2025年4月13日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書53章3節
賛美 新生讃美歌 232番 カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
賛美 新生讃美歌 230番 丘の上に立てる十字架
献金
聖句 マルコによる福音書15章16~32節
祈祷
宣教 「ののしられる救い主」
祈祷
賛美 新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷
後奏
歓迎・案内
キリスト教では、天地と世界のすべてのものをお造りになった神が人なったこと、すなわち父なる神が御子イエス・キリストとして、この世界に生まれてこられたと、私たちは信じます。
イエス・キリストが人としてお生まれになったことを記念し、お祝いするのがクリスマス(降誕節)です。プロテスタント教会の伝統では、私たちは毎年12月25日にクリスマスを記念します。
イエス・キリストの誕生は、人々が待ちわびていた大きな希望の到来でした。
神様からの真の希望、真の光であるお方が世に生まれたことを感謝し、喜ぶために、教会ではクリスマスをとても大切にしています。
そしてキリスト教会は、イエス・キリストが死んだ後に復活したことを記念する「復活祭(イースター)」も、とても重要な記念日として、大切に守ってきました。
今週(4月13日~19日)は「受難週」(Passion Week, or Holy Week)と呼ばれる一週間です。受難週は、復活祭(イースター)の日曜日の前の一週間を指します。
クリスマスとは違い、イースターの日付は毎年変わります。春分の日とその後の満月の日の関係によって、イースターの日曜日が決定されるのです。今年は4月20日(日)がイースターです。
キリストが復活したこと(死からよみがえられたということ)は、それは多くの人には、常識的にはとても信じられない、ばかばかしい話とさえ聞こえる出来事かもしれません。
しかし、キリストが死から復活したからこそ、イエス・キリストの福音は、大きな希望と喜びの知らせとして人々に信じられ、その知らせが世界中に伝えられるようになりました。
主イエス・キリストは復活したのです。では、復活の前、イエス・キリストはどのように死んだのでしょうか。
皆さんご存じであると思いますが、イエス様は十字架刑という死刑(当時、約2000年前のローマ帝国の支配地域で最も残酷と言われた処刑方法)によって死にました。
イエス様が、最も重い十字架刑を受けたということは、その刑に相当する重大な犯罪をイエス様が犯したのだ、と普通は考えられます。
では、イエス様はどのような罪を犯したので、十字架刑にかかったのでしょうか。
結論から言えば、イエス様は十字架刑に処せられねばならないような、どのような罪をも犯されませんでした。
聖書には、イエス様に十字架刑を最終的に宣告した権力者その人が、「わたしはこの人(イエス)には、何の罪も見いだせない」とはっきり述べた、ことが書かれています。
今日の聖書箇所はマルコ福音書の15章の箇所です。マルコ15章14節で、当時ユダヤの総督だったピラトが、「彼(イエス様)を十字架につけろ」と要求するユダヤ人たちに、「いったい(彼が)どんな悪事を働いたというのか」と聞いています。
イエス様を十字架につけろ、殺せ、と言って強く訴えたのは、当時のユダヤ教の指導者たち(祭司長や律法学者、ユダヤ議員の人たち)でした。
彼らは、イエス様を“神を冒涜する者”として訴え、そして実は、“多くの人々が、イエス様を信じイエス様に従うこと”に彼らは嫉妬したので、“この男(イエス)を殺せ”と主張するようになったのです。
そしてユダヤの指導者たちにつられて、段々と他の大勢の群衆も、“この男(イエス)を殺せ、十字架につけろ”という声に同調していった様子も、聖書に書かれた内容から想像することができます。
先ほどもそれに言及しましたが、総督のピラトは、”この男(イエス)を十字架につけろ“という人々の声に対して、次のように言っています。
「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。」
(ルカによる福音書23章22節)
ピラト自身は、イエスという人に、どんな罪をも見出すことはできませんでした。
しかしピラトは、イエス様を十字架につけることを最後は認めてしまいます。大勢の人々の声(要求)に最後は屈したのです。
ピラトは、何の罪もないとピラト自身信じている人に対して、死刑を宣告してしまったのです。
「この人は何も悪いことをしていない」とピラトは思い、そのように彼は言葉でも言いました。何がピラトにそのように言わせたのでしょうか。
人間には良心というものがあります。正しく物事を判断しようとする理性もあります。公正を求める心が私たちには備えられています。
それらは、いずれも神様から私たち人に与えられたものです。物事は正しくあるべきだ、という心、悪を憎み悪に対抗しようとするそのような心(良心)は、神様から私たちに与えられました。
そして、神から与えられたその良心が、ピラトに「この人(イエス)は何も悪いことはしていないのだ」と正しく判断をさせました。
しかし、「この人は何も悪いことをしていない」と、良心は人に伝えても、その良心、神の声に従って実際に行動できるかどうかは、また別の問題となります。
なぜなら、神から与えられた良心から私たちを引き放そうとする、悪の力と誘惑があるからです。私たち人間の弱さも、そこにはあります。
パウロという信仰者は、聖書の中で次のように言いました。
ローマの信徒への手紙7章15節
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
17節には、こう書かれています。
そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
何が正しいのか、どう行動すべきか、それは神から与えられた良心と、また神の愛の心によって、私たちに知らされます。
しかし、私たち自身の内に住む罪の性質のせいで、どうしてもそれに従うことができない、という葛藤が私たちにはあるのです。
ピラトは、良心という神からの声に聞きしたがうよりも、民衆の声に聞き従い、それによって総督としての自分の立場を無難に守ることをも優先して、無実の人を死刑にしてしまいました。
ピラトの行動が示すそのような弱さと罪、そしてローマの信徒への手紙でパウロが呻くようにして書き綴った人間の罪と悪の性質を、私たち自身も持っていることに、私たちは向き合わねばなりません。
その罪を私たちは、自分でなくすこと、処理することはできないのです。この罪は、私たち以外の、本当に強力で、しかも全く罪のないお方によって赦してもらわなくてはならないのです。
そのような私たちの罪を赦すために、イエス・キリストは十字架へと向かい、十字架の上で命を捨ててくださった、と聖書は伝えています。
16節からの今日の箇所には、兵士たちが総督官邸の中にイエス様を引いて行き、そこへ部隊全員が呼び集められたことが描かれています。
多くの兵士たちが集まった理由は何だったのでしょうか?それは、一緒になってイエス様をからかって、侮辱して楽しもうということでした。
彼らはイエス様に紫の服を着せた、と書かれています。紫の服は、王様としての威厳を表すものでした。そして金の冠の代わりに、彼らはイエス様に茨の冠を被せて侮辱しました。
紫の服を着せ、しかし金ではなくて茨の冠を被せて「こいつは偽物の王様なのだ!」と言って彼らはイエス様をからかったのです。
彼らは「ユダヤ人の王、万歳」と言ってイエス様に敬礼(するふりを)して、葦の棒でイエス様の頭をたたき、つばを吐きかけて、ひざまづいてイエス様を拝みさえしました。
イエス様を侮辱した兵士たちの姿から、”自分よりも立場の弱い人を侮辱したり攻撃したりして、その人よりも自分が優位であることを確認しようとする“という、私たち人の悪の性質と感情を、私たちは示されます。
真の神であるお方が、ここまで徹底的に人々からの侮辱とあざけりをお受けになりました。神が私たちの悪の性質、罪を一身になって受けてくださったということです。最後まで。
そして今日の箇所には、イエス様と一緒に二人の強盗も十字架にかけられたと、書かれています。
「彼は罪人のひとりに数えられた」と旧約聖書イザヤ書53章12節に書かれています。イエス様が他の犯罪人たちと一緒に十字架にかけられたのは、まさにその聖書の預言の成就であり、神の御心でした。
十字架にかけられたても、なお人々はイエス様を罵り続けました。今日の箇所の31~32節をお読みします。
31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。
32メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
「こいつは他人は救ったが、自分は救えない」と言う言葉がイエス様に投げつけられました。
イエス様は、ご自分を救おうと思えば、ご自分を救えたはずです。十字架から降りることなど、神がそう望むならば、イエス様には簡単にできたはずです。
しかし、“他人は救ったが、自分は救えない(救わない)”というお姿で、イエス様が何もいわずに十字架にかかり続けることが、私たち人の救いのためには必要であったのです。
私たちを救うため、イエス様は人々からの侮辱の限りの中に最後までとどまり続けてくださいました。
ご自分を救おうとはせず、私たち人のためにすべてを捨てて、全てを忍びとおし、私たち人を最後まで愛し通し、私たちを救おうとしてくださった方のお姿が、ここにあります。
「今すぐ十字架から降りるがよい。それを見たら、信じてやろう」~このような人々からの声を聞きながら、それでも主イエス・キリストは、十字架の上で、罪人の救いのためにその命をささげてくださいました。
そのお姿には、当時ユダヤの人々がずっと期待して待っていた救い主の姿はありませんでした。自分たちの国を支配している帝国を強い武力で打ち倒す英雄の姿はありませんでした。
そこには、十字架の上から自らおりて、兵士たちを打ち倒す強い男の姿はありませんでした。ただ何も言わず、十字架の上で苦しみ続ける人の姿だけがそこにありました。
私たちは、“救い主を十字架をつけ、そのお方をののしり続けた人々の姿”の中に、私たち自身の姿を重ね合わせなくてはなりません。
”イエス様を十字架につけたのは、この私だ、私たちだ“という思いと悔い改めに私たちは導かれていくのです。
そして神によって造られた人は、本来そのように行動すべきではない(すべきではなかった)、とも教えられるのです。
救い主キリストを私たちは十字架につけ、そのお方を侮辱してはならなかった、今もしてはならないのです。
受難週の今週、主イエス・キリストが十字架にかけられたその出来事に、そしてそこで人々から侮辱の限りをお受けになったことに、私たちは思いを向け続けましょう。
すべてに耐え、十字架の上で命を捨ててくださった主イエス・キリストによって、私たちは自分では処理することのできない罪を赦されたのです。
私たちの罪の赦しと救いの達成のために、主イエス・キリストが歩まれた苦難の、最後の一週間を心に刻み、今週の日々を私たちは歩んでまいりましょう。ss
2025年4月12日土曜日
2025年4月9日水曜日
2025年4月5日土曜日
2025年4月6日 主日礼拝
前奏
招詞 ルカによる福音書2章14節
賛美 新生讃美歌227番 カルバリの丘へと
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌230番 丘の上に立てる十字架
献金
聖句 詩編21篇14節
祈祷
宣教 「主なる神に栄光を」
祈祷
賛美 新生讃美歌213番 われらに伝えよ
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内
4月から始まる新しい年度(2025年度)最初の主日礼拝を、こうして私たち共に捧げることができる恵みを、私たちは感謝いたします。
本日の聖書の言葉は、次の詩編21篇14節(英語訳NIVでは13節)の御言葉です。
御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。
この聖句を、私たちの教会は、今年度(2025年度)の年間聖句として選びました。そして、この聖句と共に選ばれた年間主題は「全て主なる神の栄光のためにAll for the glory of the Lord God.」です。
私たちの祈りと話し合いによって、この聖句と主題が私たちに与えられたことの意義を、私たちは吟味したいと願います。
神をあがめること、私たちの主であるお方の御名をあがめ、賛美することは、信仰者の生きる目的そのものです。
私たちは何かを崇(あが)めて生きていく者です。自分自身の中で何かが一番大切なもの、すなわち生きる目的となり、それを求めて(あがめて)私たちは生きていきます。
様々なものが、私たちによってあがめられる対象となります。色々なものが、私たちが日々生きる目的となり得ます。
より多くの物を所有すること、あるいは社会的地位やお金、成功、あるいはどれだけ自分に能力や才能があるかなど、それらも私たちが生きる目的となり得ます。
しかし、聖書は言うのです。「主こそが、あがめられますように」、「私たちは、主なる神をこそ、あがめて生きよう」
イエス・キリストはご自分の弟子たちに、祈りの言葉を教えてくださいました。
イエス様の弟子たちが、「わたしたちに祈りを教えてください」(ルカ11:1)と願ったとき、イエス様は彼らに祈りの言葉を教えました。
その時イエス様が弟子たちに教えた祈りの言葉がもととなって、今私たちが礼拝で祈る「主の祈り」となっています。
主の祈りの最初の言葉は次の言葉です。
天にまします われらの父よ 御名をあがめさせたまえ
天におられるお方、この世界のすべてをお造りになったお方が、私たちの父(神)であることを、主の祈りの初めの言葉で私たちは確認します。
“父”とは、神が男性という意味ではありません。神は人間の性別を超越しておられるお方です。
それに続いて、“父なる神の御名があがめられます(聖なるものとされます)ように”、と主の祈りの言葉は続きます。
神様の御名があがめられますように、聖なるものとされますように、という言葉を祈りの言葉として最初に唱えなさい、とイエス様は弟子たちに最初に教えになりました。
それは、“神様の御名が私たちに与えられていることが、どれほど特別なことであるか認めて、私たちはそのお方(神)をほめたたえよう”、という促しです。
言葉には、内実(中身)が伴わなくてはなりません。今イエス・キリストを信じる信仰者であっても、神をあがめることをせず(聖なるものとせず)、自分が自分の中心に居座ったままで主の祈りを唱えることがあり得ます。
それでも、イエス様が教えてくださった祈りの言葉、聖書に基づいた私たちの祈りの言葉は、私たちの信仰を形作るのに、大変重要です。
「主の御名があがめられますように」、「私たちは主をあがめよう」と言っても、心の奥底では、まだ私たちは自分が自分の王様であり主となっているかもしれません。
しかし、そのような罪(神を神とせず、自分やそれ以外の何かを神とするような罪)を抱えつつ、私たちは“主があがめられますように”という言葉が、本当に私たちの本当の祈りの言葉となるように、と常に願って信仰生活を送っていきたいと願います。
詩編21篇14節(NIV 21:13)では、 “御力を表される主をあがめよbe exalted in your strength, Lord”と言われ、主なる神が力あるお方であると書かれています。
私たちの主なる神は、どのようにしてその力を表すお方でしょうか。
今私たちは、イエス・キリストが、私たち人の罪を赦すために十字架にかかって死ぬため、十字架への道を自ら歩まれたことを特に覚える受難節(レント)の時を過ごしています。
イエス様はユダヤの地で生きて、伝道活動をしておられた時、数々の力ある業をなさいました。病気の人々を癒し、悪霊に憑(つ)かれた人たちから悪霊を追い出しました。
イエス様は嵐を静めることさえなさいました。それらもイエス様がお示しになった力ある業です。
しかし、イエス・キリストが私たちにお示しにあった究極の力ある業は、それは全ての人の罪を背負い、まったく罪のなかったご自身を十字架の上で捧げられた、その犠牲の御業でした。
イエス様は、最期はもう何も言わずに、ただ黙って十字架を背負わされ、ご自分が処刑される場へと引かれていきました。
その十字架の主イエス・キリストは、私たちが普通に考える“強さ”の像(イメージ)とは、まったく相容れないお姿です。
しかし、私たちが、自らを低くして、十字架の主イエス・キリストを信仰の目によって見上げるとき、そこにこそ神の真の力があることを私たちは知ります。
イエス・キリストが、あらゆる悪の力、死の力に打ち勝った、究極の力の御業が十字架の上でこそ現わされたのです。
十字架の上のイエス・キリストが、私たちの罪、私たちの弱さ、欠け、それらすべてを背負ってくださっています。
ですから、私たちは罪赦された者として、大きな喜びをもって、主なる神を崇める生き方へと導かれるのです。神を喜び、神を賛美する生き方へと私たちは招かれるのです。
聖書は“いかなる人も神の前に自分で正しい人、義なる人はいない”と伝えます。私たち誰もが、欠けと弱さのある罪人だと伝えます。
そんな私たちが主イエス・キリストの名によって集まり、イエス・キリストを賛美、礼拝するという恵みを与えられています。
その点において、キリスト教会は本当に特別な宝を頂いている、と言うことができます。
主をあがめることができる恵み、そのような宝を頂いていることを、私たちは共に喜ぼうではありませんか。
詩編21編は、前の詩編20篇の続きであると考えられています。詩編20篇では、王が戦いで勝利することが願われています。
そして続く21編は、その祈りと願いがかなえられたことを感謝し、神をほめたたえる内容となっている、と読むことができます。
詩編20篇7節(6節 NIV)には、「主は油注がれた方に勝利を授け」The LORD gives victory to his anointed と書かれ、20篇10節(9 NIV)には、「主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください」LORD, give victory to the king! Answer us when we callと書かれています。
そのように、王の勝利を願う内容でありながら、その勝利を王にお与えになるのは、主なる神であることが、これらの詩編では唄われています。
20編8節 (20:7 NIV)には次のように書かれています。
戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。
王が勝利することができるのは、王自身の力や、戦車や馬の力によってではない、というのです。“勝利を賜るのは、主なる神である”と、ここで告白されています。
そして21編2節(1節NIV)では、このように書かれています。
「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い 御救いのゆえに喜び踊る」
21編8節(21:7NIV)では、このように書かれています。
王は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ/決して揺らぐことがない。
私たちの主なる神は、私たちが常に依り頼むことができるお方です。主なる神は私たちに愛と慈しみを与えてくださるお方です。
そして、自分たちの王に勝利(成功)が与えられても、その勝利(成功)の源は主なる神であり、“王が勝利に慢心することなく、常に主なる神を称えますように”という願いが、この詩編の言葉には表れています。
そして王も民も、すべての者が主なる神の前にへりくだり、自分たちや自分たちの王を崇めるのではなく、主なる神のみを崇めることが出来ますように、と言う願いもここに現わされています。
それは、勝利(成功)の栄光を、自分たちのものとしてしまうことなく、勝利の栄光を主なる神にお返しできますように、という彼らの信仰の願いです。
主の力ある御業によって守られ、勝利を与えられた人が、自分自身を誇って自分に栄光を帰することなく、主なる神に全ての栄光をお返しできますように、という信仰を、私たちも大切にしていきたいと願います。
そして今日の聖句、そして今年度の私たちの年間聖句は、「力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう」we will sing and praise your might.と言って続いています。
神の愛の御業によって励まされることで、私たちには主を賛美する歌が与えられるのだ、とここから示されます。
通常、礼拝メッセージの後の讃美歌は、“応答讃美歌”と呼ばれます。それは直接的には、その日語られた神のメッセージ(恵み)への応答、という意味です。
しかし、今日の聖句から、私たちの賛美は、私たちのために既に成し遂げられた神の偉大な御業への応答と言う意味で、私たちの賛美は全てが“応答賛美”であるのだと、私たちは教えられます。
神をたたえる賛美の歌も、それは私たち自身の中から出て来るのではないのです。
神の力ある御業、愛の御業が先にあって、それらへの感謝の応答という形でのみ、私たちは賛美の歌をささげることができるのです。
私たちに、真の神の御名が、私たちが心からあがめ褒め称えるお方の名として与えられていることを、私たちは喜びましょう。
そして神の力ある御業、愛と憐れみの御業、私たちが十字架の主イエス・キリストによって罪赦されたという純粋な喜びが、私たちが賛美する動機となりますように、と願いつつ、私たちは常に主の前にへりくだりましょう。
私たちの語る言葉、私たちの行い、全てが主なる神への感謝となり、主なる神へ栄光をお返しするものとなりますように、私たちは願いつつ、新しい年度も信仰生活を共におくってまいりましょう。
前奏
招詞 ルカによる福音書2章14節
賛美 新生讃美歌227番 カルバリの丘へと
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌230番 丘の上に立てる十字架
献金
聖句 詩編21篇14節
祈祷
宣教 「主なる神に栄光を」
祈祷
賛美 新生讃美歌213番 われらに伝えよ
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内
4月から始まる新しい年度(2025年度)最初の主日礼拝を、こうして私たち共に捧げることができる恵みを、私たちは感謝いたします。
本日の聖書の言葉は、次の詩編21篇14節(英語訳NIVでは13節)の御言葉です。
御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。
この聖句を、私たちの教会は、今年度(2025年度)の年間聖句として選びました。そして、この聖句と共に選ばれた年間主題は「全て主なる神の栄光のためにAll for the glory of the Lord God.」です。
私たちの祈りと話し合いによって、この聖句と主題が私たちに与えられたことの意義を、私たちは吟味したいと願います。
神をあがめること、私たちの主であるお方の御名をあがめ、賛美することは、信仰者の生きる目的そのものです。
私たちは何かを崇(あが)めて生きていく者です。自分自身の中で何かが一番大切なもの、すなわち生きる目的となり、それを求めて(あがめて)私たちは生きていきます。
様々なものが、私たちによってあがめられる対象となります。色々なものが、私たちが日々生きる目的となり得ます。
より多くの物を所有すること、あるいは社会的地位やお金、成功、あるいはどれだけ自分に能力や才能があるかなど、それらも私たちが生きる目的となり得ます。
しかし、聖書は言うのです。「主こそが、あがめられますように」、「私たちは、主なる神をこそ、あがめて生きよう」
イエス・キリストはご自分の弟子たちに、祈りの言葉を教えてくださいました。
イエス様の弟子たちが、「わたしたちに祈りを教えてください」(ルカ11:1)と願ったとき、イエス様は彼らに祈りの言葉を教えました。
その時イエス様が弟子たちに教えた祈りの言葉がもととなって、今私たちが礼拝で祈る「主の祈り」となっています。
主の祈りの最初の言葉は次の言葉です。
天にまします われらの父よ 御名をあがめさせたまえ
天におられるお方、この世界のすべてをお造りになったお方が、私たちの父(神)であることを、主の祈りの初めの言葉で私たちは確認します。
“父”とは、神が男性という意味ではありません。神は人間の性別を超越しておられるお方です。
それに続いて、“父なる神の御名があがめられます(聖なるものとされます)ように”、と主の祈りの言葉は続きます。
神様の御名があがめられますように、聖なるものとされますように、という言葉を祈りの言葉として最初に唱えなさい、とイエス様は弟子たちに最初に教えになりました。
それは、“神様の御名が私たちに与えられていることが、どれほど特別なことであるか認めて、私たちはそのお方(神)をほめたたえよう”、という促しです。
言葉には、内実(中身)が伴わなくてはなりません。今イエス・キリストを信じる信仰者であっても、神をあがめることをせず(聖なるものとせず)、自分が自分の中心に居座ったままで主の祈りを唱えることがあり得ます。
それでも、イエス様が教えてくださった祈りの言葉、聖書に基づいた私たちの祈りの言葉は、私たちの信仰を形作るのに、大変重要です。
「主の御名があがめられますように」、「私たちは主をあがめよう」と言っても、心の奥底では、まだ私たちは自分が自分の王様であり主となっているかもしれません。
しかし、そのような罪(神を神とせず、自分やそれ以外の何かを神とするような罪)を抱えつつ、私たちは“主があがめられますように”という言葉が、本当に私たちの本当の祈りの言葉となるように、と常に願って信仰生活を送っていきたいと願います。
詩編21篇14節(NIV 21:13)では、 “御力を表される主をあがめよbe exalted in your strength, Lord”と言われ、主なる神が力あるお方であると書かれています。
私たちの主なる神は、どのようにしてその力を表すお方でしょうか。
今私たちは、イエス・キリストが、私たち人の罪を赦すために十字架にかかって死ぬため、十字架への道を自ら歩まれたことを特に覚える受難節(レント)の時を過ごしています。
イエス様はユダヤの地で生きて、伝道活動をしておられた時、数々の力ある業をなさいました。病気の人々を癒し、悪霊に憑(つ)かれた人たちから悪霊を追い出しました。
イエス様は嵐を静めることさえなさいました。それらもイエス様がお示しになった力ある業です。
しかし、イエス・キリストが私たちにお示しにあった究極の力ある業は、それは全ての人の罪を背負い、まったく罪のなかったご自身を十字架の上で捧げられた、その犠牲の御業でした。
イエス様は、最期はもう何も言わずに、ただ黙って十字架を背負わされ、ご自分が処刑される場へと引かれていきました。
その十字架の主イエス・キリストは、私たちが普通に考える“強さ”の像(イメージ)とは、まったく相容れないお姿です。
しかし、私たちが、自らを低くして、十字架の主イエス・キリストを信仰の目によって見上げるとき、そこにこそ神の真の力があることを私たちは知ります。
イエス・キリストが、あらゆる悪の力、死の力に打ち勝った、究極の力の御業が十字架の上でこそ現わされたのです。
十字架の上のイエス・キリストが、私たちの罪、私たちの弱さ、欠け、それらすべてを背負ってくださっています。
ですから、私たちは罪赦された者として、大きな喜びをもって、主なる神を崇める生き方へと導かれるのです。神を喜び、神を賛美する生き方へと私たちは招かれるのです。
聖書は“いかなる人も神の前に自分で正しい人、義なる人はいない”と伝えます。私たち誰もが、欠けと弱さのある罪人だと伝えます。
そんな私たちが主イエス・キリストの名によって集まり、イエス・キリストを賛美、礼拝するという恵みを与えられています。
その点において、キリスト教会は本当に特別な宝を頂いている、と言うことができます。
主をあがめることができる恵み、そのような宝を頂いていることを、私たちは共に喜ぼうではありませんか。
詩編21編は、前の詩編20篇の続きであると考えられています。詩編20篇では、王が戦いで勝利することが願われています。
そして続く21編は、その祈りと願いがかなえられたことを感謝し、神をほめたたえる内容となっている、と読むことができます。
詩編20篇7節(6節 NIV)には、「主は油注がれた方に勝利を授け」The LORD gives victory to his anointed と書かれ、20篇10節(9 NIV)には、「主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください」LORD, give victory to the king! Answer us when we callと書かれています。
そのように、王の勝利を願う内容でありながら、その勝利を王にお与えになるのは、主なる神であることが、これらの詩編では唄われています。
20編8節 (20:7 NIV)には次のように書かれています。
戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。
王が勝利することができるのは、王自身の力や、戦車や馬の力によってではない、というのです。“勝利を賜るのは、主なる神である”と、ここで告白されています。
そして21編2節(1節NIV)では、このように書かれています。
「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い 御救いのゆえに喜び踊る」
21編8節(21:7NIV)では、このように書かれています。
王は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ/決して揺らぐことがない。
私たちの主なる神は、私たちが常に依り頼むことができるお方です。主なる神は私たちに愛と慈しみを与えてくださるお方です。
そして、自分たちの王に勝利(成功)が与えられても、その勝利(成功)の源は主なる神であり、“王が勝利に慢心することなく、常に主なる神を称えますように”という願いが、この詩編の言葉には表れています。
そして王も民も、すべての者が主なる神の前にへりくだり、自分たちや自分たちの王を崇めるのではなく、主なる神のみを崇めることが出来ますように、と言う願いもここに現わされています。
それは、勝利(成功)の栄光を、自分たちのものとしてしまうことなく、勝利の栄光を主なる神にお返しできますように、という彼らの信仰の願いです。
主の力ある御業によって守られ、勝利を与えられた人が、自分自身を誇って自分に栄光を帰することなく、主なる神に全ての栄光をお返しできますように、という信仰を、私たちも大切にしていきたいと願います。
そして今日の聖句、そして今年度の私たちの年間聖句は、「力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう」we will sing and praise your might.と言って続いています。
神の愛の御業によって励まされることで、私たちには主を賛美する歌が与えられるのだ、とここから示されます。
通常、礼拝メッセージの後の讃美歌は、“応答讃美歌”と呼ばれます。それは直接的には、その日語られた神のメッセージ(恵み)への応答、という意味です。
しかし、今日の聖句から、私たちの賛美は、私たちのために既に成し遂げられた神の偉大な御業への応答と言う意味で、私たちの賛美は全てが“応答賛美”であるのだと、私たちは教えられます。
神をたたえる賛美の歌も、それは私たち自身の中から出て来るのではないのです。
神の力ある御業、愛の御業が先にあって、それらへの感謝の応答という形でのみ、私たちは賛美の歌をささげることができるのです。
私たちに、真の神の御名が、私たちが心からあがめ褒め称えるお方の名として与えられていることを、私たちは喜びましょう。
そして神の力ある御業、愛と憐れみの御業、私たちが十字架の主イエス・キリストによって罪赦されたという純粋な喜びが、私たちが賛美する動機となりますように、と願いつつ、私たちは常に主の前にへりくだりましょう。
私たちの語る言葉、私たちの行い、全てが主なる神への感謝となり、主なる神へ栄光をお返しするものとなりますように、私たちは願いつつ、新しい年度も信仰生活を共におくってまいりましょう。
2025年3月29日土曜日
2025年3月30日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書55章3節
賛美 新生讃美歌21番
主の祈り
賛美 新生讃美歌388番
献金
聖句 ヨハネの黙示録22章16~21節
祈祷
宣教 「主イエスよ、来てください」
祈祷
賛美 新生讃美歌301番
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
2024年度最後の主日礼拝を本日私たちは迎えました。(日本では一般的に4月から新しい年度が始まります)
今年度も神様の恵みの下で、私たちの教会が礼拝する、その信仰生活が守られてきたことを、私達は心から神様に感謝したいと願います。
今年度は「主の御言葉に立つ」という年間主題と共に、私たちの教会は信仰の歩みを続けてまいりました。
「主の御言葉に立つ」と言うと、何だか“私たち自身の意志と努力によって、聖書の御言葉の上に自分の足で立ち続けるように頑張る”、というように聞こえるかもしれません。
確かに、私たち自身が努力すべきという点は、信仰生活においても否定されるものではありません。
しかし、「主の御言葉に立つ」とは、私たちが努力をするというよりも、既に私たちに与えられた”主(神)の御言葉“という確かな土台を、まず確認することです。
そしてそれは、その確かな主の御言葉の上に立ち続ける、その土台の上で揺るぐことがない安心を私たちが頂くことができる、という恵みです。
私たちが私たちの生涯を通して常に拠り頼むことができる、その確かな土台である主の御言葉は、既に私たちに与えられています。
私たちの歩みを導く”主の御言葉“を常に聞いて、その御言葉を人生を導く指針として持つことで、私達は信仰の確かな道を、たとえゆっくりとであっても(そして時には迷いそうになっても)歩むことができるのです。
聖書の御言葉は神の言葉であり、私たちに霊的な励ましと力を与えます。
聖書の言葉がただ声に出して朗読され、それが複数の人たちに同時に聞かれるということだけでも、その言葉がとても特別に響く、ということがあり得ます。
イエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました。(マタイによる福音書18章20節)
イエス・キリストを信じる信仰者が二人でも、三人でも集まり、そこで聖書の御言葉、神の言葉が分かち合われるならば、そこに共にいると約束してくださったイエス様の霊が、その御言葉を特別なものとしてくださるのです。
わたしたちがイエス様の名によって集まるところ、そこに共にいてくださると言われたイエス様の約束を信じましょう。
常に御言葉の上に立ち、御言葉に支えられ導かれて、御言葉を共に分かちあって、御言葉が示す方向に向かって、私たちはこれからも共に歩んでいこうではありませんか。
今年度は一年間をかけて、主日礼拝のメッセージで聖書全体を旧約聖書の初めから私たちは分かちあってきました。
もちろん礼拝メッセージで実際に取り上げることが出来る箇所は、聖書全体のほんの一部ではありました。
しかし私たちは、「新旧約両聖書が両方とも、イエス・キリストを証している」、「聖書は確かに神のメッセージである」ことは確認できたと思います。
私たちは聖書全体から、「イエス・キリストの福音(良き知らせ)」を聞くのです。
今年度最終日曜日の今日の箇所は、聖書の一番最後の書である『ヨハネの黙示録』の最後の部分、22章16~21節です。
“黙示”とは、“隠されたものが明らかにされる”、すなわち“神の真理が明らかにされる”という意味です。
なぜ私たち人間が神について知ることができるのでしょうか。人間の側から神に到達し、神を知る知識を得ることはできません。
それにも関わらず、なぜ私たちが神を知ることができるのでしょうか。
それは神ご自身がイエス・キリストを通してご自身を私たちに現わしてくださったからです。神が人となって、この世界で人と共に生活されたからです。
イエス様は十字架にかかり死んで、そして復活なさいました。その後イエス様は「わたしは再び来る」という約束を残して天に昇っていかれました。
今イエス様は目には見えませんが、聖書の言葉を通して私たちはイエス・キリストのメッセージを聞き、分かち合うことができます。
聖書を通して私たちはイエス・キリストがどのようなお方かを知ることができます。
今日の16節に次のように書かれています。
16わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」
イエス様はご自分のことを「ダビデのひこばえ(枝、子孫の意味)」と言っています。ダビデとは旧約聖書に登場するイエスラエルの王様の名前です。
イスラエル民族にとってダビデ王は歴史的、また信仰的な英雄と言ってもよい人物です。
そしてイスラエル民族は聖書(旧約)の預言の言葉に基づいて、”ダビデの子孫から、やがて自分たちの救世主(メシア)が生まれる“と信じていました。
そしてその通り、イエス様はダビデ家の家系のヨセフを父としてこの世界に生まれてきました。
イエス様はご自分のことを「輝く明けの明星」と言っています。明けの明星とは、明け方に東の方で輝く金星のことです。
イエス様がここでご自分を「明けの明星」と言っておられるのは、“夜の後には必ず朝が来る。それもイエス・キリストの星(明けの明星)と共に新しい朝が来る”、と言う希望を意味します。
金星は位置的な関係で地球から夜には見えません。しかし見えなくても、もちろん金星は存在しています。そのように、私たちの目には見えなくてもイエス・キリストは確かにおられます。
そして私たちにはずっと続くような暗い夜のような時(辛く、悲しい時)も、かならずイエス様の光(星)を伴う新しい朝が来る、と私たちはイエス様のお言葉によって信じてよいのです。
17節の後半に次のように書かれています。
渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
“渇いている者”とは、霊的に渇いた人のことです。私たちは霊的に満たされなくては、常に心に渇きを覚えます。
人は本来神様からの霊を受けて、霊的に生きるものであるからです。旧約聖書の初めの『創世記』に、神が土の塵から人を造り、人に“息”を吹き入れることによって、人を生きる者にした、と書かれています。
その”息“とは”霊“という意味でもあります。人は神の霊を吹き入れられて生きる者となり、そして今も人が本当の意味で生きるには、神からの”霊”を常に頂く必要があるのです。
神からの霊を頂くことがなくては、私たちは霊的に渇き、常に満たされない、空虚で、そして不安定な状態に置かれます。
しかしイエス様は、だれも霊的に渇くことがないように、“渇いている者は誰でも、ご自分の与える命の水を”価なしに(無料で)“飲むことができる”、と約束してくださっているのです。
もし渇いているのならば、もし命の水が欲しいのならば、イエス様のところへ行きましょう。イエス様はいつでも「わたしのところへ来なさい」と言って、私たちを招き、私たちのことを待ってくださっています。
イエス様のところへ行く、とは具体的には聖書の御言葉を読む、教会に来て共に聖書の御言葉のメッセージを礼拝で聞く、他の信仰者と共に聖書を読み分かち合う、そして祈る、ということです。
イエス様のところへ行く道は開かれています。私たちの教会も、渇いた人を常にお迎えし、イエス様のところへ共に行くことができるように、教会の門を常に開いていたいと願います。
イエス様の招きにお応えし、私たち共にイエス様のところへ行き、御言葉という命の水、霊の糧を頂こうではありませんか。
今日の箇所には、私たちが真剣に聞くべき、非常に厳しいお言葉も書かれています。
18~19節をお読みします。
18この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
19また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
「この書物の預言の言葉」とは、広い意味で聖書全体の言葉を指す、と言えます。聖書は、神の霊感によって書かれた神の言葉です。
そして聖書の言葉一つ一つには、主イエス・キリストの十字架の重みがあります。私たち人の罪を背負って十字架にかかって死なれたイエス様が、聖書の言葉は確かに真実であり、聖書はご自分について証をする、と言っておられます。
その聖書言葉から、私たちが人間的な思いを勝手に付け加えたり、あるいは大切なことを勝手に取り去ったり、薄めてはいけない、とここで言われているのです。
確かに聖書の中には分かりにくい箇所、難しい箇所、あるいは現代の私たちの感覚で言えば受け入れがたいところなどがあります。しかし、聖書の言葉はいずれもイエス・キリストを通して、真剣に吟味されるべき神の言葉です。
繰り返しますが、聖書の御言葉は、私たちのために十字架の上で全てを捧げてくださったお方が、“この聖書は自分について証しをしているのだ”と言われた言葉であるからです。
牧師としての私の務めで最も大切なことは、聖書の御言葉を説き明かすことです。
それはただ「この言葉はこういう意味です」、「この箇所の歴史的背景はこういうことです」と内容を理論的、あるいは歴史的に説明することではありません(それも含みますが)。
そうではなく、聖書の言葉が、今この時私たちを生かす言葉となるように、聖書の言葉を語り直し、取り次ぐのが、牧師の役割であり、そしてまた私たち教会全体としての役割でもあるのです。
教会で聖書の御言葉が説き明かされ、聞く私たち一人ひとりがその御言葉を実生活の中で生きる時、聖書の言葉が私たちを通して世に向けて語り直されることになります。
その時聖書の言葉はまさに“生きた命の言葉”として、生き生きとした豊かなものとして、語られることになるのです。
そのような御言葉に生かされていることを私たちは喜び、また御言葉を豊かにいただき分かち合う信仰生活を共に送っていこうではありませんか。
今日の箇所の最後、聖書全体の最後のお言葉である21節をお読みします。
21主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。
“主イエス・キリストの恵みが、すべての者と共にあるように”、というこの言葉が、聖書の言葉が書かれた目的を一つの文に凝縮しています。
この一文に、神がいかに私たちのことを愛してくださっているのか、ご自分の恵みのもとで豊かな命を生きてほしい、と願ってくださっているのかが凝縮されています。
そしてこの一文に、私たち教会の果たすべき宣教の使命が凝縮されています。
「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」~この祈りと願いの言葉を、私たち自身の真心からの祈りと願いといたしましょう。
そしてイエス・キリストの御言葉に生かされる喜びと幸いに私たち自身が生きて、またその御言葉を世に伝えていこうではありませんか。
前奏
招詞 イザヤ書55章3節
賛美 新生讃美歌21番
主の祈り
賛美 新生讃美歌388番
献金
聖句 ヨハネの黙示録22章16~21節
祈祷
宣教 「主イエスよ、来てください」
祈祷
賛美 新生讃美歌301番
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
2024年度最後の主日礼拝を本日私たちは迎えました。(日本では一般的に4月から新しい年度が始まります)
今年度も神様の恵みの下で、私たちの教会が礼拝する、その信仰生活が守られてきたことを、私達は心から神様に感謝したいと願います。
今年度は「主の御言葉に立つ」という年間主題と共に、私たちの教会は信仰の歩みを続けてまいりました。
「主の御言葉に立つ」と言うと、何だか“私たち自身の意志と努力によって、聖書の御言葉の上に自分の足で立ち続けるように頑張る”、というように聞こえるかもしれません。
確かに、私たち自身が努力すべきという点は、信仰生活においても否定されるものではありません。
しかし、「主の御言葉に立つ」とは、私たちが努力をするというよりも、既に私たちに与えられた”主(神)の御言葉“という確かな土台を、まず確認することです。
そしてそれは、その確かな主の御言葉の上に立ち続ける、その土台の上で揺るぐことがない安心を私たちが頂くことができる、という恵みです。
私たちが私たちの生涯を通して常に拠り頼むことができる、その確かな土台である主の御言葉は、既に私たちに与えられています。
私たちの歩みを導く”主の御言葉“を常に聞いて、その御言葉を人生を導く指針として持つことで、私達は信仰の確かな道を、たとえゆっくりとであっても(そして時には迷いそうになっても)歩むことができるのです。
聖書の御言葉は神の言葉であり、私たちに霊的な励ましと力を与えます。
聖書の言葉がただ声に出して朗読され、それが複数の人たちに同時に聞かれるということだけでも、その言葉がとても特別に響く、ということがあり得ます。
イエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました。(マタイによる福音書18章20節)
イエス・キリストを信じる信仰者が二人でも、三人でも集まり、そこで聖書の御言葉、神の言葉が分かち合われるならば、そこに共にいると約束してくださったイエス様の霊が、その御言葉を特別なものとしてくださるのです。
わたしたちがイエス様の名によって集まるところ、そこに共にいてくださると言われたイエス様の約束を信じましょう。
常に御言葉の上に立ち、御言葉に支えられ導かれて、御言葉を共に分かちあって、御言葉が示す方向に向かって、私たちはこれからも共に歩んでいこうではありませんか。
今年度は一年間をかけて、主日礼拝のメッセージで聖書全体を旧約聖書の初めから私たちは分かちあってきました。
もちろん礼拝メッセージで実際に取り上げることが出来る箇所は、聖書全体のほんの一部ではありました。
しかし私たちは、「新旧約両聖書が両方とも、イエス・キリストを証している」、「聖書は確かに神のメッセージである」ことは確認できたと思います。
私たちは聖書全体から、「イエス・キリストの福音(良き知らせ)」を聞くのです。
今年度最終日曜日の今日の箇所は、聖書の一番最後の書である『ヨハネの黙示録』の最後の部分、22章16~21節です。
“黙示”とは、“隠されたものが明らかにされる”、すなわち“神の真理が明らかにされる”という意味です。
なぜ私たち人間が神について知ることができるのでしょうか。人間の側から神に到達し、神を知る知識を得ることはできません。
それにも関わらず、なぜ私たちが神を知ることができるのでしょうか。
それは神ご自身がイエス・キリストを通してご自身を私たちに現わしてくださったからです。神が人となって、この世界で人と共に生活されたからです。
イエス様は十字架にかかり死んで、そして復活なさいました。その後イエス様は「わたしは再び来る」という約束を残して天に昇っていかれました。
今イエス様は目には見えませんが、聖書の言葉を通して私たちはイエス・キリストのメッセージを聞き、分かち合うことができます。
聖書を通して私たちはイエス・キリストがどのようなお方かを知ることができます。
今日の16節に次のように書かれています。
16わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」
イエス様はご自分のことを「ダビデのひこばえ(枝、子孫の意味)」と言っています。ダビデとは旧約聖書に登場するイエスラエルの王様の名前です。
イスラエル民族にとってダビデ王は歴史的、また信仰的な英雄と言ってもよい人物です。
そしてイスラエル民族は聖書(旧約)の預言の言葉に基づいて、”ダビデの子孫から、やがて自分たちの救世主(メシア)が生まれる“と信じていました。
そしてその通り、イエス様はダビデ家の家系のヨセフを父としてこの世界に生まれてきました。
イエス様はご自分のことを「輝く明けの明星」と言っています。明けの明星とは、明け方に東の方で輝く金星のことです。
イエス様がここでご自分を「明けの明星」と言っておられるのは、“夜の後には必ず朝が来る。それもイエス・キリストの星(明けの明星)と共に新しい朝が来る”、と言う希望を意味します。
金星は位置的な関係で地球から夜には見えません。しかし見えなくても、もちろん金星は存在しています。そのように、私たちの目には見えなくてもイエス・キリストは確かにおられます。
そして私たちにはずっと続くような暗い夜のような時(辛く、悲しい時)も、かならずイエス様の光(星)を伴う新しい朝が来る、と私たちはイエス様のお言葉によって信じてよいのです。
17節の後半に次のように書かれています。
渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
“渇いている者”とは、霊的に渇いた人のことです。私たちは霊的に満たされなくては、常に心に渇きを覚えます。
人は本来神様からの霊を受けて、霊的に生きるものであるからです。旧約聖書の初めの『創世記』に、神が土の塵から人を造り、人に“息”を吹き入れることによって、人を生きる者にした、と書かれています。
その”息“とは”霊“という意味でもあります。人は神の霊を吹き入れられて生きる者となり、そして今も人が本当の意味で生きるには、神からの”霊”を常に頂く必要があるのです。
神からの霊を頂くことがなくては、私たちは霊的に渇き、常に満たされない、空虚で、そして不安定な状態に置かれます。
しかしイエス様は、だれも霊的に渇くことがないように、“渇いている者は誰でも、ご自分の与える命の水を”価なしに(無料で)“飲むことができる”、と約束してくださっているのです。
もし渇いているのならば、もし命の水が欲しいのならば、イエス様のところへ行きましょう。イエス様はいつでも「わたしのところへ来なさい」と言って、私たちを招き、私たちのことを待ってくださっています。
イエス様のところへ行く、とは具体的には聖書の御言葉を読む、教会に来て共に聖書の御言葉のメッセージを礼拝で聞く、他の信仰者と共に聖書を読み分かち合う、そして祈る、ということです。
イエス様のところへ行く道は開かれています。私たちの教会も、渇いた人を常にお迎えし、イエス様のところへ共に行くことができるように、教会の門を常に開いていたいと願います。
イエス様の招きにお応えし、私たち共にイエス様のところへ行き、御言葉という命の水、霊の糧を頂こうではありませんか。
今日の箇所には、私たちが真剣に聞くべき、非常に厳しいお言葉も書かれています。
18~19節をお読みします。
18この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
19また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
「この書物の預言の言葉」とは、広い意味で聖書全体の言葉を指す、と言えます。聖書は、神の霊感によって書かれた神の言葉です。
そして聖書の言葉一つ一つには、主イエス・キリストの十字架の重みがあります。私たち人の罪を背負って十字架にかかって死なれたイエス様が、聖書の言葉は確かに真実であり、聖書はご自分について証をする、と言っておられます。
その聖書言葉から、私たちが人間的な思いを勝手に付け加えたり、あるいは大切なことを勝手に取り去ったり、薄めてはいけない、とここで言われているのです。
確かに聖書の中には分かりにくい箇所、難しい箇所、あるいは現代の私たちの感覚で言えば受け入れがたいところなどがあります。しかし、聖書の言葉はいずれもイエス・キリストを通して、真剣に吟味されるべき神の言葉です。
繰り返しますが、聖書の御言葉は、私たちのために十字架の上で全てを捧げてくださったお方が、“この聖書は自分について証しをしているのだ”と言われた言葉であるからです。
牧師としての私の務めで最も大切なことは、聖書の御言葉を説き明かすことです。
それはただ「この言葉はこういう意味です」、「この箇所の歴史的背景はこういうことです」と内容を理論的、あるいは歴史的に説明することではありません(それも含みますが)。
そうではなく、聖書の言葉が、今この時私たちを生かす言葉となるように、聖書の言葉を語り直し、取り次ぐのが、牧師の役割であり、そしてまた私たち教会全体としての役割でもあるのです。
教会で聖書の御言葉が説き明かされ、聞く私たち一人ひとりがその御言葉を実生活の中で生きる時、聖書の言葉が私たちを通して世に向けて語り直されることになります。
その時聖書の言葉はまさに“生きた命の言葉”として、生き生きとした豊かなものとして、語られることになるのです。
そのような御言葉に生かされていることを私たちは喜び、また御言葉を豊かにいただき分かち合う信仰生活を共に送っていこうではありませんか。
今日の箇所の最後、聖書全体の最後のお言葉である21節をお読みします。
21主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。
“主イエス・キリストの恵みが、すべての者と共にあるように”、というこの言葉が、聖書の言葉が書かれた目的を一つの文に凝縮しています。
この一文に、神がいかに私たちのことを愛してくださっているのか、ご自分の恵みのもとで豊かな命を生きてほしい、と願ってくださっているのかが凝縮されています。
そしてこの一文に、私たち教会の果たすべき宣教の使命が凝縮されています。
「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」~この祈りと願いの言葉を、私たち自身の真心からの祈りと願いといたしましょう。
そしてイエス・キリストの御言葉に生かされる喜びと幸いに私たち自身が生きて、またその御言葉を世に伝えていこうではありませんか。
2025年3月22日土曜日
2025年3月23日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編31篇6節
賛美 新生讃美歌 3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌388番 主よ わが心に
献金
聖句 ヨハネの手紙一 3章19~24節
祈祷
宣教 『わたしたちは真理に属している』
祈祷
賛美 新生讃美歌92番 喜びたたえよ
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
今日の聖書の箇所は『ヨハネの手紙一』の一箇所です。この手紙を書いたヨハネは、『ヨハネによる福音書』の著者である、イエス様の十二人の直弟子の一人であった、ヨハネであると言われます。
ヨハネは「福音書」Gospelという形式で、彼自身が共に生きたイエス様の生涯とイエス様の語ったお言葉、そしてイエス様が十字架にかけられて死に、復活したことを記録しました。
一方、この手紙のほうではヨハネは、イエス・キリストを信じる信仰者が、いかに信仰生活を生きるべきか、特に“信仰者が互いに愛し合う”というその生き方に重点を置いています。
ヨハネがこの手紙を書いたのは、イエス様が死んでから60年ぐらい後であっただろうと言われています。
イエス様が地上にはおられなくなってから、もう60年も経ったのならば、ヨハネの中でイエス様のことは、遠い過去の記憶になっていたのでしょうか。
「昔、私たちの先生だったイエス様は、素晴らしい神の国について私たちに教えてくださったな。懐かしいな」と思い出すような対象にイエス様はなっていたのでしょうか。
まったくそうではありませんでした。ヨハネにとって60年前に死んだイエス様は、まさにキリスト(救世主)として、今も変わらずに”生きておられる“存在でした。
ヨハネの手紙の言葉の一つ一つが、このヨハネが、聖霊を通して働かれるイエス・キリストの力を受けていたことを表しています。
イエス・キリストは人間としては、もう地上には生きておられなくても、ヨハネの中で、また彼と共にキリストを信じる者同士の間で、イエス様は確かに生き続けておられたのです。
今も変わらずキリストは生き続け、わたしたちに生きた神の言葉を語り続けてくださっています。わたしたちは、今もこうして、その神の生きた言葉に共に頂くことができます。
今日の箇所少し前の3章16節に次のように書かれています。
ヨハネの手紙一/ 03章 16節
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
ヨハネの福音書の3章16節には次のように書かれています。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
どちらも3章16節です。本質的に、どちらも同じことが書かれています。”イエス・キリストがわたしたちのために死んでくださった。神がその独り子を私たちに与えてくださった。それによって私たちは愛を知った“ということです。
しかしヨハネの手紙では「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」と書かれています。
イエス様の死後60年たっても、“主は私たちのために命を捨ててくださった”という事実そして真実は、ヨハネにとって過去の一つの記憶などではありませんでした。
むしろそれ(イエス様が命を捨ててくださったこと)は、“だから、わたしたちも兄弟のために命をすてるべきだ”とヨハネに言わせるほどに、彼(ヨハネ)の信仰の生き方を突き動かす原動力であり続けたのです。
神が人の罪を救うために死なれたように、私たちは人のために死ぬことはできません。人が人の罪を救うことはできないからです。
しかし、神がこの私のために命を捨ててくださったことを本当に信じるならば、その信仰は他者への愛を実践する生き方として具体的な形をとるべきだ、とヨハネは言っているのです。
イエス・キリストは私たちのために命をすててくださいました。それによって私たちは愛を知りました。これが聖書が今も変わらず伝える中心的なメッセージです。
そして“その真の愛を知らされた私たちは互いに愛し合おう。イエス様が命を捨ててくださるほどに、わたしたちがまず愛されたのだから”と、聖書は私たちを今も促し続けるのです。
イエス様が十字架の上で命を捨ててくださったことにより、私たちは自分がいかに神に愛されているか、価値ある者とされているか、を知ることができます。
もし私たちの中で、“自分には価値がない”、“自分は愛されていない”と思われる方がいれば、そのお方はぜひイエス・キリスト、十字架の上のイエス・キリストを見上げていただきたいと私は願います。
十字架の上で命を捨ててくださったイエス・キリストこそが、真の愛を、すなわち“このわたしが神の前に、どれほど愛され尊い者とされているのか”ということを教えてくださるからです。
今日の箇所の初めに「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます」と書かれています。
真理とはすなわちイエス・キリストのことです。
具体的にはイエス・キリストの御言葉であり、イエス・キリストの愛です。真理ですから、それは時代と共に変わったり、その力が弱っていくということがありません。
いつまでも変わらない確かなもの、絶対的なもの、いつまでも力を持ち続けるもの、私たちを励まし続けるもの、それが真理です。それはキリストの御言葉でありキリストの愛です。
そのような真実に自分が属していると信じることができるならば、そこには真の安心(平安)があります。
この世のものは移り変わります。人の心も流行も、考え方や常識なども、時代と共に変わっていきます。
しかしイエス・キリストはいつまでも変わりません。キリストの愛と御言葉は決して変わりません。そのキリストの真実に私たちは属しているのです。ですからそこには安心と平安があります。
教会で、変わることのないイエス・キリストの御言葉が語られ続け、その御言葉が分かち合われ、御言葉に基づいた愛の実践がなされるならば、そこには確かな希望が生まれるでしょう。
今、教会に集う人々、クリスチャンの数は非常に少ないです。私たちの教会も小さな群れです。キリストの福音を宣教するための、良き知恵と方策が私たちにも与えられますようにと、私たちは共に思いを合わせて祈りたいと願います。
しかしまず何よりも、決して変わることのないイエス・キリストの御言葉があり、その御言葉は常に私たちと共にある、という真実を覚え、その真実の上に私たちは立ち続けようではありませんか。
御言葉という、決して変わることのない宝を、私たちは頂いているのですから、私たちは安心してよいのです。
20節に「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、全てをご存じである」と書かれています。
私たちは、自分自身に正直に向き合う時、自分で自分を責めてしまう時があるのではないでしょうか。
自分の嫌な面や欠点を思い知らされたり、また何か失敗をしてしまったりして、自分で自分が許せなかったり、自分のことが嫌いになることもあると思います。
自分の罪を知らされ、こんな自分が神の前に出て行くことなど決してできない、と思うことがあるかもしれません。そう思うほどに自分の罪に向き合うことは、大切なことでもあります。
しかし、そのように自分を責めるようなことがあっても、それでも神は私たちの心より大きいお方ですから、やはり私たちは安心できるのです。
神は、私たちに欠点があっても、嫌な部分があっても、それでも私たちを赦し、神のご愛の中で生きるようにと、私たち一人ひとりを招いてくださったからです。
自分の欠点や嫌な部分に向き合わされ、その上でなお、神に赦された大きな喜びを最初に体験したのは、ペテロやヨハネなどの、イエス様の最初の直弟子たちでした。
この手紙の筆者であるヨハネも含め、イエス様の弟子たちは、イエス様が捕まったとき、全員イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。
弟子のペトロは、“あなたは鶏が二度泣く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう”と彼に言ったイエス様の言葉を思い出し、実際にそうなった瞬間に、彼は泣き崩れました。
そんな弟子たちが、復活のイエス・キリストに出会い、自分の罪が赦されたことを知り、それからは力強くイエス・キリストの福音を伝道していく者になりました。
彼らの伝道の原動力は、“人は自分自身の努力や功績によって救われるのではない。弱く、欠点があり、また卑怯でさえある人間が、ただ神様の憐れみによって罪赦され、救われるのだ”という確信でした。
自分自身を誇らず、ただ私はキリストの愛と憐れみによってのみ赦され、生かされ、そして愛されている、というのが福音です。その福音が私たちにとっての本当の力であり希望です。
そして、その希望こそが私たちの生き方を変えていきます。
今日の箇所の22節に「神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからですreceive from him anything we ask, because we keep his commands and do what pleases him.」と書かれています。
続く23節は、次の通りです。
その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
“イエス・キリストの名”というのは、イエス・キリストが神であるということ、キリストがなさったこと、キリストの御言葉など、イエス・キリストの本質を表します。
信仰者はイエス様の御言葉、イエス様の愛、イエス様のなさったことすべてを信じ、それらに信頼して生きていきます。
そして信仰者が共にキリストの名を信じ、キリストの名によって集まる時、そこではキリストの愛が分かち合われ、実践されていきます。
そのようにキリストの名が信じられ、信仰によって互いに愛し合う信仰の共同体の中で、私たちが心を合わせて何かを神に願い祈りあうならば、その祈りは何でも適えられる、と今日の箇所で約束されているのです。
“神に願うことは何でも適えられる”と聞くと、”本当にそうだろうか。適えられない願いや祈りもあるではないか“と私たちは思うかもしれません。
そのような疑いを持つ時も、そのような疑いを持つ時こそ、私たちは、イエス・キリストは私たちのために十字架の上で命を捨ててくださった、という出来事に心を向けましょう。
そしてそこに神から私たちに向けられた、大きな御愛があることを、私たちは改めて確信いたしましょう。
わたしたちのために、その独り子をお与えになった神が、私たちが心あわせて、互いに愛し合う関係の中で、共に祈るその願いを、聞いて下さらないはずがないではありませんか。
これからも私たちはキリストの御言葉を通して、キリストの御愛を豊かにいただいてまいりましょう。
そしてキリストの愛を豊かにいただくことによって、互いを大切に愛し合う信仰を、私たちは大切にしていこうではありませんか。
前奏
招詞 詩編31篇6節
賛美 新生讃美歌 3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌388番 主よ わが心に
献金
聖句 ヨハネの手紙一 3章19~24節
祈祷
宣教 『わたしたちは真理に属している』
祈祷
賛美 新生讃美歌92番 喜びたたえよ
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
今日の聖書の箇所は『ヨハネの手紙一』の一箇所です。この手紙を書いたヨハネは、『ヨハネによる福音書』の著者である、イエス様の十二人の直弟子の一人であった、ヨハネであると言われます。
ヨハネは「福音書」Gospelという形式で、彼自身が共に生きたイエス様の生涯とイエス様の語ったお言葉、そしてイエス様が十字架にかけられて死に、復活したことを記録しました。
一方、この手紙のほうではヨハネは、イエス・キリストを信じる信仰者が、いかに信仰生活を生きるべきか、特に“信仰者が互いに愛し合う”というその生き方に重点を置いています。
ヨハネがこの手紙を書いたのは、イエス様が死んでから60年ぐらい後であっただろうと言われています。
イエス様が地上にはおられなくなってから、もう60年も経ったのならば、ヨハネの中でイエス様のことは、遠い過去の記憶になっていたのでしょうか。
「昔、私たちの先生だったイエス様は、素晴らしい神の国について私たちに教えてくださったな。懐かしいな」と思い出すような対象にイエス様はなっていたのでしょうか。
まったくそうではありませんでした。ヨハネにとって60年前に死んだイエス様は、まさにキリスト(救世主)として、今も変わらずに”生きておられる“存在でした。
ヨハネの手紙の言葉の一つ一つが、このヨハネが、聖霊を通して働かれるイエス・キリストの力を受けていたことを表しています。
イエス・キリストは人間としては、もう地上には生きておられなくても、ヨハネの中で、また彼と共にキリストを信じる者同士の間で、イエス様は確かに生き続けておられたのです。
今も変わらずキリストは生き続け、わたしたちに生きた神の言葉を語り続けてくださっています。わたしたちは、今もこうして、その神の生きた言葉に共に頂くことができます。
今日の箇所少し前の3章16節に次のように書かれています。
ヨハネの手紙一/ 03章 16節
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
ヨハネの福音書の3章16節には次のように書かれています。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
どちらも3章16節です。本質的に、どちらも同じことが書かれています。”イエス・キリストがわたしたちのために死んでくださった。神がその独り子を私たちに与えてくださった。それによって私たちは愛を知った“ということです。
しかしヨハネの手紙では「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」と書かれています。
イエス様の死後60年たっても、“主は私たちのために命を捨ててくださった”という事実そして真実は、ヨハネにとって過去の一つの記憶などではありませんでした。
むしろそれ(イエス様が命を捨ててくださったこと)は、“だから、わたしたちも兄弟のために命をすてるべきだ”とヨハネに言わせるほどに、彼(ヨハネ)の信仰の生き方を突き動かす原動力であり続けたのです。
神が人の罪を救うために死なれたように、私たちは人のために死ぬことはできません。人が人の罪を救うことはできないからです。
しかし、神がこの私のために命を捨ててくださったことを本当に信じるならば、その信仰は他者への愛を実践する生き方として具体的な形をとるべきだ、とヨハネは言っているのです。
イエス・キリストは私たちのために命をすててくださいました。それによって私たちは愛を知りました。これが聖書が今も変わらず伝える中心的なメッセージです。
そして“その真の愛を知らされた私たちは互いに愛し合おう。イエス様が命を捨ててくださるほどに、わたしたちがまず愛されたのだから”と、聖書は私たちを今も促し続けるのです。
イエス様が十字架の上で命を捨ててくださったことにより、私たちは自分がいかに神に愛されているか、価値ある者とされているか、を知ることができます。
もし私たちの中で、“自分には価値がない”、“自分は愛されていない”と思われる方がいれば、そのお方はぜひイエス・キリスト、十字架の上のイエス・キリストを見上げていただきたいと私は願います。
十字架の上で命を捨ててくださったイエス・キリストこそが、真の愛を、すなわち“このわたしが神の前に、どれほど愛され尊い者とされているのか”ということを教えてくださるからです。
今日の箇所の初めに「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます」と書かれています。
真理とはすなわちイエス・キリストのことです。
具体的にはイエス・キリストの御言葉であり、イエス・キリストの愛です。真理ですから、それは時代と共に変わったり、その力が弱っていくということがありません。
いつまでも変わらない確かなもの、絶対的なもの、いつまでも力を持ち続けるもの、私たちを励まし続けるもの、それが真理です。それはキリストの御言葉でありキリストの愛です。
そのような真実に自分が属していると信じることができるならば、そこには真の安心(平安)があります。
この世のものは移り変わります。人の心も流行も、考え方や常識なども、時代と共に変わっていきます。
しかしイエス・キリストはいつまでも変わりません。キリストの愛と御言葉は決して変わりません。そのキリストの真実に私たちは属しているのです。ですからそこには安心と平安があります。
教会で、変わることのないイエス・キリストの御言葉が語られ続け、その御言葉が分かち合われ、御言葉に基づいた愛の実践がなされるならば、そこには確かな希望が生まれるでしょう。
今、教会に集う人々、クリスチャンの数は非常に少ないです。私たちの教会も小さな群れです。キリストの福音を宣教するための、良き知恵と方策が私たちにも与えられますようにと、私たちは共に思いを合わせて祈りたいと願います。
しかしまず何よりも、決して変わることのないイエス・キリストの御言葉があり、その御言葉は常に私たちと共にある、という真実を覚え、その真実の上に私たちは立ち続けようではありませんか。
御言葉という、決して変わることのない宝を、私たちは頂いているのですから、私たちは安心してよいのです。
20節に「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、全てをご存じである」と書かれています。
私たちは、自分自身に正直に向き合う時、自分で自分を責めてしまう時があるのではないでしょうか。
自分の嫌な面や欠点を思い知らされたり、また何か失敗をしてしまったりして、自分で自分が許せなかったり、自分のことが嫌いになることもあると思います。
自分の罪を知らされ、こんな自分が神の前に出て行くことなど決してできない、と思うことがあるかもしれません。そう思うほどに自分の罪に向き合うことは、大切なことでもあります。
しかし、そのように自分を責めるようなことがあっても、それでも神は私たちの心より大きいお方ですから、やはり私たちは安心できるのです。
神は、私たちに欠点があっても、嫌な部分があっても、それでも私たちを赦し、神のご愛の中で生きるようにと、私たち一人ひとりを招いてくださったからです。
自分の欠点や嫌な部分に向き合わされ、その上でなお、神に赦された大きな喜びを最初に体験したのは、ペテロやヨハネなどの、イエス様の最初の直弟子たちでした。
この手紙の筆者であるヨハネも含め、イエス様の弟子たちは、イエス様が捕まったとき、全員イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。
弟子のペトロは、“あなたは鶏が二度泣く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう”と彼に言ったイエス様の言葉を思い出し、実際にそうなった瞬間に、彼は泣き崩れました。
そんな弟子たちが、復活のイエス・キリストに出会い、自分の罪が赦されたことを知り、それからは力強くイエス・キリストの福音を伝道していく者になりました。
彼らの伝道の原動力は、“人は自分自身の努力や功績によって救われるのではない。弱く、欠点があり、また卑怯でさえある人間が、ただ神様の憐れみによって罪赦され、救われるのだ”という確信でした。
自分自身を誇らず、ただ私はキリストの愛と憐れみによってのみ赦され、生かされ、そして愛されている、というのが福音です。その福音が私たちにとっての本当の力であり希望です。
そして、その希望こそが私たちの生き方を変えていきます。
今日の箇所の22節に「神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからですreceive from him anything we ask, because we keep his commands and do what pleases him.」と書かれています。
続く23節は、次の通りです。
その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
“イエス・キリストの名”というのは、イエス・キリストが神であるということ、キリストがなさったこと、キリストの御言葉など、イエス・キリストの本質を表します。
信仰者はイエス様の御言葉、イエス様の愛、イエス様のなさったことすべてを信じ、それらに信頼して生きていきます。
そして信仰者が共にキリストの名を信じ、キリストの名によって集まる時、そこではキリストの愛が分かち合われ、実践されていきます。
そのようにキリストの名が信じられ、信仰によって互いに愛し合う信仰の共同体の中で、私たちが心を合わせて何かを神に願い祈りあうならば、その祈りは何でも適えられる、と今日の箇所で約束されているのです。
“神に願うことは何でも適えられる”と聞くと、”本当にそうだろうか。適えられない願いや祈りもあるではないか“と私たちは思うかもしれません。
そのような疑いを持つ時も、そのような疑いを持つ時こそ、私たちは、イエス・キリストは私たちのために十字架の上で命を捨ててくださった、という出来事に心を向けましょう。
そしてそこに神から私たちに向けられた、大きな御愛があることを、私たちは改めて確信いたしましょう。
わたしたちのために、その独り子をお与えになった神が、私たちが心あわせて、互いに愛し合う関係の中で、共に祈るその願いを、聞いて下さらないはずがないではありませんか。
これからも私たちはキリストの御言葉を通して、キリストの御愛を豊かにいただいてまいりましょう。
そしてキリストの愛を豊かにいただくことによって、互いを大切に愛し合う信仰を、私たちは大切にしていこうではありませんか。
2025年3月16日日曜日
2025年3月15日土曜日
2025年3月16日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編148篇5節
賛美 新生讃美歌 513番 長き道 山や谷
主の祈り
賛美 新生讃美歌 388番 主よ わが心に
献金
聖句 ヤコブの手紙 1章12~18節
祈祷
宣教 「試練と誘惑」
祈祷
賛美 新生讃美歌 552番 わたしが悩むときも
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏
今日の聖書箇所は、新約聖書の『ヤコブの手紙』1章からの御言葉です。この手紙を書いた人はヤコブと言う人です。
彼は自分のことを1章1節で、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」と言っています。
このヤコブは、イエス・キリストの弟の一人であったヤコブだと言われています。彼はイエス様の死後(復活、昇天の後)、エルサレム教会で指導的な立場に就くようになりました。
ヤコブはイエス様の弟として、小さな頃から人としての兄イエスの姿を見て育ったでしょう。そして彼は、イエス様が約30歳頃から始めた伝道活動の様子も目の当たりにしていたでしょう。
地上の家族としては自分の兄でしたが、イエス様がなさったこと、そのお言葉(教え)と行いと、そして十字架で死んで復活されたことを通して、ヤコブは自分の兄は確かにキリスト、真の救い主であると信じるようになったのです。
誰であっても人は、イエス・キリストの前には僕(しもべservant)であることが、イエス様の弟のヤコブが自分のことを”キリストの僕“と言っていることからも分かります。
この地上での生まれ(たとえ血縁で、イエス様と結ばれていたとしても)や地位に関係なく、人は信仰によって誰もが“キリストの僕”なのです。
私たちは主キリストの僕です。つまり私たちの主人、先生はイエス・キリストだけです。キリストのもとで私たちは誰もが主の僕です。
私たちは僕として主に仕える者です。そして、主に仕えるとは私たち人同士が互いに仕え合うということをも意味します。
イエス様が私たちに命じられたことを端的に言えば、それは“互いに愛し合いなさい。互いに仕えなさい”ということにつきます。
“キリスト教では何か戒律(決まり)のようなものがありますか?食べてはいけないものや、飲んではいけないものがありますか?”と、人から聞かれることが私たちはあるのではないでしょうか。
クリスチャンは、特定の食べ物を食べることを禁じられていたり、お酒を飲むことなどを禁じられてはいません。
キリスト教の母体となったユダヤ教では(旧約聖書の中では)、食べてよいものと食べてはいけないもの(清いものと清くないもの)に関する細かな食物規定がありました。
しかし、イエス・キリストが人としてお生まれになり、ご自身を私たちすべての人間の罪の贖いとして捧げてくださったことにより、全ては新しくされました。
イエス様は次のようにおっしゃいました。
「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」(マタイによる福音書15章11節)
何を食べるかが問題ではなく、口から出るもの、すなわち私たちの心からどのような思いが言葉となって出て来るのかが問題であると、イエス様はお教えになったのです。
私たちが語る言葉が他者を傷つける言葉でなく、他者をいたわり、他者に愛を伝える言葉であるかどうかが重要だ、ということです。
そして、イエス様のその教えの根本である「互いに愛し合いなさい。互いに仕え合いなさい」という戒めは、これを本当に守ろうとするならば、それは大変難しい、厳しい教えであると私は思います。
どうすれば私たちはイエス様の教えに従うことができるのでしょうか。
私たちがイエス様の教えに従うためには、イエス様を通して私たちが天の父なる神の御心を知り、神を信じて信頼するということが必要です。
神とはどのようなお方であるのか、神は私たちに何をお与えになるのか、ということを私たちは知らねばなりません。
イエス様を通して私たちが確信させられることは、主なる神は私たちに善きもの、最善のものを与えてくださる、ということです。
今日の箇所の17節に「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです 」と書かれています。
私たちは、神がお与えになるものを時に喜べない、むしろそれが苦しく思える時もあります。それは試練が私たちに与えられた時です。
私たちが生きていく上では色々な試練があります。苦しいこと、時に悲しいこと、苦難が私たちを見舞うことがあります。
それが果たして本当に神から与えられたものであるのかどうかは、私たちは祈りをもって慎重に見極めなくてはなりません。
しかし今日の箇所は言います。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」もしそれが、神が私たちにお与えになった試練であるならば、その試練を耐え忍ぶ人は幸いだ、と聖書は言うのです。
12節の続きには、「その人(試練を耐え忍ぶ人)は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と書かれています。
ここで言われている一つのことは、試練を耐え忍ぶということは、神を愛することに繋がる、ということです。
試練は苦しいものですが、ある試練を受けることで、私たちは同じような試練や苦しみを受けている人の気持ちが分かるようになることがあると思います。
そのような試練の経験を自分がしなかったのならば、そのような気持ちを持つことはなかっただろう、という経験をした方もおられると思います。
例えば、病気になることは辛い経験です。しかし病気になり健康を失うことで、普段健康であることがいかに幸いなことであるのかを感謝することもあります。
病気になることで、病に苦しむ他の人の気持ちが理解できるようになる、ということもあります。
いつも健康であれば、それが当たり前になり、そのことで神様に感謝することさえ私たちはしなくなるかもしれません。
しかし一度健康を害し、普段健康であることの有難さを知れば、健康であることに私たちは本当に感謝するようになる、その健康を与えてくださる神に感謝するようになります。
そのように試練を経験し、それを耐え忍ぶことによって、私たちが神に感謝をし、神は善きものを与えてくださるお方であると信じるようになるのであれば、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」という言葉は確かに真実です。
神が私たちにお与えになる試練であれば、それを通してわたしたちは忍耐と、そして神への信頼と愛を持つことができるようになると、私たちは信じていきたいと願います。
13~15節をお読みします。
13誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
14むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。
15そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
神が私たちを悪へ誘いこむようなことは決してなさらないのです。もし私たちが悪い誘惑に誘い込まれるようなことがあるのならば、それは私たち自身の欲望が生む罪のせいだ、と聖書は言います。
神は試練を通して私たちを、神を愛しまた人を愛する者へと成長させてくださいます。その神は私たちを悪いものへ誘惑なさることを決してなさいません。
もし私たちが悪いものに誘われ、罪と死の道へ引きずられていくのならば、それは私たち自身の内にある欲望が原因であり、つまり私たち自身の責任だというのです。
この点でイエス様の教え、聖書の教えは大変に厳しいです。「何を食べてはいけない。何を飲んではいけない」という戒めを表面的に守るかどうかが問題ではないからです。
試練を耐え忍び、悪い誘惑に打ち勝ち、神を愛し人を愛する者となるかどうかが、私たちの救いにとって重要なことであるのです。
そして聖書は、そのような救いはイエス・キリストを通して私たちに与えられたことを伝えます。
今日の18節にこう書かれています。
18御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
「真理の言葉」とはイエス・キリストの言葉であり、イエス・キリストそのもののことです。
これは、父なる神は、イエス・キリストの御言葉によってわたしたちを新しく生まれ変わらせてくださったということです。
今も日ごとに、イエス・キリストの御言葉によって神は私たちを新しく生まれ変わらせてくださっています。
私たちが何よりも主の御言葉を信じ、御言葉そのものであるイエス・キリストを信じ、キリストに従って生きるとき、私たちは古い罪ある性質から、罪赦された清く愛のある者へと変えられるのです。
18節後半「それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです」
初穂とは、神に捧げられる最上の供え物のことです。ここに私たちの生きる究極の目的が書かれています。
私たちは主なる神の御言葉であるイエス・キリストによって新しく生まれ変わります。
罪赦されて、神を愛し、人を愛する者へと変えられていきます。そのような自分を私たちは神に、そして人に捧げるのです。
神の愛を本当に知らされた者は、もはや自分のために、自分の利益のために生きることをせず、神のため、人のためにと生きるようになるのです。自分を捧げてそのように生きるのです。
これは人間の力や経験、努力によっては決して到達できるものではありません。
真の神であるお方が人となって、最も苦しい試練を十字架の上でお受けになった出来事を通して、私たちはキリストの愛を知り、その愛によって自分自身も愛ある者へと変えられていきます。
私たちは、私たちに代わって苦難を受けられたキリストの愛を頂いて、試練を耐え忍び、神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕える者に変えられていきます。
私たちが、愛のある者へと変えられるため、イエス様が十字架の道へと向かって行っていくださいました。その苦難の道のりを覚える受難節(レント)の時を今私たちは過ごしています。
イエス様が背負われたもの、歩まれた苦難の道に私たちは今こそ思いを巡らせましょう。
そしてイエス様が教えてくださり、また私たちに与えてくださった愛を、私たちは心からの感謝と悔い改めをもって、今日も受け取っていこうではありませんか。
前奏
招詞 詩編148篇5節
賛美 新生讃美歌 513番 長き道 山や谷
主の祈り
賛美 新生讃美歌 388番 主よ わが心に
献金
聖句 ヤコブの手紙 1章12~18節
祈祷
宣教 「試練と誘惑」
祈祷
賛美 新生讃美歌 552番 わたしが悩むときも
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏
今日の聖書箇所は、新約聖書の『ヤコブの手紙』1章からの御言葉です。この手紙を書いた人はヤコブと言う人です。
彼は自分のことを1章1節で、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」と言っています。
このヤコブは、イエス・キリストの弟の一人であったヤコブだと言われています。彼はイエス様の死後(復活、昇天の後)、エルサレム教会で指導的な立場に就くようになりました。
ヤコブはイエス様の弟として、小さな頃から人としての兄イエスの姿を見て育ったでしょう。そして彼は、イエス様が約30歳頃から始めた伝道活動の様子も目の当たりにしていたでしょう。
地上の家族としては自分の兄でしたが、イエス様がなさったこと、そのお言葉(教え)と行いと、そして十字架で死んで復活されたことを通して、ヤコブは自分の兄は確かにキリスト、真の救い主であると信じるようになったのです。
誰であっても人は、イエス・キリストの前には僕(しもべservant)であることが、イエス様の弟のヤコブが自分のことを”キリストの僕“と言っていることからも分かります。
この地上での生まれ(たとえ血縁で、イエス様と結ばれていたとしても)や地位に関係なく、人は信仰によって誰もが“キリストの僕”なのです。
私たちは主キリストの僕です。つまり私たちの主人、先生はイエス・キリストだけです。キリストのもとで私たちは誰もが主の僕です。
私たちは僕として主に仕える者です。そして、主に仕えるとは私たち人同士が互いに仕え合うということをも意味します。
イエス様が私たちに命じられたことを端的に言えば、それは“互いに愛し合いなさい。互いに仕えなさい”ということにつきます。
“キリスト教では何か戒律(決まり)のようなものがありますか?食べてはいけないものや、飲んではいけないものがありますか?”と、人から聞かれることが私たちはあるのではないでしょうか。
クリスチャンは、特定の食べ物を食べることを禁じられていたり、お酒を飲むことなどを禁じられてはいません。
キリスト教の母体となったユダヤ教では(旧約聖書の中では)、食べてよいものと食べてはいけないもの(清いものと清くないもの)に関する細かな食物規定がありました。
しかし、イエス・キリストが人としてお生まれになり、ご自身を私たちすべての人間の罪の贖いとして捧げてくださったことにより、全ては新しくされました。
イエス様は次のようにおっしゃいました。
「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」(マタイによる福音書15章11節)
何を食べるかが問題ではなく、口から出るもの、すなわち私たちの心からどのような思いが言葉となって出て来るのかが問題であると、イエス様はお教えになったのです。
私たちが語る言葉が他者を傷つける言葉でなく、他者をいたわり、他者に愛を伝える言葉であるかどうかが重要だ、ということです。
そして、イエス様のその教えの根本である「互いに愛し合いなさい。互いに仕え合いなさい」という戒めは、これを本当に守ろうとするならば、それは大変難しい、厳しい教えであると私は思います。
どうすれば私たちはイエス様の教えに従うことができるのでしょうか。
私たちがイエス様の教えに従うためには、イエス様を通して私たちが天の父なる神の御心を知り、神を信じて信頼するということが必要です。
神とはどのようなお方であるのか、神は私たちに何をお与えになるのか、ということを私たちは知らねばなりません。
イエス様を通して私たちが確信させられることは、主なる神は私たちに善きもの、最善のものを与えてくださる、ということです。
今日の箇所の17節に「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです 」と書かれています。
私たちは、神がお与えになるものを時に喜べない、むしろそれが苦しく思える時もあります。それは試練が私たちに与えられた時です。
私たちが生きていく上では色々な試練があります。苦しいこと、時に悲しいこと、苦難が私たちを見舞うことがあります。
それが果たして本当に神から与えられたものであるのかどうかは、私たちは祈りをもって慎重に見極めなくてはなりません。
しかし今日の箇所は言います。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」もしそれが、神が私たちにお与えになった試練であるならば、その試練を耐え忍ぶ人は幸いだ、と聖書は言うのです。
12節の続きには、「その人(試練を耐え忍ぶ人)は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と書かれています。
ここで言われている一つのことは、試練を耐え忍ぶということは、神を愛することに繋がる、ということです。
試練は苦しいものですが、ある試練を受けることで、私たちは同じような試練や苦しみを受けている人の気持ちが分かるようになることがあると思います。
そのような試練の経験を自分がしなかったのならば、そのような気持ちを持つことはなかっただろう、という経験をした方もおられると思います。
例えば、病気になることは辛い経験です。しかし病気になり健康を失うことで、普段健康であることがいかに幸いなことであるのかを感謝することもあります。
病気になることで、病に苦しむ他の人の気持ちが理解できるようになる、ということもあります。
いつも健康であれば、それが当たり前になり、そのことで神様に感謝することさえ私たちはしなくなるかもしれません。
しかし一度健康を害し、普段健康であることの有難さを知れば、健康であることに私たちは本当に感謝するようになる、その健康を与えてくださる神に感謝するようになります。
そのように試練を経験し、それを耐え忍ぶことによって、私たちが神に感謝をし、神は善きものを与えてくださるお方であると信じるようになるのであれば、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」という言葉は確かに真実です。
神が私たちにお与えになる試練であれば、それを通してわたしたちは忍耐と、そして神への信頼と愛を持つことができるようになると、私たちは信じていきたいと願います。
13~15節をお読みします。
13誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
14むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。
15そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
神が私たちを悪へ誘いこむようなことは決してなさらないのです。もし私たちが悪い誘惑に誘い込まれるようなことがあるのならば、それは私たち自身の欲望が生む罪のせいだ、と聖書は言います。
神は試練を通して私たちを、神を愛しまた人を愛する者へと成長させてくださいます。その神は私たちを悪いものへ誘惑なさることを決してなさいません。
もし私たちが悪いものに誘われ、罪と死の道へ引きずられていくのならば、それは私たち自身の内にある欲望が原因であり、つまり私たち自身の責任だというのです。
この点でイエス様の教え、聖書の教えは大変に厳しいです。「何を食べてはいけない。何を飲んではいけない」という戒めを表面的に守るかどうかが問題ではないからです。
試練を耐え忍び、悪い誘惑に打ち勝ち、神を愛し人を愛する者となるかどうかが、私たちの救いにとって重要なことであるのです。
そして聖書は、そのような救いはイエス・キリストを通して私たちに与えられたことを伝えます。
今日の18節にこう書かれています。
18御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
「真理の言葉」とはイエス・キリストの言葉であり、イエス・キリストそのもののことです。
これは、父なる神は、イエス・キリストの御言葉によってわたしたちを新しく生まれ変わらせてくださったということです。
今も日ごとに、イエス・キリストの御言葉によって神は私たちを新しく生まれ変わらせてくださっています。
私たちが何よりも主の御言葉を信じ、御言葉そのものであるイエス・キリストを信じ、キリストに従って生きるとき、私たちは古い罪ある性質から、罪赦された清く愛のある者へと変えられるのです。
18節後半「それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです」
初穂とは、神に捧げられる最上の供え物のことです。ここに私たちの生きる究極の目的が書かれています。
私たちは主なる神の御言葉であるイエス・キリストによって新しく生まれ変わります。
罪赦されて、神を愛し、人を愛する者へと変えられていきます。そのような自分を私たちは神に、そして人に捧げるのです。
神の愛を本当に知らされた者は、もはや自分のために、自分の利益のために生きることをせず、神のため、人のためにと生きるようになるのです。自分を捧げてそのように生きるのです。
これは人間の力や経験、努力によっては決して到達できるものではありません。
真の神であるお方が人となって、最も苦しい試練を十字架の上でお受けになった出来事を通して、私たちはキリストの愛を知り、その愛によって自分自身も愛ある者へと変えられていきます。
私たちは、私たちに代わって苦難を受けられたキリストの愛を頂いて、試練を耐え忍び、神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕える者に変えられていきます。
私たちが、愛のある者へと変えられるため、イエス様が十字架の道へと向かって行っていくださいました。その苦難の道のりを覚える受難節(レント)の時を今私たちは過ごしています。
イエス様が背負われたもの、歩まれた苦難の道に私たちは今こそ思いを巡らせましょう。
そしてイエス様が教えてくださり、また私たちに与えてくださった愛を、私たちは心からの感謝と悔い改めをもって、今日も受け取っていこうではありませんか。
2025年3月8日土曜日
2025年3月9日 主日礼拝
前奏
招詞 箴言16章20節
賛美 新生讃美歌40番 わが喜び わが望み
主の祈り
賛美 新生讃美歌 388番 主よ わが心に
献金
聖句 ヘブライ人への手紙4章14~16節
祈祷
宣教 「大祭司イエス」
祈祷
賛美 新生讃美歌 297番 主によりてあがなわる
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏
今日の聖書箇所(ヘブライ人への手紙4章14~16節)には、“イエス・キリストが偉大な大祭司である”と書かれています。
祭司とは、イスラエルの民の代表として、神に仕える働きを担った人たちでした。
人々に代わって、罪の赦しのための捧げものを神に捧げたり、神に代わって人々を祝福するなどの務めも祭司は果たしていました。
今日の箇所では、イエス・キリストが「もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子」と描かれています。
「もろもろの天を通過された」とは、イエス・キリストが十字架にかかり死んで、そして復活させられた後に、天の最も高 い所へ上っていかれ、そしてそこで今は神の右の座についておられる、ということを表します。
ローマの信徒への手紙8章34節に「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのためにとりなしてくださる」と書かれています。
人間の祭司は、神に直接お会いすることはできません。人間は誰も神と直接お会いすることはできないからです。
しかしイエス・キリストは、今や天の父なる神と共におられ、私たちの願いと祈りとを、私たちに代わって、今も父なる神に取り次いでくださっているのです。
キリストが今も天におられるので、私たちは”私たちの祈りは聞かれる“、”イエス様が私たちの祈りと願いを神に取り次いでくださる“と信じて、祈ることが許されています。
神が人となったお方であるイエス・キリストは私たち人間が住むところ、人の間のもっとも低いところにまで、降りて来られました。
なぜそのように神が人となられたのでしょうか。なぜ神が私たちの間の最も低い所へと降ってこられたのでしょうか。そして、なぜ神であるお方が十字架にかからねばならなかったのでしょうか。
聖書は、イエス・キリストが十字架におかかりになったことで、私たち人の罪が赦されたと伝えます。
キリスト者は常にそのことを覚え、感謝をし、私たちの罪を赦し、私たちに新しい命を与えてくださった神に感謝を捧げながら生きていきます。
神には私たちの罪を赦すために、イエス・キリストとなってこの世に来られる必要や義務はありませんでした。私たち人は自ら選んで、神から離れて生きていくことを選びとったからです。
神は私たちを救うことも、救わないこともできました。しかし愛なる神は、自ら人となり、私たちにそのお姿を現すことをなさいました。神はそれほどまでに私たち人を愛してくださったのです。
神が人となるとは、神の愛がはっきりと目に見える形で現わされた、まさに奇跡の出来事でした。「ここに愛がある。ここに救いがある」と神様は、イエス様を通して私たちに見せてくださったのです。
イエス様は人として、ヨセフとマリアの子として生まれ、30歳ぐらいまで、イスラエルのガリラヤと言われた地方のナザレという村で生活されました。
イエス様は父ヨセフの仕事であった大工の仕事を継いで、自らも大工として働いたようです。そしてそのことは、イエス様が神の国を人々に宣教する時に、人々にとってはつまずきの原因となりました。
マルコによる福音書6章に、イエス様が、ご自分がお育ちになった故郷の会堂で神の国について教え始められた時の話が記されています。人々はイエス様の教えに驚いたと、そこで書かれています。
しかしある人々は、イエス様が大工であり、そしてイエス様がマリアの息子で、その兄弟たちのことも自分たちは知っている、と言って、イエス様の偉大な教えを受け入れることを拒否しました。
「大工の子、自分たちもよく知っている家の出身である男に、こんな偉大な教えを語ることができるはずがない」と彼らは思ったのでしょう。
その人自身がどのような人であるか、その人が何を語っている、行っているかよりも、その人の出身とか見た目とか、外見的で本質的ではない事柄のほうを重視してしまう私たちの姿が、その時イエス様につまづいた人々には表されています。
イエス様が、大工の子として、ガリラヤで労働者の一人としてお育ちになったことは、私たちにとって、非常に意味のあることです。
それはイエス様ご自身が、日々働くことの大変さ、辛さ、その苦労をご自身のこととしてご経験された、ということです。
働くことには生きがいを得る、社会に貢献するという喜びの面もあります。しかし、日々働いて生きる糧を得るというのは大変なことだと思います。
日々働く中で、辛い思いをしておられる方々、思い通りにならないことや、打ちのめされるような思いをされている方もいらっしゃると私は思います。
私たちの主イエス・キリストも、そのように、日々の仕事、労働することの辛さをご経験されたのです。ですから、イエス様は、本当に私たちのことを、分かってくださる、理解してくださるのだと、私たちは信じることができます。
イエス様が、私たちにいつも寄り添ってくださっています。働くことの大変さも、日々生きることの大変さも、それを神ご自身がご経験なさったからです。
今日の15節に次のように書かれています。
15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
イエス様は私たちの心の奥底までも、私たちの辛さ、悲しみに、同情することがおできになります。
ここでの同情とは、“心から、自分以外の他者と共に悩み、その人の悲しみ、苦しみを自分の事として受け止める”、ということです。
私たち人間は、自分以外の他者に、そこまで同情することは出来ません。しかし、イエス様は、それがおできになります。
ルカによる福音書10章に、「善いサマリア人の例え」の話があります。
イエス様に「どうしたら永遠の命を受け継ぐことができますか」と尋ねた、ある律法の専門家に、イエス様は次のような例え話をされました。
ある人が旅をしている間に、追いはぎ(強盗)に襲われて、半殺しにされて、倒れていました。
そこへ、祭司、またレビ人(レビ人も祭司の役割を果たしていた人たちです)が通りましたが、彼らはおいはぎに襲われて倒れているその人を見ても、道の向こう側を通って、何もせずに行ってしまいます。
そこへユダヤ人からは蔑まれていたサマリア人が通りがかります。
そのサマリア人はその人の傷を手当てして、自分のろばに乗せて、宿屋にまで連れて行き、その人を介抱してくれるようにと言って、宿屋にお金まで渡しました。
強盗に襲われた人はユダヤ人であって、本来なら同胞である祭司やレビ人がその人を助けるべきでした。しかし、彼らはそうはしませんでした。
祭司やレビ人が、その人を助けなかった理由は色々と考えられます。死人(死にかかった人)に触れると汚れる、と彼らは考えたかもしれません。しかし一番の理由は、他者の苦しみに共感することが(完全には)出来なかったということではないでしょうか。
私たちは、自分以外の他者の苦しみを完全に自分のものとすることはできないのです。
しかしイエス様は、人の苦しみに、完全にご自分を重ね合わせることがおできになります。
追いはぎに襲われていて倒れていた人の境遇と、その人の痛みを自分のことして受けとめ、助けの手を差し伸べたサマリヤ人は、まさにイエス・キリストのお姿を現しています。
なぜイエス様は私たちにそこまで同情することがおできになるのでしょうか。なぜそこまで人の痛みと悲しみに、心からの共感をすることがおできになるのでしょうか。
その理由も15節に書かれています。それはイエス様が、「罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に会われたからです」(15節)
神の子イエス・キリストは私たちと同様に試練に会われたのです。私たち以上に、最も苦しい試練を神の子がお受けになったのです。
まったく罪のない完全に清いお方が、試練を受けたのですから、その苦しみは私たちの想像を絶するものです。
神と等しいお方、神の子が、ご自身は全く罪がなかったのに、私たちのために十字架におかかりになり、最後は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました(マルコ15:34)。
私たちも「神様、なぜですか」と言って、苦しみの中から叫ぶしかないような経験をする時があると思います。神の子イエス・キリストも、苦しみの中から、そのような叫びの声を上げたのです。
ですから、イエス・キリストは、私たち人間が経験するすべての苦しみ、悲しみ、辛さにおいて、完全に同情することがおできになるのです。
そのようなお方が私たちの救い主であり、罪の贖い主であるという信仰を私たちはいただき、そのような信仰を今も私たちは言葉と行いとで、告白し続けます。
全く罪のないお方、神のイエス・キリストが私たちの罪の贖いのために、十字架におかかりになりました。
そして「キリストは、あらゆることにおいて、わたしたち人の苦しみに同情することがお出来になるお方」という信仰にも、私たちはこれからも立ち続けましょう。
今日の箇所の最後の節である16節をお読みします。
16だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
“私たちは、神の恵みの御座に大胆に(自信をもって)近づこう”、と言って今日の箇所は終わります。
なぜ私たちは神のおられるところへ、神へ向かって自信を持って近づくことができるのでしょうか。
それは、神が決して私たちを拒絶なさらないということを、私たちはイエス・キリストによって信じることができるからです。
イエス・キリストが神と共におられ、私たちのためにとりなして、くださっておられると、私たちは信じることができるからです。
私たちが神のおられる、神が座っておられるその場へ行けるためのその道を、イエス様が用意してくださったのです。
イエス様がその道そのものなのです。イエス様は「私は道であり、真理であり、命である」と言われました(ヨハネ14章6節)。
イエス・キリストを信じるとは、イエス様という道を通って神のもとへ行く、ということです。キリストを通れば神のもとへ行くことができ、キリストを信じる者を、神は決して拒絶なさらないのです。
神のもとで私たちは神の憐れみと恵みとを頂くことができます。
私たちが差し出す何かと引き換えに、神の憐れみと恵みが頂ける、というのではありません。
そうではなく、私たちがキリストをただ信じて、私たちがキリストを心にお迎えするならば、そしてキリストを通して神に近づくならば、神は憐れみと恵みとを、無償で与えてくださるのです。
そのような恵みを前にして、一体私たちは何を躊躇することがあるでしょうか。
偉大な大祭司、神の子イエス・キリストを通して私たちに与えられる神の憐れみと恵みの中で私たちも安心して憩い(休息し)、喜びと感謝をもって、生きて行こうではありませんか。
私たちの痛み、悲しみ、苦しみを、ご自身のこととして受けられ、いつも私たちと共に泣き、悲しんでくださる、神のそのような憐れみに感謝をいたしましょう。
前奏
招詞 箴言16章20節
賛美 新生讃美歌40番 わが喜び わが望み
主の祈り
賛美 新生讃美歌 388番 主よ わが心に
献金
聖句 ヘブライ人への手紙4章14~16節
祈祷
宣教 「大祭司イエス」
祈祷
賛美 新生讃美歌 297番 主によりてあがなわる
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏
今日の聖書箇所(ヘブライ人への手紙4章14~16節)には、“イエス・キリストが偉大な大祭司である”と書かれています。
祭司とは、イスラエルの民の代表として、神に仕える働きを担った人たちでした。
人々に代わって、罪の赦しのための捧げものを神に捧げたり、神に代わって人々を祝福するなどの務めも祭司は果たしていました。
今日の箇所では、イエス・キリストが「もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子」と描かれています。
「もろもろの天を通過された」とは、イエス・キリストが十字架にかかり死んで、そして復活させられた後に、天の最も高 い所へ上っていかれ、そしてそこで今は神の右の座についておられる、ということを表します。
ローマの信徒への手紙8章34節に「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのためにとりなしてくださる」と書かれています。
人間の祭司は、神に直接お会いすることはできません。人間は誰も神と直接お会いすることはできないからです。
しかしイエス・キリストは、今や天の父なる神と共におられ、私たちの願いと祈りとを、私たちに代わって、今も父なる神に取り次いでくださっているのです。
キリストが今も天におられるので、私たちは”私たちの祈りは聞かれる“、”イエス様が私たちの祈りと願いを神に取り次いでくださる“と信じて、祈ることが許されています。
神が人となったお方であるイエス・キリストは私たち人間が住むところ、人の間のもっとも低いところにまで、降りて来られました。
なぜそのように神が人となられたのでしょうか。なぜ神が私たちの間の最も低い所へと降ってこられたのでしょうか。そして、なぜ神であるお方が十字架にかからねばならなかったのでしょうか。
聖書は、イエス・キリストが十字架におかかりになったことで、私たち人の罪が赦されたと伝えます。
キリスト者は常にそのことを覚え、感謝をし、私たちの罪を赦し、私たちに新しい命を与えてくださった神に感謝を捧げながら生きていきます。
神には私たちの罪を赦すために、イエス・キリストとなってこの世に来られる必要や義務はありませんでした。私たち人は自ら選んで、神から離れて生きていくことを選びとったからです。
神は私たちを救うことも、救わないこともできました。しかし愛なる神は、自ら人となり、私たちにそのお姿を現すことをなさいました。神はそれほどまでに私たち人を愛してくださったのです。
神が人となるとは、神の愛がはっきりと目に見える形で現わされた、まさに奇跡の出来事でした。「ここに愛がある。ここに救いがある」と神様は、イエス様を通して私たちに見せてくださったのです。
イエス様は人として、ヨセフとマリアの子として生まれ、30歳ぐらいまで、イスラエルのガリラヤと言われた地方のナザレという村で生活されました。
イエス様は父ヨセフの仕事であった大工の仕事を継いで、自らも大工として働いたようです。そしてそのことは、イエス様が神の国を人々に宣教する時に、人々にとってはつまずきの原因となりました。
マルコによる福音書6章に、イエス様が、ご自分がお育ちになった故郷の会堂で神の国について教え始められた時の話が記されています。人々はイエス様の教えに驚いたと、そこで書かれています。
しかしある人々は、イエス様が大工であり、そしてイエス様がマリアの息子で、その兄弟たちのことも自分たちは知っている、と言って、イエス様の偉大な教えを受け入れることを拒否しました。
「大工の子、自分たちもよく知っている家の出身である男に、こんな偉大な教えを語ることができるはずがない」と彼らは思ったのでしょう。
その人自身がどのような人であるか、その人が何を語っている、行っているかよりも、その人の出身とか見た目とか、外見的で本質的ではない事柄のほうを重視してしまう私たちの姿が、その時イエス様につまづいた人々には表されています。
イエス様が、大工の子として、ガリラヤで労働者の一人としてお育ちになったことは、私たちにとって、非常に意味のあることです。
それはイエス様ご自身が、日々働くことの大変さ、辛さ、その苦労をご自身のこととしてご経験された、ということです。
働くことには生きがいを得る、社会に貢献するという喜びの面もあります。しかし、日々働いて生きる糧を得るというのは大変なことだと思います。
日々働く中で、辛い思いをしておられる方々、思い通りにならないことや、打ちのめされるような思いをされている方もいらっしゃると私は思います。
私たちの主イエス・キリストも、そのように、日々の仕事、労働することの辛さをご経験されたのです。ですから、イエス様は、本当に私たちのことを、分かってくださる、理解してくださるのだと、私たちは信じることができます。
イエス様が、私たちにいつも寄り添ってくださっています。働くことの大変さも、日々生きることの大変さも、それを神ご自身がご経験なさったからです。
今日の15節に次のように書かれています。
15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
イエス様は私たちの心の奥底までも、私たちの辛さ、悲しみに、同情することがおできになります。
ここでの同情とは、“心から、自分以外の他者と共に悩み、その人の悲しみ、苦しみを自分の事として受け止める”、ということです。
私たち人間は、自分以外の他者に、そこまで同情することは出来ません。しかし、イエス様は、それがおできになります。
ルカによる福音書10章に、「善いサマリア人の例え」の話があります。
イエス様に「どうしたら永遠の命を受け継ぐことができますか」と尋ねた、ある律法の専門家に、イエス様は次のような例え話をされました。
ある人が旅をしている間に、追いはぎ(強盗)に襲われて、半殺しにされて、倒れていました。
そこへ、祭司、またレビ人(レビ人も祭司の役割を果たしていた人たちです)が通りましたが、彼らはおいはぎに襲われて倒れているその人を見ても、道の向こう側を通って、何もせずに行ってしまいます。
そこへユダヤ人からは蔑まれていたサマリア人が通りがかります。
そのサマリア人はその人の傷を手当てして、自分のろばに乗せて、宿屋にまで連れて行き、その人を介抱してくれるようにと言って、宿屋にお金まで渡しました。
強盗に襲われた人はユダヤ人であって、本来なら同胞である祭司やレビ人がその人を助けるべきでした。しかし、彼らはそうはしませんでした。
祭司やレビ人が、その人を助けなかった理由は色々と考えられます。死人(死にかかった人)に触れると汚れる、と彼らは考えたかもしれません。しかし一番の理由は、他者の苦しみに共感することが(完全には)出来なかったということではないでしょうか。
私たちは、自分以外の他者の苦しみを完全に自分のものとすることはできないのです。
しかしイエス様は、人の苦しみに、完全にご自分を重ね合わせることがおできになります。
追いはぎに襲われていて倒れていた人の境遇と、その人の痛みを自分のことして受けとめ、助けの手を差し伸べたサマリヤ人は、まさにイエス・キリストのお姿を現しています。
なぜイエス様は私たちにそこまで同情することがおできになるのでしょうか。なぜそこまで人の痛みと悲しみに、心からの共感をすることがおできになるのでしょうか。
その理由も15節に書かれています。それはイエス様が、「罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に会われたからです」(15節)
神の子イエス・キリストは私たちと同様に試練に会われたのです。私たち以上に、最も苦しい試練を神の子がお受けになったのです。
まったく罪のない完全に清いお方が、試練を受けたのですから、その苦しみは私たちの想像を絶するものです。
神と等しいお方、神の子が、ご自身は全く罪がなかったのに、私たちのために十字架におかかりになり、最後は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました(マルコ15:34)。
私たちも「神様、なぜですか」と言って、苦しみの中から叫ぶしかないような経験をする時があると思います。神の子イエス・キリストも、苦しみの中から、そのような叫びの声を上げたのです。
ですから、イエス・キリストは、私たち人間が経験するすべての苦しみ、悲しみ、辛さにおいて、完全に同情することがおできになるのです。
そのようなお方が私たちの救い主であり、罪の贖い主であるという信仰を私たちはいただき、そのような信仰を今も私たちは言葉と行いとで、告白し続けます。
全く罪のないお方、神のイエス・キリストが私たちの罪の贖いのために、十字架におかかりになりました。
そして「キリストは、あらゆることにおいて、わたしたち人の苦しみに同情することがお出来になるお方」という信仰にも、私たちはこれからも立ち続けましょう。
今日の箇所の最後の節である16節をお読みします。
16だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
“私たちは、神の恵みの御座に大胆に(自信をもって)近づこう”、と言って今日の箇所は終わります。
なぜ私たちは神のおられるところへ、神へ向かって自信を持って近づくことができるのでしょうか。
それは、神が決して私たちを拒絶なさらないということを、私たちはイエス・キリストによって信じることができるからです。
イエス・キリストが神と共におられ、私たちのためにとりなして、くださっておられると、私たちは信じることができるからです。
私たちが神のおられる、神が座っておられるその場へ行けるためのその道を、イエス様が用意してくださったのです。
イエス様がその道そのものなのです。イエス様は「私は道であり、真理であり、命である」と言われました(ヨハネ14章6節)。
イエス・キリストを信じるとは、イエス様という道を通って神のもとへ行く、ということです。キリストを通れば神のもとへ行くことができ、キリストを信じる者を、神は決して拒絶なさらないのです。
神のもとで私たちは神の憐れみと恵みとを頂くことができます。
私たちが差し出す何かと引き換えに、神の憐れみと恵みが頂ける、というのではありません。
そうではなく、私たちがキリストをただ信じて、私たちがキリストを心にお迎えするならば、そしてキリストを通して神に近づくならば、神は憐れみと恵みとを、無償で与えてくださるのです。
そのような恵みを前にして、一体私たちは何を躊躇することがあるでしょうか。
偉大な大祭司、神の子イエス・キリストを通して私たちに与えられる神の憐れみと恵みの中で私たちも安心して憩い(休息し)、喜びと感謝をもって、生きて行こうではありませんか。
私たちの痛み、悲しみ、苦しみを、ご自身のこととして受けられ、いつも私たちと共に泣き、悲しんでくださる、神のそのような憐れみに感謝をいたしましょう。
2025年3月1日土曜日
2025年3月2日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書46章4節b
賛美 新生讃美歌 493番 み子イエス世人のため
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌388番 主よ わが心に
献金
聖句 テモテへの手紙一 1章12~17節
祈祷
宣教 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」
祈祷
賛美 新生讃美歌255番 わが罪のために
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
今日私たちに与えられた聖書の御言葉は、新約聖書『テモテへの手紙一』の中の言葉です。
「テモテへの手紙(一と二)」は、伝道者パウロが、彼の弟子のテモテに宛てて書いたとされる手紙です。
テモテは、ガラテヤ(現在のトルコに位置します)と言われた地方の出身で、彼の母親はユダヤ人、父親はギリシア人であったと、「使徒言行録」の16章に書かれています。
テモテへの手紙1章2節に「信仰によるまことの子テモテへ」と書かれています。この言葉から、パウロはテモテに対して、血縁関係はなくとも、特別な愛情をもっていたことが分かります。
血縁の家族ではなくても、イエス・キリストの恵みによって、パウロとテモテは信仰を通しての父と子(親子)となっていたということです。
私たちも教会で、血縁関係を超えた信仰による家族の関係へと招き入れられています。
キリストの恵みによって、教会への交わりへと私たちは招かれました。キリストによって、私たちは神の子とされました。
同じ神、主イエス・キリストの父なる神のもとで、神の子とされていることを私たちは喜びます。
同じ教会にキリストの恵みによって招き入れられた私たちが、お互いを信仰の家族として、互いを受け入れ合う特別な関係を育んでいきたいと願います。
今日の箇所の初めの12節にこのように書かれています。
「私を強くしてくださった、わたしたちの主イエス・キリストに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」
ここではまず、“人はイエス・キリストによって強くされる”ことが言われています。パウロ自身が、キリストから強さを与えられたことを、信仰生活を通して実感し、経験してきたのです。
イエス・キリストから与えられる強さは、私たち自身による強さではなく、私たちの内に住んでくださるキリストの力です。それはまた、キリストの愛でもあります。
この私は弱くても、私たちの内に住んでくださるキリストのおかげで、私はどんなときにも強くあることができる、という安心です。
「フィリピの信徒への手紙」の中で、同じパウロが次のように書いています。少し長くなりますが、フィリピの信徒の手紙4章11~13節まで引用いたします。
わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
いついかなる時にも、私に強さを与えてくださるお方(イエス・キリスト)によって、私にはすべてが可能です、とパウロは言っています。
これは、どんな不遇な境遇にあっても文句も言わずに我慢しなさい、ということではありません。
もし誰かが不当な扱いや、不当な差別や偏見などを受けているのならば、当然そのような状況は正されなくてはなりません。
私たちキリストの教会は、そのような不当な扱いを受けている方々、弱い方々に寄り添うこと、支援をすること、そして祈ることを大切にせねばなりません。
しかし、どう考えても誰も悪くない、私たちでは何ともしようのない状況の中で人が苦しむということが起こり得ます。例えば、突然の病や不測の事故に襲われる、ということもあります。
そのような時、人は何を頼りに生きていけばよいのでしょうか。
聖書は伝えるのです。「神は私に生きる力を与えてくださる。」聖書は伝えます。私たちが歩けないときも、キリストが私を背負って歩いてくださる、と言うのです。
旧約聖書の『イザヤ書』の46章3~4節に次のように書かれています。
あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
これは、神から私たちに与えられた永遠なる約束です。“わたし(神)があなたたちを担い、背負い、救い出す”というこの約束は、救い主イエス・キリストにより実現しました。
そして今も、キリストが私たちを担い、背負って、救い出してくださいます。
いついかなる状況の中にも私たちと共に歩いてくださり、私たちが自分で歩けない時、倒れた時、私たちを背負ってくださる神がおられます。
そのことを信じ、そのお方に感謝をして、私たちは生きていこうではありませんか。
もう一度12節の(前半の)言葉に戻りましょう。
「私を強くしてくださった、わたしたちの主イエス・キリストに感謝しています。
パウロは「わたしを強くしてくださったお方」のことを「わたしたちの主イエス・キリスト」であると言っています。
この私を強くしてくださった神は、私だけの神ではなく、私たち(すべての人間の)主である、ということです。
“信仰とは個人的なものだ”、という考えがあります。それはある意味で正しいです。神は私たち一人ひとりと個人的な関係を結んでくださるお方です。
しかし、イエス・キリストへの信仰は、信仰者一人ひとりの中だけに留めておくことはできません。イエス・キリストは“わたしの主”であると同時に、“わたしたちの主”でもあるのです。
私たちは礼拝の中で「主の祈り」を共に祈ります。主の祈りでは「天にましますわれらの父よ」と言って祈ります。
「天にましますわれらの父よ」と祈り、宣言することで、私たちは、イエス・キリストが“わたしたちの主”であることを宣言します。
すなわち、キリストは、今ここにいる私たち以外の人たちにとっても、世の全ての人にとっての主であり、救い主であるという信仰を私たちは主の祈りを通して表明しているのです。
「天にましますわれらの父よ」と祈ることで、“わたしの父”が、“わたしたちの父でもある”という信仰へと導かれ、私たちは自分を超えて他者のためにも祈る者へと変えられ、成長していきます。
“われらの父、全ての者にとっての父がおられる”と信じ、そのように祈ることができる喜びを、私たちは教会で分かち合います。
そして“私たちの父”に共に祈ることを通して、私たち一人ひとりが、この信仰の共同体(家族)の一員である、ということが喜びとして実感できる教会で私たちはありたいとも、願います。
今日の15節の言葉をお読みします。今日の宣教題でもある節です。
15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。
ここに、その言葉をそのまま私たちが受け入れるべき真実が語られています。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」のです。
イエス様自身が、地上で生きておられた時に、次のようにおっしゃっています。イエス様は、罪人と言われた人たちと一緒に食事をなさいました。
ある人々が「あなたはなぜ罪人と一緒に食事をするのか」とイエス様に聞きました。皆さん、よく考えてください。「あなたはなぜ罪人と一緒に食事をするのか」と聞いた人は、自分自身が罪人だとは思っていないのです。
イエス様はこうお答えになりました。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコによる福音書2章17節)
イエス・キリストが罪人を招くため、罪人を救うために、この世界に来てくださいました。神であるお方が、人となって、罪人の救いのために、私たちの世界に来てくださったのです。
聖書はまた、「正しい人はいない、一人もいない」とも伝えます(ローマの信徒への手紙3章10節)
聖書は”罪人、罪人“と言って人を責めるから嫌だな、と私たちは思うかもしれません。しかし、やはり私たちは自分自身に本当に正直に向き合う時、自分の罪に向き合わされるのです。
自分では取り除くことのできない、自分自身の罪を抱えて、私たちは生きています。しかし、聖書は言うのです、“キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた”と。
罪を取り除いてくださる方、喜びの生きる道を与えてくださるお方が確かにおられる、と聖書は伝えるのです。
イエス・キリストに救いの道があり、その方の救いから漏れている人は誰もいません。その知らせを信じて、キリストにある救いの道を歩んで生きていくかどうか、は私たち自身です。
人は皆罪人である、しかし罪の赦しがある、という聖書の知らせは、やはり私たちにとって本当の喜びの知らせ、まさに“福音”なのです。
また、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という真実の言葉から、私たちが受け入れなくてはならないもう一つことは、”イエス・キリスト以外に救いはない“ということです。
『使徒言行録』4章12節に、次のように書かれています。復活のイエス様について述べ伝えていたペトロが、議会で取り調べられている時に言った言葉です。
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
「ほかの誰によっても、救いは得られません」。イエス・キリスト以外の誰によっても、何によっても救いは得られません。
今日の聖書の箇所は、そして聖書全体は私たちに、その言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値する、と言います。
キリストによる救いと、そのお方以外に人の救いはない、という点において、キリスト者は、またキリスト教会は決して妥協することが許されていない、そうすることはできないのです。
もし私たちがその点で少しでも妥協するのならば、それは私たちのために十字架の上で命を捨ててくださったお方の死を意味のないものとします。
またそうすることで、十字架によって私たちに与えられた恵みを、私たちは自ら手放すことにもなる、と私は信じます。
神の御子イエス・キリストが、そのお命と引き換えに与えてくださった救いの恵みを、私たちが手放すとしたら、それほど天の父なる神を悲しませることが他にあるでしょうか。
イエス様によって私たちに与えられた救い、永遠の恵みを、私たちが自ら手放すことは決してせず、私たちに与えられた救いの道を私たちは共に歩み、その道を世に伝え続けていきましょう。
イエス・キリストの言葉、聖書の言葉、み言葉の上に、その真実の上に私たちは立ち続け、互いに御言葉によって励まし合い、信仰の命を生きていこうではありませんか。
前奏
招詞 イザヤ書46章4節b
賛美 新生讃美歌 493番 み子イエス世人のため
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌388番 主よ わが心に
献金
聖句 テモテへの手紙一 1章12~17節
祈祷
宣教 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」
祈祷
賛美 新生讃美歌255番 わが罪のために
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
今日私たちに与えられた聖書の御言葉は、新約聖書『テモテへの手紙一』の中の言葉です。
「テモテへの手紙(一と二)」は、伝道者パウロが、彼の弟子のテモテに宛てて書いたとされる手紙です。
テモテは、ガラテヤ(現在のトルコに位置します)と言われた地方の出身で、彼の母親はユダヤ人、父親はギリシア人であったと、「使徒言行録」の16章に書かれています。
テモテへの手紙1章2節に「信仰によるまことの子テモテへ」と書かれています。この言葉から、パウロはテモテに対して、血縁関係はなくとも、特別な愛情をもっていたことが分かります。
血縁の家族ではなくても、イエス・キリストの恵みによって、パウロとテモテは信仰を通しての父と子(親子)となっていたということです。
私たちも教会で、血縁関係を超えた信仰による家族の関係へと招き入れられています。
キリストの恵みによって、教会への交わりへと私たちは招かれました。キリストによって、私たちは神の子とされました。
同じ神、主イエス・キリストの父なる神のもとで、神の子とされていることを私たちは喜びます。
同じ教会にキリストの恵みによって招き入れられた私たちが、お互いを信仰の家族として、互いを受け入れ合う特別な関係を育んでいきたいと願います。
今日の箇所の初めの12節にこのように書かれています。
「私を強くしてくださった、わたしたちの主イエス・キリストに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」
ここではまず、“人はイエス・キリストによって強くされる”ことが言われています。パウロ自身が、キリストから強さを与えられたことを、信仰生活を通して実感し、経験してきたのです。
イエス・キリストから与えられる強さは、私たち自身による強さではなく、私たちの内に住んでくださるキリストの力です。それはまた、キリストの愛でもあります。
この私は弱くても、私たちの内に住んでくださるキリストのおかげで、私はどんなときにも強くあることができる、という安心です。
「フィリピの信徒への手紙」の中で、同じパウロが次のように書いています。少し長くなりますが、フィリピの信徒の手紙4章11~13節まで引用いたします。
わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
いついかなる時にも、私に強さを与えてくださるお方(イエス・キリスト)によって、私にはすべてが可能です、とパウロは言っています。
これは、どんな不遇な境遇にあっても文句も言わずに我慢しなさい、ということではありません。
もし誰かが不当な扱いや、不当な差別や偏見などを受けているのならば、当然そのような状況は正されなくてはなりません。
私たちキリストの教会は、そのような不当な扱いを受けている方々、弱い方々に寄り添うこと、支援をすること、そして祈ることを大切にせねばなりません。
しかし、どう考えても誰も悪くない、私たちでは何ともしようのない状況の中で人が苦しむということが起こり得ます。例えば、突然の病や不測の事故に襲われる、ということもあります。
そのような時、人は何を頼りに生きていけばよいのでしょうか。
聖書は伝えるのです。「神は私に生きる力を与えてくださる。」聖書は伝えます。私たちが歩けないときも、キリストが私を背負って歩いてくださる、と言うのです。
旧約聖書の『イザヤ書』の46章3~4節に次のように書かれています。
あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
これは、神から私たちに与えられた永遠なる約束です。“わたし(神)があなたたちを担い、背負い、救い出す”というこの約束は、救い主イエス・キリストにより実現しました。
そして今も、キリストが私たちを担い、背負って、救い出してくださいます。
いついかなる状況の中にも私たちと共に歩いてくださり、私たちが自分で歩けない時、倒れた時、私たちを背負ってくださる神がおられます。
そのことを信じ、そのお方に感謝をして、私たちは生きていこうではありませんか。
もう一度12節の(前半の)言葉に戻りましょう。
「私を強くしてくださった、わたしたちの主イエス・キリストに感謝しています。
パウロは「わたしを強くしてくださったお方」のことを「わたしたちの主イエス・キリスト」であると言っています。
この私を強くしてくださった神は、私だけの神ではなく、私たち(すべての人間の)主である、ということです。
“信仰とは個人的なものだ”、という考えがあります。それはある意味で正しいです。神は私たち一人ひとりと個人的な関係を結んでくださるお方です。
しかし、イエス・キリストへの信仰は、信仰者一人ひとりの中だけに留めておくことはできません。イエス・キリストは“わたしの主”であると同時に、“わたしたちの主”でもあるのです。
私たちは礼拝の中で「主の祈り」を共に祈ります。主の祈りでは「天にましますわれらの父よ」と言って祈ります。
「天にましますわれらの父よ」と祈り、宣言することで、私たちは、イエス・キリストが“わたしたちの主”であることを宣言します。
すなわち、キリストは、今ここにいる私たち以外の人たちにとっても、世の全ての人にとっての主であり、救い主であるという信仰を私たちは主の祈りを通して表明しているのです。
「天にましますわれらの父よ」と祈ることで、“わたしの父”が、“わたしたちの父でもある”という信仰へと導かれ、私たちは自分を超えて他者のためにも祈る者へと変えられ、成長していきます。
“われらの父、全ての者にとっての父がおられる”と信じ、そのように祈ることができる喜びを、私たちは教会で分かち合います。
そして“私たちの父”に共に祈ることを通して、私たち一人ひとりが、この信仰の共同体(家族)の一員である、ということが喜びとして実感できる教会で私たちはありたいとも、願います。
今日の15節の言葉をお読みします。今日の宣教題でもある節です。
15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。
ここに、その言葉をそのまま私たちが受け入れるべき真実が語られています。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」のです。
イエス様自身が、地上で生きておられた時に、次のようにおっしゃっています。イエス様は、罪人と言われた人たちと一緒に食事をなさいました。
ある人々が「あなたはなぜ罪人と一緒に食事をするのか」とイエス様に聞きました。皆さん、よく考えてください。「あなたはなぜ罪人と一緒に食事をするのか」と聞いた人は、自分自身が罪人だとは思っていないのです。
イエス様はこうお答えになりました。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコによる福音書2章17節)
イエス・キリストが罪人を招くため、罪人を救うために、この世界に来てくださいました。神であるお方が、人となって、罪人の救いのために、私たちの世界に来てくださったのです。
聖書はまた、「正しい人はいない、一人もいない」とも伝えます(ローマの信徒への手紙3章10節)
聖書は”罪人、罪人“と言って人を責めるから嫌だな、と私たちは思うかもしれません。しかし、やはり私たちは自分自身に本当に正直に向き合う時、自分の罪に向き合わされるのです。
自分では取り除くことのできない、自分自身の罪を抱えて、私たちは生きています。しかし、聖書は言うのです、“キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた”と。
罪を取り除いてくださる方、喜びの生きる道を与えてくださるお方が確かにおられる、と聖書は伝えるのです。
イエス・キリストに救いの道があり、その方の救いから漏れている人は誰もいません。その知らせを信じて、キリストにある救いの道を歩んで生きていくかどうか、は私たち自身です。
人は皆罪人である、しかし罪の赦しがある、という聖書の知らせは、やはり私たちにとって本当の喜びの知らせ、まさに“福音”なのです。
また、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という真実の言葉から、私たちが受け入れなくてはならないもう一つことは、”イエス・キリスト以外に救いはない“ということです。
『使徒言行録』4章12節に、次のように書かれています。復活のイエス様について述べ伝えていたペトロが、議会で取り調べられている時に言った言葉です。
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
「ほかの誰によっても、救いは得られません」。イエス・キリスト以外の誰によっても、何によっても救いは得られません。
今日の聖書の箇所は、そして聖書全体は私たちに、その言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値する、と言います。
キリストによる救いと、そのお方以外に人の救いはない、という点において、キリスト者は、またキリスト教会は決して妥協することが許されていない、そうすることはできないのです。
もし私たちがその点で少しでも妥協するのならば、それは私たちのために十字架の上で命を捨ててくださったお方の死を意味のないものとします。
またそうすることで、十字架によって私たちに与えられた恵みを、私たちは自ら手放すことにもなる、と私は信じます。
神の御子イエス・キリストが、そのお命と引き換えに与えてくださった救いの恵みを、私たちが手放すとしたら、それほど天の父なる神を悲しませることが他にあるでしょうか。
イエス様によって私たちに与えられた救い、永遠の恵みを、私たちが自ら手放すことは決してせず、私たちに与えられた救いの道を私たちは共に歩み、その道を世に伝え続けていきましょう。
イエス・キリストの言葉、聖書の言葉、み言葉の上に、その真実の上に私たちは立ち続け、互いに御言葉によって励まし合い、信仰の命を生きていこうではありませんか。
2025年2月22日土曜日
2025年2月23日 主日礼拝
前奏
招詞 ゼファニア書3章9節
賛美 新生讃美歌260番 み言葉もて霊の火を
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句 テサロニケの信徒への手紙一 4章13~18節
祈祷
宣教 「主は来られる」
祈祷
賛美 新生讃美歌216番 栄えの冠を
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
今日の聖書箇所は、『テサロニケの信徒への手紙一』の4章の中の一部です。
今日の箇所の4章14節前半に、『イエスは死んで復活されたと、わたしたちは信じています』と書かれています。
キリスト者とは、イエス・キリストが人となって生まれ、十字架の上で死に、そして復活したことを信じる者です。
そしてまたキリスト者とは、十字架と復活のキリストによって、自分自身が生かされていることを知っている者です。
キリストが死んで復活したので、そしてそのキリストが今も生きておられるので、私たちは日々希望を頂いて生きることができます。
キリストの復活を信じる者が、キリストの力によって日々生きているその姿はまさに、主の復活を証します。
私たちはキリスト者として、またキリスト教会として、復活の主キリストこそが、私たちを本当に生かし、力と喜びを与えてくださることを日々証していきたいと願います。
復活したキリストはそのお姿を多くの人たちの前に現わし、そして天へと上って行かれました。『使徒言行録』の1章にそのことが書かれています。
イエス様は、再びこの地上においでになるという約束と共に、天に上っていかれました。
その出来事を目撃した人々、またその出来事を伝え聞いてイエス・キリストを信じるようになった人たちは、イエス様は自分たちが生きている間にお戻りになる、と信じていました。
ところがイエス様が天から地上へと戻ってこられる前に、イエス様を信じながらこの地上での生を終える人たちが出てきました。
主を信じつつも、イエス様が戻ってくる前に世を去った(死んだ)人たちは、イエス様が戻ってくるときにどうなるのだろうか(もうその人たちは地上にはいないのだから)、というのが当時のキリストの弟子たちに突き付けられた大変大きな問題の一つでした。
実際に、次のように言って、キリスト教信仰とイエス様が再び来られるということを嘲って言う人たちがいました。
ペトロの手紙二3章4節
「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。
主は再び来る、と言いながら、いつまでたっても主はやってこないではないか。世の中何一つ変わっていないではないか。そもそも神など本当におられるのか、という声が、最初のキリスト者たちにも既に投げかけられていたのです。
しかし、同じペトロの手紙二3章8~9節には次のように書かれています。
8愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
9ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
人間の感覚から言えば、”主イエスは再び来られると約束しておられるのに、いつまでたっても来られない。その約束はまやかしだったのではないか。キリスト信仰そのものも、真実ではないのではないか“という疑いが生じます。
しかし、主のもとでは(With the Lord)“一日は千年のようで、千年は一日のよう”なのです。
主なる神は永遠なるお方ですから、私たちは信仰によって神の永遠という観点から、主の約束を理解しなくてはなりません。
私たちは限りがある人間ですので、永遠であるお方(神)のこと、神のご計画を完全に理解することはできません。
しかし、主は約束を必ず果たしてくださる誠実なお方、と私たちは聖書の御言葉を通して信じることができます。
神の永遠を完全に理解することはできなくても、永遠なる神を信じ、その方の誠実さに信頼をして、生きることはできます。
私達は、私たちを永遠の中に生かしてくださる神の偉大さ、また主は必ず約束を果たしてくださる誠実なお方、ということを常に信じ、生きていきたいと願います。
そして永遠なる主を信じ、主を信頼して生きる生き方を私たちは選び、信仰者同士共に歩むことができる幸いを覚えて感謝をしたいとも願います。
このテサロニケの信徒への手紙を書いたパウロは、今日の15節で次のように書いています。
主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。(15節)
「主の言葉に基づいて According to the Lord’s word」とパウロはここで言います。それは、彼は自分自身で勝手に考え出したことを言っているのではない、と言うことです。
主イエス・キリストが残されたお言葉に基づいて、そして祈り求めた結果自分に与えられたこととして、パウロはここでそのように言うのです。
信仰者であるパウロ自身が信仰の先達たちから伝え聞いた言葉、そして主なる神からの啓示(神から示されたこと)によって彼に主の言葉として知らされたことに基づいて、”先に召された者が復活し、そして生き残っている者も共に天に引き上げられる“とパウロはここで言っています。
今日の箇所で言われていることは、どこか幻想的と言いますか、現実の事として受け取るのが私たちにとっては困難な箇所かもしれません。
しかし、私たちは誰もがいつか必ず、この地上での生を終える者です。
ですから、“この地上での命が尽きても、私たちにはイエス・キリストによって復活の命が与えられている”という希望の信仰を持つことは、大きな恵みであると、私は信じます。
たとえ私たちにははっきりとは分からなくても、私たちの思いや考えをはるかに超えた神の永遠の命に、私たちも生かされるという希望が、イエス・キリストによって私たちには与えられています。
私たちには、今自分たちが生きているこの地上の世界のことしかわかりません。それどころか、目に見えているこの世界のことであっても、分からないことが沢山あるくらいです。
不安定なことが多い世界、どこに確かな希望があると言えばよいのか分からないこと、も多く起きる世界に私は生きています。
しかし、聖書を通して伝えられるイエス・キリストを通してこの世界を見るとき、キリストの復活の力を通してこの世界を見るとき、私たちはそこに確かな希望と生きる力を見い出すことができます。
今日の17節の最後に、「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と書かれています。
”わたしたちはいつまでも主とともにいるようになります“~これは、将来私たちに与えられる、将来完全な形で実現する約束です。
そうであるとともに、“主はいつまでも私たちと共にいる”という約束は、既に今実現している約束でもあります。(矛盾した言い方に聞こえるかもしれませんが、そうなのです)
主は私たちの目には見えませんが、聖霊を通して私たちにイエス・キリストを信じる信仰を与えてくださっているからです。
主は聖霊によって、聖書に書かれた言葉が、神から私たちへ今も語りかけられる言葉であるという信仰を与えてくださいます。
主は聖霊によって、聖書の御言葉を霊の糧として、その糧を私たちが分かち合って生きるようにと、今も私たちを導いてくださっています。
主の言葉によって、また主の言葉が分かち合われることによって、私たちは心を震わされ、また大きな励ましと喜びが与えられます。
そのような意味でも、主はいつまでも私たちと共におられる、という約束は今既に実現している約束である、と言ってもよいのです。
今日の箇所最後の18節にこのように書かれています。
ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
今述べた言葉(あるいは、“これらの言葉)とは、主の言葉に基づいて、信仰者であるパウロが語った言葉です。
つまり、主の言葉が、一人の信仰者の生き方を通して、別の言葉、言い方で語られたということです。
そのように、私たちは他の信仰者の言葉を通しても、主なる神の御言葉が確かに私たちを生かし力を与えるものであることを、確信させられます。
先日の礼拝では、二人の姉妹と一人の兄弟が、証と宣教とを担ってくださいました。私はその日、別の教会での礼拝に参加して、直接それらをお聞きすることはできませんでした。
しかし、事前に原稿を通じて、そのお証とメッセージを読むことができました。
実際に声によって届けられるときには、それらはどのように響くのだろうか、などとも想像しながら、私は原稿を読ませていただきました。
それらの証と宣教では、それを語った方々それぞれの信仰の生き方を通して、主の言葉が確かに語られていました。
そして私たちの思いを超えた聖霊の導きがあって、語られたお一人お一人の言葉が、最終的には一つとなって、その日の礼拝全体の恵みとなったと私は信じます。
私たちの主なる神は、み言葉を、信仰者の生き方と言葉を通して世に伝える、と願われました。
福音を世に伝え、また私たちが互いに語られる主の言葉によって生かされ合うように、私たちはキリスト者とされ、そして私達は一つの教会として立てられたのです。
これからも私たちは、主の言葉によって、互いに励まし合いながら、信仰生活を共に送ってまいりましょう。
主の復活による確かな希望に生かされて、キリストの福音宣教の業にも、私たちは仕えていきたいと願います。
前奏
招詞 ゼファニア書3章9節
賛美 新生讃美歌260番 み言葉もて霊の火を
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句 テサロニケの信徒への手紙一 4章13~18節
祈祷
宣教 「主は来られる」
祈祷
賛美 新生讃美歌216番 栄えの冠を
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
今日の聖書箇所は、『テサロニケの信徒への手紙一』の4章の中の一部です。
今日の箇所の4章14節前半に、『イエスは死んで復活されたと、わたしたちは信じています』と書かれています。
キリスト者とは、イエス・キリストが人となって生まれ、十字架の上で死に、そして復活したことを信じる者です。
そしてまたキリスト者とは、十字架と復活のキリストによって、自分自身が生かされていることを知っている者です。
キリストが死んで復活したので、そしてそのキリストが今も生きておられるので、私たちは日々希望を頂いて生きることができます。
キリストの復活を信じる者が、キリストの力によって日々生きているその姿はまさに、主の復活を証します。
私たちはキリスト者として、またキリスト教会として、復活の主キリストこそが、私たちを本当に生かし、力と喜びを与えてくださることを日々証していきたいと願います。
復活したキリストはそのお姿を多くの人たちの前に現わし、そして天へと上って行かれました。『使徒言行録』の1章にそのことが書かれています。
イエス様は、再びこの地上においでになるという約束と共に、天に上っていかれました。
その出来事を目撃した人々、またその出来事を伝え聞いてイエス・キリストを信じるようになった人たちは、イエス様は自分たちが生きている間にお戻りになる、と信じていました。
ところがイエス様が天から地上へと戻ってこられる前に、イエス様を信じながらこの地上での生を終える人たちが出てきました。
主を信じつつも、イエス様が戻ってくる前に世を去った(死んだ)人たちは、イエス様が戻ってくるときにどうなるのだろうか(もうその人たちは地上にはいないのだから)、というのが当時のキリストの弟子たちに突き付けられた大変大きな問題の一つでした。
実際に、次のように言って、キリスト教信仰とイエス様が再び来られるということを嘲って言う人たちがいました。
ペトロの手紙二3章4節
「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。
主は再び来る、と言いながら、いつまでたっても主はやってこないではないか。世の中何一つ変わっていないではないか。そもそも神など本当におられるのか、という声が、最初のキリスト者たちにも既に投げかけられていたのです。
しかし、同じペトロの手紙二3章8~9節には次のように書かれています。
8愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
9ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
人間の感覚から言えば、”主イエスは再び来られると約束しておられるのに、いつまでたっても来られない。その約束はまやかしだったのではないか。キリスト信仰そのものも、真実ではないのではないか“という疑いが生じます。
しかし、主のもとでは(With the Lord)“一日は千年のようで、千年は一日のよう”なのです。
主なる神は永遠なるお方ですから、私たちは信仰によって神の永遠という観点から、主の約束を理解しなくてはなりません。
私たちは限りがある人間ですので、永遠であるお方(神)のこと、神のご計画を完全に理解することはできません。
しかし、主は約束を必ず果たしてくださる誠実なお方、と私たちは聖書の御言葉を通して信じることができます。
神の永遠を完全に理解することはできなくても、永遠なる神を信じ、その方の誠実さに信頼をして、生きることはできます。
私達は、私たちを永遠の中に生かしてくださる神の偉大さ、また主は必ず約束を果たしてくださる誠実なお方、ということを常に信じ、生きていきたいと願います。
そして永遠なる主を信じ、主を信頼して生きる生き方を私たちは選び、信仰者同士共に歩むことができる幸いを覚えて感謝をしたいとも願います。
このテサロニケの信徒への手紙を書いたパウロは、今日の15節で次のように書いています。
主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。(15節)
「主の言葉に基づいて According to the Lord’s word」とパウロはここで言います。それは、彼は自分自身で勝手に考え出したことを言っているのではない、と言うことです。
主イエス・キリストが残されたお言葉に基づいて、そして祈り求めた結果自分に与えられたこととして、パウロはここでそのように言うのです。
信仰者であるパウロ自身が信仰の先達たちから伝え聞いた言葉、そして主なる神からの啓示(神から示されたこと)によって彼に主の言葉として知らされたことに基づいて、”先に召された者が復活し、そして生き残っている者も共に天に引き上げられる“とパウロはここで言っています。
今日の箇所で言われていることは、どこか幻想的と言いますか、現実の事として受け取るのが私たちにとっては困難な箇所かもしれません。
しかし、私たちは誰もがいつか必ず、この地上での生を終える者です。
ですから、“この地上での命が尽きても、私たちにはイエス・キリストによって復活の命が与えられている”という希望の信仰を持つことは、大きな恵みであると、私は信じます。
たとえ私たちにははっきりとは分からなくても、私たちの思いや考えをはるかに超えた神の永遠の命に、私たちも生かされるという希望が、イエス・キリストによって私たちには与えられています。
私たちには、今自分たちが生きているこの地上の世界のことしかわかりません。それどころか、目に見えているこの世界のことであっても、分からないことが沢山あるくらいです。
不安定なことが多い世界、どこに確かな希望があると言えばよいのか分からないこと、も多く起きる世界に私は生きています。
しかし、聖書を通して伝えられるイエス・キリストを通してこの世界を見るとき、キリストの復活の力を通してこの世界を見るとき、私たちはそこに確かな希望と生きる力を見い出すことができます。
今日の17節の最後に、「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と書かれています。
”わたしたちはいつまでも主とともにいるようになります“~これは、将来私たちに与えられる、将来完全な形で実現する約束です。
そうであるとともに、“主はいつまでも私たちと共にいる”という約束は、既に今実現している約束でもあります。(矛盾した言い方に聞こえるかもしれませんが、そうなのです)
主は私たちの目には見えませんが、聖霊を通して私たちにイエス・キリストを信じる信仰を与えてくださっているからです。
主は聖霊によって、聖書に書かれた言葉が、神から私たちへ今も語りかけられる言葉であるという信仰を与えてくださいます。
主は聖霊によって、聖書の御言葉を霊の糧として、その糧を私たちが分かち合って生きるようにと、今も私たちを導いてくださっています。
主の言葉によって、また主の言葉が分かち合われることによって、私たちは心を震わされ、また大きな励ましと喜びが与えられます。
そのような意味でも、主はいつまでも私たちと共におられる、という約束は今既に実現している約束である、と言ってもよいのです。
今日の箇所最後の18節にこのように書かれています。
ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
今述べた言葉(あるいは、“これらの言葉)とは、主の言葉に基づいて、信仰者であるパウロが語った言葉です。
つまり、主の言葉が、一人の信仰者の生き方を通して、別の言葉、言い方で語られたということです。
そのように、私たちは他の信仰者の言葉を通しても、主なる神の御言葉が確かに私たちを生かし力を与えるものであることを、確信させられます。
先日の礼拝では、二人の姉妹と一人の兄弟が、証と宣教とを担ってくださいました。私はその日、別の教会での礼拝に参加して、直接それらをお聞きすることはできませんでした。
しかし、事前に原稿を通じて、そのお証とメッセージを読むことができました。
実際に声によって届けられるときには、それらはどのように響くのだろうか、などとも想像しながら、私は原稿を読ませていただきました。
それらの証と宣教では、それを語った方々それぞれの信仰の生き方を通して、主の言葉が確かに語られていました。
そして私たちの思いを超えた聖霊の導きがあって、語られたお一人お一人の言葉が、最終的には一つとなって、その日の礼拝全体の恵みとなったと私は信じます。
私たちの主なる神は、み言葉を、信仰者の生き方と言葉を通して世に伝える、と願われました。
福音を世に伝え、また私たちが互いに語られる主の言葉によって生かされ合うように、私たちはキリスト者とされ、そして私達は一つの教会として立てられたのです。
これからも私たちは、主の言葉によって、互いに励まし合いながら、信仰生活を共に送ってまいりましょう。
主の復活による確かな希望に生かされて、キリストの福音宣教の業にも、私たちは仕えていきたいと願います。
2025年2月15日土曜日
2025年2月16日主日礼拝
前奏
招詞 ヨシュア記23章14節
賛美 新生讃美歌 124番 この世はみな
主の祈り
賛美 新生讃美歌 384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句 コロサイの信徒への手紙3章12~17節
祈祷
宣教 「キリストの平和」
祈祷
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄 新生讃美歌672番
祈祷
後奏
今日の聖書箇所は、今お読みいただいた、新約聖書の中の『コロサイの信徒への手紙』3章からの御言葉です。
この箇所の中心となる言葉、そして私が今日のメッセージの題にもしました大切な言葉は、「キリストの平和」です。
神の御子(息子)イエス・キリストは、私たちに本当に多くの、数えきれないほどの恵みを与えてくださいました。
キリストによる恵みの一つが”平和“です。平和が尊い、大切なものであることは、私たち皆が理解している、分かっている(平和に反対する人はいない)と私は思います。
誰もが平和を望みながら、なぜ世界には、あるいはまた私たちの身の回りでも、とても平和とは言えない状況(戦争やその他大小の争い)が、絶えず起こり続けるのでしょうか。
私たちは、社会の中でおこる凶悪な犯罪や、また連日ニュースでも伝えられる激しく悲惨な戦争、それによって尊い多くの命が失われている事実を聞くたびに、ただ失望するしかないという思いにもとらわれます。
”平和など夢物語“だと言って、私たちはあきらめたくなるかもしれません。
しかし、私たちは、聖書の御言葉の中に、そして聖書を通して伝えられるイエス・キリストの中に、「決して平和は失われてはいない。平和はここにある」という希望の知らせを聞くことができます。
イエス様は、どのようにして、平和を私たちに与えてくださったのでしょうか。今日の箇所と同じコロサイの信徒への手紙1章19~20節に次のように書かれています。
19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
「神は御子(イエス・キリスト)の十字架の血によって、平和を打ち立てた」と、ここにはっきりと書かれています。
ですから、私たちの目には、平和はいまだに実現していない出来事のように見えますが、イエス・キリストの十字架の出来事から見れば、神はそれによって既に平和を打ち立て、成し遂げてくださった、と言えるのです。
キリストの十字架の血(すなわちキリストの死)は、私たち人間が、神と和解することが出来るための恵みの出来事でした。
わたしたちは神によって創造され、神の栄光のもとに、神との豊かな関係の中で、喜びを持って生きる者でした。
しかしそんな私たちに罪が入り込み、神から私たちは自ら離れてしまいました。聖書の言う人の罪は、そのように人間が神から離れて、神を避け、自分中心に生きるようになったことから始まりました。
そして本来神と共に、神との関係の中で生きるように造られた私たちが、神から離れて自分本位に生きようとし始めたので、本当の平和からも私たちは遠ざかるようになってしまいました。
神の言葉によって、また神の知恵によって養われて、私たちは霊的にも豊かな命を生きることができるのに、神以外のものに頼って生きるようとするならば、そこには本当の平安、平和はありません。
わたしたちは神の御子イエス・キリストの十字架の出来事によって、平和が打ち立てられた、という聖書の使信(メッセージ)に、今こそ確信と信頼を寄せたいと願います。
キリストの十字架によって、神が私たちを真の平和へと招いてくださっています。キリストにこそ真の平和がある、という真実を私たちは信じていきたいと願います。
そして今日の15節には次のように書かれています。
また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。
キリストの平和が私たちの心を支配するように、と今日の箇所は促します。そしてこの平和(キリストの平和)にあずからせるために、人は招かれて一つの体とされた、ともこの箇所は言います。
ここで”一つの体“と言われているのは教会です。それはキリスト教会のことです。なぜ私たちは教会に繋がるのでしょうか。それはキリストの体である教会の一部(一員)となることで、私たちがキリストの平和を自分たちのものとして頂くためです。
十字架のイエス・キリストを信じ、キリストの十字架の出来事により打ち立てられた平和を信じるので、その平和にあずかるために、私たちは教会へと繋がり、教会の一部となって信仰生活を送るのです。
神は独り子のイエス様を私たちにお与えになるほどに、私たちを愛してくださいました。イエス様のその愛によって、私たちは自分がどれほど特別な者であるのかを知ることができます。
キリストを通して、キリストの御愛を通して、私たちが自分自身の特別さ、尊さを知るとき、その思いは、私たちを自分以外の他者をも愛する者へと変えていきます。
キリストがこの私の罪を赦し、神と和解して再び神との平和の中で生きることを赦してくださったことに私たちが感謝する時、私たちはきっと他者に対しても、愛と赦しの心を持てるようになる、というのが聖書の伝える希望のメッセージです。
キリストの愛と平和を信じ、それが実践されるのが、キリストの体なる教会です。
私自身が教会に受け入れられるようになり、教会の一員となることができた、その歩みを振り返るとき、確かに神からの愛と赦し、寛容、忍耐が教会の人々を通して私に与えられてきた、ということを私は認めなくてはなりません。
最初に教会に行き始めた頃の私は、教会の皆さんに対して本当に無礼で、ぶっきらぼうな態度を取っていました。なぜなら、私はキリスト教に対して大変な反感を持っていたからです。
当時交際していた女性(今の妻)が強く誘い、勧めるので、最初は仕方なく教会の礼拝に私は通っていたのです。よく言えば正直な私は、そんな自分の気持ちを隠すことができず、キリスト教への反感が私の態度にはっきりと表れていたのだと思います。
最初に妻に誘われて一緒に通った教会は、私たちが留学していたアメリカの教会でした。それから何年かたってから(私がクリスチャンになってから)、その時の牧師であった先生から「最初教会に来たころの君は、あまりにぶっきらぼうで、実は君のことを私はあきらめていたんだよ」とおっしゃいました。
そんな私を本当に忍耐強く受け入れてくれたのは、教会のその他の兄弟姉妹たちでした。アメリカの教会でも、そして日本に戻ってから通った教会でも、私のことを寛容と忍耐、赦しの心で私を受け入れてくれた兄弟姉妹がいました。
アメリカでは、私を自宅に招いてくれて、聖書を忍耐強く教えてくださる方々もいました。
名古屋の教会では、本当に生意気な青年だった私のために、私の目の前で「どうかこの青年に分かる方法で、あなたがイエス様を彼に伝えてあげてください」と本気で祈ってくださった方もいました。
私が導かれたそれらの教会には、キリストの愛と赦しを自分のものとしていただいて、そしてそのキリストの愛と赦しを他者に分け与える、分かち合うことを実践している兄弟姉妹たちが確かにいました。
そのことを今では私は心から神に、そしてその兄弟姉妹たちに感謝をせずにはいられません。
その方々の信仰の姿を今思い出しても、その方々はまず自分自身がイエス様に愛されていることを心から確信しておられた、ということが思い出されます。
イエス・キリストによって愛されていることを確信していたので、ご自分がキリストの愛によって豊かに生かされていたので、自分以外の他者にその愛があふれ出すのは、その人たちにとってはごくごく自然なことだったのだと、思います。
そして私の出身教会の兄弟姉妹は、愛と確信をもって、私を献身者として(牧師になるための道を進むため)自分たちの群れから祈りをもって送りだしてくれました。
そして今、別府国際教会の兄弟姉妹の皆様は、いまだに欠けの多い、足りないものの多いこの私を、教会の霊的リーダーとして立て続けてくださっています。
教会が、同じ人間である誰かを、群れの霊的なリーダーとして立てるという出来事は、主なる神への信頼へと、愛と赦しの信仰が教会の中で共有されていなくては、決して実現しない出来事であると、私は信じます。
イエス・キリストの十字架によって示された神の愛を信じ、その愛によって結びつけられた者が霊的に一つの体を形成しているのが教会です。
私たちは、これからもキリストの体である教会の一員として、キリストの平和、キリストの言葉によって互いに結ばれて、神の愛と赦しによって一人ひとりが大切にされる共同体を作り上げていきましょう。
今日の箇所の最後の節である17節をお読みします。
そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
神からの大きな、法外な恵みと愛、赦しを受けた者には、それ相応の責任も与えられます。そしてその責任は大きな特権でもあります。
それが“わたしたちが何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行う”ということです。
つまり、私たちはキリストの名をこの身に負っている、私たちキリスト者はキリストから遣わされた大使として、キリストの名を代表して生きているということです。
キリスト者である私たちが発する言葉の一つ一つが、キリストを代表する言葉であるということです。キリスト者である私たちが取る行動の一つ一つが、キリストを代表する行いとなる、ということです。
それはとても恐ろしい事実でもあります。なぜなら、自分自身を振り返った時、私の言葉や行いが、イエス・キリストを代表したものだとは、とても思えないことのほうが多いからです。
しかし、私たちがどう思おうとも、天の神様はキリストへの信仰を通して、それほど大きな特権(同時に大きな責任)を私たちに与えておられるのです。
神は私たちにそれほど大きな期待を寄せてくださっている、ということです。
キリストによって愛され、赦されたこの私たちが、この地上での命を生きる時、私たちは日々キリストを代表しながら生きているのです。
“イエスさまなら、この時どんな風におっしゃるのだろうか”、“イエス様なら、この時どうなさるのだろう”と、私たちは考えながら、私たちはイエス・キリストを、私たちを導く指導者、指針として、そのお方に従って生きていきたいと願います。
十字架の救い主、キリストの平和が私たちの心を支配しますように。キリストの愛と赦しが、私たちを通して世に現わされますように。
私たちを通して、主イエス・キリストの御名がますますあがめられますように。キリストに仕えて生きることができる恵み、この光栄な生きる道を覚えて、私たちは心からの感謝をお捧げしましょう。
前奏
招詞 ヨシュア記23章14節
賛美 新生讃美歌 124番 この世はみな
主の祈り
賛美 新生讃美歌 384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句 コロサイの信徒への手紙3章12~17節
祈祷
宣教 「キリストの平和」
祈祷
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄 新生讃美歌672番
祈祷
後奏
今日の聖書箇所は、今お読みいただいた、新約聖書の中の『コロサイの信徒への手紙』3章からの御言葉です。
この箇所の中心となる言葉、そして私が今日のメッセージの題にもしました大切な言葉は、「キリストの平和」です。
神の御子(息子)イエス・キリストは、私たちに本当に多くの、数えきれないほどの恵みを与えてくださいました。
キリストによる恵みの一つが”平和“です。平和が尊い、大切なものであることは、私たち皆が理解している、分かっている(平和に反対する人はいない)と私は思います。
誰もが平和を望みながら、なぜ世界には、あるいはまた私たちの身の回りでも、とても平和とは言えない状況(戦争やその他大小の争い)が、絶えず起こり続けるのでしょうか。
私たちは、社会の中でおこる凶悪な犯罪や、また連日ニュースでも伝えられる激しく悲惨な戦争、それによって尊い多くの命が失われている事実を聞くたびに、ただ失望するしかないという思いにもとらわれます。
”平和など夢物語“だと言って、私たちはあきらめたくなるかもしれません。
しかし、私たちは、聖書の御言葉の中に、そして聖書を通して伝えられるイエス・キリストの中に、「決して平和は失われてはいない。平和はここにある」という希望の知らせを聞くことができます。
イエス様は、どのようにして、平和を私たちに与えてくださったのでしょうか。今日の箇所と同じコロサイの信徒への手紙1章19~20節に次のように書かれています。
19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
「神は御子(イエス・キリスト)の十字架の血によって、平和を打ち立てた」と、ここにはっきりと書かれています。
ですから、私たちの目には、平和はいまだに実現していない出来事のように見えますが、イエス・キリストの十字架の出来事から見れば、神はそれによって既に平和を打ち立て、成し遂げてくださった、と言えるのです。
キリストの十字架の血(すなわちキリストの死)は、私たち人間が、神と和解することが出来るための恵みの出来事でした。
わたしたちは神によって創造され、神の栄光のもとに、神との豊かな関係の中で、喜びを持って生きる者でした。
しかしそんな私たちに罪が入り込み、神から私たちは自ら離れてしまいました。聖書の言う人の罪は、そのように人間が神から離れて、神を避け、自分中心に生きるようになったことから始まりました。
そして本来神と共に、神との関係の中で生きるように造られた私たちが、神から離れて自分本位に生きようとし始めたので、本当の平和からも私たちは遠ざかるようになってしまいました。
神の言葉によって、また神の知恵によって養われて、私たちは霊的にも豊かな命を生きることができるのに、神以外のものに頼って生きるようとするならば、そこには本当の平安、平和はありません。
わたしたちは神の御子イエス・キリストの十字架の出来事によって、平和が打ち立てられた、という聖書の使信(メッセージ)に、今こそ確信と信頼を寄せたいと願います。
キリストの十字架によって、神が私たちを真の平和へと招いてくださっています。キリストにこそ真の平和がある、という真実を私たちは信じていきたいと願います。
そして今日の15節には次のように書かれています。
また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。
キリストの平和が私たちの心を支配するように、と今日の箇所は促します。そしてこの平和(キリストの平和)にあずからせるために、人は招かれて一つの体とされた、ともこの箇所は言います。
ここで”一つの体“と言われているのは教会です。それはキリスト教会のことです。なぜ私たちは教会に繋がるのでしょうか。それはキリストの体である教会の一部(一員)となることで、私たちがキリストの平和を自分たちのものとして頂くためです。
十字架のイエス・キリストを信じ、キリストの十字架の出来事により打ち立てられた平和を信じるので、その平和にあずかるために、私たちは教会へと繋がり、教会の一部となって信仰生活を送るのです。
神は独り子のイエス様を私たちにお与えになるほどに、私たちを愛してくださいました。イエス様のその愛によって、私たちは自分がどれほど特別な者であるのかを知ることができます。
キリストを通して、キリストの御愛を通して、私たちが自分自身の特別さ、尊さを知るとき、その思いは、私たちを自分以外の他者をも愛する者へと変えていきます。
キリストがこの私の罪を赦し、神と和解して再び神との平和の中で生きることを赦してくださったことに私たちが感謝する時、私たちはきっと他者に対しても、愛と赦しの心を持てるようになる、というのが聖書の伝える希望のメッセージです。
キリストの愛と平和を信じ、それが実践されるのが、キリストの体なる教会です。
私自身が教会に受け入れられるようになり、教会の一員となることができた、その歩みを振り返るとき、確かに神からの愛と赦し、寛容、忍耐が教会の人々を通して私に与えられてきた、ということを私は認めなくてはなりません。
最初に教会に行き始めた頃の私は、教会の皆さんに対して本当に無礼で、ぶっきらぼうな態度を取っていました。なぜなら、私はキリスト教に対して大変な反感を持っていたからです。
当時交際していた女性(今の妻)が強く誘い、勧めるので、最初は仕方なく教会の礼拝に私は通っていたのです。よく言えば正直な私は、そんな自分の気持ちを隠すことができず、キリスト教への反感が私の態度にはっきりと表れていたのだと思います。
最初に妻に誘われて一緒に通った教会は、私たちが留学していたアメリカの教会でした。それから何年かたってから(私がクリスチャンになってから)、その時の牧師であった先生から「最初教会に来たころの君は、あまりにぶっきらぼうで、実は君のことを私はあきらめていたんだよ」とおっしゃいました。
そんな私を本当に忍耐強く受け入れてくれたのは、教会のその他の兄弟姉妹たちでした。アメリカの教会でも、そして日本に戻ってから通った教会でも、私のことを寛容と忍耐、赦しの心で私を受け入れてくれた兄弟姉妹がいました。
アメリカでは、私を自宅に招いてくれて、聖書を忍耐強く教えてくださる方々もいました。
名古屋の教会では、本当に生意気な青年だった私のために、私の目の前で「どうかこの青年に分かる方法で、あなたがイエス様を彼に伝えてあげてください」と本気で祈ってくださった方もいました。
私が導かれたそれらの教会には、キリストの愛と赦しを自分のものとしていただいて、そしてそのキリストの愛と赦しを他者に分け与える、分かち合うことを実践している兄弟姉妹たちが確かにいました。
そのことを今では私は心から神に、そしてその兄弟姉妹たちに感謝をせずにはいられません。
その方々の信仰の姿を今思い出しても、その方々はまず自分自身がイエス様に愛されていることを心から確信しておられた、ということが思い出されます。
イエス・キリストによって愛されていることを確信していたので、ご自分がキリストの愛によって豊かに生かされていたので、自分以外の他者にその愛があふれ出すのは、その人たちにとってはごくごく自然なことだったのだと、思います。
そして私の出身教会の兄弟姉妹は、愛と確信をもって、私を献身者として(牧師になるための道を進むため)自分たちの群れから祈りをもって送りだしてくれました。
そして今、別府国際教会の兄弟姉妹の皆様は、いまだに欠けの多い、足りないものの多いこの私を、教会の霊的リーダーとして立て続けてくださっています。
教会が、同じ人間である誰かを、群れの霊的なリーダーとして立てるという出来事は、主なる神への信頼へと、愛と赦しの信仰が教会の中で共有されていなくては、決して実現しない出来事であると、私は信じます。
イエス・キリストの十字架によって示された神の愛を信じ、その愛によって結びつけられた者が霊的に一つの体を形成しているのが教会です。
私たちは、これからもキリストの体である教会の一員として、キリストの平和、キリストの言葉によって互いに結ばれて、神の愛と赦しによって一人ひとりが大切にされる共同体を作り上げていきましょう。
今日の箇所の最後の節である17節をお読みします。
そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
神からの大きな、法外な恵みと愛、赦しを受けた者には、それ相応の責任も与えられます。そしてその責任は大きな特権でもあります。
それが“わたしたちが何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行う”ということです。
つまり、私たちはキリストの名をこの身に負っている、私たちキリスト者はキリストから遣わされた大使として、キリストの名を代表して生きているということです。
キリスト者である私たちが発する言葉の一つ一つが、キリストを代表する言葉であるということです。キリスト者である私たちが取る行動の一つ一つが、キリストを代表する行いとなる、ということです。
それはとても恐ろしい事実でもあります。なぜなら、自分自身を振り返った時、私の言葉や行いが、イエス・キリストを代表したものだとは、とても思えないことのほうが多いからです。
しかし、私たちがどう思おうとも、天の神様はキリストへの信仰を通して、それほど大きな特権(同時に大きな責任)を私たちに与えておられるのです。
神は私たちにそれほど大きな期待を寄せてくださっている、ということです。
キリストによって愛され、赦されたこの私たちが、この地上での命を生きる時、私たちは日々キリストを代表しながら生きているのです。
“イエスさまなら、この時どんな風におっしゃるのだろうか”、“イエス様なら、この時どうなさるのだろう”と、私たちは考えながら、私たちはイエス・キリストを、私たちを導く指導者、指針として、そのお方に従って生きていきたいと願います。
十字架の救い主、キリストの平和が私たちの心を支配しますように。キリストの愛と赦しが、私たちを通して世に現わされますように。
私たちを通して、主イエス・キリストの御名がますますあがめられますように。キリストに仕えて生きることができる恵み、この光栄な生きる道を覚えて、私たちは心からの感謝をお捧げしましょう。
2025年2月1日土曜日
2025年2月2日 主日礼拝
前奏
招詞 出エジプト記29章45~46節
賛美 新生讃美歌102番 罪にみてる世界
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句 エフェソの信徒への手紙3章14~20節
祈祷
宣教 「わたしたちの心の内にキリストが住む」
祈祷
賛美 新生讃美歌94番 われらは主の民
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
今日の箇所(エフェソの信徒への手紙3章14~20節)は、「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまづいて祈ります」という言葉で始まります。
この手紙を書いたとされるパウロは、御父、すなわち神の前にひざまづいて祈る、と言うのです。
続く15節には「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」と彼は書いています。
これらの二節は、このパウロが、キリストを信じる前と後とで、一体どれほど変えられたのかを表しています。
パウロは復活のイエス・キリストと出会ってキリスト者となる前は、自他共に認める熱心なユダヤ教徒でした。
最近の私たちの礼拝メッセージでも、何度かそのことを私たちは分かち合いましたが、パウロはキリストを信じる者たちを、激しく迫害さえしていました。
そのような彼が、どのように変えられたか、そしてそのことが今日の箇所の最初の二節の言葉から、いかにして明らかになるのでしょうか。
まず、当時ユダヤ教の祈りでは、立って祈るのが、通常の祈りの姿勢だったようです。
ルカによる福音書18章9~14節に、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」という話が記されています。
聖書の律法を厳格に守ることで知られていたファリサイ派の人は、“立って”、心の中で次のように祈りました。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
(ルカ18:11~12)
一方、徴税人は遠くに“(彼も)立って”、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら次のように言ったと書かれています。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
イエス様は、“義とされて(神様によって正しいと認められ)、家に帰ったのは、この徴税人であって、ファリサイ人の方ではなかった”とおっしゃいました。
そこでは、ファリサイ派の人も、徴税人も“立って”祈っていました。
パウロは、律法学者のもとで学んだほど、ユダヤ教の厳格な教育を受けた人でした。
ですから、イエス様を信じる前のパウロも、きっと今読んだ、ルカ福音書の中で描かれたファリサイ派の人のような祈りを、”立って“(心の中でも誇り高く)捧げていた、と想像されます。
しかしイエス・キリストに出会い、キリストによって変えられたパウロは、今や神の前にひざまづいて祈る者となりました。
キリストに出会うとは、“私自身の中に、神の前に自信満々に誇るものなど、何もない”と知らされることです。
神の前に誇るものなど何もないと知り、そしてイエス様の話の中の徴税人のように、“神様、罪人のわたしを憐れんでください”としか言えずに、ただ神の憐れみと赦しを求めることが、私たちが神に捧げることができる本当の祈りなのではないでしょうか。
そして、ひざまずいて祈るという姿勢は、神の前にへりくだり、「あなたに何かを願ったり、祈ったりする資格は私にはありませんが、キリストの恵みによって、わたしはあなたに祈ることが許される者となりました」という感謝をも表すと私は思います。
パウロは、キリストを信じることによって、そのようなへりくだった心で祈る者へと変えられ、そしてそのような彼の打ち砕かれた心は神に受け入れられたのです。
15節の「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」という言葉も、パウロの信仰に起きた大きな変化を表します。
当時イスラエルの民たちは、神の救いはユダヤ人だけに与えられる、と考えていました。
その考えからすると、「天と地にあるすべての家族が、その名(イエス・キリストの名)を与えられています」という考えは、大きな変化です。
神は、ユダヤ人だけでなく、自分の罪を悔い改めて、神様のもとへ立ち返ろうとする人ならば、ユダヤ人であってもなくても、誰でも救われる、ということが、イエス様を通してはっきりと示された信仰でした。
“イエス・キリストの御名によって、この私が救われた。そしてイエス・キリストの御名による救いは、ユダヤ人だけでなく、全ての民、あらゆる国の信じる人々にも与えられる”という信仰が、パウロをそれまでの彼から大きく変えたのです。
神の救いは、この罪深い私にも与えられた、そして神の救いは私以外の人々にも、ユダヤ人以外の全ての民にも与えられる、という信仰が、パウロをユダヤ人以外の異邦人(外国人)への伝道者としました。
私たちも、罪赦された者として、神の前にへりくだり(実際に祈りの時に、ひざまづくかどうかは別として)、打ち砕かれた心で、救われたことへの感謝と共に、自分以外の他者のためにも熱心に祈る者になりたいと願います。
パウロがエフェソの信徒たちを覚えて祈った内容は次のようなものでした。(16~17節)
16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
私たち人が本当の意味で強くなるのは、神の霊によって私たちの“内なる人”が強められる時です。
“内なる人が強められる”とは“外見の強さや美しさ、外見(見かけ上)の信仰深さとは関係なく、神様との霊的な関係によって、人の心と魂の中に与えられる霊的で新しい命”と言ってよいと私は思います。
真の神様との関係によってこそ、私たち人は本当に強くなることができます。自分の経験とか、自分で自分を鍛錬して強くなる、というのではありません。
神の御言葉によって養われ、祈りによって常に神と会話をさせて頂き、そして聖霊の力が与えられることで、私たちは強くなることができるのです。
そして神への信仰によって、神はキリストを私たちの心の内に住まわせてくださいます。そして私たちをキリストの愛の上にしっかりと立たせてくださるのです。
この私は弱くても、神の強さ、キリストの愛が、愛のないこの私をも土台から支えてくださるので、私はそのキリストの愛によって揺るがない、というのがキリスト者に与えられる平安です。
パウロは、”(御父:父なる神が)信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように“と祈っています。
キリストが私たちの心に“住む”ようにと、ここでは祈られています。“住む”というのは、“一時的に滞在する”という意味ではありません。
ここでは、キリストがあなた方の心の内に“ずっと住んでくださいますように(定住してくださいますように)”という意味です。
また、“信仰によって”キリストを住まわせ、とは神が私たちの心の扉を無理やり開けて、強引に私たちの心にキリストを住まわせるというのではない、ということです。
そうではなく、私たちが神の呼びかけに応え、自らの決心によって心の扉を開き、キリストを自分の心の中に迎え入れるということ、それが”信仰により“という言葉の意味です。
キリスト者であるとは、そのようにして(神からの呼びかけ、招きに応えて)イエス・キリストが常に心の内に住んでくださっている者なのです。
教会に来て、こうして礼拝している時だけでなく、もちろん教会を出て、私たちが普段の生活を送る中でも、イエス・キリストは信仰によって私たちの心の内に住んでくださっています。
私たちが心を開き、イエス様を自分の中にお迎えする限り、常にイエス様は私たちの心の中に住んでくださり、私たちをそのご愛の上に立たせてくださるのです。
このような信仰を、私たちは決して手放すことなく、神の前に身を低くして、常にキリストに心の内に住んでいただくように、と互いに祈り合わせたいと願います。
そして、いつも私たちの心の中にキリストが住んでいてくださるのですから、私たちは恐れることなく、また愛を失うことなく、日々を歩いて行けるのだと確信をいたしましょう。
18~19節をお読みします。
18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さは、あまりに偉大でそれを完全に知ることは私たちにはできません。
しかし、偉大な神のご愛が確かにあり、その愛が私たちに注がれている、ということは、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったという事実にはっきり示されています。
そしてキリストの十字架による救いの事実が、大きな希望と喜びとなって今も私たちを支えている、という事からも、”神の偉大な愛は(それを私たちは完全に理解することはできなくても)確かにある“と私たちは信じることができます。
そのような神の愛を私たちは”共に”知り、神の満ち溢れる豊かさに私たちは”共に“あずかり、そしてそのような神の愛に私たちは”共に”満たされるのです。
パウロは今日の箇所で、エフェソの教会の信徒たち“あなたがた(複数形)”に向けて祈っています。誰か個人にだけ彼は祈っているのではありません。
イエス・キリストの愛と救いは、教会の交わりの中で、まず同じ神を信じる信徒同士の信仰の交わりの中で、分かち合われるものなのです。
私たちはキリストの身体である教会として、“神の溢れる愛に、私たちが共に満たされるように”と言う祈りが、私たちお互いの間で共通の、そして共同の祈りとなるようにと願います。
神の愛で私たちが共に満たされる、神の愛が分かち合われる、という恵みは、まさに教会だけが与えられている恵みの特権であると、私は信じます。
今日の20節に、パウロは神を“わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方”と言っています。
私たちの神はイエス・キリストを通して私たちの祈りと願いを聞いてくださるお方です。
そして神は、私たちが祈り、また求め思ったりすることを、“わたしたちの内に働く御力によって”はるかに超えてかなえることがおできになる方、なのです。
今私たちがこうして礼拝を捧げている対象であるそのお方は、私たち(人間)のうちに、神の力を働かせてくださり、それを通して私たちが願い、思うことをはるかに超える偉大な御業を成し遂げてくださるお方なのです。
私たちは、イエス・キリストを通して、それほどまでに偉大なお方、そして御子イエス・キリストの命を私たちの救いのためにお与えくださったほどに愛に溢れた真の神を、知らされている、ということです。
そして私たち一人ひとりは、また私たちの教会は、イエス・キリストの身体として、そのような偉大な神の御力がその内に働いてくださる器としても用いられるのです。
そのような尊い、また驚きの働きを私たちキリストにある信仰者、そして教会は委ねられています。なんと光栄な、また力と喜びを私たちにもたらす働きでしょうか。
ですから私たちは、一日一日を、神の力がますます表され、また神に全てのご栄光が返されることのために、歩んでいこうではありませんか。
前奏
招詞 出エジプト記29章45~46節
賛美 新生讃美歌102番 罪にみてる世界
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句 エフェソの信徒への手紙3章14~20節
祈祷
宣教 「わたしたちの心の内にキリストが住む」
祈祷
賛美 新生讃美歌94番 われらは主の民
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
今日の箇所(エフェソの信徒への手紙3章14~20節)は、「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまづいて祈ります」という言葉で始まります。
この手紙を書いたとされるパウロは、御父、すなわち神の前にひざまづいて祈る、と言うのです。
続く15節には「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」と彼は書いています。
これらの二節は、このパウロが、キリストを信じる前と後とで、一体どれほど変えられたのかを表しています。
パウロは復活のイエス・キリストと出会ってキリスト者となる前は、自他共に認める熱心なユダヤ教徒でした。
最近の私たちの礼拝メッセージでも、何度かそのことを私たちは分かち合いましたが、パウロはキリストを信じる者たちを、激しく迫害さえしていました。
そのような彼が、どのように変えられたか、そしてそのことが今日の箇所の最初の二節の言葉から、いかにして明らかになるのでしょうか。
まず、当時ユダヤ教の祈りでは、立って祈るのが、通常の祈りの姿勢だったようです。
ルカによる福音書18章9~14節に、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」という話が記されています。
聖書の律法を厳格に守ることで知られていたファリサイ派の人は、“立って”、心の中で次のように祈りました。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
(ルカ18:11~12)
一方、徴税人は遠くに“(彼も)立って”、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら次のように言ったと書かれています。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
イエス様は、“義とされて(神様によって正しいと認められ)、家に帰ったのは、この徴税人であって、ファリサイ人の方ではなかった”とおっしゃいました。
そこでは、ファリサイ派の人も、徴税人も“立って”祈っていました。
パウロは、律法学者のもとで学んだほど、ユダヤ教の厳格な教育を受けた人でした。
ですから、イエス様を信じる前のパウロも、きっと今読んだ、ルカ福音書の中で描かれたファリサイ派の人のような祈りを、”立って“(心の中でも誇り高く)捧げていた、と想像されます。
しかしイエス・キリストに出会い、キリストによって変えられたパウロは、今や神の前にひざまづいて祈る者となりました。
キリストに出会うとは、“私自身の中に、神の前に自信満々に誇るものなど、何もない”と知らされることです。
神の前に誇るものなど何もないと知り、そしてイエス様の話の中の徴税人のように、“神様、罪人のわたしを憐れんでください”としか言えずに、ただ神の憐れみと赦しを求めることが、私たちが神に捧げることができる本当の祈りなのではないでしょうか。
そして、ひざまずいて祈るという姿勢は、神の前にへりくだり、「あなたに何かを願ったり、祈ったりする資格は私にはありませんが、キリストの恵みによって、わたしはあなたに祈ることが許される者となりました」という感謝をも表すと私は思います。
パウロは、キリストを信じることによって、そのようなへりくだった心で祈る者へと変えられ、そしてそのような彼の打ち砕かれた心は神に受け入れられたのです。
15節の「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」という言葉も、パウロの信仰に起きた大きな変化を表します。
当時イスラエルの民たちは、神の救いはユダヤ人だけに与えられる、と考えていました。
その考えからすると、「天と地にあるすべての家族が、その名(イエス・キリストの名)を与えられています」という考えは、大きな変化です。
神は、ユダヤ人だけでなく、自分の罪を悔い改めて、神様のもとへ立ち返ろうとする人ならば、ユダヤ人であってもなくても、誰でも救われる、ということが、イエス様を通してはっきりと示された信仰でした。
“イエス・キリストの御名によって、この私が救われた。そしてイエス・キリストの御名による救いは、ユダヤ人だけでなく、全ての民、あらゆる国の信じる人々にも与えられる”という信仰が、パウロをそれまでの彼から大きく変えたのです。
神の救いは、この罪深い私にも与えられた、そして神の救いは私以外の人々にも、ユダヤ人以外の全ての民にも与えられる、という信仰が、パウロをユダヤ人以外の異邦人(外国人)への伝道者としました。
私たちも、罪赦された者として、神の前にへりくだり(実際に祈りの時に、ひざまづくかどうかは別として)、打ち砕かれた心で、救われたことへの感謝と共に、自分以外の他者のためにも熱心に祈る者になりたいと願います。
パウロがエフェソの信徒たちを覚えて祈った内容は次のようなものでした。(16~17節)
16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
私たち人が本当の意味で強くなるのは、神の霊によって私たちの“内なる人”が強められる時です。
“内なる人が強められる”とは“外見の強さや美しさ、外見(見かけ上)の信仰深さとは関係なく、神様との霊的な関係によって、人の心と魂の中に与えられる霊的で新しい命”と言ってよいと私は思います。
真の神様との関係によってこそ、私たち人は本当に強くなることができます。自分の経験とか、自分で自分を鍛錬して強くなる、というのではありません。
神の御言葉によって養われ、祈りによって常に神と会話をさせて頂き、そして聖霊の力が与えられることで、私たちは強くなることができるのです。
そして神への信仰によって、神はキリストを私たちの心の内に住まわせてくださいます。そして私たちをキリストの愛の上にしっかりと立たせてくださるのです。
この私は弱くても、神の強さ、キリストの愛が、愛のないこの私をも土台から支えてくださるので、私はそのキリストの愛によって揺るがない、というのがキリスト者に与えられる平安です。
パウロは、”(御父:父なる神が)信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように“と祈っています。
キリストが私たちの心に“住む”ようにと、ここでは祈られています。“住む”というのは、“一時的に滞在する”という意味ではありません。
ここでは、キリストがあなた方の心の内に“ずっと住んでくださいますように(定住してくださいますように)”という意味です。
また、“信仰によって”キリストを住まわせ、とは神が私たちの心の扉を無理やり開けて、強引に私たちの心にキリストを住まわせるというのではない、ということです。
そうではなく、私たちが神の呼びかけに応え、自らの決心によって心の扉を開き、キリストを自分の心の中に迎え入れるということ、それが”信仰により“という言葉の意味です。
キリスト者であるとは、そのようにして(神からの呼びかけ、招きに応えて)イエス・キリストが常に心の内に住んでくださっている者なのです。
教会に来て、こうして礼拝している時だけでなく、もちろん教会を出て、私たちが普段の生活を送る中でも、イエス・キリストは信仰によって私たちの心の内に住んでくださっています。
私たちが心を開き、イエス様を自分の中にお迎えする限り、常にイエス様は私たちの心の中に住んでくださり、私たちをそのご愛の上に立たせてくださるのです。
このような信仰を、私たちは決して手放すことなく、神の前に身を低くして、常にキリストに心の内に住んでいただくように、と互いに祈り合わせたいと願います。
そして、いつも私たちの心の中にキリストが住んでいてくださるのですから、私たちは恐れることなく、また愛を失うことなく、日々を歩いて行けるのだと確信をいたしましょう。
18~19節をお読みします。
18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さは、あまりに偉大でそれを完全に知ることは私たちにはできません。
しかし、偉大な神のご愛が確かにあり、その愛が私たちに注がれている、ということは、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったという事実にはっきり示されています。
そしてキリストの十字架による救いの事実が、大きな希望と喜びとなって今も私たちを支えている、という事からも、”神の偉大な愛は(それを私たちは完全に理解することはできなくても)確かにある“と私たちは信じることができます。
そのような神の愛を私たちは”共に”知り、神の満ち溢れる豊かさに私たちは”共に“あずかり、そしてそのような神の愛に私たちは”共に”満たされるのです。
パウロは今日の箇所で、エフェソの教会の信徒たち“あなたがた(複数形)”に向けて祈っています。誰か個人にだけ彼は祈っているのではありません。
イエス・キリストの愛と救いは、教会の交わりの中で、まず同じ神を信じる信徒同士の信仰の交わりの中で、分かち合われるものなのです。
私たちはキリストの身体である教会として、“神の溢れる愛に、私たちが共に満たされるように”と言う祈りが、私たちお互いの間で共通の、そして共同の祈りとなるようにと願います。
神の愛で私たちが共に満たされる、神の愛が分かち合われる、という恵みは、まさに教会だけが与えられている恵みの特権であると、私は信じます。
今日の20節に、パウロは神を“わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方”と言っています。
私たちの神はイエス・キリストを通して私たちの祈りと願いを聞いてくださるお方です。
そして神は、私たちが祈り、また求め思ったりすることを、“わたしたちの内に働く御力によって”はるかに超えてかなえることがおできになる方、なのです。
今私たちがこうして礼拝を捧げている対象であるそのお方は、私たち(人間)のうちに、神の力を働かせてくださり、それを通して私たちが願い、思うことをはるかに超える偉大な御業を成し遂げてくださるお方なのです。
私たちは、イエス・キリストを通して、それほどまでに偉大なお方、そして御子イエス・キリストの命を私たちの救いのためにお与えくださったほどに愛に溢れた真の神を、知らされている、ということです。
そして私たち一人ひとりは、また私たちの教会は、イエス・キリストの身体として、そのような偉大な神の御力がその内に働いてくださる器としても用いられるのです。
そのような尊い、また驚きの働きを私たちキリストにある信仰者、そして教会は委ねられています。なんと光栄な、また力と喜びを私たちにもたらす働きでしょうか。
ですから私たちは、一日一日を、神の力がますます表され、また神に全てのご栄光が返されることのために、歩んでいこうではありませんか。
2025年1月25日土曜日
2025年1月26日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編62篇9節
賛美 新生讃美歌 125番 造られしものよ
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌 261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 ガラテヤの信徒への手紙1章6~10節
祈祷
宣教 「他の福音はない」
祈祷
賛美 新生讃美歌 492番 わが身の望みは
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏
キリスト教信仰、すなわちイエス・キリストを神、救い主と信じる信仰は、「恵み」として私たちに与えられたものです。
神は、キリストの恵みの中で生きるようにと、私たちを招いてくださいました。キリストへの信仰は、“神からの私たちへの招き”によって始まりました。
それは無償の招きです。私たちが自らの努力や知恵によって到達して獲得したものでは決してありません。
私たちは、色々な招きやお誘いを、日常生活の中で人から受けることがあります。結婚式やその他の催しごとへの招待状を私たちがいただくこともあります。
私たちは、そのような招待を受けたとき、その招待をお受けして出席するかどうかを決断いたします。
私たちが何かの招待を受ける時、それはその招待を受ける側が、招待する側から見て、“この人には参加してほしい”、“この人は参加するのに相応しい人だ”と見なされた、ということです。
招待する側は、いわば何らかの条件や考えに基づいて、誰を招待するかを選ぶのです。
先週執り行われたアメリカ大統領就任式では、外交の慣例では通常招待はされない、地位の海外の要人たちにも招待が送られたようで、それが異例のこととして、ニュースになっておりました。
そのような政治的な行事への招待には、打算的と言いますか、将来的な利益を見据えた戦略的な考えもその背後にあるのでしょう。
「つきあう友達を選べ」とも、私たちは人からよく言われたと思います。「良い友だちを選んでつきあいなさい」、「悪い人と友達にはなるな」と、私自身(そこまではっきりは、言わなかったと思いますが)、自分の子どもたちにも言ったことがあると思います。
人と人との間の友情は純粋な絆であってほしい、と私は願いますが、自分自身の心の中を見ると、友達さえも自分の損得勘定で選んでいるのではないか、と私は自分のことを顧みて、思わされます。
それでは、神の招き、神は人をどのように選び、神であるご自分を信じるようにと、イエス・キリストを信じる恵みの道へと、招いてくださるのでしょうか。
神の目から(あるいは人の目から見ても)相応しい人、優秀な人、信心深い人、敬虔な人が選ばれて、そのような人たちだけが招かれて、神を信じる(イエス・キリストを信じる)クリスチャンになるのでしょうか。
そうではありません。クリスチャンは、信仰が深まるほど、つまり神への信頼と感謝が深まるほどに、“神の恵みには全く相応しくない、この私が神によって選ばれて、救われた”と知らされていきます。
今日の聖書箇所であるガラテヤの信徒への手紙を書いたパウロも、“キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。私はその罪人の頭だ”と言いました(1テモテ1:15)
キリスト者として、神の恵みを本当に知っているかどうかは、「私は罪人の頭だ」というその言葉が、自分自身のものとなっているかどうか、によって分かると言えます。
神の赦しと恵みは、罪人の頭であるこの私に与えられた、と言う感謝と謙遜が、キリスト信仰には伴わなくてはならないのです。
今日の箇所の初めに、「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と書かれています。
このように書かれた背景としては、この手紙を書いたパウロと、この手紙の宛先であるガラテヤ地方の教会とに起きた、ある問題と出来事が、あります。
かつて、このパウロが伝道したことによって、ガラテヤという地方にキリスト教会が出来ました。
しかしパウロがガラテヤを去った後、別の人たちがそこへやって来て、パウロが伝えたものとは違う“別の福音”を述べ伝えたと言われています。彼らは「ユダヤ主義者」と言われる人たちでした。
「ユダヤ主義者」とは、ユダヤ人のクリスチャンでした。しかし彼らは、“ユダヤ人でない異邦人がキリスト者になるには、まずユダヤ教に改宗し、そしてユダヤ教で定められた数々の律法をも遵守しなくてはならない”と主張した人たちでした。
キリストを信じるとは、神が人となられたお方であるイエス・キリストの招きにお応えして、キリストのもとへ立ち返ることです。
神は一人子であるイエス・キリストを通してご自身のことを表されました。つまり、私たちはイエス・キリストを通して、「神とはどのようなお方か」を知ることができるのです。
キリストの招きは無条件です。あえて条件がある、と言うならば、それはただその招きを私たちが受けるだけです。私たちが心を開き、イエス様に自分の心の中に入って来ていただくこと、だけです。
しかし確かに、心を開き、イエス様に入ってきていただく、神の無条件の恵みをただ感謝して頂く、というのも難しいことなのかもしれません。
それは、私たちがなかなか自分の心を開いて、自分の心の中心にイエス様を迎えることができないからです。
私たちの中心には、頑固な(そして傲慢な)自分自身が居座っていて、その場所をなかなか救い主にさえ明け渡すことができない、からです。
そして私たちは、たとえ一度はキリストの福音を信じ受け入れても、それからしばらくすると、その信仰を手放し、離れてしまうことがあり得ます。
純粋なキリストへの信頼と信仰以外の、何か別のものが私たちの間に入り込むとき、そのようなことが起こります。
ユダヤ主義者たちは、“ユダヤ教の律法をしっかりと守ること”を信仰、そして救いの条件だと考えました。
ある意味、彼らは真面目で熱心な人たちだった、とも言えるでしょう。
定められた律法をしっかりと守ること、今の私たちキリスト者で言えば、それは例えば“礼拝に出席すること”、“献金をすること”、“奉仕をすること”などが当てはまるでしょう。
そして、それらをしっかりと行わなければ、キリスト者にはなれない(キリスト者ではない)、という考えが、いわば現代のユダヤ主義です。
しかし、それは順番が逆です。キリストの無償の恵みを知り、その恵みをただ感謝と悔い改めをもって頂くならば、それは信仰生活の実践となって現れてきます。(その逆ではないのです)
これは私の出身教会の牧師が、仏教のある僧侶の言葉として、時々礼拝メッセージの中で紹介していた言葉ですが、このような言葉があります。
「靴を揃えることは信仰ではないが、信仰は靴を揃えます」
(他者の靴を揃える=自分、あるいは他者が脱いだ靴を、玄関で、綺麗に揃える(line up, straighten up)
昨年、私たちのS姉がしてくださった証の中で、“妹のご友人のクリスチャンの方が、結婚式で、皆さんの靴を黙々と揃えている姿が印象的であった”と、証してくださいました。
黙々と(声高にそれを見せびらかすようなことはく)靴を揃える、というその行為と姿の土台には、その方のイエス様への信仰があった、ということです。
ですからその姿(自然な信仰の姿)は、S姉の心を打ち、後々までS姉の記憶となって残ったのだと、私は信じます。
イエス様は弟子たちにこうおっしゃいました。
「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」ルカによる福音書22章27節
「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」とイエス様はおっしゃいました。そしてイエス様は、そのお言葉通りに生きられました。
イエス様は、ご自身神と等しいお方でありながら、ご自分を徹底的に低くされました。そして食事の席で他の人たちに給仕する者にまでなられたのです。
そのお方が、最後は人々からの失望、そして嘲りと侮辱とを一身に受けて、十字架にかかって死なれました。
イエス様はそのようにしてご自身の命を差し出し、神を神とすることができず、神から離れて自分を自分の中心とし、仕える者ではなく人に仕えてもらうことをいつも望むような私たちのために、犠牲の贖いとなってくださいました。
もしも、イエス様への信仰以外に、私たち人の善い行いとか、律法を守るとか、宗教的な規則を守るなどの外見的な事柄が、私たちの救いの条件となるならば、それはイエス様の十字架の死を意味のないものとすることです。
私たちの教会は十字架を屋根の尖塔の上に掲げています。バプテストリー(洗礼槽)の上の窓も十字架の形になっています。
キリスト教会は、キリストに救われたことを信じるキリスト者の群れとして、“私たちの救いはイエス・キリストの十字架の贖いの業だけによる、それは純粋な恵み(無償、無条件の)です”と告白し、常にその信仰を表明しているのです。
キリストの十字架の贖いの御業以外に、もし私たちが救いの条件を何か別に付けくわえるようなことがあれば、(あるいは逆に、十字架の贖いの御業を否定したりするのであれば)、私たちはキリストの救いを自ら手放し、神に敵対するものと見なされても仕方がないでしょう。
8節に次のように書かれています。
8しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。
“だれであっても、イエス・キリストの福音ではない、キリストによる無償の恵み以外の何かによる、偽物の福音をあなたがたに伝えようとするならば、それがたとえ私たちであっても呪われろ”と、とても激しい言葉が書かれています。
“わたしたちであっても even if we”というところが、とても重要だと思います。聖書の御言葉は、私たちが他者を非難するためにあるのではなく、まずその御言葉を聞く私たち自身が戒められるためにある、ということを、ここから教えられます。
つまり、この手紙を書いたパウロは、「この私であっても、間違った福音を伝えてしまう、そのような弱さと罪をいつでも抱え持っているのだ」とここで表明しているのです。
イエス・キリストの福音以外の何かを(例えば、自分自身の能力や経験、実績など)誇り、私たちがそのようなものを救いの条件であるかのように人にも伝えてしまう、その危険が常にある、ということです。
もし私たちがそのような過ちへと道を踏み外そうとするならば、その時にはどうぞ十字架のイエス・キリストが私たちを正してくださいますように、という自戒の願いも込めて、パウロはその信仰の言葉を、ここに残したのです。
イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださいました。主は復活され、今も生きて私たちの救い(真の命を頂いて、新しく生まれ変わって生きること)のために、今も働いておられます。
イエス・キリストによるその救いは、私たちがただ心を開き、神に立ち返って、信じ受け取るだけで、私たちに与えられます。
その救いを受け取るのには、私たちの側で何か達成(クリア)しなくてはならない行動や、人格や、その他いかなる基準も条件も存在しません。
ただキリストのみ、キリストへの信仰のみが私たちの間で常に分かち合われ、述べ伝えられ、キリストのみが、私たちの間で崇められますように。キリストへの感謝と喜び、賛美が私たちの間で豊かに表されますように、祈りましょう。
前奏
招詞 詩編62篇9節
賛美 新生讃美歌 125番 造られしものよ
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌 261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 ガラテヤの信徒への手紙1章6~10節
祈祷
宣教 「他の福音はない」
祈祷
賛美 新生讃美歌 492番 わが身の望みは
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏
キリスト教信仰、すなわちイエス・キリストを神、救い主と信じる信仰は、「恵み」として私たちに与えられたものです。
神は、キリストの恵みの中で生きるようにと、私たちを招いてくださいました。キリストへの信仰は、“神からの私たちへの招き”によって始まりました。
それは無償の招きです。私たちが自らの努力や知恵によって到達して獲得したものでは決してありません。
私たちは、色々な招きやお誘いを、日常生活の中で人から受けることがあります。結婚式やその他の催しごとへの招待状を私たちがいただくこともあります。
私たちは、そのような招待を受けたとき、その招待をお受けして出席するかどうかを決断いたします。
私たちが何かの招待を受ける時、それはその招待を受ける側が、招待する側から見て、“この人には参加してほしい”、“この人は参加するのに相応しい人だ”と見なされた、ということです。
招待する側は、いわば何らかの条件や考えに基づいて、誰を招待するかを選ぶのです。
先週執り行われたアメリカ大統領就任式では、外交の慣例では通常招待はされない、地位の海外の要人たちにも招待が送られたようで、それが異例のこととして、ニュースになっておりました。
そのような政治的な行事への招待には、打算的と言いますか、将来的な利益を見据えた戦略的な考えもその背後にあるのでしょう。
「つきあう友達を選べ」とも、私たちは人からよく言われたと思います。「良い友だちを選んでつきあいなさい」、「悪い人と友達にはなるな」と、私自身(そこまではっきりは、言わなかったと思いますが)、自分の子どもたちにも言ったことがあると思います。
人と人との間の友情は純粋な絆であってほしい、と私は願いますが、自分自身の心の中を見ると、友達さえも自分の損得勘定で選んでいるのではないか、と私は自分のことを顧みて、思わされます。
それでは、神の招き、神は人をどのように選び、神であるご自分を信じるようにと、イエス・キリストを信じる恵みの道へと、招いてくださるのでしょうか。
神の目から(あるいは人の目から見ても)相応しい人、優秀な人、信心深い人、敬虔な人が選ばれて、そのような人たちだけが招かれて、神を信じる(イエス・キリストを信じる)クリスチャンになるのでしょうか。
そうではありません。クリスチャンは、信仰が深まるほど、つまり神への信頼と感謝が深まるほどに、“神の恵みには全く相応しくない、この私が神によって選ばれて、救われた”と知らされていきます。
今日の聖書箇所であるガラテヤの信徒への手紙を書いたパウロも、“キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。私はその罪人の頭だ”と言いました(1テモテ1:15)
キリスト者として、神の恵みを本当に知っているかどうかは、「私は罪人の頭だ」というその言葉が、自分自身のものとなっているかどうか、によって分かると言えます。
神の赦しと恵みは、罪人の頭であるこの私に与えられた、と言う感謝と謙遜が、キリスト信仰には伴わなくてはならないのです。
今日の箇所の初めに、「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と書かれています。
このように書かれた背景としては、この手紙を書いたパウロと、この手紙の宛先であるガラテヤ地方の教会とに起きた、ある問題と出来事が、あります。
かつて、このパウロが伝道したことによって、ガラテヤという地方にキリスト教会が出来ました。
しかしパウロがガラテヤを去った後、別の人たちがそこへやって来て、パウロが伝えたものとは違う“別の福音”を述べ伝えたと言われています。彼らは「ユダヤ主義者」と言われる人たちでした。
「ユダヤ主義者」とは、ユダヤ人のクリスチャンでした。しかし彼らは、“ユダヤ人でない異邦人がキリスト者になるには、まずユダヤ教に改宗し、そしてユダヤ教で定められた数々の律法をも遵守しなくてはならない”と主張した人たちでした。
キリストを信じるとは、神が人となられたお方であるイエス・キリストの招きにお応えして、キリストのもとへ立ち返ることです。
神は一人子であるイエス・キリストを通してご自身のことを表されました。つまり、私たちはイエス・キリストを通して、「神とはどのようなお方か」を知ることができるのです。
キリストの招きは無条件です。あえて条件がある、と言うならば、それはただその招きを私たちが受けるだけです。私たちが心を開き、イエス様に自分の心の中に入って来ていただくこと、だけです。
しかし確かに、心を開き、イエス様に入ってきていただく、神の無条件の恵みをただ感謝して頂く、というのも難しいことなのかもしれません。
それは、私たちがなかなか自分の心を開いて、自分の心の中心にイエス様を迎えることができないからです。
私たちの中心には、頑固な(そして傲慢な)自分自身が居座っていて、その場所をなかなか救い主にさえ明け渡すことができない、からです。
そして私たちは、たとえ一度はキリストの福音を信じ受け入れても、それからしばらくすると、その信仰を手放し、離れてしまうことがあり得ます。
純粋なキリストへの信頼と信仰以外の、何か別のものが私たちの間に入り込むとき、そのようなことが起こります。
ユダヤ主義者たちは、“ユダヤ教の律法をしっかりと守ること”を信仰、そして救いの条件だと考えました。
ある意味、彼らは真面目で熱心な人たちだった、とも言えるでしょう。
定められた律法をしっかりと守ること、今の私たちキリスト者で言えば、それは例えば“礼拝に出席すること”、“献金をすること”、“奉仕をすること”などが当てはまるでしょう。
そして、それらをしっかりと行わなければ、キリスト者にはなれない(キリスト者ではない)、という考えが、いわば現代のユダヤ主義です。
しかし、それは順番が逆です。キリストの無償の恵みを知り、その恵みをただ感謝と悔い改めをもって頂くならば、それは信仰生活の実践となって現れてきます。(その逆ではないのです)
これは私の出身教会の牧師が、仏教のある僧侶の言葉として、時々礼拝メッセージの中で紹介していた言葉ですが、このような言葉があります。
「靴を揃えることは信仰ではないが、信仰は靴を揃えます」
(他者の靴を揃える=自分、あるいは他者が脱いだ靴を、玄関で、綺麗に揃える(line up, straighten up)
昨年、私たちのS姉がしてくださった証の中で、“妹のご友人のクリスチャンの方が、結婚式で、皆さんの靴を黙々と揃えている姿が印象的であった”と、証してくださいました。
黙々と(声高にそれを見せびらかすようなことはく)靴を揃える、というその行為と姿の土台には、その方のイエス様への信仰があった、ということです。
ですからその姿(自然な信仰の姿)は、S姉の心を打ち、後々までS姉の記憶となって残ったのだと、私は信じます。
イエス様は弟子たちにこうおっしゃいました。
「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」ルカによる福音書22章27節
「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」とイエス様はおっしゃいました。そしてイエス様は、そのお言葉通りに生きられました。
イエス様は、ご自身神と等しいお方でありながら、ご自分を徹底的に低くされました。そして食事の席で他の人たちに給仕する者にまでなられたのです。
そのお方が、最後は人々からの失望、そして嘲りと侮辱とを一身に受けて、十字架にかかって死なれました。
イエス様はそのようにしてご自身の命を差し出し、神を神とすることができず、神から離れて自分を自分の中心とし、仕える者ではなく人に仕えてもらうことをいつも望むような私たちのために、犠牲の贖いとなってくださいました。
もしも、イエス様への信仰以外に、私たち人の善い行いとか、律法を守るとか、宗教的な規則を守るなどの外見的な事柄が、私たちの救いの条件となるならば、それはイエス様の十字架の死を意味のないものとすることです。
私たちの教会は十字架を屋根の尖塔の上に掲げています。バプテストリー(洗礼槽)の上の窓も十字架の形になっています。
キリスト教会は、キリストに救われたことを信じるキリスト者の群れとして、“私たちの救いはイエス・キリストの十字架の贖いの業だけによる、それは純粋な恵み(無償、無条件の)です”と告白し、常にその信仰を表明しているのです。
キリストの十字架の贖いの御業以外に、もし私たちが救いの条件を何か別に付けくわえるようなことがあれば、(あるいは逆に、十字架の贖いの御業を否定したりするのであれば)、私たちはキリストの救いを自ら手放し、神に敵対するものと見なされても仕方がないでしょう。
8節に次のように書かれています。
8しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。
“だれであっても、イエス・キリストの福音ではない、キリストによる無償の恵み以外の何かによる、偽物の福音をあなたがたに伝えようとするならば、それがたとえ私たちであっても呪われろ”と、とても激しい言葉が書かれています。
“わたしたちであっても even if we”というところが、とても重要だと思います。聖書の御言葉は、私たちが他者を非難するためにあるのではなく、まずその御言葉を聞く私たち自身が戒められるためにある、ということを、ここから教えられます。
つまり、この手紙を書いたパウロは、「この私であっても、間違った福音を伝えてしまう、そのような弱さと罪をいつでも抱え持っているのだ」とここで表明しているのです。
イエス・キリストの福音以外の何かを(例えば、自分自身の能力や経験、実績など)誇り、私たちがそのようなものを救いの条件であるかのように人にも伝えてしまう、その危険が常にある、ということです。
もし私たちがそのような過ちへと道を踏み外そうとするならば、その時にはどうぞ十字架のイエス・キリストが私たちを正してくださいますように、という自戒の願いも込めて、パウロはその信仰の言葉を、ここに残したのです。
イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださいました。主は復活され、今も生きて私たちの救い(真の命を頂いて、新しく生まれ変わって生きること)のために、今も働いておられます。
イエス・キリストによるその救いは、私たちがただ心を開き、神に立ち返って、信じ受け取るだけで、私たちに与えられます。
その救いを受け取るのには、私たちの側で何か達成(クリア)しなくてはならない行動や、人格や、その他いかなる基準も条件も存在しません。
ただキリストのみ、キリストへの信仰のみが私たちの間で常に分かち合われ、述べ伝えられ、キリストのみが、私たちの間で崇められますように。キリストへの感謝と喜び、賛美が私たちの間で豊かに表されますように、祈りましょう。
2025年1月18日土曜日
2025年1月19日 主日礼拝
前奏
招詞 申命記31章8節
賛美 新生讃美歌 16番 み栄えあれ 愛の神
主の祈り
賛美 新生讃美歌 261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 コリントの信徒への手紙二 4章7~15節
祈祷
宣教 「このような宝を土の器に」
祈祷
賛美 新生讃美歌 550番 ひとたびは死にし身も
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏
今日の聖書箇所である「コリントの信徒への手紙二」の最初の節である4章7節に、この手紙を書いたパウロは「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」と書いています。
「わたしたち」とは、私たち一人ひとりのことです。そして「土の器」とパウロが表現しているのは、私たち人間の体のことです。
人間の体の例えとしての土の器は、より広い意味でいえば、物理的な身体だけでなく、精神、心といった私たち人の内面をも含む、一人の人間全体のことと言ってよいでしょう。
「土の器」と聞いて、私たちが思い浮かべるのは、やはりその“脆さ”、“はかなさ”ではないでしょうか。それは、気をつけて取り扱われなければ、非常に壊れやすいものです。
私は以前、土器のお茶碗を友人からいただいたことがあります。
そのお茶碗を手に持つと、手に持った感触は心地よく、そして気のせいだったかとは思うのですが、そのお茶碗で食べるご飯(お米)は、普通の茶碗で食べる時よりも、とてもおいしく感じられました。
それには手作りの感触がありました。毎日手にとってご飯を食べる時に、私は目でその茶碗と、その茶碗に盛られたご飯を、ゆっくり眺めたりもしていました。
しかしある日、そのお茶碗をいただいてから数か月ぐらい経った時だったと思うのですが、私は立ちながらそのお茶碗を手に持っている時に、うっかりそれを手から落としてしまったのです。
そのお茶碗は床の上で真っ二つに割れました。既成の安価なお茶碗ですと、床に落ちて割れたりすると、割れる派手な音とともに、いくつかの破片に割れるのが普通だと思います。
しかし、私が割ってしまったその土器のお茶碗は、床の上で、ある鈍い音と共に、粉々に砕けるのではなくて、見事に真っ二つに割れました。
気に入っていた茶碗だったので、落ちて(落として)割れてしまったのは、とても残念でした。
そして真っ二つに割れた茶碗を見て、やはり“造られたものの弱さ、脆弱(ぜいじゃく)さ”を思わされました。
私たちの体も、そしてまた心も、ちょっとしたことでも傷ついたり、また壊れたりする、とても弱いものではないでしょうか。
しかし、私たちのその弱さも、それは神が私たちをそのように繊細なものとして造られたということの表れです。
私たちが土器ならば、それをお造りになった方(陶器師)は、神です。神は私たち一人ひとりを、愛情を込めて、本当に特別な思いをもって、作ってくださったのです。
人間の陶器師も、一つ一つの作品を、魂を込めて愛情をもって造ると、私は思います。まして天の父なる神は、本当に大きな愛と、また神の特別な御計画をもって私たちを造ってくださったはずではないでしょうか。
神は私たちを愛情込めて“土の器”のようなものとしてお造りになりました。
土の器は弱く、壊れやすいものです。しかし、人は皆そのように弱いものだ、ということが本当に分かるならば、私たちはそんな弱い自分自身と、また自分以外の他者をも大切にしよう、という気持ちが与えられると思います。
弱い私たちが、自分自身を頼りにすることなく、主なる神の力を頼りにして生きるように造られたことをも覚えて、私たちは日々、そのような信仰によって支えられ生きていきたいと私は願います。
しかし、今日の箇所は、私たち人間がただの“土の器”であり、弱く、もろく、儚い、とだけ言っているだけではありません。
今日の箇所では、私たちが私たちというこの“土の器”の中に、ある“宝”を納めている、というのです。
この宝とは、今日の箇所の一節前の6節に次のように書かれています。
「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
わたしたちが、土の器としての私たち自身の中に頂いているのは、“光”であり、それは“イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光”である、というのです。
”イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を知る光“とは、”イエス・キリストを通して、神を知るという喜びの光“、”イエス・キリストの福音によって生かされる希望の光“などと、色々と言い換えても良いと思います。
それほどの宝を、私たちは土の器である私たちの中に、神から頂いているのです。
イエス様は人として生きておられる時に、人々に“あなたがたは世の光である”と言われました。(マタイによる福音書5章14節)
私たちは自分自身で光っているのではないのです。私たちが聖書の御言葉を通して、そして聖霊の導きによってイエス・キリストを知り、イエス・キリストを信じる時に、キリストが私たちの内面に住まわれて、キリストが私たちの中で輝く光となるのです。
7節の後半には、
「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」と書かれています。
コリントの信徒への手紙を書いたパウロは自分自身で、この“並外れて偉大な力”が彼をとおして働いていることを本当に実感したのだと思います。
それは聖書の御言葉こそが人を生かすという力です。そしてそれは、イエス・キリストの御名が人に与える希望の力です。
パウロは「コリントの信徒への手紙一」の2章4~5節で次のように書いています。
4わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
5それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
パウロは、“考えてみれば、自分は言葉も巧みでなく、宣教も洗練された知恵に溢れたような言葉で語ることはできなかった。それでも多くの人がイエス・キリストの福音を自分の宣教を通して信じるようになった。それは神の力が自分を通して働いたからなのだ(自分の力ではなかったのだ)”と悟ったのでしょう。
パウロ自身も色々と弱さを抱えていたはずです。彼には何らかの慢性的な病、あるいは何らかの障害があったと言われています。
パウロは随分気の強い人のようにも想像されますが、そんな彼でも人として、とても弱く傷つきやすい心をも持っていたでしょう。
色々な欠点も、またキリストを信じる者たちを激しく迫害していたという過去も、パウロは抱えていました。
それでも、イエス・キリストの神の力が彼を通して働いて、“パウロを通して働かれているのは、パウロ自身ではなくて、キリストの神なのだ”ということが人々に明らかになったのです。
私たちも、自分の弱さを知り、自分の欠点をも認め、しかしそんな弱さ、欠点を抱えた私たちを通して神は働かれ、そして私たちの中には、キリストの神の偉大な力が与えられているのだ、ということを知りましょう。
そして私たちを通して、キリストのその力が人々にも明らかになるようにと、願いましょう。
今日の8~9節には次のように書かれています。
8わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
9虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
”四方から苦しめられる“、”途方に暮れる“、”虐げられる“、そして”打ち倒される“。これらは全てパウロ自身がキリストの伝道者として経験したことでした。
私たちも、それぞれ苦しい思い、打ちのめされるような思い、立ち上がることもできないような辛い経験をするときがあると思います。
今まさにそのような苦しさのただ中にいる、という方もおられるかもしれません。
しかし、パウロは言うのです。“どんなに苦しめられても、途方に暮れても、打ち倒されても、イエス・キリストの神は共におられる。その神が私を支えてくださる”と、彼は言います。
“どんなに苦しめられても、打ちのめされても、私が完全に失望しきることはない。私は見捨てられ、滅ぼされることない。なぜなら、キリストは私を見捨てることがないから”とパウロは確信していたのです。
彼のその確信は、神を信じる信仰により、今の私たちにも賜物として与えられます。
信仰者であっても苦しみ、悲しみ、痛みの経験をするときがあります。そして私たちは誰もが”土の器“ですから、とても傷つき、そして壊れそうになる、壊れてしまうこともあります。
私たちには悲しみに暮れる時、どうしていいか分からない時、打ち倒されるような時があります。
しかしイエス・キリストは私たちと共におられます。イエス様が痛む私たちと共に泣いてくださっています。
そしてイエス様は御言葉を通して私たちを慰め、私たちが倒れても、いつかまた立ち上がることができるように、私たちの手を優しく取って、私たちを立たせてくださいます。
今日の14節に「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させる」と書かれています。
この復活とは、私たちが実際に死んだ後の霊的な復活のことを指しています。
それと同時に、この復活とは、私たちの日々の生活の中で、人生の中で私たちが死ぬほどの辛い時を通る時に、神が力を与えてくださって私たちを再び立たせてくださることをも指すのです。
どんなに打ちのめされても神は私たちを見捨てず、わたしたちを決して滅ぼされないのです。
旧約聖書の『申命記』の31章8節で、モーセが自分の後継者であるヨシュアに次のように伝えました。
申命記31章8節
主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」
この言葉は永遠の真実です。私たちは、私たちを決して見捨てることがない、という神の真実と神の御言葉にしがみついていこうではありませんか。
死んだイエス様を復活させた神の偉大な力が、私たちが倒れても、私たちを必ず再び起き上がらせ、そして私たちを復活の力と希望とで満たしてくださいます。
そのようにして、弱くもろい私たちの中で、キリストの偉大なお力がますます強く働かれることで、キリストの光と力とが私たちを通して、また別の人々へも伝えられていくのです。
そのような尊い働きのための器として私たちを用いてくださり、また私たちをいつも励まし慰めてくださる神に寄り頼みながら、私たちは日々をキリストの信仰者として、そしてキリストを述べ伝える宣教者として、生きてまいりましょう。
前奏
招詞 申命記31章8節
賛美 新生讃美歌 16番 み栄えあれ 愛の神
主の祈り
賛美 新生讃美歌 261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 コリントの信徒への手紙二 4章7~15節
祈祷
宣教 「このような宝を土の器に」
祈祷
賛美 新生讃美歌 550番 ひとたびは死にし身も
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏
今日の聖書箇所である「コリントの信徒への手紙二」の最初の節である4章7節に、この手紙を書いたパウロは「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」と書いています。
「わたしたち」とは、私たち一人ひとりのことです。そして「土の器」とパウロが表現しているのは、私たち人間の体のことです。
人間の体の例えとしての土の器は、より広い意味でいえば、物理的な身体だけでなく、精神、心といった私たち人の内面をも含む、一人の人間全体のことと言ってよいでしょう。
「土の器」と聞いて、私たちが思い浮かべるのは、やはりその“脆さ”、“はかなさ”ではないでしょうか。それは、気をつけて取り扱われなければ、非常に壊れやすいものです。
私は以前、土器のお茶碗を友人からいただいたことがあります。
そのお茶碗を手に持つと、手に持った感触は心地よく、そして気のせいだったかとは思うのですが、そのお茶碗で食べるご飯(お米)は、普通の茶碗で食べる時よりも、とてもおいしく感じられました。
それには手作りの感触がありました。毎日手にとってご飯を食べる時に、私は目でその茶碗と、その茶碗に盛られたご飯を、ゆっくり眺めたりもしていました。
しかしある日、そのお茶碗をいただいてから数か月ぐらい経った時だったと思うのですが、私は立ちながらそのお茶碗を手に持っている時に、うっかりそれを手から落としてしまったのです。
そのお茶碗は床の上で真っ二つに割れました。既成の安価なお茶碗ですと、床に落ちて割れたりすると、割れる派手な音とともに、いくつかの破片に割れるのが普通だと思います。
しかし、私が割ってしまったその土器のお茶碗は、床の上で、ある鈍い音と共に、粉々に砕けるのではなくて、見事に真っ二つに割れました。
気に入っていた茶碗だったので、落ちて(落として)割れてしまったのは、とても残念でした。
そして真っ二つに割れた茶碗を見て、やはり“造られたものの弱さ、脆弱(ぜいじゃく)さ”を思わされました。
私たちの体も、そしてまた心も、ちょっとしたことでも傷ついたり、また壊れたりする、とても弱いものではないでしょうか。
しかし、私たちのその弱さも、それは神が私たちをそのように繊細なものとして造られたということの表れです。
私たちが土器ならば、それをお造りになった方(陶器師)は、神です。神は私たち一人ひとりを、愛情を込めて、本当に特別な思いをもって、作ってくださったのです。
人間の陶器師も、一つ一つの作品を、魂を込めて愛情をもって造ると、私は思います。まして天の父なる神は、本当に大きな愛と、また神の特別な御計画をもって私たちを造ってくださったはずではないでしょうか。
神は私たちを愛情込めて“土の器”のようなものとしてお造りになりました。
土の器は弱く、壊れやすいものです。しかし、人は皆そのように弱いものだ、ということが本当に分かるならば、私たちはそんな弱い自分自身と、また自分以外の他者をも大切にしよう、という気持ちが与えられると思います。
弱い私たちが、自分自身を頼りにすることなく、主なる神の力を頼りにして生きるように造られたことをも覚えて、私たちは日々、そのような信仰によって支えられ生きていきたいと私は願います。
しかし、今日の箇所は、私たち人間がただの“土の器”であり、弱く、もろく、儚い、とだけ言っているだけではありません。
今日の箇所では、私たちが私たちというこの“土の器”の中に、ある“宝”を納めている、というのです。
この宝とは、今日の箇所の一節前の6節に次のように書かれています。
「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
わたしたちが、土の器としての私たち自身の中に頂いているのは、“光”であり、それは“イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光”である、というのです。
”イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を知る光“とは、”イエス・キリストを通して、神を知るという喜びの光“、”イエス・キリストの福音によって生かされる希望の光“などと、色々と言い換えても良いと思います。
それほどの宝を、私たちは土の器である私たちの中に、神から頂いているのです。
イエス様は人として生きておられる時に、人々に“あなたがたは世の光である”と言われました。(マタイによる福音書5章14節)
私たちは自分自身で光っているのではないのです。私たちが聖書の御言葉を通して、そして聖霊の導きによってイエス・キリストを知り、イエス・キリストを信じる時に、キリストが私たちの内面に住まわれて、キリストが私たちの中で輝く光となるのです。
7節の後半には、
「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」と書かれています。
コリントの信徒への手紙を書いたパウロは自分自身で、この“並外れて偉大な力”が彼をとおして働いていることを本当に実感したのだと思います。
それは聖書の御言葉こそが人を生かすという力です。そしてそれは、イエス・キリストの御名が人に与える希望の力です。
パウロは「コリントの信徒への手紙一」の2章4~5節で次のように書いています。
4わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
5それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
パウロは、“考えてみれば、自分は言葉も巧みでなく、宣教も洗練された知恵に溢れたような言葉で語ることはできなかった。それでも多くの人がイエス・キリストの福音を自分の宣教を通して信じるようになった。それは神の力が自分を通して働いたからなのだ(自分の力ではなかったのだ)”と悟ったのでしょう。
パウロ自身も色々と弱さを抱えていたはずです。彼には何らかの慢性的な病、あるいは何らかの障害があったと言われています。
パウロは随分気の強い人のようにも想像されますが、そんな彼でも人として、とても弱く傷つきやすい心をも持っていたでしょう。
色々な欠点も、またキリストを信じる者たちを激しく迫害していたという過去も、パウロは抱えていました。
それでも、イエス・キリストの神の力が彼を通して働いて、“パウロを通して働かれているのは、パウロ自身ではなくて、キリストの神なのだ”ということが人々に明らかになったのです。
私たちも、自分の弱さを知り、自分の欠点をも認め、しかしそんな弱さ、欠点を抱えた私たちを通して神は働かれ、そして私たちの中には、キリストの神の偉大な力が与えられているのだ、ということを知りましょう。
そして私たちを通して、キリストのその力が人々にも明らかになるようにと、願いましょう。
今日の8~9節には次のように書かれています。
8わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
9虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
”四方から苦しめられる“、”途方に暮れる“、”虐げられる“、そして”打ち倒される“。これらは全てパウロ自身がキリストの伝道者として経験したことでした。
私たちも、それぞれ苦しい思い、打ちのめされるような思い、立ち上がることもできないような辛い経験をするときがあると思います。
今まさにそのような苦しさのただ中にいる、という方もおられるかもしれません。
しかし、パウロは言うのです。“どんなに苦しめられても、途方に暮れても、打ち倒されても、イエス・キリストの神は共におられる。その神が私を支えてくださる”と、彼は言います。
“どんなに苦しめられても、打ちのめされても、私が完全に失望しきることはない。私は見捨てられ、滅ぼされることない。なぜなら、キリストは私を見捨てることがないから”とパウロは確信していたのです。
彼のその確信は、神を信じる信仰により、今の私たちにも賜物として与えられます。
信仰者であっても苦しみ、悲しみ、痛みの経験をするときがあります。そして私たちは誰もが”土の器“ですから、とても傷つき、そして壊れそうになる、壊れてしまうこともあります。
私たちには悲しみに暮れる時、どうしていいか分からない時、打ち倒されるような時があります。
しかしイエス・キリストは私たちと共におられます。イエス様が痛む私たちと共に泣いてくださっています。
そしてイエス様は御言葉を通して私たちを慰め、私たちが倒れても、いつかまた立ち上がることができるように、私たちの手を優しく取って、私たちを立たせてくださいます。
今日の14節に「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させる」と書かれています。
この復活とは、私たちが実際に死んだ後の霊的な復活のことを指しています。
それと同時に、この復活とは、私たちの日々の生活の中で、人生の中で私たちが死ぬほどの辛い時を通る時に、神が力を与えてくださって私たちを再び立たせてくださることをも指すのです。
どんなに打ちのめされても神は私たちを見捨てず、わたしたちを決して滅ぼされないのです。
旧約聖書の『申命記』の31章8節で、モーセが自分の後継者であるヨシュアに次のように伝えました。
申命記31章8節
主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」
この言葉は永遠の真実です。私たちは、私たちを決して見捨てることがない、という神の真実と神の御言葉にしがみついていこうではありませんか。
死んだイエス様を復活させた神の偉大な力が、私たちが倒れても、私たちを必ず再び起き上がらせ、そして私たちを復活の力と希望とで満たしてくださいます。
そのようにして、弱くもろい私たちの中で、キリストの偉大なお力がますます強く働かれることで、キリストの光と力とが私たちを通して、また別の人々へも伝えられていくのです。
そのような尊い働きのための器として私たちを用いてくださり、また私たちをいつも励まし慰めてくださる神に寄り頼みながら、私たちは日々をキリストの信仰者として、そしてキリストを述べ伝える宣教者として、生きてまいりましょう。
2025年1月11日土曜日
2025年1月12日 主日礼拝
前奏
招詞 出エジプト記20章3節
賛美 新生讃美歌59番 父の神よ 汝がまこと
主の祈り
賛美 新生讃美歌261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 フィリピの信徒への手紙1章12~21節
祈祷
宣教 「生きるとはキリストである」
祈祷
賛美 新生讃美歌 491番 信ぜよ み神を
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏
復活のイエス・キリストに出会い、それまではキリスト信者を激しく迫害していたパウロが、キリストの福音を熱心に伝道する者へと変えられました。
先週の礼拝メッセージで、私たちは、パウロの回心について、使徒言行録(Acts)から御言葉を共にお聞きしました。
しかしパウロはキリストの伝道者となったために、それ以来、大変に苦しい道を歩むことになります。
パウロはキリストを宣教したために何度も投獄され、そして(そのことは聖書にははっきりと書いてありませんが)パウロは最期は処刑されたのだろう、と言われています。
このフィリピの信徒への手紙も、パウロがローマで投獄されているときに牢獄から書かれた手紙であると言われます。
しかし、牢獄にあってもパウロから希望と力が奪われることはありませんでした。
今日の箇所の少し前の、フィリピの信徒への手紙1章3~4節に次のように書かれています。
わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
獄中にあってパウロを支えたのは、何よりもイエス・キリスト、復活のイエス・キリストが彼といつも共にいてくださる、という確信でありその信仰でした。
そして、パウロにとっては、祈ることが大きな喜びであったことが分かります。何かのために、特に信仰の友のために祈ることができる喜びが、パウロを支えていたのです。
パウロにとっては、フィリピの信徒たちのことを思い起こし、神に感謝しながら彼らのために祈ることが喜びであったのです。
フィリピの教会は、パウロが伝道したことによって建てられました。フィリピの教会の信徒たちは、パウロがフィリピを離れてからも、物心両面でパウロを支えたようです。
フィリピの信徒への手紙4章15~16節に次のように書かれています。
フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
パウロは、天幕(テント)作りという専門職を持っており、自ら働いて生計を立てながら伝道をした、とパウロの他の手紙の箇所に書かれています。
しかし、フィリピの教会の信徒たちからは、パウロは物質的な援助(物やおそらく献金も)受け取っていたことが、今お読みした箇所から分かります。
そのことから、フィリピの教会の信徒たちとパウロの間には、特別な信頼関係と強い愛情がはぐくまれていたのだろうと想像できます。(他の教会からはそうしなかったけれども、フィリピの教会から援助を受け取った、ということから)
そしてパウロにとっては、自分を支えてくれたフィリピの信徒を覚えて、祈ることができることが、この上ない喜びであったのです。
信仰の友であり家族である人たちのために祈ることができるということは、神を信じる者に大きな喜びをもたらすのです。
私たちも自分以外の他者のことを覚えて(自分の家族であったり、特に教会の兄弟姉妹、友人知人)を覚えて祈ります。
パウロが喜びをもってフィリピの信徒たちを覚えて祈ったように、私達も、信仰によって誰かのために祈ることができる、そのこと自体が大きな喜びであることを知っていきたいと願います。
なぜ祈りが喜びとなるのでしょうか。それは、私たちの祈りを聞いてくださる神が確かにおられるからです。
イエス・キリストの名によって私たちが祈る時、キリストの名のゆえに、神は私たちの祈りを確かに聞いてくださるのです。
そのような聖書の約束を信じ、私たちは喜びをもって祈る者、祈る信仰者でありたいと願います。
今日の箇所の12節をお読みします。
12兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
「わたしの身に起こったこと」とは、パウロがキリストの福音を伝えたために、彼が激しい妨害、迫害にあい、牢にまで閉じ込められた、などの経験のことです。
普通に考えれば、神のため、そして神の救いを人に伝えるために働いているのに、そのために捕まり投獄されるということは辛いことです。
自分が捕まってしまっては、キリストの福音を宣教することができなくなってしまう、と最初パウロは思ったかもしれません。
しかしパウロは、彼に起きたそれらの出来事を、自分の視点から見るのではなく、神の視点から、そして“キリストの福音が伝えられる”という視点から見ることができました。
パウロは牢獄に入れられましたが、彼がそのような境遇に置かれたことで、逆に福音が前進することに役立った、とパウロは言うのです。
『使徒言行録』の16章に、パウロがフィリピで投獄された時の様子が書かれています。
フィリピで宣教をしていたパウロと仲間のシラスに対して、人々から「彼らは町を混乱させている」という訴えが出されました。そのため彼ら二人は何度も鞭打たれ、そして投獄されました。
真夜中頃、パウロとシラスは賛美の歌を歌って神に祈っていました。そこで突然大きな地震が起こり、牢獄の土台までが揺れて、囚人たちが閉じ込められていた牢の扉がみな開き、囚人の鎖もはずれてしまいました。
そこで牢を見張っていた看守は、“囚人たちが逃げてしまった”、“自分の責任が問われる”と恐れて、彼は自殺しようとします(使徒言行録16章27節)。
しかしパウロは大声で叫びます。「自害してはいけいない。わたしたちは皆ここにいる“Don’t harm yourself! We are all here!”」(使徒16:28)。
その看守はパウロとシラスに聞きました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」
二人(パウロとシラス)は答えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
その看守は家族と共に洗礼(バプテスマ)を受け、そして看守は家族も一緒に神を信じる者になったことを、家族と一緒に喜んだと書かれています。
投獄という彼(パウロ)にとっては理不尽な(不当な)経験も、主なる神によってそのように大きく用いられて、キリストの福音が人々に伝わることに繋がる、ということをパウロは経験しました。
パウロは彼自身のことよりも、“福音の前進”という出来事に目をとめて、福音がいかに広がっていくかという視点から、彼に起きたことを振り返る(思い起こす)ことができたのです。
私たちも、自分自身の思いや願い、感情や満足(それらも大切であり、自分の願いや感情を捨てることは私たちにはできませんが)を基準にして私達の人生を見るのではなく、キリストの福音の前進という視点から、私達に起こる出来事を捉える(受け止める)必要を教えられます。
キリストが共におられ、私たちに起こる出来事を通して、キリストが、福音が前進するために働いてくださいます。
そのことを信じ、福音に生かされながら、福音の前進のために私たちも生きていきたいと私たちは願います。
今日の箇所の15節以降では、人々がキリストを述べ伝える動機について書かれています。
15キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
そして16~17節には“パウロに対する愛の動機から、または逆にパウロを苦しめてやろうという動機で、キリストを広める者もいる”、と書かれています。
しかし18節にこう書かれています。
18だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
これもすごい言葉です。“愛なるキリストを伝道するならば、その動機こそが重要だ”と私たちは考えないでしょうか。
キリストを伝えたい、という純粋な思いこそが大切であって、そこに妬みや争いが持ち込まれるならば、それでは福音の宣教にはならない、と私たちは思わないでしょうか。
ここでパウロが言いたいことは、私達人間の不純な動機さえも、キリストの福音はそれらよりも強く、福音はそれら(人の不純な動機や心)さえも凌駕(りょうが)する、ということです。
キリスト者も、またキリスト教会も、罪を抱えた人間であり、罪人の集まりであるので、妬みや争いというものが私たちの間にも、残念ながら起こることがあります。
それでも、キリストの福音は私たち人のそのような罪の性質をも包み込むのです。
むしろ、妬み、争いを引き起こす私達人間の自我、罪深い性質を、私たちが悔い改めて、それを正直に神の前に差し出す時、福音はそんな私たちを通しても広がっていくのではないでしょうか。
キリストの恵みが、罪深い私たちをキリストに似た者に変えてくださるようにと願いつつ、それでも罪ある私たちを通しても、キリストが(キリストだけが)そんな私たちの間で述べ伝えられ、あがめられますようにと私たちは願いたいと思います。
今日の箇所の最後の節である21節をお読みします。
21わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
パウロにとって“生きることはキリスト”であったのです。パウロも一伝道者として、色々と大変な経験もし、また色々なことに悩みもしたと思います。
パウロも一人の人間ですから、多くの欠点も抱え、また彼は随分激しい性格でもあったようですから、彼は色々と教会内部でも不和や衝突を経験していたことが、聖書では伝えられています。
しかし、パウロにとって「生きることはキリスト」というその一点においては、何の迷いもありませんでした。
“キリストが生きておられるので、この私の命がある”。“キリストが生きておられるので、今日も私は生きる”。“キリストを伝える使命があるので、今日もまた生きることを許されている”とパウロは思っていたのでしょう。
私たちにとって、主イエス・キリストが生きておられるとは、何か漠然とした実態のない、考えや願い、理想ではありません。
それは、私たちのために十字架にかかり死に、そしてよみがえったお方が、今は聖霊によって私たちに神の力と生きる希望とを与えて続けてくださっている、という現実です。
そのようにして、確かにキリストは生きておられるのです。キリストが私たちを生かしておられるのですから、私たちにとって”生きることはキリスト“なのです。
私たちがもし、“私は何のために生きているのか”、“私が生きていることに何か意味があるのか”という疑問を持つ時があるのなら、その時はキリストを見上げましょう。
聖書の御言葉を通して語られるキリストの御言葉に私たちは耳を傾け続けましょう。そしてキリストによって生かされる真実を知って、私たちは喜びましょう。
私たちにとって、生きるとはキリスト、すなわちキリストが生きておられるので、私たちも生きるのです。
不完全で限りある、罪あるこの私たちが、完全で罪のないイエス・キリストによって贖われ、罪赦され罪から解放されたので、私たちは喜びの命を生きることができるのです。
そのような聖書の約束に信頼し、主と共に生きる、主キリストのために生きる日々を、私達これからも歩んでまいりましょう。
前奏
招詞 出エジプト記20章3節
賛美 新生讃美歌59番 父の神よ 汝がまこと
主の祈り
賛美 新生讃美歌261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 フィリピの信徒への手紙1章12~21節
祈祷
宣教 「生きるとはキリストである」
祈祷
賛美 新生讃美歌 491番 信ぜよ み神を
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏
復活のイエス・キリストに出会い、それまではキリスト信者を激しく迫害していたパウロが、キリストの福音を熱心に伝道する者へと変えられました。
先週の礼拝メッセージで、私たちは、パウロの回心について、使徒言行録(Acts)から御言葉を共にお聞きしました。
しかしパウロはキリストの伝道者となったために、それ以来、大変に苦しい道を歩むことになります。
パウロはキリストを宣教したために何度も投獄され、そして(そのことは聖書にははっきりと書いてありませんが)パウロは最期は処刑されたのだろう、と言われています。
このフィリピの信徒への手紙も、パウロがローマで投獄されているときに牢獄から書かれた手紙であると言われます。
しかし、牢獄にあってもパウロから希望と力が奪われることはありませんでした。
今日の箇所の少し前の、フィリピの信徒への手紙1章3~4節に次のように書かれています。
わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
獄中にあってパウロを支えたのは、何よりもイエス・キリスト、復活のイエス・キリストが彼といつも共にいてくださる、という確信でありその信仰でした。
そして、パウロにとっては、祈ることが大きな喜びであったことが分かります。何かのために、特に信仰の友のために祈ることができる喜びが、パウロを支えていたのです。
パウロにとっては、フィリピの信徒たちのことを思い起こし、神に感謝しながら彼らのために祈ることが喜びであったのです。
フィリピの教会は、パウロが伝道したことによって建てられました。フィリピの教会の信徒たちは、パウロがフィリピを離れてからも、物心両面でパウロを支えたようです。
フィリピの信徒への手紙4章15~16節に次のように書かれています。
フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
パウロは、天幕(テント)作りという専門職を持っており、自ら働いて生計を立てながら伝道をした、とパウロの他の手紙の箇所に書かれています。
しかし、フィリピの教会の信徒たちからは、パウロは物質的な援助(物やおそらく献金も)受け取っていたことが、今お読みした箇所から分かります。
そのことから、フィリピの教会の信徒たちとパウロの間には、特別な信頼関係と強い愛情がはぐくまれていたのだろうと想像できます。(他の教会からはそうしなかったけれども、フィリピの教会から援助を受け取った、ということから)
そしてパウロにとっては、自分を支えてくれたフィリピの信徒を覚えて、祈ることができることが、この上ない喜びであったのです。
信仰の友であり家族である人たちのために祈ることができるということは、神を信じる者に大きな喜びをもたらすのです。
私たちも自分以外の他者のことを覚えて(自分の家族であったり、特に教会の兄弟姉妹、友人知人)を覚えて祈ります。
パウロが喜びをもってフィリピの信徒たちを覚えて祈ったように、私達も、信仰によって誰かのために祈ることができる、そのこと自体が大きな喜びであることを知っていきたいと願います。
なぜ祈りが喜びとなるのでしょうか。それは、私たちの祈りを聞いてくださる神が確かにおられるからです。
イエス・キリストの名によって私たちが祈る時、キリストの名のゆえに、神は私たちの祈りを確かに聞いてくださるのです。
そのような聖書の約束を信じ、私たちは喜びをもって祈る者、祈る信仰者でありたいと願います。
今日の箇所の12節をお読みします。
12兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
「わたしの身に起こったこと」とは、パウロがキリストの福音を伝えたために、彼が激しい妨害、迫害にあい、牢にまで閉じ込められた、などの経験のことです。
普通に考えれば、神のため、そして神の救いを人に伝えるために働いているのに、そのために捕まり投獄されるということは辛いことです。
自分が捕まってしまっては、キリストの福音を宣教することができなくなってしまう、と最初パウロは思ったかもしれません。
しかしパウロは、彼に起きたそれらの出来事を、自分の視点から見るのではなく、神の視点から、そして“キリストの福音が伝えられる”という視点から見ることができました。
パウロは牢獄に入れられましたが、彼がそのような境遇に置かれたことで、逆に福音が前進することに役立った、とパウロは言うのです。
『使徒言行録』の16章に、パウロがフィリピで投獄された時の様子が書かれています。
フィリピで宣教をしていたパウロと仲間のシラスに対して、人々から「彼らは町を混乱させている」という訴えが出されました。そのため彼ら二人は何度も鞭打たれ、そして投獄されました。
真夜中頃、パウロとシラスは賛美の歌を歌って神に祈っていました。そこで突然大きな地震が起こり、牢獄の土台までが揺れて、囚人たちが閉じ込められていた牢の扉がみな開き、囚人の鎖もはずれてしまいました。
そこで牢を見張っていた看守は、“囚人たちが逃げてしまった”、“自分の責任が問われる”と恐れて、彼は自殺しようとします(使徒言行録16章27節)。
しかしパウロは大声で叫びます。「自害してはいけいない。わたしたちは皆ここにいる“Don’t harm yourself! We are all here!”」(使徒16:28)。
その看守はパウロとシラスに聞きました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」
二人(パウロとシラス)は答えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
その看守は家族と共に洗礼(バプテスマ)を受け、そして看守は家族も一緒に神を信じる者になったことを、家族と一緒に喜んだと書かれています。
投獄という彼(パウロ)にとっては理不尽な(不当な)経験も、主なる神によってそのように大きく用いられて、キリストの福音が人々に伝わることに繋がる、ということをパウロは経験しました。
パウロは彼自身のことよりも、“福音の前進”という出来事に目をとめて、福音がいかに広がっていくかという視点から、彼に起きたことを振り返る(思い起こす)ことができたのです。
私たちも、自分自身の思いや願い、感情や満足(それらも大切であり、自分の願いや感情を捨てることは私たちにはできませんが)を基準にして私達の人生を見るのではなく、キリストの福音の前進という視点から、私達に起こる出来事を捉える(受け止める)必要を教えられます。
キリストが共におられ、私たちに起こる出来事を通して、キリストが、福音が前進するために働いてくださいます。
そのことを信じ、福音に生かされながら、福音の前進のために私たちも生きていきたいと私たちは願います。
今日の箇所の15節以降では、人々がキリストを述べ伝える動機について書かれています。
15キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
そして16~17節には“パウロに対する愛の動機から、または逆にパウロを苦しめてやろうという動機で、キリストを広める者もいる”、と書かれています。
しかし18節にこう書かれています。
18だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
これもすごい言葉です。“愛なるキリストを伝道するならば、その動機こそが重要だ”と私たちは考えないでしょうか。
キリストを伝えたい、という純粋な思いこそが大切であって、そこに妬みや争いが持ち込まれるならば、それでは福音の宣教にはならない、と私たちは思わないでしょうか。
ここでパウロが言いたいことは、私達人間の不純な動機さえも、キリストの福音はそれらよりも強く、福音はそれら(人の不純な動機や心)さえも凌駕(りょうが)する、ということです。
キリスト者も、またキリスト教会も、罪を抱えた人間であり、罪人の集まりであるので、妬みや争いというものが私たちの間にも、残念ながら起こることがあります。
それでも、キリストの福音は私たち人のそのような罪の性質をも包み込むのです。
むしろ、妬み、争いを引き起こす私達人間の自我、罪深い性質を、私たちが悔い改めて、それを正直に神の前に差し出す時、福音はそんな私たちを通しても広がっていくのではないでしょうか。
キリストの恵みが、罪深い私たちをキリストに似た者に変えてくださるようにと願いつつ、それでも罪ある私たちを通しても、キリストが(キリストだけが)そんな私たちの間で述べ伝えられ、あがめられますようにと私たちは願いたいと思います。
今日の箇所の最後の節である21節をお読みします。
21わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
パウロにとって“生きることはキリスト”であったのです。パウロも一伝道者として、色々と大変な経験もし、また色々なことに悩みもしたと思います。
パウロも一人の人間ですから、多くの欠点も抱え、また彼は随分激しい性格でもあったようですから、彼は色々と教会内部でも不和や衝突を経験していたことが、聖書では伝えられています。
しかし、パウロにとって「生きることはキリスト」というその一点においては、何の迷いもありませんでした。
“キリストが生きておられるので、この私の命がある”。“キリストが生きておられるので、今日も私は生きる”。“キリストを伝える使命があるので、今日もまた生きることを許されている”とパウロは思っていたのでしょう。
私たちにとって、主イエス・キリストが生きておられるとは、何か漠然とした実態のない、考えや願い、理想ではありません。
それは、私たちのために十字架にかかり死に、そしてよみがえったお方が、今は聖霊によって私たちに神の力と生きる希望とを与えて続けてくださっている、という現実です。
そのようにして、確かにキリストは生きておられるのです。キリストが私たちを生かしておられるのですから、私たちにとって”生きることはキリスト“なのです。
私たちがもし、“私は何のために生きているのか”、“私が生きていることに何か意味があるのか”という疑問を持つ時があるのなら、その時はキリストを見上げましょう。
聖書の御言葉を通して語られるキリストの御言葉に私たちは耳を傾け続けましょう。そしてキリストによって生かされる真実を知って、私たちは喜びましょう。
私たちにとって、生きるとはキリスト、すなわちキリストが生きておられるので、私たちも生きるのです。
不完全で限りある、罪あるこの私たちが、完全で罪のないイエス・キリストによって贖われ、罪赦され罪から解放されたので、私たちは喜びの命を生きることができるのです。
そのような聖書の約束に信頼し、主と共に生きる、主キリストのために生きる日々を、私達これからも歩んでまいりましょう。
2025年1月4日土曜日
2025年1月5日 主日礼拝
前奏
招詞 歴代誌下7章14節
賛美 新生讃美歌2番 来たれ全能の主
前奏
招詞 歴代誌下7章14節
賛美 新生讃美歌2番 来たれ全能の主
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 使徒言行録9章1~9節
祈祷
宣教 「パウロの回心」
祈祷
賛美 新生讃美歌563番 すべての恵みの
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
新約聖書は、4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)、そして今日の聖書箇所である『使徒言行録Acts』、それに続く幾つかの手紙形式の書、そして「ヨハネの黙示録」という書から成り立っています。
新約聖書の中の手紙の部分の多くを書いたのが、パウロでした。そのパウロが、今日の聖書箇所に出てくるサウロです。パウロとサウロは同一人物です。
今日の箇所の初めに次のように書かれています。
1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
“主の弟子とは、イエス・キリストに従う者たちです。この時イエス様は既に殺されて、そして復活して、天に昇っていかれた後でした。
イエス様が天に昇って行かれた後、主の聖霊がイエス様の弟子たちに降り、弟子たちは聖霊によって力を受けました。
そして弟子たちは、“イエス・キリストが神であること”、“キリスト以外に人の救いはない”ということを力強く伝道していくようになりました。
聖霊によって力を受けた弟子たちによる伝道活動が、この「使徒言行録」に詳しく記されています。
後にキリストの伝道者となって、新約聖書に含まれている手紙の多くを書くようになったパウロは、イエス・キリストの教えに従う者たちを、始めは激しく迫害していたのです。
彼は、主の弟子たちを脅迫し、殺そうとまでしていました。
パウロは大祭司から、キリストに従う者を迫害する許可を得て、迫害の息をはずませて、ダマスコへ向かっていました。
そこでキリストに従う者たちを、男女の別なく縛り上げてエルサレムへ連行するためでした。
パウロがこの時期に、どれほど激しい迫害をしていたのかは、パウロが自分自身で、手紙の中で言及している箇所が何箇所かあるので、そこから私たちは知ることができます。
ガラテヤの信徒への手紙の1章13節(Galatian 1:13)には次のように書かれています。
あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。
パウロは、神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとまでしていたのです。そしてそのことを通して、パウロは自分は熱心に神に仕えていると信じていました。
そのことが、ガラテヤの同じ箇所、次の節1章14節に書かれていることから分かります。
また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。
パウロは、“自分はとても熱心だったのだ”と言っています。
しかし、“ユダヤ教に徹しようとしていた”、“先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心だった”という言葉の意味を深く考えると、パウロが、主なる神への愛と誠の心というよりも、彼自身の熱心さのほうに重点をおいていたことが、推測できないでしょうか。
見た目には熱心な信仰者に見えても、彼(パウロ)は神の御愛と憐れみ、神から来る喜びの中には生きていなかったということが、想像できるのではないでしょうか。
そしてそのことに、パウロの内面は実は苦しんでいた、という可能性もあると私は思うのです。
そのようなパウロが、キリストに従う者たちへの迫害の息を弾ませながら、いよいよ目的地であるダマスコに近づいたとき、天からの光が彼を照らしました。
パウロは地に倒れました。そしてある声がパウロに聞こえました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。それはイエス・キリストの声でした。
その声は「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と言いました。
イエス様は、「わたしを迫害するのをやめなさい」とは言わず、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか?」と疑問形でパウロに問いかけたのです。
それはパウロ自身の内面をパウロ自身が見つめ直すようにと促すお言葉でした。
「なぜ、あなたはわたしを迫害するのか。そうしている、あなたの動機は何なのか?何があなたを突き動かしているのか?」とイエス様の声はパウロに問いかけたのです。
このように、イエス様に出会うとは、私たちが自分自身に向き合わされる経験となるのです。
私たちは今も御言葉を通してイエス様と出会い、そしてイエス様に問いかけられながら、自分自身に向き合わされます。
イエス様に問いかけられながら、イエス様と霊的に(祈りを通して)対話しながら、私たちは、“私は本当は何を望んでいるのか”、“私は一体何者であるのか”ということを、私たちは深く考えさせれ、知っていくのです。
パウロがこの時、どのように彼自身に向き合ったのかは分かりません。この後パウロは目が見えなくなります。
そして今日の箇所の後の箇所では、パウロがアナニアという人によって目を再び開けられ、それからイエス様のことを熱心に宣教する伝道者に変わったことが伝えられています。
その時パウロはキリストの迫害者から、熱心にキリストを伝道する者へと一瞬にして変えられたような印象を私達は受けるかもしれません。
しかしそのような変化は、実はパウロがキリストに従う者たちを迫害している中で、彼の中で徐々に起きていたのではないか、と私は考えています。
キリストに従う者たち、主の道を歩んで生きる者たちの姿を見て、彼らを迫害しながらも実はパウロの中で、“イエス・キリストこそが神の子であり、真の神その人である”、という信仰が生まれる素地は、生まれつつあったのではないでしょうか。
パウロは、生きている時のイエス様とは会ったことがありませんでした。しかし、キリストに従う者たちの生き方を見ることによって、パウロはイエス様と出会っていたと言えます。
今日の箇所の前の箇所の使徒言行録の7章に、ステファノという人が殉教(キリストを伝道したために、殺されること)した時の話が記されています。
ステファノはキリストを宣教することで、人々からどれほど反対され憎悪されても、彼らを憎み返すことはしませんでした。
人々はステファノに激しく怒り、ステファノに次々と石を投げつけて殺してしまいました。
その時ステファノはこう言いました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7章60節)。
その場にはパウロもいました。パウロはステファノを殺すことに賛成していた、と書かれています。(使徒言行録8章1節)
パウロが、ステファノが処刑されるその様子をどんな思いで見ていたのかは聖書には書かれていません。
しかし、死にゆくなかで、自分に石を投げつける人たちのことを「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈るステファノの言葉と姿にパウロの心は激しく揺れたのではないでしょうか。
ステファノ以外にも、パウロが迫害した他の信仰者たちの姿から、パウロは何かを感じ、彼は知らず知らずに徐々に変えられ始めていたのではないでしょうか。
イエス様がパウロに「なぜ、わたしを迫害するのか」と問いかけたとき、パウロはステファノの死にゆく姿や、ステファノの処刑に賛成していた自分自身について、その他いろいろなことを思い出し、考えさせられたのだと思います。
パウロは人一倍ユダヤ教の教えと実践には熱心でした。しかし、パウロは神の本質である、神の御愛と神の赦しについては知らなかったことに気づかされたのではないでしょうか。
パウロはその声に問いかけます。「主よ、あなたはどなたですか」
パウロは、そのお方がイエス様だと分かっていたでしょう。パウロが聞いたのは「神であるあなたは、私の命とどういう関わりがあるお方なのですか」という本質的な問いだったのだと、思います。
私たちも主の言葉を聞く時、「あなたはどなたですか?」、「あなたは、今わたしの命とどのように関わってくださっているのですか」と問いかけることが許されています。
パウロのように、天から光が射して声が聞こえるような劇的な経験をすることは、通常私たちにはないでしょう。
しかし聖書の御言葉を通して、また神様は他の人々や様々な状況を通しても、私たちに語ってくださることがあります。
その時私たちは、「あなたはどなたですか」、「わたしはどうすればよいのでしょうか」と問いかけながら、その度に示される道を一歩一歩、進んでいきたいと願います。
パウロはこの後目が見えなくなります。人々に手を引かれて、彼はダマスコに連れていかれました。
そこでパウロは三日間目が見えず、そして食べることも飲むこともしなかった、と書かれています。
今日の箇所は、キリストの伝道者、しかもユダヤ人の枠を越えた異邦人(外国人)への福音宣教者に後になるパウロが、新しく生まれ変わったという意味で、大変重要な箇所です。
パウロはキリストの宣教者としてそれから大きな働きをするようになりました。
しかしパウロがそれより以前には、キリストに従う者たちを激しく迫害(殺害さえ)していたという事実は、それ以降も変わらない事実としてパウロに付きまとったでしょう。
しかしそれが神の御計画でした。神は人間の目からみて相応しい、適任だと思える人ばかりを福音伝道の働きに用いられるとは限らないのです。
むしろパウロのような、キリストの伝道者となるには、あまりにも都合が悪い過去(ハンディキャップ)を抱えたような者が、神によって選ばれたのです。
パウロが福音伝道をしようとしても、多くの人たちから「あなたは今までキリストに従う者を、あんなにひどく迫害していたではないか」と言って反発された(恐れられた)と思います。
パウロはそのような声に向き合いながら、また自分自身の過去と罪にもしっかりと向き合いながら、神の愛と赦しを確信していったのです。
つまりパウロは、キリストの迫害者であった彼が神に選ばれて、神に赦された喜びをもって、キリストの伝道者となっていったのです。
そして彼の思いをはるかに超えた神の大きなご計画の中で、イエス・キリストの福音を伝道する者になるように自分は召されたのだ、ということをパウロは増々確信していったのでしょう。
私たちも、キリストに出会うことで、キリストの言葉に問いかけられることで、自分自身に向き合います。
それにより、できれば向き合いたくないような自分の内面、自分の罪にも向き合わされることになるかもしれません。
しかし、そのような過程を経てこそ、私たちはイエス様が十字架の上で、この私の罪を贖うために本当に死んでくださった、だから私は罪赦されたという確信と喜びに至るのです。
イエス様から与えられるその信仰に基づき、私たちは自分自身にもしっかりと向かいつつ、そして罪赦された喜びと感謝をもって、キリストに従う道をこれからも共に歩んでまいりましょう。
主の祈り
賛美 新生讃美歌261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 使徒言行録9章1~9節
祈祷
宣教 「パウロの回心」
祈祷
賛美 新生讃美歌563番 すべての恵みの
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
新約聖書は、4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)、そして今日の聖書箇所である『使徒言行録Acts』、それに続く幾つかの手紙形式の書、そして「ヨハネの黙示録」という書から成り立っています。
新約聖書の中の手紙の部分の多くを書いたのが、パウロでした。そのパウロが、今日の聖書箇所に出てくるサウロです。パウロとサウロは同一人物です。
今日の箇所の初めに次のように書かれています。
1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
“主の弟子とは、イエス・キリストに従う者たちです。この時イエス様は既に殺されて、そして復活して、天に昇っていかれた後でした。
イエス様が天に昇って行かれた後、主の聖霊がイエス様の弟子たちに降り、弟子たちは聖霊によって力を受けました。
そして弟子たちは、“イエス・キリストが神であること”、“キリスト以外に人の救いはない”ということを力強く伝道していくようになりました。
聖霊によって力を受けた弟子たちによる伝道活動が、この「使徒言行録」に詳しく記されています。
後にキリストの伝道者となって、新約聖書に含まれている手紙の多くを書くようになったパウロは、イエス・キリストの教えに従う者たちを、始めは激しく迫害していたのです。
彼は、主の弟子たちを脅迫し、殺そうとまでしていました。
パウロは大祭司から、キリストに従う者を迫害する許可を得て、迫害の息をはずませて、ダマスコへ向かっていました。
そこでキリストに従う者たちを、男女の別なく縛り上げてエルサレムへ連行するためでした。
パウロがこの時期に、どれほど激しい迫害をしていたのかは、パウロが自分自身で、手紙の中で言及している箇所が何箇所かあるので、そこから私たちは知ることができます。
ガラテヤの信徒への手紙の1章13節(Galatian 1:13)には次のように書かれています。
あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。
パウロは、神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとまでしていたのです。そしてそのことを通して、パウロは自分は熱心に神に仕えていると信じていました。
そのことが、ガラテヤの同じ箇所、次の節1章14節に書かれていることから分かります。
また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。
パウロは、“自分はとても熱心だったのだ”と言っています。
しかし、“ユダヤ教に徹しようとしていた”、“先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心だった”という言葉の意味を深く考えると、パウロが、主なる神への愛と誠の心というよりも、彼自身の熱心さのほうに重点をおいていたことが、推測できないでしょうか。
見た目には熱心な信仰者に見えても、彼(パウロ)は神の御愛と憐れみ、神から来る喜びの中には生きていなかったということが、想像できるのではないでしょうか。
そしてそのことに、パウロの内面は実は苦しんでいた、という可能性もあると私は思うのです。
そのようなパウロが、キリストに従う者たちへの迫害の息を弾ませながら、いよいよ目的地であるダマスコに近づいたとき、天からの光が彼を照らしました。
パウロは地に倒れました。そしてある声がパウロに聞こえました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。それはイエス・キリストの声でした。
その声は「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と言いました。
イエス様は、「わたしを迫害するのをやめなさい」とは言わず、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか?」と疑問形でパウロに問いかけたのです。
それはパウロ自身の内面をパウロ自身が見つめ直すようにと促すお言葉でした。
「なぜ、あなたはわたしを迫害するのか。そうしている、あなたの動機は何なのか?何があなたを突き動かしているのか?」とイエス様の声はパウロに問いかけたのです。
このように、イエス様に出会うとは、私たちが自分自身に向き合わされる経験となるのです。
私たちは今も御言葉を通してイエス様と出会い、そしてイエス様に問いかけられながら、自分自身に向き合わされます。
イエス様に問いかけられながら、イエス様と霊的に(祈りを通して)対話しながら、私たちは、“私は本当は何を望んでいるのか”、“私は一体何者であるのか”ということを、私たちは深く考えさせれ、知っていくのです。
パウロがこの時、どのように彼自身に向き合ったのかは分かりません。この後パウロは目が見えなくなります。
そして今日の箇所の後の箇所では、パウロがアナニアという人によって目を再び開けられ、それからイエス様のことを熱心に宣教する伝道者に変わったことが伝えられています。
その時パウロはキリストの迫害者から、熱心にキリストを伝道する者へと一瞬にして変えられたような印象を私達は受けるかもしれません。
しかしそのような変化は、実はパウロがキリストに従う者たちを迫害している中で、彼の中で徐々に起きていたのではないか、と私は考えています。
キリストに従う者たち、主の道を歩んで生きる者たちの姿を見て、彼らを迫害しながらも実はパウロの中で、“イエス・キリストこそが神の子であり、真の神その人である”、という信仰が生まれる素地は、生まれつつあったのではないでしょうか。
パウロは、生きている時のイエス様とは会ったことがありませんでした。しかし、キリストに従う者たちの生き方を見ることによって、パウロはイエス様と出会っていたと言えます。
今日の箇所の前の箇所の使徒言行録の7章に、ステファノという人が殉教(キリストを伝道したために、殺されること)した時の話が記されています。
ステファノはキリストを宣教することで、人々からどれほど反対され憎悪されても、彼らを憎み返すことはしませんでした。
人々はステファノに激しく怒り、ステファノに次々と石を投げつけて殺してしまいました。
その時ステファノはこう言いました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7章60節)。
その場にはパウロもいました。パウロはステファノを殺すことに賛成していた、と書かれています。(使徒言行録8章1節)
パウロが、ステファノが処刑されるその様子をどんな思いで見ていたのかは聖書には書かれていません。
しかし、死にゆくなかで、自分に石を投げつける人たちのことを「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈るステファノの言葉と姿にパウロの心は激しく揺れたのではないでしょうか。
ステファノ以外にも、パウロが迫害した他の信仰者たちの姿から、パウロは何かを感じ、彼は知らず知らずに徐々に変えられ始めていたのではないでしょうか。
イエス様がパウロに「なぜ、わたしを迫害するのか」と問いかけたとき、パウロはステファノの死にゆく姿や、ステファノの処刑に賛成していた自分自身について、その他いろいろなことを思い出し、考えさせられたのだと思います。
パウロは人一倍ユダヤ教の教えと実践には熱心でした。しかし、パウロは神の本質である、神の御愛と神の赦しについては知らなかったことに気づかされたのではないでしょうか。
パウロはその声に問いかけます。「主よ、あなたはどなたですか」
パウロは、そのお方がイエス様だと分かっていたでしょう。パウロが聞いたのは「神であるあなたは、私の命とどういう関わりがあるお方なのですか」という本質的な問いだったのだと、思います。
私たちも主の言葉を聞く時、「あなたはどなたですか?」、「あなたは、今わたしの命とどのように関わってくださっているのですか」と問いかけることが許されています。
パウロのように、天から光が射して声が聞こえるような劇的な経験をすることは、通常私たちにはないでしょう。
しかし聖書の御言葉を通して、また神様は他の人々や様々な状況を通しても、私たちに語ってくださることがあります。
その時私たちは、「あなたはどなたですか」、「わたしはどうすればよいのでしょうか」と問いかけながら、その度に示される道を一歩一歩、進んでいきたいと願います。
パウロはこの後目が見えなくなります。人々に手を引かれて、彼はダマスコに連れていかれました。
そこでパウロは三日間目が見えず、そして食べることも飲むこともしなかった、と書かれています。
今日の箇所は、キリストの伝道者、しかもユダヤ人の枠を越えた異邦人(外国人)への福音宣教者に後になるパウロが、新しく生まれ変わったという意味で、大変重要な箇所です。
パウロはキリストの宣教者としてそれから大きな働きをするようになりました。
しかしパウロがそれより以前には、キリストに従う者たちを激しく迫害(殺害さえ)していたという事実は、それ以降も変わらない事実としてパウロに付きまとったでしょう。
しかしそれが神の御計画でした。神は人間の目からみて相応しい、適任だと思える人ばかりを福音伝道の働きに用いられるとは限らないのです。
むしろパウロのような、キリストの伝道者となるには、あまりにも都合が悪い過去(ハンディキャップ)を抱えたような者が、神によって選ばれたのです。
パウロが福音伝道をしようとしても、多くの人たちから「あなたは今までキリストに従う者を、あんなにひどく迫害していたではないか」と言って反発された(恐れられた)と思います。
パウロはそのような声に向き合いながら、また自分自身の過去と罪にもしっかりと向き合いながら、神の愛と赦しを確信していったのです。
つまりパウロは、キリストの迫害者であった彼が神に選ばれて、神に赦された喜びをもって、キリストの伝道者となっていったのです。
そして彼の思いをはるかに超えた神の大きなご計画の中で、イエス・キリストの福音を伝道する者になるように自分は召されたのだ、ということをパウロは増々確信していったのでしょう。
私たちも、キリストに出会うことで、キリストの言葉に問いかけられることで、自分自身に向き合います。
それにより、できれば向き合いたくないような自分の内面、自分の罪にも向き合わされることになるかもしれません。
しかし、そのような過程を経てこそ、私たちはイエス様が十字架の上で、この私の罪を贖うために本当に死んでくださった、だから私は罪赦されたという確信と喜びに至るのです。
イエス様から与えられるその信仰に基づき、私たちは自分自身にもしっかりと向かいつつ、そして罪赦された喜びと感謝をもって、キリストに従う道をこれからも共に歩んでまいりましょう。
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