2023年3月11日土曜日

2023年3月12日 主日礼拝

招詞 ヨハネによる福音書4章24節
賛美 新生讃美歌 216番 栄えの冠を
主の祈り
証し
献金
聖書  創世記49章1~2、28~33節
祈祷
宣教  「集まって耳を傾けよ」
https://youtu.be/nNNIMBjRZ2A
祈祷
賛美 新生讃美歌 376番 友よ聞け主のことば
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷

 今日の聖書の箇所である創世記49章では、ヤコブが彼の生涯の最後の言葉を祝福として自分の息子たちに語り、そしてとうとう息を引き取ります。

ヤコブは、1~2節で次のように言っています。
1ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。
2ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ。

 ヤコブには息子たちに伝えたいことがありました。ヤコブは自分の生涯の最後に息子たちを祝福したいと願っていたのです。そのため彼は息子たちに「集まりなさい」と言って彼らを自分のもとへと呼びました。
ヤコブには自分から起き上がって息子たちのところへ行くという力はもうありませんでした。ですから「集まりなさい」、「集まって耳を傾けよ」~心からのこの願いを、最後の力を振り絞るようにしてヤコブは息子たちに語ったのだろうと私は想像します。
ヤコブには“最後に息子たちを祝福したい”という願いがありました。そしてヤコブは、自分の息子たちが一緒に集まっている姿を見たい、という強い願いもあったのではないでしょうか。
なぜなら、兄弟同士が共に集まることができるというのは、それ自体がとても嬉しい祝福の出来事であったからです。
ヤコブ自身が、自分の兄のエサウとの確執(その原因の多くは、ヤコブ自身にもあったと言ってよいでしょう)を通して、兄弟が和解し共にいることのできる恵みを経験していました。
またヤコブは自分の息子たちの中でも特にヨセフをかわいがり、そしてヨセフも他の兄弟たちを見下すような態度を取りました。
そのため、他の兄弟たちはヨセフを憎み、ヨセフはエジプトへ売られることになりました。神の不思議な導きと恵みにより、ヨセフは他の兄弟たちと再会し、和解を果すことができました。
ヤコブにとって、最後自分の息子たちが自分の周りに一緒に集まっている姿を見ることができるのは、本当に幸福なこと、感慨深いことであり、そのことのために神に感謝したいと願わされることであったと私は思います。

今日私たちも、こうして教会に集まっています。実は私たちも、天の父なる神の「集まりなさい」という声によって、こうして教会に集められています。
わたしたちは実際に耳に聞こえる「集まりなさい」と言う声は聞かないと思います。しかし、イエス・キリストの父なる神が「集まりなさい」、「今日もキリストの体である教会に集まり、つながり、兄弟姉妹共に神の御声を聞きなさい」と言って、霊的にわたしたちに呼びかけてくださっています。
私たちは、そのような主の呼びかけに応えて、主が用意してくださった礼拝の場へと集まることができるのです。
今私たちは受難節(レント)の期間を過ごしています。レントの間、わたしたちはイエス・キリストが十字架の上で負ってくださったその苦しみに思いを馳せて感謝と悔い改めの気持ちを新たにいたします。
イエス様が十字架に架かってくださったので、わたしたちは父なる神のもとへと行けるようになりました。そのイエス様が私たちを教会に呼んでくださるので、わたしたちはこうして集うことができています。
ですからそのことを私たちは心から感謝し、兄弟姉妹同士一緒に、キリストの体である教会に集えることを喜びましょう。
そして私たちが自分で“教会へ来よう”と思う前に、実はイエス・キリストの神が先に、すでにわたしたちを“集まりなさい”と言って呼んでくださっているのだということを、わたしたちは忘れないようにしたいと思います。

 さて、今日の箇所の小見出しには“ヤコブの祝福”Jacob Blesses His Sonsと書かれていますが、3節から27節までのその内容を見てみますと、祝福とは言えない厳しいこともヤコブは言っています。
例えば4節には、長子ルベンに対して、こう書かれています。
お前は水のように奔放で/長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した。
 「お前は父の寝台に上った」というのは、創世記35章22節に書かれている事ですが、ルベンが父ヤコブの側女のビルハと性的関係を持ったことについて言っています。
 ルベンのその行為は罪の行為であり、ヤコブ自身が息子のルベンをそのことで許せない、と思っていたのかもしれません。しかし、彼はルベンが犯したその罪の行為も、最後の“祝福”の言葉の中に入れたのです。

 5~7節にはシメオンとレビのことが書かれています。6節には
「彼らは怒りのままに人を殺し 思うがままに雄牛の足の筋を切った」と書かれています。
これはおそらく創世記34章に書かれていることが言及されていると思われます。ヤコブには息子の他にディナと言う娘もいました。兄弟からすれば妹になります。
 そのディナがヒビ人ハモルの息子シケムという人に性的に乱暴されます。シケムは結局ディナを愛して、ディナとの結婚を望みます。
ヤコブの息子たち(ディナの兄弟)は、シケムたちを騙して、結局シメオンとレビが中心となってシケムの人たちを皆殺しにしてしまいました。
 “妹が辱めをうけた”という怒りに任せて、恐ろしいまでの報復行為をシメオンとレビが行ったのです。それは正当防衛とはとても言えない、激しい報復であり、ヤコブの息子たちは、シケムの町中を略奪しました。神の前には、それは明らかに罪と見なされる出来事でした。

ヤコブは、息子たちがかつて犯したそのような罪を、神の手に委ねようとしたのではないでしょうか。
ヤコブは最後の祝福の言葉の中に、息子たちが過去に犯した罪の出来事も含むことで、“お前たちは、神の前に罪人であることを認め、常に神に赦しを求めながら、生きなさい”ということを伝えたかったのではないか、と私は思います。
そしてヤコブは、自分の息子がこれからも犯すかもしれない罪をも神が赦してくださるように、と願いつつ、49章の言葉を語ったのでしょう。罪を認め、それに神の赦しが与えられる~それは信仰者にとって“祝福”と言ってもよいことです。

 そのようにしてヤコブは、最後の祝福の言葉(罪を指摘する厳しい言葉も含む)を、一人一人に語りつつ、また兄弟全員に向かって語りました。
兄弟一人一人に向けられた祝福の言葉を兄弟全員が一緒に聞くことで、“私たちは誰もが罪人であり、欠点と弱さを抱えている”、そして“そんな自分たちが神の前に赦しを得て、神の祝福をいただいている”という神の恵みが、彼ら全員の前で明らかになるのです。
それは、私たちがこうして神を共に礼拝し、神の言葉を共に聴いていることと似ていると思います。
私たちは礼拝で共に“わたしたちに”向けられた神の声を聞き、また同時に“この私に”個人的にも向けられた神の声をも聴くのです。
 そうすることで私たちはお互いに、誰もが欠けと弱さを持った者であることを私たちは知るのです。そのことでお互いを非難し合うのではなく、逆に“お互いを思いやりなさい”、“助け合いなさい”、“励まし合いなさい”という神からの呼びかけを私たちは聞くのです。

 息子たちを祝福し終わったヤコブは、(今日の29節以降で)いよいよ死に赴く前に、最後もう一度、自分を先祖の墓に葬ってほしい、ということを念押しして息子たちに伝えます。
 ヤコブは創世記47章27節以降の箇所で既に「先祖の墓に葬ってほしい」と息子たちに伝えています。
今日の箇所では、そのことをより詳しく述べています。「先祖の墓」とは、ヤコブの祖父アブラハムがヘト人のエフロンから買った墓地でした。
 ヤコブは自分の死に際し、後に残されてこれから生きていく息子たちに神の祝福があることを願い、そして自分が永遠に眠ることができる墓地を祖父アブラハムが用意してくれていた、ということに対してアブラハムに感謝の思いも抱いたのでしょう。
 「祖父アブラハムが用意した墓地に自分を葬ってくれ」という願いを通しても、息子たちにヤコブは、”わたしの祖先を守り、そしてわたしをも守り導かれた神は、あなたたちをもこれからも、きっと守り導いてくださるはずだ”という祝福のメッセージを伝えたのだと思います。
永遠の眠りの場所ということに対して、わたしたちも一般に墓地というものを大切にします。墓地は、地上でその人が生きたということの一つの証しともなります。
そしてまた、わたしたちキリストを信じる信仰者には、“わたしたちひとり一人のことがすべて主なる神に覚えられている”、“キリストにより用意された永遠の場所がある”という希望があることも、今日改めて思い起こしたいと思います。

わたしたちのこの地上での命の先には復活の希望があります。
イエス様はわたしたちに、“天の父なる神の家には住む場所がたくさんある”と言って下さっています。
ヨハネ福音書14章1~2節をお読みします。イエス様が十字架へかかろうとするその前に、弟子たちに向かって言ったお言葉です。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」
わたしたちはどこへ行くのでしょうか?わたしたちに行くところはあるのでしょうか?それがあるのです。御子イエス・キリストこそが私たちが通るべき道です。キリストという道を通り、わたしたちは真理と真の命、永遠の平安へと到達するのです。
キリストが約束してくださった“わたしの父の家にある、たくさんの住む場所”へと私たちが招かれている~その事を信じ、感謝をしながら、私たち共に命の日々、信仰の道を歩んで参りましょう。