2023年10月28日土曜日

2023年10月29日 主日礼拝

招詞  ヨシュア記24章24節
賛美  新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
主の祈り
献金
聖句  エフェソの信徒への手紙4章11~16節
祈祷
宣教  「キリストの体を造り上げる」
*機材不調の関係で、音声データは本日ありません  
祈祷
賛美  新生讃美歌236番 主の流された尊い血しお
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷

 キリスト教の信仰は、神であるイエス・キリストが人となってこの世界にお生まれになり、人々に神の国を、そして神の愛と赦しを宣(の)べ伝え、最期は全ての人の罪を背負って十字架の上で死に、そして復活した事実の上に成り立っています。
 イエス様は、神の国を人々に伝える使命を、ご自分の弟子たちにまず託されました。イエス・キリストの死後、イエス様の弟子たちは共に集まり、やがて教会を建てて、教会を中心にして信仰を守り、イエス・キリストの教えを世に伝えるようになりました。
 その使命を、今を生きる私たちキリスト者一人一人も負っています。その使命をわたしたちは、私たちの教会の使命としても、もちろん負っています。

今イエス様は人としては生きておられませんが、イエス様を信じる私たちの中に聖霊としてイエス様は住んでくださっています。
そして私たちは教会としてもイエス・キリストの聖霊をいただいています。聖霊が私たちを一つに結びつけ、キリストにある信仰の共同体として私たちを導いてくださっています。
ですから私たちは常に祈り、私たちに先立ってくださる聖霊の導きに従って、また聖霊が自由に豊かに働いて下さるような教会でありたいと願います。
キリスト教会には様々な人が集まります。そしてまた、教会に連なる私たちそれぞれには様々な賜物(gifts)が神様から与えられています。
私たちそれぞれが異なった人間であること、また私たちそれぞれが異なる賜物を持っていると言うその多様性も、神の聖霊が豊かに教会で働かれるために、とても大切なことです。

今日の聖書箇所(エフェソの信徒への手紙4章11節~17節)の最初の節に、神がキリスト者一人一人の賜物に応じて、人々に異なる役割をお与えになったことが書かれています。
 最初に書かれるのが「使徒」apostlesです。使徒とは、イエス様によって選ばれてイエス様の直弟子となった最初の12弟子のことを言います。(後に、教会で重要な責任を果たす人も使徒と言われるようになりました)
 イエス様の最初の弟子であった12弟子は、イエス様と共に生活し、イエス様の生き方、そしてイエス様の教えに間近で接していました。
 最初の使徒たちの教えが重要であったのは、彼らがイエス様と直接接し、イエス様のお言葉と行いに直接触れた人たちであったからです。
ですから、使徒たちの伝えたこと、使徒たちの教えは大切なものとして、初期のキリスト者に、また今の私たちにも聖書を通して受け継がれています。
 最初の使徒たちが他の人たちに比べて特別に重要であり優秀な人だった、ということではありません。彼らはごく普通の人たちでした。

 しかし神は、最初の弟子たちを神のご自由な選びによってお選びになり、彼らが協力してイエス・キリストの福音を、イエス様の死後も宣べ伝え続けるようになさったのです。
 現在のキリスト者である私たちも、神によって選ばれて、キリストを信じて生きる者となりました。私たち自身が何か他の人に比べて特別優れていたから、ということではありません。
 ですから私たちは、キリストを見上げ、キリストを思う時、「このわたしが、ただ神の恵みによって選ばれた」ということを、心から感謝したいと願います。
 そして神へのその感謝の思いが、ますます私たちを謙虚にし、神と人の前にへりくだった生き方をする者へとしてくださるようにと私たちは願います。

 教会に集まる私たちが皆違っていること、そして私たち一人一人に異なる賜物が神様から与えられているのには、一つの明確な目標があります。
 それは12節に書かれていることであり、今日の宣教題(メッセージのタイトル)でもある「キリストの体を造り上げる」ということです。
「キリストの体」とは、キリストの教会のことです。教会はキリストの体なのです。わたしたちの身体に色々な部分があるように、キリストの体である教会も色々な部分でなりたっています。
キリストの体(教会)の部分とは、教会につらなる私たち一人一人のことです。それぞれの部分が合わさって協力をして、一つの体を造り上げるのが教会です。
そしてわたしたちは「神の子(キリスト)に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさにまで成長する」(13節)のです。

もう一度お読みします。

「神の子(キリスト)に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさにまで成長する」
これは私たちにはまだ実現していない一つの幻と言ってよいと私は思います。
私たち人は、同じキリスト者であっても、それぞれの考えや信念、または好みなどの違いによって中々一致することができないのが現実ではないでしょうか。
しかし私はそれでも希望を持っています。
今年度2023年度のわたしたちの教会の年間標語は「愛の奉仕 give your service with love」です。ガラテヤの信徒への手紙5章13節の御言葉をその関連聖句として、私たちは選びました。
 教会の皆さんの中から(実際には、皆さんによって選ばれた執事(deacons)の方々から)、「イエス様から頂く愛をもって教会に奉仕したい。自分の満足を求めるのではなく、愛をもって神様に奉仕をしたい」という思いと希望が挙げられたのです。
コロナ感染症の間、教会の活動も色々と制限され、皆さんに奉仕していただく機会も限られていた中、今年度の初めにあたって、そのような思いが表明されたことは、大変印象的なことでした。
 ただ“奉仕しましょう”ではなく、“愛の奉仕を捧げましょう”という思いには“イエス様から私たちがいただく愛(イエス・キリストの愛)が奉仕の土台”という信仰があります。
 奉仕の動機はイエス・キリストの愛なのです。イエス様の愛が素晴らしく、私たちはイエス様の御愛に感謝をするから奉仕をするのです。
 自分だけの満足、自分のための栄光を求めるのではなく、自分がその体の一部として繋がる体全体(イエス・キリストの体全体)が栄光を受けることを、私たちは求めるようになるのです。

 今日の箇所の最期の16節を見てみましょう。
16キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

 「体全体」the whole bodyという点が非常に重要です。「体の一部」、すなわち教会の中の一部の人たちだけが成長する、のではないのです。
 体の一部分が体から切り離されてしまっては決して生きていくことはできないように、私たちもキリストの体である教会から離れてしまっては、私たちが霊的な命を生きていくことは決してできません。
そして、もし私たちの中から誰かが欠けてしまうのならば、それは“体全体の成長”ではなくなります。
「体全体が互いに補い合い、体を成長させ、自ら愛(キリストの愛)によって造り上げていく」(16節)ことを、神様からの信仰の命令としても私たちは厳粛に受け止めて、互いに支え合っていきたいと願います。
体全体で、私たち皆でキリストの体である教会を造り上げるという信仰を私たちは大切にしていきましょう。
賜物とか奉仕というと、何か人の目に目立つような具体的な働きのことが思い浮かぶかもしれません。

しかしたとえそれが人の目には目立たないようなことであっても、キリストの愛に基づくものであれば、いかなる奉仕にもその差(優劣の差)はありません。
礼拝の奉仕表に載っているようなご奉仕ではないとしても、同じキリストにある信仰の家族の一員として、まず礼拝や祈祷会に来てくださること、共に礼拝し祈ってくださること、それが尊い奉仕です。
また様々な事情で教会に来ることが出来ない方々でも、教会を覚えて祈りと献げ物を献げてくださる方々もおられます。それらも尊い奉仕です。

私たちが神を信じ、神を愛するとき、私たちがどのような状況におかれていようとも、私たちが神に奉仕することを妨げるものは何もないのです。
 今日の箇所の前の部分の節になりますが、エフェソの信徒への手紙4章7節に「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられていますと書かれています。
 神はキリストを通して私たち全ての者に恵みを与えてくださっているのです。恵みとは私たちが何か立派なことをしたことへの報酬や見返りのことではありません。
 神の恵みとは、ただ神の愛と憐れみによって、私たち人間の側には何の功績も善い行いもないにもかかわらず、神からイエス・キリストの十字架を通して私たちに与えられたものです。
 それほどの恵みをいただいた私たちは、その恵みへの感謝の応答として、奉仕を捧げていきましょう。(キリストの)愛の奉仕を捧げていこうではありませんか。
そして私たちは、まず私たちの教会の中から、信仰の一致、一つの体としての成熟と成長を目指していきましょう。

 さきほど私は、“これはまだ実現していない一つの幻”と申し上げました。しかし、私たちが信仰をもってキリストの愛に立ち続ける限り、それはいつか必ず実現するのです。
 なぜなら、イエス・キリストへの信仰は、14節に書かれているように「悪賢い人間の、風のように変わりやすい教え」に基づくのではないからです。
イエス・キリストへの信仰は、昨日も今日も、そしていついつまでも変わることのないイエス・キリストの御言葉、神ご自身の限りない愛、神の約束に基づいたものなのですから、たとえどれほど時間がかかっても、いつか必ず成就するものなのです。
キリストが私たちの中心にいてくださる限り、わたしたちがキリストの愛に根ざしている限り、私たちは今日の聖句が約束してくれているように、キリストへの信仰と知識において一つとなるということが必ず実現します。
 様々な賜物をお持ちの皆さんお一人お一人が、聖書の御言葉を信じ、キリストの愛に基づいて、それぞれの賜物を献げる度に、わたしたちは信仰の一致と信仰の成熟へと近づいているのです。
 キリストの体の一部とされていること、キリストの愛に基づいた信仰にわたしたちを神ご自身がしっかりと捉えてくださっていることを感謝し、“愛の奉仕”を喜んで私たちは献げて生きましょう。

2023年10月21日土曜日

2023年10月22日 主日礼拝

招詞 エレミヤ書23章29節
賛美 新生讃美歌 124番 この世はみな
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句 ルカによる福音書4章31~37節
祈祷
宣教 「御言葉の権威」
https://youtu.be/N6VvfGJnhwg
祈祷
賛美 新生讃美歌 506番 主と主のことばに
頌栄 新生讃美歌 604番
祝祷

 今日の聖書の箇所に、イエス様が「安息日には人々を教えられた」ことが書かれています。今日の箇所の前の部分の4章16節にも、安息日に会堂(今のクリスチャンにとっては教会)に行き神を礼拝することが、イエス様の習慣であったことが記されています。
一週間の中の六日間は仕事(人それぞれが、すること)をし、一週間の中の一日は安息日として神様のために特別に取り分けることは、神から私たち人に与えられた厳粛な命令であり、またそれは私たち人にとって大きな祝福でもあります。
安息日は、私たちが神によって造られ、そして神との交わりの中に生きることを、確認し喜ぶ日でもあります。

それぞれの仕事や他にしなくてはならないことを中断することで、この世のどんな事柄も、神様から私たちに与えられる祝福に優るものはない、と私たちは確認します。私たちが神によって生かされる、ということを確信するのです。
教会の礼拝で私たちは神を礼拝します。そして礼拝の中で、私たちは神の言葉、神の教えの言葉を聞きます。今日の箇所で、“イエス様は会堂に行き、そこで人々を教えておられた”と書かれています。
イエス様は時々そのようにした、というのではなく、安息日にはいつも会堂へ行き、そしてそこではいつも人々を教えた、というのです。イエス様は人々を“教える人=先生”でもありました。

イエス様は繰り返し神の教えについて、聖書の言葉について、おそらく同じことであっても重要なことならば何度も繰り返して人に教え続けました。
神の言葉、神の教えは尽きることがありません。イエス様は、その地上での生涯の約三年間の公(おおや)けの宣教活動の中で、神の言葉を語りきることはできなかったと私は思います。
神の言葉の恵みは無限であるからです。私は牧師として毎週の礼拝で、あるいは祈祷会やその他の機会にも、聖書の御言葉から語らせて頂いています。
一つはっきりしていることは、私が一生かけても、この聖書の言葉の全てを語り尽くす、(そもそもわたし自身が聖書の御言葉を知り尽くす)ということは出来ない、ということです。
しかしイエス様は神の子であり、わたしたちの罪を背負い十字架の上で死なれた救世主でした。

ですからイエス様は、(言葉としては全てを語りきることができなかったとしても)神の子として私たちに伝えるべき全てのことは、その生涯と、そして十字架で死なれたイエス様ご自身のお姿を通して全て私たちに語ってくださった、とも言えます。
今私たちは、私たちに伝えられた(残された)聖書の言葉を神の言葉として、イエス・キリストの教えに照らされながら、いつも聞いていきたいと願います。
神の言葉は私たちにとっての霊的な食べ物です。食べ物を食べないと生き物は栄養失調となってしまいます。
御言葉をいただかずに霊的な栄養失調になってしまえば、その先にあるものは、霊的な死です。
聖書は、わたしたちが誰も霊的な死に至ることがないように、神の言葉として今もこうして残され、聖書の言葉に基づいたメッセージが、今も世界中のキリスト教会で語られ続けています。

イエス様が語った神の言葉には特別な力がありました。今日の32節に次のように書かれています。

32人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

私たちが神の言葉を確かに聞いたかどうか、どうして分かるのでしょうか?私たちが確かに神の言葉を聞いたかどうか、それを測る一つの物差しとして「驚き」があります。
今日の箇所で、イエス様の教えを聞いた人たちは、“非常に驚いた”のです。同様に、わたしたちも本当に神の声を聞いたのならば、神の教えを本当に聞いたのならば、わたしたちは驚くはずです。
“驚き”とは、自分が揺さぶられるような衝撃的な経験をするということです。神の言葉に圧倒され、それほどの感動を与えられる、自分が覆されるような経験をするということです。
 聖書の伝える神のメッセージは驚きに満ちています。私たちのこの世界が、天地のあらゆるものが神によって造られた、というのも驚きのメッセージです。
 神が人となられ、イエス・キリストとして世に来られ、神の国と神の愛について人々に分かる言葉で教えてくださった、というのも驚きのメッセージです。
 わたしたち(特にクリスチャン)は、神の言葉への驚きを、経験しているでしょうか?
 私たちは信仰生活が長くなると、聖書の物語やイエス様のお言葉についても、その内容については詳しくなり、知識は増すでしょう。

 聖書の中の物語やイエス様のお言葉についても、馴染みのある箇所であればあるほど「この箇所については私はもうよく知っている。その意味も理解している。以前に何度も私は読んで考えた」と思うことがあるかもしれません。
 しかし、そうではないのです。たとえ同じ箇所、同じ御言葉であっても、聖書の言葉はその度ごとに新しい響きと新鮮さ、そして驚きをもって私たちに迫って来るのです。
神の霊である聖霊の光で私たちの心、そして御言葉も聖霊で照らされる時、その御言葉は私たちにその度毎に新たな驚きをもって迫ってくるのです。
神の言葉が驚きとなって私たちに迫ってきて、自分が揺さぶられ、罪を知らされ、神によって自分が変えられる自覚、あるいは変えられなくてはならない、という自覚が生まれます。
そのように驚きをもって、御言葉をいつも受け止める、そんな教会で私たちはありたいと願います。

 今日の箇所には、その時人々がイエス様の教えに驚いたその理由がはっきりと書かれています。イエス様の教えには権威があったからです。

「その言葉には権威があったからである。」(32節)

イエス様がお持ちであった権威とは、力で相手をねじ伏せて無理やり言う事を聞かせるような権威ではありません。
力で相手をねじ伏せて強制的に言うことを聞かせるのは本当の権威ではありません。そのような権威ならば、それは少なくとも聖書が伝える神の権威ではありません。
  イエス様がお持ちであった権威は、神の愛の力によって、私たちを内側から根本的に変えてくださる、そのような権威です。
 外側から力や恐怖で脅して私たちを無理やり変えるのではなく、御言葉を繰り返し繰り返し語ることで、それを聞く人自身が内側から(時間がかかっても)変わっていくような権威が、イエス様がお持ちであった権威です。
 神は今も忍耐を持って、繰り返し神の言葉を、私たちに語ってくださっています。そのような神の忍耐と、神の言葉の中に、本当の権威があるのです。

しかし私たち人間は、神の言葉に反発しようとする性質があります。今日の箇所では私たちを神に反発させるものとして“汚れた悪霊”が描かれています。
イエス様が教えておられた会堂の中に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、その人がこう叫びます。

「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(34節)
 「かまわないでくれ(あなたと私と何の関係があるのか?)」~これは、“わたしを一人にしておいてくれ、かまわないでくれ”という叫びです。
 悪霊や悪魔が、どのような存在であるのか、それは私たちにははっきりとは分かりませんが、しかしそれらは確かに存在します。聖書がそのことを明確に告げているからです。
今日の箇所で描かれる汚れた悪霊から判断すると、悪霊の働きは、わたしたち人を孤独にさせるものです。私たちを神の愛から遠ざけようとする存在です。“神などいなくても、わたしは一人で十分やっていける”と私たちに思わせる存在です。
“神などいなくても、わたしは一人で十分やっていける”、“他の人などいなくても(お付き合い程度に、ある程度関わりはもってもいいけれども)わたしは十分にやっていける”、今日の箇所で描かれる悪霊は、人間にそのような間違った思いを抱かせる存在です。

しかし、私たちは決して一人では生きていけません。真の神との交わりがなければ、私たちは霊的に死んでしまうのです。
そして真の神の交わりに生きる生き方は、自分以外の他の人とも親密で霊的な交わりをもつようにと私たちを促します。

ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。

わたしたちも、このような思いを(キリスト者であっても)持つことがあるかもしれません。
 2000年前に十字架刑で死んだ一人のユダヤ人が、今の私と何の関係があるのか?しかし、そのお方が今の私たちとも大いに関係があるのです。そのお方の存在、イエス様の十字架の死がなければ、今の私たちの命もないのです。
 わたしたちは全てを分かっているわけではありません。神の事柄について、聖書の言葉について全てを知り尽くす、語り尽くすとういことはわたしには出来ません。牧師である私にもそれは絶対に不可能です。
 しかしそれでも、私たちがこうしてキリストの教会として立てられ、集会(礼拝)を続け、神の言葉を語り、分ち合い続けるのは、神を信頼し続けるのは、次の理由に拠っています。
 人として生まれた神の子イエス・キリストがいなければ、私たちは真の意味で生きていくことはできないからです。
そしてイエス・キリストがこの私たちと共にいてくだされば、この世の何ものをも、悪霊さえも恐れることは全くないからです。そのことを私たちは信じているからです。
 私たちは繰り返し繰り返し神の言葉(聖書の言葉)を聞き続け、私たちに対する神の愛、神の守りをますます知っていきましょう。神の言葉を自分の中に豊かに蓄え、神と共に生きる命を喜びたいと願います。

 今日の箇所でイエス様が「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその人を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った、と書かれています。
イエス様のお言葉以上に強いものはないのです。お言葉一つで、どんな悪の力をも退散するのです。ですから私たちはイエス・キリストの言葉一つ一つを、悪に立ち向かう武器としても、心に蓄えねばなりません。
 悪霊はその男の人に何の傷も負わせることもできませんでした。どんな悪の力も悪霊も、真の神の力の前に私たちを少しでも傷つけるような力を持ってはいないのです。
 それほどに力強い神の力が、今も私たちには聖書の言葉として与えられています。悪に打ち勝ち、私たちを根本的に変え、変革させる権威ある神の御言葉にいつもより頼みつつ、私たちは信仰の日々を歩んで参りましょう。

2023年10月14日土曜日

2023年10月15日 主日礼拝

招詞  詩編119篇105節
賛美  新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
主の祈り
献金
聖句  ルカによる福音書11章29~36節
祈祷
宣教 「わたしの目が見ているものは?」
*本日は信徒説教につき、音声データはありません  
祈祷
賛美  新生讃美歌 296番 十字架のイエスを仰ぎ見れば
頌栄
終祷


皆さん、おはようございます。牧師が小倉教会での宣教に出かけておりまして、今日は私が宣教を担うことになりました。想像していたより、難しくて、とても苦しかったです。牧師が宣教の準備をするときはもっと優しくいっぱい祈ろうと思いました。
しかし、兄弟姉妹が祈ってくださいましたので、本当に心強く頑張ることができました。感謝申し上げます。

今日選ばせて頂いた聖書個所は教会学校の成人科で皆さんと一緒に読んだ箇所です。成人科では、秋吉さんのリードの元でルカによる福音書を読み進めていますが、8月20日に読んだのが今日のところでした。
その前の週の教会学校では今日のところの前の部分を読みました。その箇所には、イエス様が口を利けなくする悪霊を追い出して人を癒したので、ある人達が“この男(イエス)は悪霊の力によってこんな奇跡を行った!”と言ったり、イエスを試そうとして天からのしるしを求める者がいた(11:14~16)とありました。

それに対し、今日の箇所でイエス様は「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言っておられます。

教会学校では皆さんが色々分かち合いをしていました。その話を聞きながら、その時まで気が付いていなかった点にいくつか気が付きました。
分かち合いの途中で気が付いたのは、前半部分の 「人々がしるしを欲しがる」のをイエス様が叱るところと、後半の「体のともし火は目」というところが繋がっていることでした。
それまでは、その二つの関連性はあまり考えずに、ただそういうものだと思って読んでいました。

でも、イエス様は、「目に見えるしるし」の話しに繋げて、私たちの「目」はどうあるべきかを教えてくださったのです。

「よこしま」という言葉を調べてみたら、「横になっているさま(様子)を表して、「正しくない」「道理にはずれた」という意味があるそうです。
態度が横になっていて、イエス様を真正面から向き合おうとしない態度です。横になっているとは、おそらく不純な動機と悪意をもって人を試そうとする態度、Having an attitude of lying down is an
また、すでに自分の考えでいっぱいで、相手の言葉に耳を傾けようとしない態度のことでしょう。

しるしを求めている彼らは今までイエス様の言動や奇跡を一度も見たことがなかったのでしょうか?今日読んだ箇所はルカによる福音書の11章ですが、前の何章かをめくってみると、既に多くの奇跡が行われていたことが分かります。
会堂長のヤイロの娘を癒したこと、やもめの一人息子を生き返らせたこともありました。あの有名な、五つのパンと二匹の魚で5000人を食べさせた奇跡もありました。うわさはユダヤ全地域に広まっていたとも書いてあります。
おそらく、この人たちもイエス様の言動や奇跡を見たことがあったでしょう。噂も沢山聞いていたはずです。それでも、この人達はまだイエス様が信じられない、あるいは、認めることができないでいたのです。

そんな人達からしるしを求められたら、私なら、あなたたちに与えるしるしは「もうない!」と言いそうですが、イエス様は「ヨナのしるしのほかには与えられない」と言いました。言い換えれば、「ヨナのしるしは与えられる」ということです。
ヨナは旧約聖書のヨナ書の預言者です。海に投げられて、お魚のお腹の中で三日三晩いましたが、劇的に生還しました。そのヨナがしるしとなって、二ネべという国の人達は、真のイスラエルの神、本当の神様を恐れて悔い改める運動が起こったのでした。
ヨナが海に投げられて、お魚のお腹の中で三日三晩いたのに生還した、この信じられない奇跡の「しるし」を、イエス様はご自分が十字架で死んで三日目に復活する「しるし」と重ね合わせたのでした。

このすぐ後に、イエス様は突然、ともし火や目の話しをします。

もう一度、読んでみましょう。
「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。
だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。

あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」
ともし火とは、イエス様のことです。神様はイエス様というともし火を灯して、入って来る人誰もが見えるようにされました。確かに、イエス様は見ることができる存在として世に来られました。昔々あるところに住んでいた人ではなく、歴史の中で生きた歴史上の人です。
公生涯の間は弟子たちと共に生活していましたし、多くの群衆の前で話して、奇跡をなさって、最後は十字架にかかりました。そして多くの弟子が命をかけて証ししたのが、イエス様は復活した、ということでした。

おびえてイエス様を捨てて逃げていた弟子たちが、イエス様の復活を見て、聖霊を受けてからは、世の権力も迫害も死も恐れずにイエス様が神の子であること、復活したことを公に語り伝えました。これらのことはみな聖書に書いてあります。
ともし火が燭台の上に置かれて周りを照らすように、イエス様も人々が見られる位置にいつもいらっしゃるということです。
そのイエス様というともし火を、私たちが自分の目でしっかり見つめる時、私たちの目は澄んでいて、全身が明るくなると教えてくださいました。
目が澄んでいれば、と言う言葉は英語では when your eyes are good と分かりやすく書いてあります。
目が良ければ、体も良いということです。また全身が明るくなるとは、心だけでなく、他人が見ることのできる全身も明るくなるというのです。

ここで、明るいとは、アルバイト募集の時に明るい方大歓迎みたいな、性格が良くて笑顔で、的な意味ではないと思います。
聖書がいう全身が明るいとは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制が私たちの人格に現れることだと思います。これは、カラテアの信徒への手紙の5章の有名な「聖霊の実」の箇所です。
聖霊は私たちの中にいらっしゃるので、その姿を目でみることはできませんが、その方と深い交わりの中で生きる時、段々と見えるような形で、私たちの人格にこれらの実が現れると言うのです。
愛がある人、真の喜びが溢れる人、平和がある人、本当に心から優しい人、その上に誠実で、自己節制がある人!素敵すぎです。
私たちの目が良ければ、これらの実が現れて、全身が明るく、他人にも見えるようになるとだと、イエス様は教えてくださいました。今日は、全身が明るくなるためには、どうすればいいのか、もっと探ってみたいと思います。
イエス様は、一言、「目が良ければ」と教えておられます。目が良ければ、全身が明るいのです。
「目が良い」とは、イエス様というともし火をしっかり見つめることです。イエス様という「ともし火を見つめる」ためにはどうすればいいでしょうか。

その一つは、自然の中で、神様を見出すことです。自然啓示とは、目に見える自然界を見て、目に見えない神様のメッセージに気づくことです。
天、海、太陽、月、星、木や花、それを見るとき、それ自体をあがめるのではなく、それらを創った創造主に思いをはせることです。
私が好きな番組でNHKの「ダーウィンが来た」とか「人体の神秘」がありますが、本当に神秘です。
神と秘密と書きまして、神秘ですね。
人間が指一本加えることもできない、美しく繊細でものすごい力の働きが、生物・動物の生体にはありますし、今この瞬間も私たちの体の中で働いています。
NHKでは神様ということばは使っていませんが、本当に神の存在を思わずにはいられません。
また、「イエス様というともし火を見つめる」とは「聖書」を読むことです。イエス様はこの世にことばとして来られたと書いてあるように、みことばを見ることはイエス様を見ることになります。
聖書は、イエス様に対する証しで満ちています。特に今回は、「見る」ことが宣教のテーマだったので、聖書を読むたびに、「目」や「見る」との単語が目につきました。他にも沢山あると思いますが、最近読んだ聖書箇所をいくつか紹介します。

(コロサイの信徒への手紙1章15~16節a)
御子(イエス)は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 天にあるものも地にあるものも、
見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。

パウロがローマの獄中でコロサイの信徒へ書いた手紙に、この祈りの文が入っています。

ヨハネの手紙1章1節から、
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。
イエス様の一番の愛弟子の一人だったヨハネがヨハネの手紙をこのことばで初めています。自分は神の子イエスを目で見て、その声を聞いて、手で触れたと感動をもって証言しています。

これらの聖書のことばを見るとき、その存在を静かに思うとき、私たちの目は神様、イエス様を見つめることになるでしょう。
この宣教の準備をしながら、私自身が一番恵まれました。教会学校で、皆さんの口から出てくることば一つ一つが大事な真理を含んでいて、聞いているだけで恵まれます。そして、ひらめきが与えられます。
また、家で宣教の準備の為に何度もくり返し読んで黙想しながら、目で見ることの大切さを今までなく強く意識するようになりました。

人は自分が見るものから影響を受けます。家族が似てくるのを見ると、いつも触れているものは大きな影響力があることが分かります。
実際の私の目が何を見ているのか、スマホ、韓国ドラマ、人々の顔色に目が行きがちです。
また、私の心の目は何を追いかけているのか、人の良くない癖、自分が人からどう見えるか気にする目、心配ごとに心が塞がってその問題だけに心の目がいきます。
また、私の心の目は、自分自身を見すぎていることもしばしばあります。自分のことで頭がいっぱいになってる時があるんです。
そういう時、わたしの目は暗くなっていて道に迷いやすくなります。その時がイエス様を思い起こすタイミングです。

実は、教会学校で学びをした次の日の朝、少し早く目が覚めたので、祈りをしていました。
その時、一つの心配ごとがあって、祈ってはいるものの、心が塞がれた状態でした。その時、前日に学んだ聖書の箇所が心に浮かんできました。
イエス様や奇跡を目の前で沢山見ていても、まだ、信じることができなかった人達と同じように、私も、クリスチャンになって26年の間、多くの奇跡を見てきました。

祈りが答えられた経験、大きなものや些細なものまで、その時すぐは分からなくても、ふり返ってみたら、実に多くの祈りが聞かれていました。
みことばも沢山読みました。しかし、まだ、「見ても見ても」まだイエス様を信頼するのを躊躇って、心配が晴れないのです。
その時、見ても見ても信じないで祈るいのりから、一言を祈ってもイエス様が誰なのか思い出して、信じて祈らなくてはいけないと教えられました。
この日以来、ほぼ毎日と言ってもいいくらい、このことば「見ても見ても(まだイエス様を信頼出来ずに心配するのか)」は、私の頭に浮かんできて、私を戒め、私の信仰をはげましてくれています。
その教えにとても感動し、教会学校での学びに心から感謝をしたので、この個所を宣教箇所に選びました。皆さんと、分かち合いたかったです。
イエス様のことは、信仰に入った人は皆分かっていますが、まだ教会に来てまもない方もいらっしゃるので、私が聖書から学んだイエス様をもう一度紹介して、宣教を終わります。
イエス様は、その人柄と言えば、皆が蔑むような人といっぱい語り合って、ご自分が誰なのか優しく説明してくれるお方です。
病人の病気を癒し、あなたの信仰があなたを救ったと、あなたの罪が赦されたと宣言してくださる優しいお方です。
力と言えば、水の上を歩くことがおできになり、何千何万の人をわずかなパンと魚で満腹にさせることができるお方です。

その聖さは、人間の偽善や隠れた罪を遠慮なくお叱りになります。私たちはいつか、この方の聖さの前に立って、自分の人生の申し開きをしなければなりません。
イエス様の人生の最期は私達の罪を赦すためにご自分が代わりに十字架につけられました。
骨がことごとく外れて、舌が顎にくっついたという生々しい表現が詩編にありますが、イエス様は何の為に、人が一番恐がる、辱めを受け、侮辱されて、呪われて死んだのでしょうか。
聖書からまた教会でぜひその答えを見つけてほしいです。
自分の考えでいっぱいでイエス様のことばに耳を傾けないよこしまな態度をすてて、イエス様を見つめ、その方を信じるようになる時、私たちの全身は明るく照らされると約束されています。
誰よりも、イエス様ご自身が、私たちが、私たちの人生が明るく照らされることを願っておられます。

2023年10月7日土曜日

2023年10月8日 主日礼拝

招詞 マタイによる福音書28章20節b
賛美 新生讃美歌 105番 くしき主の光
主の祈り
献金
聖句 出エジプト記3章1~12節
祈祷 
宣教 「わたしはあなたをファラオのもとに遣わす」
https://youtu.be/BTJBIiyUT6U
祈祷
賛美 新生讃美歌 21番 栄光と賛美を
頌栄 新生讃美歌 674番
頌栄


 旧約聖書『出エジプト記』のモーセに関する物語から、今日もわたしたちは神のメッセージを共に聞いてまいります。
 奴隷としてエジプトに住むイスラエル人の子供として生まれたモーセは、生まれた時から三ヶ月の間、母親によって隠されていました。
その時、イスラエル人の数が増えてエジプトにとって脅威(敵)になると恐れたエジプト王のファラオが、「生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め」と命令していたからでした。
 赤ちゃんのモーセを三ヶ月以上は隠しておけなくなり、モーセの母親はモーセをパピルスの籠に入れて、ナイル川の葦の茂みの中に置きました(2章3節)
 母として、それ以上はわが子を守ることができないという状況の中で、モーセの母は、そのように我が子を手放さねばならなかったことに、大変な悲しみと苦しみを覚えたでしょう。

しかしモーセの母は、神に向かってその時必死に祈りもしたでしょう。そして彼女は祈りを通して“イスラエルの神、主なる神が必ずわが子を救い出してくださる”と信じていたのだと私は思います。
 苦しみ、悲しみの中にも、私たちは神に祈ることができます。苦しみ、悲しみ、絶望のように思える状況の中にも、神がきっと助けてくださる、と私たちは信じることができます。
聖書はあらゆる箇所で、そのことを私たちに約束してくれています。出エジプト記も、まさに神の助け(救い)の物語です。

 モーセはエジプト王のファラオの王女によって見つけ出され、そして川から引き上げられました。そしてなんと、モーセの実の母が乳母として、モーセを育てることになりました。
 モーセは大きくなると王女のもとへ連れて来られ、エジプト王女の子としてモーセは育てられました。人では想像できない程の奇跡的な出来事を通して、神はモーセの命を救われたのです。
 モーセは成人したある時、同胞のヘブライ人(イスラエル人)がエジプト人に打たれているのを見て、憤りに駆られてそのエジプト人を打ち殺してしまいました。
 モーセは、そのことは誰にも知られていないと思っていましたが、モーセがそのエジプト人を打ち殺し、その死体を砂に埋めたということが人々に、またファラオにも知られていることが分かりました。
 王のファラオは、そのことでモーセを殺そうとしたので、モーセはエジプトから逃げる他なくなり、ミディアン地方へとたどり着きます。

モーセそこでミディアンの祭司の娘ツィポラと結婚し、子が生まれてその子はゲルショム(“寄留者”を意味するヘブライ語に基づいて)と名付けられました)
 モーセはその時、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったと、今日の前の箇所の出エジプト記2章22節に書かれています。
王宮からも離れ、また同胞のイスラエル人たちからも離れて暮らす自身の境遇を、モーセを“寄留者”と思ったのです。

 今日の箇所はそれに続く話です。
新約聖書の『使徒言行録』の7章に、ステファノという人が、イエス・キリストを信じる信仰のために迫害され、ユダヤの最高法院に引き出されて裁きを受けたことが記されています。
 ステファノは最高法院での裁判で、アブラハムから始まるユダヤ民族の歴史を、聖書(旧約聖書)の物語に基づいて話しました。
 ステファノは、聖書の物語を丁寧に語り直すことで、自分たちの先祖のイスラエル人たちが、いかに頑なで聖霊に逆らい、主なる神の御心に逆らい、罪を犯し続けたかを語りました。
 そして「あなたたちは自分たちの先祖と同じ罪を犯してはいけない。神に逆らい、神の恵みを拒んではいけない」とステファノは訴えかけたのです。
ステファノが語ったところによりますと、モーセ、同胞のイスラエル人を打っているエジプト人を打ち殺した時、モーセは40歳でした。(使徒言行録7章23節)
 そしてさらに、それから40年経った後、柴の燃える炎の中で、天使がモーセに現れたと(今日の聖書箇所)、ステファノの説教の中には記されています(使徒言行録7章30節)。

 ですから、今日の聖書箇所で、モーセは80歳だったということになります。つまりモーセは40年間、ミディアン地方という彼にとっては異国の地で、義理の父の羊の世話をするという生活を送ったのです。
 王宮での生活からいきなり羊を飼う生活への変化はモーセにとっては、大変辛い経験であったと思います。
 しかし羊飼いとしての生きるその40年間は、それから神に選ばれイスラエルの民たちの指導者、神の言葉を預かる預言者となり、出エジプトを導くことになるモーセにとって、必要な成長の過程であったとわたしは思います。
 王宮での豪華な、おそらく贅沢な何不自由ない生活から一転しての、羊飼いとして人生は、モーセに後に民の指導者となるために必要な忍耐力、そして自分自身でなく神を頼ることを学ぶ年月でもあったのではないでしょうか。
 ですからわたしたちも、今の苦しみは、今の自分の成長のため、あるいは将来自分に与えられる大切な責任を果たすための力をつける過程だと、信じることができます。

 モーセが羊の群れを飼っていたある時、その群れを荒れ野の奥へ追っていき、神の山ホレブに着きました。
 その時、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れました。そしてモーセが見ると、柴は燃えているのに、その柴が燃え尽きないという不思議な様子を見ました。
モーセは「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」と言って、モーセはその柴に近づきました。
 そこで神がモーセに語りかけます。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(5節)
 これは、神は人が近づいていけるようなお方ではないことが表されています。人が神に近づき、その御顔を見て、その存在を理解するということは不可能なのです。
まず神は私たちに比べて、あまりに大きく偉大なお方であるからです。神はあまりに偉大で、私たちの能力でそのお方の本質や存在を完全に理解することはできないお方です。
そして次に、神と私たちとを隔てている原因である、わたしたち人間の罪があります。
人は自分中心になり神の御心に逆らい、神から離れるという罪を犯したので、神を見て、神のご栄光をいただくことができなくなってしまったのです。
 しかし神は、7節以降で神ご自身が言われるように、苦しむご自分の民の声、叫び声を聞き、それを放ったままにしてはおかれませんでした。
 私たちの神はそのようなお方です。私たちがどれほど罪を犯して神から離れ、神に敵対し、また罪のために人同士で敵対しながら生きていても、神は私たち人が苦しみ叫び、痛むことを放っておくことはお出来にならないのです。
なぜかと言えば、それは神が、ご自身がお造りになった世界を愛し、またご自身がお造りになった私たち人間を限りなく愛してくださっているからです。
 “その痛みを知った” I am concerned about their suffering(7節)とは、知識として知ったということではなく、神がご自身の痛みとして人の痛みをお感じなった、心から憐れんでくださったということです。
 ただそのことを知識として知っているとか、ある程度理解する、というのではなく、神は私たちの苦しみ、痛みを全くご自身のこととして、その身に引き受けてくださったのです。

 それが新約聖書の中で記されるイエス・キリストの十字架の出来事です。
この世界を創造し、地上に生きるあらゆるものをお造りになった神が、私たちの苦しみ、痛みを、悩みをご自身のこととして知っていてくださるということがイエス・キリストの十字架によってはっきりと示されたのです。
 私たちはこの世では困難、苦難がありますが、私たちの苦しみをご自身のこととして引き受けてくださり、私たちの苦しみを完全に分かってくださっている神に、私たちはより頼みつつ、日々を生きていくことができるのです。
 ですから、わたしは一人ではない。苦しくても。~このことをイエス・キリストの十字架がいつも変わらず私たちに向けて示し続けてくださっています。その神の恵みにより頼んで、私たちは生きていくことができるのです。

神はモーセに、「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と言われました(10節)
 主はモーセの人生に計画をお持ちでした。なぜモーセが川から引き上げられ、そして王宮の生活から羊飼いの生活へと移されたのでしょうか。
それはモーセが神の召しを受けて、イスラエルの民を奴隷生活から救い出すという神の救いの計画の器として用いられるためでした。

 神は私たちそれぞれにご計画をお持ちです。神は愛と憐れみ、そして神の御心に基づいたご計画をもって、わたしたちをお造りになりました。聖書全体のメッセージが、そのように私たちに伝えるのです。
私たちに与えられた計画は、モーセの場合のように、「出エジプト」として聖書に記録されるような、そんな大きなことでは、おそらく、ないでしょう。
しかし、たとえそれが人の目には小さく、目立たない事であったとしても、神は私たちひとり一人の命に、すばらしいご計画をお持ちです。神が私たちにご用意してくださった、その計画を信仰によって私たちは見つけていきたいと願います。
「わたしがあなたをファラオのもとに遣わす」と神に言われたモーセは、そこで大変躊躇いたします。

モーセは「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と神に答えました(11節)
新しい道を踏み出そうとする時、たとえそれが神の御心だと分かったとしても、人は躊躇することがあります。不安になることがあります。”なぜ私ですか?”と言って、わたしたちは躊躇するのです。
モーセは神に直接言葉をかけられても、ファラオのもとへ行きイスラエルの民をエジプトから導きだすなどということが自分に出来るのですか、と恐れて、そのように神に問いかけたのです。

12節の神の言葉をお読みします。
「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
神がモーセに約束してくださいました。そして神は今の私たちに向けても約束してくださっています。「わたしが必ずあなたと共にいる」
神が必ず私たちと共にいてくださる~この恵みの真実が私たちを日々支えてくれています。神はわたしたちと、いつも共にいてくださいます。
神は、私たちが聖書を読む時だけ、あるいは教会での集会に参加している時だけ、わたしたちと共にいてくださるのではないのです。
神はいつも私たちと共にいてくださる~これが神の変わらぬ約束なのですから、わたしたちはいついかなる時も、この神の言葉(約束)の真実により頼んで生きることができるのです。
 いつもわたしたちと共にいてくださる神、日々注がれる神からの恵み、信仰の目によってそれらを目に止め、感謝と喜びの日々を歩んでまいりましょう。