2023年3月25日土曜日

2023年3月26日 主日礼拝

招詞 サムエル記上2章7節
賛美 新生讃美歌 230番 丘の上に立てる十字架
主の祈り
主の晩餐
献金
聖書  コリントの信徒への手紙一 15章50~58節
祈祷
宣教  「主の業に常に励みなさい」
https://youtu.be/4kge9T-qR2k
祈祷
賛美 新生讃美歌 656番 きみの賜物と
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷


クリスチャンは、聖書を“信仰の唯一の基盤”として大切にします。信仰の唯一の基盤とは、わたしたちがイエス・キリストの福音とイエス・キリストの真実を知ることができるのは聖書を通してのみ、ということです。
 “信仰の唯一の基盤“とはまた、わたしたちの信仰あるいは信仰理解が正しいかどうかの最終的な判断も、それは聖書がそのように述べているかどうかにかかっている、と言う意味でもあります。
聖書を読み解釈するのも私たち人間ですから、わたしたちが聖書の御言葉を間違って読んでしまったり、自分の都合の良いように解釈してしまう可能性(危険性)は常にあります。
ですから私たちはいつも謙虚になって、自分の信仰とわたしたちの教会の信仰を、聖書の御言葉と照らし合わせることで、主の御心に沿った正しい信仰を持つことができるように、祈り、努力し続けたいと願います。
一人でも聖書をよみ、そして信仰の仲間、信仰の家族であり兄弟姉妹である信者同士が共に御言葉を分かち合うことで、神の御言葉をより豊かに少しでも正しく私たちは聞いていきたいと願います。

聖書は、人間が通常に書く本とは全く違います。それは聖書の本当の著者が、人間ではなく神の霊である聖霊であるからです。

テモテの手紙二3章16節(2 Timothy 3:16)に次のように書かれています。
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。

聖書は、神の霊感を受けた信仰者が、神の霊の導きの下に書いた記録です。聖書の言葉によってわたしたちは神の御心を教えられ、そして戒められ、自らの誤りを正すことができ、義(神の正しさ)へと導かれるのです。
 そのようなものとして聖書が、神の言葉として私たちに残されていることを、わたしたちは感謝したいと思います。

 わたしたちが聖書から教えられることの一つは、わたしたち自身についてです。
聖書の言葉を通して、わたしたちは自分自身をよりよく知ることができます。
わたしたちはなかなか自分で自分のことは分かりません。たとえ自分で自分を分かっているつもりになっていても、実際に人は自分のことを本当によく理解することは難しいと思います。
 聖書はわたしたち人間の心の思い(わたしたちの真の姿)をも、わたしたちに教えてくれます。そして、聖書が伝える人間の姿の一つは“わたしたちは死を恐れる”ということです。
 旧約聖書の詩編55篇4~5節(Psalm 55:3~4 NIV)に、「ダビデの詩」として次のように書かれています。
 
敵が声をあげ、神に逆らう者が迫ります。彼らはわたしに災いをふりかからせようとし/憤って襲いかかります。
胸の中で心はもだえ/わたしは死の恐怖に襲われています。

 これはダビデが書いた詩とされています。ダビデは自分の命を狙う敵の脅威に怯え、それがもたらす死への恐怖に襲われていました。死は大きな脅威、恐れを人にもたらします。
なぜ死がそれほどの脅威と恐れをわたしたちにもたらすのでしょうか?それは死というものが、通常は“すべての終わり”を意味するからではないでしょうか。
それによって全てが終わる。それによって全てが無意味になる。何も永遠に続くものはない~そんな儚(はかな)い、虚しい思いを死はわたしたちに与えます。
そして重要なことは、聖書によれば、死は人間の犯した罪がもたらした結果であるということです。わたしたちは(特に信仰者は)そのことを改めて知り、はっきりと認めなくてはなりません。

ローマの信徒への手紙5章12節に次のように書かれています。
一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

人間が犯した罪によって、神と人との間に完全な断絶、溝ができてしまいました。神と共に永遠に生きるようにと造られた人間は、自ら犯した罪のためにその恵みを失ってしまいました。
死は、そのこと(自らの犯した罪と神との断絶)をはっきりとわたしたちに示すものなので、それほどの恐怖をわたしたちにもたらすのです。

今日の聖書の箇所の始めである、1コリント15章50節には次にように書かれています。
50兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。

「肉と血は神の国を受けつぐことはできない。朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない」の“肉と血”とは限りある死すべき体を持った人間のことです。
“朽ちるもの”も同様に、死ぬべき人間のことを指しています。本来、わたしたちがそこへ行くことができる神の国、天の御国の希望が確かにあるのに、私たち人間は自ら犯した罪のためにそこへ行く道が絶たれている~ここではそう言っているのです。
真の希望への道が、人間自身が犯した罪のために絶たれた~それが聖書が伝える真実であり、わたしたちが認めなくてはならないことです。
 しかし聖書は、わたしたちが犯した罪の結果である死が、ある方によって克服され、打ち負かされ、滅ぼされたという希望をも伝えているのです。

 今日の54~55節に次のように書かれています。
「死は勝利にのみ込まれた。55死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
 その言葉の通り、死に打ち勝ち死を滅ぼしてくださったお方が、神の御子イエス・キリストです。そしてイエス様は、ご自身の命を十字架の上で献げられることで得た、死への完全な勝利を、私たちに与えてくださったのです。
なぜイエス様は死に打ち勝つことができたのでしょうか。それはイエス様が、まったく罪のないお方でありながら同時に、私たちと同じ“血と肉”を備えた人間として、この地上で生きられた人でもあったからです。

ヘブライ人への手紙2章14~15節(Hebrews 2:14~15)にも次のように書かれています。

14ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
15死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

人の罪によってもたらされた死、死の恐怖、それがもたらす“奴隷の状態”は、いずれもイエス様によって完全に克服され、その勝利がわたしたちのものとなったのです。
そして、イエス・キリストによる勝利(罪の克服、死への勝利)を知らされ、それを信じた者は、神への感謝と、そしてこの地上での命を感謝と喜びをもって生きることができるようになります。
 わたしたちは、このように思う時がないでしょうか。「生きていることに何か意味があるのだろうか?どうせ死ぬこの命、どれほどの価値があるというのだろうか?人生はすべて無駄、無意味ではないのか?」
 わたしたちが自分で自分の人生の意味や意義を見いだそうとするのならば、結局何の意味も見いだすことができず、“すべては無駄だ”と思ってしまうかもしれません。
 しかし聖書は、私たちの命(人生)には大きな意味があり、それは決して無駄ではないと伝えています。キリストがおられるから、キリストにあって、わたしたちの命(人生)は尊い意味を持つのです。
神の子イエス・キリストが、神と等しいその立場を捨てて、人と共に生き人の罪を背負い、わたしたちのために十字架に架かって死んでくださったことから、そのことははっきりしているのです。
 そして天の父なる神は、そのキリストの命を復活させて、わたしたち人間を奴隷状態に縛り付けていた罪と死の力が完全に滅ぼされたことを証明してくださったのです。

今日の箇所の最後の58節をお読みします。
58わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 今わたしたちは受難節(レント)の時を過ごしています。わたしたちがどんなに苦しく、悲しく、辛い時にも、十字架のイエス・キリストがわたしたちと共に歩んでくださっています。
 わたしたちがなすべき“主の業”があります。それはまず、主なる神イエス・キリストを信じて御言葉に従って生きる、ということです。
 それは、神の国と神の義を求めて、信仰者として神を愛し、人を愛して(そのように努力して)生きる、ということです。イエス様が生きたように生きる~わたしたちも少しでも、そのように努力して生きるのです。
 「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを知っている」~わたしたちはこのことを、聖書が伝えるイエス・キリストのご生涯、イエス様のお言葉、イエス様の十字架の死と復活に基づいて、完全に信頼し信じることができます。
 主イエス・キリストに結ばれて生きる私たちの命の日々には、大きな意義があり、キリストを信じて主の業に励もうと努力する私たちの行いは、神の前に決して無駄にはならないのです。
 罪に打ち勝ち、死への勝利をもたらし、それらを惜しみなくわたしたちにイエス・キリストを通して与えて下さる神に感謝をし、信仰者としてわたしたちがなすべき“主の業”に、わたしたちは日々励んで生きて参りましょう。