2023年12月30日土曜日

2023年12月31日  主日礼拝

前奏
招詞 詩編138篇8節
讃美 新生讃美歌 618番 主のためにわれは生く
主の祈り
献金
聖句  ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節
宣教  「互いに重荷を担いなさい」
祈祷
讃美 新生讃美歌554番 イエスに導かれ
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏


 今日は2023年12月31日です。今年最後の日となりました。一年の最後の日(大晦日)が日曜日なので、私たちはこうして主日礼拝を捧げながら、この日を過ごしています。
 今年2023年は1月1日(元旦)も日曜日であり、主日礼拝から私たちは新しい年をスタートさせました。
 ですから今年は、文字通り礼拝で始まり礼拝で終わるという一年でした。一年を、主なる神を礼拝することで始め、また主を礼拝することで年を閉じることができ、わたしは大変嬉しく思います。
 今年一年も、わたしたちそれぞれに、私たちの教会にも、振り返って一つ一つを思い起こしてみれば、様々なことがあったと私は思います。

 大変な事、辛い事、また嬉しいこと、思いがけないこと、色々あったのではないでしょうか。
 私個人のことを話させて頂ければ、春に長男が就職で家を出て、社会人生活を始めたことが、やはり大きな出来事であったと思います。
 彼は遠くにいますが、最初に想像していたほど、それほど寂しさとか、大きな心境の変化のようなものを自分の中に感じることは、私にはあまりありませんでした。
 今は連絡自体は簡単にできますので、それほど距離感を感じずにすむというのも、そのように感じる理由であるかもしれません。

 しかし、彼のことを覚えて、やはりわたしは祈ります。そうすると、私たちがどこへいても私たちを守り導いてくださる、イエス・キリストの神にお任せできるのだ、という信仰による安心感が与えられます。
 それはとても幸いなことです。しかし今、私たちの世界では激しい戦争が続いている国や地域があり、本当に多くの尊い命が失われ続けています。
そのような現実の中、「神の愛」とか「神の恵み」、「神がいるから大丈夫だ」と言うことに、私は全くためらいを感じないのかと言えば、それは嘘になるかもしれません。

 しかし、主イエス・キリストは確かに私たちの世界にお出でになりました。キリストは人としてこの世界にお生まれになりました。先週は主のご降誕を祝うクリスマス礼拝を私たちは持ちました。
 キリストはこの世に来られて、私たち人間の罪を贖ってくださったのです。本来私たちが受けるべき罪の報いを、イエス様が代わってその身に受けてくださったのです。

 テモテへの手紙一 (1 Timothy) 1章15節に次のように書かれています。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。

私たちはイエス・キリストによって救われたのです。ですから私たちは、イエス様によって実現した、罪の赦しという救いを根拠に、やはり希望を持ってよいのです。
 今年1年を通しても、私たちが主の御愛に守られて、共に教会生活と信仰生活を送ることができたことを私は心より神に感謝いたします。
今年度2023年度、私たちの教会は「愛の奉仕」という標語の下に、教会生活を送っています。
教会の皆さんご自身の中から「神に仕えたい。具体的には教会での奉仕を通して神に仕えたい」という願いが起こり、「愛の奉仕」という標語が選ばれました。
聖句はガラテヤ書5章13節「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい 」です。
 ガラテヤ5章1節には「キリストはわたしたちを自由にしてくださった」と書かれています。イエス・キリストは私たちを罪から解放してくださいました。

またキリストは、律法を守ることによって、つまり人の努力によって得られる赦し、という決して実現しない考え(その呪縛)から私たちを自由にしてくださいました。
罪の赦し、神の救いはただ神の愛と恵みによって無償で私たちに与えられるのです。それを信じることが私たちを真に自由な者とするのです。
 しかし、それほどの自由を与えられた私たちでも、その自由を間違って用いてしまうなら、“肉に罪を犯させる”ことになってしまう、とガラテヤ書は言うのです。
“肉に罪を犯させる”とは、互いに仕えるのではなくて、逆に互いに傷つけあったり、互いに協力して力を合わせるべきなのに、逆に互いに重荷を負わせてしまうということです。

 そうならないために、私たちはどのようにしたらよいのでしょうか。そのことを、今日の聖書箇所から私たちは聞いていきたいと願います。
 今日の聖書の箇所は、年間聖句が採用された5章に続く、ガラテヤ6章の始めの部分です。
今日の箇所は最初に次のように書かれています。
兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。
 これは特に同じ信仰の共同体に属する者同士、同じ教会に属する者同士について言われています。それは、信仰の家族、信仰の兄弟に対して私たちが負っている義務です。
 クリスチャンであっても、罪に陥ることがあり得ます。意図しなくても罪に陥ることがあります。間違った道へ行ってしまうことが、私たち誰にでもあります。
そのような他者(信仰の家族)に対して、私たちはその人を柔和な(優しい)心で正しい道に立ち帰らせる(英語訳では“その人を元に戻す(修復する)”)義務を負う、と今日の箇所は言うのです。

正しい道とは、主なる神を第一とし、その方に従って歩む信仰の道、すなわちイエス・キリストの道です。
キリストの道を歩む私たち信仰者ひとり一人は、依然として罪人で間違いを犯す存在であっても、それでも私たちが歩むべき道ははっきりしているのです。
キリストと言う正しい道の上を私たちは歩もうと日々努力するのです。
 しかし、私たちはどれほど気をつけていても、わたしたちが抱える弱さ、自己中心さ、傲慢さなどから、罪を犯してしまいます。
そのような時、信仰の家族同士は、“正しい道”へ立ち帰るように互いに助け、促し、励まし合うことができるのです。
 正しい道(イエス・キリストの道)とは、具体的には、共に神を礼拝し、主の体を分かち合い(主の晩餐)、主の御言葉を分かち合う、信仰によって互いに支え合うという信仰者同士の共なる生活です。

 そして4節に書かれているように、私たちはそのように神を礼拝することを通して、自分自身をも吟味するのです。
 神の前に自分自身を真剣に吟味することで、私たちは自分の中には、神の愛と赦しに値するようなものは何もないことに気づかされます。
私たちは、“自分の信仰は深く、強いから大丈夫”だと、どれほど自信を持っていたとしても、自分だけで信仰を持ち続け、成長し続けることは決してできません。
私たちだれもが罪に躓き、罪を犯すからです。ですから私たちはお互いに、正しい道=イエス・キリストを主と仰ぎ、自分を吟味し悔い改める、神の赦しを頂いて生きる道へと、立ち帰ろうとお互いに励まし合い続けたいと願います。

今日の箇所の2節に次のように書かれています。
 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
私たちは互いの重荷を担い合うようにとここで命じられています。正しい道へ立ち帰るようにお互いに励まし合うこと、そして他者の重荷(罪や弱さということでしょう)を覚えて、それを自分の事として担おうと努力することが私たち信仰者には求められるのです。
私たちは誰も自分の罪を自分だけで担いきることはできません。しかしもし私たちがそれをお互いの重荷として、互いに担い合うならば、その重荷は軽くなります。
 そして根本のところで、私たちの罪を赦し支えてくださっているイエス・キリストが私たちと常に共におられることを私たちは知っています。

 イエス様の一番弟子であったペトロは、イエス様と一緒にいる時に、「主よ、御一緒になら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」とまで言っていました(ルカ22章31節~ )。
しかしイエス様は分かっておられました。ペトロが彼の弱さと罪のために、最後にはご自分を裏切って逃げてしまうことをイエス様は分かっておられたのです。
イエス様は、ペトロの裏切りを見越して、ペトロに次のように言いました。
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)
 イエス様は、ペトロに対して、きっと次のように言いたかったのでしょう。”わたしはあなたの罪を既に赦した。私があなたの罪を担った。

あなたの信仰が無くならいように私は祈った。だから、次はあなたが自分の兄弟たちを力づけてやりなさい”
 ペトロへ向けられたイエス様のそのお言葉と思いは今の私たちにも向けられています。
私たちが色々なことに失敗し、あるいは絶望したりして、信仰がなくなりそうな時にも、“あなたの信仰がなくならないように”とイエス様が今の私たちのためにも祈ってくださっているのです。
 イエス様のそのお言葉とイエス様自身の祈りが、私たちにはあるのですから、私たちは恐れることはありません。イエス様により頼みつつ、私たちは正しい道に、常に立ち帰りたいと願います。

今日の箇所の最後の節には次のように書かれています。
 10ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
 私たちが同じ教会に属し、共に信仰生活を送っているのは、本当に不思議な神様の御采配、ご計画によります。
 神の導きによって神の家族とされた私たちは互いに、重荷を担い合い、そしてできるだけの善を行おうと、ここで促されます。
 私たちがこうして一緒にいる時間も、やはり限りがあります。地上での出会い、時間は永遠には続きません。
それは、互いに重荷を担い合うことができる最適なタイミングがある、という意味でもあるでしょうし、また私たちは人間ですから、いずれ何らかの形で別れる時が来る、と言う意味でもあると思います。
ですから、私たちがこうして一緒にいられる、共に信仰生活ができることを、いつまでも続く当たり前のことと思わず、神が与えてくださった私たちの交わりを大切にし、その中でお互いに仕え合おうではありませんか。
イエス・キリストの信仰によって結び付けられた私たちが、互いの重荷を担い合い、赦し合って歩む、そんな共同体としてさらに成長することを目標に「愛の奉仕」を献げ、また明日から始まる新しい年2024年も歩むことができればと私たちは願います。

2023年12月23日土曜日

2023年12月24日 主日(アドベント第4/クリスマス)礼拝

招詞  エレミヤ書31章3節
アドベントキャンドルの点火~祈り
讃美  新生讃美歌162番 天なる使いよ 地をめぐり行き
主の祈り
主の晩餐
クリスマス劇 “たいせつなきみ”
献金
聖句 ヨハネの手紙一 4章16~21節
祈祷
宣教 「神の愛に留まる」
祈祷
讃美  新生讃美歌 157番 来れ 友よ 喜びもて
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷

 「神は愛ですGod is love」~今日の聖書箇所の中のヨハネの手紙一4章16節に、このように書かれています。
 「神とはどのようなお方ですか?」あるいは「神とは何ですか?」と聞かれたら、クリスチャンであれば、どのように答えるでしょうか。
 「神とは何か」という問いに対して、聖書は「神は愛です」とはっきりと述べます。
では「愛」とは何でしょうか。私たちは愛を知っているでしょうか。
 私たちは“愛とは何か”を、クリスチャンであってもなくても、知っていると自分では思っているのではないでしょうか。愛とは何でしょうか。それは、他人を思いやり、人に優しくすること。
 自分の利益よりも他人の利益を優先すること。弱い人や困っている人を助けること。そのようなことが愛だと、私たちは考えるのではないでしょうか。

自分がそのような愛の行為を実践できるかどうかは別にして、愛とは何かについて私は知っていると、おそらく私たちの多くは思っているのではないでしょうか。
 ところが聖書はこう断言するのです「神は愛です」God is love. この文の意味は「神は、一つの愛です」とか「神は、他にも多くある愛というものの、一つの形です」という意味ではありません。
 神は愛です~聖書が伝えるこの文の意味は、「神こそが愛であり、愛の源です。私たちが知っていると思っている愛は、全てこのお方を源泉としているのです」というのです。
 つまり、もし神を知らないと言うのなら、愛が何かも分からない、ということになります。
 するとまたもう一つの根本的な疑問がそこで私たちに浮かぶかもしれません。それは「神とは何か?」です。キリスト教の神以外にも、世の中では色々な神々が信じられています。

 そのような“色々な神々”が愛の源だと、聖書は言うのでしょうか。そうではありません。聖書が伝える神は、イエス・キリストを通してご自身を現わされた神です。
 聖書によって伝えられる、イエス・キリストを通してご自身を人に表された神こそが、唯一真の神である、というのが聖書のメッセージです。
 イエス・キリストを通してご自身を人に表された神が、すなわち愛である~これが聖書の伝えるメッセージです。
 クリスマスは、神の子であるイエス・キリストがこの世界にお生まれになったことを記念する時です。キリストを通して、私たちに“神とはどのようなお方か”ということ、そして真の愛が知らされました。
ですから、今から2023年前、イエス・キリストが現在のイスラエル/パレスチナにお生まれになったその出来事は、私たち全ての人間にとっての一大事でした。

 イエス・キリストが、天の父なる神の意志と御計画により、人としてこの世界にお生まれになったことには明確な理由(目標)がありました。
 今日の箇所の前の部分である、ヨハネの手紙一4章9節(1 John 4:9)に次のように書かれています。
神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
 「独り子」とは神の子であるイエス・キリストのことです。神が独り子のイエス・キリストを世に遣わされたのは、そのお方によって、私たち人が生きるようになるためだったのです。
キリストによって、私たち人が生きるようになるため、神はイエス・キリストを世にお遣わしになりました。

生きるとは、イエス・キリストを通して示された神の愛を頂いて、神の中に生きるということです。
生きるとは、聖書に書かれた神の言葉を通して神の御心を知り、神を礼拝し、神に祈るという生活の中で、霊的な命を生きるということです。
 私たちはまず、神の言葉を聞くことを通して神のことを知らされます。そして神の言葉に思いを巡らせ、神の言葉から力を頂くという経験を通して、神の言葉が確かに真実だと、信じるように(決断するように)なります。
 そのように神を信じる者は、神の内に(神の愛のうちに)留まろうとします。神の愛の中で生き続けようと、決心するということです。
 神の愛を知らされ、神の愛に留まろうとする人には、神もその人の内にとどまってくださる、と今日の16節に書かれています。(留まる=英語では ”内に住む live in“)
 神がその人のうちに留まって(住んで)くださると、その人からは恐れがなくなります。それが17~18節に書かれています。

17こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
18愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

神の愛を信じ、神の愛のうちに留まって生きる人からは“恐れ”がなくなるというのです。
 「裁きの日」とは、信仰者がいずれ神の御前に立たされ、自らの行いや言葉について神から問われ、裁かれる時のことが言われています。
聖書が伝えるその「裁きの日」を、信仰者はいつか迎えることになります。しかし私たち人は、誰も完全ではない、かならず欠点があり、かならず間違いを犯す者です。
ですからどんな立派な人であっても、完全なお方である神の前に立たされた時、裁かれずにはいられないのです。どんな人であっても神の前には残念ながら有罪なのです。
 しかしキリストを信じ、キリストの愛(すなわち神の愛)のうちに生きた人は、キリストが、その裁きを代わりに引き受けてくださったことが分かっているので、恐れなくてもよいのです。

クリスマスは、やがて私たちのために、私たちの罪を赦すために、身代わりとなってその命を捧げてくださった救い主がお生まれになった出来事です。
私たちのために救い主がお生まれになって、その方によって私たちは罪赦され、その方の無限といってよい愛が私たちに与えられたのです。
神のそのような愛を豊かに受けて、恐れの無い、感謝と喜びの日々を私たちは歩み、生きていこうではありませんか。

今日の箇所の20~21節をお読みします。

20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
21神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

 神から愛されるとは、素晴らしいことです。神から愛されることほど、私たちにとって幸いなことはありません。
 神が私たちを愛して下さるとは、神が私たちを大切に(尊いと)思ってくださっていることです。
 今日は礼拝の中で「たいせつなきみ You are special」という劇が演じられますが、その中で、木彫りの小人たちの造り主であるエリが言っています。
 「わたしがあなたを造った。だからあなたは私には大切なんだ」~造り主である神が私たちにそう言って下さっていることが、私たちにはなかなか分かりません。
 それを頭では分かっているかもしれませんが、その喜びが本当に心に溢れているかどうか、キリスト者は一度真剣に考えてみたほうがよいと私は思います。

 神がこのありのままの私を愛し、ただ神が私を造ったのだから無条件で愛して下さっているという聖書のメッセージを、私たちは(時間がかかっても)受けとめ、信じていきたいと願います。
 そして、神にそれほどまでに愛された者には、自身の兄弟姉妹(隣人や友人)、他者を愛するという義務がある、と今日の箇所は言うのです。
「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。

21神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」

これは私たちには大変厳しい言葉です。

イエス・キリストを信じ、神の愛のうちに留まれば、神の裁きを恐れることがなくなる、と今日の箇所には書かれています。
 しかし神の愛のうちに留まったかどうかは、あなたが兄弟姉妹を、信仰の家族を、そして他者を愛したかどうかで判断される、とも今日の箇所は言うのです。この言葉を前に、私たち誰もが大変厳粛な思いにさせられます。
 しかし、私たちの神は、私たちができないことをしろと、お命じになる方ではありません。神は私たち自身の中に、愛がないことはよくご存じです。
 ですから神は御子イエス・キリストを、キリストの愛を私たちに与えてくださいました。私たち自身ではなく、キリストの愛をもって、きっと私たちは自分以外の他者を愛することができるのです。
イエス様を私たちは信じ、イエス様から頂く愛によって、自分以外の他者をも大切にする、まず小さな一歩を、私たちは踏み出したいと願います。

 節の順番が前後しますが、19節に次のようにかかれています。

19わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

 神がまず(最初に)私たちを愛してくださったのです。ですから私たちも愛することができる(できるはず)、その一歩を踏み出すことができるはずだ、と聖書は告げるのです。
 神がまず私たちを愛し、私たちに全てを与えてくださいました。それがクリスマスの出来事です。神の御子イエス・キリストが私たちのためにお生まれになりました。
 キリストによって罪赦され、神の前に(人の前にも)恐れなく、神の愛のうちに留まりつつ、兄弟姉妹、他者を愛そうと努力しつつ、信仰の日々を歩んでまいりましょう。
クリスマスの恵みを私たちは、心から喜び感謝したいと願います。

2023年12月17日日曜日

2023年12月17日 主日(アドベント第3)礼拝

招詞  哀歌3章22~24節
アドベントキャンドルの点火~祈り
賛美  新生讃美歌 153番 エッサイの根より生い出でたる
主の祈り
献金
聖句  ペトロの手紙一 1章3~9節
祈祷
宣教 「言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れて」
祈祷
賛美  新生讃美歌 16番 み栄えあれ 愛の神
頌栄  新生讃美歌671番
祝祷 


神の御子イエス・キリスト、わたしたちの主であるイエス・キリストの誕生を待ちわびる待降節(アドベント)第三主日の礼拝を私たちは今日捧げています。
礼拝の始めに三本目のアドベント・キャンドルに火が灯され、祈りがささげられました。三本目のろうそくの火の意味は“喜び”です。
クリスマスは全ての人々にとっての、大きな、真の喜びです。しかし私たちは、戦争状態の中に置かれていたり、災害に見舞われたりして、命の危機に日々さらされている人たちが世界には多くおられることを知っています。
クリスマスを平和の中で迎えることができない、多くの人々のことを覚え、わたしたちは祈りを捧げたいと願います。私たちは、人と人との間の争いと憎しみが、一刻もはやく止みますようにと、祈ります。

キリストは、憎しみと争いのある、邪悪な考えと思いで満ちた私たちの人間の世界の現実の只中へ生まれてこられました。
そのお方を通して、“神とはどのようなお方であるか”がはっきりと示されるために、キリストは人としてお生まれになりました。
今日の聖書箇所(ペトロの手紙一1章3~9節)の最初の1章3節は次のような願いと祈りの言葉で始まっています。

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。
この言葉は、キリストを信じる信仰者に与えられた、大きな喜びの言葉であり、私たちに大きな力と希望を与える言葉です。
神は私たちに言葉を発する口を与えてくださいました。神は私たちに言葉を与えてくださいました。神から与えられた口と言葉で、わたしたちは「神がほめたたえられますように」と願い、祈ることができるのです。
 私たちは罪を抱えた人間です。ですから常に、神の栄光ではなく、実際には自分自身の栄光を求め、自分が人から讃えられること、評価されることを望んでしまいます。
 わたしたちはどうしても、他人との比較によって、優越感に浸ったり、また逆に劣等感にさいなまれたりします。
しかしキリスト者は、イエス・キリストの神によって、自分が愛されていることをしっています。

神の愛を知っていますから、わたしたちは他人との比較で自分の価値を評価する必要がないことを知っています。
自分がほめたたえられる必要はないのです。この世界をお造りになり、この私をもお造りになり、そしてこの私を愛して下さる神こそがほめたたえられますように、と私たちは心から願うのです。
ただ神を見上げて、神がいつも与えてくださっている恵みに感謝をして、心から「栄光はただ神にのみありますように」とわたしたちは願います。
 新型コロナウイルスによる感染症拡大以来は特に、多くの教会で、教会に集う人の数、教会員や財政の減少にも苦しんでいます。教会が閉鎖される、という話も私たちは聞きます。
そんな中で私たちもやはり、“これから私たちの教会はどうなってしまうのだろう”と、心配になることがあると思います。
私たち別府国際バプテスト教会も、礼拝出席者数は、コロナ前に比べて、今はほぼ半数に減ってしまいました。
特に海外出身の方々が多く集う私たちの教会に、感染症防止対策のための、国への入国禁止(制限)措置は、それまで全く予想もしなかった大きな影響を与えました。
今、ようやく感染症拡大以前の形へと戻りつつます。(対策をしつつの新しい形というべきでしょうか)

しかし、今日も聖書からわたしたちは確かな希望を頂きます。どんな状況の中でも、やっぱり“迷うことはない”と私たちは聖書の言葉によって励まされるのです。
それは、どんな状況の中でも、私たちは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」を褒めたたえる、賛美、礼拝することができる喜びがあるからです。
わたしたちが心からイエス・キリストの神に感謝し、キリストにだけ栄光がありますように、神にすべての栄光をお返しします、という気持ちで一致をするならば、
たとえわたしたちの目には少ない人数であっても、わたしたちが心から賛美し神を喜ぶのならば、神はますますわたしたちを祝福し恵みを与えつづけてくださるでしょう。
そしてそれが神の御心ならば、教会に集い新たに神を信じる人々をも、きっと神が神ご自身の御業としてこれから起こしてくださる~そのように、わたしたちは希望を持つことができるのです。
ですから私たちは、根本のところで、迷う必要はないのです。わたしたちがあがめ、讃美をするお方は、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」お一人であることがはっきりしているからです。

この“わたしたち”には、今こうして教会に集うわたしたちだけではなく、クリスチャンの方、またクリスチャンでなくても全ての人を含みます。
なぜなら主はお一人だからです。唯一真の神はイエス・キリストの父なる神のみであるからです。
この世のものが、どれほど素晴らしく、たとえそれが神のように見えるものがあっても、真の神はイエスキリストの父である神、お一人です。
今教会に集う人は少ないかもしれません。しかしそれでも、“世界のあらゆるすべての人々が、イエス・キリストの神を褒めたたえる日が来ますように”、“あらゆる人々が真の神を見いだすことができますように”という大きな願いも私たちは持つことができるのです。
それは素晴らしい願いではないでしょうか。それはただの絵空事ではないのです。わたしたちは“あらゆる人々がイエス・キリストの神を褒めたたえますように”というその願いを、確かな(確実な)希望に基づいて持っているからです。

3節の続きに次のように書かれています。
神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、

神はわたしたちを新たに生まれさせてくださいました。キリスト者の皆さんは、キリストを信じて生まれ変わったという自覚がありますか?新たに生まれたこと、新生の喜びがわたしたちにはあるでしょうか。
わたしがバプテスマを受けたとき(語学留学中にアメリカの教会で私はバプテスマを受けました)、教会の方が礼拝の後に、ケーキでお祝いしてくれました。
そのケーキの上には”Tomo, Happy Birthday in Jesus”と文字が彩られていました。それを見て、“わたしは、キリストの中で新たに生まれたのだな”と、改めて思わされ感激しました。
わたしたちがイエス・キリストを信じるということは、新たに生まれる、新しい命をいただく、ということです。

今日の同じ章、1ペトロ1章23節に次のように書いてあります。
 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

 ここにどのように私たちが生まれ変わるかが書かれています。わたしたちは神の変わることのない生きた言葉によって、新たに生まれるのです。
確かに神の言葉(聖書の御言葉)はわたしたちを生まれ変わらせます。神の言葉が私たちの心の中に宿る時、御言葉によって力を与えられる時、わたしたちはその度に新しい自分に生まれ変わっているのです。
こうして礼拝で私たちが神の言葉を分かち時、私たちには喜びで満たされます。
そうすると私たちは自分ではなく、“この喜びを与えてくださるイエス・キリストの父である神のみがほめたたえられますように”と心から願う者に私たちは生まれ変わらされるのです。
神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれる~そのような豊かな信仰の日々を私たちは生きることができるのです。

今日の箇所の最後の節である8~9節をお読みします。
8あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
9それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

 この手紙を書いたのは、イエス・キリストの一番弟子であったペトロです。ペトロはイエス様と共に生活をし、伝道活動を共にした人でした。
 “自分も捕まるのではないか”という恐怖に襲われ、捕まってしまったイエス様のことを「あんな人は知らない」と言って、ペトロはイエス様を見捨ててしまいました。
  それでもペトロは復活したイエス・キリストに出会いました。復活したイエス様はペトロと他の弟子たちに、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)と命じられました。
  復活のイエス様に出会ったペトロ始め弟子たちは、それから力と喜びに満ちて宣教をしました。
今の私たちは、ペトロのように、生きている時のイエス様、そして復活したイエス様に直接会い、そのお体を直接見ると言う経験はしていません。

 しかし、それでも今の私たちに与えられる喜びは、生きている時のイエス様と復活のイエス様を直接見たペトロ達(弟子たち)の喜びにも決して劣らない、大きな喜びだと、今日の箇所は伝えます。
なぜなら、私たちは「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」いるからです。
目には見えませんが、聖霊の導きによって、神の言葉が生きる命の言葉となった私たちの心と魂に入って来て、私たちを内面から“言葉では言い尽くせないすばらしい喜び”で満たしてくれるのです。
 イエス・キリストが私たちと共におられ、私たちを支え導いてくださり、辛く悲しい時にも豊かに慰めてくださる~そのような確かな救いを私たちは頂いています。
 私たちは毎年クリスマスをお祝いし、御子イエス・キリストの誕生を覚え、感謝の心をお捧げします。
それは、ある年間行事をただ繰り返す、ということではありません(そのようにしてはいけないのです)。私たちは毎年、そして日々キリストによって与えられる、”言葉では言い尽くせないすばらしい喜び”を頂きながら、その喜びで満たされるのです。
それほどの大きな喜びがキリストの信仰によって私たちに与えられていることを感謝し喜びつつ、今週の日々も私たちは歩んで参りましょう。

2023年12月9日土曜日

2023年12月10日 主日礼拝(第二アドベント)

招詞  ヨハネの黙示録19章6節
アドベントキャンドルの点火~祈り
賛美  新生讃美歌149番 来たれやインマヌエル
主の祈り
献金
聖句  イザヤ書52章7~10節
祈祷
宣教  「あなたの神は王となられた」
祈祷
賛美  新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷

主イエス・キリストの誕生を待ちわびる待降節(アドベント)の期間を今、私たちは過ごしています。今日は、アドベント第二の日曜日です。
 礼拝の初めに二本目のアドベント・キャンドルに火が灯されました。二本目のアドベント・キャンドルの火は、“平和”を表わします。
 一本目のアドベント・キャンドルの火は“希望”を表わします。イエス・キリストが私たちの世界に来てくださったのは、真の“希望”が私たちに与えられた出来事でした。
 その希望は、神が人となり私たちと共に生きてくださる、という希望です。私たちがその希望を信じたならば、もう何ものも私たちから取り去ることができない希望です。
 今を生きる希望と、将来への希望とがイエス・キリストを通して私たちに与えられました。神が私たちと共に生き、私たちと共に日々歩んでくださる、という確かな希望です。
 私たちは今日もこうして共に礼拝を捧げることで、今この時を私たちと共に生きて下さるイエス・キリストの希望を分かち合うことができます。私たちはそのことに本当に感謝をしたいと願います。
 
 今日のアドベント第二主日では、二本目のアドベント・キャンドルの火の意味である“平和”についての知らせを、聖書の御言葉から私たちは聞いていきましょう。
 今日の聖書箇所として、旧約聖書『イザヤ書』の52章7節~10節を私は選びました。
イザヤ書52章が書かれた背景としては、イエスラエルがバビロン帝国によって国を滅ぼされ、多くのユダヤ人たちがバビロンで捕囚としての生活を送っていた、“バビロン捕囚”の時代の終わりごろだと言われます。
 捕らわれの生活を送る民たちに、その捕囚生活が終わるという希望と喜びの知らせが知らされる様子が、今日の箇所には記されています。
 特に今、実際の戦争状態にある国や地域の中で、多くの人たちの日々の生活と命が脅かされ、多くの命が失われていることを思うと、私たちの心は痛みます。
人質となって捕らわれている人たちやそのご家族たちがおられることも思うと、なぜそのようなことが起こるのか、と私たちは疑問と憤りを覚えます。
 私は、「自分には何もできない」と言う無力感にも囚われます。皆さんはいかがでしょうか。しかし私たちが無力感に囚われるような時こそ、聖書が伝える平和に私たちは真剣に聞き、その平和を私たち自身が頂きたいと私は願うのです。
そして聖書を通して頂く真の平和を土台にして、私たちひとり一人が希望と力を与えられ、生き方と行動が変えられるならば、そこから世の平和は必ず実現していく、と私たちは信じてよいのです。

7節をもう一度お読みします。

 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。

 ここでは、人々に、一つの知らせを伝える人(伝令者)のことが言われています。彼が伝えたものは、“良い知らせ”でした。
 ここでは、捕らわれの身になっている人たちに、彼らが待ちわびていた知らせが届けられるという希望が言われています。
 イスラエルの人たちが捕囚生活の中で待ちわびていた知らせは、解放の知らせであり勝利の知らせでした。
人々が長い間待っていた解放と救いの知らせが、その人を通して人々に告げられた、というのが今日の箇所が伝えることです。
私たちはここで、その人の“足が、いかに美しいことか” と言われていることにも注目したいと思います。
 
 ここでは、戦争の勝利の知らせを伝えるために遣わされた“伝令者”がイメージされています。彼は、その知らせを告げるために長い道のり、山々を行き巡りました。
今ならば、スマホでメッセージを送れば一瞬で、どんなに遠くにでもそれは伝わります。人が、手紙や知らせを直接携えて運ぶということは、これからさらに少なくなっていくのでしょう。
そのような時代に生きる私たちには想像することが難しいことですが、一人の伝令者が、長い道のり、おそらく何十キロ、あるいは何百キロの長い道を、山や谷を越えて行くことは大変な労力を要したはずです。
今日の箇所は、山々を行き巡るその伝令者の足を“美しい”といいます。実際には、山々を行き巡った伝令者の足は大変汚れていたはずにも関わらず、彼の足は美しい、というのです。
 それは、その知らせを人々に伝えるために必死に走る伝令者の働きと彼の心の思いを、主なる神がご覧になって、彼の足を“美しい”と表現しているのではないでしょうか。

 それは、一人の信仰者が、主の良き知らせ、救いの知らせを信じ、その知らせを携えながら、それを他の人にも伝えたいと願いつつ日々を生きる姿にも例えられます。
キリストを信じ、毎日を懸命に生きる者の姿が“美しい”と、言われているのです。
そして、そのように福音を信じて生きる者が美しいと言われるのは、彼が信じ携えている神の福音そのものが、限りなく美しいからです。
 聖書は、わたしたち人を“土の器”だと言います。新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』4章7節に次のように書かれています。

2コリント4章7節
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

私たちは“土の器”です。弱く脆く、また罪を抱えた者です。しかし、そのような土の器の中に、私たちは“福音の光”、”神の栄光を悟る光”を持っているのです。
 土の器である私たちを、内側から美しく輝かす福音という光を、私たちは豊かに頂いていきたいと願います。
 土の器である私たちを福音の光によって輝かせて下さり、そしてそんな私たちを“美しい”と認めてくださるお方、主なる神に私たちは感謝をしたいと願います。
伝令者が伝えた知らせた内容は、“良い知らせ”であり、“平和”であり、“救い”でした。人々が待ち望んでいた解放の知らせでした。

クリスマスは、私たちに真の平和が神によって知らされた出来事です。クリスマスは、神から私たちに真の平和がプレゼント(贈り物)として与えられた出来事です。
 神から私たちに与えられた平和は、神の御子イエス・キリストが私たちの王に成るということによってもたらされました。
神の平和は、私たちがイエス・キリストを私たちの王として信じ、その王なるキリストを私たちの主としてお迎えすることから始まります。
 私たちがイエス・キリストを主であり、私たちの王であると信じ、キリストが私たちの心を支配なさる時、そこから神による平和が生まれます。
 キリストを私たちの心に迎え入れる時、まさに今日の箇所の9節に書かれているように、廃墟となっていた都エルサレムに、人々の歓声と喜びの声があがるのです。
廃墟となっていたエルサレムとは、空虚な思いで満たされていた私たちひとり一人の心の姿ではないでしょうか。
 空虚な心を何かで満たそうとして、私たちは色々なものを求めると思います。しかし、この世の中の何一つとして、私たちの心の空しさを、完全に満たしてくれるものはありません。
イエス・キリストの福音以外に、私たちの空しさが満たされ、喜びで心が満ちることはありません。
 しかしイエス・キリストを王として信じ、キリストが私を(私たち)を支配するお方だと認めて生きる時に、私たちの心は大きな喜びで満たされます。

 9節後半には次のように書かれています。

 主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。

 主イエス・キリストは、私たちの心を無理やり支配し、私たちから自由や尊厳を奪うお方ではありません。
 むしろ主イエス・キリストは私たちが自らキリストを王として迎える決心をすることを促し、またご自身を通して真の自由と尊厳を私たちに与えようとしてくださるお方です。
  キリストを通して、私たちは自分が“土の器”でしかないことを知ります。そしてその土の器である私たちが、神によってどれほど愛され、大切なものとされているのかを、キリストを通して私たちは知らされます。
 新約聖書の『マタイによる福音書』で、イエス様がお生まれになった時、占星術の学者たちが東の方からエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とヘロデ王にたずねました。
 学者たちのその言葉も、「キリストこそが真の王、王の王である」ということを表しています。当時ユダヤを治めていたヘロデ王は、あくまで人間としての王でした。
 しかし、イエス・キリストは神であり、全ての人がそのお方を信じ、従うべき真の王として私たちの世界にお生まれになったのです。
 私たちは、“キリストこそが王であり、私たち全ての者を支配なさるお方”ということを信じる、信仰の道を歩んでいこうではありませんか。

今日の箇所の最後の10節をお読みします。
10主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。

 私たちがイエス・キリストを主として、私たちを支配なさる王として信じる時、私たちを通して神の御腕の力が、世の人々にも明らかとなり、伝えられていきます。
 キリストが私たちを支配なさる時、神の平和が私たちを支配し、その神の平和が私たちを通して世へと拡がるのです。
 神の平和で私たちが満たされれば、私たちはきっと互いを受け入れ合い、互いを愛しあうでしょう。お互いの存在がお互いにとってかけがえのないものになるでしょう。
そしてやがて「地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ」という輝かしい希望も私たちには与えられるのです。
 希望の神、平和の救い主、イエス・キリストの神を心からあがめつつ、キリストの誕生を感謝する待降節の日々を、私たちは過ごして参りましょう。

2023年12月6日水曜日

 クリスマス礼拝のお知らせ

 12月24日(日) 第一礼拝 午前9時~、 第二礼拝 午前10時50分~

 12月24日(日) 燭火礼拝(クリスマス・イヴ礼拝)午後6時~7時(一回です)

 教会には、信者でなくても、どなたでもお越しいただけます。

 ぜひクリスマスを教会で共に過ごしましょう。



2023年12月5日火曜日

              *こどもクリスマス会~12月16日(土)14時からです。

     どなたでも歓迎です!




2023年12月2日土曜日

2023年12月3日 主日礼拝

招詞 ユダの手紙1章21節
アドベントキャンドルの点火~祈り
賛美 新生讃美歌 148番 久しく待ちにし
祈りの時
主の祈り
献金
聖句  詩編27篇11~14節
祈祷
宣教  「主を待ち望め」
祈祷
賛美  新生讃美歌 492番 わが身の望みは
頌栄  新生讃美歌671番
祝祷


 今日から、キリスト教会では「アドベント」Adventという期間に入ります。
 アドベント(待降節)は、クリスマス前の約4週間(今年は、12月24日が日曜日なので、三週間)の期間を指し、イエス・キリストの誕生を私たちが覚え、感謝し、キリストの誕生を待ちわびる期間です。
  イエス・キリストは今から約2020年前に、イスラエル/ユダヤの地にお生まれになりました。お生まれになったユダヤの地で、イエス様は神の国の福音について人々に宣べ伝えました。
 やがて多くの人々がイエス様の教えを信じ、イエス様に従うようになりました。それはその人たちの生き方が変えられたということでした。
 イエス様を信じ、イエス様に従うということは、私たちの生き方が変わるということなのです。

  イエス様を信じ、イエス様に従うということは、自分の命、そして生き方の主導権をそのお方(イエス・キリスト)に明け渡す、ということであるからです。
  ですから、イエス・キリストを信じ、イエス様に従うということは、それ以前の生き方(自分が自分の人生の主導権を握っている生き方)から、神であるキリストが主導権を握る生き方へと変えられるということなのです。
 私がイエス・キリストを自分の主、救い主として信じ、クリスチャンになって生きようと決意した時、わたしは信仰のことや聖書のことを、完全に理解していたわけでは勿論ありませんでした。
 それでも、キリストを信じクリスチャンになるということは、自分の中心が自分ではなくなり、自分の指針としての確実な何か(それは、決して変わることのない神)を自分の中心に持つことになるのだ、ということだと私は理解しました。
  私たち自身の思いや感情は(あるいは信念のようなものでも)、自分を取り巻く環境や周りの人々からの影響などによって、いつでも変わる可能性がある、とても移り変わりやすいです。
  そのような“自分”を自分の中心、土台として持っている限り、人は安定した(霊的に)、平安な生き方をすることはできません。

 しかし自分の中心に神を置き、神をお迎えし、その神に従うのならば、私たちは神によって揺らぐことのない平安を頂くことになります。神は決して変わることのないお方だからです。
自分中心から“神中心”の生き方へと変えられること、それがキリストを信じ、キリストに従って歩む道です。
 自分中心ではなく、神中心/キリスト中心に変えられると、私たちはいつも祈りを通して神の御心を知ろうとします。
神こそがわたしたちにとって最善をご存知のお方だと信仰者は信じるので、私たちは神の御心が何であるのか、を祈りによって知ろうとするのです。

 アドベント第一主日の今日の礼拝の聖書箇所として私は詩篇27編11~14節を選びました。詩編27編は、ダビデによる祈りの言葉です。
 ダビデは、イスラエルの王様でしたが、王になる前にも、そして王になってからも様々な試練に会いました。
 ダビデは人として間違った選択、過ち、正しくない道を歩むこともありました。私たち誰もがそうであるように、ダビデも決して完璧ではなく、間違いも犯したのです。
 ダビデはそのような経験を通して、神の示される道こそが唯一正しい道、王として、そして信仰者として彼が進み行くべき道であることを知るようになったのでしょう。

 今日の箇所の最初の節(11節)前半に次のように書かれています。
主よ、あなたの道を示し/平らな道に導いてください。

 詩編の他のいくつかの箇所でも、ダビデはこのように“あなたの道を示して(教えて)ください”と願い、祈っています。
 ダビデ王は歴史上、イスラエルの人たちにとても尊敬され、敬われてきた人物です。キリスト者にとっても、ダビデはやはり重要な人物であり、信仰的に私たちが彼から学ぶことも多くある信仰者です。
 偉大な王、そして偉大な信仰者として尊敬されているダビデも、「主よ、あなたの道を示してください」と、神に祈り願っているのです。
ダビデは、神が示してくださる道こそが、自分にとって最善の道だと信じていたからです。
 私たちもダビデに倣(なら)い、神が示される道こそ私たちにとっての最善の道であると、信じることができるようになりたいと願います。
 そしてそのように信じた上で、“あなたの道をわたしに示して(教えて)ください”と熱心に神に私たちは祈るようにもなりたいと願います。

そのような祈りを繰り返して、そしてその度に道が示される信仰の経験を通し、“神は確かにわたしの祈りを聞いてくださる”と私たちは確信していくことができるからです。
 「平らな道(まっすぐな道)」とは、“神の前に正しい道”のことです。神の前に正しい道を私たちが行くには、神ご自身がその道を示してくださらねばなりません。
 神こそが何が正しく何が善であるかをご存じのお方であり、私たちは神から示されなければ、何が真に正しいのかを自分で判断することはできないからです。
 私たちは、自分としては正しいと思うことをしたとしても、それが他の人の心を傷つけたり、良くない結果を産んだりすることがあります。私たちがそう意図しなくても犯してしまう罪も存在します。

 ですからわたしたちは、自分がそのように不完全で、常に罪を犯す可能性を持つ者であることを自覚し、謙虚に神に向かって「あなたの道を私に示して下さい。あなたの道へと導いてください」と祈らなくてはならないのです。
 私たちはひとりでもそのように祈りますし、また信仰の家族である教会としても、私たちは心を合わせて一緒に、そのように祈りたいと願います。
「主よ、あなたの道を示し、平らな道に導いてください」と私たちはぜひ一緒に祈ろうではありませんか。
 主なる神を信頼し、「主は祈りを必ず聞いてくださる」という確信が深まるほど、私たちは信仰による希望を持つことができるようになります。
 主である神が私たちの祈りを聞いて下さるのですから、それ以上に力強いことはありません。
そして私たちには、神への信仰を通して、希望が与えられます。13節に次のように書かれています。

13わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。

 神から来る信仰の希望とは、私たちが生きるこの地上にあって、主の恵み(主の善=英語訳)を見る、という希望です。
 それは、神が造られたこの世界で、私たちは神が与えて下さる善き物、神の素晴らしさを見て、それを理解し、希望を持って生きることができるようになるという希望の確信です。
 神への信仰がなく、自分中心で私たちの身の回りや社会、世界を見るならば、“自分の思い通りにならない”という不満ばかりが、いつも募るでしょう。 
 しかし神から来る希望の信仰を通して私たちが私たちの身の回りを見るのならば、主の恵みがいかに多くあるかということを、私たちは認めることができるようになるのです。
  主は私たちに善き物を私たちに与えてくださるお方ですから、私たちは私たちの頑なな自分中心の思いのために、神が私たちに与えてくださる善き物を決して拒むようなことがないようにしたいと思います。

 信仰の希望をもって、私たちが生きるこの地上の世界に、主の恵みが溢れていることを私たちは喜びたいと願います。

11節の前半をもう一度お読みします。「主よ、あなたの道を示し、平らな道に導いてください」
 遠い昔、信仰者ダビデがこのように祈ったことに、主なる神は応えてくださいました。おそらくダビデ自身も想像もできなかったほど、素晴らしい方法で神はダビデのこの祈りに応えてくださったのです。
 神は、御子イエス・キリストを、私たち全ての者の道として、命と真理の道としてこの世界に贈ってくださいました。そのようにして、主はダビデの祈りに応えてくださったのです。
 イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことはできない」とおっしゃいました(ヨハネによる福音書14章6節)

 ダビデが祈ったように、神は神ご自身の道、真理の道を私たちにはっきりと示してくださったのです。神の御子イエス・キリストという道こそが、唯一真の真理の道であることがわたしたちに示されました。
 キリストにこそ私たちは従い、キリストの示す道を私たちは歩んでいかねばなりません。キリストこそが唯一正しい道なのです。
 私たちにとって何が最善であるかをご存知であるお方が、主イエス・キリストを通して私たちを導いてくださる平らな、正しき道へ向かって、私たちは歩んでいきたいと願います。

 今日の箇所の最後の14節をお読みします。
14主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。
 「主を待ち望め」~この言葉を今日のメッセージの題に私はいたしました。アドベント(待降節)の今、私たちは新たな思いと期待をもって、主を待ち望みます。
主を待ち望むとは、私たちが日々信仰を新たに、自分中心の心を悔い改めて、神中心の生き方へと変わる決意をすることです。
自分の中心に居座ろうとする自分を心から追い出し、イエス様をいつも心の中心にお迎えする、という決心です。
そのように私たちが心から願い祈るとき、主は必ずいつも私たちの所へ来て下さり、そして私たちの心の中心に住んでくださるようになるのです。
私たちは心合わせて神に祈り、イエス様がいつも私たちの中心にいてくださいますようにと祈りましょう。
私たちはイエス様に私たちに中心にいていただくことにより、イエス・キリストが私たちに示して下さる道を、歩んでいく者でありたいと願います。
私たちは、日々主に導かれて、キリストにある希望の道、信仰の道を歩みつつ、このアドベントの期間を過ごしてまいりましょう。