(パウロ)は神の御愛と憐れみ、神から来る喜びの中には生きていなかったということが、想像できるのではないでしょうか。
そしてそのことに、パウロの内面は実は苦しんでいた、という可能性もあると私は思うのです。
そのようなパウロが、キリストに従う者たちへの迫害の息を弾ませながら、いよいよ目的地であるダマスコに近づいたとき、天からの光が彼を照らしました。
パウロは地に倒れました。そしてある声がパウロに聞こえました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。それはイエス・キリストの声でした。
その声は「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と言いました。
イエス様は、「わたしを迫害するのをやめなさい」とは言わず、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか?」と疑問形でパウロに問いかけたのです。
それはパウロ自身の内面をパウロ自身が見つめ直すようにと促すお言葉でした。
「なぜ、あなたはわたしを迫害するのか。そうしている、あなたの動機は何なのか?何があなたを突き動かしているのか?」とイエス様の声はパウロに問いかけたのです。
このように、イエス様に出会うとは、私たちが自分自身に向き合わされる経験となるのです。
私たちは今も御言葉を通してイエス様と出会い、そしてイエス様に問いかけられながら、自分自身に向き合わされます。
イエス様に問いかけられながら、イエス様と霊的に(祈りを通して)対話しながら、私たちは、“私は本当は何を望んでいるのか”、“私は一体何者であるのか”ということを、私たちは深く考えさせれ、知っていくのです。
パウロがこの時、どのように彼自身に向き合ったのかは分かりません。この後パウロは目が見えなくなります。
そして今日の箇所の後の箇所では、パウロがアナニアという人によって目を再び開けられ、それからイエス様のことを熱心に宣教する伝道者に変わったことが伝えられています。
その時パウロはキリストの迫害者から、熱心にキリストを伝道する者へと一瞬にして変えられたような印象を私達は受けるかもしれません。
しかしそのような変化は、実はパウロがキリストに従う者たちを迫害している中で、彼の中で徐々に起きていたのではないか、と私は考えています。
キリストに従う者たち、主の道を歩んで生きる者たちの姿を見て、彼らを迫害しながらも実はパウロの中で、“イエス・キリストこそが神の子であり、真の神その人である”、という信仰が生まれる素地は、生まれつつあったのではないでしょうか。
パウロは、生きている時のイエス様とは会ったことがありませんでした。しかし、キリストに従う者たちの生き方を見ることによって、パウロはイエス様と出会っていたと言えます。
今日の箇所の前の箇所の使徒言行録の7章に、ステファノという人が殉教(キリストを伝道したために、殺されること)した時の話が記されています。
ステファノはキリストを宣教することで、人々からどれほど反対され憎悪されても、彼らを憎み返すことはしませんでした。
人々はステファノに激しく怒り、ステファノに次々と石を投げつけて殺してしまいました。
その時ステファノはこう言いました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7章60節)。
その場にはパウロもいました。パウロはステファノを殺すことに賛成していた、と書かれています。(使徒言行録8章1節)
パウロが、ステファノが処刑されるその様子をどんな思いで見ていたのかは聖書には書かれていません。
しかし、死にゆくなかで、自分に石を投げつける人たちのことを「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈るステファノの言葉と姿にパウロの心は激しく揺れたのではないでしょうか。
ステファノ以外にも、パウロが迫害した他の信仰者たちの姿から、パウロは何かを感じ、彼は知らず知らずに徐々に変えられ始めていたのではないでしょうか。
イエス様がパウロに「なぜ、わたしを迫害するのか」と問いかけたとき、パウロはステファノの死にゆく姿や、ステファノの処刑に賛成していた自分自身について、その他いろいろなことを思い出し、考えさせられたのだと思います。
パウロは人一倍ユダヤ教の教えと実践には熱心でした。しかし、パウロは神の本質である、神の御愛と神の赦しについては知らなかったことに気づかされたのではないでしょうか。
パウロはその声に問いかけます。「主よ、あなたはどなたですか」
パウロは、そのお方がイエス様だと分かっていたでしょう。パウロが聞いたのは「神であるあなたは、私の命とどういう関わりがあるお方なのですか」という本質的な問いだったのだと、思います。
私たちも主の言葉を聞く時、「あなたはどなたですか?」、「あなたは、今わたしの命とどのように関わってくださっているのですか」と問いかけることが許されています。
パウロのように、天から光が射して声が聞こえるような劇的な経験をすることは、通常私たちにはないでしょう。
しかし聖書の御言葉を通して、また神様は他の人々や様々な状況を通しても、私たちに語ってくださることがあります。
その時私たちは、「あなたはどなたですか」、「わたしはどうすればよいのでしょうか」と問いかけながら、その度に示される道を一歩一歩、進んでいきたいと願います。
パウロはこの後目が見えなくなります。人々に手を引かれて、彼はダマスコに連れていかれました。
そこでパウロは三日間目が見えず、そして食べることも飲むこともしなかった、と書かれています。
今日の箇所は、キリストの伝道者、しかもユダヤ人の枠を越えた異邦人(外国人)への福音宣教者に後になるパウロが、新しく生まれ変わったという意味で、大変重要な箇所です。
パウロはキリストの宣教者としてそれから大きな働きをするようになりました。
しかしパウロがそれより以前には、キリストに従う者たちを激しく迫害(殺害さえ)していたという事実は、それ以降も変わらない事実としてパウロに付きまとったでしょう。
しかしそれが神の御計画でした。神は人間の目からみて相応しい、適任だと思える人ばかりを福音伝道の働きに用いられるとは限らないのです。
むしろパウロのような、キリストの伝道者となるには、あまりにも都合が悪い過去(ハンディキャップ)を抱えたような者が、神によって選ばれたのです。
パウロが福音伝道をしようとしても、多くの人たちから「あなたは今までキリストに従う者を、あんなにひどく迫害していたではないか」と言って反発された(恐れられた)と思います。
パウロはそのような声に向き合いながら、また自分自身の過去と罪にもしっかりと向き合いながら、神の愛と赦しを確信していったのです。
つまりパウロは、キリストの迫害者であった彼が神に選ばれて、神に赦された喜びをもって、キリストの伝道者となっていったのです。
そして彼の思いをはるかに超えた神の大きなご計画の中で、イエス・キリストの福音を伝道する者になるように自分は召されたのだ、ということをパウロは増々確信していったのでしょう。
私たちも、キリストに出会うことで、キリストの言葉に問いかけられることで、自分自身に向き合います。
それにより、できれば向き合いたくないような自分の内面、自分の罪にも向き合わされることになるかもしれません。
しかし、そのような過程を経てこそ、私たちはイエス様が十字架の上で、この私の罪を贖うために本当に死んでくださった、だから私は罪赦されたという確信と喜びに至るのです。
イエス様から与えられるその信仰に基づき、私たちは自分自身にもしっかりと向かいつつ、そして罪赦された喜びと感謝をもって、キリストに従う道をこれからも共に歩んでまいりましょう。
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