2023年2月25日土曜日

2023年2月26日 主日礼拝

招詞 創世記2章7節
賛美 新生讃美歌 103番 望みも消えゆくまでに
主の祈り
主の晩餐
献金
聖書  コリントの信徒への手紙一 15章35~49節
祈祷
宣教  「復活の体」
https://youtu.be/pusrWl7Wz2A
祈祷
賛美 新生讃美歌 297番 十字架のイエスを仰ぎ見れば
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷


 今日の聖書の箇所は、「コリントの信徒への手紙一」15章35節~49節ですが、今日の箇所より前の15章13~14節に次のように書かれています。
死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
 この手紙を書いたパウロは、“キリストの復活がなかったのならば、あなたがたの信仰(キリスト者の信仰)は無駄だ”と言っているのです。
 わたしたちキリストを信じる者の信仰は“キリストが十字架にかかって死に、そして甦らされた、復活した”という事実(真実)にかかっています。そこからキリスト者の信仰は始まったからです。
 もしイエス・キリストが復活しなかったのならば、わたしたちは“実際には起こらなかったこと”に基づいて、ただ“希望のようなもの”を持って生きているだけ、ということになります。

 しかし、パウロは復活のイエス・キリストにある信仰を確信し、その信仰によって生かされていました。そして今キリストを信じて生きているわたしたちも、復活の確かな希望によって生かされています。
 わたしたちが、苦しいことが多いこの世界で生き続けることができるのは、苦難の中でも立ち続けることができるのは、復活のイエス・キリストが今は聖霊(神の霊)として私たちを支え、導いてくださっているからです。
 生きていて、人が本当に確かな希望を持つことができるのは、復活のイエス・キリストにその人が支えられ、守られているからです。わたしはキリストにある信仰者の一人として、そのように信じています。
 キリストを信じるキリスト者は皆、復活のイエス・キリストを確信し、復活のキリストにあって常に喜ぶことができます。そして私たちは復活のイエス・キリストを人に宣べ伝えることがきるのです。

今日の箇所でパウロは、キリストの復活についての人々からの疑問に対して答えています。その疑問とは、「死者はどんな風に復活するのか」、「どんな体で来るのか」という疑問でした。
 確かに、復活というわたしたちの常識を超えた出来事を、わたしたちは完全に理解するということはできません。しかし、たとえ完全に理解することはできなくても、聖書に書かれた記事を通して、わたしたちはイエス様が復活したというその出来事を知り、信じることができます。
イエス・キリストの復活は、何か精神的なことや象徴的なことではありませんでした。それは、“体の復活”を伴なうものでした。イエス・キリストの復活は弟子たちやその他の人々が見た幻や錯覚でもありませんでした。
ルカによる福音書の復活記事では、復活したイエス様は弟子たちに現れて、亡霊を見ているのだと思って恐れおののく弟子たちに向かって、次のように言われました。
『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある』(ルカ24章39節)

イエス様の復活は、“ただ一人の人間の体がもう一度生き返った(身体機能を取り戻した)”ということではありませんでした。
イエス様の復活は、“死の力は神によって滅ぼされた”ということであり、また“キリストを信じる者も、キリストと一緒に復活する”ということの証明でした。
 イエス様の復活は、今日の箇所の言葉で言えば、“朽ちないものへの復活”(42節)、“輝かしいものへの復活”(43節)、また“霊の体としての復活”(44節、46節)でした。しかし、それは人々が確かに目で見て、触って確かめることができる形で起きた復活だったのです。
 なぜイエス様の復活が体を伴なったものであることが、それほど重要なのでしょうか。なぜわたしはそれが重要だとここまで強調するのでしょうか?それはイエス様が実際に人として体をもって人としての命を生きられたからです。
イエス様の体を伴なう復活は、“わたしたちが(時に苦しみつつも)体をもって生きる地上での命は、神の前に尊く、大切なものだ”ということを意味するからです。
キリストの復活が体を伴なったものだったからこそ、わたしたちは自分の命、体を大切にすることができる、とも言えるとわたしは思います。
神はわたしたち人間を、また他の生き物をも、体をもって生きるものとして創造されました。人は一人一人みんな違いますし、他の生き物の姿も、みなそれぞれ違います。

それが今日の38~39節に書かれていることです。
38神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
39どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
 これは神の創造の業の素晴らしさ、神がいかに精緻なご計画をもって、生き物ひとつひとつを多様な形に体を持って生きるものとして造られたのか、ということを表しています。
 しかし、そのように神の不思議な業によって造られた私たち生き物も、やがて必ずこの地上での命を終える時が来ます。わたしたちには、そしてすべての生き物には死が必ずやってきます。
 ですから、ある人々はパウロに“人や他の生き物は、必ず死ぬのに、どうやって復活なんかすることができるのか?”と(おそらく嘲りつつ)、疑問を投げたのです。それは当然の疑問と言えば当然の疑問です。
 それに対してパウロは“種”を例えにして答えます。“死んで命を得る”、“死ななければ命を得ることができない”例として、麦や他の穀物などの”種”を例としてパウロはあげるのです。
 “あなたたちは、日常、種が蒔かれなければ芽を出し、実を結ぶことができない例を実際に見ているではないか。そうであるならば、死んで甦ることがそれほど不思議だろうか?”とパウロは言うのです。

イエス様もヨハネ福音書12章24節で次のように言っておられます。
 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
 種が地に落ちて死ぬことによって、新たな命である実を結ぶように、キリストの復活を通して私たちも、死から(キリストと共に)復活することが神の恵みによって定められている、というのです。
 復活する時の体は“朽ちないものへの復活”(42節)であり、“輝かしく、力強いものへの復活”(43節)です。それは“霊の体の復活”(44節)とも今日の箇所に書かれています。
その復活の姿も、今のわたしたちには完全に理解することはできません。しかし確かなことは、キリストと共にある新たな霊的な輝かしい体へと私たちも復活させられるということです。

フィリピの信徒への手紙3章20~21節に次のように書かれています。
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

では、わたしたち信仰者の死の先にある復活がそれほど素晴らしいものであるならば、わたしたちの今の身体、そしてこの地上での命はどうでもよいものなのでしょうか?
死の先には、キリストと一緒に復活させられることが約束されているのだから、わたしたちはこの地上では何も努力して一生懸命生きる必要はないのでしょうか?
決してそうではありません。わたしたちは復活の命を頂くからこそ、復活の約束を頂いているからこそ、この地上での体も大切にして生きるのです。
死の先にある復活とは、わたしたちのこの地上での命と連続しているからです。イエス様が、手に釘跡と脇腹に傷が残る姿のままで復活して弟子たちの前に表されたのも、地上での命と復活の体が連続していることを表すためでした。
イエス様の復活は、わたしたち全ての者の罪を全て背負って死なれたその生き方を、天の父なる神がお認めになって、“あなたの生き方はわたしの意志に適った。あなたは完全にあなたに与えられた使命を果たした”という神の承認を現したものである、とも言えます。
同じように、わたしたちのこの地上での命、わたしたちがこの地上でいかに生きるかは、とても重要なことなのです。わたしたちが、神が造られたこの世界で神を信じて生きること、神の戒めに従って誠実に生きることがとても重要なのです。
この私たちのために命を捨ててくださったイエス・キリストを信じ、キリストの教えに従ってこの地上で精一杯生きるようにと、わたしたちは復活のイエス・キリストによってこそ促されるのです。
 わたしたちは、自分の力によって生きるのではありません。復活のイエス・キリストによって、わたしたちは生かされています。キリストによって私たちは罪赦され、神の子としての自由を頂いています。
 神の愛と恵みによって生かされているのですから、わたしたちは全てを神に委ねつつ、復活の確かな希望を頂きながら、信仰者としての誠実な歩み、キリストに従っている生きる道を共に歩んでいきましょう。

2023年2月18日土曜日

2023年2月19日 主日礼拝 

招詞 詩編103篇2~4節a
賛美 新生讃美歌 92番 喜びたたえよ
主の祈り
献金
聖書 エフェソの信徒への手紙1章3-14節
祈祷
宣教 「キリストにある祝福」
祈祷
賛美 新生讃美歌 363番 キリスト 教会の主よ
頌栄 新生讃美歌 672番


皆さん、おはようございます。
今年度、私たちの教会――別府国際バプテスト教会(BIBC)――は、「主の恵みに目を留める」という年間主題のもとに、教会の歩みを進めています。(主題聖句はエフェソ2章8節です。)
エフェソ書は、全体で6章、そんなに長いものではありません。皆さんも是非一度、全体を通してお読みいただきたいと思います。読んでみて分かることは、構成が非常にはっきりしている、ということです。
すなわち、大まかに前半の3章と後半の3章に区分されます。1章から3章までは教理的な部分、4章から6章までは実践的な部分です。そして、前半では、神への賛美とともに、特に救いの教理が感動的な文章でつづられています。また後半では、その救いにふさわしい歩みが、様々の角度から、非常に具体的に述べられています。
全体を要約すると、エフェソ書には、2章8節の「恵みにより、信仰によって救われた」ということ、そして10節の「善い業を行なって歩む」ということが、どういうことなのか、が具体的に記されている、と言って良いでしょう。

すでに酒井牧師が、このエフェソ書から3度ほど、特に元日の主日礼拝では、この同じ1章3-14節からメッセージを取り次いでいただいていますが、有名な加藤常昭という説教者が、「この3節から14節というのは、本当は何度も説教をしなければならないところです。・・・あまりにも豊かすぎるのです。」と言っています。
それで、私も、この箇所から、今日のメッセージを取り次ぎたいと思います。

まずエフェソ書の背景的なことを少しだけお話しします。
1章1節によれば、この書は使徒パウロによって書かれたものです。彼は、ユダヤ人でした。そして、受取人(この書でしばしば「あなたがた」と言われている)は「エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たち」――エフェソのクリスチャンたち――です。そのほとんどは「異邦人」(ユダヤ人以外の人々)であったと思われます。
そして、この書で「わたしたち」と言う場合、多くは「異邦人」をも含めたクリスチャンを指していると思われますが、一部、「ユダヤ人」に限定して用いていると思われる箇所もあります。
パウロは、最初は他の多くのユダヤ人と同じように、いや、それ以上に、キリストを信じる者たちを激しく迫害していました。しかし、復活の主イエス様の顕現に触れて回心し、逆に、迫害をものともしないでキリストを伝える伝道者に変えられました。
そして、この手紙を書いた時、パウロは、ユダヤ人の迫害のために捕えられて、獄中(牢屋の中)にいました。
その獄中で書かれた手紙が、なぜこんなにも賛美に満ちているのか、今日はその辺に注目したいと思っています。

1章3節をもう一度お読みします。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」
この前半部は、口語訳聖書(Bible, Colloquial Translation Japanese)ではこう訳されています。
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。・・・」
英語訳でも、“Praise be to the God …”〔NIV、1984年版〕となっています。
この手紙を書いたパウロが、これから書こうとする、「わたしたち」に与えられている「霊的な祝福」のことを思いながら、真っ先に出て来た言葉が、神への賛美の言葉でした。さらに、6節にも、12節、14節にも、神を「たたえる」言葉が出て来ます。
この手紙が書かれた原文であるギリシア語では、語順はかなり自由で、最も強調したい語が文頭にくる、という原則があります。原語で文頭にある「ほむべきかな」を、パウロは強調したいのです。

この時パウロが獄中にあったことを考えると、これは驚きではないでしょうか。
続いて、3節の後半部分には、
「神は」、「わたしたちを」、「キリストにおいて」、「天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」とあります。
そして、実はギリシア語の原文では、「キリストにおいて」が3節の最後(文末)にあります(NIVも同様)。ギリシア語では、二番目に強調したい語が文末にくる、という原則もありますので、「キリストにおいて」が第2の強調点、と言って良いでしょう。

それから、4節から14節までは、「あらゆる霊的な祝福」が具体的に記されています。今日はその中から、3つのことに目を留めながら、少しだけですが、その恵みを味わってみたいと思います。
第1に5節。
「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」
ここから分かることは、わたしたちは「神の子」にされている、ということです。ヨハネも、その第1の手紙(3:2)で「わたしたちは、今既に神の子です・・・」と言っています。
また、ローマ書8章14-17節 (Romans 8:14-17)にはこう記されています。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。・・・」

ここではまず、私たちは「神の子」にされているのですから、奴隷が主人を恐れるように神を恐れる必要のないこと、むしろ、「アッバ、父よ」と――幼い子どもが、「お父さん」、「パパ」と言って、父親の腕に飛び込んでいくように――神様のふところに飛び込んでいける、そういう関係に入れられた、ということが記されています。
また、「神の相続人」だとも言われています。私は、2年半ほど前に、叔母を亡くしました。そして、叔母に子どもがいなかったために、叔母の遺産をいくらか相続しました。本来私の物ではないもの、私が努力して稼いだ物でないものが、「相続人」というだけで与えられたのです。
神は、天地万物を創造し、今も維持し支配しておられるお方です。その「神の相続人」という立場が、どれほど素晴らしいものか、私たちの想像をはるかに超えていると言ってよいでしょう。

次に目を留めたいのは7節です。
「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」
ここには、「贖われ、罪を赦され」た、とあります。贖い、罪の赦しは、私たちの救いの中心あるいは根本と言ってもいい、大切なことです。
またローマ書を引用しますが、6章23節(Romans 6:23)にはこう記されています。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
「死」はアダムとエバの罪の結果として、人間の世界に入ってきました。そして全人類は死ぬべきものになってしまいました。しかし、イエス・キリストの十字架の贖いによって、キリストを信じる者は、罪を赦され、永遠のいのちにあずかる者とされました。
このローマ書で言われている「死」は、その後で、「永遠の命」と対比されていますから、単なる肉体の死ではなく、「永遠の死」を意味しているでしょう。

そして3つ目は、13節です。
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」
「あなたがたも」と、ここでは特に異邦人クリスチャンについて語られています。(ここにおられる皆さんも、私も含めて皆異邦人だと思いますが、)異邦人――それまでイスラエルの神、真の神と関わりがなく、キリストを知らなかった者――も、「真理の言葉、救いをもたらす福音を聞いて信じ」た時、「約束された聖霊で証印を押された」、すなわち、聖霊が与えられた、ということです。
聞いた福音を信じること、それがこの祝福に入れられる条件です。条件はただ一つ、福音を信じることです。

14節によれば、この聖霊は、「わたしたちが御国を受け継ぐための保証」です。わたしたちは皆、やがて、いずれは、この地上の生涯を終えなければなりません。それがいつであるかはだれにも分りません。あるいは、イエス様の再臨の方が先になるかもしれません。いずれにしろ、私たちには、「御国を」――天国を――「受け継ぐ保証」として聖霊が与えられているのです。
さらに、先ほど引用したローマ8:16には、「この霊こそは」、聖霊こそは、「わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださる」と記されています。私たちが、神様に、「天のお父さま」と言って、お祈りできるのも、この聖霊の働きによるのです。
そして、最後にこの3つの箇所で、注目していただきたいことが、もう一つあります。
まず、5節の「イエス・キリストによって」、そして7節の「この御子において、その血によって」、それから13節の「キリストにおいて」です。この3節から14節までの間に「キリスト」を指す語が13回も出て来ます。

私たちに与えられている「あらゆる霊的祝福」のどれ一つをとっても、イエス様と関係なしに与えられるものはありません。
そして、もし私たちが信仰によってキリストにあるなら、イエス様につながっているなら、たとえ周囲の環境がどうであれ、パウロのように、獄中にあってさえも、この「霊的祝福」を自分のものとして、私たちは与えられているのです。
私たちは、目に見える良いもの、あるいは良いこと、試験に合格したとか、病気が癒されたとか、事故から守られたとか、願いが叶ったりだとかがあると、それを恵みだと感じます。それも確かに神様の恵みです。そして、それを感謝することは悪いことではありません。むしろ感謝すべきでしょう。
しかし、クリスチャンになったからと言って、すべてが上手く行くわけではありません。確かに、不思議なように物事が上手く運ぶという経験を私も何度もしました。しかし、一方で、苦しいことも何度も経験しました。私の場合、苦しい経験というのは、たいてい、自分の罪であるとか、あるいは怠慢、高ぶり、愚かさ等が原因であったと思いますが、
しかし、それでは、自分に罪や怠慢もなく、やるべき事を完璧にやっていれば、そのような困難に遭うことはないかというと、決してそうではないように思います。
神様を信じているのに、何でこんなことが起るの? と思えるようなことが、少なからず起ってくるのが、私たちの人生の現実ではないでしょうか。
しかし、困難な状況の中におかれていたとしても、もし私たちが、キリストにつながっているならば、イエス様を信じているならば、ここに記されている「霊的な祝福」は今も私たちのものなのです。
困難・苦難の真っ只中で、パウロのように神を賛美するというのは難しいかもしれませんが、たとえ獄中につながれていても、神を賛美せざるを得ないほどの祝福を、私たちも頂いているのだということを覚えて、私たちも、いつも神を賛美する者でありたいと願います。
私の力では、そしてまた限られた時間では、このエフェソ書に記されている「霊的な祝福」の素晴らしさを十分に語ることはできません。どうか、皆さんそれぞれが、「神の子にされていること」、「罪が赦されていること」、そして「聖霊が与えられていること」などについて、それがどんなに素晴らしいことであるか、じっくり味わってみることをおすすめします。

今日は、1章17-19節(Ephesians)の、パウロの祈りの言葉を,私の祈りとしてメッセージを閉じたいと思います。
お祈りします。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」アーメン。

2023年2月11日土曜日

2023年2月12日 主日礼拝

招詞  ルカによる福音書6章38節
賛美  新生讃美歌81番 父なるわが神
主の祈り
献金
聖書  創世記48章1~7節
祈祷
宣教  「イスラエルは力を奮い起こした」
https://youtu.be/pyeVkEXaW5I
祈祷
賛美  新生讃美歌492番 わが身の望みは
頌栄  新生讃美歌672番


キリスト者、そしてキリスト者の集まりであるキリスト教会が受け継いでいるものーそれは、神の言葉であり神の約束です。
神の言葉と神の約束は聖書の中に書かれた言葉と物語の数々を通して、いまもわたしたちに伝えられています。
神の言葉と神の約束は人を励まし、人に力を与え、そして信仰的・霊的に私たちを成長させます。神の言葉は人を変えます。ですから神の言葉と神の約束は、それを信じて生きる信仰者を通しても表される、と言えます。
わたしたちは自分の信仰成長を自分で測ったり自分で自分の信仰成長を評価したりすることはできない(あるいはすべきでない)かもしれません。

しかしそれでもあえて私自身のことを言えば、イエス・キリストを救い主と信じて生きる決心をして以来、神の導きと恵みによって、わたしの信仰は少しずつ育てられ、成長させられてきたのではないか、と思います。
それは自分自身を頼るよりも神を頼ることを学んだ(今も学んでいる)ということだと思います。そしてそれは、“自分の考えや計画よりも、はるかに大きくそして完全なご計画とお考えが神にはある、と信じることを学ぶ過程”でした。
神は最善の素晴らしいご計画とお考えをお持ちである~そう信じることができれば、たとえ色々なことが自分の願ったとおりに行かないことが多くあるとしても、“神はもっとすばらしいご計画をお持ちなのだ”と信じることができます。
あるいは困難な状況の中にあっても、「神はこの状況の中で、きっと私に何かを学ばせよう、わたし自身の弱さや罪をわたしに気づかせて、わたしを成長させようとしてくださっているのだ」と信じることができます。
ですから、以前よりも(若いときよりも)、なかなか自分の思い通りに行かないことがあっても、“わたしの思いや考えよりも、より良いご計画が神におありなのだろう”と思えるようになった、と思います。

わたしが会社に勤めていたころ、わたしは一社員として仕事をしていました。組織の一員として働く中で私は時々、組織の上に立つ人、グループのリーダーや社長のような立場にある人が、大きな観点から下す判断に驚くことがありました。
それらは、一社員の私ではできない(少なくとも私にはできかなった)発想や決断でした。「自分の考えは小さくて、狭いな」と思わされることが、何度かありました。
しかし、どんなに優れた上司やリーダーであっても、人間である以上完璧ではありません。人間は必ず間違いを犯します。
しかし私たちは、今日の聖書の箇所の中でヤコブが言っている言葉で言えば、“全能の神”=すべてを御存じであり全てを善きことへと変えてくださるお方に守り、導かれているのです。
ですから私たちは、自分自身よりもはるかに大きな、主なる神の御計画と御心を信じて生きることができる~そんな幸いを与えられているのです。

今日の聖書箇所のヤコブという人も、神によって(信仰によって)大きく変えられた人であり信仰を成長させられた人であったと思います。
老齢になったヤコブがいよいよ永遠の眠り、死に赴こうとしています。だれかが息子のヨセフに「お父上がご病気です」と伝えました。その言葉の意味は、ヤコブの健康状態が非常によくないということでした。
“ヨセフがやってきた”と聞くとヤコブ(神から与えられた別名がイスラエル)は“力を奮い起こして”寝台の上に座った、と今日の2節に書かれています。
ヤコブは高齢で死の間際にありましたら、身を起こして座るということも体力的、身体的に大変な動作だったのしょう。しかしヤコブは、渾身の力を振り絞って、身を起こしました。
わたしは、この“イスラエル(ヤコブ)は力を奮い起こした”という今日の箇所の表現を、今日のメッセージの題にいたしました。それぐらい、ヤコブのその振る舞いがわたしには印象的だったのです。
ヤコブが力を奮い起こして、渾身の力を込めて起き上がったのは何のためだったのでしょうか。それは、“神の祝福を息子ヨセフに(一緒にいた孫のマナセとエフライムにも)与えたい”というヤコブの願いでした。

ヤコブはかつて、兄のエサウから“長子の特権”をエサウが好きな食べものと引き換えに得たり、父イサクからの“祝福”(それは本来エサウがもらうべきだった)を、イサクを騙して(自分がエサウの振りをして)奪ったりしました。
それは“欲しいものは何としてでも手に入れる”という態度であり生き方であったと言えるでしょう。“勝てば官軍”という言葉がありますが、若い時のヤコブの生き方はまさにそのような生き方でした。
しかし今や彼は、死の間際になって、渾身の力を振り絞ってでも、“人に祝福を分けあたえたい”と願い、実際にそのように行動する者へと変えられているのです。
そのようにヤコブが変えられたの、神の導きであり賜物でした。ヤコブは色々な経験を通して、欲しいものを人から取る、のではなく良いものを人に与える者へと変えられたのです。

イエス様は、ルカ福音書6章38節で次のように言われました。

与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

ヤコブは旧約聖書に描かれる時代の人ですが、「受けるよりも与えるほうが幸い」という生き方を、神の恵みの信仰によって、実践できる人へと変えられたと言ってよいと思います。
ヤコブが力を奮い起こして、息子ヨセフに伝えた言葉を、聞いてみましょう。3~4節です。
3ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて、わたしを祝福してくださったとき、
4こう言われた。『あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし/あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に/永遠の所有地として与えよう。』

ヤコブがここで“全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて”と言っているのは、かつてヤコブが兄エサウの敵意(殺意)を逃れて、生まれ故郷を旅立った時のことでした。
創世記28章の中の箇所で、主がヤコブの夢の中に現れました。以前にもわたしは何回か引用したと思いますが、創世記28章13~15節をお読みします。
 
13見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
15見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

ヤコブはそれから、この時の主の約束の言葉が確かに真実であることを、信仰の経験を通して学んだのだと思います。
「神はわたしがどこに行っても、わたしと共にいてくださった」、「わたしが望む以上のことを、わたしにあたえてくれた」と彼は信じることができるようになったのです。
自分自身が引き起こしたと言ってもよい兄エサウとの不和のために、ヤコブは生まれ故郷を離れなくてはならなくなりました。しかし、神の恵みによって、約20年という時間がかかりましたが、ヤコブは兄エサウと和解することができました。
そして“もう死んでいなくなった”と思っていた息子のヨセフともヤコブは会うことができたのです。

今日の箇所より少し後にヤコブはこう言っています。
「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった。」(11節)

神は私たちが望む以上のこと、最善を私たちに与えて下さるお方なのです。それが聖書が伝える神の言葉であり、神の約束です。
“全能の神”とはどういう意味でしょうか。聖書の神、イエス・キリストの神は何でもできるお方であり、神にできないことはありません。しかし、それはわたしたちが望んだ通りのことをすべてそのまま神がいつも叶えて下さる、という意味ではありません。
なぜなら、最初に申し上げた通り、神はわたしたちの思いや考えをはるかに超える、大きなご計画の中で私たちを最善へと導いてくださるお方であるからです。
神は、時には試練や悲しみを通しても、わたしたちを強くさせ、成長させてくださるからです。生きる上では辛いこともあります。愛する人や家族とのこの世での別れのように、胸が張り裂けるような辛い経験も私たちはします。
ヤコブも、今日の箇所の中で、最愛の妻ラケルに先立たれた時のことを述べています。ひょっとしたらその時(ラケルを亡くした時)には、ヤコブの神への信仰も揺らいだかもしれません。

しかし、神はヤコブを恵み続け、ヤコブを放すことがありませんでした。そのようにわたしたちもいつも神の御手に守られ、“神はわたしたちに最善を与えてくださる”と信じることができるのです。
そのような信仰こそがわたしたちを本当の意味で、真の意味で生かすのであり、そのような生き方こそが、神と共に歩む幸福な生き方です。
聖書を通して私たちに伝えられる神の言葉と約束を私たちは信じ、分ち合い、そして同じ信仰に生きる信仰者同士の励まし合いと支え合い、祈り合う交わりの中で、信仰生活をこれかも送っていきましょう。
そしてわたしたちも、イエス・キリストの福音を他者に証しし伝える機会が与えられたときにはいつでも、“力を奮い起こして”福音を語る者になりたいと願います。
イエス・キリストの福音こそが、すべての人を励まし生かし、そして真の命と真理へと私たちを導くのです。ですから、福音に生きて福音を語り伝えることを、私たちも何よりの喜びとしようではありませんか。

2023年2月4日土曜日

2023年2月5日 主日礼拝

招詞 詩編71篇20節
賛美 新生讃美歌 94番 われらは主の民
祈りの時
主の祈り
献金祈祷
聖書  ルカによる福音書1章39節~56節
祈祷
宣教  「力ある方がわたしに偉大なことをなさいました」
https://youtu.be/8okezvTQNMs
祈祷
賛美 新生讃美歌 455番 われに来よと主はいま
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷


 聖書の中に書かれている数々の物語には色々な人物たちが登場します。旧約聖書から新約聖書を通して、様々な性格や特徴をもった人物たちについての物語が私たちに伝えられています。
 旧約聖書で言えば、神に最初に造られた人間であるアダムとエバがいます。アダムとエバの二人の息子であるカインとアベルもいます。カインは弟のアベルを、怒りのあまり殺してしまうという衝撃的な物語が創世記で語られています。
  それは、人間の怒りや嫉妬と言う感情が、どれほど悲劇的で恐ろしい結果を招き得るのかを描いていると私は思います。
 箱舟を造って自分と家族、他の多くの動物を大洪水から救ったノアもいます。
イスラエルの王国の偉大な王であったダビデ王もいます。しかしそのダビデ王も、大きな失敗をしたことが聖書には記されています。
 人間は誰でも失敗を犯す、また罪を犯す罪人である~それが聖書が伝える真実の一つです。
新約聖書では、イエス様の一番弟子となったペトロ(もとの名はシモン)や、またイエス様のその他の直弟子たち=12弟子たちなども、それぞれ特徴的な性格を持った人物として描かれています。
12弟子のうちの一人のイスカリオテのユダは、銀貨30枚と引き換えにイエス様を祭司長たち(ユダヤの宗教指導者たち)に引き渡して、イエス様を裏切ってしまう、というこれもまた衝撃的な事実が、福音書の中で伝えられています。
最初はイエス・キリストを信じるクリスチャンたちを激しく迫害していたパウロは、復活のイエス・キリストに出会い、キリストを異邦人(ユダヤ人以外の人たち)たちへも伝える大伝道者となりました。

その他いろいろな人物が聖書には登場します。では、そのように色々な人物が登場する聖書の“主人公(中心人物)”は誰なのでしょうか?数多くの人物が登場する様々な話が含まれているので、聖書には主人公と言える人はいない、と言うべきなのでしょうか。
そうではありません。聖書には明確な主人公がいます。旧約聖書から新約聖書を通して、聖書の主人公はイエス・キリストです。聖書はその全体を通してイエス・キリストをわたしたちに伝える本なのです。

ヨハネの福音書5章39節で、イエス様自身が、次のように言っています。
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。

旧約聖書にはイエス様ご自身は登場しません。しかし旧約聖書もその全体を通して、“やがて救い主として世に来られるイエス・キリスト”を指し示し、証ししています。イエス様ご自身がそう言っています。
ですから、新旧約聖書には色々な話、記録、または神から私たちへ向けられた教えなどが書かれていますが、それら全体はイエス・キリストについて証をするもの~クリスチャンはそう信じて、聖書の御言葉を読みます。
聖書はその全体を通して私たちにイエス・キリストについて教えてくれる本なのです。聖書の御言葉を通して、神が霊的に今もわたしたちに向かって語ってくださるのです。
そのように今も私たちに語ってくださる神なるイエス・キリストの御言葉を、わたしたちは他の信仰者と分かち合います。なぜなら、キリストの信仰者にとって、御言葉の分かち合いは大きな喜びだからです。
今日の箇所に登場するマリア、そしてエリサベトの二人の女性たち(彼女たちは親類同士であったと書かれています)も、主なる神からの知らせを分かち合うことによって大きな喜びに包まれました。そんな様子が、今日の箇所に描かれていると私は思います。

今日の箇所は、マリアが天使ガブリエルによって「あなたは偉大な王になる子を産む。その子は偉大になり、イエスラエル全体を治める者になる」と言うお告げを告げられた後、親類のエリサベトに会いに出かける場面です。
マリアは、天使から「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子をみごもっている。」とも、告げられていました(1章36節)

今日の朗読箇所の始め、39~40節はこのように言います。
39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
 聖書の記述は、何げない一文の中に、結構大変な事実が隠されていることがあります。39節は、まさにそのような一文です。
39節をただ何げなく読むだけでは、マリアは、すぐ近くに住んでいたエリサベト(夫ザカリアの家)に会いに行った、というように読めてしまいます。
しかし、マリアが住んでいたのはガリラヤのナザレという町です。今日の前の箇所で、天使ガブリエルがマリアに現れ、マリアがキリストを生むと告げたのも、そのナザレの町でした。
ガリラヤのナザレから、エリサベトと夫のザカリアが住んでいた「ユダの山地」(ユダの地域のどのあたりなのか、はっきりとは分かりませんが)までは南へ120~160キロぐらいはありました。

 ですから、マリアはちょっと簡単に出かけてエリサベトに会いに行った、ということではないのです。
 それは少なくとも数日はかかる大変な旅だったはずです。当時の旅には今とは比べものにならないほどの色々な危険(強盗に襲われたり、獣に襲われたり)が伴いました。
マリアは女性で妊娠もしていました。マリアはできるだけ安全に旅行するために、今で言えば“団体旅行”の一団の一人としてユダまで行ったのであろう、と言う推測もあります。
 しかしマリアは、そのように長く危険な旅をしてでもエリサベトに会いたかったのです。それは彼女たち二人が、主が彼女たちにしてくださった恵みの御業について分かち合うためでした。
 マリアは聖霊によって身ごもりました。マリアの子はイエス・キリストとして、やがて救い主になるお人でした。そして親類のエリサベトは年老いていたのに身ごもりました。
エリサベトの子は、やがて“洗礼者(バプテスマ)のヨハネ”として、イエス・キリストの伝道活動の道を準備することになる人でした。

神の恵みを分かち合うということ、そして神の恵みを人に伝えるということは、100数十キロの危険な旅をしてでも、する価値のあることなのです。どうしてもそうしたいと、信仰者であるならば、心から願うことであったのです。
 歴史上多くの宣教師たちが、出身地を離れて遠いところまで、海を越えた外国にまでキリストの福音をつたえる働きを、多くの危険をおして、してきました。
  今私たちが聖書を手にすることができ、キリストへの信仰を持つことができるのも、そのような宣教者たちの働きのおかげであると言えます。
神によって福音伝道の熱意と願いを与えられた多くの宣教師たちの働きによって、今世界中に福音が伝えられています。
 私たちも、たとえ海外ではなくとも、または100数十キロの距離でなくても、身近な地域へ、日々出会う人々へキリストの福音とキリストの光を伝える器として用いられたいと願います。
 エリサベトはマリアの挨拶の言葉を聞いて、胎内のこどもも一緒に踊って喜んだと、41節に書かれています。神の偉大な御業の知らせが、人にどれほど大きな喜びをもたらすものであるかが、そこでは描かれています。

そしてエリサベトが45節で次のように言っています。

45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
エリサベトはマリアに「あなたは幸せだ。祝福されている」というのです。なぜでしょうか?それはマリアが、”主がおっしゃった(約束した)こと”を信じたからです。
主なる神のおっしゃったこと、神の御言葉と約束を信じることができる~それが私たちにとっての幸せなのです。
そう考えると、牧師である私は本当に幸せな仕事をしているなと思わされます。聖書を読み、聖書の言葉が真実であると信じることができるからです。
そしてさらに、“この御言葉は真実なのです。わたしたち一緒にそのことを喜ぶべきなのです”ということを公けに語る(宣教する)ことが許されているからです。
教会の皆さんが牧師である私にその務めを託してくださっている、その恵みと喜びを私は改めて覚えて、感謝をしたいと思わされました。
 そしてもちろん牧師でなくても、神の言葉を信じ、神の言葉を他者と分かち合い人に伝えることは、すべてのキリスト者に託されていることです。わたしたちは大きな喜びをもって、福音をつたえる者になりたいと願います。

46節からは「マリアの賛歌」(神を讃える歌)と言われる、マリアによる神への賛美の言葉が書かれています。
 48節から49節までお読みします。
48身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
49力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。

「こんな小さなわたしに、主は目を留めてくださった(心にかけてくださった)」とマリアは言うのです。「力あるお方である主が、わたしに偉大なことをなさった」~そのことがものすごく幸せだと言って、マリアは心の底から神を讃えるのです。
「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」というマリアの言葉は、この時マリア(とエリサベト)に起きた出来事は、”それはマリアだけのことではなく、すべての人にも与えられる神の約束であり神の恵みなのだ”ということを表しています。
神の恵みの業、神の言葉は永遠だ、とマリアはここで宣言し、わたしたち全ての者に向かって神の約束をここで告げているのです。
ですからわたしたちは、マリアに偉大なことをなさった神の御業、その約束は今の私たちにも与えられている、と信じることができるのです。
「こんな小さなわたしに、主なる神は目を留めてくださり、偉大なことをなさった」ということを、私たちも信じ心から喜ぼうではありませんか。
主なる神が御子イエス・キリストを通して、この私たちひとり一人をどれほど大切に思ってくださり、愛してくださっているのか~そのことを私たちに伝える聖書の御言葉を、私たちはこれからも分かち合い、神の恵みに共に預かっていきたいと願います。