2023年9月30日土曜日

2023年10月1日 主日礼拝

招詞 イザヤ書61章1節
賛美 新生讃美歌 513番 長き道 山や谷
祈りの時
主の祈り
献金
聖句 ルカによる福音書4章16~30節
祈祷
宣教  「貧しい人に福音を知らせるために」
https://youtu.be/9GOSrku-0Nk
祈祷
賛美 新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷


 今日は新約聖書の『ルカによる福音書』の中から、神のメッセージを私たちは共に聞いてまいります。
 福音書の中には、イエス・キリストが人としてお生まれになって、この地上でなさった色々な業(奇跡の行いなど)、そしてイエス様が人々に伝えた言葉や教えが記録されています。
 マタイ福音書とルカ福音書にはイエス様の誕生の記録が記されています。しかし、イエス様の幼少時代については、どの福音書もほとんど記していません。
 福音書の中でイエス様の幼少時代について伝えている箇所は、ルカ福音書2章の最後に描かれている、イエス様が12歳の時に過越しの祭りで家族と一緒に、故郷のナザレからエルサレムは旅をした時の話が唯一のものです。
 エルサレムからの帰り道、息子のイエス様が自分たちの中にいないことに気づいたヨセフとマリアはエルサレムに引き返して行きました。そこで神殿の中で学者たちの真ん中に座り、話しをしたり質問をしたりしているイエス様を見つけた、という話です。

 今日の箇所は、イエス様が30歳ぐらいになり、公の宣教活動(神の国を人々に伝える活動)を始めた後の話です。
 しかし、今日の箇所の最初の一節(4章16節)に、イエス様が子どものころからどのようにお育ちになったのかが、少し伺える内容が含まれています。

16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
 イエス様は各地の会堂で教え、すでにその評判は広まり、各地で人々から尊敬を受けるようになっていました(4章14~15節)。そして今日の箇所でイエス様は自分がお育ちになったナザレの町に戻ってきます。
そこでイエス様は「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」と書かれています。
「いつものとおり」as was his customとは、毎週の安息日(ユダヤ教の安息日は土曜日)に、会堂で礼拝することがイエス様の習慣になっていたということです。
 なぜ礼拝に出席することがイエス様の習慣になっていたのか。それは、イエス様が、ヨセフとマリアに育てられる間に、毎年一回過越祭にはエルサレムの神殿へ旅をしていたように、おそらく毎週の安息日の会堂の礼拝へも、ヨセフとマリアに連れられてイエス様は出席していたのだと思われます。
 つまり、安息日を大切にし、その日には神を礼拝するということが、幼少時からの信仰習慣としてイエス様に教えられ、そのことが身についていたということです。

 神の子であるイエス様も、幼い頃から家庭で、そして定期的な礼拝(集会)出席を通して神の教えを学ばれたのです。
 そうであるのならば、私たち今のキリスト者としても、毎週の礼拝、その他教会の集会がいかに大切であるかが分かります。
私たちは礼拝で、聖書の言葉(神の言葉)を共に聞き、分ち合います。今わたしたちが聞くべき神の言葉を私たちは共に聞くのです(そうすることができるのです)。
「今日神様は私にどんな御言葉を語ってくださるか」と期待をしながら、私たちも礼拝に参加しようではありませんか。そして礼拝出席を誠実かつ、喜びを伴なった信仰習慣としていきたいと私たちは願います。
 イエス様は今日の箇所で安息日に会堂に入られ、そして聖書を朗読しようとしてお立ちになりました。イエス様は、“聖書の言葉、すなわち神の言葉を聞き、それを分かち合う”ことを率先して行っておられます。

 イエス様の時代の普通の人々は、今のような形態の本などはありませんから、聖書の言葉を聞こうと思えば、会堂に来てそこで朗読される聖書の言葉を聞くしか方法がなかったでしょう。
 今の私たちは自分の聖書を各自が持っていますし、聖書だけでなく、色々な教会の宣教(メッセージ)も、インターネットを通じて読むこと(聞くこと)もできます。
 聖書の御言葉と聖書に基づいた宣教を聞くということであれば、もはや教会に来なくても可能です。それでも、私たちは教会に集まることを大切にします。
 コロナ・ウィルス感染症の拡大で、私たちは教会にみんなで集まるということについて、それまでなかったほどに考えさせられました(今も考えさせられている、とわたしは思います)。
しかし、やはり私たちが同じ時に、聖書の言葉を皆で一緒に聞くことができる(分かち合うことができる)というのは、私たちにとって大きな喜びであり、恵みです。

 私が若いころに、ラジオを聞いている時に(今の若い方は、ラジオを聞くことはあるのでしょうか?)、自分が好きな音楽や自分が好きな曲がラジオから流れて来ると、とても嬉しい感じがしました。
 好きな曲はいつもCDで聞いているにも関わらず(今の若い方はCDで音楽は聞かないのですよね?)、それがラジオという公共の放送で流されると、とても嬉しい気持ちがしました。
 ある時私は「ラジオから自分が好きな曲が流れて来るとなぜ嬉しいのだろうか?」と、その理由を考えてみました。
自分で思いついたその理由は「自分が好きな曲を、自分は知らない(遠くにいる)とても多くの人たちが、今この同じ瞬間に一緒に聞いている」という事実が嬉しく感じられるのだ、と思いました。
 好きな曲を通して、見ず知らずの大勢の人と自分が繋がっているような、一つの連帯感のような感覚が私にとって嬉しかったのだと思います。
 好きな音楽でもそのように嬉しいのですから、まして神の言葉を私たちが他の人たちと一緒に(同じ時に)聴くことができるとは、何と幸いなことでしょうか。

 今神がこの私だけでなく、私以外の人々に向けても同時に語ってくださっていると信じることができるならば、それは本当に大きな信仰の喜びなのです。
そのようにして神の言葉が聞かれ、分ち合われる教会、そのことを喜ぶ私たちはありたいと願います。

 イエス様に、イザヤ書の巻物が渡され、イエス様は以下の御言葉をお読みになりました。18~19節をお読みします。

18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
19主の恵みの年を告げるためである。」

 これはイザヤ書に書かれている神の恵みの言葉です。神の慰めの言葉です。「貧しい人に福音が告げられる」、「捕らわれている人は解放される」、「目の見えない人は見えるようになる」、「圧迫されている人は自由になる」という約束の言葉です。
 20節に、イエス様が巻物を係の人に返して、自分の席に戻って座ると、会堂にいるすべての人の目がイエス様に注がれた、と書かれています。
 当時は会堂の礼拝に参加した人の中の誰かが聖書を読み、そしてそこから奨励のメッセージをすることが習慣だったようです。
会堂の人々は「さあ、今の箇所からあなたは何を教えてくれるのか」と期待をして、イエス様が何かお話しになるのを待っていたのでしょう。
 そこでイエス様は驚くべきことをおっしゃいました。21節に、イエス様が次のように言ったと書かれています。

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
 イエス様は、「今読んだ聖書の箇所(イザヤ書の言葉)の意味はこういうことです。こういうことを私たちに教えているのです」というのではなく、「この聖書の言葉、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」=「わたしがこの聖書の言葉を実現する者だ」と言ったのです。
 イエス・キリストは、聖書の御言葉を私たちに解説してくれる先生ではないのです。何か人生を生きるのに役に立つ方法(私たちにとって得な話)を教えてくれるお方でもありません。
 そういう側面がイエス様に全くないわけではありませんが、私たちは何よりもイエス・キリストご自身が、聖書の御言葉(神の御心)の成就だ、という今日の箇所の中心メッセージに向きあわなくてはなりません。
 皆さんはそのことが本当に信じられますか?「イエス様の言っていることが素晴らしい」、「イエス様の教えはとても役に立つし、感動的だ」ではなくて、それ以上にイエス・キリストご自身が神であり、神の言葉である聖書の成就をだということを、私たちは信じているでしょうか。

 イエスは主 Jesus is Lordと、私たちは本当に信じることができますか?と今日私たちは問われているのです。イエス様を主として、イエス様に従って生きていく覚悟(そしてその希望)がありますか、と私たちは問われています。
 今日の箇所で、会堂でイエス様のお話を聞いた人たちは、その話があまりに恵み深いのでみんな驚いて感動した、と書かれています。(22節)。
 「この人の言っていることは素晴らしい」と誰もが思ったのです。しかし、同時に人々はこうも思いました。「この人はヨセフの子ではないか」。
 イエス様はその時、自分がお育ちになったナザレの会堂にいました。ですからその会堂にいた人たちも、イエス様のことを小さなころから知っていた人も多かったでしょう。
 しかしその小さいころから知っていた人の口から出る言葉は、神の恵みの言葉でした。神の言葉こそが人を慰め、人に神の恵みを確信させる力があるのです。
 しかし、中にはどうしても疑う人がいました。神の言葉が語られているのに、そのお方を蔑もうとする人がいたのです。
その人たちはこう言いました。「この人はヨセフの子ではないか」。つまり“わたしたちはこの人の父親ヨセフも知っている。この人は大工の子だ。そんな人から(ただの人間から)恵み深い神の言葉が出て来るはずがない”と彼らは思ったのです。

 わたしたちも、たとえどれほど恵み深い聖書の御言葉、力強い神の御言葉を聞いても、それを私たち自身の頑なさや傲慢さ、あるいは怠惰な性質が、そのような神の言葉を聞くことを邪魔し、拒んでしまうということがあり得ます。
 それでも神は人となられ、イエス・キリストとして恵みの言葉、福音をわたしたち貧しい者に伝えてくださいました。
 わたしたちが、その罪の性質のために、神の恵みをあまりにしばしば拒んでしまうことがあり得ることを十分にご存知でありながら、なお神はイエス様を御子としてこの世に送ってくださいました。
 神は今この時も変わらずに御言葉を語り続けてくださっています。私たちが御子イエス・キリストの名によって集まるこの集会は神によって聖別(取り分けられた、神によって呼ばれた)特別な集まりであるからです。
 今も変わらぬ御言葉の恵みに与ることのできる幸い、共に御言葉を聞き分かち合うことができることを私たちは喜び、福音(良き知らせ)によって今週の日々も私たちは生きていきたいと願います。

2023年9月23日土曜日

2023年9月24日 主日礼拝

招詞  詩編116篇8節
賛美  新生讃美歌1番 聖なる 聖なる 聖なるかな
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句 コリントの信徒への手紙二 1章1~2節
祈祷
宣教  「神の教会、わたしの教会」
https://youtu.be/apZM7bZB8DA
祈祷
賛美  新生讃美歌639番 主の恵みに生きる
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷

今日からまた、一ヶ月に一回ぐらいの割合になりますが、『コリントの信徒への手紙二』の御言葉から、礼拝の中で私たちは神のメッセージを聞いてまいります。
 イエス・キリストの福音(神の良き知らせ)を、ユダヤを越えて広く地中海世界へと知らせた伝道者パウロが、ギリシアのコリントという都市の信者たちに宛てて書いたこの手紙の中には、神からのメッセージが込められています。
 パウロは、手紙の慣例に倣って、挨拶の言葉からこの手紙を書き始めています。

1節をもう一度お読みします。
1神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。

 「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」~パウロは自分のことをこのように言っています。
 使徒(an apostle)とはどんな人かについて、新共同訳聖書巻末の「用語解説」は次のように説明しています。
「イエスが弟子の中からお選びになった『十二人』。イエスの復活の後は、教会の最高の職位として宣教の責任を持つ者を意味した」
パウロは、イエス様が生きておられた時には、イエス様に直接会ったことはない人でした。復活のイエス・キリストがパウロに現れてくださって、パウロは生き方を劇的に変えられたのです。

 それまではキリスト教徒を激しく迫害していたパウロが、それからは自分の命をかけてイエス・キリストを人々に宣べ伝える「使徒」となったのです。
 パウロは「神の御心によって私は使徒とされた」と言います。「神の御心 the will of God」と訳されている元のギリシア語の言葉は、「神の願い(神が望まれたこと)」という意味にもなります。
 そうであれば、パウロは自分のことを、「神がこの私をイエス・キリストの使徒となるように望んでくださった」と思っていたということになります。
 「神がこのわたしを選び、イエス・キリストの福音を伝える使徒としてくださった」という思い(その事実)が、パウロを支えていたのです。
 「神がそう望んでくださった」という思いが、苦しい伝道活動の中でも、パウロに力と希望を与え続けたのです。

 「神が私を選んでイエス・キリストの使徒、また教会の責任者にした」という確信は「だから、人々は神に選ばれたこの私の言うことを何でも神の言葉として聞くべきだ」という思いにはなりません。
 信仰の群れの指導者がそのように思い始めたら、それはカルト化の始まりです。「神によって選ばれた」という思いは、むしろそう信じる者を一層謙虚にするはずです。
 「神がこのわたしを選んでくださった」という信仰は、教会の指導者だけでなく、そう信じるキリスト者全員を神の前に、そして人にたいしても謙虚にするはずです。
 信仰が深まり成熟し、イエス様の御愛を知れば知る程、わたしたちは「いかに分不相応な測り知れない恵みを頂いているのか」ということを知らされるのです。
「神の御心と憐れみによって救われ、キリストを信じるクリスチャンになることができた」と心から実感する者は、自分の罪の深さに気づかされます。

聖書の別の箇所ですが、関連する箇所を引用します。
テモテへの手紙一1章12~15節です。それも使徒パウロの言葉です。

12わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
13以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。
14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。
15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

「わたしは、その罪人の中で最たる者です。 Of whom I am the worst」~この告白を、キリスト教史上最高の伝道者と言ってもよいパウロがしていることを、私たちは本当に真剣に捉えなくてはなりません。
「罪人の中でも最たる者であるこの私を神が赦してくださった。罪人の中でも最たる者この私を神が選び、神のご用のために用いてくださっている」という思いが、パウロの中で大きな喜びとなっていたのだと私は確信します。
 神がわたしたちキリスト者をお選びになったのは、私たちが優れていたからでも、また私たちが決して間違いを犯さないからでもありません。
 神はただ私たちのことを愛してくださっているので、私たちを選び、私たちを呼び、私たちがキリストを信じキリストに従って生きる者へとしてくださったのです。

 教会の群れの指導者は、「神に選ばれた自分は間違いを犯さない」とは決して思いません。なぜなら選ばれた指導者も人間であるからです。
 むしろ信仰の指導的立場にある者は、自分も間違いを犯す者であることを自覚し、もし間違いに気づかされた時には、へりくだってその事を反省し、問題解決や問題が良き方向へ改善されるために努力をすべきです。
 牧師である私のような者や、また信仰の群れの指導的立場にある者たちのことを覚えて、皆さんには今一度、そのために祈って頂きたいと私は心からお願いをいたします。
 パウロはこの手紙を「コリントにある神の教会(そしてアカイア州の全地方に住むすべての者たち)」に向けて書いています。「コリントにある神の教会」という言葉にも私たちは注目したいと思います。

 ギリシアのアカイア州と言われた地域の首都コリントのコリント教会は、もともとパウロの伝道によって始められたパウロが立てた教会です。
『使徒言行録』の18章に、パウロがコリントへ行った時のことが書かれています。パウロは1年6ヶ月の間コリントに留まり、人々に神の言葉を教えた、と書かれています。
 パウロが作ったと言ってよい教会であっても、パウロは決してその教会を「わたしの教会」とは言いませんでした。クリスチャンが自分の教会のことを「わたしの教会」と思うことは間違ったことではありません。
 むしろ信仰の群れに属すること、「わたしにとっての神の家族」という意味で、わたしたちは自分の教会を「わたしの教会」と感謝と愛をもって呼びたいと願います。

 しかしもし私たちが自分の教会のことを「わたしの教会」と呼んで、「わたし(わたしたち)の思い通りになるべき教会」とか、教会の指導者であれば「わたしが所有している教会」などと思うとしたら、それは大変な間違いとなります。
 教会は、神が立てられた神の教会です。教会はイエス・キリストの体です。私たちはキリストの体である教会の一部とされていることに、大きな喜びを見いだします。
私たちは教会につながることで共に祈り、御言葉に生き、そして神の御心(神が何を望まれているのか)に従って、信仰生活を歩んでいきます。
わたしたちの教会は神の教会です。教会の権威、教会の所有権は神にあります。私たちは神のその権威に仕えるものです。そして神の信仰の群れにつながって生きるものです。
かつて私の出身教会へ、別の教会から転入会をされたかたがおられました。そのお方(女性)が、新たな教会にご自分が加わることを、「群れに加えていただけることが本当に嬉しい」と表現されました。

正直、そのお方のそのお言葉を聞いて「何と謙遜なお方なのだろう」と思うと同時に、「信仰の群れに加わっている」という喜びを改めて知らされました。
正直私にはその時まで、「信仰の群れ(教会)に加わっている(つながっている)という喜び」をあまり実感していなかったからです。
わたしは教育担当執事としてその方の転入会の準備を指導させて頂いたのですが、むしろ私のほうがその方の謙虚な姿勢から教えられました。

わたしはそれまでむしろ「わたしが教会に貢献している(奉仕している)」という傲慢な思いでいたのではないか、とその時気づかされたからです。
そうではなかったのです。神は、御子イエス・キリストを世にお送りくださり、その十字架の贖いにより、「罪人の最たる者」である私を赦し、救ってくださり、命の道へと招き入れてくださったのです。
そして今キリストは目に見えない代わりに、神は教会をキリストの体として世に立ててくださいました。罪赦され、救われて、救い主キリストの体である教会に加わることができた、その一部とされた、ということを私たちは心から喜ぼうではありませんか。

 今日の箇所の1節によれば、この手紙を書いたパウロは手紙を「コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ」向けています。
 パウロはコリント教会の人たちのことは良く知っていたでしょう。しかし、パウロがコリントを離れてからもコリント教会では信者の数が増えたようですので、パウロにとっては自分が直接は知らない信者たちも、その時は沢山いたと思います。
 パウロは、2節に書かれているように、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和」を、まずは自分自身が知っているコリント教会のメンバーへ向けて送りました。
同時にパウロは、キリストからの恵みと平和を、自分は直接は知らない多くの人たちへも向けて、そしてまたコリントが位置していたそのアカイア州の全地方に住む信徒たちに向けて(その人たちのことを心に思い描いて)願い送ったのです。

キリスト者は、自分の教会での信仰の一致、信仰の交わりを大切にします。私たちは自分の信仰の群れの中にいてこそ、信仰が養われます。
しかし、教会は決して「閉鎖された」、「信じる者だけの」特殊な場所や空間ではありませんし、そのようになってもいけません。
私たちはキリストによって選ばれ、キリストの体に属する信仰者となったことを喜び、そしてイエス・キリストの福音が、私たちを通して、私たちの教会を通して世に伝わることを祈り願います。

キリストの福音の恵みは、全ての人に向けられたもの、全ての人に与えられるべきものであるからです。
伝道者パウロが今日の箇所で(その手紙の冒頭で)祈り願っているように、私たちも、“わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和”が、まず私たちの身近な人々にあるようにと祈ります。
そして私たちにとって身近な人々だけなく、イエス・キリストの恵みと平和が、私たちから遠く離れた場所の人々にもあるようにと、信仰の思いによって、私たちは神に祈り願いたいと思います。

2023年9月16日土曜日

2023年9月17日 主日敬老礼拝

招詞  ヤコブの手紙1章5節
賛美  新生讃美歌538番 神はわがやぐら
主の祈り
献金
聖句  ヨブ記12章7~13節
祈祷
宣教  「知恵と力は神に属する」
https://youtu.be/1PhVVUG46w0
祈祷
賛美  新生讃美歌 86番 輝く日を仰ぐとき
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷

 今日は「敬老礼拝」として、年長者の方々を私たちが敬い、年長者の方々に神の祝福と、そして健康と平安とが豊かに与えられることを共に願い、感謝をする礼拝をお献げしています。
 今日を「敬老礼拝」と私たちがしていますのは、明日9月18日(9月第三月曜日)が「敬老の日」として、日本では国の祝日になっていることに関連があります。
 日本の祝日としての「敬老の日」の始まりは、兵庫県多可郡(たかぐん)野間谷村(のまだにむらー当時の名前)が、1947年9月15日に主催した村主催の「敬老会」だとされています。

 その野間谷村の敬老会が段々と兵庫県全体に広まっていきました。やがて1966年には、全国で国民の祝日となりました(意外とその起源は新しいのですね)。
 最初に野間谷村で敬老会が開かれた趣旨は「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」だったそうです。(ちなみに、その時の敬老の対象者55歳以上の人たち!)
 年長者の方は、その長い人生の経験から、豊富な知恵を身につけています。年長者は体力的には段々と衰えてくることがあります。しかし「年長者の知恵から、若年者は学ばなくてはならない」―それは今でも確かなことだと私は思います。
 しかし、年長者は自分が色々と経験していると思うがために、「若い者たちは何も分かっていない」、「若い者たちが失敗をしないように、年長者の自分が教えてやらなくてはいけない」と思うこともあるのではないでしょうか。
そうであれば、そのような態度には注意が必要ではないかと私は思います。
 私がそのように言いますのは、実は私自身が既にそのような考えを持ち始めていると感じているからです。特に自分のこどもたちがすること(選択すること)に対して、かつて私自身が経験した失敗や経験から、色々教えたくなる(口出ししたくなる)のです。
 「私(お父さん)は、かつてこういう失敗(失敗とまでは言えなくても、別の道を選んだほうがよかった、という経験なども含む)をしたから、君たちは同じことをしてはいけないよ」という思いを持つことがわたしにはあります。
私としては、子供たちのことを思って、善かれと思ってアドバイスしているつもりなのです。
しかし、私は気を付けていないと、子供たちは私とは別の人間(独立した別人格)であることを忘れてしまい、自分の意見や意向を子どもたちに押し付けているのではないかと思わされるのです。
「子供たちのため」というより、「わたしが子どもたちにこうしてほしいと思う=つまり、私のため」に色々と口だししているのではないか、と反省することがあります。

ずっと以前のことですが、私の出身教会の礼拝に、イギリスのご家族の方達が来られたことがありました。奥さんが日本の方、夫がイギリスの方で、小学生ぐらいのお子さんが二人いらっしゃったと思います。
その方たちは、自分たちはイギリスのバプテスト教会の会員だとおっしゃっていました。
 私はそのご夫婦と礼拝の後で少しお話しを伺う機会がありました。その方たちの教会は50~60人ぐらいの教会だと言っていました。
そして教会で起こる問題の一つとして、若い世代の自分たち(そのご夫婦は、三十代か40代初めだったと思います)が「教会で、今度こういうことをやってみましょう」と提案したりすると、年長者の会員からよく反対されることがある、というのです。
“今度こんなことをやってみましょう”と新しいことを提案すると、よく年長者のメンバーたちから“それは、同じようなことを私たちも昔やってみたが、うまくいかなかった。だからやめたほうがよい”と言って反対されることがよくある、と言うのです。
 その方たちは「たとえ同じ事でも、昔と今では状況が違うし、今やってみれば、また違う結果がでるかもしれないのに、と思います」と言っておられました。
それを聞きながら、世代間の意見の違いとか、年長者と若者との間の問題は、どこの国でも変わらないな、と思わされました。

人間が年齢と経験を重ねることで得られる“知恵”は尊いものです。しかしそれは決して絶対ではありません。まして一人の人間の知恵や経験には限界があります。
私たちはお互いに、年齢の差に関係なく、年長者も若い人たちも、お互いを神の前に対等な者同士として尊重しあわなくてはなりません。
 年を重ねることで得られる経験や知恵も尊いものです。しかし、それらはすべて、主なる神から私たちに与えられるものである、ということを私たちはいつも覚えていたいと願います。

 今日の聖書箇所は『ヨブ記』12章から私は選びました。12章12~13節に次のように書かれています。

12知恵は老いた者と共にあり/分別は長く生きた者と共にあるというが
13神と共に知恵と力はあり/神と共に思慮分別もある。

13節の「神と共に知恵と力はある」それを私は今日の宣教題(知恵と力は神に属する=英語訳から)としました。そしてこれが今日のメッセージの結論なのです。
 12節にあるように人間の社会一般では「知恵は老いた者と共にあり 分別は長く生きた者と共にある」と考えます。それは間違いではありません。
 しかし、主なる神を信じる信仰者は、“私たちが生きるための真の知恵、そして生きるための真の力は、主なる神と共にある”というこの聖書の御言葉を信じます。
 ですからたとえ年が若くても、本当の知恵と力とは、主なる神の御言葉にいつも耳を傾けているかどうか、にかかっています。
今日は「敬礼礼拝」ですから、年長者の方を私たちが敬う主旨のメッセージを期待されているのだと思いますが、どちらかと言うと年長者の方を戒める(教える)ような方向のメッセージになってしまい、申し訳ありません。
しかし、礼拝の宣教は私たちが共に神の教えとみ言葉を聞くことですから、敬礼礼拝の今日も、私たちは老いも若きも共に神の言葉によって教えられたい、神の言葉によって共に祝されたいと願うのです。

今日の箇所のヨブ記12章7~10節は次のように言います。

7獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。
8大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。
9彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。
10すべての命あるものは、肉なる人の霊も/御手の内にあることを。

私たちは野の獣から(動物から)、空の鳥から、そして大地から、そして海の魚からも教えられるのです。
 私たちはどれほど年を重ねても、へりくだって自分以外のあらゆるものから(人からも、自然の事物からも)教えられて学ぶ、という態度を持たなくてはならないのです。
 旧約聖書の最初の『創世記』は、神が人間をお造りになって、そして神が人間を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とおっしゃったと記します(創世記1章28節)
 しかし、創世記での神のその言葉は、「人間は他の生物よりもあらゆる面で優れていて、最高の知恵を持っているから、人間は自分がただ望む通りに、他の生き物を、この世界を支配してよい(利用してよい)」ということではありません。
 それは今日のヨブ記のような箇所で「獣からも、空の鳥からも、海の魚からも教えてもらいなさい」と言われていることからも、明らかです。私たちは、いつも謙虚に学ばなくてはならないのです。
 獣や空の鳥、海の魚、そして大地は何を私たちに教えてくれるというのでしょうか?それが9~10節に書かれています。

9彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。
10すべての命あるものは、肉なる人の霊も/御手の内にあることを。

獣も鳥も、魚も、彼らはみんな「主なる神の御手が、この世界のすべてのものを造られた」ということ、そして「すべて命あるものは、人間の霊(息)も神の御手の内にある(守られている」ということを知っている(そのことを私たちに教えてくれる)、というのです。
 ところが私たち人間はそれらのこと(神がすべてのものを造られたこと、命あるものは全て神の御手の内にあること)を忘れてしまい、傲慢になってしまいがちです。
 私たちは“自分は何でも知っている”、”私は自分の力で生きている”と思い、勘違いしてしまうことが多いのです。そして私たちは自分以外の他者や自然や生き物などからも学びなさい、という聖書の教えに従えなくなってしまうのです。

 イエス様の次のように教えられました。それはイエス様のお言葉のうちでとても有名なお言葉です。
マタイ6章26節
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

イエス様はその後で「野の花がどのように育つのかも注意して見なさい」と言っておられます。
イエス様は、“栄華を極めたソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか”と言われました。
 空の鳥が、そして野の花が私たちに教えてくれるのです。“私たちは神によって造られて、神によって命与えられ、そして神によっていつも守られている”と彼らが私たちに教えてくれるのです。
聖書が伝える知恵とは「神を知る」ということです。神を知るとは、真の神なるイエス・キリストを知る、命の源であるイエス・キリストの愛を知ることです。
聖書が伝える知恵とは、私たちは(生きるものはすべて)神によって造られ、守られ、そして神の御手のうちに生かされているということを、イエス・キリストの御愛を通して知ることです。
そのような神の知恵を知らされた私たちは互いに敬い、お互いに謙虚に教え合い仕え合って生きる者となるのです。
 そのような神からの知恵を、私たちはこれからも聖書の御言葉から、共にこうして神を礼拝することから、そして共に祈り合うことから、ますます豊かに頂いていきたいと願います。
今日は「敬老礼拝」です。神が与えて下さる長寿を、そして老いも若きもそれぞれに神から与えられた命の日々を私たちは感謝いたしましょう。
常に神の御手に守られた私たちが、神の言葉、神の知恵を頂いてそれに従って歩むとき、私たちには信仰によるあらゆる希望と喜びが約束されているのです。恵みの神に感謝をいたします。

2023年9月9日土曜日

2023年9月10日 主日礼拝

招詞  ペトロの手紙一 2章11節
賛美  新生讃美歌3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
献金
聖句 出エジプト記2章11~25節
祈祷
宣教 「モーセの逃亡」
https://youtu.be/_jjruFfqTEI
祈祷
賛美 新生讃美歌297番 主によりてあがなわる
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷

 旧約聖書『出エジプト記』の中で描かれる、モーセの物語を通して、私たちは今日も神のメッセージを聞いていきたいと思います。
 モーセは聖書に登場する人物の中でも最も偉大な人物の一人です。400年間エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルの民を救い出し、エジプトから脱出させる指導者としての役を彼は後に担うことになります。
しかし聖書はいかなる人間も、完全な人間として描きません。それはどんな人間も完全ではないからです。どれほど偉大な業績を残した人物であっても、聖書は彼ら彼女らが犯した過ち、あるいは弱さをも、はっきりと記しています。
偉大だと言われたダビデ王も、自分の兵士であった男の妻と関係を持ち、彼女を妊娠させました。そのことを隠蔽するために、ダビデはわざとその兵士(ウリヤ)を戦場の最前線に置いて戦死させました。

イエス・キリストの一番弟子であったペトロは、「あなたと一緒に死ななくてはならなくても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と豪語していました。
しかしイエス様が捕まった最後は結局、「わたしはあんな人のことは知らない」と言って、(イエス様が予言した通り)三度もイエス様のことを否定しました。

 今日の箇所でも、モーセにとって、消そうにも消すことのできない、彼が犯した大きな過ち、罪の一つが描かれています。
 エジプトに住むヘブライ人の子として生まれたモーセは、生まれた後三ヶ月間、母親によって隠されていました。増えすぎるヘブライ人を恐れたエジプト王のファラオが、国中で生まれる男の子は全員ナイル川に放り込むように、と命令していたからです。
三ヶ月以上は隠しておけなくなり、モーセの母親は赤子のモーセをパピルスの籠に入れ、ナイル川の葦の茂みの中に置きました。それをエジプトの王の王女が見つけ、何とモーセの実の母親が乳母としてモーセに乳を与えることになりました。

そしてモーセは大きくなるとファラオの王女に引き取られました。それ以降のことは聖書には詳しく書かれていませんが、モーセはエジプトの王宮で暮らし、そこで成人しました。今日の箇所はそれからの話です。

今日の箇所の最初の11節に次のように書かれています。
11モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。

どのようにしてかは分かりませんが、モーセは自分がヘブライ人だということを知っていました。おそらく、彼が成長する過程で、ファラオの王女がそのことをモーセに伝えていたのはないでしょうか。
 モーセは成人して、王宮を出て同胞たちのところへ出て行きました。同胞たちが重労働に服しているのを目にして、彼の胸は痛んだでしょう。また彼はそのことに怒りも感じたでしょう。
モーセは一人のエジプト人が同胞のヘブライ人の一人を打っているのを見ました。モーセはそこで辺りを見回してだれもいないのを確かめた後、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めました。

 「一人のエジプト人が同胞のヘブライ人の一人を打った」の“打った”は“打ち殺した”という意味だという解釈もあります。
そうであれば、モーセは殺された同胞の仇を取ったということになります。しかし、モーセは打ち殺したエジプト人の死体を隠しました。それはモーセの良心が、“自分がしたことは間違っている”と、彼に告げていたからだったと私は思います。

 その良心の声を、モーセはその時はっきりとは聞くことができなかったかもしれません。しかし“隠す”という行為は、モーセ自身に後ろめたい思いがあったということ、そして“これは人に知られてはいけない”という意識が彼にあったことを、示しています。
 一時の怒りと憤りに駆られて、同胞のヘブライ人を打った(殺した)エジプト人を打ち殺した~まったく理解できないことではないとしても、それはモーセの生涯を通して残る彼が犯した大きな過ちの一つでした。

モーセは、そのエジプト人の死体を砂に埋めることで、自分のしたことは隠し通せると思っていたのでしょう。しかし、その罪は隠されたままではいませんでした。そのことは人に知られていた、ということがすぐに分かります。
 次の日にモーセがまた出て行くと、今度はヘブライ人同士が二人でけんかをしていたのです。
モーセが悪い方の人に向かって「どうして自分の仲間を殴るのか」と聞くと、その人は「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」とモーセに言いました。
 その言葉はモーセを恐れさせました。前の日に、自分がエジプト人を打ち殺したことが知られてしまっていたからです。
また「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか」という言葉も、モーセの胸に突き刺さったでしょう。モーセは正義感も強かったと思いますが、感情が激しく、その激しい感情に駆られて、突発的に行動してしまう人だったようです(少なくとも、この時はまだ、そのようであった)。

前の日にエジプト人を打ち殺したことをモーセは思い出し、自分だけの正義感、または怒りに駆られて人の命を奪ったことの罪深さをも、彼は思い知らされたのではないでしょうか。
 そして自分でも気づかぬうちに、“監督や裁判官”のような気になって、他人のことを裁いていしまっている、と言う自分にもモーセは気づかされたのだと思います。
 私たちも気をつけていないと、いつも自分が監督や裁判官であるような気になり(“自分が正しいと”思い)、他者のすることを裁いてしまうことがあります。
 祈りとそして御言葉を通して、そのような自分自身にも私たちは気づいていきたい、他者を裁かないようにしたいと願います。

 モーセのしたこと(彼がエジプト人を打ち殺したこと)はエジプト王のファラオの耳にも届きました。そしてファラオはモーセを殺そうと尋ね求めました。
モーセはファラオが自分の命を狙っていると知り、ファラオの手を逃れてミディアンの地方へ逃れて行きました。そこでモーセは井戸の傍らに座りました。
モーセは本当に途方にくれ、“これからどうしようか”と考えていたでしょう。
 自分が犯した殺人の罪が知れ渡り、エジプトの王に命を狙われる~モーセにとっては絶対絶命の状況になりました。しかし、それでも神の守りと導きはモーセを離れることはありませんでした。
 モーセがいた井戸に、女性たちが羊の群れに水を飲ませるためにやってきました。彼女たちは、あるミディアンの祭司の娘たちでした。そこへ羊飼いの男たちが来て、娘たちを追い払ったと書かれています。
 力の弱かった女性たちは、井戸から水をくんで羊たちに飲ませる機会をその男の羊飼いたちから邪魔されたか、あるいは横取りされたということでしょう。
モーセはそこで立ち上がって娘たちを救い、彼女たちの羊の群れに水を飲ませてやりました。娘たちは父のもとへ帰ると、父親はいつもよりずいぶん早く帰ってきた娘たちに、「どうして今日はこんなに早く帰れたのか」と聞きました。

娘たちは“一人のエジプト人が羊飼いの男たちから自分たち助け出し、わたしたちのために水をくんで、羊に飲ませてくださいました”と答えました。
 モーセはエジプト人ではありませんでした。ヘブライ人でしたが、娘たちはモーセをエジプト人だと思ったというのです。エジプトの王宮で育ったモーセには、その言葉や振舞いもエジプト人を思わせるものがあったのでしょう。
 娘たちの父親は、“その方を放っておかないで、呼びに行って、食事を差し上げなさい”と言って、娘たちにモーセを呼びに行かせました。モーセは彼女たちの家に来て、そこに留まる決意をしたので、父親(レウエル)は娘のツィポラをモーセと結婚させました。
 モーセとツィポラの間に男の子が生まれ、モーセはその子をゲルショムと名付けました。ゲルショムとは”寄留者(あるいは外国人)”を意味するヘブライ語です。
 モーセが息子を“ゲルショム”と名付けたのは、彼が「わたしは異国にいる寄留者だ」と言ったからだと、書かれています。
 「わたしは異国にいる寄留者」~それはどういう意味でしょうか。モーセは自分がヘブライ人であることを知っていました。ですから、エジプトの王宮にいる間も彼は自分がそこでは寄留者(外国人foreigner)だと思っていたのでしょう。
 そしてエジプトを逃れてミディアンへ逃れなくてはならなくなり、そこでもまたモーセは“寄留者”であったのです。そのことをモーセはどう感じていたのでしょうか?「自分はどこへ行っても寄留者(外国人)だ。。。」と思っていたのではないでしょうか。
 本国に住む者ではない、“わたしは寄留者だ”という事実に、モーセは一抹の不安や悲しさをも覚えていたのではないでしょうか。
 この“寄留者”という言葉は、聖書を通して重要な意味を持っています。それは“私たち人は誰もがこの地上においては寄留者である”ということです。
 わたしたちは神から命をいただいて、この地上で生きる者となりました。私たちは神のご計画により、それぞれ色々な地域や国で生まれます。

 しかしこの地上での生まれ(出自)に関わらず、聖書は次のように言います。

フィリピの信徒への手紙3章20節
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

出エジプトの出来事は紀元前1300年頃のことだと言われています。まだイエス・キリストが人としてお生まれになるずっと前(1300年前)のことです。
しかしキリストは神であるお方ですから、時代を越えて、いつの時代にもおられたお方であり、今も霊によって私たちと共におられるお方です。
そのイエス・キリストが、そこから私たちの救い主として来られる場所~そのような天に私たちの本当の国籍(市民権)はある、と聖書はいうのです。そのような意味において、わたしたちは誰もがこの地上では寄留者(外国人)なのです。
わたしたちは互いに寄留者として、この地上で互いに助け合い支え合って生きていくのです。私たちは決して互いに争ったり、命を奪い合ったりして生きていくように神から造られたのではないのです。
天の父なる神が、出エジプトの時代、モーセを導き、彼に使命をお与えになったように、今の私たちにも神の導きがあり、また神が私たちひとり一人に与えておられる使命があります。
その使命が何であるのか~わたしたちは日々聖書に聴き、祈り、共に神を礼拝しながら神が私たちに与えておられるご計画と使命を知り、それに従って歩んでいきたいと願います。

2023年9月2日土曜日

2023年9月3日 主日礼拝

招詞 詩編107編20節
賛美 新生讃美歌81番 父なるわが神
祈りの時
主の祈り
献金
聖句  ルカによる福音書4章1~15節
祈祷
宣教  「人はパンだけで生きるものではない」
https://youtu.be/s65g1iwgv8o
祈祷
賛美  新生讃美歌 103番 望みも消えゆくまでに
頌栄  新生讃美歌 673番
祝祷


 わたしたちの人生には誘惑、あるいは試練の時があります。苦しいこと、あるいは悪いことが立て続けに起こるような時もあります。
「なぜこのような苦しみが続けてわたしに起こるのですか。なぜですか?」と疑問に思うような時もあるでしょう。
そのような時、わたしたちは誘惑や試練にどのようにして向き合えばよいのでしょうか。

 今日の箇所はイエス・キリストが荒れ野で悪魔の誘惑に合った場面です。
私たちの主であり神であるイエス様ご自身が悪魔の誘惑に、その苦しい試練にどのように向き合ったのかを学ぶことで、誘惑にわたしたちはどう向き合ったらよいのかを学びたいと思います。

今日の箇所の最初の4章1節に次のように書かれています。
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

今日の箇所の前の章である3章で、イエス様は洗礼(バプテスマ)をお受けになり、そして30歳ぐらいの時に公の宣教活動を始められたことが書かれています。
今日の箇所である第4章はその直後の出来事です。イエス様はバプテスマを受けた直後に悪魔から誘惑を40日に渡ってお受けになったのです。
その40日間の誘惑の間、イエス様は何も食べずにいたので空腹を覚えた、と書かれています。40日間の絶食の後、イエス様は相当な空腹で苦しんでいたはずです。しかしそこで誘惑は終わらず、さらに厳しい悪魔からの攻撃がありました。

悪魔はイエス様に言いました。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。
究極の空腹に苦しむイエス様にとっては、それは大変な誘惑でした。イエス様は神の子ですから、イエス様がそうしようと思えば、その時、石をパンに変えて自分の空腹を満たすこともできたはずです。
事実イエス様は後に、5つのパンと二匹の魚を祝福して祈ることによって増やして、お腹を空かせた5000人の人々をお腹いっぱいにしたことがありました。
ではなぜ、悪魔に誘惑に合われたとき、イエス様は石をパンに変えてご自分の空腹を満たそうとはしなかったのでしょうか。
イエス様はご自分が大変な空腹の状態で苦しかったにも関わらず、自分の苦しみから自分を救うために奇跡を起こそうとはなさいませんでした。
それほどの空腹の中で、悪魔の攻撃(誘惑)に会いながら、なおイエス様は「人はパンだけで生きるものではない」という神の言葉(旧約聖書『申命記』の中の言葉)が真実であることを、私たちに伝えようとなさったのです。

旧約聖書『申命記』8章3節には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と書かれています。
パン=すなわち、私たちが生きるために必要な食べ物はとても重要です。イエス様も「パン(食べ物)など重要ではない」とは決して言っておられないのです。
しかしイエス様は、悪魔の誘惑に対して、“私たち人を本当に生かすものは主なる神であり、そして主なる神の御言葉である”ということを、大変な空腹の苦しみの中から必死に叫ばれたのです。
私たちに絶対必要なパン(食べ物)を与えてくださるのも神なのです。ですから私たちはその神をまず信じ、神に信頼して生きるのです。

私たちは苦しみや疑問の中にあっても、私たちの命の源である神の言葉が私たちを本当に生かす、神が守ってくださる、というイエス様の必死の教え(お言葉)を胸に刻みたいと思います。
 神の言葉によって私たちは生かされている~この信頼と確信によって、私たちは悪魔からのどんなに厳しい誘惑にも立ち向かうことができるのです。
 悪魔は次にイエス様を高く引き上げて、一瞬のうちに世界のすべての国々をイエス様に見せました。そして、“あなたがわたしをおがむなら、この国々の権力と繁栄を、みなあなたにあたえよう”と言いました。
「この国々の一切の権力と繁栄」とは何でしょうか?

それは、“世界を自分の思う通りに支配する”ということでしょう。自分が願う通りに世界を変える、世界の人々が一瞬で自分を信じ(あるいは恐れて)自分の言うことに従うようになる~そのような力です。
これもまた、イエス様がそう望めば、そのような権力を悪魔からもらわなくても、イエス様はそうすることができたでしょう(一瞬で世界を変える)。
しかし、イエス様はそのように、人々(わたしたち)を無理やり支配して、無理やりご自分(神)に従わせようとはなさいませんでした。
そうではなく、イエス様は(すなわち神は)ご自分の御言葉を人々に伝え、それを聞いた人々が御言葉をまた別の人々に伝えることによって、ご自分の(神の)支配が拡がるようにされました。
長い年月がかかっても、人から人へと神の言葉が伝わり、そしてひとり一人が自分から心を開いて神の言葉を聞いて受け入れる。

そして神の言葉に感動をした信仰者が自分の意志で喜びをもって神に仕える~そのようにして神のご支配が拡がっていくように神は望まれたのです。
そしてイエス様は8節で「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。
とお答えになりました。
これは、自分の思いではなく神の御心を第一に求める、という姿勢です。

“権力と繁栄を手にして、自分の思い通りに世界を支配する(あるいは変える)”のではなく、“主なる神のみを拝み、神が望まれることに従おうとする”ということです。
自分が望むことよりも神が望むことを私たちは求めるべきなのです。ひょっとしたら誘惑や試練が苦しい原因は、私たちが自分自身の望みや考えに固執しているからかもしれません。
自分を手放し、神を第一にして、そして同じ信仰の兄弟姉妹同士で祈り合わせることで、自分の思いを越えた神の御心を私たちは知ることができます。みんなで祈って話し合い、神の御心を求めるのです。
その時私たちは“神である主を拝み、ただ主にのみ仕える”という信仰を実践していくことができるようになります。
私たちも教会として、「わたしたちに今、この場所で神から託された教会としての使命は何か、神は私たちの教会に何を望んでおられるのか」ということを共に祈り求めていきましょう。
 悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせ、「『神は天使に命じて、あなたを守らせる』と聖書に書いてあるのだから、ここから飛び降りてみろ」と最後に言いました。
 イエス様は、その誘惑の言葉も、『あなたの神である主を試してはならない』という、神への固い信仰(信頼)を表わす聖書のお言葉をもって、退けました。
イエス様は悪魔の誘惑に対し、聖書の御言葉をもって立ち向かわれました。聖書の御言葉はすなわち神の言葉です。神の言葉は、神ご自身の力を帯びて、悪魔の誘惑(試練)から私たちを守ってくれるのです。
わたしたちも、私たちを守ってくれる、そのような聖書の言葉をできるだけ沢山心に蓄えて、悪の誘惑と試練に立ち向かいたいと願います。

今日の箇所の最後の14~15節を見ますと、イエス様は悪魔の誘惑を退けた後、再び霊に満ちて、生まれ育ったガリラヤにお戻りになりました。
イエス様の評判は周りの地方一帯に広まり、そしてイエス様は諸会堂で教えて、皆から尊敬を受けられた、と書かれています。
神の子であるイエス様ご自身が、人と同じように、空腹という肉体上の大変な苦しみをご経験になって、そのような中で悪魔からの激しい誘惑の攻撃にあいました。
そしてイエス様は、悪魔のその厳しい誘惑に対し、神の御言葉をもって立ち向かわれました。そのようなご経験を通して、イエス様の語る言葉、イエス様のお教えになる言葉は一層力を持って人々に訴えるものになりました。

神の子であるイエス様が、ご自身の大変な試練を通して真実な神の言葉を語るのですから、そのお言葉にはどれほど凄い力があり、人々を圧倒したでしょうか。(そうであったことは間違いありません)
、聖書の御言葉を人に伝える時には、やはり自分自身がその御言葉に感動をしていなくてはなりません。自分自身が感動していない、あるいは信じていない言葉をどうやって真実として人に伝えることができるでしょうか。
 あるいは、私たちが疲れて力を無くし、落ち込んだときや悲しい時に、聖書の言葉が自分を支えてくれた~そんな経験も分かち合うことで、わたしたちは神の言葉の真実を他の人に伝えていくことができます。
私たち自身が信じている、真実の聖書の言葉を、また自分自身が受けた信仰の経験を、自分自身の言葉で私たちは人にも伝えていきたいと願います。そのようにして、神の言葉はたとえ少しずつであっても、世に拡がっていくのです。
イエス様は、聖書の言葉(その時イエス様が知っておられたのは、今の旧約聖書の御言葉)で悪魔の誘惑に対抗しました。
聖書の言葉は悪の誘惑に対抗する力があるのです。聖書の言葉は私たちが経験する試練に立ち向かう力になるのです。なぜなら聖書の言葉は神が私たちに与えられた力(信仰の武器)であるからです。
 私たちは、神の御言葉をもって荒れ野での悪魔の誘惑に立ち向かったイエス様のお姿に倣って、私たちも御言葉によって強められたいと願います。
 神の御言葉によって守られた私たちは、悪魔の誘惑さえも恐れる必要はないのです。神の力が私たちと共にあるのですから、そのことを信じ、神の言葉により頼んで私たちは信仰の日々を歩んでいきたいと願います。