2024年2月24日土曜日

2024年2月25日主日礼拝

前奏
招詞 ゼファニア書3章17節
讃美 新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句  コリントの信徒への手紙二1章23~2章11節
祈祷
宣教  「わたしの喜びはあなたがたすべての喜び」
祈祷
讃美 新生讃美歌 437番 歌いつつ歩まん
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏


 新約聖書の中の『コリントの信徒への手紙二』の一箇所から、今日私たちは神のメッセージを共に聞いていきましょう。
伝道者のパウロがギリシアのコリントという都市にあった教会の信徒たちへ向けて書いた手紙が、クリスチャンにとっての信仰の書である聖書の一部として、今も私たちに伝えられています。
パウロ、また他の人が書いた多くの手紙が、新約聖書の中には収められています。なぜ、一見すると大変個人的な事柄をも含む手紙が、聖書として残されたのでしょうか?
実際にはパウロたちが書いた手紙が、神から多くの人へ向けた、言わば“神の手紙”としての聖書として残されたのはなぜでしょうか?
聖書はこの箇所以外にも、実際には多くの人たち(神を信じる信仰者たち)の手によって書かれました。

彼らのうちの何人かは(あるいは彼らのうちのほとんどは)、自分が後に『聖書』として、キリスト者の信仰の書として、彼らが書いた文書が残るとは想像できていなかったかもしれません。
しかし、神は、信仰者たちの手を通して、神の言葉が聖書として記録されることを意図されました。
時には、その記録やあるいは手紙が、今日の箇所に書かれているような大変個人的と言いますか、人間的な内容である場合もありました。
それは、神が、当時の信仰者たちの実際の生活、彼らが直面した問題や悩み、苦しみのそのただ中で働いていてくださった(介入してくださった)、ということを表わします。
人間たちが生きる現場の只中で、神がどのように彼ら彼女らに関わってくださったのか、神がひとり一人の命にどのように関わってくださったのか、が実際には人によって書かれた文書から成る「聖書」となって、今の私たちにまで伝えられているのです。
コリント教会には色々な問題がありました。神は「そんな問題は私には関係ない。人間同士の間でそれらは勝手に解決しなさい」とはおっしゃらなかったのです。
聖書によって伝えられる私たちの神様は、私たちの生活のただ中に、私たちと共にいてくださいます。神は私たちが直面する色々な問題や悩み、苦しみに寄り添ってくださっています。

ですから私たちは、どんなことであっても、「神様は大変崇高で偉大なお方だから、こんな小さな私の問題などには関心をお持ちではない」とは思わず、何でも神の前に正直に申し上げてよいのです。
「私の生活のすべてにおいて、主なる神が導いてくださり、願わくは神の御栄光が私の生き方、私が生きるその現場で表されますように」と、キリスト者は願い、祈ることができます。

今日の箇所を読むと、パウロとコリント教会の信徒たちとの間に、何らかの問題と緊張関係があったことが分かります。
 今日の箇所の背景として、パウロは出来ればコリント教会へ行きたいと願いつつ、ある理由があってその訪問を延期していました。
 詳しいことは分かりませんが、今日の箇所ではパウロのコリント教会訪問延期の理由がある程度明かされています。
  今日の箇所の最初1章23節に次のように書かれています。

23神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。

 パウロは、彼がコリントへ戻ることを延期しているのは、彼自身のためではなく、コリント教会の人たちのためなのだ、「神を証人に立てて、命をかけて」主張しています。
 「あなたたちのことを思って、あなたたちのことを愛しているから」わたしは、今はコリントへ行くことを断念しているのだ、と言うのです。
 「わたしは神を証人に立てる」とは、ずいぶん大胆なことをパウロは言っているように見えます。
  しかし、これは「わたしが正しい事は、必ず神が証明してくださる」というよりも、むしろ「もし、私が間違っているのなら、神がその間違いを正して下さるように」という神の前での謙遜な姿勢だと私には思われます。

 次の24節には
24わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。

 コリント教会はパウロの伝道によって作られた教会です。いわばコリント教会の創始者と言ってもよいパウロですが、そんな彼であっても、教会の信徒ひとり一人の信仰を支配することは決してない、というのです。
  教会の創始者であり、指導的立場にあったパウロも、教会の信徒たちひとり一人と、神の前での立場は全く変わらず、平等であるということです。
 だから彼は、「(わたしたちは)あなたがたの喜びのために協力する者ですと言っているのです。
 そして「あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っている」と言って、キリストにある信仰に立っているコリント教会の信徒ひとり一人の信仰をパウロは認めています。
 現在の教会の私たちも、お互いの信仰を支配し合うような関係でなく(自分の信仰や信念を他者に押し付けるのではなく)、互いの喜びのために協力し、仕え合う関係でありたいと願います。
 そして「キリストの信仰に基づいてしっかり立っている」他者の信仰を、私たちは認め、互いに尊重し合いたいと願います。
  イエス様は、人々の病をお癒しになった時、よく「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。

  例えばマルコ福音書5章の中で書かれている、十二年間出血が止まらない病で苦しんでいた女の人をイエス様は癒されました。
 群衆の中、その女の人はイエス様の背後にそっと近づいて、イエス様の服に触れました。「この方の服にでも触れれば癒していただける」とその女の人はかたく信じていたからでした。
 その女の人は、ただちに病が癒されました。イエス様はその人に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。
 癒したのはイエス様です。イエス様は、「わたしがあなたを癒した。私があなたを救った」と言ってもよかったのです。しかしイエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言って、人間の側の信仰、神を求める気持ちを、認めてくださったのです。
  イエス様は、(そして今日の箇所のパウロの言葉も)、私たちがお互いの信仰を認め合い、信仰によって立っている兄弟姉妹同士が互いを尊重し合うことを、教えてくださったのです。

 少し長いのですが、2章1~4節までをお読みします。
1そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。2もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。
3あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。 4わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。

 詳しいことは推測するしかないのですが、パウロは聖書に残されているのとはまた別の手紙をコリント教会に向けて書いて送っていたようです。
 4節に、パウロはその手紙を「涙ながらに書いた」と書かれています。それはパウロがコリントの人たちに抱いている深い愛を知ってほしい、と彼が願っていたからでした。
  パウロはきっと、できるなら今すぐにでもコリントへ行って、教会の人たちと直接話し合って、誤解やその他いろいろな問題を解決したい、と願っていたかもしれません。
  しかし彼には“今は、まだ行くべき時ではない”という思いが神によって与えられていました。
 私たちも、願うことが中々思うように進まないことがあるかもしれません。ひょっとしたらそれは神が“今はまだその時ではない”と、私たちの忍耐を促しておられるからかもしれません。
 自分自身の思いや願いよりも、祈りと御言葉によって、また同じ教会の兄弟姉妹同士の祈りと対話によって、私たちは何をするにも、最善の時と方法を求めていきたいと願います。

 2章5節から11節までには、コリント教会の中で何らかの違反を犯した人に関することが描かれています。
 6節によれば、その人は既に何らかの罰を受けていたようです。パウロは7節~8節で「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください」と言っています。
 ある人が誰かに傷つけられた時、誰かから被害を受けた時、たとえキリスト者であっても、また教会であっても、安易に”人の罪を赦しましょう”と言うことはできないと私は思います。
 傷つけられた人の気持ちが癒され、その人自身が赦しへと歩み出すことを、他の人が強制することはできないからです。
  では私たちは今日の箇所、また聖書の他の箇所でも多く語られる“赦し”、また“赦しなさい”と私たちに命じられていることをどのように考えればよいのでしょうか。

 今日の箇所、7節で「その人を赦して、力づけなさい」は、「あなたたち」(複数形)と言って、教会に向けて語られています。”その人を赦して、力づけなさい”は、教会全体へ向けられた勧めということです。
  私たちは、キリストによって罪赦された者の集まりである教会として、また教会の一員として、共にこの”赦し”という行為をも、神から委ねられているのです。
  こうすれば人を赦せます、という簡単な答えは聖書を捜してもないと私は思います。
しかし私たちはまず、イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪が赦された、という神からの大きな赦しを頂いていることを改めて思い起こしましょう。
すると、キリストから私たちが頂いた赦しを、他者に伝えるということが、私たちにはできるのではないでしょうか。

 今日の10節の言葉に、私たちの赦しについての大きな示唆(ヒント)があるように思われます。10節をお読みします。
10あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。

「(わたしは)キリストの前であなたがたのために赦し」と、ここでパウロは言います。
 これは“キリストが赦した”、そして“キリストが、私を通して、赦した”ということであると思います。
  愛と赦し、それらは神の御子イエス・キリストを通して私たちに豊かに与えられました。キリストの愛と赦しを与えられた私たちは、キリストの教会として、その愛と赦しをも他者へと分け与えていくことを、神から委ねられているのです。
 愛も赦しも、その源はイエス・キリストです。キリストに愛され、赦された喜びが教会全体で分かち合われます。
 私たちが共にキリストの愛と赦しに与る時、そんな私たちを通して、キリストの愛と赦しが私たち以外への他者へも広がることを願いつつ、信仰の生活を、一歩一歩私たちは歩んでいきたいと願います。

2024年2月17日土曜日

2024年2月18日 主日礼拝

前奏
招詞 レビ記19章2節
讃美 新生讃美歌 120番 主をたたえよ 力みつる主を
主の祈り
献金
証し
聖句  ルカによる福音書5章27~32節
祈祷
宣教 「罪人を招いて悔い改めさせる」
祈祷
讃美 新生讃美歌 321番 あだに世をば過ごし
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏


「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所にすわっているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた」という一文で、今日の聖書箇所は始まります。
 ルカ福音書5章の初めには、漁をしていた(魚を取る仕事をしていた)シモン(ペトロ)、シモンの仲間であったヤコブとヨハネがイエス様に呼びかけられて、彼らは「すべてを捨ててイエスに従った」と書かれています(ルカ5章11節)
 今日の箇所でも、ある一人の人(レビという名前の徴税人=税金を集める仕事をしていた人)が、イエス様に「わたしに従いなさい」と言われて、このレビもシモンたちと同様に「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」と書かれています(5章27節)
今日の箇所から、主イエス・キリストの神のメッセージを私たちは共に聞いてまいりましょう。

イエス様は、レビという名前の徴税人が収税所に座っているのを見ました。この時、イエス様は、このレビという人をどのようにご覧になった(見た)のでしょうか。
今日の箇所と同じ話がマタイ福音書9章にも記されています。マタイ福音書では、この徴税人の名前は“マタイMatthew”となっていて、マタイ福音書を書いたマタイと同じ名前であったことになっています。
彼の名前が、レビであったのか、マタイであったのか、あるいは二つの名前が記録されていますが、その人は一人の同一人物であったのか、正確なことは私たちには分かりません。
それらのことを知るために十分な情報と記録を、聖書は残していないからです。

しかし、当時“徴税人”と言われた人たちが、どのような人であったかについては、次のようなことが知られています。私たちの教会の聖書訳である新共同訳聖書の巻末の「用語解説」の「徴税人」の箇所に次のように書かれています。
「徴税人(ちょうぜいにん):ローマ政府あるいは領主(ガリラヤではヘロデ・アンティパス)から税金の取り立てを委託された役職。
異邦人である外国の支配者のために働くばかりでなく、割り当てられた税額以上の金を取り立てて私腹をこやすという理由で、ユダヤ人から憎まれ、「罪人」と同様に見なされた」

このような情報を元に、私たちも、「レビ、あるいはマタイもそのような人だったのだな」と想像します。徴税人は、ユダヤ人から見れば外国人であるローマの支配者のために働く裏切り者です。
レビも、正当な割り当て以上に、人々から(同胞のユダヤ人たちから)税金を取り立てて、私腹をこやしていた人、と私たちも想像するでしょう。
しかし、本当にレビはそのような徴税人だったのでしょうか。“当時の徴税人はこういう人たちだった”という記録があるのだから、レビもそのような人だった、と考えるのは自然でしょう。
しかし、レビが本当にそのような人であったのかどうか正確な事実は分かりません。ひょっとしたら、他の多くの徴税人は不当な利益を得ている中、このレビは、正当な割り当て分しか人々から徴収していない“真面目な”徴税人であったかもしれません。
私がお伝えしたいことは、私たちはその人がどのような人であるのかを考え、評価する時に、非常に表面的(一面的)な部分でしか、判断できないことが多いのではないか、ということです。
“一般にはこう考えられている”とか、“なんとなく、そういう噂が立っている”という理由や、一つや二つの出来事や印象で、私たちは簡単に人を判断してしまうことが(裁いてしまうことさえ)あるのではないでしょうか。

しかし、人間は複雑です。一人の人は色々な側面を持っています。“この人はこういう人だ”と一概に決めつけてしまうことが、いかに私たちの間を分断してしまうことに繋がりかねないか、ということを私たちは知っていると思います。
 私たち人間は、その限られた能力(偏見などがあわさって)人を正しく、そのままに見ること、そしてその人を受け入れることができないことがあります。
 しかし神はそうではありません。今日の箇所で、神の子イエス・キリストが、一人で収税所に座っていたレビを“見た”というのは、「神なるイエス・キリストは、レビという人をしっかりとご覧になり、神はレビがどのような人であったのかを全て知っておられた」ということです。
 神は私たちの事を全て知っていてくださっています。神は私たち人とは違い、人の内面、心の中まですべてを御存じです。

 旧約聖書の『サムエル記上』16章で、サウルという王様が神に従うことが出来ず、王位から退けられたので、サムエルと言う預言者が次の王を捜そうとする場面があります。
 主なる神はサムエルに、エッサイという人を招き、彼の息子たちの中から次の王を見いだすようにと導かれました。
 サムエルは最初、エッサイの息子たちの中で容姿のよい者を見て、“彼こそ王になる者だ”と思いました。
 しかし、主はそこでサムエルにこのように告げました。
 「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16章7節)

 そのような神の視点で、イエス様は徴税人レビをご覧になりました。イエス様は今も、私たちのことも、人が見るようにではなく、神の視点で見てくださっています。
 ですから私たちは安心していてよいのです。私たちがどのような状態であろうと、人からどのように思われていようと(誤解されていようと、あるいは過剰評価されていても)、神は私たちのことを正確に全てご存じであるからです。
 イエス様から見て、レビはどのような人だったのでしょうか。レビが実際にどのような徴税人であったのか、それは最初にも申し上げましたように、はっきりとは分かりません。
 “この人は、他の多くの徴税人とは違い、真面目で公正な徴税人であったかもしれない”と私は申し上げました。

 しかし、事実は逆で、このレビと言う人、他の徴税人たちとは比べ物にならないくらいの悪徳徴税人だった可能性もあるのです!
 イエス様は、レビに何と言ったでしょうか。イエス様はレビに呼びかけられました。
「わたしに従いなさい」。
 「わたしに従いなさい」、「わたしに従ってわたしの弟子となりなさい」とイエス様はレビに呼びかけたのです。
 それは、レビが良い人だったから(真面目な徴税人だったから)ではありません。それはまた、レビが悪い人(悪徳徴税人だったから)ではありません。

 レビがどのような人であったのかは関係なく、イエス様は彼に“わたしに従いなさい”と呼びかけたのです。レビがどのような人であったかには関係なく、レビはイエス様にとって、“わたしに従いなさい”と呼びかける、神の愛の対象であったのです。
それはつまり、私たち人は誰でも、イエス・キリストに従って生きるように召されている(呼ばれている)ということです。神の愛を受けて、神に従い生きるように私たち誰もが呼ばれているのです。
 そういう意味で、私たちは誰もが、レビであり、マタイです。イエス様は、私たちひとり一人に、“わたしに従いなさい”といつも呼びかけてくださっているのです。
 イエス様の呼びかけを私たちが聞いたのならば、私たちはそのお方の呼びかけに、従っていこうではありませんか。

 イエス様から「わたしに従いなさい」と言われたレビは、何もかも捨てて立ち上がり、イエス様に従いました。
 彼はとても喜んでいました。彼が喜んでいたということは、レビが自分の家でイエス様のために盛大な宴会を催したこと、そこへ徴税人やほかの人々が沢山招かれていたことからも分かります。
 幸せや嬉しいことは、そのように分かち合われるものなのです。”幸せは分かち合いたい”と私たちは思います。そのような心の思いも、神から私たちに与えられた賜物です。
 ところがその状況を喜んでいない人たち、徴税人たちと一緒にイエス様とイエス様の弟子たちも一緒に宴会の席についていることに疑問と不平を言う人たちがいました。
 彼らはファリサイ派や律法学者という、聖書の教えを厳格に解釈し、律法通りに“正しく”生きようとしていた人たちでした。(ここでも、最初に申し上げましたように、過剰な一般化を避けなくてはならないと思いますが)

 ここでファリサイ派や律法学者と言われた人たちは、“正しい生き方”をしようと努力していました。そのためには、徴税人のような罪人とは交わらない、ことに彼らは決めていました。
 彼らはイエス様の弟子たちにこう言いました。
 「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
 それに対しイエス様が次のようにお応えになりました。(5章31~32節)
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
 このイエス様のお言葉は、それを聞いたファリサイ派と律法学者たちには、どのように聞こえたのでしょうか。
 彼らにはその意味が分からなかったかもしれません。私たち(クリスチャン)も、このイエス様のお言葉の重みを、本当には分かっていないかもしれません。
 神から離れて、自己中心に生きていた私の罪を赦してくださり、この私と共に食事をしてくださる(共に食事をする、とは本当の意味で仲間になる、生活を共にする、という意味です)イエス・キリストが、私たちと共におられるのです。
 神の前に正しく生きている人には、イエス・キリストの救いは必要ありません。しかし、そのような人が果たしているのでしょうか。
 神の前に自分だけで正しく生きている人は一人もいない、というのが、聖書信仰、キリスト信仰の根幹です。
私たち誰もがイエス様の「わたしに従いなさい」という呼びかけを聞き、キリストを信じて従っていかなくてはならないのです。

キリストのその呼びかけに従って生きる時、神と共に生きるという真の喜びと平安が与えられるのです。
 イエス・キリストが十字架につけられて死に、そして復活した後、復活のイエス・キリストに出会い、キリストの福音の伝道者へと変えられたパウロは次のように言いました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(テモテへの手紙一 1章15節)

「わたしはその罪人の中でも最たる者です」~この告白は、キリスト者としての信仰の一つの大きな到達点であると言ってよいと私は信じます。
 「わたしはその罪人の中でも最たる者です」~これは自分と他者を比較して生まれた言葉ではなく、キリストを一心に見つめ、キリストの愛と赦しが本当に分かった時に、信仰者はそのようにしか告白することができない言葉であると思います。
 「わたしに従いなさい」と言うイエス様の呼びかけに、私たちは日々従ってまいりましょう。そして私たちと共に食事をし、共に生きて下さるイエス様の恵みを、私たちは心から喜ぼうではありませんか。

2024年2月10日土曜日

2024年2月11日 主日礼拝

前奏
招詞  コリントの信徒への手紙二 12章9節
讃美  新生讃美歌 215番 暗いゲッセマネ
主の祈り
献金
転入の証し
聖句  出エジプト記4章1~17節
祈祷
宣教  [神が用意なさるしるし]
祈祷
讃美  新生讃美歌 297番 主によりてあがなわる
頌栄  新生讃美歌 673番
祝祷
後奏

旧約聖書の『出エジプト記』の中から、今日私たちは神のメッセージを共に聞いてまいります。
 主なる神は、モーセという人を選び、モーセを指導者として、イスラエルの民たちを彼らが奴隷生活を送っていたエジプトから導きだそうとされました。
 今日の聖書箇所でモーセは、神に向かって「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言っています。
“彼ら”とは、エジプト王ファラオをはじめとするエジプト人たちのことです。この前に神はモーセに「あなたがエジプト王のところへ行き、イスラエルの民たちを率いてエジプトを出ることを、彼に申し出なさい」とおっしゃったのです。

神が直接モーセに現れ、モーセに語り、「わたしがあなたと共にいる」と約束して、はげましてくださっているのにも関わらず、それでもなおモーセは躊躇いたしました。
 モーセは何をそこまで恐れているのでしょうか。確かに、エジプトの王様とは大きな(絶対的な)権力者です。
 それほど力を持った人の前に出ること、まして「イスラエルの民たちをエジプトから脱出させてください」と言って、その王にお願いすることは、大変な勇気を要することだったでしょう。
 しかし、神がモーセと共におられたのです。モーセが神の偉大さと強さに目を留めることができたのならば、彼はここまで恐れ躊躇して神の命令を拒むことはなかったはずです。

にも関わらず、モーセは何をそこまで恐れていたのでしょうか。
 モーセが恐れていたことの一つに、“変化”というものがあったと思われます。考えて見ますと、モーセはそれまで40年間羊飼いとして生活していました。

 モーセが望んでそのような生活をしたわけではありません。不思議な運命によって、ヘブライ人の家に生まれたモーセは、エジプトの王女に引き取られてエジプトの王宮で育つことになりました。
 しかしモーセが40歳の時、彼は同胞である一人のイスラエル人を助けるつもりで、その人を虐げていたエジプト人を打ち殺してしまいました。
 そのため、エジプト王に命を狙われ、モーセはエジプトを逃れてミディアン地方で結婚し、子供ももうけて、彼はそこで羊飼いとしての生活を送るようになったのです。
 ミディアン地方でのモーセの40年間の生活がどのようなものであったか、詳しいことは聖書には書かれていません。

 モーセのミディアン地方での羊飼いとして(また、夫、父親として)送っていた40年間を想像すると、苦しいこともあったでしょうか、きっと幸せなことも沢山あったでしょう。
 モーセにとっては、ミディアン地方での羊飼いとしての生活こそが、彼にとっての安定であり幸福となっていた、と私たちは想像してもよいと思います。
 そんなモーセに対する神の命令は、彼(モーセ)の慣れ親しんだ生活をすべて捨てることを要求するものでした。それはモーセの生き方自体に、大きな“変化”を求めるものでした。
 やはり私たちは安定した、慣れ親しんだ状態に留まるほうが安心です。色々な意味で、“変ること”にはエネルギーを要します。

 しかし私たちは、もし神がそう望まれるのならば、そして神が導いてくださるのならば、慣れ親しんだ安定したものよりも、変化を恐れずに受け入れることができるものでありたいと願います。

 そしてモーセがそれほど変化を恐れたのは、慣れ親しんだ生活から離れるということ以外に、もう一つの要因もあったと思われます。
 それはモーセの年齢です。モーセはエジプトの王宮で育てられ、40歳の時に、エジプトを逃れてミディアン地方へ行き、そこで40年間羊飼いとしての生活を送りました。
ということは、今日の聖書箇所で、神がモーセに現れて、「エジプト王のところへ行き、イスラエルの民たちを率いてエジプトを離れる、と彼に言いなさい」と命令された時、モーセは80歳だったことになります。

「この年齢になって、これほど多くのイスラエルの民の指導者となるなど私には無理です。エジプト王のところへ行って、王を説得することなど私には無理です」とモーセが思っても無理はないと思います。
しかし、高齢であっても、神が用いて下さるのであれば、それは弱点というよりも、むしろ強みになるのです。
今日の箇所で、躊躇するモーセに神が「あなたが手に持っているものは何か」と尋ねます。モーセが手に持っていたものは杖でした。
モーセが杖を持っていたというのは、モーセが高齢であることを表わす、一つの象徴でもあると思います。
神は、モーセにその杖を地面に投げるようにと命じました。すると杖は蛇に変わり、モーセは驚いて飛びのきます。
神がモーセに、手を伸ばして蛇(杖から変わった)の尾をつかめと命じて、モーセがその通りにすると、蛇は元通りの杖にかわりました。

神は、「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる」と言われました(5節)。
神の力によって杖が蛇に変わる、それが一つのしるしとなって、“神がモーセを遣わされた”ことが明らかになる、と言うのです。
ここで、神がモーセに見せた最初の“しるし”が、モーセが持っていた杖を用いてなされたことは、意味深いことだと思います。
老いの象徴である杖さえも、つまりモーセの高年齢も、神に用いられるのならば、それは大きく用いられるということです。
モーセにとっては高齢であることが、神の命令に従うことに躊躇する理由の一つであったと思いますが、私たちは、私たちが弱点だと思うことさえも、神にそのまま差し出してよいのです。

私たちが自分の弱ささえも、神の御前に差し出すのならば、私たちの思いを遥かに超えて、神は私たちの弱さをも大きく用いて下さることを信じて、信仰生活を歩みたいと願います。
 神はその次に、モーセの手を彼の懐にいれさせ、その手を重い皮膚病にかからせ、モーセがもう一度手をふところに入れて戻すと、手は元通りになるというしるしもお見せになりました。
 神はまた、9節で、それら二つのしるしをもエジプト人たちが信じない場合には、さらにナイル川の水が血に変わるというしるしも用意してくださっていました。
 神は、私たちに必要なものを全て、用意してくださっているのです。必要なものを必要な時に備え、与えてくださる神に信頼して私たちは信仰生活を歩んでいきたいと願います。

 しかしモーセは、それでも、それほど多くのしるしを主なる神が用意してくださっていたにも関わらず、まだ神に従うことができずに、神の召しを拒みます。
10節のモーセの言葉をお読みします。

10それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」

 モーセは、「わたしはもともと話をするのが得意ではありません。話すのが苦手なんです。あなたはエジプト王のもとへ行って話をしろ、と私に命じますが、それでも依然として私は口下手です」と言ったのです。
 ここには、自分自身の能力の限界を自分で定めてしまい、“これは私には出来ません”と言って、神が用いようとしてくださっている自分自身を過小評価してしまう、私たちの姿が表されていると私は思います。

 そこで主はモーセに次のように言われました。
11主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。
12さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」

私たちには、私たちが思う以上のことが、主の助けと主の導きによって出来るのです。
何をするべきか、何を話せばよいのか、主ご自身が語るべきことを私たちに教えて下さると、ここで約束してくださっているのです。
 モーセが神の命令に従うことを、これほどまでに躊躇する本当の理由は、それはモーセが自分自身を信じられなかったからだと私は思います。

 自分はもう若なくない、自分にはそんな能力はない、等と思って、モーセは自分自身が信じられなかったのです。
 ここで大切なことは、“自分自身が信じられない”状態で留まるのではなく、私たちは自分よりも神を信じるということです。自分自身よりも、この私たちを用いて下さる神を私たちは信じることが大切なのです。
 私たちが自分自身や自分の能力しか見ないで、自分だけを信じようとする限り、そこには結局限界と失望しかありません。
 しかし、私たちが自分を見るのではなく、この私を用いてくださる神の偉大さを認め、神に依り頼む時、私たちには私たちの想像を超えた、大きな事が(神の力によって)可能になるのです。

 イエス様が次のように言っておられます。ヨハネによる福音書14章12節です。
 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。

 主なる神、主イエス・キリストを信じる時、私たちはイエス様のなさったような偉大なお働きをすることができるようになるのです。
 それほどの力を私たちに与えてくださる神を信じ、神に頼りつつ、私たちは信仰生活を歩んでいくことができるのです。

 実は今日の箇所では、それでもまだモーセは神に逆らい「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」と言いました(13節)
 これにはさずがの神も怒りを発したと、14節に書かれています。しかし、神は限りない愛のお方です。
モーセにそのように怒りながらも、神のおっしゃったことは、「話すことが不得意なあなたのために、雄弁なあなたの兄弟アロンをわたしはあなたに遣わす」でした。
神は、モーセの兄弟アロンを、彼に代わって話すパートナーとして、お遣わしになることを約束してくださいました。
モーセは神の代わりとなり、神の言葉をアロンに託し、そしてその言葉を託されたアロンが人々にその言葉を話す、というように、彼らは互いに助け合う信仰の兄弟(仲間)として、神によってそこで引き合わされたのです。
わたしたちも、信仰の道を一人で歩むのではありません。伝道活動も、私たちは決してひとりで行うのではありません。
それぞれが神から与えられた賜物を最大限に活かしあい、お互いに尊重し合いながら、互いに支え補い合って、私たちは信仰生活を歩み、神の国を広める伝道活動も行うのです。

教会は、そのような信仰の兄弟、信仰の家族の集まりです。私たちは、まさに神がアロンをモーセに引き合わせてくださったように、助け合うべき信仰の家族として、同じ教会の兄弟姉妹が与えられています。
神によって備えられたこの信仰の家族の一員として、お互いを私たちは尊びつつ、私たちは信仰生活をこれからも共に歩みたいと願います。

2024年2月3日土曜日

2024年2月4日 主日礼拝

前奏
招詞 詩編32篇5節
讃美 新生讃美歌 94番 われらは主の民
祈りの時
主の祈り
献金
聖句  ルカ福音書5章17~26節
祈祷
宣教 「イエスはその人たちの信仰を見た」
祈祷
讃美 新生讃美歌 296番 十字架の主イエスを仰ぎ見れば
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏


 聖書の中のお話には、色々な人間が登場します。人間は本当に様々で、人それぞれ皆違います。
 そのように違った人々が、色々な出来事を通して、神様の恵みと教えを受けて、変わっていく様子が聖書には描かれています。
 ある人達は神様の前に、自分の罪を自覚して悔い改めます。ある人達は、真の神様に出会ったことに感動し、新たな信仰を頂きます。
 しかしある人達は、神を信じることをせず、かたくなな自分自身という殻の中に留まった人たちも登場します。

 今日の聖書箇所(ルカ5章17~26節)の話の中にも、色々な人たちが登場します。まず、イエス様です。イエス様は、人々に神の国について聖書を通して教えておられました。
 そしてファリサイ派と言われた人々と律法の教師たちがそこに(イエス様がおられたところに)座っていた、と書かれています。
 ファリサイ派、そして律法の教師と言われた人たちは、当時の聖書(旧約聖書)の内容をよく学び、研究し、聖書に書かれたその戒めに厳格に従って生活をしていた人たちでした。
 イエス様はそこで、神の国について教えながら、人々の病気も癒しておられました。ですから、どれぐらいの病人がそこにいたのかは、この箇所には書かれていませんが、病気を抱えた多くの人たちもそこにいたと考えられます。
 そして一人の中風を患って床の上に寝たきりだった人がいました。そしてその人をイエス様のところへ連れて来た人たちがいました。(この箇所と同じ話が書かれたマルコ福音書の2章では、“4人の人”がその中風の人をイエス様のところへ連れて来たと書かれています)

 中風とは、脳卒中のような病気の後遺症で、体が麻痺して動かなくなる病気であったと言われます。
 中風を患ったこの人の、おそらく友人か家族だった人たちが、その人をイエス様のところへ連れて行こうとして、必死だったことが分かります。
その人たちは何と、家の中にあまりに人々が沢山いて、イエス様のいる家の中にその人を運び入れることができなかったので、屋根に上って瓦をはがしたというのです。
そして人々の真ん中にいたイエス様の前に、その病人を上から床ごと吊り降ろしました。聖書の話に馴染みがある方は、この箇所を何度も読まれたことがあると私は思います。
中風の人を連れて来たこの人たちの行動は、あまりに衝撃的です。いくら必死に、その人をイエス様のところへ連れて行きたかったと言っても、屋根に上って瓦をはがすとは、無茶苦茶です。

もし今私たちの教会に、人が一杯で入口から普通に入ることが出来なかったので、屋根に上って天井を壊す人たちがいたら、私たちはどうするでしょうか。
おそらくそうなる前に、その人たちを私たちは必死に止めるでしょう。
 イエス様は、そんな彼らを見て、どう思われた(どのように言った)のでしょうか。
「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」と20節に書かれています。
私たちの常識では考えられない行動をその人たちはしています。しかし、イエス様の視点で見ると、その人たちのその行為は“信仰的”であったと言うのです。
それは、その人の病が根本から癒されるには、イエス様のお力がどうしても必要であり、しかも“今、この時”その中風を患った人はイエス様にお会いしなくてはならない、という確信がその人たちに与えられていたということです。

そうでなければ、「こんなに人が多いのだら、今日は諦めて、また次の機会に出直そう」と思うことも、その人たちはできたはずです。
しかし、なぜだか分からないけれども、“今、この時を逃したならば、この人が救われる時はもうこないのではないか”という思いが、神様からその人たちに与えられていたのではないでしょうか。
 この人たちも、屋根に上って瓦をはがすということには当然躊躇したと私は思うのです。しかし、はがした瓦は元に戻すことができる。壊れてしまったところは、あとで直せばよい。
 人たちから怒られたら、必死に謝ればよい(?)。しかし、イエス様に出会い、その教えを聞き、癒しと救いを頂くタイミングは今しかない、そんな直観がこの人たちに与えられていたのではないでしょうか。

 神の霊(聖霊)の導きによって、私たちにも‟今がその時だ”という促しが与えられる時があるかもしれません。
 「今が神を信じる時だ」、「今が、この決心をする時だ」、「今が、あの人に神様のことを伝える時だ」、あるいは「今が、あの人を教会にお誘いする時だ」等々。
 もしそのような促しを受けたのならば、私たちは神を信頼し、神の力によって、その促しに従い、その事を実行していこうではありませんか。
 イエス様は、その人たちの信仰を見て「人よ、あなたの罪は赦された」とおっしゃいました。
 イエス様の言われたそのお言葉は驚くべき一言でした。イエス様以外にも、病気を癒す賜物を持ち、人々の病気を治していた人たち(あるいは医者)は、いたでしょう。

 イエス様が、人々の病気を治している間は、何も問題はないのです。それは普通の人間でもできる行動と能力の範囲内であるからです。
 しかし、罪を赦すことは、神にしかできないことです。律法学者やファリサイ派の人たちが、ここで心の中で考えたという“ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができようか”と21節に書かれているのは正しいのです。
 “あなたの罪は赦された”というこの文章は、文法的には“受動態”です。人の罪は、誰か他のお方によって赦されなくてはならないのです。
そしてそれは、律法学者やファリサイ派の人たちがここで言っているように、神のみが、人の罪をお赦しになることができるお方です。
 はじめに、”聖書には色々な人々が登場する”と私はもうしあげました。中風の人を、イエス様に会わせたくて、すなわちそのお方が特別な力をお持ちであると信じ、イエス様のところへ来た人たちがいました。
 そしてイエス様が“あなたの罪は赦された”と言ったのを聞いて、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と言った(そしておそらく怒った)、律法学者やファリサイ派の人たちがいました。

 正確には、彼らは心の中でそのように考えた、と今日の箇所には書かれています。イエス様は神の子でしたから、彼らがそのように心の中で考えていたこともお分かりになりました。
 そしてイエス様はこう言われました。

 「何を心の中で考えているのか。
23『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
24人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」

 もしイエス様が「起きて歩け」とだけ言って、その中風の人が癒されて立ち上がって歩いたのならば、それで話が終わっていたら、どうなるでしょうか。
 おそらく、その中風の人は歩けるようになり幸せ、周りの人もイエス様を“この人は素晴らしい癒しの賜物をお持ちだ”と称賛して幸せ、誰も嫌な思いをせずに幸せであったでしょう。
 しかし「あなたの罪は赦された」と、神でしか言えないことを言うならば、特にファリサイ派の人たちや律法学者たちから激しく非難されることは避けられないことでした。
 しかしそれでもイエス様は、最初から「あなたの罪は赦された」とその中風の人に言ったのです。
なぜなら、“罪の赦し”こそが一番大切であり、その人が、また実は私たち誰もが必要とするものであったからです。

 罪の赦しとは、神から離れて自分中心に生きていた生き方、神に背いて生きていた生き方を赦され、神との関係の中に再び迎え入れられるということです。
 神との間にそのような平安を頂いていないのならば、たとえ病気が治って体は健康になっても、根本的な魂の問題として、人の罪は残ったままなのです。
そのままでは、あなたたちはいつまでも、どこかいつも不安で、魂に安らぎがないままに生きることになる~それがイエス様が伝えようとしたメッセージでした。
 しかし、人の罪を赦す権威をお持ちのお方を認め、そのお方、すなわちイエス・キリストを信じて生きるのならば、罪赦されたという真の平安が与えられるのです。
 イエス様が、人から激しく非難され、結局最後はそのためにご自身の命さえ失うことになっても、必死になって伝えてくださったそのメッセージを、今日私たちは改めて頂き、信じようではありませんか。

 イエス様は、そう言った後に、その中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。
 罪を赦す権威をお持ちのお方が、その権威をお持ちであることが、そこにいた人たち(特にファリサイ派や律法学者たち)にも分かるように、「立って歩きなさい」と命じられたのです。
 するとその人はすぐに皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げて、神様を賛美しながら家に帰っていきました。
 自分が歩けるようになったことも、その人はもちろん嬉しかったでしょう。しかし、この人は“神様を賛美しながら”家に帰っていきました。
 人が神の御業を見て、神の恵みに喜ぶとき、その人はこのように神を賛美するようになるのです。神に感謝し、神をほめたたえるようになるのです。

 私が牧師としていつも切に願っていることは、教会に集う皆さんが、礼拝を終えて教会を後にする時、皆さんの家へ戻って行かれるときに、神様を賛美するようになることです。
 御言葉の恵みを礼拝を通して豊かに頂いて、新しい週の歩みを神様を賛美しながら歩んでいってくださればと、私は心から願っています。
 今日の箇所の最後の26節を読みますと、そこにいた人々は皆大変驚き、その人たちも神を賛美し始めました。
 神への信仰が多くの人々の間で起こされたのです。神の恵みの御業を見て、中風の人が、罪の赦しの宣言を受けて、そして実際に立ち上がり、神を賛美しながら帰って行った様子を見て、他の人々も皆、神を信じ神を賛美するようになったのです。
 ここでファリサイ派、律法学者と言われた人たち、“神を冒涜するこの男は何者だ”と言った彼らも、ここでイエス様による神の業を見て、主を信じ、神を賛美する者になったと、私は思います。
 そのことは、はっきり書かれていませんが、“皆驚き、神を賛美し始めた”のですから、ファリサイ派や律法学者たちも(少なくとも、彼らのうち何人かは)、神を賛美する者へと変えられたはずです。

神の御言葉を聞き、神の御業を見ることによる喜びが、私たちの間でも分かち合われているでしょうか。神の御業により、私たちも変えられているでしょうか。そうであればと、私たちは願います。
「あなたの罪は赦された」と宣言してくださるイエス様のお言葉を信じ、そのお言葉に従うその時に、最高の喜びが神の恵みを通して、私たちに与えられるのです。