2023年8月26日土曜日

2023年8月27日 主日礼拝

招詞  テサロニケの信徒への手紙二 3章5節
賛美  新生讃美歌 626番 主はいのちを与えませリ
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句  出エジプト記2章1~10節
祈祷
宣教  「水の中からわたしが引き上げた」
https://youtu.be/-pLJyfJ3TxE
祈祷
賛美  新生讃美歌 492番 わが身の望みは
頌栄  新生讃美歌 672番
祝祷


 今日の聖書の箇所は、旧約聖書の『出エジプト記』の中の、モーセが生まれた時の話です。モーセという名は、クリスチャンでない方でもお聞きになったことがあると思います。
エジプトで約400年間奴隷生活を送っていたイスラエルの民を、エジプトから脱出させた時の指導者であり、そして神の言葉を受け取って、それを人々に伝えた預言者がモーセでした。
今日の箇所では、そのモーセがどのような状況の中で生まれたのか、について書かれています。まさに命の危機から救われた、生まれた時のモーセに起きた出来事を通して、私たちは神の守りと恵みについて、聞いていきたいと思います。

 2章1節に「レビ(イスラエルの一部族)の家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった」と書かれています。この二人がモーセの両親です。
 そして次に「彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた」と書かれています。
 なぜその母親は、生まれた男の子を三ヶ月隠しておいたのでしょうか。それは、この時エジプトでは、「ヘブライ人(イスラエル人)たちの数が増えすぎて、エジプトにとって脅威になる」と恐れたエジプト王のファラオが、全国民に「生まれた男の子は一人残らずナイル川にほうり込め」と命じていたからです。
 そのような状況の中で、そのレビ人の夫婦の間に男の子が生まれました。エジプト王の命令に従うならば、その子はナイル川に放り込まれなくてはなりませんでした。

 しかし、母親はそうすることができませんでした。日本語聖書では「その子がかわいかったのを見て、三ヶ月の間隠しておいた」と書かれています。英語訳では、when she saw that he was a fine child (その子が、素敵な子であるのを見て)と訳されています。
 この文は、旧約聖書が書かれた元のヘブライ語では、「彼は美しかったbeautiful(あるいは“良かった”good)」と書かれています。ヘブライ語で“トブtob”という単語がつかわれています。
『創世記』の最初に、神が世界をお造りになった時、神ご自身がお造りになったものを見て、「神はこれを見て、良しとされた」(創世記1章21節)と書かれています。そこで“良し”も、そのヘブライ語“トブtob”という言葉がつかわれています。

 ですから、今日の箇所でモーセの母親が生まれた自分の男の子を見て、「かわいい(美しい)」と思ったというのは、一人の母親がわが子を見て「かわいい」と思う以上の意味が込められています。
 もちろん母親にとって(父親にとっても)生まれた自分の子供はかわいく、美しいものです。いくら王の命令であっても、その子を川に放り込むことなど出来るわけがありません。
しかし、それ以上に、今日の箇所で「その子は良かった」と書かれているのは、人の命は神によって造られ、与えられたものであり、限りなく尊い、ということを私たちに伝えています。
 その子は神が造られたものであるからです。神によって造られた命であるから、私たちひとり一人の命は、限りなく尊いのです。神が見て“トブtob”=“良いgood”と言って下さったのが、私たちであるからです。

 私たちは神が見て“良し(good)”あるいは“美しいbeautiful”と言ってくださった、私たちひとり一人の存在と命を尊びましょう。
自分の命も、また自分以外の他者の命をも、私たちは「神がお造りになって“良し”と言ってくださった」と信仰によって信じて、尊ばなくてはならないのです。
 モーセの母親は、その子がかわいく愛おしいのを見て、三ヶ月の間その子を隠しておきました。でももうそれ以上隠しておけなくなりました。
母親はパピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水して、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。

その時母親はどんな気持ちだったのでしょうか。もうこれ以上隠しておくことができないというギリギリの状況だったのですが、そのように息子を手放す(あるいは捨てる)ことに、大きな悲しみとあるいは罪悪感をも感じたかもしれません。
 しかし私たちはこの箇所を読む時、モーセの母親は、きっと自分にできるだけのことは精一杯して、もうそれ以上自分に出来ることがなくなった時に、自分の息子を神の守りに委ねた、と理解してよいのではないでしょうか。
 母親はいつまでも息子を守ってあげることはできませんでした。しかし、神は必ず自分の子を守り、恵みを与えてくださると、彼女は信じていたのです。
ですから、彼女は決してモーセを捨てたのではなく、神を信じ神の御手に我が子を委ねたのです。

私たちは大切なものや、あるいは大切な人、あるいは自分自身を神に委ねるということができないために、返って苦しむことがあるのではないでしょうか。信仰をもって神に委ねる、ということを私たちは実践していきたいと願います。
 その後、その子の姉(モーセの姉)が遠くに立って、どうなるのだろうかと見ていました。このモーセの姉も重要な役割を果たしています。彼女は、どうなるのかをただ見ていることしかできなかった、と私たちは思うかもしれません。
 自分の手でその子を再び取り上げて母親のところへ戻す、ということは彼女にはできませんでした。彼女にできるのは、ただ遠くから眺めているだけでした。しかし、それでもそれが彼女に出来る精一杯のことでした。
 心配しながら、その子の安全を祈り願って、離れたところから見守る~それも大きな働きです。そのような、姉からの愛の眼差しが、川の中に(葦の茂みの中に)置かれたモーセに注がれていたのです。
 時に私たちも、誰かを離れたところから(離れたところから)見守ることしかできない経験をするかもしれません。

 私の長男が今年の春から就職し、家を離れて遠方で働き始めました。遠くにいますから、今普段の私にできることは、祈り、最善を願って、息子のために祈る、ということです。
 それしか私にはできない、とも言えますが、愛と誠の神を信じ、身近な人のことを神に委ねて祈る、そしてその人を見守ることは、決して意味のないことではありません。私たちの信じる神は、私たちの祈りを必ず聞き届けてくださるお方であるからです。
籠に入れられて川の中に置かれたモーセを遠くから見守る姉の姿は、わたしたちをいつも見守っていてくださる神様をも思い起こさせます。私たちの神は私たちをいつも見守っていてくださるお方です。
詩編121篇5節に次のように書かれています。
主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。

わたしたちを見守ってくださっている主がおられるので、私たちは安心して生きることができます。
わたしたちがどこへ行こうとも、どんな状況にあろうとも、見守っていてくださる主がおられるので、その主に、私たちは愛する人、大切な人を委ねることができます。愛と守りを与えてくださる神に、私たちは感謝をしようではありませんか。
モーセの姉が遠くに立ってどうなるかと見ていると、そこへファラオ(エジプトの王)の王女が川に下りて来て、葦の茂みの間に籠を見つけました。仕え女をやって取ってこさせると、籠のなかには男の子の赤ちゃんがいました。

王女はその子を見て、ふびんに思った(かわいそうに思った)と書かれています。モーセの母親が、生まれた子をみて「かわいい、美しい」と思って、できるだけその子を守ろうとしたように、王女にも赤ん坊をみて、「かわいそう」だと思う感情が湧いたのです。
 この「かわいい」と思う、あるいは「かわいそう」と思う感情も、神が私たち人間に与えてくださった賜物の一つです。感情によって(感情だけではありませんが)、私たちは人を愛し、思いやることができるからです。
王女は「きっとこの子はヘブライ人の子だ」と思い、そう言いました。そこでその子の姉がファラオの王女に「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んでまいりましょう」と言うと、王女は承知しました。
王女は、連れてこられたヘブライ人の乳母(その子の実の母)に、自分に代わってその子に乳をやって育てて欲しい、と依頼しました。そしてその子が大きくなると、なんと王女はその子を自分の子として引き取った、という驚きの出来事が起きたのです。

 王女は彼をモーセと名付けました。それは“引き上げる”という意味のヘブライ語の単語に基づいた名前でした。王女が「水の中からわたしが引き上げたかのですから」と言って、その子がモーセと名付けられたのです。
 確かに、水の中からモーセを引き上げたのはエジプトの王女でしたが、彼女を通して奇跡的にモーセの命を救ったお方は、主なる神です。
神が、色々な人たち(モーセの母、妹、エジプトの王女、彼女の仕え女:全員女性)を用いて、モーセの命を守り、救ったのです。
 そのようにして神の守りの御手がモーセを水から引き上げてくださったように、私たちにも、私たちが危機や苦難に陥る時、そこから引き上げて助けてくださる神がおられます。
そして神はいつも私たちを守っていてくださいます。神が私たちを守ってくださる~そのことをなぜわたしたちは確信できるのでしょうか。
それは私たちの主イエス・キリストが天の父なる神に、わたしたちを守って下さいとお願いしてくださっていることからも、私たちはそう信じることができます。
 ヨハネによる福音書17章で、イエス様が十字架に掛けられる前、弟子たちのために祈っておられます。そこでのイエス様の祈りは、今も私たち全ての者へ向けられた祈りなのです。その祈りをお読みします。

ヨハネ17章11節
 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

 「わたしに与えてくださった御名(*神の名)によって彼らを守ってください」~イエス様のこの祈りの言葉が、私たちを神がいつも守ってくださっていると、約束しています。
私たちは聖書の言葉によって、イエス・キリストのそのお言葉によって、今も私たちを守ってくださっている、守り導いて下さっている神を信じることができます。
私たちをいつも守り、危機の中から救い、引き上げてくださる、そのような主なる神が確かにおられることを信じ、私たち今週の日々も歩んでまいりましょう。

2023年8月19日土曜日

2023年8月20日 主日礼拝

招詞  イザヤ書58章11節
賛美  新生讃美歌80番 父の神 われらたたえる
主の祈り
献金
聖句  ルカによる福音書3章23~38節
祈祷
宣教  「イエス様による宣教の始まり」
https://youtu.be/srX5_klNX2s
祈祷
賛美  新生讃美歌 230番 丘の上にたてる十字架
頌栄  新生讃美歌 672番
祝祷


今お読みいただいた、今日の聖書の箇所には、イエス・キリストの系図が記されています。イエス・キリストの地上での父親であるヨセフからさかのぼり、最初の人であるアダム、そして神に至る系図が、ここに記されています。
マタイによる福音書の1章にも、イエス・キリストの系図が書かれています。しかし、マタイ福音書の系図は、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉で始まり、アブラハムから始まってイエス様へ至る(古い時代から新しい時代という順番による)系図となっています。
マタイ福音書のその系図は、イエス・キリストが、ユダヤ人たちが自分たちの偉大な祖先として敬っていたアブラハム(信仰の父と言われた)、そして偉大なダビデ王の系図につらなる者だということを示していました。

しかし、マタイ福音書のその系図は、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」(マタイ1章6節)という記録も記しています。
それは旧約聖書『サムエル記下』11章に記されている出来事のことです。王となったダビデは、バト・シェバという美しい女性と関係を持ちました。
バト・シェバにはウリヤという夫がいました。それにもかかわらずダビデはバト・シェバと関係を持ち、バト・シェバはダビデの子を宿しました。
ダビデは、自分とバト・シェバが関係を持ち、バト・シェバが彼の子を宿したことを隠蔽しようとして、戦場にいた兵士ウリヤ(バト・シェバの夫)を呼び戻しました。
ダビデはウリヤを自分の家(バト・シェバのところ)へ帰そうとしますが、ウリヤは自分の主人や仲間が戦っている時に、自分だけが家に帰って飲み食いしたり、妻と寝たりすることはできません、と言って家に帰ろうとしませんでした。
結局ダビデは、軍の司令官だったヨアブに「ウリヤを戦の最前線に置いて、彼を残して退却して、ウリヤを戦死させよ」と命じました。そしてウリヤは戦死しました(はっきり言えば、ウリヤはダビデによって殺されたと言ってよいでしょう)。
そしてダビデはバト・シェバを自分の妻としました。ダビデは、忠実な兵士であった男の命を奪ってまでも、自分の罪を隠そうとし、そして彼の妻であった美しい女性を自分の妻としたのです。
ダビデの妻となったバト・シェバが最初に産んだ子は、早く死んでしまいました。その後にバト・シェバとダビデの間に生まれたのがソロモンでした。(ソロモンはダビデについで王様となり、莫大な財力を持ち、エルサレムの神殿を完成させました)
マタイ福音書の系図は、「ダビデが罪を犯した」とは言っていません。しかし、その系図は「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」という記録を通して、偉大と言われたダビデ王も、人として大きな罪を犯したという事実をはっきりと伝えているのです。
そのような罪を抱えた人間の系図の中に、全く罪をもたなかった神の子であるイエス・キリストが、ヨセフとマリアの子として(彼ら二人の男女の関係によってではなく、聖霊を通して)生まれて来たのです。

マタイ福音書の系図がアブラハムから始まって、新しい世代順に書かれているのとは違って、ルカ福音書3章の系図は、イエス様から始まって、古い世代へ遡る順番で書かれています。
またダビデの次の名前がソロモンではなく、ダビデの別の息子のナタンの系図になっていて、マタイ福音書の系図の名前とは違っている部分もあります。
その違いについては、色々な解釈や説明が試みられていますが、明確な答えはないようです。

ですから私たちは、これらの系図に厳密な歴史的事実(正確な名前の列挙など)を読み取ろうとするよりも、神の子であり主であるイエス・キリストが、確かに人の世の歴史の中に生まれてこられた、という中心的な真実を、まず受け取ることが重要だと思います。
今日の箇所の最初(23節)に、「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた」と書かれています。
30歳という年齢の意味するところは何でしょうか?旧約聖書の『民数記』4章の3節には、”臨在の幕屋(神様が現れてモーセに語られた場所)で作業に従事することのできるのは三十歳以上五十歳以下の者”と書かれています。
 当時のしきたりで、三十歳ぐらいにならなければ、神に仕える仕事をすることはできない、と定められていたのです。人間的にもそれぐらいの年齢を重ねることによって得られる経験も、神に仕えるために必要なものと考えられていたのかもしれません。
 イエス様も当時のそのような定め(しきたり)に従う形で、父親のヨセフの仕事(大工)も学びながら、人として生きることの辛さ、大変さ、悲しみ、また喜び、楽しみもご経験されながら、やがて公に宣教活動をする時のために備えておられたのです。
 ひょっとしたらイエス様は、できればもっと早く公の宣教活動を始めたい、と思っておられたかもしれません。

もっと若い時から、早く宣教活動を始めれば、もっと沢山の人に神の国を伝えて、多くの人の病を癒したり、多くの人を罪から救うことができたでしょう。
しかしイエス様も、人として、ある程度の期間(年月)をかけて学び、人生の経験も積むことにより、それから先の大きな使命を果たすことに備えるという時を過ごされたのだと私は想像します。
私たちも、やはり何かを成そうとすれば、それなりの準備、学び、経験を時間をかけて積むことが必要な場合があります。
技術や経験はすぐに身につくものではありません。時間をかけた地道な努力を続けることは辛い時もあります。しかし、そのように時間をかけて得たものである経験や技術ほど、後になって自分自身に本当に役立つものになります。
学生の皆さんや、新しく仕事を初めて間もない方々など、将来の夢や目標に向かって何かを準備されている方、そのために必要な経験や技術の習得の過程におられる方がおられましたら、皆さんの地道な努力はきっと報われると信じ、希望を持っていただきたいと願います。
あるいは、「今やっていることの意味や意義が分からない」と悩んでおられる方もおられるかもしれません。しかし、今ご自分が置かれた場で、誠実に与えられた務めをなさっていることは、決して無駄になることはないと信じていただいてよいと思います。

そして「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」という一文から私たちが教えらえるもう一つのことは、「神が私たちに備えられた時(タイミング)がある」ということです。
”その時”が来たら、その時には私たちは信仰による勇気をもって立ち上がるのです。そのように神様から信仰によって促されるのです。
それは新たに神様を信じる、という信仰の決断であるかもしれません。また新しいことを始める、あるいは今までそのために準備してきたことを実行に移す時であるかもしれません。
「いまがその時だ」という確信、信仰による促しが与えられた時には、私たちは勇気をもって立ち上がるのです。
私自身の経験を語らせて頂ければ、私が会社員としての生活を辞めて、牧師になるために神学部に入学すると決めた時には、そのような信仰による促しが確かに私には与えられました。
そしてその決断は私一人による決断ではありませんでした。家族や、また何よりも同じ教会に連なる信仰の兄弟姉妹たちの思いと祈りに支えられ、神の御心が教会全体の思いとなって私の心を押してくれたと私は信じています。
年齢で言えば、私はその時ちょうど40歳でした。(ちなみに、”30歳から50歳まで”という旧約の定めに従えば、私はもう牧師を引退していなくてはなりません!)
もう少し早く決断できていればよかったかな、とわたしは思う時もあったと思いますが、やはりそれが神が備えてくださった私にとっての一番のタイミングであったのだろうと、私は信じます。

何が神の御心であるのか、神が定めたタイミング(時)がいつであるのか、それを完全に知ることはわたしたちには出来ないかもしれません。
そうであっても、神の御心を少しでも知るために、また神の定めた時を知り、それに従って大切な決断ができるように、私たちは心合わせて(心を開いて)共に祈り合わせる、共に御言葉を読み分かち合う、教会での信仰生活を大切にしていきたいと願います。
 イエス様は三十歳にして、公の宣教活動を始められました。イエス様にとってもそれは大きな決断、そして勇気を要する決断であったと思います。
 しかしイエス様は神の子でした。人間としてはヨセフを父親として、ヨセフからもイエス様は色々なこと(大工としての仕事と技術なども)を学んだはずです。そのように、イエス様も私たちと同様に生きられました。
 しかしイエス様は神の子でした。イエス様は神と等しいお方であったということです。今日の箇所の系図の最後は「~アダム、そして神に至る」という文で終わっています。
 この最後の「そして神に至る」という点も、マタイ福音書の系図とは大きく異なる点です。
ルカ福音書のこの系図は、イエス様が人間の歴史に連なり、人として生まれて人として生きられた証しであると同時に、イエス様が神の子とであり、特別な使命を負って生まれて来られたお方であることを証ししているのです。
人として生き、学び、人生の様々な経験をして、そしてイエス様は当時のしきたりにも従って、およそ三十歳になって神に仕える公の活動を開始されました。
その大きな決定的な決断(公の伝道活動の開始)を、神の子として、神の愛と人(家族)からの愛も受けながら、イエス様はなさったのです。
私たちも時に、自分の人生の中で重要な、(時に難しい)決断をしなくてはならない時があります。
そのような時に、神を信じ、神に繋がることで、そして神の宮、イエス・キリストの体である教会に連なることで、私たちは自分たちが下す決定に大きな支えを頂くことができます。

私たちは人間ですから、神の御心を知ることができず、あるいは御心に従うことができず、間違いを犯すこともあります。ですから、いつも神に立ち返る悔い改めの姿勢が私たちには必要です。
しかし同時に、私たちの日々の歩みに、また日常の決断の中にも、神が人となり、今は霊として私たちと共にいてくださるイエス・キリストが、おられます。ですから私たちは安心してよいのです。
私たちは、イエス・キリストと共に真の平安のうちに生きていきましょう。またイエス様が始められ、今もその働きを続けておられる神の国の宣教、福音宣教の働きにも、信仰者として仕えて行きたいと願います。

2023年8月12日土曜日

2023年8月13日 主日召天者記念礼拝

招詞  詩編4篇9節
賛美  新生讃美歌 650番 喜びて主に仕えよ
召天者の紹介
主の祈り
献金
聖句  黙示録21章1~4節
祈祷
宣教  「新しい天と新しい地」
https://youtu.be/LOkHuIrdNe4
祈祷
賛美  新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
頌栄  新生讃美歌 672番
祝祷

 今日私たちは「召天者記念礼拝」=私たちに先立って天に召されていった方々を特に覚える記念の礼拝=を持っています。
 一人の人がその一生をこの地上で終えるということは大きな出来事です。人の死は、私たちにとって最も厳粛なことの一つであると思います。
 死は大変厳粛なものであり、そして私たち誰にでも深く関係のあることです。私たち誰もが、いつか必ずこの地上での命を終える時、死ぬ時が来るからです。
 生きるということは死ぬということと不可分です。私たちは生きることを真剣に考えるならば、死についても同時に真剣に考えさせられます。
 愛するご家族やご友人、親しい人を亡くした方々は、その人ともう地上では会うことができない、その方がもう生きてはおられないという現実に直面します。
その現実を受け入れるのには、長く悲しい時を経なくてはならない場合も多いと思います。

かつて私の会社の上司が、ご自分のお父さんが間もなく癌で亡くなろうとしている時に、その疑問を「人は死んだらどこへいくのだろう」と、ぽつりとわたしの前で言ったことがあります。
そのお方は、親しい家族が間もなくいなくなるという現実に向き合おうとしておられたのでしょう。そして私たちも、「人は死んだらどこへ行くのだろう」という疑問を持つと思います。
 人はなぜ死ぬのでしょうか?そして死ぬと人はどこへいくのでしょうか?人は死んだらどうなるのか、どんなところへ行くのかー聖書にも、そのことについて誰にでも明確に分かるような、すぐに納得できるような分かりやすい答えは書いてありません。

しかし、イエス・キリストはこう言っています。

ヨハネによる福音書14章1節~3節
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたもいることになる」
イエス・キリストは、天の父なる神からこの世界に遣わされた神の子でした。イエス様は神の子であり、そしてまた神と等しいお方でした。
そのイエス様が「わたしの父の家」と言われたのは、ご自身が十字架の上で死んで、それから後に昇って行かれる天の国のことです。
イエス様はわたしたちに、心を騒がせるな(心配するな)、神を信じなさい、と言います。そして、天の父の家には住む場所が沢山あるから、そこにわたしたちのために場所を用意してくださる、とイエス様は約束をしてくださっているのです。

私たちは、この地上で生きる上でも色々な不安、悩み、そして苦しみがあります。それに加えて、やはり私たちは死への恐れ・不安があります。
そのような私たちにイエス・キリストは「心を騒がせるな」(心配しなくていい)とおっしゃるのです。“イエス様が天の父なる家に住む場所を用意してくださる。人はそこへ行くことができる”と、神を信じる者に向けて約束をしてくださっているのです。
天の父の家というその場所がどのようなところなのか、それがわたしたちにははっきりとは分からなくても、イエス様のそのお言葉と約束には確かな希望があります。
神でありながら人となり、地上で私たちと同じように人としての命を確かに生きて、そして十字架の上で死なれたイエス・キリストが残したその言葉によって、わたしたちには確かな希望が今も与えられているのです。
イエス・キリストの残した言葉(すなわち神の言葉)によって今も私たちに与えられる、そのような希望によって生きる道があることを、今日私たちは覚えたいと願います。

 先ほどお読みしました今日の聖書の箇所は『ヨハネの黙示録』という新約聖書の最後の書簡からの箇所です。ヨハネという人がパトモス島という島で囚われの身(島流し)にあった時に見た幻について書かれています。
今から約2000年前の当時、キリスト教は当時ローマ帝国から大変な迫害を受けていました。ヨハネはキリストを信じる信仰のために迫害されて、パトモス島に流されており(1章9節)、大変厳しい環境の中で生きていました。
 その時、神からヨハネに示された幻の数々が、ヨハネの黙示録には記されています。先ほどお読みした箇所、最初の部分をもう一度お読みします。
 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなった。
今日の宣教題にもしました「新しい天と新しい地」という言葉が出てきます。
聖書は『創世記』という書で始まります。創世記の最初は、“初めに神は天地を創造された”という一文で始まります。主なる神がこの世界をお造りになり、そして私たち人間も神がお造りになったと、聖書は伝えているのです。
そして神は私たちをこの地上で、永遠に生きるのではなく、この地上での私たちの命を限りあるものとしてお定めになりました。

 私たちの命が限りあるものであり、私たち人や生き物が必ず死ぬように、“天と地も、私たちの目に見える世界も、造られたものには全ていつか必ず終わりの時がくる、永遠ではない”~それが聖書が伝えるメッセージです。
しかし、その終わりの時には、世界が完全に滅びるとか、何もなくなってしまうというのではなくて、その時には“新しい天と新しい地が起こる”と今日の箇所は言うのです。
“終わりの時”に、世界は今と違って新しいものになるーという約束です。
次の3~4節を見てみましょう。
 見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

 “神の幕屋” God’s dwelling placeというのはテントのことです。かつてイスラエルの民はエジプトで400年奴隷状態にありました。
彼らはモーセという指導者に率いられてエジプトの国を脱出します。“出エジプト”と言われる出来事です。
彼らイスラエルの民たちが、エジプトを出て自分たちの先祖の土地へ帰る旅の途中に、神が降り立ってモーセと語った場所が幕屋(テント)です。
神を迎え入れて神と人とが(モーセを通して)話をすることができる場所―それが幕屋(テント)でした。それは一時的に建てたテントの礼拝所、テントの教会と言ってよいと思います。
 幕屋(テント)は、その場所での役目を終えると、たたんでしまわれて、また別の場所へと移動されます。
この幕屋は、私たち人間のこの地上での生も象徴しています。私たちはこの地上で幕屋(いわば仮の宿)の人生を生きている、と言えるからです。そしてこの幕屋を去ると、私たちは、本当の故郷である神の国(永遠の住まい)へと帰っていきます。
神様は、今日の聖書の箇所の言葉を通して“いずれ私たちは、神様と共に住み、神様が私たちの悲しみ、涙をぬぐい取ってくださる、そして死も労苦、悲しみもない国へ行き、そこでは永遠に生きることができる”~そのような希望があることを私たちに伝えています。

そして私たちより先に、神を信じて天に召されていった兄弟姉妹たちも、神の御国でそのような慰めと平安を頂いていると私たちは信仰によって信じることができるのです。
“天の国では、神が私たちの悲しみ、涙をぬぐい取ってくださる。そこではもう死も苦労もない”~それが聖書の約束です。
ではそれは“今生きている世界では私たちは苦しいけれども、私たちが死ねば、悲しみも涙もない天国にいけるから、生きている今はただひたすら苦しいことも我慢しましょう”ということなのでしょうか?
 そうではありません。私たちは、この地上においても、神による希望によって喜びの人生を送ることができます。それは神によって既に実現した、ある出来事によって可能となります。
“神の幕屋が人の間にあって神が人と共に住む~これは将来起こることの約束であると同時に、実は、今から約2000年前にイエス・キリストが、人間として今のイスラエルにお生まれになったことによって既に実現した出来事でもあるのです。
イエス・キリストが人として誕生されたーそれは、神が人となってこの世界に生まれたということでした。神が人なり、私たちと同じように限りある命、肉体を生きられたのです。
なぜ神が人となって人と共に生きたのでしょうか?それは、私たちの悲しみと苦しみ、人間の罪をご自分のこととして、神がその身に引き受けてくださるためでした。
私たちはこの世では苦難があり、悲しみがあります、理解できずに悩むこともあります。牧師である私も、神の言葉をこうして語りながらも、特に人の命について、生きること死ぬことについては分からないことが沢山あります。

“なぜこのようなことが起こるのですか”と神に問いかけたくなることも私にも沢山あります。答えのでない疑問を色々と抱えながら、それでも私たちは生きていきます。
しかしそれでも、この聖書の言葉から、私たちは確かな希望と慰めを頂くのです。
神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
 この言葉は、私たちに向けた将来の約束であると同時に、イエス・キリストを通して既に実現している出来事でもあると、聖書を通して私たちは信じることができます。
私たちが悲しむ時に共にいてくださり、私たちのその悲しみを共に担ってくださり、私たちと共に泣いてくださる神がおられるのです。
私たちの涙をことごとくぬぐってくださる神、死を滅ぼす力をお持ちの神であるイエス・キリストが今も私たちと共に確かにおられるーこのことを、召天者記念礼拝の今日私たちは覚え、神に感謝をしたいと思います。
そして私たちはこの地上で生きるようにと神から与えられた(限られた)命を大切に、私たちお互いの悲しみや苦しみも、できるだけ分かち合って、寄り添い、互いに支え合いながら生きていくことができればと願います。

2023年8月5日土曜日

2023年8月6日 主日(平和)礼拝

招詞 マルコ9章50節
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
主の祈り
祈りの時
献金
聖句 エレミヤ書29章10~14節
祈祷
宣教 「平和の計画」
https://youtu.be/bHH_BkNquAI
祈祷
賛美 新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
頌栄 新生讃美歌 672番

 今日は平和を覚える礼拝です。もちろん私たちは、今日だけでなく、常に平和を追い求め、平和の実現のために努力をしなくてはなりません。
 イエス様は「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と、「山上の説教」と言われる教えの中で、言われました。
 イエス様のその教えに従えば、平和とは、信仰によって私たち信仰者が実現していくものです。
私たちはどのようにして、平和を実現していくことができるのでしょうか?今日私たちは、信仰による平和の実現について、旧約聖書『エレミヤ書』の言葉から教えられたいと思います。

 今日の箇所(エレミヤ29章10~14節)の背景は、バビロン捕囚と言われる歴史的な出来事です。紀元前6世紀、イスラエルはネブカドネツァルという王様のバビロン帝国に滅ぼされました。
そして何回かに渡って、イスラエルの多くの民たちは、イスラエルからバビロンへと連れ去られ、移住させられました。それがバビロン捕囚です。
今日の箇所であるエレミヤ29章の初めを読むと、今日の箇所の言葉は、エレミヤという預言者(神の言葉を預かって人々に伝える人)が書いた手紙に記された言葉であることが分かります。
エレミヤ自身はイスラエルに留まっていました。そして彼は、捕囚としてバビロンへ連れて行かれた同胞たちへ向けて神の言葉を手紙に書いて送ったのです。

今日の10節に次のように書かれています。
10主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。

故郷から外国へ連れ去られた民たちに、「神はあと70年経ったら、恵みの約束をはたし、あなたたちを故郷へ連れ戻す」とエレミヤは書いて伝えたのです。
さて、これを聞いた、イスラエルの民たち、捕囚の民としてバビロンにいたイスラエルの民たちはどのように思ったのでしょうか?このエレミヤの言葉を聞いて、彼らは嬉しいと思ったのでしょうか?
彼らは嬉しいよりも、まず悲しくなったのではないでしょうか。70年という年月は、捕囚の身分になっていた、ほとんどの人にとっては、「自分が生きている間には、もう故郷に戻ることはできない」ということを意味したでしょう。
では、それがなぜ恵みの約束なのでしょうか?

もし人々が、「捕囚から解放され、自分の国へ帰る」こと、その事だけを望むのならば、エレミヤがここで伝える神の約束は「希望の約束」とは、とても思えないでしょう。
 しかし、自分自身の思いにではなく、神の御心を第一として、神の御心に思いを向けるのならば、この神の言葉は、恵みの約束となるのです。
 自分が生きている間には故郷には戻れないかもしれない。それが現実であり、神もそのように明確にイスラエルの民に(預言者エレミヤの言葉を通して)伝えたのです。
捕囚は70年続く~それは厳しい現実でした。聖書の神は、信じる者に、現実にしっかりと向き合い、現実から目を背けることなく、現実の世界の只中で、それぞれが置かれた場所で、信仰をもって生きていくようにと促し、そして励まします。

捕囚は70年続きますが、そこには人々の思いを越えた神のご計画がありました。

11節をお読みします。
11わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

捕囚の生活が70年続くことは、故郷に帰ることだけを願っていた人にとっては“災い”、“不幸”としか思えなかったかもしれません。
 しかしその現実の中にも、神が立ててくださった平和の計画(英語では“あなたたちを繁栄させる計画”)がある、と言うのです。その神による平和の計画の中にこそ、将来と希望がある、と言うのです。
どこに希望があるのでしょうか?それが次の12節から14節の初めに書かれています。

12そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。
13わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、
14わたしに出会うであろう、と主は言われる。

それは、イスラエルの民たちが、厳しい現実の只中にあっても、共に神に祈り求めることができる、ということです。「あなたがた(複数)がわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く」
これは、あなたがたが共に祈り求めるならば、神であるわたしはその祈りを聞く、とここで神が約束してくださっているのです。私たちの祈りと願いを、主なる神が聞いて下さっている、それは測り知れない恵みです。
 そして同じ信仰を持つ者同士が一緒に祈る、特にお互いの祈りの課題を覚え合って祈ることができることは、私たちにとって大きな力となり励ましとなります。
私が信仰生活の中で段々と分かって来た恵み、知らせられてきた恵みは、自分の祈りの課題を、他の信仰者、神の家族である教会の皆さまに祈って頂くことです。

信仰を持ち始めた最初の頃の私は、中々自分の祈りの課題を人に伝えるということができていなかった、と思います。神への祈りや願いとは個人的なものだから、とわたしは考えていたのかもしれません。
しかし、信仰生活を続けて送る中で、段々と、自分が願っていること、困難に思っていることなどを、他の信仰者に祈ってもらえることの恵みを私は知ることが出来ました。

同じ神を信じる同信の友(家族)が祈ってくれていることは、それ自体が私にとっての大きな力となる恵みを私は知らされてきました。
 私のために祈ってくれる信仰の友へ、本当に感謝の気持ちも湧いてきます。「あなたのために祈っていますよ」という言葉を、段々と素直に喜びをもって私は聞けるようになってきたと感じています。
そして、個人的なことを打ち明けて祈ってほしいとお願いできるためには、その人との間にそれだけの信頼関係(絆)ができていなくてはなりません。
同じ教会に通っていても、そのような絆を作るためには、ある程度の時間(年月)がかかります。

先日、北九州地方連合の小学科の夏期学校(キャンプ)が一泊で行われました。わたしもスタッフとして参加しました。今回のキャンプのテーマは「へいわってどんなこと?」でした。
キャンプで、普段違う教会につながっている子供たちが出会って、知り合いになる、そしてやがて友達になります。この「友達になる」~これが平和の一つの形だな、とわたしは改めて思わされました。
 友達になり、お互いのことをより良く知り合うこと、それが平和、少なくとも平和の一つの形ではないでしょうか?
 相手のことを知れば知るほど、相手の良い面だけでなく、自分にとって嫌だな、と思える面も見えてきます。
たとえそうであっても、自分とは異なる考えや価値観なども、できるだけ受け入れ、理解をしようとわたしたちは努力することが求められます。
 自分とは違う考えや立場を持った人たちと出会い、その違いを受け入れ合い、乗り越えることができるのならば、そのようにして生まれた絆は一層強い絆になると思います。
 そうして生まれた絆、信仰の絆で結ばれた者同士が、同じ神の名、イエス・キリストの神の名によって祈る時、私たちは“共に祈る”こと自体に大きな喜びを感じますし、また「祈りは聞かれる」ということも、いっそう確信することができるのです。
 お互いに祈り合える信仰の仲間、祈ってほしいとお互いにお願いし合うことのできる信仰の絆を、私たちは、私たちの教会で作っていきたいと願います。

今日の箇所の直前の4~7節に次のように書かれています。少し長いのですが、引用してお読みします。

4「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。
5家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。
6妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。
7わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。

 神はバビロンで捕囚となっているイスラエルの民たちに、バビロンで家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。そこで結婚して家庭を築いて生きなさい、と言います。
 捕囚は70年続くのですから、「あなたたちは、その地にしっかりと根を下ろして(一時的、という気持ちではなく)、家族で力を合わせてしっかりと生きなさい」と神は言うのです。

そして大切なことが7節に書かれています。
7節「あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」と書かれています。
 私たちが生きる場所で、働く場所で、置かれたそれぞれの場所で、そこで共に生きる人々のために、私たちは祈ることが求められている、ということです。
 「その町のために祈りなさい」~その町、すなわち私たちそれぞれが生活する場所、地域、社会の平安を覚えてあなたがた信仰者は祈りなさい、と言うのです。そのような祈りも平和を実現していくことに繋がるからです。
 社会と世界の平和の実現のためには、法律や規則、条約と言ったもの(制度)も重要でしょう。
しかし私たち信仰者にとって最も重要で力ある、平和の実現のための手段は祈りです。それしかない、と今日の箇所から私はますます思わされました。

祈りこそが平和の鍵です。祈りこそが、私たち信仰者が神から与えられている、平和のための一番の武器であると、私たちは信じることができます。
そして同時に、私は牧師であり、このようにして「祈りこそが平和の鍵です」と申し上げながら、どれだけ祈りの力を信じ、本気で普段祈っているのかと問われました。
 信仰者同士共に祈ることができる喜びは、先程申し上げたように、私は頂いています。
しかし、神が困難な中、厳しい現実の中でも、「祈りによって、あなたがたは平和を実現できるのだ」と約束してくださっている神の言葉をどれだけ信じ、本気で祈っているのか、とわたしは問われているのです。
皆さんはいかがでしょうか?
私たちは、こう確信したいと思います。自分のため、他者のため、そして社会、世界のために祈る、また教会のために祈る~神の名によって祈る私たちの祈りには確かな力があるのです。
なぜなら、その祈りを聞いてくださる主なる神が、何にも優って力強いお方、そして真実であり誠実なお方であるからです。
その主に信頼をし、祈りこそが平和を実現すると心から信じつつ、私たちはこれかれも心からの祈りを、共に捧げていこうではありませんか。