2024年1月27日土曜日

2024年1月28日 主日礼拝

前奏
招詞 イザヤ書25章1節
讃美 新生讃美歌 80番 父の神 われらたたえる
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句  コリントの信徒への手紙二 1章12~22節
祈祷
宣教  「神は真実な方です」
祈祷
讃美 新生讃美歌495番 主よ み手もて
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏

 今日の聖書の箇所は、新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』の1章の中の一部分です。パウロというキリスト教の伝道者が、ギリシアのコリントという都市にあった教会の信徒たちに宛てて書いた手紙です。
 コリント教会は、パウロの伝道によって立てられた教会でした。『使徒言行録』Actsという書に、パウロが初めてコリントへ行った時の様子が記されています(使徒言行録Acts 18章)。
 使徒言行録の17章では、パウロがコリントへ行く前に、ギリシアのアテネへ行ったときのことが記されています。そこでパウロはアテネの哲学者たちを相手に、イエス・キリストこそが主である、ということを熱心に伝えようとしました。

 最初はパウロの話を興味深く聞いていたアテネの哲学者たちも、パウロの話がイエス・キリストの復活に及ぶと、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言って、パウロを嘲笑い去って行った、と書かれています(使徒17:32)
アテネの哲学者たちは、パウロの言うことの大切な部分(キリストの復活)を真剣に聞こうとはしませんでした。
 しかしそのアテネでも、パウロの言うことを信じた人たちもいた、と記されています。同じ福音を聞いても、信じる人と信じない人がいます。同じ話を聞いても信じる人と信じない人とに分かれるのは、不思議です。
 聞いたその時は信じなくても、時間が経ってから、ずっと後になってから信じるというケースもあります。人が主イエス・キリストを信じ、受け入れるのには、そのために(神によって)備えられた時とタイミングがある、ということなのでしょう。

 ですから私たちも、伝道の結果がなかなかすぐには現れなくても、家族や友人、知人へ伝道しても、なかなか信じてくれない、教会に誘っても来てくれない、そのようなことがあっても、神が備えられた時があると私たちは信じ、伝道活動の結果については、神に委ねていきましょう。
 私たちが福音を信じ、福音をイエス・キリストの愛を持って伝えるならば、その働きが神の前に無駄になることは決してないのです。
 福音に生き、福音を伝える働きに仕えることができる幸いに、私たちは感謝したいと願います。
パウロは、アテネの後にコリントへ行きました。パウロはコリントでも、そこにいたユダヤ人たちから激しく反抗されたりと、大変な困難にあいました。

しかし、コリントではパウロの言葉を聞いて、多くの人々がキリストを信じ、洗礼(バプテスマ)を受けた、とも使徒言行録18章に書かれています。
多くの人が信じ信者になったと言っても、この時はまだコリントには、(おそらく、パウロが訪れた他の都市でも)一つの大きな集会所(教会の建物)はありませんでした。
人々は、各自の家や講堂など、人が集まることができる場所を見つけて、礼拝をしていたそうです。
 イエス・キリストの福音は人と人とを結び付け、共に集まって神を礼拝する集会が、そのようにしてあちらこちらで生まれました。

  今のように教会の建物がない状況では、今の私たちには分からない色々な苦労が、人々が集まって礼拝する時にあっただろうと想像されます。
 今私たちには、立派な教会の建物が与えられています。礼拝や集会をするための、この素晴らしい教会が、神からの賜物として私たちに与えられていることを、改めて私たちは感謝したいと願います。
 またこれからもこの教会堂を大切に維持、管理していく(それも福音宣教の働きのため)責任も、私たちは自覚をしたいと願います。
今日の箇所の最初に書かれているのは、伝道者としてのパウロの行動は「人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきた」ということでした。

 「人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきた」―そのことをパウロの良心も証しし、それが彼の誇りでもある、というのです。
 この言葉から分かることは、キリストを信じる信仰を通して私たちは、“誇り”を得られるということです。
 その誇りは自分に根拠を置いた誇りではありません。キリスト者が得られる誇りは、人間の思いや知恵、人の努力や行動を越えた、神の真実と神の恵みに基づく誇りです。

ここでパウロは、自分たち(パウロと、彼を助けて伝道の働きをしたパウロの仲間たち)の行動を誇っているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
彼の誇りの源泉は、あくまでキリストを通して彼を救い、新しい命に生まれ変わらせてくださった主なる神です。
私たちも、キリストを信じるならば、そしてキリストによって生まれ変わり、新しい命を頂いたのならば、私たちは常に自分自身ではなく、主なる神を誇るようになるのです。
そして主が私たちに与えて下さる恵みの下にいつも行動できるようになります。主の恵みによって私たちは生かされ、何ものをも恐れなくてもすむ強さも、主の恵みによって頂けるのです。

コリントの教会は色々な問題を抱えていました。信徒同士の間でグループに分かれての論争や、キリスト者としていかに生きるかという信仰の実践面でも色々と意見の対立がありました。
それら一つ一つにパウロは対処しながら、信者がキリストにあって一つになることの大切さをパウロは語り続けました。
人が集まれば必ず問題がおきます。それは教会でも同じです。しかし、問題が起きることが問題ではありません。問題が起きたときに、その問題にどう向き合うのかが、問題です。
 教会で仮に問題が起きたとして、私たちが人間的な思いや人間の知恵ではなく、聖書を通して示される神の純真と誠実、神の恵みに感謝をして、問題の解決に向けて努力できるかどうかが、大切です。

 ある問題がすぐには解決できなくても、たとえ時間はかかっても、イエス・キリストの恵みと福音は常に変わらず私たちと共にあるのですから、キリストの恵みをいつも頂きながら、私たちも、困難なことがあっても、共に信仰生活を共に送ってまいりましょう。
パウロは、今日の箇所で、コリントの教会の人たちから、あることを理由にして非難されていたようです。
 15~17節に書かれていることから推測すると、パウロはコリント教会を一度離れてから、すぐにまた彼らのところへ戻って来る予定にしていたのに、その二回目の訪問ができなかった(延期した)ということがあったようです。

パウロはそのことについて何と述べているでしょうか。18節~20節をお読みします。

18神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。
19わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。
20神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。

 少し分かりにくい表現もされているとは思いますが、パウロは自分たちが語った言葉、すなわち彼らが宣べ伝えたイエス・キリストは常に“然り”(その通り)だと言うのです。
 パウロはある事情のために、コリントをもう一度訪問するという予定を変更する必要が生じました。そのことでパウロを非難する声がコリント教会の人々から上がりました。
そのような非難に対しても、パウロは変わることのないイエス・キリストを堂々と指し示し続けることによって応答したのです。
細かな理由や言い訳でなく、全てを主に委ねて、イエス・キリストを指し示しつつ、パウロは応答したのです。

 パウロも含め、人間は弱く、罪深い存在ですから、必ず間違いを犯すことがあります。
しかし、そのような私たちに、決して変わることのない(そのお方において神の約束がすべて実現した)イエス・キリストが、私たちには与えられています。
 繰り返しますが、私たち人はいつでも間違いを犯し得ます。間違いを犯した時には、それを認め、反省することが大切です(それがなかなか難しいことですが)。
 しかし、神の子イエス・キリストにおいては、既にすべてが“然り”となったのです。キリストにおいて示された神の約束は永遠の真実であり変わることがない~この事には、わたしたちは常に確信を置くことができるのです。

 20節に「わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」と書かれています。
 「アーメン」とは、“その通りです。真実です”という意味で、私たちはイエス様を通して、イエス様のお名前によって、“神の御心がすべて成就しますように。必ずそうなります”と唱える(祈る)ことができるのです。

そのようにして、いつも私たちは真の主なる神を、讃えることができるのです。
 今日の箇所の最後の21~22節に次のように書かれています。

「21わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。
22神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。」

 私たちは、いつもイエス様と固く結び付けられています。神が私たちをイエス様に固く結び付けてくださっているのです。ですから何ものも私たちをイエス様から引き離すものはありません。
神は私たちの心にも“霊”を与えて下さり、私たちがキリストのものとされ、キリストの福音に与ることの保証としてくださっています。
 私たちの神は真実お方であり、神は決して変わることがありません。イエス・キリストにおいて成し遂げられた救いの出来事は永遠に有効、真実なのです。
その神から与えられた、イエス・キリストによる確かな希望の内に、今週の日々も信仰の道を歩んでまいりましょう。

2024年1月19日金曜日

2024年1月21日 主日礼拝

前奏
招詞 ミカ書6章8節
讃美 新生讃美歌 81番  父なるわが神
主の祈り
献金
聖句 ルカによる福音書5章12~16節
祈祷
宣教 「主よ、御心ならば」
祈祷
讃美 新生讃美歌494番  わがたましいを愛するイエスよ
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏


 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書の中の、全身に重い皮膚病を患った人が、イエス様にある願い事をする、という場面です。「重い皮膚病」は以前までの訳では「らい病」と訳されていました。
英語訳では”leprosy”(らい病)と訳されていますが、その欄外に説明されているように「“らい病”と伝統的に訳されてきたギリシア語の単語は、皮膚に影響する様々な病気に対して使われていた」というのが事実です。
この人がイエス様を見ると、イエス様にひれ伏して、こう願いました。

「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」
 
「主よ、御心ならば、(あなたは)わたしを清くすることがおできになります」とは、この人が、イエス様をどういうお方であるかを告白している、一つの信仰告白であるとも言えます。
イエス様は多くの病人たちを癒したり、人々から悪霊を追いだしたりしていましたから、この人もイエス様の噂を人から聞いていたのでしょう。
 この重い皮膚病にかかった人は、そのイエス様を見て、ひれ伏し“主よ”と呼びかけて、“わたしを清くしてください”と願ったのです。それはその人が信じる信仰を表わしていました。

 信仰とは何でしょうか?神を信じるとは、どういうことでしょうか。
神を信じる信仰とは、聖書に証された主イエス・キリストを自分の主、救い主として信じ、主に自分の全てを委ねる、ということです。
 そして信仰とは「神は何でもおできになる」と、神の全能を信じることでもあります。
 この重い皮膚病を患っていた人は、「あなたがそうお望みならば、わたしを清くすることがおできになります。あなたはそういうお方です」と言って、主であるお方を前にして、そのお方を信じるという信仰を告白したのです。

そしてこの人は「御心ならばif you are willing」と言って、あくまで主権は主であるイエス様にあることを認めています。そしてその上で「わたしは清くなりたいのです」という彼自身の希望もはっきりと述べたのです。
祈りとは、このようなものです。“御心ならば”と言って、神は私たちにとっての最善をご存じである、と信じつつ、“私はこう望みます”とはっきりと望むことを私たちは神に申し述べてよいのです。それが祈りです。
 この人が言った“清くなる”とは、まず彼の病気が治る、ということです。

 旧約聖書の『レビ記』13章に、当時の皮膚病の診断の方法、祭司がその皮膚病の人の患部を観察する方法が記されています。
患部を観察した結果、その人が「清い」のか「汚れている」かを、その症状によって判断する方法が、そこで細かく記されています。
 それには当時の医学的な知識が反映されているのかもしれません。おそらく感染の可能性を考慮して、症状によってはその人が隔離されねばならないことなども定められています。
 症状が治れば“清い”、治っていなければ“汚れている”と祭司によって宣言されることも定められています。
しかし、そこで“清い”、“汚れている”とは、あくまでその皮膚病の症状に基づいた判断であって、その人が神の前に罪を犯したかどうかという意味での清い、汚れている、ということではなかったはずです。
 しかし、だんだんと人々は、重い病気、あるいは障害は、その人、あるいはその人の家族の誰かが神に対して罪を犯した結果の罰だと、考えるようになっていきました。

 今、水曜日の祈祷会ではヨブ記を読んでいます。ヨブは神を畏れる正しい人で、悪を避けて生きていました。
しかし、ある時サタンが神と対話をします。サタンは、「ヨブが信仰深く生きているのは、神がヨブに豊かな富や家族を与えているからだ」と言いました。
すると神は、サタンがヨブに試みを与えることを許しました。その結果、ヨブの子供たちは災害で皆死んでしまい、そしてヨブ自身も全身ひどい皮膚病に侵されました。
神の前に正しく生きていたヨブが、サタンの試みのため、子供を失い、ひどい病に侵されたのです。
 ヨブ記は、人間の苦難について私たちに様々に考えさせる信仰の書です。いずれにしても、ヨブの重い皮膚病が、彼自身の罪とは関係がなかったことは明白です。

 しかし、ヨブの友人たちは、ヨブに「あなたがそのような災難に遭うのは、あなたか、あなたの子供たちが罪を犯したからだ」と言ってヨブを責めるのです。
 病気や障害が、誰かの罪の結果であるとは、それは人間には断言できないこと、分からないことなのです。
ある災害や病気、その他不幸な出来事が、私たちが犯す間違いや罪の結果だとは、私たち人には誰にも断言できないし、他者のことをそのように断罪すべきでない、ということです。

 重い皮膚病を患ったこの人は“主よ、御心ならば、わたしを清くすることができます”とイエス様に願いました。
 この人は、病気も苦しかったでしょう。しかし病気以上に、その病気のために“汚れている”と言われ続け、人が共に住む共同体から疎外されていた、という状況が一番つらかったのだと思います。
 “自分は重い病気を患っているけれども、それでも(いや、むしろそのような苦しみを抱えているからこそ)主であるあなたから見てわたしは清い、尊いのだと、教えてください”、とこの人は心から願ったのです。
 イエス様は手を伸ばしてその人に触れました。重い皮膚病の人に触れるとは、当時誰もしなかったことです。人は誰も触れようとしなかったその人に、イエス様は手を差しのべてその人に優しく触れたのです。
 もし今、誰からも理解されない、自分は疎外されている、とお感じの方がおられたら、この人に触れた優しいイエス様の御手が、私たちにも差し伸べられていることを、信じていただきたいと私は願います。

そしてイエス様は“よろしい、清くなれ”とその人におっしゃいました。するとその人の重い皮膚病はすぐに癒されました。
 この人が、他の人は何と言おうとも、彼のことを“汚れている”と言おうとも、「このお方の御心ならば、わたしは清くなれる」と信じ、そう願ったからこそ、この人は癒されたのです。
 私たち人が祈らないと、神は私たちの願いや必要なことを叶えてくださらないのでしょうか。あえて言うならば、その答えはイエスです。
 私たちが祈らなくても、私たちにとっての最善、私たちが本当に望むものを、神は全てご存じです。
しかし、私たちが、自分は何を望むのかということを真剣に考え、望み、それを神に向かって願い、祈ること、そして祈りが神に聞かれるという経験をするならば、私たちは神への信仰と感謝を増すことができます。

祈りが聞かれる経験を通して私たちの信仰の喜びと感謝が増し、そして神との関係を、私たちは更に喜ぶことができるようになります。
そして私たちは、祈りが聞かれる経験を重ねることで、私たちの祈りを聞いてくださる神のことを、他の人にも知らせたい願いと意欲がさらに湧いてきます。
 私たちが祈りの課題を他の信仰者に祈ってもらうことも、私たちの信仰の絆を強めることに繋がります。他の人に祈ってもらうことで祈りが聞かれた、という経験を通して、お互いに祈り合うことの喜びと感謝が増すからです。
 そのように、真剣な祈りを通して、神への感謝と信仰、私たちお互いの間の信仰の絆を私たちは強めていきたいと願います。
 イエス様は、その人の皮膚病が癒された後、「誰にも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」と言われました。

レビ記13章には、皮膚病の症状によって“清い”、“汚れている”と判断する基準が記されている、と最初に申し上げました。
レビ記14章には、症状が治って“清い”とされた人が、清めの儀式で献げ物をすることが定められています。
イエス様は、その人に、当時の律法通りに祭司に自分を見せて、清くなったことを証明してもらい、清めのための献げ物をしなさい、と命じました。
 つまりイエス様はその人に、“信仰の共同体、他の人と共に生きる共同体の中に戻って行きなさい”と命じたのです。
 この人が願ったことは”清くなること“でした。それは病気の癒しだけでなく、そのために外の人たちから隔離されていた状態から、人の群れの中に戻るということでもありました。

この人が願った通りのこと、そして私たち誰にとっても必要な‟他者と共に生きる”生活の中へ、この人は帰っていくことができたのです。
イエス様がその人に“誰にも話してはいけない”と命じられたのは、病気が治るという奇跡的な側面(見かけ上のこと)だけが強調されて人に伝わることをイエス様は恐れたのでしょう。
しかし、イエス様のうわさはますます広まり、大勢の群衆が集まってきました。
しかし、イエス様は人里離れた所に退いて祈っておられた、と今日の箇所の最後の節に書かれています。

 イエス様は、一人静まって天の父なる神に祈るときをいつも大切にしておられました。大勢の人たちが押し寄せてきて、一人静まれる場所を確保することはイエス様には難しいことだったと思います。
 しかし、イエス様は、父なる神への祈りの時間を大切にされ、神の御心をイエス様自身が知ることも大切にされました。
 そして天の父なる神との親密な時間、祈りの時を通して、イエス様自身が神の御愛を豊かに受けておられたのでしょう。だからこそ、イエス様は無限の愛を多くの人たちに、わたしたちに与えることができたのです。
神の御子イエス様にとっても、愛と力の源泉であった神への祈りの時、神との時間を私たちも大切にしてきましょう。
そして私たちの願いを、御心に沿って、必ず聞いてくださる父なる神がおられることを共に信じ、共に神を礼拝する時を、私たちは大切にしていきましょう。
 そのようにして育まれる神への信仰と感謝、お互いに祈り合い、共に礼拝することの喜びを私たちが本当に経験するのならば、そのような私たち教会の姿を通して、イエス・キリストの神はますますあがめられ、キリストの福音は私たちの周りへと拡がっていくのです。

2024年1月13日土曜日

2024年1月14日 主日礼拝

前奏
招詞 ヨハネによる福音書8章29節
讃美 新生讃美歌 260番 み言葉もて霊の火を
主の祈り
献金
聖句  出エジプト3章13~22節
祈祷
宣教  これこそ、とこしえにわたしの名
祈祷
讃美 新生讃美歌 86番 輝く日を仰ぐとき
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏

 今日の聖書箇所は、旧約聖書の『出エジプト記』3章の後半部分です。エジプトの王宮で育ったヘブライ人モーセは成人した後、同胞(仲間)のヘブライ人をかばおうとして、エジプト人を打ち殺してしまいました。
 その事が王のファラオにも知らされ、ファラオがモーセを殺そうとしたので、モーセはエジプトから逃げて行かなくてはなりませんでした。
  モーセは彼自身の正義感から、仲間のヘブライ人を助けようとしたつもりであったでしょう。
しかし、相手のエジプト人を打ち殺すというその行動は、モーセ自身の傲慢さ、まるで自分が神であるかのように振舞う、罪の行為でした。
それでも神は、モーセに逃れの道を用意してくださっていました。モーセが新しい生き方を始める道を神が用意してくださっていたのです。

モーセはミディアンという地方へ逃れていき、そこで結婚し子供も与えられました。
 そして出エジプト記3章の初めで、神がモーセに現れ、モーセに「エジプトで奴隷として苦しい生活を送っている、わたしの民(イスラエルの人々)をエジプトから導きだしなさい。わたしがあなたをファラオのもとに遣わす」と言われました。
 神にそのように命じられたモーセは次のように答えます。聖書箇所としては今日の箇所のすぐ前の3章11節です。
 「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
モーセは躊躇したのです。彼はエジプト王のファラオという絶対的な権力を持つ者の前へ行き、イスラエルの人々を導き出すということに、恐れおののいたのでしょう。
「わたしは何者でしょう。なぜわたしがファラオのもとへ行き、イスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と言って恐れ、躊躇するモーセの姿は、実は私たち全ての人間の姿を現しています。

 モーセの最初の疑問は「わたしは何者でしょうWho am I?」でした。この疑問に対して、私たちは何と答えるでしょうか。私たちは自分が何者(何)であるかを、知っているでしょうか。
私たちが聖書を通して知らされることの一つは、“自分は何者であるか”ということです。わたしたちは、自分は何者であるか、を聖書を通して、そして神との関係の中で見いだしていきます。
モーセは、自分がイスラエルの人々を率いて、エジプトから脱出させるような大変な役割を果たせるとは、到底思えませんでした。
モーセは仲間のヘブライ人をかばうためとは言え、あるエジプト人を殺してしまい、エジプトから逃げなくてはならなかった彼の過去に、ずっととらわれてしまっていたのかもしれません。

モーセはそのために、“私はずっと、私にとってはこの異国の地で、隠れるようにして一生を過ごして一生を終えるのだ”と諦めたような気持ちで日々を過ごしていたのかもしれません。
しかし、神はモーセに新たな別の計画を持っておられました。神はモーセを選び、モーセによって(それはあくまで神の力ですが)イスラエルの民たちを、エジプトから救い出そうとされたのです。
モーセは、とても自分にそのようなことができるとは思えませんでした。しかし神は、「私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と言われました。(12節)
“神が共におられる”、“イスラエルの人々は、あなた(モーセ)の背後に主なる神が共にいることを認める”、それが確かに神がモーセを遣わしたしるし(sign)、証拠だと神はおっしゃったのです。
 私たちの教会は、新しい年(2024年)の歩みを始めています。今年神はどのようなご計画を私たちの教会にお持ちでしょうか。

 また神は私たちひとり一人にどのようなご計画をお持ちでしょうか。神の道が私たちに示された時、私たちも今日の箇所の中のモーセのように躊躇してしまうかもしれません。
 私たちも自分で自分の能力の限界を設定してしまって、神が私たちに与えてくださっている豊かな賜物を見いだすことができず“私には(私たちには)できません”という思いにとらわれてしまうかもしれません。
 しかし、神がわたしたちと共におられます。それは今も決して変わることのない約束です。神の御心、神の御計画を祈り求めて、そして示された道を私たちは神に信頼して、共に歩んでいこうではありませんか。
 モーセは今日の聖書箇所で、次のように言っています。13節のモーセの言葉をお読みします。
 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

 モーセは、”もし私がイスラエルの人々のところへ行って、”神が私を遣わして、あなたがたをエジプトの地から導きだすように命じられた”と言っても、彼らは”その神の名は何か?”と聞くでしょう”と思ったのです。
 神はモーセに答えられました。「わたしはある」~それがご自身の名前だと神はおっしゃいました。
 「わたしはある」とは、とても不思議な名前です。そのヘブライ語の本文は、「わたしは、わたしがなろうとする者になるだろう」と訳することも可能です。
  神ご自身がモーセに明かされたその名前はとても不思議で、解釈しようと思えば色々な解釈が可能だと私は思います。

 しかし私たちにとって確かなことは、まず神は確かにご自身の名前をモーセに明かされたということです。そして“わたしはある”というお名前は、神はご自身の存在を、他の何にも依存していない、ということです。
 神はご自身で完全であり、他の何かによって造られたのでもありません。神が、私たちの世界の全てをお造りになった創造主です。それが聖書が一貫して私たちに伝えることです。
  モーセは“わたしは何者でしょう?”と神に尋ねました。モーセだけでなく、私たちは誰も自分で自分が誰であるか(何であるか)を知ることはできません。
 先程も申し上げたように、私たちは、私たちをお造りになった創造主なる神との関係の中で、神の目を通して私たち自身のことを知ることができます。
  私たちが自分だけを見ているならば、私たちは結局とても不安定な自分しか見つけることができないでしょう。根や土台といったものを持たない、不安定な自分です。
 しかし聖書は、私たちをお造りになった神がおられ、そのお方の名前が私たちに知らされ、そのお方の名は永遠に変わることがないと伝えています。
  神の名が永遠に変わらないとは、神ご自身が決して変わることなく、いつまでも私たちと共におられるということです。神がその約束をいつまでも守ってくださるということです。
 イザヤ書46章3~4節に次のように書かれています。神が私たちをお造りになり、その神が私たちを背負い続けてくださる、という約束の言葉です。

わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。
“同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

 私たちをお造りになった神は、私たちを背負い、救い出してくださると約束してくださっています。私たちが倒れても、神が助け起こしてくださいます。
しかし、それは私たちの人生の中で辛い出来事や困難がなくなる、ということではありません。
 今日の箇所の中でも、神はモーセに、「わたしがあなたと共にいる」と約束をしつつ、「しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が(あなたたちを)行かせないことを知っている」と言っています。
 つまり、神はモーセに、いつも“神が共にいてくださるから安心するように”という力強い励ましの言葉をかけつつ、“彼(モーセ)がこれから向き合おうとしているエジプト王は、そう簡単には言うことを聞かない”ということもはっきりと言っているのです。
 神が私たちと共におられますが、私たちが生きる道は時に長く、険しいものでもあるのです。
 しかしその長く険しい道を歩む過程で、危機的な状況を乗り越える経験を通して、私たちは私たちの能力や思いを越えた、神の確かな力と神の御愛を一層知ることができます。
  神が私たちと共におられます。ですから私たちは安心して、日々を、困難と悩みの中にも、神に信頼して日々を歩もうではありませんか。
 神が私たちと共におられる。それはイザヤ書の中で預言されていたイエス・キリストのこの世界への到来を表わす言葉でもありました。

 イザヤ書7章14節
 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

「インマヌエル」とは、ヘブライ語で「神が私たちと共におられる」という意味です。神はモーセに既に約束されていたその出来事を、イエス・キリストのお誕生を通して、私たち全ての人にとっての約束として、成就してくださいました。
 神はモーセに、ご自身の名(『わたしはある』)を明らかにしてくださり、モーセが他の人々にその名を伝えることによって、神が確かにモーセに現れたことのしるしとしてくださいました。
 私たちにも、確かな神の名、それはイエス・キリストの名、そしてそれはイエス・キリストの恵み、それらがすべて与えられています。
  「神はどこにおられるのか?」、「神の名は何と言うのか?」と私たちがもし誰かに聞かれるのなら、私たちはいつも聖書を根拠にして、次のように答えることができます。
 「私たちの世界のすべてをお造りになった神がおられる」、「神は人となり、イエス・キリストとして私たちに全てを与えてくださった」、「神はいつも私たちと共におられる」と確信をもって答えることができるのです。

それは私たち自身に基づく確信ではなく、神の確かな名、そしてイエス・キリストが世にこられた確実な出来事に基づく、確信だからです。
信仰を通して与えられる確信と安心、平安のうちに、日々を生きることができる幸いを私たちは感謝したいと願います。

2024年1月6日土曜日

2024年1月7日 主日礼拝

前奏
招詞 イザヤ書55章11節
讃美 新生讃美歌3番 あがめまつれ うるわしき主
祈りの時
主の祈り
献金
聖句 ルカによる福音書5章1~11節
祈祷
宣教 「しかし、お言葉ですから」
祈祷
讃美 新生讃美歌 506番 主と主のことばに
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏

 新しい年(2024年)の最初の主日礼拝を私たちはお捧げしています。新しい年もまた、私たちは礼拝を大切にし、礼拝を通して神様の言葉を共に聞き、神の言葉を分かち合っていきましょう。
 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書5章の最初の部分です。今日の箇所は、イエス様がシモン(ペトロ)、そしてヤコブとヨハネをご自分の弟子にするという場面です。 
 彼ら最初の弟子たちがイエス様に呼びかけられて弟子となるこの場面は、マタイ福音書4章18~22節、マルコ1章16~20節にも記されています。
 それら二つの箇所(マタイ、マルコの該当箇所)では、イエス様が漁をしていたシモンたちに「わたしについて来なさい」と呼びかけ、彼らがすぐにイエス様に従ったと、比較的簡潔に書かれています。

 しかしルカ5章の今日の箇所には、マタイ、マルコには書かれていない出来事が記されています。
 一晩中漁をして何もとれなかった漁師たちが、イエス様に言われてもう一度(昼に)漁をすると大変な量の魚が獲れた、という話です。この箇所を通して、神のメッセージを共に聞いてまいりましょう。
 イエス様がゲネサレト湖のほとりに立っておられます。ゲネサレト湖とは、ティベリアス湖、あるいはガリラヤ湖とも呼ばれる湖です。
  湖のほとりにイエス様が立っておられると、群衆が神の声を聞くために、イエス様を囲みました。
それまでに、イエス様は悪霊に取りつかれた人から悪霊を追いだしたり、色々な病に苦しむ人たちの病を癒されたりしました。病気を癒してほしい、悪い霊を追い出してほしいと願う多くの人たちがイエス様のところへやってきました。

 しかし今日の箇所で、大勢の人たちがイエス様を取り囲んでいたのは、“神の言葉を聞く”ためでした。群衆の中のある人たちは、イエス様が病気を治すことや、悪霊を追い出すということを期待していたかもしれません。
  しかし、イエス様が人々に伝えようとした最も大切なものは、神の言葉でした。病気や悪霊による苦しみを取り除くことも、イエス様がなさった大切なお働きでした。
 しかしやはり、イエス様の全てのお働きは神の言葉、神の国の福音(良き知らせ)を人々に知らせることを中心としていたのです。
ルカ4章でイエス様が荒れ野の中で悪魔から誘惑をお受けになった時、大変な空腹の中でもイエス様は「人はパンだけで生きるものではない(人は主の口から出るすべての言葉によって生きる)」という聖書の言葉をもって対抗しました。

イエス様はあちらこちらを巡り、人々の病気を治し、また悪霊を追いだしたりして、人々の苦しみを癒されつつ、イエス様はあくまで神の言葉を人々に伝えると言うお働きを続けられたのです。
そしてイエス様に接した人たちは、段々とイエス様のなさっていることを理解し始めたのでしょう。
“このお方が私たちに与えてくださる最も大切なものは神の言葉なのだ”と段々人々は悟るようになったのです。
ですから、今日の箇所で群衆はイエス様から“神の言葉を聞こうとして”、イエス様の周りに集まってきたのです。

 私たちも神の言葉を聞きたいという願いをもって教会に来ます。最初私たちは、色々な理由や思いをもって教会に来るようになったでしょう。
  教会には暖かい雰囲気がある、普通とは違う何か神聖な気持ちになれる、素晴らしい音楽がある、などの思いや理由で教会に通うようになった方もいらっしゃると思います。
 しかし、やはり教会の中心は常にイエス・キリストであり、イエス・キリストの言葉(神の言葉)です。神の言葉は、私たち教会が頂いている宝物です。
そして、神の言葉(御言葉、福音と言っても同じ意味です)が聞きたいと言う願いを第一として、やはり人は今でも教会に集まるのです。
私たちの礼拝全体、信仰による交わりを通して(言葉以外の方法でも)神の言葉が語られることはありますが、教会で神の言葉が語られる一番分かりやすい形は、まずは牧師の宣教(メッセージ)です。
 考えてみますと、神の言葉を語る、という本来人では出来ないはずの務めを牧師は担わされているのだと改めて私は思い、大変厳粛な気持ちにさせられます。
 ですから、牧師が神の言葉でない、自分の思いだけの勝手な話などをしたりしないように、皆さんにはぜひ祈って頂きたいとお願い致します。
私たちが教会に集うのは、今日、今この時、神が私たちに語ってくださると信じるからです。私たちが信仰によるそのような期待と希望をもって、こうして集う時、きっと神は今日私たちに必要な言葉を語ってくださいます。
神の言葉によって養われ、神の言葉によって日々を生きる力を私たちは頂いていこうではありませんか。

 今日の箇所で、群衆はイエス様を囲んで神の言葉を聞いていましたが、その時に近くで漁をしていた人たち(正確には、漁を終わって、網を洗っていた)がいました。
  彼らは、シモン(ペトロと言う名前をイエス様からのちにもらう)、ヤコブやヨハネという、イエス様の最初の弟子になった人たちでした。
  イエス様が人々に神の言葉を語っているその間に、彼らは漁の網を洗うという、いってみれば彼らの仕事をしていたのです。
  ここでのシモン達は、イエス様を囲んで神の言葉を聞いていた群衆に比べると、イエス様への関心がまだ低い人たち、と言う印象を受けます。
  彼らも、イエス様の話を聞きたい、という思いはあったかもしれませんが、彼らにはその時やらなくてはならない仕事があったのです。

 シモン達は、この時はまだ、イエス様が語っている神の言葉が、彼らの仕事を中断してまで聞かなくてはならないものだとは思わなかったのでしょう。
  そんなシモンにイエス様のほうから声を掛けられました。信仰は常に神からの呼びかけによって始まるのです。
イエス様はシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言いました。
 イエス様の言ったことは漁の常識に反することでした。漁は夜にするものだったからです。そしてその日(夜)は、シモン達は魚を全く獲ることができずに、彼らは網を洗っていたのです。
  シモンはそこで「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。

前の箇所のルカ4章38節からの箇所で、シモンの義理の母がイエス様によって病気を癒されています。ですからシモンはイエス様による癒しを、一度見ていたのです。
​​ ですから、シモンはイエス様には特別な力があることは知っていたでしょう。しかし、彼は漁については自分のほうが専門家だというプライドもあったかもしれません。
 ですから、“わたしたちは、既に夜通し漁をしました。(漁は夜にするものなのですよ)。しかし何もとれませんでした”と彼は言いました。
シモンは心の中ではイエス様に対して“先生、あなたは聖書のことや、神のことは良く知っているかもしれませんが、漁のことはご存じないないですね”と思ったでしょう。

 そのようなシモンの姿は、今の私たちにも当てはまるのではないかと、私は思います。
 イエス様を信じ、神の言葉を大切にしつつも、信仰というものがどこか自分の日々の実生活とはあまり結びついていない、ということです。
 神の言葉を聞くという私たちの信仰が、教会の中だけに留まっていることがわたしたちにはないでしょうか。
 そうではなく、神の言葉が私たちの生活のすべての領域(仕事(職場)や、勉強(学校)、家庭)を支配しているでしょうか。
シモンのここでの言葉は、そのような問いを私たちに投げかけると思います。
 しかしシモンはその時さらにこう言って、彼はイエス様の言うことに従いました。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう
 魚が獲れるとは、あまり期待していなかったでしょうが、シモン(ペトロ)は、イエス様のお言葉に、やはり特別な強い力を感じもしたのでしょう。彼はイエス様の言うことに従いました。
  するとおびただしい数の魚がかかり、網が破れそうになりました。別の船にも来てもらい、二そうの舟が魚で一杯になりました。
  本来魚が獲れるはずのない昼に、イエス様の言葉に従うことによって、考えられないほどの魚が獲れたのです。
  シモンはそれからこう言いました。

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」
 シモンは、最初イエス様のことを“先生Master”と呼んでいました。そう呼ぶことで、ある程度の尊敬をイエス様に置いていましたが、イエス様はまだ、シモンの全生活と彼の命を支配する“主Lord”ではありませんでした。
 しかし、イエス様のお言葉の力、そのお言葉に従うことで与えられる奇跡を目の前にして、シモンはイエス様を“主よ”と呼ぶしかなくなりました。
 それまでのシモンは、イエス様を尊敬し、その特別な力を認めつつも、まだ自分の中心には中心がいました。“漁については私のほうが専門だ。いくらイエス様でも、漁のことは知らない”と彼は思っていました。
 しかしシモンは、ここで理解しました(信じました)。「このお方が私の主だ。仕事も含めて私の生活に関する全てを支配しておられるお方であり、このお方を私自身の中心にお迎えしなくてはならないのだ」とシモンは悟ったのです。
  私たちも今日、シモン(ペトロ)と共に、イエス様のお言葉、神の言葉を聞くことを第一とし、神の言葉に従うという決意を、新たにしようではありませんか。

 イエス様は、別の箇所で、こうも言われました。
 マタイによる福音書6章33節
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
 神の言葉を聞き、神の御心を知り、そして神の国と神の正しさを、私たちは日々求めて参りましょう。
神の言葉を聞き、神の言葉を実践すると言う生き方による恵みと幸いにより、私たちに必要なものは(わたしたちが望むもの)すべて与えられるのです。それが聖書の約束です。