2023年3月18日土曜日

2023年3月19日 主日礼拝

招詞 ヨエル書2章27節
賛美 新生讃美歌 227番 カルバリの丘へと
主の祈り
献金
聖書 ルカによる福音書1章67~80節
祈祷
宣教  「われらの神の憐みの心」
https://youtu.be/dE2q27l4a0g
祈祷
賛美 新生讃美歌554番 イエスに導かれ
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷


 今日の聖書の箇所は、後に「バプテスマのヨハネ」と呼ばれ、イエス・キリストの福音宣教活動の道を前もって備える働きをしたヨハネの父である、ザカリアの言葉です。
 この箇所の小見出しとして、日本語聖書には「ザカリアの預言」(預言:神様の言葉を預かり、人に伝えること)と書かれており、英語聖書には「ザカリアの歌Zechariah’s song」と書かれています。
  ザカリアと彼の妻エリサベトは、年老いた身でありながら、神の御計画と導きにより子が与えられました。
そして、こどもは父親か親戚の中の誰かと同じ名前が付けられるとう当時の習慣に反し、主の御使いがザカリアに告げていた通り、エリサベトとザカリアはその子を「ヨハネ」(神は憐み深い、という意味)と名付けました。

ザカリアは今日の箇所で“聖霊に満たされ”、神がなさった大きな御業、神がこれからなそうとしてくださっている大きな御業について、神をほめたたえます。
聖霊というのは神の霊です。神の霊に人が満たされる時、人は真の神をほめたたえ、神の御業に感謝と喜びの賛美を歌うようになる、ということが今日の箇所から分かります。
聖霊に満たされると、人は神の偉大な御業と神が確かにおられることを確信するのです。聖霊の満たしとは、ただの感情の高まりとか、気分が高揚するということではありません。
聖霊に満たされる時には、感情が高まったり気分が高揚したりすることもあるかもしれません。しかし大切なことは、主なる神が確かにおられることを確認し、その確信(信仰)から、感謝と賛美があふれ出ることです。

ザカリアが神を賛美した今日の聖書箇所の言葉から、わたしたちも共に、世界の創造主であり、そして救い主である、主なる神をほめたたえてまいりたいと願います。
68節でザカリアは次のように言っています。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し」

ザカリアがここでほめたたえ、そして今私たちも褒めたたえているお方は、イスラエルの神である主です。イスラエルの神である主が、聖書が伝える真の神です。
「イスラエルの神」というと、イスラエル以外の国の人たちには関係のない神、というように聞こえるかもしれません。
しかし、もちろんそうではありません。世界の造り主である神はイスラエルという国とその民を選び、彼らを通してご自身を現わされたのです。
神がイスラエルの民たちにご自身を現わされ、彼らの歴史にどのように関わってくださったのか、ということが旧約聖書の主な内容です。
そして神がイスラエルの民と関わったその物語は、信仰の物語と言葉として、今の私たちにも神のメッセージを伝え、語りかけるのです。
神はイスラエルの民たちに最初ご自身を現わされましたが、聖書の神はもちろん、イスラエル以外の民や国も含むすべての者の神です。

そして、イスラエルの神は、“その民を訪れて解放してくださった”神です。聖書の神は、歴史的に言えば、400年間エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルの民を救い出しました。出エジプトの出来事です。
 旧約聖書の『創世記』の終わりから『出エジプト記』にかけて詳しく記されていますが、イスラエルの民たちは約400年間、エジプトで奴隷生活を送っていました。
 彼らはその奴隷状態から救われることをずっと願っていました。やがて主はモーセという人を選び、彼を指導者、預言者として用いて、エジプトからイスラエルの民たちを救い出されました。
 主なる神がイスラエルの民をエジプトから救い出したのは、主の憐みによるものでした。主がモーセに初めて現れた時、主なる神はモーセにこう言っています。
 「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。
それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた」
(出エジプト3章7~9節)

 神はエジプトで苦しむイスラエルの民を見ておられたのです。叫ぶ彼らの声を聞いておられたのです。そしてその痛みを知っていた、というのです。
 それが聖書の伝える神の姿です。聖書の伝える神は、わたしたちの苦しみを見ておられ、わたしたちの叫びを聞いて下さり、そしてわたしたちの痛みを知っていてくださる神なのです。
 そして神は自らその民を訪れて、彼らを解放してくださるのです。エジプトでの奴隷生活400年間とは、それはあまりに長い期間ではないでしょうか。神はなぜもっと早くイスラエルの民を解放されなかったのでしょうか。
 400年の間、その途中では、神はイスラエルの民たちの苦しみから目を背けておられたのでしょうか?神は彼らを無視しておられたのでしょうか。けっしてそうではありません。

「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」ということは、神は400年間ずっと、イスラエルの民の苦しみをご自分の痛みのようにして知り、イスラエルの民と共におられた、ということです。
神は今もわたしたちと共にいてくださる神です。ですから私たちが今苦しむ時、悲しみ痛む時にも、「神はわたしを見て下さっている、わたしの叫びを聞いてくださっている、そしてわたしの痛みを知っていてくださっている」と、わたしたちは信じてよいのです。
そしてもしそれが主なる神の御計画であり御心であるならば、最善の時に最善の方法で、神はわたしたちを、その苦しみの状況から救い出して下さる、という希望をわたしたちは持つことができるのです。

コロナ危機が始まって3年以上が経ちました。こんなに長くこのような状況が続くとは、3年前わたしは全く想像ができませんでした。まだそれは終わってはいませんが、ようやく色々な状況が変わろうとしているように見えます。
コロナ危機を通して、わたしは本当に多くのことを学ぶことができましたし、今も学ばせていただいている、と思っています。わたしだけのことではありません、わたしたちは教会としても色々な事を、今学んでいると思います。
この間、わたしたちはどれほど祈ったでしょうか。「神は祈るわたしたちの声を聞いてくださる」という確信をもって、どれほど祈ることができたでしょうか。自分だけでなく、どれほど他者のためにも祈ることができたでしょうか?
もし「わたしはそれほど祈ることができなかった」と思う方がおられましたら、ぜひ今からでも祈ってください。お一人でも祈り、また教会の礼拝で、祈祷会で、共に祈ってください。
そしてわたしたちはどれほどお互いの(他者の)意見や思いに耳を傾け、相手の立場に立とうと努力することができたでしょうか。そのような姿勢と努力はわたしたちにはこれからも常に求められます。
互いの立場を思いやって祈り合って、わたしたちにとって最善の(神がそのようにご用意してくださっている)道を、共に探し出していこうではありませんか。

 そして、今日の箇所でザカリアがたたえている主なる神は、わたしたちの恐れをとりのぞいてくださる神です。
 73節後半から75節に次のように書かれています。
  こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。
ここで「恐れなく主に仕える」と言われているのは、わたしたちの罪が赦され、わたしたちを縛る罪の力から解放される、ということを意味します。
わたしたちには罪があるので、そのままの状態では神に近づくことはできないのです。しかし、わたしたちのその罪を赦してくださるお方、全く罪を持たない神の子がわたしたちの世界に来て下さり私たちの罪を背負ってくださいました。
今日のザカリアの歌は、その罪の赦しの出来事がイエス・キリストによって実現する、ということを伝えています。
ここには、イエス・キリストという言葉は直接でてきませんが、77節に書かれている「罪の赦しによる救い」とは、やがて与えられるイエス・キリストによるわたしたちの罪の赦しのことを指しています。

 イエス・キリストにより罪を赦されたわたしたちは、イエス様を通して主なる神のもとへ行けるようになったのです。イエス・キリストが私たちにとっての、神へと至る道となってくださったからです。
 わたしたちは、主なる神がエジプトで苦しむイスラエルの民の痛みを確かに知っていてくださったことを、十字架の上のイエス・キリストのお姿を通しても知ることができると、わたしは信じます。
  十字架の上のイエス・キリストを見上げる時、わたしたちはそこで苦しんでおられるイエス様のお姿を見ます。その苦しみは誰のためか?わたしたちのためです。

そのイエス様は、わたしたちの神が今もわたしたちの苦しみと痛みを知っていてくださっており、わたしたちの苦しみと痛みを共に担ってくださっている、ということをわたしたちに伝えるお姿です。
 聖書がわたしたちに伝える信仰の歴史は、痛み苦しむ民の叫びを、憐み深い主なる神が聞いてくださっていたという歴史です。
  聖書がわたしたちに伝える信仰の歴史は、神は苦しむご自分の民を決して放っておかれることなく、ご自身も共に苦しみ、痛んでおられたという歴史です。
 そして聖書がわたしたちに伝える信仰の歴史は、神は苦しむご自分の民の罪を赦し救ってくださり、罪赦された民が希望と力を頂いて新たに歩み出して生きた、という歴史です。
 そのような神による救いの歴史、信仰の歴史の続きに、今わたしたちは生かされています。ですから私たちは、神に常に守られていることを確信して、信仰の希望をもって日々を生きていきたいと願います。
 そしてイエス・キリストによる罪の赦しによる救いが確かにあることを、わたしたち自身も宣べ伝えていこうではありませんか。
キリスト者は罪の赦しによる救いに生き、それを喜び、そしてその喜びを他者に伝えるという特権をも与えられた者であるからです。