2023年6月24日土曜日

2023年6月25日 主日礼拝

招詞 詩編31編25節
賛美 新生讃美歌 16番 み栄えあれ 愛の神
主の祈り
主の晩餐
献金
神学校週間を覚えて
聖書 コリントの信徒への手紙一 16章13~24節
祈祷
宣教 「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」
https://youtu.be/a3niIYcFnu0
祈祷
賛美 新生讃美歌 455番 われに来よと主はいま
頌栄 新生讃美歌 676番 
祝祷

今日わたしたちに与えられた聖書箇所は、『コリントの信徒への手紙一』の最後の部分です。伝道者パウロが書いたこの手紙の終わりの部分、結びの箇所を、今日私たちは分かち合います。
ギリシアのコリントという都市にあった教会には、色々な問題がありました。まず第一章で取り上げられていたのは、コリント教会の中で起きていた“分裂”についてでした。
1コリント1章10節以降の箇所で、コリント教会の人々が「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」、「わたしはキリストに」と言い合って、分派が生じていた様子が描かれていました。
それに対して、この手紙を書いたパウロは1章13節で、「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼(バプテスマ)を受けたのですか」と言いました。

その言葉から判断しますと、コリント教会の信徒たちが、どの指導者につくのかというリーダーシップの問題においても混乱していたその原因は、やはり彼らが救いの根源であるイエス・キリストの十字架を見失っていたことであったと思います。
「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」という言葉からは、コリント教会の中には、パウロをまるで神であるかのように崇めようとしていた人さえいた、そんな可能性も読み取ることができます。
それにたいしてパウロは、「十字架にかかって死に、その死によってわたしたちの罪を赦してくださったお方は、イエス・キリストだ。それはイエス・キリストだけだ。キリスト者はイエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受けたのだ」ということをここで強調して人々に思い起こさせようとしています。
今日私たちキリスト者は、今一度、わたしたちはキリストの十字架によって罪赦され、そのお方の名、更に言えば、父なる神、子なる神、聖霊なる神の御名によってバプテスマを授けていただいた、ということを思い起こしたいと思います。

そしてまたキリスト者(クリスチャン)でないお方も、教会ではイエス・キリストの名によって私たちは集まっている(集められている)、そして誰もがキリストを主と告白してバプテスマを受けるように招かれているということを知って頂きたいと思います。
弱いわたしたちですから、キリスト以外の何かに心奪われてしまうこともあるのですが、教会でわたしたちは、キリストのみに思いを集中しよう、キリスト中心の生き方をしようと努力していることを、知っていただきたいと願います。
 わたしも牧師として今まで何人かの方のバプテスマ(洗礼)式を執り行わせて頂きました。しかしそれはわたし自身の権威や力によってなされたのでは全くありません。
 神の霊なる聖霊のお働きによって、一人の人に「イエス・キリストは主」と信じる信仰が与えられます。そしてそのお方が、その信仰を公に告白して、キリストの体である教会の群れに加わりたい、という希望を表明します。
 その信仰告白を、既に教会の群れに加わっている私たちが聴いて、その信仰内容を確認、承認して、わたしたちはキリストのご命令により、三位一体の神の名によって、教会が主体となって(いわば、キリストの代理として)、その新たな信仰者にバプテスマを授けます
 ですから洗礼(バプテスマ)は、人間的な力や業によって起こされることではなく、あくまで神様が与えて下さる信仰を、わたしたちが喜びをもって確認して受け止める、というものなのです。
 一度信仰を決断して洗礼(バプテスマ)を受けても、それでその人の信仰が完了したということではありません。
 むしろバプテスマは信仰の始まりです。そこから、教会につながり神の言葉を聞き続け、信仰を成長させるという、この地上では終わりのない信仰生活がスタートします。
 ですから私たちは、いつも神の体である教会につながり続け、神の言葉である聖書の言葉を聞き続けることによって、信仰生活を送っていくのです。

今日の箇所(1コリント16章)の16章13節には「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかりと立ちなさい。雄々しく生きなさい。何事も愛をもって行いなさい」と書かれています。
”目を覚ましていなさい”~この言葉は、イエス様がマタイ福音書24章42節で同じ言葉を使って弟子たちを戒めています。イエス様は「だから目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたたちには分からないからである」とおっしゃいました。
それは、イエス・キリストを主と信じる信仰、その信仰の目をいつも覚ましていなさい、ということです。
「家の主人がいつ帰ってくるか分からないから、目を覚まして準備をしていなさい」という譬えからは、“主人に叱られるのが怖いから、ちゃんと準備していよう”という消極的(脅迫的?)な態度がイメージされるかもしれません。

確かに、主が再び来られる日にわたしたちの生き方が神に裁かれる(どのように生きたのかが問われる)という緊張感は、信仰者にとって大切なものです。神の裁きをわたしたちは決して軽く考えてはなりません。
しかし、キリスト者には「主はいつもわたしたちと共にいてくださる」という信仰も与えられています。マタイ福音書は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエス様の言葉で終わっています。
そうであれば、キリスト者の生き方は「いつ主が戻って来られるのか分からず、その日を恐がって(戦々恐々と)待つ」ということにはならないはずです。
むしろ、わたしたちが問われるのは「いつも共にいてくださるイエス様の恵みの中で、あなたはどれほど喜んで信仰を生きたのか」ということが問われる、ということだと私は思います。
ですから私たちは信仰の目をしっかりと覚まして、いつもわたしたちと共にいてくださるイエス・キリストに目を注ぎ、イエス様の与えてくださっている恵みに目を留めて生きよう、と今日の箇所から励まされるのです。
信仰の目を見開いて、わたしたちといつも共にいて下さるイエス様と共に、安心して喜びの信仰生活を送っていこうではありませんか。

13節の中で続いて書かれている「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」、「雄々しく生きなさい」、また14節の「何事も愛を持って行いなさい」も、信仰の目によってイエス・キリストを見続け、キリストを信仰の中心に置くことによっていずれも可能になることです。
わたしたちの救いの根源はイエス・キリストの十字架であり、わたしたちの救いの確証と喜びはイエス・キリストの復活にあります。
その十字架と復活のキリストという土台の上に立つならば、わたしたちはしっかりと立ち続けることができます。
わたしたち自身の力ではなく、十字架と復活の力強いキリストの力がわたしたちを支えますから、わたしたちは揺らぐことがないのです。
キリストがわたしたちの心の中に住んでくださいますから、わたしたちは強く生きることができるのです。わたしたち自身の力により頼もうとする必要はもうないのです。

死んで復活したイエス・キリスト、それから天に昇られ今は聖霊として働かれるイエス・キリストの霊が、わたしたち信仰者の内に住んでくださるのですから、キリストにあって私たちは強く生きることができるのです。
キリストの強さとはすなわち、その限りの無い無条件の愛です。ご自分を十字架につけた人たちのことさえも天の父なる神に執り成して祈ってくださった、その限りのない愛です。
そのような愛は、わたしたち人間の中には決してありません。そのような愛は、神なるイエス・キリストから私たちは頂くしかないものです。
わたしたちは一度は(もしくは何度も)、自分自身の愛の無さを知らされ、失望(絶望)したことがあるのではないでしょうか。わたしたち自身の愛の無さは、イエス・キリストの真の愛によってのみ満たすことができます。
 逆に言えば、わたしたちは自分自身を完全にキリストに明け渡しさえすれば、キリストの愛がわたしたちを満たして下さり、わたしたちの生き方はキリストの愛を反映したものにきっと変えられるはずです。
 キリストの愛がわたしたちひとり一人、またわたしたちの教会を満たしてくださいますように、わたしたちは祈り求めていきたいと願います。

今日の15節以降で、ステファナの一家(15節)の人たちなどをパウロはコリント教会の信徒たちに紹介し、「彼らは良い働きをした人たちなので、彼らを重んじてほしい(18節)」と伝えています。
 19~20節では、諸教会の兄弟姉妹たちからの挨拶をコリント教会の信徒たちへ伝えています。20節には「すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています」と書かれています。
 パウロは色々な人たちを代表して、コリント教会の信徒たちへ、彼らからの愛の挨拶を届けているのです。ここでの挨拶の言葉の一つひとつに込められた気持ちを想像すると、人と人とを結び付けてくださる神の愛を私たちは、その(言葉と挨拶の)背後に感じることができると思います。

 22節では「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」という激しい表現も使われていますが、これも、「あなたがたに神の愛の中に留まってほしい」という、パウロの強く熱い願いの反映であると私は思います。
 この最後の部分の紹介や挨拶の部分からわたしが思わされたことは、“わたしたちキリスト者ひとり一人も、神の手紙のようなものである”ということです。
 「わたしたちは神(キリスト)の手紙」ということは、実はコリントの信徒への手紙二(2 Corinthians)の第3章にそのような表現が出てきます。その箇所から宣教します時に、ぜひまたそのことを深く考えたいと思います。
どういうことかと言いますと、神は世に神の愛を伝えるために、私たち信仰者を、いわば神ご自身の手紙としてこの世に送られた、とも言えるのです。
 わたしたちひとり一人は皆違いますから、色々な方法や表現で、わたしたちを通して神の愛が世に豊かに伝えられていくのでしょう。しかしその内容、神からの使信の内容は変わりません。
 変わらぬ神の愛、「わたしたちは(あなたは)愛されている」~この変わらぬ神のメッセージがわたしたちひとり一人を通して、そして私たちの教会を通して、世にますます豊かに伝えられていきますように、わたしたちは心から願い祈ろうではありませんか。

2023年6月17日土曜日

2023年6月18日 主日礼拝

招詞  ヘブライ人への手紙11章8節
賛美  新生讃美歌55番 父の神よ 夜明けの朝
主の祈り
献金
聖書  出エジプト記1章1~14節
祈祷
宣教  「ヤコブの子孫たち」
https://youtu.be/nLzBfM6QVzM
祈祷
賛美  新生讃美歌134番 生命のみことば たえにくすし
頌栄  新生讃美歌676番
祝祷


 今日私たちに与えられた聖書の箇所は、『出エジプト記』の冒頭(最初)の部分です。これから私たちは礼拝のメッセージとして、大体一ヶ月に一回の割合で、この『出エジプト記』を読みながら、神のメッセージを聞いてまいります。
わたしたちは今まで『創世記』の各章から、神のメッセージを聞いてきました。
創世記は「初めに、神は天地を創造された」という一文で始まっています。
「初めに、神は天地を創造された」~この言葉は、読めば読むほど、考えれば考えるほど、意味の深い圧倒的な言葉でありメッセージです。
“聖書を最初に開いた時、その初めの言葉が「初めに、神は天地を創造された」という一文であったことに、わたしはものすごい衝撃を受けた”~そのように、ある牧師が言っていたのを、わたしは聞いたことがあります。

聖書はその冒頭から、神が天地を(わたしたちの世界の全てのものを)お造りになった創造主であることを宣言します。すべては神がお始めになった、ということです。
神はこの世界の、宇宙のすべてをお造りになり、世界や宇宙の広大でまた複雑な構造も、そしてありとあらゆる生物(動物も植物も)の体の緻密な構造や機能も、すべてをデザインしてお造りになったのです。
世界や宇宙の背後にそのような存在(至高の存在)があるということは、何か特定の宗教を信じない人でもあっても、認める人は多いのではないかと私は思います。
 しかし聖書が伝える神は、そのように全てをお造りになった創造主が、わたしたち人間と人格的な関わり(関係性)を持とうとしてくださっている、と聖書は伝えます。
 聖書の神は、御自身をわたしたちに知らせてくださり、神がわたしたちを愛し、わたしたちも神を信頼し神を愛するという関係へと招いてくださるお方なのです。

 特に旧約聖書、創世記や出エジプト記の物語の中では、主なる神は直接人に語りかけたり、導いたりします。
 アブラハム(元の名前はアブラム)は、創世記12章で、主から「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」と言われて、75歳で彼の故郷を旅立ちました。
 今、わたしたちには、そのように神の声がはっきりと聞こえるということは、あまりないことであると思いますが、それでも祈りと聖書の御言葉を通して、そして神の霊である聖霊の導きによって、わたしたちは神の声・神の御心を知ろうとします。
わたしたちがこうして集まって礼拝する時には、「今、この時」わたしたちが共に聞くべき神の声が語られるようにと、説教者である牧師は常に祈って宣教の準備をします。ぜひ、皆様はそのために祈ってくださるようにと、わたしは改めて皆さまにお願いしたいと思います。

そして75歳のアブラハムが、神の声を聞いて、行き先も定かではないままに、生まれ故郷を旅立つ決意ができたような、勇気と希望とが、わたしたちにも神の言葉(聖書の言葉)を通して与えられるようにと願います。
創世記は、神の天地創造の物語、そしてアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフらの家族を中心とした物語によって展開されます。最後は、ヤコブの息子のヨセフの死によって、創世記は終わっています。
 その創世記に続く物語が、『出エジプト記』です。その1章1節に次ように書かれています。

1ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。
創世記の最後では、ヤコブの一家がエジプトへと移り住みます。ヤコブの息子の一人のヨセフは、兄たちに恨まれて(父のヤコブがヨセフを特別にかわいがったりしたので)、エジプトへ売られてしまいました。
ヨセフはエジプトで出世をし、そして当時その地域一帯で発生した飢饉のため、ヤコブとヤコブの息子たちはエジプトへ移り住むことになりました。
ファラオ(エジプト王)は、ヨセフの父であるヤコブとその息子たち(ヨセフの兄弟たち)が、エジプトの国の最も良い土地に住むことを許可しました(創世記47章6節)。
ファラオが、ヤコブの一族に、エジプトの国の最も良い土地に住む事を許可したのは、ファラオの寛大さ、あるいはファラオに次ぐ地位の高官としてヨセフがファラオから得ていた信頼などが理由だったと思われます。

エジプト人とイスラエル人という異なる民族でも、お互いに言葉を交わし、交わることで互いを理解し合い、そこから絆と信頼が生まれたのでしょう。
 ヤコブの息子たちや、ヨセフたち、彼ら最初にエジプトに移り住んだ世代が皆死んで、新しい世代へと時代が移りました。

今日の7節によれば、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れました。
 イスラエルの人々の数がそれほど増えたというのは、それ以前に神によって告げられていたことの成就でもありました。神はアブラハムに「あなたの子孫は、星の数ほどに多くなる」と告げていたのです(創世記15章5節)
 移り住んだ異国で新しい世代が数を増して強くなることは、その人たちにとってはよいことです。
しかし、あまりに数が増えて強くなったということが、その時のエジプトの支配者~ヨセフのことを知らない新しい王~にとっては、大きな心配・懸念となりました。

9~10節で、エジプトの王は次のように言っています。
「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。
10抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」

「彼らはあまりに数が増えてわたしたちにとって脅威だ」、「戦争が起きれば、彼らは敵側につくかもしれない」~これらはいずれも実際には起きていないことです。それは、一人の王によるただの想像です。
 わたしは、そのようにエジプトの王が想像した理由(“イスラエル人”に脅威を感じた理由)は、やはり個人的な繋がりと対話の欠如であったと思います。
「イスラエル人という民」と言っても、一人一人は皆違った人たちです。強い人もいれば、そうでない人もいたでしょう。
しかし、そういったひとり一人を知ることなく、ただ「イスラエル人という民」として、エジプト王の頭の中では、「彼らは脅威だ」というイメージが先行してしまったのです。
イスラエル人という民~このような言い方で、一人一人の顔と存在が見えなくなってしまい、そこからいわゆるレッテル張り、ある集団や民族、国のイメージを決めつけるということが起きたのです。
よく一般的に「日本人は~こういう風だ」とか「韓国人は~だ」という言い方がなされます。確かに一般的に観察、表現される国民性というものはあるのでしょうが、それらは絶対ではありません。

見方や考え方はその時々によって、変化するものです。わたしたち人間はひとり一人みんな違うのですから、ある地域や国の人たちを一般化したイメージでとらえることには、わたしたちは慎重でなければなりません。
聖書は、わたしたちに、人を(他人を)どのような視点で見るようにと、教えているでしょうか。『創世記』の初めの記事を見れば、「神はご自分にかたどって人を創造された」と書かれています(創世記1章27節a)
「神はご自分にかたどって(ご自分のイメージで)人間を創造された」と聖書は言っているのです。聖書の言葉を信じる信仰者は、この見方で他者を見なくてはなりません。
「ご自分にかたどって」が正確にどのようなことを意味するのか、それは完全にはわたしたちには分かりませんが、少なくとも、神が愛と目的をもって人をつくられた~そのような人として他者を見ることがわたしたちには求められています。

神がご自分にかたどって、ご自分のイメージでお造りになり、そして祝福してくださった存在~わたしたちはそのような者なのです。
 その神は、新約聖書の時代、イエス・キリストとして世にお生まれになり、この世界に人として生きられました。イエス様はご自分の全存在、そのお命と引き換えに、真の命をわたしたちに与えてくださいました。
 今こそわたしたちは、自分自身の存在と価値、そして自分以外の他者の存在と価値とを、イエス・キリストの十字架を通して見て確認し、それを信じるという決意をすることを促されます。
 イエス・キリストを通して私たちが自分と他者を見るとき、わたしたちはその人の中に、どこの国や地域の人であるのか、あるいはどの国や民族の人であるのか、などとは関係のない、神によって愛され尊いとされた存在を認めることができるでしょう。
 キリストを通して、キリストを中心にして、互いを受け入れ認め合う、そのような信仰の共同体に私たちはなっていきたいと願います。
 今日の聖書箇所に戻りますと、“エジプト人”は“イスラエルの人々”に強制労働、重労働を課して虐待しました(11節)。「虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し」ました(12節)。
 神の意志に反して、エジプト人たちがどれほどイスラエルの民を圧迫しようとも、イスラエルの民の拡がりを抑えることはできなかったのです。
 わたしたちの信仰の道において、神に願い、神に信頼し、そして私たちの最善をささげてなそうと決意するならば、そしてそれが神の御心であるならば、この世のどんな力も私たちを挫かせ、弱めるものはないのです。

 たとえ今は苦しまなくてはならないとしても、神がわたしたちに与えてくださったイエス・キリストの愛を壊すようなもの、神のご計画を挫くようないかなる力も、この世界には存在しません。
 そのような希望、神のご愛を信仰を通して私たちは頂いています。神の力強い御手にわたしたちは守り導かれています。
そして神を信じる信仰はイエス・キリストを通して、わたしたちひとり一人に与えられているのです。そのことを改めて覚えて感謝をし、今週の日々も信仰によって歩んでいきたいと願います。

2023年6月10日土曜日

2023年6月11日 主日礼拝

招詞 出エジプト記13章21節
賛美 新生讃美歌 1番 聖なる 聖なる 聖なるかな
主の祈り
献金
聖書 ルカによる福音書24章13~32節
祈祷
宣教『 熱く燃えていますか?』
*信徒宣教につき、本日音声データはありません
祈祷
賛美 新生讃美歌 363番 キリスト 教会の主よ
頌栄 新生讃美歌 676番
終祷

皆さん、おはようございます。
今年のペンテコステ(聖霊降臨祭)は5月28日にお祝いしました。もう2週間経ちましたけれど、今朝はもっと遡ってイエスさまが復活した日のことを振り返ってみたいと思います。
実は今日、聖書個所として取り上げたルカ福音書24章13~32節は私にとって昔から印象深い個所なんです。
何故かと申しますと、場面が劇場的でイエスキリスト復活の表現を叙情的に表されているように思うのです。
一人で勝手に感動に浸っているみたいですけど、この情景を描いた絵がありますので見てみましょう。

真ん中がイエス様ですね、そして両側のどちらか一人がクレオパという弟子です。
三日前に十字架の出来事があったことなど全く感じさせない情景でしょう、空は青いですし、小鳥のさえずりとかも聞こえてきそうな絵です。
さて、そのエマオという場所はエルサレムから60スタディオン離れた村と書かれています。1スタディオンは約185メートルということなので11kmくらいです。
エマオの場所がどこかというのは現在では正確にはわかっていません。
ただ、それが11kmくらいだとすれば別府から大分くらいの距離だと言えばわかりやすいですね。
さて、そのイエス様が復活された日が今日だとすると、3日まえの金曜日に十字架にかけられ、死んで墓に葬られたことになります。
イエスさまは”一昨日”縛られ、鞭打たれ、血を流し、ご自分の十字架を背負い、手と足に釘を刺し貫かれ、十字架にかけられ息を引き取られたのです。

三日前ならどんなに忘れやすい人でも十字架の出来事を忘れる人はいないでしょう。
多くの人の病気を癒し、メシヤと期待され多くの弟子、使徒と共に福音を宣べ伝えられたイエスさまが十字架で殺されたのですから従った弟子たちの落胆、失望、恐れ、不安はどれほどだったでしょう。たぶん空虚で暗い顔をしていたでしょうね。
そのような心情の中でこの二人の弟子が三日前のことを話しながらエマオへと歩いていたのです。
するとそこに復活されたイエスが現れ、後ろから近づいて一緒に歩き始めます。
そしてイエスが声を掛けます。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」

二人は暗い顔をして立ち止まりました。
一昨日あった大きな事件のことを話しながら歩いていたのに、後からついてきたこの人は話を聞いて、それは何の話ですかと尋ねたんですね。
彼らは立ち止まってイエスを見て、(ただこの時はまだ二人の目が遮られていた。)二人のうちの一人クレオパが答えます。
「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、(みんな知ってるのに)あなただけはご存じなかったのですか。」
クレオパはこの時のイエスをよそからエルサレムに来た来訪者だと思っていたようですね。

イエスは尋ねます、「どんなことですか?」
彼らはイエスに答えます。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
ところが、仲間の婦人たちが朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。
そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
(ここはリビングバイブルでは「ああ、どうしてそんなに、心が鈍いのですか。預言者たちが聖書に書いていることを信じられないのですか。...」となっていて、リビングバイブル聖書の方が言い方がこの場面にふさわしいですよね。)

そして、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書(現在の私たちにとっては旧約聖書)全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
さて、そうこうするうちにあたりも暗くなってきました。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
二人が、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

おそらく、この弟子二人がイエス様とともに福音の伝道をしていたときに、いろいろな場所で色んな人々と食事をされた時にイエス様がパンを取り讃美の祈りを唱え、パンを裂いて彼らにお渡しになったという記憶が二人にイエス様であることを気づかせたのかもしれません。
そしてイエスだと認識した二人は、語り合いました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と。

はい、ここが今日の宣教の中心です。

もう一度、三人が歩き始めた時の状況を私なりに再現してみましょう。
二人が三日前の出来事を話しながら歩いていました。
そこへ後ろからイエスさまが二人をあたかも見守るように近づいてきます。
そして「どうしてそんなに心が鈍いのか」と言いながらも、一緒に歩きながら聖書の預言者たちの話を説明しながら二人を勇気づけていきます。
沢山の聖書の個所がありますので時間の都合上ここでは1カ所だけにしますけど、イザヤ書53章全部です。長いですけれど読みたいと思います。

------ イザヤ書53章------
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。 主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。 そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。 屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。 彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。 彼は、子孫が末永く続くのを見る。 主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。 彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。 多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」
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いかがですか?
わたしはイザヤ書53章は涙なしでは読めませんので、最初は「皆さん、帰ってからゆっくり読んでください」って言うつもりだったのですが、ここを外したら餡子のないアンパンみたいなものですから頑張って読むことにしました。
さて、話は変わって現在です。
イエスさまは天に昇られて、代わりに私たちを助けるために聖霊を送ってくださいました。聖霊を通してイエスさまは生きて、私たちを支え、守り、導いて下さっています。私たちは助け手である聖霊を受ける準備が出来ているでしょうか。
さて、唐突ですが、ここでちょっと話題を変えてみましょう。皆さんはワイングラスの縁を水で濡らした指で軽く回るように擦っていくときれいな音が出る現象をご存じですか?
指がグラスの縁をこする時に出る小さな音がグラスに共鳴して大きな幻想的な音になるんですね。今日はグラスを持ってきましたので実験しましょう。

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いかがですか?素敵な音でしょう。
ひびの入ったグラスではこんな音は出ません。また、よく人を土の器にたとえて話されることが多いですけれど、同じように器が割れていたりひびが入っていたりするとやはり美しい音は出ません。
これらの割れた器、ひびの入った器を私たちキリスト者に例えるとどんなことが言えますか?
私は思います、これらの器は私たちの信仰を表しています。
そしてこの器に触れる指、優しく叩く棒は聖霊でありイエスさまです。
エマオへ向かう二人の弟子は後ろから来られたイエスさまに見守られ、また共に歩きながら励まされ、さらには先だって導いて行こうとされたようにみえます。
宿でイエス様と共に食事の席に着き、イエスさまがパンを取り、祝福して裂き、彼らに渡されたとき二人は初めてイエスさまに気がつきました。
最初はイエスさまに「ああ、心の鈍い者たち」と言われた二人でしたが、イエスさまに心を触れられて、共鳴して熱くなっていたのです。
聖霊との共鳴、共振は大きなパワーを持っています、だから心の中で燃えるのです。
ヨハネ福音書3章8節にあるように、聖霊は風のように自由気ままに私たちの周りを吹いていると言われます。
耳を澄まし、心を開いて聖霊を求めましょう。
私たちが聖霊の呼びかけに応えられるかどうかは、私たちが欠けのない、ひびのない器であるか、また純粋な良い器になろうとしているかどうかによると思います。
イエスさまに心燃やされたエマオへと歩いていた二人のように、いま私たちは日々の生活の中で聖霊の助けをいただき心燃えるキリスト者でありたいと願うものであります。また聖霊が私たちに働いていることをしっかりと信じることの出来る者となりたいと思います。

2023年6月3日土曜日

2023年6月4日 主日礼拝

招詞 申命記8章5節
賛美 新生讃美歌 3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
祈りの時
献金
聖書  ルカによる福音書2章41~52節
祈祷
宣教 「ご自分の父の家におられるイエス様」
https://youtu.be/fdMAosbZCEg
祈祷
賛美 新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
頌栄 新生讃美歌 676番
祝祷

 今日の聖書箇所には、イエス様が12歳の時に起こった、ある出来事が書かれています。
聖書の中の福音書と言われる書簡(4つあります:マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)には、神の子イエス・キリストの誕生の記事、そしてイエス様が成人してから神の国を人々に伝え始めた伝道活動の数々が記されています。
 福音書にはまた、イエス様が最後は捕らえられて、十字架にかけられて死んだこと、そして復活したことが書かれています。
しかし福音書の中に、イエス様の少年時代の話というのは、じつは今日の箇所にしか記されていません。そういう意味で、今日の聖書箇所は、イエス様の少年時代について伝える貴重な記事であるとも言えます。
 今日の箇所の前の箇所は、イエス様の両親のヨセフとマリアが、イエス様を神殿で主に献げること(その儀式)のためにエルサレムの神殿へ連れて来る、という場面でした。

 イエス様が生まれてから、幼年時代、少年時代、そして青年時代を過ごす間には、私たち誰もがそうであるように、きっと色々なことがあったはずです。
しかし福音書は、イエス様の少年時代については、今日の箇所が伝える以上のことは何も伝えていません。なぜイエス様の青少年の時代について、これ以外には何も伝えられていないのか、その理由はわたしたちには分かりません。
 しかし、今日のこの短い記事からも、少年だった頃のイエス様とイエス様の両親であるヨセフとマリアを中心とした、神の豊かなメッセージを私たちは聞くことができます。この箇所から伝えられる神のメッセー

今日の箇所は次の一文で始まります。
「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
イエス様の両親であるヨセフとマリアが、イエス様が生まれてから毎年、過越祭(すぎこしさい)の時には、ガリラヤのナザレから都のエルサレムにある神殿まで旅をしていた、というのです。
過越祭は、かつて(イエス様の時代からは千数百年前)、エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルの民たちがモーセに率いられてエジプトを脱出した出来事を記念するお祭りです。
その時のエジプト王のファラオがイスラエルの民たちがエジプトを出て行くことを頑なに拒絶したため、主なる神はいくつかの災いをエジプト中に降らせました。
しかし最後の災いが(人々と家畜の初子が死ぬという災い)イスラエルの家々だけは通り過ぎて行きました(過越し pass over)。それを主なる神が自分たちを救って下さった出来事として、イスラエルの民たちが記念して祝うようになりました。(そのように神の律法によって定められました)

 自分たちの祖先を救った、その恵みの出来事を忘れないため、イスラエルの民たちは過越の祭りを毎年祝い続けました(現在でも、ユダヤ教徒にとっては、過越祭は大変重要な祝祭です)。
ヨセフとマリアも、毎年過越祭に息子のイエス様を連れてエルサレムへ行くことで、エジプトでの奴隷生活から救われた、その救いの出来事(神の恵みの出来事)の延長に自分たちの命も生かされていることを、息子のイエス様にも教えたのだと思います。
 神の恵みによって今の自分たちも生かされている~毎年のエルサレムへの巡礼の旅を通して、イエス様もそのことを学ばれたのでしょう。
幼年、少年時代のイエス様も、毎年両親についてエルサレムへ旅をして過越祭を祝い続けることで、(そのような地道な信仰生活の繰り返しによって)、神の恵みを学ぶという過程を、イエス様も幼いころに経験なさったということです。
イエス様の青少年時代の出来事は、聖書の中にはこの箇所しか残されていませんが、後に(30歳ぐらいから)伝道活動をお始めになるイエス様が、幼いころから両親や、御自分が属する共同体から、後の活動のための訓練をお受けになっていたといってよいと私は思います。

今クリスチャンは過越祭を祝うことはしません。わたしたちにとっての究極の恵み、私たちの罪の赦しのためにご自身を献げられたイエス・キリストの恵みをこそ、私たちは感謝してお祝いするからです。
私たちはイエス様の誕生を祝うクリスマスや、復活をお祝いする復活祭(イースター)、神の聖霊が弟子たちに降って教会が始まった出来事を記念するペンテコステ(先週5/28でした)等、特別な礼拝を毎年祝います。
しかし私たちはそのような特別な礼拝だけでなく、毎週日曜日(キリストの復活した日)に、こうして礼拝を守ること(守り続けること)で、私たちは神の恵みをいつも忘れずに、神に感謝をささげ続けます。
私たちが主日礼拝を中心にした信仰生活を、誠実に心を込めて、地道にささげ続けることは、信仰を新たに求めて教会に来ておられる方や、後に続く世代(こども達)への一番の信仰の訓練にもなる、ということを私たちは、今日の箇所からも教えられます。
先週の礼拝宣教でお話しましたように、礼拝それ自体が私たちが教会へ来る一番の目的ですが、私たちの地道で誠実な信仰生活が、私たち自身や次世代への信仰訓練にもなることを私たちは覚えたいと願います。

 今日の聖書の箇所の場面で、祭りの期間が終わって、皆がガリラヤへの帰り道に着いたとき、なんと少年のイエス様はエルサレムに残っていました。そして両親はそれに気づかず、道連れ(旅の仲間たち)の中にいるものと思って一日行ってしまったのです。
「息子はもう12歳だし(ユダヤ教では、13歳で信仰的な“成人”と見なされるそうです)、同じ集団のどこかにちゃんといるだろう」とヨセフとマリアは思ったようです。
 この時ヨセフとマリアは、かなりの大人数でエルサレムまでの旅をしていたようです。
当時の旅は、盗賊などの被害から身を守るため、大きな集団で行うほうが安全だったのです。
百数十キロを基本的に徒歩で行く旅ですから、大きな集団で、お互いに助け合っていくことで、当時の人々はその長い旅を乗り切っていたのでしょう。
ヨセフとマリア、そしてイエス様がその時、そのような集団(同じ目的を持った集団)でエルサレムの神殿への旅、そこで過越祭を祝うための旅をしていたというシーンは、わたしたちの信仰が他者と共に歩むものであることを思い起こさせます。
 私たちは信仰の旅路を一人で歩むことはしません(できません)。お互いに助け合いながら、共同体として信仰を私たちは共に歩むのです。

 誰かが倒れそうになれば誰かがその人を助け、また助けられたその人が次の時には別の人を助け、そのように協力し合う巡礼の旅は、私たちの信仰の姿そのものであると私は思います。 
 信仰の仲間、信仰の旅路を共に歩み助け合うことができる信仰の家族が与えられている幸いを私たちは感謝したいと思いますし、信仰の旅路を共に歩む仲間が、一人でも多く与えられ、加えられますことを私たちは祈り求めたいと思います。
 ところが、一日経って、親類や知人の間を捜しまわってもイエス様が見つからなかったので、マリアとヨセフはエルサレムまで引き返しました。彼らはとても心配していたでしょう。
 両親(マリアとヨセフ)は、息子のイエス様が神殿の境内で学者たちの真ん中に座って、話しを聞いたり、質問したりしておられるのを見つけました(46節)

 イエス様は神様の子ですから、人間から何かを教えてもらう必要などなかったのではないでしょうか。神が人から何かを教えてもらう必要は本来ありません。しかし、人としてイエス様は私たちと全く同じように生きられたのです。
イエス様は「生まれつき罪がない」という点以外は、全く普通の人間と同じように過ごされ、普通の人間と同じように、生まれてから保護者の養育を受けて、教育を受け、そして学ぶという成長過程も、ご経験なさったのです。
イエス様はそこで学者たちの真ん中に座っておられましたが、その姿勢は謙虚でした。イエス様は、学者たちの話を聞いて、そしてイエス様は彼らに質問をしておられたのです。
イエス様は彼らから教えを受け、また彼らと対話していたのです。
私たちは、イエス様のその謙虚な姿勢に驚かされます。自らを低くして、他者の話に耳を傾け、また分からないことは相手に質問をし、教えを乞う。

そのような対話の姿勢が、今こそ私たちにも必要なのではないでしょうか。私たちは自分以外の誰からでも学ぶことができるし、学ぶべきなのです。
 新約聖書の『フィリピの信徒への手紙』2章3節に「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」と書かれています。それは今日の箇所で、イエス様が12歳にして既に実践しておられる姿です。

 信仰の旅路を共に歩む私たちが、そのようにお互いから学ぶ、相手の話に心の耳を傾けるという姿勢、そんな関係性を信仰によって築いていきたいと私たちは願います。
 49節のイエス様のお言葉を見てみましょう。「なぜこんなことをしてくれたのか。お父さんもわたしも心配して捜していた」と言った母マリアにイエス様がお答えになったお言葉です。
「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
 イエス様は神の子ですから、“わたしが父の家(神殿)にいることは当たり前のことです”とイエス様ご自身が言ったのです。
しかし、イエス様が神の子であること、どのような使命を負ったお方であるのかは、詳しくはこの時には両親であるヨセフとマリアにも分かっていませんでした。
 ですから当然、50節に書かれているように、彼らはイエス様の言葉の意味が分かりませんでした。しかし今の私たちは、イエス様のそのお言葉から、イエス様と天の父なる神が一体であるということを知ることができます。

 人々から学ぼうとする謙虚さ、そして“私は天の父なる神と一緒にいる”という絶対の安心感と大胆さが、そこには同時にあるということです。
私たちもそのように、信仰による謙虚さと、そして“天の父なる神、御子イエス様、そして神の霊である聖霊が私たちと共にいる”という絶対の安心感と大胆さ(勇敢さ)を同時に持つことができるのです。
私たちは自分が本当は無知であること、人から色々と教えてもらわねばならないことを恥じる必要はありません。むしろそれを認める事の出来ない方が恥だと、聖書は教えてます。
 互いに支え合い、そして教え合う、そのような者として、私たちは皆神によって、愛と目的をもって創造された者なのです。
そして私たちは常に学び、成長していくものであり、この地上で生きている限り、その過程には終わりがないのです。
ですから私たちは、神が共におられるという安心感、そして自らを低くし他者から学ぶという謙虚さ、そして神が与えて下さる勇気と力を同時に持って、信仰の旅路を共に歩んでいこうではありませんか。