2023年3月4日土曜日

 

202335日 主日礼拝

 

招詞 詩編801920

賛美 新生讃美歌 215番 暗いゲッセマネ

祈りの時

主の祈り

献金

聖書  ルカによる福音書1章57~66節

祈祷

宣教  「この子の名はヨハネ」

https://youtu.be/HnLhfx_hNLE

祈祷

賛美 新生讃美歌 327 ゆく手をまもる永久の君よ

頌栄 新生讃美歌 673

祝祷

 

今日の聖書の箇所は、一つの喜びの出来事を伝えています。それは、一人の男の子が生まれるという出来事でした。

57節に次のように書かれています。

さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。

 

エリサベトという女性が男の子を産みました。女性が子を産む~それ自体は特に珍しい出来事ではありません。しかし、今日の箇所で描かれている、一人の男の子の誕生は色々な意味で、大変特別な出来事でした。

エリサベトと夫の祭司ザカリアは既に高齢で、通常なら子が生まれる年齢ではありませんでした。しかし、主の天使がザカリアに現れ、“年老いた妻エリサベトが、男の子を産む”とザカリアに告げたのでした。

ルカ1章6節によれば、ザカリアも妻エリサベトも、二人とも“神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがない”人でした。

しかしそれでも、ザカリアは、主の天使の言うことがすぐには信じられず、疑って「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょう。わたしは老人ですし、妻も年を取っています」と言いました(1章18節)。

 

“神の前に正しく、主の掟と定めをすべて守っていた”ザカリアにも、主の天使が知らせたその内容は(年老いた自分たちに子が生まれる)、信じられないことでした。

どれほど信心深いと思われる人であっても、やはりわたしたち人間は、自分の考えや経験などの範囲内でしか信じることができないものなのでしょう。

あるいは、神のなさる大きな業を、自分が理解できる程度でしか、理解しようとしない~ザカリアの姿は、そのような人間の本当の姿を伝えているのだと私は思います。

そこでザカリアは、“その事が起こる日まで口がきけなくなる”、と主の天使に言われ、その通り、彼はしばらく話すことができなくなりました。

 

しかし神は、ザカリアの不信仰にも関わらず、その驚くべき御業を神ご自身のご計画通りに実現なさいました。それは神の憐みであり、神の恵みでした。

神の憐みと神の恵みは、わたしたちがどれだけ信心深いのか、神の掟や定めをどれだけしっかりと守って正しい生活を送っているかどうかとは、はっきり言って関係がないのです。

どれほど私たちが正しく、一生懸命に生きようとも、わたしたち人間の行いや生き方は、それと引き換えに神の恵みを獲得できるほど、正しく聖(きよ)くあるということは、決してできないのです。

 新しい月、3月になりました。そして今わたしたちは、復活祭(イースター:今年は4月9日)の前の受難節(レント)の時を過ごしています。

わたしたちは、このレントの時期に、特にイエス様の十字架の上での苦しみを覚えて、主が私たちの罪を赦して下さるために十字架の上で命を捨ててくださった出来事に心から思いを馳せ、感謝と悔い改めの時を過ごそうとしています。

 

イエス様の十字架の恵みは、わたしたちが神を信じることができず、神を離れて自分中心の道を歩んだにも関わらず、そして自分の力では他者を(自分をも)心から愛することができない私たちに、ただ無償で与えられたのです。

今年度(2022年度)もあと一ヶ月弱で終わります。今年度私たちの教会は「主の恵みに目を留める」

その聖句はエフェソの信徒への手紙の28節です。先日219日(日)には、A兄が、エフェソ1章から、神の恵みとキリストにある祝福についての、わたしたちが大変励まされるメッセージを取り次いでくださいました。

今年度、わたしたちは“主の恵み”に、どれほど目を留めて歩むことができたでしょうか。

 

もしわたしたちが、“主の恵みは、このわたしの行いとか功績とは全く関係なく、ただ神の憐みによってわたしに与えられた”ということが、少しでも分かったのであれば、“主の恵み”に目を留めて、わたしたちは今年度歩むことができた、と言ってよいのではないか、と私は思います。

ただ主の憐みによって無償で与えられている主の恵みに、わたしたちはこれからも目を留め続け、信仰の道を歩んでいきたいと願います。

 

 今日の箇所で、ザカリアに現れた主の天使の知らせの通り、エリサベトが男の子を産むということが実現しました。

58節によれば、近所の人々や親類が喜び合いました。彼らは何をそんなに喜んだのでしょうか。彼らは「主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて」喜び合ったのでした。

 子を産んだのはエリサベトです。そして母親が子を産むというのは、命がけの出来事です。とくに2,000年前では、そうだったでしょう。

ですからきっとこの時、エリサベトの近所の人々や親類も、エリサベトに“大変だったね”、“よく頑張ったね”という労いと、祝福の声もかけたと、私は想像します。

 しかし、エリサベトの近所の人々や親類の人たちはこの時、エリサベトが(高齢であっても)子を産んだ出来事の中に、「主が彼女を大いに慈しんでくださった」という主の御業を見たのです。

 

主がなさったその御業、主の慈しみがエリサベトに注がれたことを、彼らは心から喜び、その喜びを分かち合ったのです。

 私たちが、わたしたちに起きる色々な出来事の中に、神の慈しみ、神の御心を認めることができるのならば、たとえそれが普通に考えれば悲しい苦しい出来事であっても、私たちはそのような信仰によって力と慰めを頂くことができます。

  そして神の慈しみが豊かに注がれる時には、その神の慈しみの出来事は、その出来事の直接の当事者だけでなく、その人の周りの人たちにも分かち合われる喜びとなるのです。

 それが聖霊の御業です。ですから、わたしたちの教会にも聖霊がおられるかどうか、その一つの指標としては、神の慈しみ、神の御業がわたしたちの間で分かち合われ、わたしたちが共に喜んでいるかどうかだと、私は信じます。

 主はわたしたちと常に共にいてくださいます。苦しい時、悲しい時、困難な時にも、わたしたちの神は慰めの救い主です。

聖霊を通して与えられる神の憐みと神の恵みを、私たち一緒に心から喜び合おうではありませんか。そうすることができるのが、キリスト教会なのです。

 

 エリサベトが男の子を産んで八日目、その子に割礼を施す時が来ました。割礼とは、旧約聖書の『創世記』の中で、神がアブラハムとの間に結んだ契約のしるしでした。(創世記1711節)

 

神の恵みによって「あなたは多くの国民の父となる。あなたの子孫は繁栄する」という祝福の約束がアブラハムに与えられました。神はアブラハムを通して特別にイスラエル民族を選び、彼らと契約を結んだのです。

それからイスラエル民族は代々にわたって、“主なる神に従って歩むという決意のしるし”として、生まれて来る男の子に割礼をほどこしました。

 そしてその時、ザカリアとエリサベトの子が名付けられようとしました。当時は、こどもには父親か、親類の中の誰かと同じ名前をつけるという習慣がありました。(今でも、多くの国や地域で、同様の習慣があると私は思います)

 

 人々は、そのしきたりに従って、父の名をとってその子を“ザカリア”と名付けようとしました。しかし、エリサベトが驚くべきことを、そこで言いました。

 「いいえ、名はヨハネとしなくてはなりません」~エリサベトははっきりとそう言ったのでした。

 「その子をヨハネと名付けなさい」と、ザカリアには主の天使から既に告げられていました。それからザカリアは口がきけなくなりましたが、何らかの方法で、そのこと(こどもはヨハネと名付けられるべきこと)をゼカリアは妻エリサベトにも伝えていたのでしょう。

  妻エリサベトが「その名はヨハネとしなければなりません」とその時非常にはっきりと言ったことは、驚くべきことだったと思います。

 まず、それが当時の習慣に反することであったこと。そして当時非常に弱い立場に立たされていたと思われる女性であるエリサベトが、習慣に反することであったにも関わらず、はっきりとそのことを口にしたということです。それはエリサベトにとっても勇気ある行動であったと思われます。

 しかし、神はその時新しい出来事を起こそうとしておられたのです。生まれて来る子(ヨハネ)は、主イエス・キリストの伝道の働きのために、前もって道を備える働きをするようになる人でした。

神はエリサベトの心を励まし、彼女の口を通して、神がこれから起こそうとしておられる出来事を人々に告げたのだと、わたしは思います。

 “ヨハネ”Johnという名前の意味は、もともとのヘブライ語では“神は憐み深い”(God is gracious)です。神の憐み、恵みがこれから新しく、人の世に現れて伝えられる~イエス・キリストの恵みの出来事の前触れとして、その子は“ヨハネ”と名付けられる必要があったのです。

 そして人々は口がきけなくたっていたザカリアにもそのことを確認しました。「この子に何と名を付けたいのか」と彼らは聞きました(62節)

 

「この子はヨハネ」とゼカリアは板の上にはっきりと字で書きました。“わたしの妻の言うとおりだ”、“わたしたちは確かに主の慈しみと憐れみを受けた”とゼカリアは心の中で思っていたことでしょう。

「主はこれから新しい恵みの出来事を起こそうとしておられる」ゼカリアはそのように、これから起こる将来の出来事にも希望を思っていたと、私は想像します。

そこでザカリアは「口が開き、舌がほどけて、神を賛美し始め」ました(64節)。しばらく口をきくことができなかったザカリアが、その口を通して最初にしたことは、神を賛美することでした。

久しぶりに口を開くことができるようになった、ザカリアの口から最初にでた言葉は主を賛美する言葉だったのです。ザカリアは何か月も口をきくことができなかったことに不満の言葉を言う、ということもできたでしょう。

しかし、久しぶりに彼の口から出た言葉は、神への賛美でした。

 

詩編5117 Psalm 51:15 (NIV)で、ダビデが次のように言っています。

 

主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。

 

 神がわたしたちに与えてくださった口、唇、それを通してでる言葉は、神に感謝し、神をほめたたえる賛美の言葉、神をほめたたえる賛美でありたい。ダビデはそう願っています。

 わたしたちも、神に恵みによってわたしたちに与えられた言葉を、それを世界や人を呪い、怒りや嘲りの言葉とするのではなく、神の御業を喜び、神を賛美し、神を感謝する言葉としようではありませんか。

 主の慈しみは、いついかなる時にも、私たちと共にあるのです。感謝の歌と言葉をもって、心から恵みの神をほめたたえましょう。