2023年7月29日土曜日

2023年7月30日 主日礼拝

招詞 詩編143篇8節
賛美  新生讃美歌 125番 造られしものよ
主の祈り
献金
聖句  ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節
祈祷
宣教  「霊の結ぶ実~愛の奉仕」
https://youtu.be/eOjClT5c5LM
祈祷
賛美  新生讃美歌 456番 恵み深きみ声もて
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷

今年度のわたしたちの教会の年間標語(テーマ)は「愛の奉仕 Give your service with love」です。
今年4月30日(日)の礼拝宣教でも、そのテーマを中心に、私はメッセージをいたしました。
今日もまた、今年の年間標語(テーマ)を念頭に、神の言葉を私たちは共に聞き、キリスト者として、神に奉仕する道とはどのような道であるかを示されたいと思います。
7月9日(日)の主日礼拝で、お二人の信徒の方がそれぞれ「奉仕」についてお証しをしてくださいました。私は別の教会での宣教奉仕のため、当日に直接そのお証しを聞くことができなかったのは、とても残念でした。
しかし、事前にお二人の証の原稿を読ませていただいていました。“神様が信徒の証しを通しても、信仰の喜びと励ましを私たちに与えて下さる”ということを、お二人の証しを通して改めて私は知ることができ、とても感謝なことでした。

コロサイの信徒への手紙3章16節に次のように書かれています。
 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。

別府国際教会バプテスト教会は、キリストの言葉によって立てられました。
私たちが互いに教え合い、励まし合いながら(牧師、あるいは教師・リーダーから信徒へという一方通行ではなく“互いに”)、神を褒めたたえ続ける教会でありたいと願います。
証しをしてくださったお二人とも、“キリスト者として神に仕え、教会を通して奉仕すること、奉仕をするその姿勢を、信仰の先輩から学んだ”という一つの点が共通しており、それが私にはとても印象的でした。
イエス・キリストを知り、神を信じる道へと導き入れられたのは、それはかつて私たちにキリストを伝えてくれた人(先達)がいたからです。
そして私たちがキリスト者として教会を通して神に奉仕ができるのも、それは多くの場合、私たちに神へ奉仕することの模範を示してくれた信仰の先達がいたからであると私は思います。

かつて出身教会で、ある姉妹から、「わたしは教会で頼まれた奉仕は断らない」とおっしゃった姉妹がおられました。
誤解がないように申し上げますが、わたしは皆さんに「教会で頼まれたことは、断っちゃいけない」と申し上げたいのではありません。その点ははっきりさせてください。
奉仕は、それぞれの事情と賜物によってなされるものですから、出来る方が無理なく自発的に献げてくださればとわたしは願います。
私にとって信仰の先輩であるその姉妹が、ご自身の信仰経験から、「わたしは、教会で頼まれたことは断らない」という言葉をおっしゃったのです。

その人のお人柄も知らされていた私は、大変その言葉に感銘を受け、「わたしも教会で頼まれたことは断らないようにしよう」と、その時心の中で決意をしました。
すると、ほんとうのすぐその直後と言ってもよい見事なタイミングで、わたしは執事に指名されるということが起こりました。おそらく、その姉妹の言葉を聞いて決意していなかったら、「わたしには無理です」と言って、私はその指名を断っていたと思うのです。
しかし不思議なタイミングでそのようなことが起こり、「もう私は、心で決めてしまっていたし」と思いながら、わたしは執事の一人になり、以後続けてずっと執事を務めることになりました。

今の私の牧師として働きも、色々な面で、かつての自分の牧師たち(神学校時代を含めれば、複数の教会に属しましたので、複数人います)の牧会の姿勢に影響を受けています。
「あの時、牧師はこういう風に対処しておられたのな」という記憶や、先生たちからその他にも学んだ色々なことが今自分が牧師として仕える様々なことに、とても活かされており、感謝に思っています。
もちろんかつて私の牧師たちが向き合った事柄や人々と、今私がBIBCで向き合わされている事柄、出会わされている人々は違いますから、私が学んだり考えたりしたことが、そのまま通用するわけではありません。
私には私なりの賜物や性格も与えられていますから、かつて教えられたこと、そして今自分が所属する教会の群れの中で教えられ続けながら、自分自身の牧師としての働きを私は日々学んでいます。
それは終わることのない信仰の学びであり、その点は牧師ではない信徒の方々にとっても全く同じ事であると私は思います。

奉仕に関して言えば、わたしたち皆異なる賜物を頂いていますから、それぞれの賜物と置かれた状況の中で、自分が喜びをもって賜物を活かしながら献げることができる奉仕を、私たちは献げていきたいと願います。

今年の教会標語の聖句はガラテヤの信徒への手紙5章13節ですが、今日の聖書箇所は、その後に続く、ガラテヤ5章16~26節を私は選びました。

最初の節である16節に次のように書かれています。
16わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
愛をもって互いに仕えるためには、「霊に従って歩むことが必要だ」とここで、この手紙の著者であるパウロは言うのです。
一見してここでは「霊と肉」という言葉が私たちの目を引きます。肉の思いとは、はっきり言えば、私たちのうちに生まれながらに備わった自分自身の欲望のことです。

19~21節に、人間の欲が引き起こす色々な行いが列挙されています。そこで挙げられている一つ一つを詳しくお話しすることはできませんが、それらを短くまとめることは可能だと思います。

「姦淫」や「わいせつ」などは、性的に自分の欲望を、他者の尊厳を無視して満たそうとすることです。
「偶像礼拝」や「魔術」とは、神でないものを神とすることであり、何か神秘的なものや刺激的なもので、私たちの感情に不思議に働きかけるようなものを、神としてしまうことです。
自分の利益や願いを守ろうという思いが、間違って高まりすぎることで、“争い”や“怒り”が引き起こされます。
そして「泥酔」、「酒宴」という方法で(すぐ効果があると一見思えるような安易な方法で)問題を紛らわそう、解決しようと私たちはします。しかし、物事の根本に対処しない限り、本当の問題は解決をしません。
そのような肉の思いや欲望に従って歩まず、霊に従って歩みなさい(生きなさい)と今日の箇所は私たちに伝えるのです。

「霊」とは神の霊であり、イエス・キリストの霊です。イエス・キリストの霊に従って私たちは歩むことで、22~23節に記された信仰の実の数々を私たちは結ぶことができるようになる、と言うのです。
肉の欲、わたしたちの欲望や怒りなどの負の感情は、自分自身では制御できないものに思われます。実際、それらは私たち自身で制御したり、完全になくすことはできません。

しかし、24節に驚くべきことが書かれています。
 24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

キリストを信じるとは、イエス・キリストが十字架の上で成し遂げてくださったことを信じることです。イエス様は十字架の上で、その命と引き換えに私たちの罪を全て赦してくださいました。
そしてまたイエス様は十字架の上で、私たちの肉の欲望をも一緒に十字架にはりつけにして、その力を滅ぼしてくださった、というのです。
わたしたちは、自分たちのうちに多くの否定的な(負の)感情が備わっていることを知っています。
人を羨んで人が持っているものを自分のものにしたいと望んだり、あるいは人を嫌いになったり、怒ったりしたことが無いという人はいないでしょう。
そのような思いがわたしたちから消えてなくなることはありません。しかし聖書は、私たちがそのような肉の思い、否定的な感情には支配されずに生きる道がある、と言うのです。
十字架のイエス・キリストを見上げる時、私たちはご自身と共に、私たちの肉の思い、欲望をも滅ぼしてくださったお方を見上げるのです。
そのイエス様が、今も聖書の御言葉を通して、そして神の霊である聖霊を通して私たちに先立って歩み、私たちを導いてくださいます。
私たちがキリストに従って、霊の導きに従って歩むとき、そこから生まれる実の数々が22~23節に書かれています。

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
「愛、喜び、平和、寛容、、、、」などが、霊の結ぶ“実”と言われています。それは実ですから、それは時間をかけて結ばれるもの、ということです。
それはキリストを信じたら一瞬で与えられる、というようなものでありません。私たちが信仰生活の中でそれらを体現していくには、信仰の成長と訓練を必要とするのです。
それはイエス・キリストと繋がり続けることで、御言葉に聞いて御言葉を頂き続けることによって、信仰生活を通して、段々と造り上げられていくものなのです。
私にとっての一人の信仰の先輩で、色々な苦労をされながらも、献身的に多くの他者を助けることに人生を費やした方がおられます。
その方が、ある時しみじみと言った感じで、「主の御愛」と一言おっしゃったこと、その時のその方の表情をわたしはよく覚えております。「感謝なことは、主の御愛」とその姉妹はおっしゃりたかったのだと思います。
主の愛を自分自身が知らされ、その喜びのうちに生きていたからこそ、そのお方はそれほど献身的に他者にも仕えることができたのだと、私は確信しています。
主は、主の御愛、イエス・キリストの愛を私たちに与えてくださいました。敵意や怒りの感情は、その主の愛と喜び、平和の前には何の力も持たないのです。
それほどの愛が私たちには与えられているのですから、私たちは主に感謝をし、喜び、愛をもって互いに仕える(奉仕する)信仰生活を私たちは共に送っていきたいと願います。私たちひとり一人が主の御愛の内に生きることが、その第一歩です。

最後にローマの信徒への手紙8章1~3節(Romans 8:1~3)をお読みします。
1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。

イエス・キリストに結ばれるならば、もはや私たちは罪に定められることはありません。キリストに結ばれるならば、肉の思いに支配されることもありません。
キリストに従って、キリストに私たちのうちに住んでいただくことによって、肉の思いに捕らわれることなく、キリストの霊と共にわたしたちは、これからも歩んでまいりましょう。

2023年7月22日土曜日

2023年7月23日 主日礼拝

招詞 ネヘミヤ記13章31節b
賛美 新生讃美歌363番 キリスト 教会の主よ
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句  ルカによる福音書3章15~22節
祈祷
宣教 「イエス・キリストの洗礼(バプテスマ)」
https://youtu.be/IWxF80c9hGw
祈祷
賛美 新生讃美歌 272番 神の息よ
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷


 今日の聖書箇所は「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」という一文で始まります。
 民衆(The people)とは、イスラエルの人々です。聖書は、今日の聖書箇所に描かれる約2020年前のイスラエルの民たちのことを「メシアを待ち望む人々」と言っているのです。
当時イスラエル・ユダヤはローマ帝国に支配されていました。そのような状況の中、イスラエルの民たちは、自分たちの国をローマの支配から解放してくれる、救い主(メシア)の登場を待ちわびていました。
 “メシア”(Messiah)とは、ヘブライ語で‟油を注がれた者”という意味です。それは、王や聖職者たちが、その位に就く時に、彼らの頭に高価な香油が注がれた習慣から生まれた言葉です。

 “人々はメシア(救い主)を待ち望んでいた”という言葉から、彼らを屈辱的で苦しい状況から救い出してくれるお方=メシア(救い主)の登場を、イスラエルの人々がどれほど強く待ちわびていたのか、ということが分かります。
 一人の優れた人(リーダー)によって、私たちの生活、社会、また世界が良い状態に変えられることを期待する~そんな気持ちは今の私たちも持っているのではないでしょうか?
 民主主義の国では、政治家、国のリーダーは選挙によって選ばれます。選挙の時、“次の新しいリーダーが、苦しい(悪い)現状を何とか変えてくれるのではないか”という期待を、ある程度私たちは持つと思います。
ですから、今日の箇所で描かれる、”他国に支配された自分たちの国を解放してくれる救い主を待ち望んでいたイスラエルの民衆たちの気持ち”は、私たちにも理解できるものだと、私は思います。
 バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で人々に「悔い改めて、自分中心ではなく、神中心に、神様の方向を向いて生きなさい」と呼びかけながら、洗礼(バプテスマ)を授けていました。

すると民衆は、ヨハネのその力強いメッセージと姿を見て、「この人が、自分たちが待ち望んでいたメシア(救い主)ではないか。いよいよメシアがやって来たのではないか」と考えました。
人々が自分のことをメシアだと期待しているのを察したヨハネは、次のように言いました。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。

ヨハネは、“わたしよりも優れた方が来られる”と言って、自分が救世主(メシア)ではないことを伝えます。“わたしよりも優れた方”=本当のメシア、キリストが来られることをヨハネは人々に指し示しました。
どんなに優れた人、力強く優れたリーダーなどであっても、人間が人間を救ったり、社会や世界の苦しく悲惨な状況を一瞬にして解決したりする、ということはありません。
 私たち人が根本から変えられ、私たちに本当の救いと解放をもたらしてくださるお方は、イエス・キリストだけです。今日のヨハネの言葉は、そして聖書全体はそのことを伝えています。
 ヨハネは水(普通の川の水)によってバプテスマという儀式を授けますが、その儀式を通して、人の心の内面を聖霊と火によって清め、変えてくださるのは、真の救い主イエス・キリストなのです。
しかし、あらゆることを(わたしたちが望むように何でも)一瞬で解決してくれるスーパーマンのような人を救い主として期待しているのならば、イエス・キリストも、そのような救い主ではありませんでした(ありません)。
 イエス様はむしろ、御自身神でありながら、私たちと同じように人となり、苦しまれ、悲しみを引き受けてご経験し、そして私たちの罪を担ってくださいました。イエス様は、私たち人と共に生きる道をお選びになりました。

 そしてキリストは、聖霊として私たちのうちに住んでくださり、私たち信じる者に希望と力、喜びを与えてくださいます。イエス・キリストは私たちを、神と共に神の国の実現のために、精一杯この地上で生きる者に変えて下さいます。
キリストがわたしたちのうちに住んでくださるので、そのキリストのお陰で、わたしたちは苦難、困難の中でも希望を持って生き、やがて完成される神の国を夢見て、今この時を、希望を持って生きることができるのです。
神様を信じれば苦難、困難がなくなるのではなくて、神様を信じれば、苦難、困難の中にも神が共にいて私たちを支えてくださる、ことが分かるのです。
神様を信じれば、苦難、困難がなくなるのではなく、神様を信じれば、この苦難、困難には何か神の前に意味(意義)がある、と信じて生きることができるようになるのです。

 よく、宗教や“神”を否定(批判)する人たちの意見として、こういう意見があります。「神様に頼ったり、お祈りに頼ったりするのは、人間を他のものに依存させてしまう。
お祈りして願いが叶うと信じるならば、自分で努力することを放棄してしまうようになる。」
 確かに気をつけていないと、キリスト者もそのように考えてしまう可能性(危険)はあるかもしれません。
神様を信じればすべてが上手くいく。あるいは牧師に任せれば(ある宗教団体によっては“教祖にお任せすれば”)問題は何でも解決する、と信仰者が考えてしまう危険性があるのです。
 ひどいケースだと、“献金を沢山すれば、そして神様のため、教会のために一生懸命奉仕をすれば、神様は何でも私たちの願うことを叶えてくれる”などと、間違ったことが主張されることもあり得ます。

 それらの主張は大切なことの順番を完全に逆にしてしまっています。奉仕も献げ物も、それらを沢山すれば神様が私たちを祝してくださる、のではありません。
 そうではなく、神は私たちを大いに祝してくださった、御子イエス・キリストの十字架を通して私たちの罪を全て赦し、あらゆる恵みを私たちに与えてくださった、ことをまず私たちは信じるのです。
 そう信じるので、そして神に赦され愛されたことが、嬉しくて感謝なので、その応答として私たちは献金をしますし、奉仕もするのです。
すべては神の恵みが最初にあり、私たちはその余りある恵みをただ感謝して頂くことができるだけなのです。わたしたちは神の恵みのほんの一部をお返しすることができるだけです。

 そのように信じるキリスト者は神に祈ります。そして私たち自身も夢や目標に向かって努力をします。何かを達成したいのなら、努力は不可欠です。
 そして私たちが望むような結果(成果)が得られたのならば、それは神の恵みであり賜物です。
 伝道者パウロは「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と言いました。(コリントの信徒への手紙一3章6節)
「植える、水を注ぐ」というのは、イエス・キリストの福音を人々に伝える伝道の働きのことです。
 パウロやアポロなど、当時の教会の指導者たちは、色々な国や地域へイエス・キリストの福音を宣べ伝える伝道活動をしました。
しかし、それでキリストを信じる者たちが生まれ、教会が出来て、信者ひとり一人が信仰者として成長することができたのは、伝道の働きをした自分たちの力によるのではなく、あくまで神の力です、というのです。

 今日の箇所のバプテスマのヨハネの姿も、そのような信仰者の姿です。ヨハネは、自分中心ではなく、神中心の生き方をするようにと、人々に“悔い改め”を呼びかけました。
 今日の箇所には、ヨハネが領主ヘロデに捕まり、牢に入れられたことが書かれています。自分の兄弟の妻を妻としたヘロデを、ヨハネは信仰的な信念に基づいて非難したのです。その結果彼は捕まってしまい(最後は殺されてしまいました)
 そこまで神のために働いたバプテスマのヨハネも、「自分は水でバプテスマを授けているだけです。人の心に働きかけて、本当の救いと新しい命を人に与えてくださるのは、真の神であるイエス・キリストです」と述べているのです。
 それが、イエス・キリストに救われ、キリストの救いの恵みを信じて生きる者の姿です。キリストに救われたから、私たちは精一杯努力して生きることができるのです。
 そして私たちは自分の働きの結果や成果を、自分を誇るためのものとしません。私たちは、ただ神に感謝をお返しするのです。そのような信仰者として、私たちも成長していきたいと願います。

21節には、イエス様が洗礼(バプテスマ)をお受けになったことが書かれています。ヨハネから、イエス様もバプテスマをお受けになったのです。
 イエス様は生まれながらに罪のない唯一の人でした。ですからイエス様は、わたしたちのように、罪の赦しを得るためにバプテスマを受ける必要のないお方でした。
 しかしイエス様は、あえてバプテスマをお受けになりました。バプテスマをイエス様もお受けになったということは、イエス様があらゆる面で私たちに先立って、信仰者として生きることの模範を自ら示してくださったということです。
 イエス様はバプテスマを受けて祈っておられた、と書かれています。バプテスマは信仰の出発点です。そして、信仰を決心してバプテスマを受けるということは、ある意味その時点から信仰の厳しい道のりが始まる、ということでもあります。
  イエス様は、信仰の道において、私たちが常に神に祈ることの大切さをここで示してくださっています。
 時に厳しい信仰の旅路の中で、神に祈り、神と交わりながら、力と希望を頂いて生きる模範を、御自身が祈る姿を通して、イエス様は私たちに教えてくださっているのです。
 私たちは、祈りを通して、そして聖書の御言葉を通して(聖霊の助けを頂きながら)神の言葉を知り、霊的にイエス・キリストと出会って、力と希望をイエス様から頂いて日々生きる、という信仰の生活を送るのです。

 さらに信仰者が神様から頂ける最も大いなるもの、それは神の愛です。
 今日の箇所でイエス様がバプテスマを受けられた時、”天が開けて、聖霊が鳩のように見える姿でイエス様の上に降った”、と書かれています。
そこで「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者You are my Son, whom I love; with you I am well pleased.”」という声が天から聞こえました。
 イエス様は、私たち全ての人間の罪を背負って十字架で死ぬ、という過酷な使命を負って生まれて来られました。しかし、そのイエス様は、天の父なる神から愛されていたのです。
 その天の父なる神の愛を、御自身も豊かにお受けになった神の愛を人々に、そして今の私たちにも限りなく与えてくださるお方が、イエス・キリストです。
そのイエス様に従いながら、キリストを通して神様の愛を私たちも沢山いただきながら、喜びと希望の信仰を、私たちはこれからも歩んでまいりましょう。

2023年7月15日土曜日

2023年7月16日 主日礼拝

招詞 使徒言行録5章31節
賛美 新生讃美歌 91番 恵みのひかりは
主の祈り
献金
聖句 出エジプト記1章15~22節
祈祷
宣教「神の恵みによって強くなる」
https://youtu.be/uBepXtu0spw
祈祷
賛美 新生讃美歌 552番 わたしが悩むときも
頌栄 新生讃美歌 671番 
祝祷 

 今日私たちに与えられた聖書の箇所は、旧約聖書『出エジプト記』の第一章の後半の部分です。今日の箇所では、エジプトの王と、二人のヘブライ人(イスラエル人)の助産婦が登場します。
  古代エジプト王国で強大な力を持った王と、エジプトの中で奴隷として抑圧されていた民族の中の二人の助産婦。この人たちにまつわる聖書の物語を通して、今日も神のメッセージを私たち共に聞いてまいりましょう。
 イスラエル人たちは、カナンの地を離れてエジプトで生活をするようになりました。移住した時の最初の世代(ヤコブと彼の子どもたちの世代)が死に絶えて、何世代も後の新しい世代のイスラエル人たちはその人数がとても多くなりました。
彼らの数があまりに増えたので、それを見たエジプトの王は「イスラエル人たちがこれ以上増えたら、戦争が起きた時に彼らは私たちの敵側につくかもしれない」と恐れて、イスラエル人たちを抑圧し、苛酷な労働を課して彼らの力を削ごうとしました。

イスラエル人たちの数が増えることを恐れて苛酷な労働を彼らに課したというのですから、まさに“イスラエル人たちが死に絶えるまで働かせようとした”ということだったのでしょう。しかし、そのようにすればするほどイスラエルの人々は増え広がりました。
イスラエル人たちが“増え広がった”(1章12節)ということは単に人の数が増したというだけではなく、“彼ら自身の信仰の成長と、主なる神に対する彼らの信頼が、試練を通して益々強められた”という意味もあるのではないかとわたしは思います。
試練、苦難は人の信仰を強めます。それが聖書の伝えることの一つです。試練、苦難が人を強めるということは、キリスト教以外の一般的な教えでも言われていることもしれません。
しかし聖書が伝える“試練は人を強くする”とは、試練、苦難を通して、人は神の愛を知らされる、だから人は強くなれる、ということです。
苦難の中にも共におられる主なる神を見いだし、その神を信頼することによってわたしたちは強められるからです。

新約聖書の『ヤコブの手紙』の1章12節(James 1:12)には次のように書かれています。
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。

試練を耐え忍ぶとは、試練や苦難の中で“神がわたしを守り、神が共にいてくださる”ということを確信し、神へのそのような信頼を増す事によって神を愛するようにもなることです。
神の御手に守られ、神に支えられ助けられているという確信を通して、私たちは神への感謝と神への愛、そして“自分以外への他者への配慮、優しさ、思いやり、愛”をも持つことができるようになるのだと思います。
神の愛が、わたしたちの本当の強さの原動力です。本当の(真の)力の原動力である神の愛を、聖書が私たちに伝える神の言葉と教えを通して、そして祈りと聖霊の導きを通して、私たちは豊かに頂いていきたいと願います。
 エジプト王(ファラオ)は、苛酷な労働を課されてもイスラエルの人々の数が減るどころか、むしろ増えるということに、苛立ち怒ったのでしょう。

エジプト王は次のような命令を二人のヘブライ人の助産婦たちに出しました。
16節 (verse 16)
「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」

聡明な権力者(指導者)であれば、自分の思い通りにならないことで、怒るのではなく、自分自身の考えや思いが間違っていたのかもしれない、とその時気づいたでしょう。(少なくともその可能性に思い至ったでしょう)
しかし、エジプト王はその強大な権力に心の目をくらまされて、“自分が過ちを犯す”などとは考えられなかったのかもしれません。
「王である私のしようとすることは全て正しい」という錯覚、傲慢さに、その立場ゆえに彼は捕らわれてしまっていたのではないでしょうか。
しかし、そのように思ってしまう可能性は私たちにもあります。自分の思い通りにならないことは生きている間に沢山あると思います。自分の願いや思いが通じない、ということが、わたしたちにはよくあるでしょう。
そのような時に、自分自身の思いや考えを、一度冷静に振り返ってみて点検、反省、また他の人の意見をも求めたりしながら、よりよい方法を探し出す努力、自らの過ちに気づいたのならば、その過ちを正す勇気を私たちは持ちたいと思います。

苛酷な労働を課すことでは、ヘブライ人(イスラエル人の民族的な呼び方)たちの力を削ぐことができなかったので、生まれた瞬間に彼らの命を絶ってしまおうと、エジプト王は考えました。
「女の子ならば生かしておけ」という命令に、王の人間としてのかすかな良心が表されていると、考えることもできるでしょう。しかし「気に入らない者は無きものにしてしまいたい」と思う、人間の深い罪がここで表されています。
『出エジプト記』の前の、『創世記』では、神が最初にお造りになった人間であるアダムとエバの息子であったカインとアベルの間で、怒った兄のカインが弟アベルを殺してしまう悲劇が起きたことが記されています。
兄のカインが怒った理由は、神がアベルの献げ物には目を留められましたが、カインの献げ物には目を留められなかったからでした(創世記4章4~5節)。
神が弟アベルの献げ物に目を留められたのは、アベルは最上のものを神に献げましたが、カインの献げ物は神の前に最上と見なされるものではなかった、と考えられます。

しかしカインはそれに対して怒り、嫉妬や憤りの混ざった感情が高まって、ついに弟のアベルを殺してしまいました。
わたしたち人間の思いや感情が間違った方向へ向けられると、どれほど恐ろしい罪を犯すことができるのかという大変厳粛な警告が、その物語には込められています。
カインや、今日の箇所のエジプト王の姿から、わたしたちは私たち自身のもつ罪の性質に気づき、それを認めて神の赦しを願い、またそのような罪がイエス・キリストの十字架の贖いによって赦された、ということを思い起こし、心からの感謝をしたいと思います。
王に命じられた二人の助産婦は、王の言うことには従いませんでした。17節に次のように書かれています。

17助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。

彼女たち、二人の助産婦は、神を畏れていました。神を畏れるとはどういうことでしょうか?
イエス様は「人を恐れず、神を恐れなさい」と弟子たちに教えるために次のように言われました。

マタイ福音書10章28節 Matthew 10:28
体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

“体を殺しても、魂を殺すことのできない者ども”とは、人間のことです。
今日の聖書箇所で言えばまさに、その強大な権力によって一民族を抹殺してしまおうという思いに駆られたエジプト王のような者でしょう。そのような者さえ恐れなくてよい、とイエス様は言うのです。
なぜなら、本当にわたしたちが恐れるべきお方、本当の意味で私たちの命の根本を支配しておられるお方、そうしようと思えば私たちの魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方は、主なる神のみだからです。
 そして聖書は、そのような権威を唯一お持ちの神ご自身が、イエス・キリストとなって世にお生まれになり、私たちが負わねばならない罪の罰を、御自身が負って十字架にかかり死んでくださったことを伝えます。
それが福音です。その福音を本当に信じ生きる時、わたしたちも、今日の箇所での助産婦たちのように、人を恐れず(その人がどれほど強大な力を持っていても)神を恐れる、という生き方ができるようになるのです。
人を恐れないとは、他人のことを考慮しない、とか他人のことを無視するということでは勿論ありません。むしろ人を畏れず、真の神を畏れるという信仰は、わたしたちをお互いに受け入れ合い、互いのことを配慮する者へと変えます。

 今日の箇所で、二人の助産婦がエジプト王に何と言ったのかをもう一度見てみましょう。
18節でエジプト王が「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。

そして19節で助産婦たちが次のように答えます。
「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」

 助産婦たちのこの答えは、一見ユーモアさえも含んだ、何とも人を食ったような(人を馬鹿にしたような)答えにも聞こえます。
 しかし、助産婦たちのこの言葉は、その時神から与えられた知恵に基づいた言葉であり、また神の愛をも含んだ言葉であると、私には示されました。
 「ヘブライ人の女性はエジプト人への女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです」~この言葉は、「人の命はすべて神の御手の中にある」ということを表しています。
 それは「人の生き死に、すなわち人の命は人間の手によって左右されるべきことではないのです。わたしたちの命は神によって造られ、神の御手のうちにあるのです」という信仰の表れです。

エジプト王は強大な権力を持ち、“自分がそう望んで命令さえすれば、一民族の抹殺さえ可能だと”恐ろしいほどに思い上がっていました。
人間が犯し得るそのような罪に対して、ヘブライ人の助産婦の言葉を通し、神は戒めの言葉を与えているのです。
忍耐と愛をもって、“人の命の尊さ”と“全ての人の命が神の御手によって守られている”ことを、ヘブライ人の助産婦たちの言葉を通して、神がエジプト王に理解させようとしているのです。
 この時、もしこの二人の助産婦がエジプト王の言うことに従っていたのならば、ユダヤ民族は途絶えていたかもしれません。それ以降のイスラエルの歴史、聖書に記された歴史もすべてなかったことになります。
しかしこの二人の助産婦、シフラとプア(その意味は、シフラ=“美しい”、プア=“輝き”です)によってイスラエル民族全体が救われました。
 正確には、神の恵みによって二人の助産婦の心と信仰が強められ用いられ、やがて主イエス・キリストの誕生へと繋がる救いの歴史へと続くことになったのです。
 助産婦たちを恵み、強めてくださった神に今の私たちも守られています。神の恵みが私たちを強くしてくださいます。
神の恵みによって、試練の中でも(試練によって)私たちの信仰を強めてくださる主なる神を仰ぎ見て、神に感謝しつつ、信仰の日々を私たちも歩んでまいりましょう。

2023年7月7日金曜日

 2023年7月9日 主日礼拝


招詞 詩編145篇10~11節
賛美 新生讃美歌 545番 岩なるイエスは
主の祈り
献金
聖書 コリントの信徒への手紙一 1章5~7節
祈祷
証し
 *本日は、信徒による証しの礼拝です。メッセージ掲載はありません。
祈祷
賛美 新生讃美歌 301番 いかなる恵みぞ
頌栄 新生讃美歌 671番
終祷

2023年7月1日土曜日

2023年7月2日 主日礼拝


招詞 詩編98篇2~3節
賛美 新生讃美歌 134番 生命のことば たえにくすし
主の祈り
祈りの時
献金
聖書 ルカによる福音書3章1~14節
祈祷
宣教 「こんな石ころからでも」
https://youtu.be/lFGGKjQw4pM
祈祷
賛美 新生讃美歌 444番 清めらるる嬉しさ
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷

 歴史上、多くの王や皇帝と言われた人たちが、大きな権力を手にして、それぞれの国や地域を統治、あるいは支配してきました。
 旧約聖書の『列王記』や『歴代誌』には、イスラエル・ユダの歴代の王たちに関する物語が記されています。
彼らの中には、主なる神の前にへりくだり、神の器として神と人とに仕えようとした王、あるいはそうではなかった者たちもいました。
 ダビデ王の息子であり王の位を継いだソロモンは、王となった時に次のように祈りました。

列王記上3章7~9節 (Kings 1 3:7~9)

7わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。
8僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。
9どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」

ソロモンも人間であるがゆえの罪を犯しましたが、このソロモンの祈りからは、わたしたちも学ぶことが多いと思います。
まず、“王としての自分の特権や立場”は、主なる神から与えられたものである、という信仰です。ソロモンは“主よ、あなたがわたしを父ダビデに代わって王にお立てになりました”と告白しています。
しかしソロモンはすぐに「しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません」と言って、自分自身には大勢の民を裁く能力がない、と言って告白します」
 これは自分自身の無力さを認めることです。しかしそれは同時に、主なる神への信頼を含んでいます。なぜなら、「このわたしを、能力がないにも関わらず、あなたがお選びになったからです」という信頼が、ソロモンの心の中にはあったからです。

そしてソロモンは次のように祈っています。
9どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。

祈りをもって願い求めれば、神は必ずわたしたちに必要なものを与えてくださいます。自分に足りないものを、謙虚に神に願い求める姿勢が、ここで表されています。
もし今、御自分が置かれている状況や、お仕事や、その他の責任などのために、不安や重圧を感じておられる方がおられましたら、ソロモンのこの祈りの言葉と彼の思いに、心を重ねてみましょう。
「主がこの務めを私にお与えになりました。しかし、わたしはどうしてよいか分かりません。正しく判断する力を(務めを遂行するために必要な力を)あなたがわたしに与えてください」

そのように私たちも常に祈る者、そのような信仰者でありたいと願います。
身を低くし、自分の力の無さを認め求める時、主なる神は必ずわたしたちのその祈りを聞いてくださいます。
今日の聖書箇所であるルカによる福音書3章は、当時のローマで皇帝であった人物、ローマの属州であったユダヤで領主、また祭司として権力を持っていた人物たちの記録で始まります。
皇帝、総督、領主、また大祭司などなど。。。それぞれ大きな権力を握っていた人たちです。彼らの中にも、ソロモンが神に願ったように、自らを低くして、真摯な気持ちで人民に奉仕しようという思いを持つ者もいたかもしれません。
わたしたちは、今の私たちの世界でも、大きな権力と責任を持つ人たちが、聡明な判断力と、良心的な心を持つことができるようにと、願い祈る必要があります。

3章1節に皇帝ティベリウスの名前が出てきます。2章1節では皇帝アウグストゥスの名前が出てきます。ティベリウスは、アウグストゥスの息子(養子であったようですが)であり、アウグストゥスを継いでローマ皇帝になりました。
 そしてポンティオ・ピラトがユダヤの総督~彼はローマ帝国から派遣され、ローマ帝国の属州となっていたユダヤを統治する行政の長でした。彼は後に、イエス様を十字架につけることを決定した人でした。
 次にヘロデ、フィリポ(彼らは、イエス様が生まれた時にいた、ヘロデ大王の息子たちです)、そしてリサニアが地方の領主であった、とも書かれています。
 そして、アンナスとカイアファという人たちが、大祭司(神殿で神に仕える仕事をしていた人たち)でした。

 皇帝、総督、領主、そして大祭司たちは、政治的に、また宗教的に大きな権力を持っていました。しかし、2節には次のように書かれています。

神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
 人間として当時の地中海世界の頂点を極めていたローマの皇帝や、ローマ帝国の力に基づいて任命された総督や領主、また宗教的に指導的な地位にあった大祭司にではなく、荒れ野の中で生活していた一人の預言者に神の言葉は降った、というのです。
 この世界をお造りになり、この世界を本当の意味でご支配なさっている神の、そのお方のお言葉が、皇帝や総督にではなく、荒れ野で生活していた一人の信仰者に与えられたのです。
 そのように、神の言葉は、いつ誰にでも降る可能性があります。神はその自由なお選びを通して、色々な方法で、色々な人の言葉を通して(たとえそれが一見目立たないような人、あるいは小さな子どもであっても)語る可能性があります。
 ですからわたしたちは心を開いて、信仰の身を低くして、色々な人を通して語る神の御声に耳を傾けたいと願います。
 ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯へ行き、人々に「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)」を宣べ伝えました。

 「罪の赦し」とは、わたしたち人には生まれ持った罪が誰にでもあるので、その罪を赦していただかなくてはならない、ということです。そしてその罪は人間では赦すことができません。罪を持った人間が、別の人間の罪を赦す、ということはできないからです。
 罪を赦して頂くために、自分中心の生き方から、神中心の生き方へと生き方の向きを変える(方向転換)、それが“悔い改め”です。神のみが、人の罪を赦す権威をお持ちであるからです。
 神に向かって方向転換する=悔い改めの徴としての洗礼(バプテスマ)をヨハネはその時授けていました。多くの人たちが、ヨハネからバプテスマを授けてもらおうと思ってやってきました。
 しかしヨハネは彼らに非常に厳しい言葉を投げかけています。

7~8節
 7そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
8悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

 バプテスマを受けるというのは、今の私たちにとっては非常に嬉しい、お祝いのときです。「一人の人が救われた!」、「信仰の家族の一員が増えた!」とわたしたちがとても嬉しく思い、感謝をする時です。
 しかし、先週の礼拝宣教でも申し上げましたように、洗礼(バプテスマ)は信仰の出発点であって、それで何かが完成した、ということではないのです。
 むしろバプテスマ以降の生き方が大事なのです。それを今日の箇所で、バプテスマのヨハネは、「悔い改めに相応しい実を結べ」と言っています。愛に溢れた神の赦しを頂いた、と信じるのなら、その恵みに相応しい生き方をしなさい、ということです。
 なぜそこまで厳しい言い方を初めからヨハネはしているのでしょうか?それはやはり、ヨハネからバプテスマを受けようと集まっていたイスラエルの民たち、その群衆の心の中にも、砕かれなくてはならない“傲慢さ”があったからです。
 それは「自分たちの祖先は、あの偉大なアブラハムだ。ユダヤ民族はアブラハムの子孫であり、神に選ばれし特別な民族なのだ」というプライドでした。

 ”今は、自分たちの国であるユダヤは、ローマ帝国に支配されているけれども、偉大なアブラハムを祖先に持つ、神に選ばれた特別な民族”という誇りが彼らを支えていました。
 そのようなプライドは、わたしたち誰もが持っているものです。自分が属する家や家系、あるいは組織(会社やその他団体)、地域や国等々。。。
そのようなものが(神以外の何かが)わたしたちの誇りの原因となっているのであれば、わたしたちも、今日の箇所でヨハネから厳しい言葉を投げかけられている群衆と同じです。
 「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」

今私たちが誇れるものが何かあるのならば、そのような幸運を頂いたこと、自分が持つことを許されているもの、それらは全て神の恵みだということを、今日私たちは新たに心に刻みつけましょう。
 神を信じ、神の恵みを感謝する者は、その生き方が変えられていきます。「わたしは変わらなくては」という思いが信仰を通して与えられるのです。
 ですから今日の箇所で群衆はヨハネに「では、わたしたちはどうすればよいのですか」 と聞いています(10節)

 11節以降で、ヨハネは一般の民衆に、そして徴税人と兵士にもそれぞれ答えを与えています。

11節のヨハネの言葉をお読みします。
「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」
 この言葉は、単純(シンプル)といえば非常にシンプルです。「余裕のあるものは、他者と分け合え」という教えです。
 単純で明らかな教えではありますが、実践するのは決して簡単ではないことです。まずわたしたちは、自分はそれほど何かを豊かに持ってはいない、と思ってしまうのではないでしょうか。
 また自分は持っていると気づいていても、色々な理由や言い訳を用いて、他者に与えることができない~わたしにはそういうことがよくあります。
 わたしたちは、ここでまた思い起こしたいと思います。どれほどの恵みをわたしたちは神から頂いているか、ということです。その恵みを分かち合うようにと神が願っておられます。
 神の恵みに気づいたのなら、自分にできるだけの行為を通して他者と分かち合うことが、どんな小さなことからでも始められるのならば、それは主なる神の前にきっと覚えられ、意味のある行いになると、わたしたちは信じてよいと思います。
 何かを分かち合うことができる、そんな人が(隣人が)身近に与えられている~考えてみれば、それも神の恵みではないでしょうか。
他者との交わり、関わりの中で、わたしたち自身の信仰、また信仰の無さ、そして自分の罪に向き合わされながら、神に向かって方向転換(悔い改め)して感謝をしつつ、日々を生きていきたいと願います。