2023年12月30日土曜日

2023年12月31日  主日礼拝

前奏
招詞 詩編138篇8節
讃美 新生讃美歌 618番 主のためにわれは生く
主の祈り
献金
聖句  ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節
宣教  「互いに重荷を担いなさい」
祈祷
讃美 新生讃美歌554番 イエスに導かれ
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏


 今日は2023年12月31日です。今年最後の日となりました。一年の最後の日(大晦日)が日曜日なので、私たちはこうして主日礼拝を捧げながら、この日を過ごしています。
 今年2023年は1月1日(元旦)も日曜日であり、主日礼拝から私たちは新しい年をスタートさせました。
 ですから今年は、文字通り礼拝で始まり礼拝で終わるという一年でした。一年を、主なる神を礼拝することで始め、また主を礼拝することで年を閉じることができ、わたしは大変嬉しく思います。
 今年一年も、わたしたちそれぞれに、私たちの教会にも、振り返って一つ一つを思い起こしてみれば、様々なことがあったと私は思います。

 大変な事、辛い事、また嬉しいこと、思いがけないこと、色々あったのではないでしょうか。
 私個人のことを話させて頂ければ、春に長男が就職で家を出て、社会人生活を始めたことが、やはり大きな出来事であったと思います。
 彼は遠くにいますが、最初に想像していたほど、それほど寂しさとか、大きな心境の変化のようなものを自分の中に感じることは、私にはあまりありませんでした。
 今は連絡自体は簡単にできますので、それほど距離感を感じずにすむというのも、そのように感じる理由であるかもしれません。

 しかし、彼のことを覚えて、やはりわたしは祈ります。そうすると、私たちがどこへいても私たちを守り導いてくださる、イエス・キリストの神にお任せできるのだ、という信仰による安心感が与えられます。
 それはとても幸いなことです。しかし今、私たちの世界では激しい戦争が続いている国や地域があり、本当に多くの尊い命が失われ続けています。
そのような現実の中、「神の愛」とか「神の恵み」、「神がいるから大丈夫だ」と言うことに、私は全くためらいを感じないのかと言えば、それは嘘になるかもしれません。

 しかし、主イエス・キリストは確かに私たちの世界にお出でになりました。キリストは人としてこの世界にお生まれになりました。先週は主のご降誕を祝うクリスマス礼拝を私たちは持ちました。
 キリストはこの世に来られて、私たち人間の罪を贖ってくださったのです。本来私たちが受けるべき罪の報いを、イエス様が代わってその身に受けてくださったのです。

 テモテへの手紙一 (1 Timothy) 1章15節に次のように書かれています。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。

私たちはイエス・キリストによって救われたのです。ですから私たちは、イエス様によって実現した、罪の赦しという救いを根拠に、やはり希望を持ってよいのです。
 今年1年を通しても、私たちが主の御愛に守られて、共に教会生活と信仰生活を送ることができたことを私は心より神に感謝いたします。
今年度2023年度、私たちの教会は「愛の奉仕」という標語の下に、教会生活を送っています。
教会の皆さんご自身の中から「神に仕えたい。具体的には教会での奉仕を通して神に仕えたい」という願いが起こり、「愛の奉仕」という標語が選ばれました。
聖句はガラテヤ書5章13節「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい 」です。
 ガラテヤ5章1節には「キリストはわたしたちを自由にしてくださった」と書かれています。イエス・キリストは私たちを罪から解放してくださいました。

またキリストは、律法を守ることによって、つまり人の努力によって得られる赦し、という決して実現しない考え(その呪縛)から私たちを自由にしてくださいました。
罪の赦し、神の救いはただ神の愛と恵みによって無償で私たちに与えられるのです。それを信じることが私たちを真に自由な者とするのです。
 しかし、それほどの自由を与えられた私たちでも、その自由を間違って用いてしまうなら、“肉に罪を犯させる”ことになってしまう、とガラテヤ書は言うのです。
“肉に罪を犯させる”とは、互いに仕えるのではなくて、逆に互いに傷つけあったり、互いに協力して力を合わせるべきなのに、逆に互いに重荷を負わせてしまうということです。

 そうならないために、私たちはどのようにしたらよいのでしょうか。そのことを、今日の聖書箇所から私たちは聞いていきたいと願います。
 今日の聖書の箇所は、年間聖句が採用された5章に続く、ガラテヤ6章の始めの部分です。
今日の箇所は最初に次のように書かれています。
兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。
 これは特に同じ信仰の共同体に属する者同士、同じ教会に属する者同士について言われています。それは、信仰の家族、信仰の兄弟に対して私たちが負っている義務です。
 クリスチャンであっても、罪に陥ることがあり得ます。意図しなくても罪に陥ることがあります。間違った道へ行ってしまうことが、私たち誰にでもあります。
そのような他者(信仰の家族)に対して、私たちはその人を柔和な(優しい)心で正しい道に立ち帰らせる(英語訳では“その人を元に戻す(修復する)”)義務を負う、と今日の箇所は言うのです。

正しい道とは、主なる神を第一とし、その方に従って歩む信仰の道、すなわちイエス・キリストの道です。
キリストの道を歩む私たち信仰者ひとり一人は、依然として罪人で間違いを犯す存在であっても、それでも私たちが歩むべき道ははっきりしているのです。
キリストと言う正しい道の上を私たちは歩もうと日々努力するのです。
 しかし、私たちはどれほど気をつけていても、わたしたちが抱える弱さ、自己中心さ、傲慢さなどから、罪を犯してしまいます。
そのような時、信仰の家族同士は、“正しい道”へ立ち帰るように互いに助け、促し、励まし合うことができるのです。
 正しい道(イエス・キリストの道)とは、具体的には、共に神を礼拝し、主の体を分かち合い(主の晩餐)、主の御言葉を分かち合う、信仰によって互いに支え合うという信仰者同士の共なる生活です。

 そして4節に書かれているように、私たちはそのように神を礼拝することを通して、自分自身をも吟味するのです。
 神の前に自分自身を真剣に吟味することで、私たちは自分の中には、神の愛と赦しに値するようなものは何もないことに気づかされます。
私たちは、“自分の信仰は深く、強いから大丈夫”だと、どれほど自信を持っていたとしても、自分だけで信仰を持ち続け、成長し続けることは決してできません。
私たちだれもが罪に躓き、罪を犯すからです。ですから私たちはお互いに、正しい道=イエス・キリストを主と仰ぎ、自分を吟味し悔い改める、神の赦しを頂いて生きる道へと、立ち帰ろうとお互いに励まし合い続けたいと願います。

今日の箇所の2節に次のように書かれています。
 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
私たちは互いの重荷を担い合うようにとここで命じられています。正しい道へ立ち帰るようにお互いに励まし合うこと、そして他者の重荷(罪や弱さということでしょう)を覚えて、それを自分の事として担おうと努力することが私たち信仰者には求められるのです。
私たちは誰も自分の罪を自分だけで担いきることはできません。しかしもし私たちがそれをお互いの重荷として、互いに担い合うならば、その重荷は軽くなります。
 そして根本のところで、私たちの罪を赦し支えてくださっているイエス・キリストが私たちと常に共におられることを私たちは知っています。

 イエス様の一番弟子であったペトロは、イエス様と一緒にいる時に、「主よ、御一緒になら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」とまで言っていました(ルカ22章31節~ )。
しかしイエス様は分かっておられました。ペトロが彼の弱さと罪のために、最後にはご自分を裏切って逃げてしまうことをイエス様は分かっておられたのです。
イエス様は、ペトロの裏切りを見越して、ペトロに次のように言いました。
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)
 イエス様は、ペトロに対して、きっと次のように言いたかったのでしょう。”わたしはあなたの罪を既に赦した。私があなたの罪を担った。

あなたの信仰が無くならいように私は祈った。だから、次はあなたが自分の兄弟たちを力づけてやりなさい”
 ペトロへ向けられたイエス様のそのお言葉と思いは今の私たちにも向けられています。
私たちが色々なことに失敗し、あるいは絶望したりして、信仰がなくなりそうな時にも、“あなたの信仰がなくならないように”とイエス様が今の私たちのためにも祈ってくださっているのです。
 イエス様のそのお言葉とイエス様自身の祈りが、私たちにはあるのですから、私たちは恐れることはありません。イエス様により頼みつつ、私たちは正しい道に、常に立ち帰りたいと願います。

今日の箇所の最後の節には次のように書かれています。
 10ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
 私たちが同じ教会に属し、共に信仰生活を送っているのは、本当に不思議な神様の御采配、ご計画によります。
 神の導きによって神の家族とされた私たちは互いに、重荷を担い合い、そしてできるだけの善を行おうと、ここで促されます。
 私たちがこうして一緒にいる時間も、やはり限りがあります。地上での出会い、時間は永遠には続きません。
それは、互いに重荷を担い合うことができる最適なタイミングがある、という意味でもあるでしょうし、また私たちは人間ですから、いずれ何らかの形で別れる時が来る、と言う意味でもあると思います。
ですから、私たちがこうして一緒にいられる、共に信仰生活ができることを、いつまでも続く当たり前のことと思わず、神が与えてくださった私たちの交わりを大切にし、その中でお互いに仕え合おうではありませんか。
イエス・キリストの信仰によって結び付けられた私たちが、互いの重荷を担い合い、赦し合って歩む、そんな共同体としてさらに成長することを目標に「愛の奉仕」を献げ、また明日から始まる新しい年2024年も歩むことができればと私たちは願います。

2023年12月23日土曜日

2023年12月24日 主日(アドベント第4/クリスマス)礼拝

招詞  エレミヤ書31章3節
アドベントキャンドルの点火~祈り
讃美  新生讃美歌162番 天なる使いよ 地をめぐり行き
主の祈り
主の晩餐
クリスマス劇 “たいせつなきみ”
献金
聖句 ヨハネの手紙一 4章16~21節
祈祷
宣教 「神の愛に留まる」
祈祷
讃美  新生讃美歌 157番 来れ 友よ 喜びもて
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷

 「神は愛ですGod is love」~今日の聖書箇所の中のヨハネの手紙一4章16節に、このように書かれています。
 「神とはどのようなお方ですか?」あるいは「神とは何ですか?」と聞かれたら、クリスチャンであれば、どのように答えるでしょうか。
 「神とは何か」という問いに対して、聖書は「神は愛です」とはっきりと述べます。
では「愛」とは何でしょうか。私たちは愛を知っているでしょうか。
 私たちは“愛とは何か”を、クリスチャンであってもなくても、知っていると自分では思っているのではないでしょうか。愛とは何でしょうか。それは、他人を思いやり、人に優しくすること。
 自分の利益よりも他人の利益を優先すること。弱い人や困っている人を助けること。そのようなことが愛だと、私たちは考えるのではないでしょうか。

自分がそのような愛の行為を実践できるかどうかは別にして、愛とは何かについて私は知っていると、おそらく私たちの多くは思っているのではないでしょうか。
 ところが聖書はこう断言するのです「神は愛です」God is love. この文の意味は「神は、一つの愛です」とか「神は、他にも多くある愛というものの、一つの形です」という意味ではありません。
 神は愛です~聖書が伝えるこの文の意味は、「神こそが愛であり、愛の源です。私たちが知っていると思っている愛は、全てこのお方を源泉としているのです」というのです。
 つまり、もし神を知らないと言うのなら、愛が何かも分からない、ということになります。
 するとまたもう一つの根本的な疑問がそこで私たちに浮かぶかもしれません。それは「神とは何か?」です。キリスト教の神以外にも、世の中では色々な神々が信じられています。

 そのような“色々な神々”が愛の源だと、聖書は言うのでしょうか。そうではありません。聖書が伝える神は、イエス・キリストを通してご自身を現わされた神です。
 聖書によって伝えられる、イエス・キリストを通してご自身を人に表された神こそが、唯一真の神である、というのが聖書のメッセージです。
 イエス・キリストを通してご自身を人に表された神が、すなわち愛である~これが聖書の伝えるメッセージです。
 クリスマスは、神の子であるイエス・キリストがこの世界にお生まれになったことを記念する時です。キリストを通して、私たちに“神とはどのようなお方か”ということ、そして真の愛が知らされました。
ですから、今から2023年前、イエス・キリストが現在のイスラエル/パレスチナにお生まれになったその出来事は、私たち全ての人間にとっての一大事でした。

 イエス・キリストが、天の父なる神の意志と御計画により、人としてこの世界にお生まれになったことには明確な理由(目標)がありました。
 今日の箇所の前の部分である、ヨハネの手紙一4章9節(1 John 4:9)に次のように書かれています。
神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
 「独り子」とは神の子であるイエス・キリストのことです。神が独り子のイエス・キリストを世に遣わされたのは、そのお方によって、私たち人が生きるようになるためだったのです。
キリストによって、私たち人が生きるようになるため、神はイエス・キリストを世にお遣わしになりました。

生きるとは、イエス・キリストを通して示された神の愛を頂いて、神の中に生きるということです。
生きるとは、聖書に書かれた神の言葉を通して神の御心を知り、神を礼拝し、神に祈るという生活の中で、霊的な命を生きるということです。
 私たちはまず、神の言葉を聞くことを通して神のことを知らされます。そして神の言葉に思いを巡らせ、神の言葉から力を頂くという経験を通して、神の言葉が確かに真実だと、信じるように(決断するように)なります。
 そのように神を信じる者は、神の内に(神の愛のうちに)留まろうとします。神の愛の中で生き続けようと、決心するということです。
 神の愛を知らされ、神の愛に留まろうとする人には、神もその人の内にとどまってくださる、と今日の16節に書かれています。(留まる=英語では ”内に住む live in“)
 神がその人のうちに留まって(住んで)くださると、その人からは恐れがなくなります。それが17~18節に書かれています。

17こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
18愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

神の愛を信じ、神の愛のうちに留まって生きる人からは“恐れ”がなくなるというのです。
 「裁きの日」とは、信仰者がいずれ神の御前に立たされ、自らの行いや言葉について神から問われ、裁かれる時のことが言われています。
聖書が伝えるその「裁きの日」を、信仰者はいつか迎えることになります。しかし私たち人は、誰も完全ではない、かならず欠点があり、かならず間違いを犯す者です。
ですからどんな立派な人であっても、完全なお方である神の前に立たされた時、裁かれずにはいられないのです。どんな人であっても神の前には残念ながら有罪なのです。
 しかしキリストを信じ、キリストの愛(すなわち神の愛)のうちに生きた人は、キリストが、その裁きを代わりに引き受けてくださったことが分かっているので、恐れなくてもよいのです。

クリスマスは、やがて私たちのために、私たちの罪を赦すために、身代わりとなってその命を捧げてくださった救い主がお生まれになった出来事です。
私たちのために救い主がお生まれになって、その方によって私たちは罪赦され、その方の無限といってよい愛が私たちに与えられたのです。
神のそのような愛を豊かに受けて、恐れの無い、感謝と喜びの日々を私たちは歩み、生きていこうではありませんか。

今日の箇所の20~21節をお読みします。

20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
21神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

 神から愛されるとは、素晴らしいことです。神から愛されることほど、私たちにとって幸いなことはありません。
 神が私たちを愛して下さるとは、神が私たちを大切に(尊いと)思ってくださっていることです。
 今日は礼拝の中で「たいせつなきみ You are special」という劇が演じられますが、その中で、木彫りの小人たちの造り主であるエリが言っています。
 「わたしがあなたを造った。だからあなたは私には大切なんだ」~造り主である神が私たちにそう言って下さっていることが、私たちにはなかなか分かりません。
 それを頭では分かっているかもしれませんが、その喜びが本当に心に溢れているかどうか、キリスト者は一度真剣に考えてみたほうがよいと私は思います。

 神がこのありのままの私を愛し、ただ神が私を造ったのだから無条件で愛して下さっているという聖書のメッセージを、私たちは(時間がかかっても)受けとめ、信じていきたいと願います。
 そして、神にそれほどまでに愛された者には、自身の兄弟姉妹(隣人や友人)、他者を愛するという義務がある、と今日の箇所は言うのです。
「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。

21神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」

これは私たちには大変厳しい言葉です。

イエス・キリストを信じ、神の愛のうちに留まれば、神の裁きを恐れることがなくなる、と今日の箇所には書かれています。
 しかし神の愛のうちに留まったかどうかは、あなたが兄弟姉妹を、信仰の家族を、そして他者を愛したかどうかで判断される、とも今日の箇所は言うのです。この言葉を前に、私たち誰もが大変厳粛な思いにさせられます。
 しかし、私たちの神は、私たちができないことをしろと、お命じになる方ではありません。神は私たち自身の中に、愛がないことはよくご存じです。
 ですから神は御子イエス・キリストを、キリストの愛を私たちに与えてくださいました。私たち自身ではなく、キリストの愛をもって、きっと私たちは自分以外の他者を愛することができるのです。
イエス様を私たちは信じ、イエス様から頂く愛によって、自分以外の他者をも大切にする、まず小さな一歩を、私たちは踏み出したいと願います。

 節の順番が前後しますが、19節に次のようにかかれています。

19わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

 神がまず(最初に)私たちを愛してくださったのです。ですから私たちも愛することができる(できるはず)、その一歩を踏み出すことができるはずだ、と聖書は告げるのです。
 神がまず私たちを愛し、私たちに全てを与えてくださいました。それがクリスマスの出来事です。神の御子イエス・キリストが私たちのためにお生まれになりました。
 キリストによって罪赦され、神の前に(人の前にも)恐れなく、神の愛のうちに留まりつつ、兄弟姉妹、他者を愛そうと努力しつつ、信仰の日々を歩んでまいりましょう。
クリスマスの恵みを私たちは、心から喜び感謝したいと願います。

2023年12月17日日曜日

2023年12月17日 主日(アドベント第3)礼拝

招詞  哀歌3章22~24節
アドベントキャンドルの点火~祈り
賛美  新生讃美歌 153番 エッサイの根より生い出でたる
主の祈り
献金
聖句  ペトロの手紙一 1章3~9節
祈祷
宣教 「言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れて」
祈祷
賛美  新生讃美歌 16番 み栄えあれ 愛の神
頌栄  新生讃美歌671番
祝祷 


神の御子イエス・キリスト、わたしたちの主であるイエス・キリストの誕生を待ちわびる待降節(アドベント)第三主日の礼拝を私たちは今日捧げています。
礼拝の始めに三本目のアドベント・キャンドルに火が灯され、祈りがささげられました。三本目のろうそくの火の意味は“喜び”です。
クリスマスは全ての人々にとっての、大きな、真の喜びです。しかし私たちは、戦争状態の中に置かれていたり、災害に見舞われたりして、命の危機に日々さらされている人たちが世界には多くおられることを知っています。
クリスマスを平和の中で迎えることができない、多くの人々のことを覚え、わたしたちは祈りを捧げたいと願います。私たちは、人と人との間の争いと憎しみが、一刻もはやく止みますようにと、祈ります。

キリストは、憎しみと争いのある、邪悪な考えと思いで満ちた私たちの人間の世界の現実の只中へ生まれてこられました。
そのお方を通して、“神とはどのようなお方であるか”がはっきりと示されるために、キリストは人としてお生まれになりました。
今日の聖書箇所(ペトロの手紙一1章3~9節)の最初の1章3節は次のような願いと祈りの言葉で始まっています。

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。
この言葉は、キリストを信じる信仰者に与えられた、大きな喜びの言葉であり、私たちに大きな力と希望を与える言葉です。
神は私たちに言葉を発する口を与えてくださいました。神は私たちに言葉を与えてくださいました。神から与えられた口と言葉で、わたしたちは「神がほめたたえられますように」と願い、祈ることができるのです。
 私たちは罪を抱えた人間です。ですから常に、神の栄光ではなく、実際には自分自身の栄光を求め、自分が人から讃えられること、評価されることを望んでしまいます。
 わたしたちはどうしても、他人との比較によって、優越感に浸ったり、また逆に劣等感にさいなまれたりします。
しかしキリスト者は、イエス・キリストの神によって、自分が愛されていることをしっています。

神の愛を知っていますから、わたしたちは他人との比較で自分の価値を評価する必要がないことを知っています。
自分がほめたたえられる必要はないのです。この世界をお造りになり、この私をもお造りになり、そしてこの私を愛して下さる神こそがほめたたえられますように、と私たちは心から願うのです。
ただ神を見上げて、神がいつも与えてくださっている恵みに感謝をして、心から「栄光はただ神にのみありますように」とわたしたちは願います。
 新型コロナウイルスによる感染症拡大以来は特に、多くの教会で、教会に集う人の数、教会員や財政の減少にも苦しんでいます。教会が閉鎖される、という話も私たちは聞きます。
そんな中で私たちもやはり、“これから私たちの教会はどうなってしまうのだろう”と、心配になることがあると思います。
私たち別府国際バプテスト教会も、礼拝出席者数は、コロナ前に比べて、今はほぼ半数に減ってしまいました。
特に海外出身の方々が多く集う私たちの教会に、感染症防止対策のための、国への入国禁止(制限)措置は、それまで全く予想もしなかった大きな影響を与えました。
今、ようやく感染症拡大以前の形へと戻りつつます。(対策をしつつの新しい形というべきでしょうか)

しかし、今日も聖書からわたしたちは確かな希望を頂きます。どんな状況の中でも、やっぱり“迷うことはない”と私たちは聖書の言葉によって励まされるのです。
それは、どんな状況の中でも、私たちは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」を褒めたたえる、賛美、礼拝することができる喜びがあるからです。
わたしたちが心からイエス・キリストの神に感謝し、キリストにだけ栄光がありますように、神にすべての栄光をお返しします、という気持ちで一致をするならば、
たとえわたしたちの目には少ない人数であっても、わたしたちが心から賛美し神を喜ぶのならば、神はますますわたしたちを祝福し恵みを与えつづけてくださるでしょう。
そしてそれが神の御心ならば、教会に集い新たに神を信じる人々をも、きっと神が神ご自身の御業としてこれから起こしてくださる~そのように、わたしたちは希望を持つことができるのです。
ですから私たちは、根本のところで、迷う必要はないのです。わたしたちがあがめ、讃美をするお方は、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」お一人であることがはっきりしているからです。

この“わたしたち”には、今こうして教会に集うわたしたちだけではなく、クリスチャンの方、またクリスチャンでなくても全ての人を含みます。
なぜなら主はお一人だからです。唯一真の神はイエス・キリストの父なる神のみであるからです。
この世のものが、どれほど素晴らしく、たとえそれが神のように見えるものがあっても、真の神はイエスキリストの父である神、お一人です。
今教会に集う人は少ないかもしれません。しかしそれでも、“世界のあらゆるすべての人々が、イエス・キリストの神を褒めたたえる日が来ますように”、“あらゆる人々が真の神を見いだすことができますように”という大きな願いも私たちは持つことができるのです。
それは素晴らしい願いではないでしょうか。それはただの絵空事ではないのです。わたしたちは“あらゆる人々がイエス・キリストの神を褒めたたえますように”というその願いを、確かな(確実な)希望に基づいて持っているからです。

3節の続きに次のように書かれています。
神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、

神はわたしたちを新たに生まれさせてくださいました。キリスト者の皆さんは、キリストを信じて生まれ変わったという自覚がありますか?新たに生まれたこと、新生の喜びがわたしたちにはあるでしょうか。
わたしがバプテスマを受けたとき(語学留学中にアメリカの教会で私はバプテスマを受けました)、教会の方が礼拝の後に、ケーキでお祝いしてくれました。
そのケーキの上には”Tomo, Happy Birthday in Jesus”と文字が彩られていました。それを見て、“わたしは、キリストの中で新たに生まれたのだな”と、改めて思わされ感激しました。
わたしたちがイエス・キリストを信じるということは、新たに生まれる、新しい命をいただく、ということです。

今日の同じ章、1ペトロ1章23節に次のように書いてあります。
 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

 ここにどのように私たちが生まれ変わるかが書かれています。わたしたちは神の変わることのない生きた言葉によって、新たに生まれるのです。
確かに神の言葉(聖書の御言葉)はわたしたちを生まれ変わらせます。神の言葉が私たちの心の中に宿る時、御言葉によって力を与えられる時、わたしたちはその度に新しい自分に生まれ変わっているのです。
こうして礼拝で私たちが神の言葉を分かち時、私たちには喜びで満たされます。
そうすると私たちは自分ではなく、“この喜びを与えてくださるイエス・キリストの父である神のみがほめたたえられますように”と心から願う者に私たちは生まれ変わらされるのです。
神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれる~そのような豊かな信仰の日々を私たちは生きることができるのです。

今日の箇所の最後の節である8~9節をお読みします。
8あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
9それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

 この手紙を書いたのは、イエス・キリストの一番弟子であったペトロです。ペトロはイエス様と共に生活をし、伝道活動を共にした人でした。
 “自分も捕まるのではないか”という恐怖に襲われ、捕まってしまったイエス様のことを「あんな人は知らない」と言って、ペトロはイエス様を見捨ててしまいました。
  それでもペトロは復活したイエス・キリストに出会いました。復活したイエス様はペトロと他の弟子たちに、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)と命じられました。
  復活のイエス様に出会ったペトロ始め弟子たちは、それから力と喜びに満ちて宣教をしました。
今の私たちは、ペトロのように、生きている時のイエス様、そして復活したイエス様に直接会い、そのお体を直接見ると言う経験はしていません。

 しかし、それでも今の私たちに与えられる喜びは、生きている時のイエス様と復活のイエス様を直接見たペトロ達(弟子たち)の喜びにも決して劣らない、大きな喜びだと、今日の箇所は伝えます。
なぜなら、私たちは「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」いるからです。
目には見えませんが、聖霊の導きによって、神の言葉が生きる命の言葉となった私たちの心と魂に入って来て、私たちを内面から“言葉では言い尽くせないすばらしい喜び”で満たしてくれるのです。
 イエス・キリストが私たちと共におられ、私たちを支え導いてくださり、辛く悲しい時にも豊かに慰めてくださる~そのような確かな救いを私たちは頂いています。
 私たちは毎年クリスマスをお祝いし、御子イエス・キリストの誕生を覚え、感謝の心をお捧げします。
それは、ある年間行事をただ繰り返す、ということではありません(そのようにしてはいけないのです)。私たちは毎年、そして日々キリストによって与えられる、”言葉では言い尽くせないすばらしい喜び”を頂きながら、その喜びで満たされるのです。
それほどの大きな喜びがキリストの信仰によって私たちに与えられていることを感謝し喜びつつ、今週の日々も私たちは歩んで参りましょう。

2023年12月9日土曜日

2023年12月10日 主日礼拝(第二アドベント)

招詞  ヨハネの黙示録19章6節
アドベントキャンドルの点火~祈り
賛美  新生讃美歌149番 来たれやインマヌエル
主の祈り
献金
聖句  イザヤ書52章7~10節
祈祷
宣教  「あなたの神は王となられた」
祈祷
賛美  新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷

主イエス・キリストの誕生を待ちわびる待降節(アドベント)の期間を今、私たちは過ごしています。今日は、アドベント第二の日曜日です。
 礼拝の初めに二本目のアドベント・キャンドルに火が灯されました。二本目のアドベント・キャンドルの火は、“平和”を表わします。
 一本目のアドベント・キャンドルの火は“希望”を表わします。イエス・キリストが私たちの世界に来てくださったのは、真の“希望”が私たちに与えられた出来事でした。
 その希望は、神が人となり私たちと共に生きてくださる、という希望です。私たちがその希望を信じたならば、もう何ものも私たちから取り去ることができない希望です。
 今を生きる希望と、将来への希望とがイエス・キリストを通して私たちに与えられました。神が私たちと共に生き、私たちと共に日々歩んでくださる、という確かな希望です。
 私たちは今日もこうして共に礼拝を捧げることで、今この時を私たちと共に生きて下さるイエス・キリストの希望を分かち合うことができます。私たちはそのことに本当に感謝をしたいと願います。
 
 今日のアドベント第二主日では、二本目のアドベント・キャンドルの火の意味である“平和”についての知らせを、聖書の御言葉から私たちは聞いていきましょう。
 今日の聖書箇所として、旧約聖書『イザヤ書』の52章7節~10節を私は選びました。
イザヤ書52章が書かれた背景としては、イエスラエルがバビロン帝国によって国を滅ぼされ、多くのユダヤ人たちがバビロンで捕囚としての生活を送っていた、“バビロン捕囚”の時代の終わりごろだと言われます。
 捕らわれの生活を送る民たちに、その捕囚生活が終わるという希望と喜びの知らせが知らされる様子が、今日の箇所には記されています。
 特に今、実際の戦争状態にある国や地域の中で、多くの人たちの日々の生活と命が脅かされ、多くの命が失われていることを思うと、私たちの心は痛みます。
人質となって捕らわれている人たちやそのご家族たちがおられることも思うと、なぜそのようなことが起こるのか、と私たちは疑問と憤りを覚えます。
 私は、「自分には何もできない」と言う無力感にも囚われます。皆さんはいかがでしょうか。しかし私たちが無力感に囚われるような時こそ、聖書が伝える平和に私たちは真剣に聞き、その平和を私たち自身が頂きたいと私は願うのです。
そして聖書を通して頂く真の平和を土台にして、私たちひとり一人が希望と力を与えられ、生き方と行動が変えられるならば、そこから世の平和は必ず実現していく、と私たちは信じてよいのです。

7節をもう一度お読みします。

 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。

 ここでは、人々に、一つの知らせを伝える人(伝令者)のことが言われています。彼が伝えたものは、“良い知らせ”でした。
 ここでは、捕らわれの身になっている人たちに、彼らが待ちわびていた知らせが届けられるという希望が言われています。
 イスラエルの人たちが捕囚生活の中で待ちわびていた知らせは、解放の知らせであり勝利の知らせでした。
人々が長い間待っていた解放と救いの知らせが、その人を通して人々に告げられた、というのが今日の箇所が伝えることです。
私たちはここで、その人の“足が、いかに美しいことか” と言われていることにも注目したいと思います。
 
 ここでは、戦争の勝利の知らせを伝えるために遣わされた“伝令者”がイメージされています。彼は、その知らせを告げるために長い道のり、山々を行き巡りました。
今ならば、スマホでメッセージを送れば一瞬で、どんなに遠くにでもそれは伝わります。人が、手紙や知らせを直接携えて運ぶということは、これからさらに少なくなっていくのでしょう。
そのような時代に生きる私たちには想像することが難しいことですが、一人の伝令者が、長い道のり、おそらく何十キロ、あるいは何百キロの長い道を、山や谷を越えて行くことは大変な労力を要したはずです。
今日の箇所は、山々を行き巡るその伝令者の足を“美しい”といいます。実際には、山々を行き巡った伝令者の足は大変汚れていたはずにも関わらず、彼の足は美しい、というのです。
 それは、その知らせを人々に伝えるために必死に走る伝令者の働きと彼の心の思いを、主なる神がご覧になって、彼の足を“美しい”と表現しているのではないでしょうか。

 それは、一人の信仰者が、主の良き知らせ、救いの知らせを信じ、その知らせを携えながら、それを他の人にも伝えたいと願いつつ日々を生きる姿にも例えられます。
キリストを信じ、毎日を懸命に生きる者の姿が“美しい”と、言われているのです。
そして、そのように福音を信じて生きる者が美しいと言われるのは、彼が信じ携えている神の福音そのものが、限りなく美しいからです。
 聖書は、わたしたち人を“土の器”だと言います。新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』4章7節に次のように書かれています。

2コリント4章7節
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

私たちは“土の器”です。弱く脆く、また罪を抱えた者です。しかし、そのような土の器の中に、私たちは“福音の光”、”神の栄光を悟る光”を持っているのです。
 土の器である私たちを、内側から美しく輝かす福音という光を、私たちは豊かに頂いていきたいと願います。
 土の器である私たちを福音の光によって輝かせて下さり、そしてそんな私たちを“美しい”と認めてくださるお方、主なる神に私たちは感謝をしたいと願います。
伝令者が伝えた知らせた内容は、“良い知らせ”であり、“平和”であり、“救い”でした。人々が待ち望んでいた解放の知らせでした。

クリスマスは、私たちに真の平和が神によって知らされた出来事です。クリスマスは、神から私たちに真の平和がプレゼント(贈り物)として与えられた出来事です。
 神から私たちに与えられた平和は、神の御子イエス・キリストが私たちの王に成るということによってもたらされました。
神の平和は、私たちがイエス・キリストを私たちの王として信じ、その王なるキリストを私たちの主としてお迎えすることから始まります。
 私たちがイエス・キリストを主であり、私たちの王であると信じ、キリストが私たちの心を支配なさる時、そこから神による平和が生まれます。
 キリストを私たちの心に迎え入れる時、まさに今日の箇所の9節に書かれているように、廃墟となっていた都エルサレムに、人々の歓声と喜びの声があがるのです。
廃墟となっていたエルサレムとは、空虚な思いで満たされていた私たちひとり一人の心の姿ではないでしょうか。
 空虚な心を何かで満たそうとして、私たちは色々なものを求めると思います。しかし、この世の中の何一つとして、私たちの心の空しさを、完全に満たしてくれるものはありません。
イエス・キリストの福音以外に、私たちの空しさが満たされ、喜びで心が満ちることはありません。
 しかしイエス・キリストを王として信じ、キリストが私を(私たち)を支配するお方だと認めて生きる時に、私たちの心は大きな喜びで満たされます。

 9節後半には次のように書かれています。

 主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。

 主イエス・キリストは、私たちの心を無理やり支配し、私たちから自由や尊厳を奪うお方ではありません。
 むしろ主イエス・キリストは私たちが自らキリストを王として迎える決心をすることを促し、またご自身を通して真の自由と尊厳を私たちに与えようとしてくださるお方です。
  キリストを通して、私たちは自分が“土の器”でしかないことを知ります。そしてその土の器である私たちが、神によってどれほど愛され、大切なものとされているのかを、キリストを通して私たちは知らされます。
 新約聖書の『マタイによる福音書』で、イエス様がお生まれになった時、占星術の学者たちが東の方からエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とヘロデ王にたずねました。
 学者たちのその言葉も、「キリストこそが真の王、王の王である」ということを表しています。当時ユダヤを治めていたヘロデ王は、あくまで人間としての王でした。
 しかし、イエス・キリストは神であり、全ての人がそのお方を信じ、従うべき真の王として私たちの世界にお生まれになったのです。
 私たちは、“キリストこそが王であり、私たち全ての者を支配なさるお方”ということを信じる、信仰の道を歩んでいこうではありませんか。

今日の箇所の最後の10節をお読みします。
10主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。

 私たちがイエス・キリストを主として、私たちを支配なさる王として信じる時、私たちを通して神の御腕の力が、世の人々にも明らかとなり、伝えられていきます。
 キリストが私たちを支配なさる時、神の平和が私たちを支配し、その神の平和が私たちを通して世へと拡がるのです。
 神の平和で私たちが満たされれば、私たちはきっと互いを受け入れ合い、互いを愛しあうでしょう。お互いの存在がお互いにとってかけがえのないものになるでしょう。
そしてやがて「地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ」という輝かしい希望も私たちには与えられるのです。
 希望の神、平和の救い主、イエス・キリストの神を心からあがめつつ、キリストの誕生を感謝する待降節の日々を、私たちは過ごして参りましょう。

2023年12月6日水曜日

 クリスマス礼拝のお知らせ

 12月24日(日) 第一礼拝 午前9時~、 第二礼拝 午前10時50分~

 12月24日(日) 燭火礼拝(クリスマス・イヴ礼拝)午後6時~7時(一回です)

 教会には、信者でなくても、どなたでもお越しいただけます。

 ぜひクリスマスを教会で共に過ごしましょう。



2023年12月5日火曜日

              *こどもクリスマス会~12月16日(土)14時からです。

     どなたでも歓迎です!




2023年12月2日土曜日

2023年12月3日 主日礼拝

招詞 ユダの手紙1章21節
アドベントキャンドルの点火~祈り
賛美 新生讃美歌 148番 久しく待ちにし
祈りの時
主の祈り
献金
聖句  詩編27篇11~14節
祈祷
宣教  「主を待ち望め」
祈祷
賛美  新生讃美歌 492番 わが身の望みは
頌栄  新生讃美歌671番
祝祷


 今日から、キリスト教会では「アドベント」Adventという期間に入ります。
 アドベント(待降節)は、クリスマス前の約4週間(今年は、12月24日が日曜日なので、三週間)の期間を指し、イエス・キリストの誕生を私たちが覚え、感謝し、キリストの誕生を待ちわびる期間です。
  イエス・キリストは今から約2020年前に、イスラエル/ユダヤの地にお生まれになりました。お生まれになったユダヤの地で、イエス様は神の国の福音について人々に宣べ伝えました。
 やがて多くの人々がイエス様の教えを信じ、イエス様に従うようになりました。それはその人たちの生き方が変えられたということでした。
 イエス様を信じ、イエス様に従うということは、私たちの生き方が変わるということなのです。

  イエス様を信じ、イエス様に従うということは、自分の命、そして生き方の主導権をそのお方(イエス・キリスト)に明け渡す、ということであるからです。
  ですから、イエス・キリストを信じ、イエス様に従うということは、それ以前の生き方(自分が自分の人生の主導権を握っている生き方)から、神であるキリストが主導権を握る生き方へと変えられるということなのです。
 私がイエス・キリストを自分の主、救い主として信じ、クリスチャンになって生きようと決意した時、わたしは信仰のことや聖書のことを、完全に理解していたわけでは勿論ありませんでした。
 それでも、キリストを信じクリスチャンになるということは、自分の中心が自分ではなくなり、自分の指針としての確実な何か(それは、決して変わることのない神)を自分の中心に持つことになるのだ、ということだと私は理解しました。
  私たち自身の思いや感情は(あるいは信念のようなものでも)、自分を取り巻く環境や周りの人々からの影響などによって、いつでも変わる可能性がある、とても移り変わりやすいです。
  そのような“自分”を自分の中心、土台として持っている限り、人は安定した(霊的に)、平安な生き方をすることはできません。

 しかし自分の中心に神を置き、神をお迎えし、その神に従うのならば、私たちは神によって揺らぐことのない平安を頂くことになります。神は決して変わることのないお方だからです。
自分中心から“神中心”の生き方へと変えられること、それがキリストを信じ、キリストに従って歩む道です。
 自分中心ではなく、神中心/キリスト中心に変えられると、私たちはいつも祈りを通して神の御心を知ろうとします。
神こそがわたしたちにとって最善をご存知のお方だと信仰者は信じるので、私たちは神の御心が何であるのか、を祈りによって知ろうとするのです。

 アドベント第一主日の今日の礼拝の聖書箇所として私は詩篇27編11~14節を選びました。詩編27編は、ダビデによる祈りの言葉です。
 ダビデは、イスラエルの王様でしたが、王になる前にも、そして王になってからも様々な試練に会いました。
 ダビデは人として間違った選択、過ち、正しくない道を歩むこともありました。私たち誰もがそうであるように、ダビデも決して完璧ではなく、間違いも犯したのです。
 ダビデはそのような経験を通して、神の示される道こそが唯一正しい道、王として、そして信仰者として彼が進み行くべき道であることを知るようになったのでしょう。

 今日の箇所の最初の節(11節)前半に次のように書かれています。
主よ、あなたの道を示し/平らな道に導いてください。

 詩編の他のいくつかの箇所でも、ダビデはこのように“あなたの道を示して(教えて)ください”と願い、祈っています。
 ダビデ王は歴史上、イスラエルの人たちにとても尊敬され、敬われてきた人物です。キリスト者にとっても、ダビデはやはり重要な人物であり、信仰的に私たちが彼から学ぶことも多くある信仰者です。
 偉大な王、そして偉大な信仰者として尊敬されているダビデも、「主よ、あなたの道を示してください」と、神に祈り願っているのです。
ダビデは、神が示してくださる道こそが、自分にとって最善の道だと信じていたからです。
 私たちもダビデに倣(なら)い、神が示される道こそ私たちにとっての最善の道であると、信じることができるようになりたいと願います。
 そしてそのように信じた上で、“あなたの道をわたしに示して(教えて)ください”と熱心に神に私たちは祈るようにもなりたいと願います。

そのような祈りを繰り返して、そしてその度に道が示される信仰の経験を通し、“神は確かにわたしの祈りを聞いてくださる”と私たちは確信していくことができるからです。
 「平らな道(まっすぐな道)」とは、“神の前に正しい道”のことです。神の前に正しい道を私たちが行くには、神ご自身がその道を示してくださらねばなりません。
 神こそが何が正しく何が善であるかをご存じのお方であり、私たちは神から示されなければ、何が真に正しいのかを自分で判断することはできないからです。
 私たちは、自分としては正しいと思うことをしたとしても、それが他の人の心を傷つけたり、良くない結果を産んだりすることがあります。私たちがそう意図しなくても犯してしまう罪も存在します。

 ですからわたしたちは、自分がそのように不完全で、常に罪を犯す可能性を持つ者であることを自覚し、謙虚に神に向かって「あなたの道を私に示して下さい。あなたの道へと導いてください」と祈らなくてはならないのです。
 私たちはひとりでもそのように祈りますし、また信仰の家族である教会としても、私たちは心を合わせて一緒に、そのように祈りたいと願います。
「主よ、あなたの道を示し、平らな道に導いてください」と私たちはぜひ一緒に祈ろうではありませんか。
 主なる神を信頼し、「主は祈りを必ず聞いてくださる」という確信が深まるほど、私たちは信仰による希望を持つことができるようになります。
 主である神が私たちの祈りを聞いて下さるのですから、それ以上に力強いことはありません。
そして私たちには、神への信仰を通して、希望が与えられます。13節に次のように書かれています。

13わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。

 神から来る信仰の希望とは、私たちが生きるこの地上にあって、主の恵み(主の善=英語訳)を見る、という希望です。
 それは、神が造られたこの世界で、私たちは神が与えて下さる善き物、神の素晴らしさを見て、それを理解し、希望を持って生きることができるようになるという希望の確信です。
 神への信仰がなく、自分中心で私たちの身の回りや社会、世界を見るならば、“自分の思い通りにならない”という不満ばかりが、いつも募るでしょう。 
 しかし神から来る希望の信仰を通して私たちが私たちの身の回りを見るのならば、主の恵みがいかに多くあるかということを、私たちは認めることができるようになるのです。
  主は私たちに善き物を私たちに与えてくださるお方ですから、私たちは私たちの頑なな自分中心の思いのために、神が私たちに与えてくださる善き物を決して拒むようなことがないようにしたいと思います。

 信仰の希望をもって、私たちが生きるこの地上の世界に、主の恵みが溢れていることを私たちは喜びたいと願います。

11節の前半をもう一度お読みします。「主よ、あなたの道を示し、平らな道に導いてください」
 遠い昔、信仰者ダビデがこのように祈ったことに、主なる神は応えてくださいました。おそらくダビデ自身も想像もできなかったほど、素晴らしい方法で神はダビデのこの祈りに応えてくださったのです。
 神は、御子イエス・キリストを、私たち全ての者の道として、命と真理の道としてこの世界に贈ってくださいました。そのようにして、主はダビデの祈りに応えてくださったのです。
 イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことはできない」とおっしゃいました(ヨハネによる福音書14章6節)

 ダビデが祈ったように、神は神ご自身の道、真理の道を私たちにはっきりと示してくださったのです。神の御子イエス・キリストという道こそが、唯一真の真理の道であることがわたしたちに示されました。
 キリストにこそ私たちは従い、キリストの示す道を私たちは歩んでいかねばなりません。キリストこそが唯一正しい道なのです。
 私たちにとって何が最善であるかをご存知であるお方が、主イエス・キリストを通して私たちを導いてくださる平らな、正しき道へ向かって、私たちは歩んでいきたいと願います。

 今日の箇所の最後の14節をお読みします。
14主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。
 「主を待ち望め」~この言葉を今日のメッセージの題に私はいたしました。アドベント(待降節)の今、私たちは新たな思いと期待をもって、主を待ち望みます。
主を待ち望むとは、私たちが日々信仰を新たに、自分中心の心を悔い改めて、神中心の生き方へと変わる決意をすることです。
自分の中心に居座ろうとする自分を心から追い出し、イエス様をいつも心の中心にお迎えする、という決心です。
そのように私たちが心から願い祈るとき、主は必ずいつも私たちの所へ来て下さり、そして私たちの心の中心に住んでくださるようになるのです。
私たちは心合わせて神に祈り、イエス様がいつも私たちの中心にいてくださいますようにと祈りましょう。
私たちはイエス様に私たちに中心にいていただくことにより、イエス・キリストが私たちに示して下さる道を、歩んでいく者でありたいと願います。
私たちは、日々主に導かれて、キリストにある希望の道、信仰の道を歩みつつ、このアドベントの期間を過ごしてまいりましょう。

2023年11月25日土曜日

2023年11月26日 主日礼拝

招詞  詩編40-篇9節
賛美  新生讃美歌650番 喜びて主に仕えよ
主の祈り 
主の晩餐
世界バプテスト祈祷週間を覚えて
献金
聖句 ルカによる福音書4章42~44節
祈祷
宣教 「ほかの町にも神の国を告げ知らせなければならない」
祈祷
賛美  新生讃美歌 379番 行きて告げよあまねく
頌栄  新生讃美歌679番
祝祷

 今日からの一週間(11月26日~12月3日)は、「世界バプテスト祈祷週間」です。
世界バプテスト祈祷週間では、私たちの教会が加盟している日本バプテスト連盟(Japan Baptist Convention)の日本バプテスト女性連合(Japan Baptist Women’s Union)が推進している国内外の様々な宣教の働きについて特に覚え、祈りと献金を献げます。
 イエス・キリストにより、神の国の福音(良い知らせ)が私たちの世界に知らされて以来、多くのキリスト者たちが福音を世に伝えることを自分の使命として、宣教の働きに仕えてきました。
  神からの召しを受けた多くの伝道者たちが、自分の故郷や住む場所を遠く離れて各地へ、時には外国の地にまで出かけて行き、イエス・キリストの福音を伝える宣教の働きに仕えてきたのです。
  そして福音宣教に仕える宣教師たちの働きの背後には、彼ら彼女らを祈りと献げ物によって支える多くの信仰者たちがいました。

今も、宣教の働きに仕えている宣教師たちが各地に沢山おられます。私たちは福音宣教に従事する宣教師たちの働きを覚え、感謝と祈り、そして献げものにより、宣教師の方々を支えたいと願います。
「世界バプテスト祈祷週間」という名前から、わたしたちは“この一週間が、まず祈りを(特別な祈りを)捧げるための一週間である”ということを確認したいと思います。
 私たちが献金を捧げることも大切です。しかし福音宣教の働きも、その全てはまず祈りによって始めなければならないということです。
 宣教のために神に祈るとは、「神の御心が先にあり、神の御心に従って行きます」という私たち信仰者の決心を改めて表すことでもあります。

今日の聖書箇所では、イエス様を自分たちのそばに引き留めようとする人々と、彼らの願いに反して、宣教のために別の場所へと出て行かれるイエス様の姿が描かれています。
この箇所から、神の御心に従い、福音宣教の働きに仕えること、その働きを支えることについて、私たちは聞いていきたいと願います。
今日の箇所の初めに、イエス様は朝になって「人里離れた所へ出て行かれた」と書かれています。
マルコ福音書での、この箇所と同じ出来事を記している箇所には、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」と書かれています(マルコ1:35節)
 イエス様は、新しい一日を祈りによって始めておられたのです。イエス様は祈ることで、(人里離れた所で、静かに父なる神と二人になり)神と親密な時を過ごし、霊による力と励ましをお受けになっていたのです。

 神の御子イエス様も、一日の宣教活動を祈りをもって始めておられたということです。そうであれば、わたしたちキリスト者は、なおさら、何をするにしても、初めに祈りをもって始めることの大切さを教えられます。
それは「私たちは祈らなければならない」という義務的な行為ではなく、「祈りなくしては、大切なことを始めることができない」という信仰者としての自然な生き方です。
神に祈ることが、「大切なことはいつも、神への祈りをもって始めたい」という信仰から来る純粋な希望となるようにと私たちは願います。

そして私たちは祈ることで、「この働きは、神が率先し神が導いてくださるのだ」という確信をも頂いていきたいと願います。
 そしてイエス様が、朝に人里離れたところで祈っておられたのは、ご自身が父なる神から力と励ましを受けるためであったと同時に、イエス様は人々のために、父なる神に執り成しの祈りをするためでもありました。
  主イエス・キリストは、今でも私たちのために、神と私たちの間を執り成して下さる(仲介してくださる)お方です。

 ローマの信徒への手紙8章34節に以下のように書かれています。
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 わたしたち人は、生まれながらに神に反する罪を犯しているので(それが聖書が伝える真実です)、そのままの状態ではだれも神に近づいたり、神に祈ったりすることができません。
  しかし復活のイエス・キリストが今も、父なる神の右に座して、わたしたちのために執り成してくださっており、執り成しの祈りを捧げてくださっているのです。
  ですから私たちは、キリストの十字架によって罪赦された者として、キリストを通して神に近づくことができます。イエス様の名によって、天の父なる神に私たちは何でも祈ることができるのです。
  私たちは、自分のことと他者のことについても、願うことを何でも神に祈ることができます。
 イエス・キリストが私たちと神の間にお立ちくださり、私たちの祈りを神の御前に届けてくださっているからです。そのように神と私たちの間にいて、執り成してくださっているイエス様に感謝を捧げたいと願います。

 群衆(人々)は、イエス様を捜してイエス様のもとへやってきました。そして彼らは「自分たちから離れて行かないように」と、しきりに(イエス様を)ひきとめた、と書かれています。
 イエス様にそのように(自分たちから離れて行かないようにと)願った人たちの気持ちは、私たちにも理解できるものだと私は思います。
  イエス様に、自分たちから離れて行かないようにと願った人たちは、イエス様が大勢の病を抱えた人たちを癒す姿を見ていました。そんなすごい人がずっと自分たちと一緒にいてくれたら、もう安心だ、と人々は思ったのでしょう。
  私たちも、もしイエス様が今わたしたちの目の前に現れて、奇跡的な業を色々と見せてくださったら、「私たちから離れて行かないでください」としきりに願うだろうと私は思います。
 しかしイエス様は、そのように願う人々に、お答えになりました。
 「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」

そうしてイエス様は出て行かれ、ユダヤの諸会堂で宣教されました。イエス様は一つ所に留まることなく、色々な場所で宣教をされたのです。
イエス様は、“そうすることが自分の願いだから”というのではなく、“わたしはそのために遣わされたのだから”と言って、他の町へと出て行かれました。
イエス様は、ご自分をお遣わしになった天の父なる神のみ旨に従って生きることを第一としていたのです。
イエス様は私たちにも、神の御心を祈り求めて、神の御心に従って歩む生き方をするようにという励ましと導きを、今も与えてくださっています。

私たちには色々な願いや望みがあります。しかし私たちは人間であり全てを見通すことはできないので、私たちが持つ願いや望みが、私たちにとって実は良くないことである(あるいは、最善ではない)可能性もあります。
ですから、私たちの願いや望みよりも、神の御心を求めて、そして神が私たちに望まれる道を進み歩んでいくことができるように、私たちは祈り求めていかなくてはなりません。
 イエス様は、“神の国の福音を他の町にも告げ知らせなくてはならない、なぜならそれが天の父なる神がご自分をお遣わしになった理由であるから”という確信をもって、宣教の働きを続けられました。
  “ずっとそばにいて頂きたい”という人々の願いと心もイエス様は十分に理解されたでしょう。しかし、イエス様にとって、“神の国の福音が多くの人々に告げ知らされる”と言う神から与えられた使命が第一だったのです。
 私たちも、私たちがいる場所からは離れた場所、遠くの人たちのことも覚え、またその遠くの人たちの間で、神の国の福音宣教の働きに仕えている人たちを覚えて、祈りと献げ物をお捧げしたいと願います。

 わたしは最初アメリカの教会でイエス・キリストを知り、教会へと繋がりました。私がアメリカで導かれた教会はアメリカの南部バプテスト連盟(Southern Baptist Convention)という宣教団体に加盟するバプテスト教会でした。
私が日本に帰国する時、私が通っていたそのバプテスト教会の方々が、私の出身地である日本の名古屋にも、南部バプテスト連盟から派遣された宣教師がいることを調べて教えてくださいました。
私は名古屋に帰ってから、その宣教師の方々にお会いすることができました。その方々は、私の母教会となった名古屋教会と深いかかわりを持って、奉仕をしておられました。
 私はそれから牧師として仕えています今に至るまでに、何人かの元宣教師の方々と連絡をする機会を持つことができました。
 その中の一人である、わたしの出身教会(名古屋バプテスト教会)と関わりの深かった故アーネスト・ハロウェイ宣教師からは、名古屋教会に関する大変貴重なお話もお伺いすることができました。
  それは、アメリカの教会で伝道集会が持たれ(おそらく1950年頃でしょう)、その時にあつまった献金が原資となって、今名古屋教会が立っている土地の購入がなされた、というお話でした。
  “日本の一都市に教会が立てられて、そこからイエス様の福音が日本の人々に告げ知らされていくこと”を覚えて祈り、そして実際に献げ物を捧げてくださった多くの方々がおられたということに、私は大変感銘を受けました。
 私はもちろんお会いしたこともなく、そのお顔もお名前も知らない、本当に多くの方々が、わたしの出身地での宣教のために遠くアメリカの一地方から祈りを捧げ、尊い献金も献げてくださったことを思うと、感謝せずにいられません。
  その方々が遠く海外での福音宣教の働きにまで思いを馳せることができたのは、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせねばならない」と言われたイエス様の御心が、まさに自分自身の想いと願いとになったからでしょう。
  ここ大分の地でも、福音宣教の働きに生涯を捧げた海外からの宣教師の方々の多くの献身的な働きがありました。私たち別府国際バプテスト教会も、そのような宣教の働きが土台となって生まれたと言ってもよいと思います。

  私たちはまず祈りをもって、そして実際の献げ物をもって、遠くの地での宣教の働きをも支えることができます。
 イエス・キリストの神の国の福音が、多くの人々へ、多くの国々へと告げ知らされる、キリストの希望がまだキリストを知らない人々に届けられる働きに、私たちも繋がることが出来るのです。
「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」~イエス様の、このお言葉を私たち自身の使命ともして、福音宣教の働きに私たちも喜びをもって仕えて参りましょう。

2023年11月18日土曜日

2023年11月19日 主日礼拝

招詞  詩編86篇12~13節
賛美  新生讃美歌 125番 造られしものよ
主の祈り
献金
聖句  コリントの信徒への手紙二 1章3~11節
祈祷
宣教  「死者を復活させてくださる神を頼りにする」
祈祷
賛美  新生讃美歌 19番 くすしき主の愛
頌栄  新生讃美歌 679番
祝祷

 今日もこうして、私たちが共に神を礼拝することができることを、私たちは感謝いたします。私たちは神を礼拝するために、こうして集まっています。
 それは神が私たちを今日も呼び集めてくださったので、私たちは聖霊なる神の呼びかけに応えて、こうして集まることができているのです。
 私たちをイエス・キリストへの信仰によって結び付けてくださる主なる神に大きな感謝をお捧げしましょう。
 今日私たちに与えられた聖書箇所である新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』1章3節~の初めの3節に次のように書かれています。

3わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。

 この言葉(ほぼ同じ言葉)は、『エフェソの信徒への手紙』の初め(エフェソ1章3節)にも、『ペトロの手紙一』の初め(1ペトロ1章3節)にも書かれています。
この言葉が、そのように聖書の他の箇所にも出てくるということは、信仰者として私たちが「神をほめたたえる」ということがいかに大切であるかを表しています。
そして聖書がこのように何箇所かで「神がほめたたえられますように」と言っているのは、わたしたち人は、信仰があると言いながらも、神を褒めたたえることをしなかったり、怠ったり、忘れたりすることも多いという事実をも表しています。

なぜなら、私たちには自分中心という罪、神の栄光さえも自分のものとしたい、という罪深い性質、欲があるからです。
「私たちの主イエス・キリストの父である神が褒めたたえられますように」、「神が褒めたたえられるように」と言いながら、実は自分自身が褒めたたえられることを願い、自分が人から評価されますようにと願っていることがないでしょうか?
人から愛されたい、人に認められたい、そのような願いばかりが大きくなると、私たちの心は神から離れて行きます。
自分中心の生き方に留まるならば、私たちは神の恵みに目を留めることができず、そして神をほめたたえることをしなくなり、神を褒めたたえることのできる喜びからも遠ざかってしまうことになってしまいます。

わたしたちは心から神を褒めたたえているでしょうか?教会の集会に参加することにより、また教会の一員となることが、神をほめたたえるという信仰に繋がっているでしょうか?
教会がイエス・キリストの恵みで本当に溢れているならば、そのような教会に集うことはわたしたちにとって大きな喜び、力となるはずです。神の恵みで溢れた教会には喜びと力が溢れます。
そしてそのような教会につながることで信仰の喜び、力をいただいているのならば、わたしたちはその時心から神を賛美し、褒めたたえる者になるはずです。
 私たちは「神こそが、唯一褒めたたえられるべきお方」と心から言えるように、そして私たちは心からの信仰の願いとして「真の神を褒めたたえたい」という純粋な願いに満たされていきたいと願います。

 なぜ神は、それほどまでに褒めたたえられるべきお方なのでしょうか。それは今日の聖書箇所に何度もでてくるように、私たちは神から豊かな「慰めcomfort」を頂くからです。
 今日の箇所の前半部分(3~7節)の中には、慰め comfortという言葉が何度も出てきます。神は私たちに慰めを与えてくださるお方です。
  私たちが生きる上では苦難、困難が必ずあります。人それぞれに、いろいろな苦難があります。苦難に会うとき、苦しみと悲しみの中にある時、私たちには慰めが必要です。私たちには神の慰めが必要です。
 私たちは神からの慰めを頂くことで、苦しみ悲しみが伴う人生を生きることができます。神の慰めを頂きながら、生きる上での困難の只中にあっても、神と共に歩き続けるようにと、私たちは神によって招かれているのです。
 イエス・キリストが十字架の上(その死によって)で負われたのは、私たちすべての者の痛みと苦難、そして私たちの罪でした。

 キリストがそのように十字架の上で全てを(あらゆる苦難をも)負ってくださったので、イエス・キリストはあらゆる苦難に際して、わたしたちを慰めることがお出来になります。
キリスト教の歴史とは、神によって深い悲しみと痛みを慰められて来た人たち、そのような経験を許され、神による癒しと慰めを告白してきた人たちの歴史とも言えます。
 「神様がいかに優しく、愛に溢れ、慰めを与えてくださったか」を信仰によって知らされ信じた人々が、その信仰を告白し証しすることで、キリスト教の信仰は受け継がれてきたのです。
  私たちが教会で神の言葉を共に聴くのは、神の慰めを私たちが共に頂く、ということでもあります。真の慰め主が私たちと共におられる、ということを礼拝を通して私たちは確信していくのです。
  私たちには、苦難、困難、悲しみの中にあっても、私たちの魂と心の中から慰めを与えて下さる神がおられる~そのことを私たちはますます知っていきたいと願います。

そして、そのような神の慰め(真の神の慰め)を私たちが頂くとき、それはそれを頂いた私たちだけの慰めには留まらないのです。

今日の箇所の4節、そして6節をお読みします。

4神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
 6わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。

 私たちが神によって慰めを頂くと、その慰めは私たち以外の人たちへの慰めにもなるというのです。
 イエス・キリストの神による慰めを私たち自身が本当に頂いたのならば、私たちはその慰めをもって、自分以外の他者をも慰めることができるのです。
 試練や苦難は、それを経験する人自身を、わたしたちを成長させることがあります。試練は信仰成長の原動力ともなります。
そしてキリスト者にとって、苦難の中で成長するということは、苦難の中で共にいてくださる神の力を頂くことを知るということです。

苦難の中にも神の変わらぬ慰めがあり、神に慰めていただくその経験を通して、神によって私たちは強くもなるのです。
私たちが自分自身の力で強くなるのではなく、神によって私たちは強くなれるのです。
キリスト者にとっての信仰の成長とは、共にいてくださる神にますますより頼んで、神の愛の慰めに満たされることを知っていく過程です。
そのような神の慰めを頂いた私たちは、神から頂くその慰めをもって、自分以外の他者をも慰めることができるようになるのです。神の慰めが、私たちと私たちの教会を通しても豊かに広がっていくのです。

8節で、この手紙を書いたパウロが、彼自身が経験した苦難について言及しています。

8兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。

「アジア州でわたしたちが被った苦難」とパウロが言っているのが、具体的にどのような困難を指すのかは、よく分かりません。
パウロは各地を伝道する際に、色々な苦難と命の危険にさえも会っています。キリストの福音を伝道することに伴う迫害などによる苦難の数々が、ここで言及されているのだろうと思われます。
パウロが経験したその苦難は、彼が“生きる望みさえ失う”ほどのものでした。そして9節の言葉が続いて書かれます。

9わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。

 パウロが経験した苦難は、生きる望みを失い死の宣告を受けたと彼が感じたほどに大きな苦難でした。
 普通ならば「死の宣告を受けた」と、それほどに感じた時点で私たちは“もう駄目だ”と思ってしまうでしょう。私たちは、大抵のことはその時点で諦めてしまうでしょう。
 しかし、神から頂く慰め、神にある望みを頂く者にとっては、それほどの苦難が逆に新たな出発点となるのです。
生きる望みを失い、死の宣告を受けたと感じるほどの苦難が、生き方を神にあって大きく変えられる転換点となるのです。

 なぜなら「もう自分の力ではどうにもならない」という境遇に置かれることで、「死者を復活させてくださる神を頼りにするように」なることを私たちは知るからです。
  この私が何かをするのではなく、主イエス・キリストを十字架の死から復活させてくださった神がなさる、ということをその時私たちは知るのです。
ですから、“もう駄目ではないか”、”私にできることは何もない”と思った時、私たちは神に近づこうではありませんか。
自分を頼ることを止め、キリストを通してあらゆることを新しくしてくださった、命の源である神に立ち返ろうではありませんか。
 自分を褒めたたえるのではなく、すべての栄光を神にお返しすることを願い、神を褒めたたえるようになること、それがキリストにある信仰です。

 苦難の中にあっても、常に真の慰めをくださる神の慰めを頂くことを知ること、そして神からいただく慰めをもって、自分以外の他者をも慰めることが出来ることを知る、それがキリストにある信仰です。
 神から頂く真の慰めによって、私たちがお互いに思いやり合い、神の慰めを分かち合うことができる、そのような神の愛が溢れる教会に私たちはなっていきたいと願います。
 そして自分自身を頼りにするのではなく、死者を復活させてくださった、つまり、あらゆる恥と侮辱にまみれて十字架の上で死なれたお方(イエス様)を、全ての者の慰め主、救い主として復活させてくださった神を頼りにすることを知る、それが私たちの信仰です。
 愛に溢れ、慰めを豊かにくださる私たちの神に、ただ神のみが私たちの間であがめられ、ほめたたえられますようにと、私たちは願いつつ信仰の日々をこれからも共に歩んでいきましょう。

2023年11月11日土曜日

2023年11月12日 主日礼拝

招詞 歴代誌上29章12節
賛美 新生讃美歌 260番 み言葉もて霊の火を
主の祈り
献金
聖句 ルカによる福音書4章38~41節
祈祷
宣教  イエスは一人一人に手を置いて
祈祷
賛美 新生讃美歌 550番 ひとたびは死にし身も
頌栄 新生讃美歌 679番
祝祷


 『ルカによる福音書』を私たちは最初からすべての節を通して少しずつ読みながら、この福音書を通して私たちに語られる神のメッセージを聞いています。
 ルカ福音書4章はイエス様が荒れ野で悪魔から誘惑を受ける場面で始まっています。イエス様は悪魔から次のような誘惑をお受けになりました。
 「石にパンになるように命令してみろ」、「わたし(悪魔)を拝め。そうすれば世界のすべての権力と繁栄はあなたのものになる」、「神殿の屋根から飛び降りて、神に救ってもらえ」
 イエス様は悪魔のそれらの誘惑を聖書の言葉、すなわち神の言葉を用いることで、退けました。
 悪魔の誘惑の意図は次のようなことでした。
“誰の目にもすぐに分かるような、派手な方法で、伝道しなさい。いつもお腹が満たされるとか、権力や成功が手に入るとか、怪我や病気をすることも一切ないとか~神を信じればそういうことが可能になる~そう人々に伝えたらどうだ”。

 しかしイエス様は、それらが神の恵みの本質ではない、ということをもちろん知っておられました。
神の子であるご自分のご使命は、みんながびっくりするような、またとても魅力的で奇跡的な行いによって、人々の関心や興味を一時的にひきつけることではない、とイエス様は確信しておられたのです。
そうではなく、イエス様は神の言葉、御言葉を人々に伝えるために、この世界に来られました。一時的な楽しみや満足でなく、神の言葉を通して与えられる永遠の命、永遠の平安をイエス様は人々に伝えるために、世に来られたのです。
そしてイエス様ご自身が神の言葉を成就するお方であることを、その生き方と言葉の両方で、イエス様はお示しになりました。
イエス様は悪魔の誘惑を受けるとすぐに、色々な会堂でお教えになりました。イエス様は安息日(当時のユダヤ教の安息日は土曜日)には会堂へ行き、集会(礼拝)に参加し、そこで聖書の言葉をお教えになりました。

 神の言葉、すなわち御言葉こそが、わたしたちを生かすのです。神の言葉が、わたしたちが困難や試練の中にあっても耐えて生きることのできる力と慰めを与えてくれます。

 ヨハネによる福音書6章63節でイエス様は次のように言っておられます。

 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

イエス様が話した言葉は霊であり、命なのです。神の言葉には、神のご愛と恵み、憐みが込められています。
イエス様の言葉には、イエス様の御生涯を通して示された神の愛、私たち人間の罪を赦してくださった神の憐み、神の優しさの全てが込められています。
イエス様が人として生きられた時代から約2000年を経た今を生きる私たちにとっては、神の言葉が世界中の多くの人々に生きる力と希望を与え、人々が生きることの意義を御言葉の中に見いだしてきたという、その長い信仰の歴史も与えられています。
わたしたちの教会も、神の言葉に生かされて生きる信仰者の群れとして、信仰者の歴史に連なる群れの一つとして、神の言葉が代々にわたって伝えられていく働きに仕えているのです。
私たちが神の言葉を聞き、神の言葉を分かち合い、神の言葉を生きるとき、その度毎に神の言葉が私たちを通して、新しく生きた言葉となり続けています。

神の御言葉が私たちを通して生き生きとしたものになる、そのことも私たちは信仰の喜びとして実感していきたいと願います。
 イエス様は会堂で人々を教えられた後、今日の聖書箇所の場面の中で、シモンの家にお入りになりました。
 シモンとは後にイエス様の弟子となり、ペトロ(“岩”を意味する名前)という新しい名前をイエス様から頂いた、あのペトロです。
イエス様は会堂で人々を教えられた後、大変お疲れになっていたのではないかと私は想像します。宣教者が御言葉を語るには、大変なエネルギーを要するからです。
会堂で人々をお教えになった後イエス様は、すぐにでもお休みになりたかったのではないかと私は想像します。しかし、イエス様は休むことなくそのお働きを続けられたのです。

そこでイエス様は、会堂で神の言葉を多くの人々に語るという働きから、今度はシモンという個人の家に入っていき、そこで個別の伝道をする、というお働きをされました。
私も牧師として、機会があるごとに、皆さんと個別に交わったり、許されればお家を訪問させていただくことがありますが、それは私にとっても大変嬉しいことです。
礼拝や祈祷会でこうして講壇から公に語ること以外に、個人的な繋がりや交わりを通しても、牧師と信徒としての、またそれ以前に同じイエス・キリストを信じる同信の友としての関係を作っていきたいと私は願っています。

そして、シモンがイエス様を自分の家に迎え入れたように、私たちもぜひ私たちの自宅という私的な(プライベートな)領域にも、主であるイエス様をお迎えしたいと願うのです。
ひょっとしたら信仰者であっても、「ここは私の私的な(自分だけでの)領域ですから、イエス様(神様)であってもここには入ってこないでください」と私たちは思ってしまっていないでしょうか。
そうではなく、私たちは、私たち自身のあらゆる生の領域の中に、イエス様に入ってきていただき、全てのことにおいてイエス様の導きに従って歩む者でありたいと願います。
イエス様に私たち一人一人の中に、私たちが日々生活するその場、家の中にも入ってきていただき、いついかなる時もイエス様と共にいるという安心と喜びの中で、私たちは生きていきましょう。
 イエス様が入って行かれたシモンの家には、シモンのしゅうとめ(シモンの妻の母親)がいて、彼女が髙い熱に苦しんでいました。
 シモン(ペトロ)はイエス様の12弟子の一人になりました。ペトロに限らず、弟子たちに関する個人的な背景や彼らの家庭環境などは、聖書にはあまり(ほとんど)記されていません。
 しかしペトロについて、少なくとも今日の箇所から分かることは、彼は結婚していて自分の家(あるいは妻の家だったかもしれません)には妻の母親が同居していたということです。

ですから、今日の箇所は、シモン(ペトロ)という聖書中の重要人物が、今の私たちにも大変身近に感じられる場面だと言えると私は思います。
 そこで人々(シモンの家族たちのことでしょう)は彼女(シモンのしゅうとめ)のことをイエス様に頼みました。“高い熱で苦しむ彼女を癒してください”と人々はイエス様に頼んだのです。
 イエス様がシモンの妻の母の、その枕元に立ち、熱を𠮟りつけると、熱は去りました。彼女の病気は癒されたのです。
 イエス様は、人であると同時に、命の源である神でもありましたから、人の病気を癒す力をお持ちでした。そのイエス様が命じられたので、シモンのしゅうとめから熱は出て行ったのです。
 これは、今も私たちが祈ればどんな病気も必ず治る、ということではありません。もし、神がそう意図されるのならば、病気は治ります。

しかし、もし神に別のご計画があるのであれば、私たちが祈っても、私たちが願った通りにはならないこともあります。
 しかし神は私たちの思いと願いを越えて、はるかに偉大なご計画をお持ちです。そして神は私たちに、イエス様を通して神に祈り、神の御心を知るという道を備えてくださいました。
ですから、たとえ私たちが祈った通りにはならなかったとしても、それでも私たちがイエス様の名を通して、神に向かって何でも祈り続けることは、私たちの信仰にとって決して無駄なことではありません。
それは決して無駄なことではなく、私たちが心から願うことをイエス様の名によって神に祈り続けることは、私たちの信仰を強め、私たちの信仰、神への信頼を一層確かなものとしてくれるのです。

 ”命の主なる神にはどんなことでもお出来になる”、”それが御心ならば必ず成就する”、と信じる希望の信仰を私たちはイエス様を通して頂いて、歩んでいきましょう。
 シモンのしゅうとめの熱が癒された後、日が暮れても、それでも人々が色々な病気で苦しむ人たちをイエス様のもとへと連れてきました。
 日が暮れてから、ご自分のところへ連れて来られた、色々な病気で苦しむ人たち、彼ら彼女ら“一人一人に”イエス様は手をおいて、そして彼らを癒されました。
 イエス様はきっと疲れていたと思われますが、日が暮れてからも、ご自分のところへ連れられて来る病を抱えた人々にイエス様は向き合われたのです。
 イエス様はわたしたち一人一人に触れて下さるお方です。ご自分のもとへ来る者を誰も拒むことなく、一人一人にイエス様は手を触れてくださるのです。
  遠いところから、私たち向かって語ってはくださるけれど、そのお方に私たちの手は決して届かない、というお方ではイエス様はないのです。
  むしろイエス様のほうから、私たちの方へ来て下さり、私たち一人一人の心に触れてくださり、私たちが痛み、悲しむ時には、その傷を癒してくださるのです。

 そのような神がおられることを、私たちは聖書の御言葉を通して一層信じ、そのお方に信頼し、そして他の人々をも、その神のもとへとお連れしたいと思います。イエス・キリストの神にこそ、真の道、命、真理があるのだからです。
 今キリストを信じる私たちも、かつてはだれかが私たちを教会に連れて来てくれたことによって、または何らかの方法によって、キリストや教会について伝え聞いたはずです。
  キリストの恵み、その癒しの御手を、ただ私たちの内に留めておくのではなく、かつて私たち自身も聞いたように、私たちの周りの人々へも広げていきましょう。
  イエス様は、そのようにしてご自分のもとへ連れて来られる人を、決して拒むことなく、きっとその方にとって一番よい時期(タイミング)と方法によって、癒しをまた神の国を信じる信仰を与えてくださいます。
 今日の箇所で伝えらえるイエス様と、イエス様を信じる人々の姿を通して、私たちは信仰者の群れとしてイエス様と繋がると同時に、イエス様の御手が私たち一人一人にも触れて下さる恵みを私たちは知らされました。
真の癒しと永遠の救いとは、主イエス・キリストを通して与えられる~わたしたちもそのことをますます確信し、今週の日々もイエス様と共に、御言葉と共に歩んでまいりましょう。

2023年11月4日土曜日

2023年11月5日 主日礼拝(教会組織記念礼拝)

招詞 申命記10 章15 節
讃 美 新生讃美歌227 番 カルバリの丘へと
祈りの時
主の祈り
教会組織を感謝して(スライド)
献金
聖 句 ペトロの手紙一2 章9~10 節
祈 祷
宣 教「暗闇の中から驚くべき光の中へ」
祈 祷
讃 美 新生讃美歌255 番 わが罪のために
頌 栄 新生讃美歌679 番
祝 祷


 今日私たちは、わたしたちの教会が一教会として独立組織をした日を記念して、感謝の礼拝を捧げています。
 独立と言っても、それは「他の誰にも頼らず、自分たちだけで生きていく」ということを意味するのでは、もちろんありません。
 先ほど、教会組織以前の、最初の頃の集会時代から伝道所時代にまでさかのぼった記録をスライドで私たちは見ました。
 時代がさかのぼるほど、残っている記録も断片的なので、当時の正確な事情を知ることは難しいです。
しかし私たちの教会の歴史を通して、本当に多くの方々が、篤い思いと願い、そして熱心な祈りをもって教会を支えて来られたことは間違いありません。

スライドの中でも触れられましたように、私たちの教会は日本バプテスト連盟という宣教協力団体に加盟しています。日本バプテスト連盟に連なる諸教会からの大きな祈りと実際の支援を得て、教会組織へと私たちの教会も導かれました。
そして私たちは、北九州地方連合(North Kyushu Regional Association)という地方連合の一員としても、他の教会との繋がりと支え合いの中で、教会生活を送ることができているのです。
普段皆さんは、他の教会の会員の方と接する機会があまりないかと私は思いますが、私たちの教会は、特に同じバプテストの信仰に立つ、同じ地方の他の諸教会/全国の諸教会とも共にある、ということを私たちはいつも覚えていたいと願います。

教会の主はイエス・キリストです。教会の主は牧師ではありません。牧師は霊的な指導者として信徒の先頭に立ちます(そのような働きが皆さんから委ねられています)が、牧師も皆さんと同じように神に仕える信徒の一人です(特にバプテスト教会ではその点を強調します)
そして、神によって選ばれた私たちを通して、イエス・キリストの福音が世に伝えられていきます。福音宣教の尊い器として主が私たちの教会をますます用いてくださいますようにと、わたしたちは祈り願いたいと思います。
 教会組織を感謝する今日の礼拝にあたって、わたしたちは新約聖書ペトロの手紙一(1 Peter)の2章9~10節の御言葉を私たちは先ほど聞きました。
 この箇所には、私たち神を信じる者、そして教会がどれほどの恵みを神から頂いているのかが、とても短く簡潔にまとめられ、書かれています。

 今日の箇所の9節の最初に「あなたがたは選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と書かれます。
 最初に書かれているのは、私たちは「選ばれた民」ということです。誰が私たちを選んでくださったのでしょうか。それは主なる神です。
 主なる神がご自身の主導権をもって、私たちを選んでくださったということです。「あなたがたは、選ばれた民you are a chosen people」の「あなたがた(you)」は、ギリシア語の本文で“あなたたち”という複数形です。
 ですからそれは、誰か一人だけが特別に選ばれたのではなくて、他の人々と一緒に信仰によって結び付けられて「一つの民a people」となるように、わたしたちは選ばれたということです。
 聖書は、世界の造り主、私たちの救い主である主イエス・キリストの神が、私たちを本当に特別な思いと愛とで選んでくださった、と伝えます。

 今日私たちは、わたしたちの教会が、神の恵みと全国のバプテストに連なる諸教会の祈りと思いによって立てられた歴史と、今もこうして私たちが教会で礼拝できることを思い、感謝の気持ちを新たにしています。
 そして私たちは今日また一層、「神が私たちを選んでくださった」という、その真実と恵みにも、深く思いを向けたいと願うのです。
 “選ばれた”というと、それで自分がなにか特権階級に属するものにされた、という感じがして傲慢な気持ちが私たちの心に生まれるかもしれません。
 確かに神に選ばれた私たちは、神の恵みと愛とに生きるという、本当に素晴らしい特権にあずかる(受ける)者とされました。しかし、神のその恵みと愛、その特権は誰にでも向けられています。
 イエス・キリストを通して、神の愛と恵みとが全ての者に与えられているのです。そして、それを信じ、神の前にへりくだり、神の愛と恵みをいただいて生き方をするかどうかは、人間の側の決断にかかっています。
 神を信じる決断は人間が自らするものですが、しかし神の愛と恵み、神の選びは、私たち人間の側の功績には全く関係なく、すでに私たちに向けて差し伸べられているという点が重要です。
 神の恵みは、どこまでいっても、私たちには決して値しない高価な、本当に高価で尊い恵みなのです。どれほど素晴らしい人間であったとしても、優れた人格者であっても、神の愛に値するほど素晴らしいという人はいません。
 むやみに人というものを貶めようと言う意図で私はこう言っているのではありません。そうではなく、イエス・キリストを通して示された神の愛を思う時、私たちはキリストの光を通して自分を見た時に、本当にそこには何の価値もないことを見いだすのです。

 私たちがそのことを真剣に考えるならば、私たちは次のように信じることは決してできないはずなのです。
「世界の造り主である神が、ご自身のすべてを、その独り子であるイエス・キリストを通して人に与えてくださった」という恵みに値する何かを、最初からわたしは自分の中に持っていた。
 誰もそのように考えること、信じることはできないはずです。なぜ神が私たちをそれほどまでに愛し、恵みを与えてくださったのでしょうか。それは、“神とはそのようなお方であるから”としか言いようがありません。

 旧約聖書『申命記』の7章6~8節に次のように書かれています。

6あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
7主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
8ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

旧約の時代、主なる神がイスラエルの民たちを選ばれたのは、そしてエジプトにあって苦しい奴隷生活を送る彼らを神が救われたのは、それは彼らが他の民族よりも数が多く、また優れた民族だったから、というのではありませんでした。
 そうではなく、それは“主なる神が、ただ彼らを愛されたから”という理由だけでした。同様に、キリストを通して救いの道へと入れられた私たちも、ただ神のそのような途方もない無条件の愛のゆえに、神の子となる特権を与えられたのです。
 神様からのそのような愛には、ただ深い感謝をもって応答するしか、私たちにできることは残されていません。

 今日の箇所には、わたしたちは選ばれた民であり、また「王の系統を引く祭司 a royal priesthood」とも書かれています。
 祭司とは、神殿で神に仕えて、民を代表して生贄(いけにえ)を神に捧げたりする仕事をしていた人たちです。しかし神に選ばれた私たちはいまや、全員がそのような祭司だと、聖書は言うのです。
それは、御子キリストがご自身を父なる神に献げられたように、わたしたちも私たち自身をすべて神に献げるようにと今求められているからです。
 教会の建物が完成しますと、「献堂式」という礼拝を教会では大抵致します。それは与えられた教会の会堂も、わたしたちは神様に献げます、という決意を表明することです。
 私たちにあたえられているこの素晴らしい教会の建物も、そして私たち自身もすべてを神に献げるようにと、主の栄光のために用いるようにと、キリストへの信仰によって私たちは促されています。
 神を礼拝するとは、この私をすべてあなたにお献げします、と神に対して誓うことです。イエス様から頂く恵みへの応答と感謝として、私たちはそのような信仰を神に心から捧げたいと願います。
 9節の後半には、(今日のメッセージのタイトルでもある通り)、わたしたちは「暗闇から驚くべき光の中へと招き入れられた」と書かれています。

 わたしたちは、真の神から離れ、神を知らず、自分中心に生きていた先の分からない暗闇の命から助け出されて、イエス・キリストのまばゆい光の中へと招き入れられ、新しい生き方をするようになったのです。
 キリストのその驚くべき光の中へ入れられた私たち、キリストという命の光を与えられた私たちは、もはやどこに向かって歩めばいいのか、何を信じて生きればいいのかという迷いに陥ることは、もうありません。
 イエス様が次のようにおっしゃっています。
ヨハネの福音書8章12節 Gospel of John 8:12

わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

誰も神から遠ざけられた、孤独なその暗闇の中に留まることなく、キリストの驚くべき光のうちに生きる道に生きることができる、ということを、私たちの教会はこれからも喜びと感謝をもって、世に宣べ伝えていこうではありませんか。

今日の箇所の2節目、10節を読んでメッセージを終わります。

10あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。

2023年10月28日土曜日

2023年10月29日 主日礼拝

招詞  ヨシュア記24章24節
賛美  新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
主の祈り
献金
聖句  エフェソの信徒への手紙4章11~16節
祈祷
宣教  「キリストの体を造り上げる」
*機材不調の関係で、音声データは本日ありません  
祈祷
賛美  新生讃美歌236番 主の流された尊い血しお
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷

 キリスト教の信仰は、神であるイエス・キリストが人となってこの世界にお生まれになり、人々に神の国を、そして神の愛と赦しを宣(の)べ伝え、最期は全ての人の罪を背負って十字架の上で死に、そして復活した事実の上に成り立っています。
 イエス様は、神の国を人々に伝える使命を、ご自分の弟子たちにまず託されました。イエス・キリストの死後、イエス様の弟子たちは共に集まり、やがて教会を建てて、教会を中心にして信仰を守り、イエス・キリストの教えを世に伝えるようになりました。
 その使命を、今を生きる私たちキリスト者一人一人も負っています。その使命をわたしたちは、私たちの教会の使命としても、もちろん負っています。

今イエス様は人としては生きておられませんが、イエス様を信じる私たちの中に聖霊としてイエス様は住んでくださっています。
そして私たちは教会としてもイエス・キリストの聖霊をいただいています。聖霊が私たちを一つに結びつけ、キリストにある信仰の共同体として私たちを導いてくださっています。
ですから私たちは常に祈り、私たちに先立ってくださる聖霊の導きに従って、また聖霊が自由に豊かに働いて下さるような教会でありたいと願います。
キリスト教会には様々な人が集まります。そしてまた、教会に連なる私たちそれぞれには様々な賜物(gifts)が神様から与えられています。
私たちそれぞれが異なった人間であること、また私たちそれぞれが異なる賜物を持っていると言うその多様性も、神の聖霊が豊かに教会で働かれるために、とても大切なことです。

今日の聖書箇所(エフェソの信徒への手紙4章11節~17節)の最初の節に、神がキリスト者一人一人の賜物に応じて、人々に異なる役割をお与えになったことが書かれています。
 最初に書かれるのが「使徒」apostlesです。使徒とは、イエス様によって選ばれてイエス様の直弟子となった最初の12弟子のことを言います。(後に、教会で重要な責任を果たす人も使徒と言われるようになりました)
 イエス様の最初の弟子であった12弟子は、イエス様と共に生活し、イエス様の生き方、そしてイエス様の教えに間近で接していました。
 最初の使徒たちの教えが重要であったのは、彼らがイエス様と直接接し、イエス様のお言葉と行いに直接触れた人たちであったからです。
ですから、使徒たちの伝えたこと、使徒たちの教えは大切なものとして、初期のキリスト者に、また今の私たちにも聖書を通して受け継がれています。
 最初の使徒たちが他の人たちに比べて特別に重要であり優秀な人だった、ということではありません。彼らはごく普通の人たちでした。

 しかし神は、最初の弟子たちを神のご自由な選びによってお選びになり、彼らが協力してイエス・キリストの福音を、イエス様の死後も宣べ伝え続けるようになさったのです。
 現在のキリスト者である私たちも、神によって選ばれて、キリストを信じて生きる者となりました。私たち自身が何か他の人に比べて特別優れていたから、ということではありません。
 ですから私たちは、キリストを見上げ、キリストを思う時、「このわたしが、ただ神の恵みによって選ばれた」ということを、心から感謝したいと願います。
 そして神へのその感謝の思いが、ますます私たちを謙虚にし、神と人の前にへりくだった生き方をする者へとしてくださるようにと私たちは願います。

 教会に集まる私たちが皆違っていること、そして私たち一人一人に異なる賜物が神様から与えられているのには、一つの明確な目標があります。
 それは12節に書かれていることであり、今日の宣教題(メッセージのタイトル)でもある「キリストの体を造り上げる」ということです。
「キリストの体」とは、キリストの教会のことです。教会はキリストの体なのです。わたしたちの身体に色々な部分があるように、キリストの体である教会も色々な部分でなりたっています。
キリストの体(教会)の部分とは、教会につらなる私たち一人一人のことです。それぞれの部分が合わさって協力をして、一つの体を造り上げるのが教会です。
そしてわたしたちは「神の子(キリスト)に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさにまで成長する」(13節)のです。

もう一度お読みします。

「神の子(キリスト)に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさにまで成長する」
これは私たちにはまだ実現していない一つの幻と言ってよいと私は思います。
私たち人は、同じキリスト者であっても、それぞれの考えや信念、または好みなどの違いによって中々一致することができないのが現実ではないでしょうか。
しかし私はそれでも希望を持っています。
今年度2023年度のわたしたちの教会の年間標語は「愛の奉仕 give your service with love」です。ガラテヤの信徒への手紙5章13節の御言葉をその関連聖句として、私たちは選びました。
 教会の皆さんの中から(実際には、皆さんによって選ばれた執事(deacons)の方々から)、「イエス様から頂く愛をもって教会に奉仕したい。自分の満足を求めるのではなく、愛をもって神様に奉仕をしたい」という思いと希望が挙げられたのです。
コロナ感染症の間、教会の活動も色々と制限され、皆さんに奉仕していただく機会も限られていた中、今年度の初めにあたって、そのような思いが表明されたことは、大変印象的なことでした。
 ただ“奉仕しましょう”ではなく、“愛の奉仕を捧げましょう”という思いには“イエス様から私たちがいただく愛(イエス・キリストの愛)が奉仕の土台”という信仰があります。
 奉仕の動機はイエス・キリストの愛なのです。イエス様の愛が素晴らしく、私たちはイエス様の御愛に感謝をするから奉仕をするのです。
 自分だけの満足、自分のための栄光を求めるのではなく、自分がその体の一部として繋がる体全体(イエス・キリストの体全体)が栄光を受けることを、私たちは求めるようになるのです。

 今日の箇所の最期の16節を見てみましょう。
16キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

 「体全体」the whole bodyという点が非常に重要です。「体の一部」、すなわち教会の中の一部の人たちだけが成長する、のではないのです。
 体の一部分が体から切り離されてしまっては決して生きていくことはできないように、私たちもキリストの体である教会から離れてしまっては、私たちが霊的な命を生きていくことは決してできません。
そして、もし私たちの中から誰かが欠けてしまうのならば、それは“体全体の成長”ではなくなります。
「体全体が互いに補い合い、体を成長させ、自ら愛(キリストの愛)によって造り上げていく」(16節)ことを、神様からの信仰の命令としても私たちは厳粛に受け止めて、互いに支え合っていきたいと願います。
体全体で、私たち皆でキリストの体である教会を造り上げるという信仰を私たちは大切にしていきましょう。
賜物とか奉仕というと、何か人の目に目立つような具体的な働きのことが思い浮かぶかもしれません。

しかしたとえそれが人の目には目立たないようなことであっても、キリストの愛に基づくものであれば、いかなる奉仕にもその差(優劣の差)はありません。
礼拝の奉仕表に載っているようなご奉仕ではないとしても、同じキリストにある信仰の家族の一員として、まず礼拝や祈祷会に来てくださること、共に礼拝し祈ってくださること、それが尊い奉仕です。
また様々な事情で教会に来ることが出来ない方々でも、教会を覚えて祈りと献げ物を献げてくださる方々もおられます。それらも尊い奉仕です。

私たちが神を信じ、神を愛するとき、私たちがどのような状況におかれていようとも、私たちが神に奉仕することを妨げるものは何もないのです。
 今日の箇所の前の部分の節になりますが、エフェソの信徒への手紙4章7節に「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられていますと書かれています。
 神はキリストを通して私たち全ての者に恵みを与えてくださっているのです。恵みとは私たちが何か立派なことをしたことへの報酬や見返りのことではありません。
 神の恵みとは、ただ神の愛と憐れみによって、私たち人間の側には何の功績も善い行いもないにもかかわらず、神からイエス・キリストの十字架を通して私たちに与えられたものです。
 それほどの恵みをいただいた私たちは、その恵みへの感謝の応答として、奉仕を捧げていきましょう。(キリストの)愛の奉仕を捧げていこうではありませんか。
そして私たちは、まず私たちの教会の中から、信仰の一致、一つの体としての成熟と成長を目指していきましょう。

 さきほど私は、“これはまだ実現していない一つの幻”と申し上げました。しかし、私たちが信仰をもってキリストの愛に立ち続ける限り、それはいつか必ず実現するのです。
 なぜなら、イエス・キリストへの信仰は、14節に書かれているように「悪賢い人間の、風のように変わりやすい教え」に基づくのではないからです。
イエス・キリストへの信仰は、昨日も今日も、そしていついつまでも変わることのないイエス・キリストの御言葉、神ご自身の限りない愛、神の約束に基づいたものなのですから、たとえどれほど時間がかかっても、いつか必ず成就するものなのです。
キリストが私たちの中心にいてくださる限り、わたしたちがキリストの愛に根ざしている限り、私たちは今日の聖句が約束してくれているように、キリストへの信仰と知識において一つとなるということが必ず実現します。
 様々な賜物をお持ちの皆さんお一人お一人が、聖書の御言葉を信じ、キリストの愛に基づいて、それぞれの賜物を献げる度に、わたしたちは信仰の一致と信仰の成熟へと近づいているのです。
 キリストの体の一部とされていること、キリストの愛に基づいた信仰にわたしたちを神ご自身がしっかりと捉えてくださっていることを感謝し、“愛の奉仕”を喜んで私たちは献げて生きましょう。

2023年10月21日土曜日

2023年10月22日 主日礼拝

招詞 エレミヤ書23章29節
賛美 新生讃美歌 124番 この世はみな
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句 ルカによる福音書4章31~37節
祈祷
宣教 「御言葉の権威」
https://youtu.be/N6VvfGJnhwg
祈祷
賛美 新生讃美歌 506番 主と主のことばに
頌栄 新生讃美歌 604番
祝祷

 今日の聖書の箇所に、イエス様が「安息日には人々を教えられた」ことが書かれています。今日の箇所の前の部分の4章16節にも、安息日に会堂(今のクリスチャンにとっては教会)に行き神を礼拝することが、イエス様の習慣であったことが記されています。
一週間の中の六日間は仕事(人それぞれが、すること)をし、一週間の中の一日は安息日として神様のために特別に取り分けることは、神から私たち人に与えられた厳粛な命令であり、またそれは私たち人にとって大きな祝福でもあります。
安息日は、私たちが神によって造られ、そして神との交わりの中に生きることを、確認し喜ぶ日でもあります。

それぞれの仕事や他にしなくてはならないことを中断することで、この世のどんな事柄も、神様から私たちに与えられる祝福に優るものはない、と私たちは確認します。私たちが神によって生かされる、ということを確信するのです。
教会の礼拝で私たちは神を礼拝します。そして礼拝の中で、私たちは神の言葉、神の教えの言葉を聞きます。今日の箇所で、“イエス様は会堂に行き、そこで人々を教えておられた”と書かれています。
イエス様は時々そのようにした、というのではなく、安息日にはいつも会堂へ行き、そしてそこではいつも人々を教えた、というのです。イエス様は人々を“教える人=先生”でもありました。

イエス様は繰り返し神の教えについて、聖書の言葉について、おそらく同じことであっても重要なことならば何度も繰り返して人に教え続けました。
神の言葉、神の教えは尽きることがありません。イエス様は、その地上での生涯の約三年間の公(おおや)けの宣教活動の中で、神の言葉を語りきることはできなかったと私は思います。
神の言葉の恵みは無限であるからです。私は牧師として毎週の礼拝で、あるいは祈祷会やその他の機会にも、聖書の御言葉から語らせて頂いています。
一つはっきりしていることは、私が一生かけても、この聖書の言葉の全てを語り尽くす、(そもそもわたし自身が聖書の御言葉を知り尽くす)ということは出来ない、ということです。
しかしイエス様は神の子であり、わたしたちの罪を背負い十字架の上で死なれた救世主でした。

ですからイエス様は、(言葉としては全てを語りきることができなかったとしても)神の子として私たちに伝えるべき全てのことは、その生涯と、そして十字架で死なれたイエス様ご自身のお姿を通して全て私たちに語ってくださった、とも言えます。
今私たちは、私たちに伝えられた(残された)聖書の言葉を神の言葉として、イエス・キリストの教えに照らされながら、いつも聞いていきたいと願います。
神の言葉は私たちにとっての霊的な食べ物です。食べ物を食べないと生き物は栄養失調となってしまいます。
御言葉をいただかずに霊的な栄養失調になってしまえば、その先にあるものは、霊的な死です。
聖書は、わたしたちが誰も霊的な死に至ることがないように、神の言葉として今もこうして残され、聖書の言葉に基づいたメッセージが、今も世界中のキリスト教会で語られ続けています。

イエス様が語った神の言葉には特別な力がありました。今日の32節に次のように書かれています。

32人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

私たちが神の言葉を確かに聞いたかどうか、どうして分かるのでしょうか?私たちが確かに神の言葉を聞いたかどうか、それを測る一つの物差しとして「驚き」があります。
今日の箇所で、イエス様の教えを聞いた人たちは、“非常に驚いた”のです。同様に、わたしたちも本当に神の声を聞いたのならば、神の教えを本当に聞いたのならば、わたしたちは驚くはずです。
“驚き”とは、自分が揺さぶられるような衝撃的な経験をするということです。神の言葉に圧倒され、それほどの感動を与えられる、自分が覆されるような経験をするということです。
 聖書の伝える神のメッセージは驚きに満ちています。私たちのこの世界が、天地のあらゆるものが神によって造られた、というのも驚きのメッセージです。
 神が人となられ、イエス・キリストとして世に来られ、神の国と神の愛について人々に分かる言葉で教えてくださった、というのも驚きのメッセージです。
 わたしたち(特にクリスチャン)は、神の言葉への驚きを、経験しているでしょうか?
 私たちは信仰生活が長くなると、聖書の物語やイエス様のお言葉についても、その内容については詳しくなり、知識は増すでしょう。

 聖書の中の物語やイエス様のお言葉についても、馴染みのある箇所であればあるほど「この箇所については私はもうよく知っている。その意味も理解している。以前に何度も私は読んで考えた」と思うことがあるかもしれません。
 しかし、そうではないのです。たとえ同じ箇所、同じ御言葉であっても、聖書の言葉はその度ごとに新しい響きと新鮮さ、そして驚きをもって私たちに迫って来るのです。
神の霊である聖霊の光で私たちの心、そして御言葉も聖霊で照らされる時、その御言葉は私たちにその度毎に新たな驚きをもって迫ってくるのです。
神の言葉が驚きとなって私たちに迫ってきて、自分が揺さぶられ、罪を知らされ、神によって自分が変えられる自覚、あるいは変えられなくてはならない、という自覚が生まれます。
そのように驚きをもって、御言葉をいつも受け止める、そんな教会で私たちはありたいと願います。

 今日の箇所には、その時人々がイエス様の教えに驚いたその理由がはっきりと書かれています。イエス様の教えには権威があったからです。

「その言葉には権威があったからである。」(32節)

イエス様がお持ちであった権威とは、力で相手をねじ伏せて無理やり言う事を聞かせるような権威ではありません。
力で相手をねじ伏せて強制的に言うことを聞かせるのは本当の権威ではありません。そのような権威ならば、それは少なくとも聖書が伝える神の権威ではありません。
  イエス様がお持ちであった権威は、神の愛の力によって、私たちを内側から根本的に変えてくださる、そのような権威です。
 外側から力や恐怖で脅して私たちを無理やり変えるのではなく、御言葉を繰り返し繰り返し語ることで、それを聞く人自身が内側から(時間がかかっても)変わっていくような権威が、イエス様がお持ちであった権威です。
 神は今も忍耐を持って、繰り返し神の言葉を、私たちに語ってくださっています。そのような神の忍耐と、神の言葉の中に、本当の権威があるのです。

しかし私たち人間は、神の言葉に反発しようとする性質があります。今日の箇所では私たちを神に反発させるものとして“汚れた悪霊”が描かれています。
イエス様が教えておられた会堂の中に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、その人がこう叫びます。

「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(34節)
 「かまわないでくれ(あなたと私と何の関係があるのか?)」~これは、“わたしを一人にしておいてくれ、かまわないでくれ”という叫びです。
 悪霊や悪魔が、どのような存在であるのか、それは私たちにははっきりとは分かりませんが、しかしそれらは確かに存在します。聖書がそのことを明確に告げているからです。
今日の箇所で描かれる汚れた悪霊から判断すると、悪霊の働きは、わたしたち人を孤独にさせるものです。私たちを神の愛から遠ざけようとする存在です。“神などいなくても、わたしは一人で十分やっていける”と私たちに思わせる存在です。
“神などいなくても、わたしは一人で十分やっていける”、“他の人などいなくても(お付き合い程度に、ある程度関わりはもってもいいけれども)わたしは十分にやっていける”、今日の箇所で描かれる悪霊は、人間にそのような間違った思いを抱かせる存在です。

しかし、私たちは決して一人では生きていけません。真の神との交わりがなければ、私たちは霊的に死んでしまうのです。
そして真の神の交わりに生きる生き方は、自分以外の他の人とも親密で霊的な交わりをもつようにと私たちを促します。

ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。

わたしたちも、このような思いを(キリスト者であっても)持つことがあるかもしれません。
 2000年前に十字架刑で死んだ一人のユダヤ人が、今の私と何の関係があるのか?しかし、そのお方が今の私たちとも大いに関係があるのです。そのお方の存在、イエス様の十字架の死がなければ、今の私たちの命もないのです。
 わたしたちは全てを分かっているわけではありません。神の事柄について、聖書の言葉について全てを知り尽くす、語り尽くすとういことはわたしには出来ません。牧師である私にもそれは絶対に不可能です。
 しかしそれでも、私たちがこうしてキリストの教会として立てられ、集会(礼拝)を続け、神の言葉を語り、分ち合い続けるのは、神を信頼し続けるのは、次の理由に拠っています。
 人として生まれた神の子イエス・キリストがいなければ、私たちは真の意味で生きていくことはできないからです。
そしてイエス・キリストがこの私たちと共にいてくだされば、この世の何ものをも、悪霊さえも恐れることは全くないからです。そのことを私たちは信じているからです。
 私たちは繰り返し繰り返し神の言葉(聖書の言葉)を聞き続け、私たちに対する神の愛、神の守りをますます知っていきましょう。神の言葉を自分の中に豊かに蓄え、神と共に生きる命を喜びたいと願います。

 今日の箇所でイエス様が「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその人を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った、と書かれています。
イエス様のお言葉以上に強いものはないのです。お言葉一つで、どんな悪の力をも退散するのです。ですから私たちはイエス・キリストの言葉一つ一つを、悪に立ち向かう武器としても、心に蓄えねばなりません。
 悪霊はその男の人に何の傷も負わせることもできませんでした。どんな悪の力も悪霊も、真の神の力の前に私たちを少しでも傷つけるような力を持ってはいないのです。
 それほどに力強い神の力が、今も私たちには聖書の言葉として与えられています。悪に打ち勝ち、私たちを根本的に変え、変革させる権威ある神の御言葉にいつもより頼みつつ、私たちは信仰の日々を歩んで参りましょう。

2023年10月14日土曜日

2023年10月15日 主日礼拝

招詞  詩編119篇105節
賛美  新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
主の祈り
献金
聖句  ルカによる福音書11章29~36節
祈祷
宣教 「わたしの目が見ているものは?」
*本日は信徒説教につき、音声データはありません  
祈祷
賛美  新生讃美歌 296番 十字架のイエスを仰ぎ見れば
頌栄
終祷


皆さん、おはようございます。牧師が小倉教会での宣教に出かけておりまして、今日は私が宣教を担うことになりました。想像していたより、難しくて、とても苦しかったです。牧師が宣教の準備をするときはもっと優しくいっぱい祈ろうと思いました。
しかし、兄弟姉妹が祈ってくださいましたので、本当に心強く頑張ることができました。感謝申し上げます。

今日選ばせて頂いた聖書個所は教会学校の成人科で皆さんと一緒に読んだ箇所です。成人科では、秋吉さんのリードの元でルカによる福音書を読み進めていますが、8月20日に読んだのが今日のところでした。
その前の週の教会学校では今日のところの前の部分を読みました。その箇所には、イエス様が口を利けなくする悪霊を追い出して人を癒したので、ある人達が“この男(イエス)は悪霊の力によってこんな奇跡を行った!”と言ったり、イエスを試そうとして天からのしるしを求める者がいた(11:14~16)とありました。

それに対し、今日の箇所でイエス様は「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言っておられます。

教会学校では皆さんが色々分かち合いをしていました。その話を聞きながら、その時まで気が付いていなかった点にいくつか気が付きました。
分かち合いの途中で気が付いたのは、前半部分の 「人々がしるしを欲しがる」のをイエス様が叱るところと、後半の「体のともし火は目」というところが繋がっていることでした。
それまでは、その二つの関連性はあまり考えずに、ただそういうものだと思って読んでいました。

でも、イエス様は、「目に見えるしるし」の話しに繋げて、私たちの「目」はどうあるべきかを教えてくださったのです。

「よこしま」という言葉を調べてみたら、「横になっているさま(様子)を表して、「正しくない」「道理にはずれた」という意味があるそうです。
態度が横になっていて、イエス様を真正面から向き合おうとしない態度です。横になっているとは、おそらく不純な動機と悪意をもって人を試そうとする態度、Having an attitude of lying down is an
また、すでに自分の考えでいっぱいで、相手の言葉に耳を傾けようとしない態度のことでしょう。

しるしを求めている彼らは今までイエス様の言動や奇跡を一度も見たことがなかったのでしょうか?今日読んだ箇所はルカによる福音書の11章ですが、前の何章かをめくってみると、既に多くの奇跡が行われていたことが分かります。
会堂長のヤイロの娘を癒したこと、やもめの一人息子を生き返らせたこともありました。あの有名な、五つのパンと二匹の魚で5000人を食べさせた奇跡もありました。うわさはユダヤ全地域に広まっていたとも書いてあります。
おそらく、この人たちもイエス様の言動や奇跡を見たことがあったでしょう。噂も沢山聞いていたはずです。それでも、この人達はまだイエス様が信じられない、あるいは、認めることができないでいたのです。

そんな人達からしるしを求められたら、私なら、あなたたちに与えるしるしは「もうない!」と言いそうですが、イエス様は「ヨナのしるしのほかには与えられない」と言いました。言い換えれば、「ヨナのしるしは与えられる」ということです。
ヨナは旧約聖書のヨナ書の預言者です。海に投げられて、お魚のお腹の中で三日三晩いましたが、劇的に生還しました。そのヨナがしるしとなって、二ネべという国の人達は、真のイスラエルの神、本当の神様を恐れて悔い改める運動が起こったのでした。
ヨナが海に投げられて、お魚のお腹の中で三日三晩いたのに生還した、この信じられない奇跡の「しるし」を、イエス様はご自分が十字架で死んで三日目に復活する「しるし」と重ね合わせたのでした。

このすぐ後に、イエス様は突然、ともし火や目の話しをします。

もう一度、読んでみましょう。
「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。
だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。

あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」
ともし火とは、イエス様のことです。神様はイエス様というともし火を灯して、入って来る人誰もが見えるようにされました。確かに、イエス様は見ることができる存在として世に来られました。昔々あるところに住んでいた人ではなく、歴史の中で生きた歴史上の人です。
公生涯の間は弟子たちと共に生活していましたし、多くの群衆の前で話して、奇跡をなさって、最後は十字架にかかりました。そして多くの弟子が命をかけて証ししたのが、イエス様は復活した、ということでした。

おびえてイエス様を捨てて逃げていた弟子たちが、イエス様の復活を見て、聖霊を受けてからは、世の権力も迫害も死も恐れずにイエス様が神の子であること、復活したことを公に語り伝えました。これらのことはみな聖書に書いてあります。
ともし火が燭台の上に置かれて周りを照らすように、イエス様も人々が見られる位置にいつもいらっしゃるということです。
そのイエス様というともし火を、私たちが自分の目でしっかり見つめる時、私たちの目は澄んでいて、全身が明るくなると教えてくださいました。
目が澄んでいれば、と言う言葉は英語では when your eyes are good と分かりやすく書いてあります。
目が良ければ、体も良いということです。また全身が明るくなるとは、心だけでなく、他人が見ることのできる全身も明るくなるというのです。

ここで、明るいとは、アルバイト募集の時に明るい方大歓迎みたいな、性格が良くて笑顔で、的な意味ではないと思います。
聖書がいう全身が明るいとは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制が私たちの人格に現れることだと思います。これは、カラテアの信徒への手紙の5章の有名な「聖霊の実」の箇所です。
聖霊は私たちの中にいらっしゃるので、その姿を目でみることはできませんが、その方と深い交わりの中で生きる時、段々と見えるような形で、私たちの人格にこれらの実が現れると言うのです。
愛がある人、真の喜びが溢れる人、平和がある人、本当に心から優しい人、その上に誠実で、自己節制がある人!素敵すぎです。
私たちの目が良ければ、これらの実が現れて、全身が明るく、他人にも見えるようになるとだと、イエス様は教えてくださいました。今日は、全身が明るくなるためには、どうすればいいのか、もっと探ってみたいと思います。
イエス様は、一言、「目が良ければ」と教えておられます。目が良ければ、全身が明るいのです。
「目が良い」とは、イエス様というともし火をしっかり見つめることです。イエス様という「ともし火を見つめる」ためにはどうすればいいでしょうか。

その一つは、自然の中で、神様を見出すことです。自然啓示とは、目に見える自然界を見て、目に見えない神様のメッセージに気づくことです。
天、海、太陽、月、星、木や花、それを見るとき、それ自体をあがめるのではなく、それらを創った創造主に思いをはせることです。
私が好きな番組でNHKの「ダーウィンが来た」とか「人体の神秘」がありますが、本当に神秘です。
神と秘密と書きまして、神秘ですね。
人間が指一本加えることもできない、美しく繊細でものすごい力の働きが、生物・動物の生体にはありますし、今この瞬間も私たちの体の中で働いています。
NHKでは神様ということばは使っていませんが、本当に神の存在を思わずにはいられません。
また、「イエス様というともし火を見つめる」とは「聖書」を読むことです。イエス様はこの世にことばとして来られたと書いてあるように、みことばを見ることはイエス様を見ることになります。
聖書は、イエス様に対する証しで満ちています。特に今回は、「見る」ことが宣教のテーマだったので、聖書を読むたびに、「目」や「見る」との単語が目につきました。他にも沢山あると思いますが、最近読んだ聖書箇所をいくつか紹介します。

(コロサイの信徒への手紙1章15~16節a)
御子(イエス)は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 天にあるものも地にあるものも、
見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。

パウロがローマの獄中でコロサイの信徒へ書いた手紙に、この祈りの文が入っています。

ヨハネの手紙1章1節から、
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。
イエス様の一番の愛弟子の一人だったヨハネがヨハネの手紙をこのことばで初めています。自分は神の子イエスを目で見て、その声を聞いて、手で触れたと感動をもって証言しています。

これらの聖書のことばを見るとき、その存在を静かに思うとき、私たちの目は神様、イエス様を見つめることになるでしょう。
この宣教の準備をしながら、私自身が一番恵まれました。教会学校で、皆さんの口から出てくることば一つ一つが大事な真理を含んでいて、聞いているだけで恵まれます。そして、ひらめきが与えられます。
また、家で宣教の準備の為に何度もくり返し読んで黙想しながら、目で見ることの大切さを今までなく強く意識するようになりました。

人は自分が見るものから影響を受けます。家族が似てくるのを見ると、いつも触れているものは大きな影響力があることが分かります。
実際の私の目が何を見ているのか、スマホ、韓国ドラマ、人々の顔色に目が行きがちです。
また、私の心の目は何を追いかけているのか、人の良くない癖、自分が人からどう見えるか気にする目、心配ごとに心が塞がってその問題だけに心の目がいきます。
また、私の心の目は、自分自身を見すぎていることもしばしばあります。自分のことで頭がいっぱいになってる時があるんです。
そういう時、わたしの目は暗くなっていて道に迷いやすくなります。その時がイエス様を思い起こすタイミングです。

実は、教会学校で学びをした次の日の朝、少し早く目が覚めたので、祈りをしていました。
その時、一つの心配ごとがあって、祈ってはいるものの、心が塞がれた状態でした。その時、前日に学んだ聖書の箇所が心に浮かんできました。
イエス様や奇跡を目の前で沢山見ていても、まだ、信じることができなかった人達と同じように、私も、クリスチャンになって26年の間、多くの奇跡を見てきました。

祈りが答えられた経験、大きなものや些細なものまで、その時すぐは分からなくても、ふり返ってみたら、実に多くの祈りが聞かれていました。
みことばも沢山読みました。しかし、まだ、「見ても見ても」まだイエス様を信頼するのを躊躇って、心配が晴れないのです。
その時、見ても見ても信じないで祈るいのりから、一言を祈ってもイエス様が誰なのか思い出して、信じて祈らなくてはいけないと教えられました。
この日以来、ほぼ毎日と言ってもいいくらい、このことば「見ても見ても(まだイエス様を信頼出来ずに心配するのか)」は、私の頭に浮かんできて、私を戒め、私の信仰をはげましてくれています。
その教えにとても感動し、教会学校での学びに心から感謝をしたので、この個所を宣教箇所に選びました。皆さんと、分かち合いたかったです。
イエス様のことは、信仰に入った人は皆分かっていますが、まだ教会に来てまもない方もいらっしゃるので、私が聖書から学んだイエス様をもう一度紹介して、宣教を終わります。
イエス様は、その人柄と言えば、皆が蔑むような人といっぱい語り合って、ご自分が誰なのか優しく説明してくれるお方です。
病人の病気を癒し、あなたの信仰があなたを救ったと、あなたの罪が赦されたと宣言してくださる優しいお方です。
力と言えば、水の上を歩くことがおできになり、何千何万の人をわずかなパンと魚で満腹にさせることができるお方です。

その聖さは、人間の偽善や隠れた罪を遠慮なくお叱りになります。私たちはいつか、この方の聖さの前に立って、自分の人生の申し開きをしなければなりません。
イエス様の人生の最期は私達の罪を赦すためにご自分が代わりに十字架につけられました。
骨がことごとく外れて、舌が顎にくっついたという生々しい表現が詩編にありますが、イエス様は何の為に、人が一番恐がる、辱めを受け、侮辱されて、呪われて死んだのでしょうか。
聖書からまた教会でぜひその答えを見つけてほしいです。
自分の考えでいっぱいでイエス様のことばに耳を傾けないよこしまな態度をすてて、イエス様を見つめ、その方を信じるようになる時、私たちの全身は明るく照らされると約束されています。
誰よりも、イエス様ご自身が、私たちが、私たちの人生が明るく照らされることを願っておられます。

2023年10月7日土曜日

2023年10月8日 主日礼拝

招詞 マタイによる福音書28章20節b
賛美 新生讃美歌 105番 くしき主の光
主の祈り
献金
聖句 出エジプト記3章1~12節
祈祷 
宣教 「わたしはあなたをファラオのもとに遣わす」
https://youtu.be/BTJBIiyUT6U
祈祷
賛美 新生讃美歌 21番 栄光と賛美を
頌栄 新生讃美歌 674番
頌栄


 旧約聖書『出エジプト記』のモーセに関する物語から、今日もわたしたちは神のメッセージを共に聞いてまいります。
 奴隷としてエジプトに住むイスラエル人の子供として生まれたモーセは、生まれた時から三ヶ月の間、母親によって隠されていました。
その時、イスラエル人の数が増えてエジプトにとって脅威(敵)になると恐れたエジプト王のファラオが、「生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め」と命令していたからでした。
 赤ちゃんのモーセを三ヶ月以上は隠しておけなくなり、モーセの母親はモーセをパピルスの籠に入れて、ナイル川の葦の茂みの中に置きました(2章3節)
 母として、それ以上はわが子を守ることができないという状況の中で、モーセの母は、そのように我が子を手放さねばならなかったことに、大変な悲しみと苦しみを覚えたでしょう。

しかしモーセの母は、神に向かってその時必死に祈りもしたでしょう。そして彼女は祈りを通して“イスラエルの神、主なる神が必ずわが子を救い出してくださる”と信じていたのだと私は思います。
 苦しみ、悲しみの中にも、私たちは神に祈ることができます。苦しみ、悲しみ、絶望のように思える状況の中にも、神がきっと助けてくださる、と私たちは信じることができます。
聖書はあらゆる箇所で、そのことを私たちに約束してくれています。出エジプト記も、まさに神の助け(救い)の物語です。

 モーセはエジプト王のファラオの王女によって見つけ出され、そして川から引き上げられました。そしてなんと、モーセの実の母が乳母として、モーセを育てることになりました。
 モーセは大きくなると王女のもとへ連れて来られ、エジプト王女の子としてモーセは育てられました。人では想像できない程の奇跡的な出来事を通して、神はモーセの命を救われたのです。
 モーセは成人したある時、同胞のヘブライ人(イスラエル人)がエジプト人に打たれているのを見て、憤りに駆られてそのエジプト人を打ち殺してしまいました。
 モーセは、そのことは誰にも知られていないと思っていましたが、モーセがそのエジプト人を打ち殺し、その死体を砂に埋めたということが人々に、またファラオにも知られていることが分かりました。
 王のファラオは、そのことでモーセを殺そうとしたので、モーセはエジプトから逃げる他なくなり、ミディアン地方へとたどり着きます。

モーセそこでミディアンの祭司の娘ツィポラと結婚し、子が生まれてその子はゲルショム(“寄留者”を意味するヘブライ語に基づいて)と名付けられました)
 モーセはその時、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったと、今日の前の箇所の出エジプト記2章22節に書かれています。
王宮からも離れ、また同胞のイスラエル人たちからも離れて暮らす自身の境遇を、モーセを“寄留者”と思ったのです。

 今日の箇所はそれに続く話です。
新約聖書の『使徒言行録』の7章に、ステファノという人が、イエス・キリストを信じる信仰のために迫害され、ユダヤの最高法院に引き出されて裁きを受けたことが記されています。
 ステファノは最高法院での裁判で、アブラハムから始まるユダヤ民族の歴史を、聖書(旧約聖書)の物語に基づいて話しました。
 ステファノは、聖書の物語を丁寧に語り直すことで、自分たちの先祖のイスラエル人たちが、いかに頑なで聖霊に逆らい、主なる神の御心に逆らい、罪を犯し続けたかを語りました。
 そして「あなたたちは自分たちの先祖と同じ罪を犯してはいけない。神に逆らい、神の恵みを拒んではいけない」とステファノは訴えかけたのです。
ステファノが語ったところによりますと、モーセ、同胞のイスラエル人を打っているエジプト人を打ち殺した時、モーセは40歳でした。(使徒言行録7章23節)
 そしてさらに、それから40年経った後、柴の燃える炎の中で、天使がモーセに現れたと(今日の聖書箇所)、ステファノの説教の中には記されています(使徒言行録7章30節)。

 ですから、今日の聖書箇所で、モーセは80歳だったということになります。つまりモーセは40年間、ミディアン地方という彼にとっては異国の地で、義理の父の羊の世話をするという生活を送ったのです。
 王宮での生活からいきなり羊を飼う生活への変化はモーセにとっては、大変辛い経験であったと思います。
 しかし羊飼いとしての生きるその40年間は、それから神に選ばれイスラエルの民たちの指導者、神の言葉を預かる預言者となり、出エジプトを導くことになるモーセにとって、必要な成長の過程であったとわたしは思います。
 王宮での豪華な、おそらく贅沢な何不自由ない生活から一転しての、羊飼いとして人生は、モーセに後に民の指導者となるために必要な忍耐力、そして自分自身でなく神を頼ることを学ぶ年月でもあったのではないでしょうか。
 ですからわたしたちも、今の苦しみは、今の自分の成長のため、あるいは将来自分に与えられる大切な責任を果たすための力をつける過程だと、信じることができます。

 モーセが羊の群れを飼っていたある時、その群れを荒れ野の奥へ追っていき、神の山ホレブに着きました。
 その時、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れました。そしてモーセが見ると、柴は燃えているのに、その柴が燃え尽きないという不思議な様子を見ました。
モーセは「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」と言って、モーセはその柴に近づきました。
 そこで神がモーセに語りかけます。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(5節)
 これは、神は人が近づいていけるようなお方ではないことが表されています。人が神に近づき、その御顔を見て、その存在を理解するということは不可能なのです。
まず神は私たちに比べて、あまりに大きく偉大なお方であるからです。神はあまりに偉大で、私たちの能力でそのお方の本質や存在を完全に理解することはできないお方です。
そして次に、神と私たちとを隔てている原因である、わたしたち人間の罪があります。
人は自分中心になり神の御心に逆らい、神から離れるという罪を犯したので、神を見て、神のご栄光をいただくことができなくなってしまったのです。
 しかし神は、7節以降で神ご自身が言われるように、苦しむご自分の民の声、叫び声を聞き、それを放ったままにしてはおかれませんでした。
 私たちの神はそのようなお方です。私たちがどれほど罪を犯して神から離れ、神に敵対し、また罪のために人同士で敵対しながら生きていても、神は私たち人が苦しみ叫び、痛むことを放っておくことはお出来にならないのです。
なぜかと言えば、それは神が、ご自身がお造りになった世界を愛し、またご自身がお造りになった私たち人間を限りなく愛してくださっているからです。
 “その痛みを知った” I am concerned about their suffering(7節)とは、知識として知ったということではなく、神がご自身の痛みとして人の痛みをお感じなった、心から憐れんでくださったということです。
 ただそのことを知識として知っているとか、ある程度理解する、というのではなく、神は私たちの苦しみ、痛みを全くご自身のこととして、その身に引き受けてくださったのです。

 それが新約聖書の中で記されるイエス・キリストの十字架の出来事です。
この世界を創造し、地上に生きるあらゆるものをお造りになった神が、私たちの苦しみ、痛みを、悩みをご自身のこととして知っていてくださるということがイエス・キリストの十字架によってはっきりと示されたのです。
 私たちはこの世では困難、苦難がありますが、私たちの苦しみをご自身のこととして引き受けてくださり、私たちの苦しみを完全に分かってくださっている神に、私たちはより頼みつつ、日々を生きていくことができるのです。
 ですから、わたしは一人ではない。苦しくても。~このことをイエス・キリストの十字架がいつも変わらず私たちに向けて示し続けてくださっています。その神の恵みにより頼んで、私たちは生きていくことができるのです。

神はモーセに、「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と言われました(10節)
 主はモーセの人生に計画をお持ちでした。なぜモーセが川から引き上げられ、そして王宮の生活から羊飼いの生活へと移されたのでしょうか。
それはモーセが神の召しを受けて、イスラエルの民を奴隷生活から救い出すという神の救いの計画の器として用いられるためでした。

 神は私たちそれぞれにご計画をお持ちです。神は愛と憐れみ、そして神の御心に基づいたご計画をもって、わたしたちをお造りになりました。聖書全体のメッセージが、そのように私たちに伝えるのです。
私たちに与えられた計画は、モーセの場合のように、「出エジプト」として聖書に記録されるような、そんな大きなことでは、おそらく、ないでしょう。
しかし、たとえそれが人の目には小さく、目立たない事であったとしても、神は私たちひとり一人の命に、すばらしいご計画をお持ちです。神が私たちにご用意してくださった、その計画を信仰によって私たちは見つけていきたいと願います。
「わたしがあなたをファラオのもとに遣わす」と神に言われたモーセは、そこで大変躊躇いたします。

モーセは「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と神に答えました(11節)
新しい道を踏み出そうとする時、たとえそれが神の御心だと分かったとしても、人は躊躇することがあります。不安になることがあります。”なぜ私ですか?”と言って、わたしたちは躊躇するのです。
モーセは神に直接言葉をかけられても、ファラオのもとへ行きイスラエルの民をエジプトから導きだすなどということが自分に出来るのですか、と恐れて、そのように神に問いかけたのです。

12節の神の言葉をお読みします。
「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
神がモーセに約束してくださいました。そして神は今の私たちに向けても約束してくださっています。「わたしが必ずあなたと共にいる」
神が必ず私たちと共にいてくださる~この恵みの真実が私たちを日々支えてくれています。神はわたしたちと、いつも共にいてくださいます。
神は、私たちが聖書を読む時だけ、あるいは教会での集会に参加している時だけ、わたしたちと共にいてくださるのではないのです。
神はいつも私たちと共にいてくださる~これが神の変わらぬ約束なのですから、わたしたちはいついかなる時も、この神の言葉(約束)の真実により頼んで生きることができるのです。
 いつもわたしたちと共にいてくださる神、日々注がれる神からの恵み、信仰の目によってそれらを目に止め、感謝と喜びの日々を歩んでまいりましょう。

2023年9月30日土曜日

2023年10月1日 主日礼拝

招詞 イザヤ書61章1節
賛美 新生讃美歌 513番 長き道 山や谷
祈りの時
主の祈り
献金
聖句 ルカによる福音書4章16~30節
祈祷
宣教  「貧しい人に福音を知らせるために」
https://youtu.be/9GOSrku-0Nk
祈祷
賛美 新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷


 今日は新約聖書の『ルカによる福音書』の中から、神のメッセージを私たちは共に聞いてまいります。
 福音書の中には、イエス・キリストが人としてお生まれになって、この地上でなさった色々な業(奇跡の行いなど)、そしてイエス様が人々に伝えた言葉や教えが記録されています。
 マタイ福音書とルカ福音書にはイエス様の誕生の記録が記されています。しかし、イエス様の幼少時代については、どの福音書もほとんど記していません。
 福音書の中でイエス様の幼少時代について伝えている箇所は、ルカ福音書2章の最後に描かれている、イエス様が12歳の時に過越しの祭りで家族と一緒に、故郷のナザレからエルサレムは旅をした時の話が唯一のものです。
 エルサレムからの帰り道、息子のイエス様が自分たちの中にいないことに気づいたヨセフとマリアはエルサレムに引き返して行きました。そこで神殿の中で学者たちの真ん中に座り、話しをしたり質問をしたりしているイエス様を見つけた、という話です。

 今日の箇所は、イエス様が30歳ぐらいになり、公の宣教活動(神の国を人々に伝える活動)を始めた後の話です。
 しかし、今日の箇所の最初の一節(4章16節)に、イエス様が子どものころからどのようにお育ちになったのかが、少し伺える内容が含まれています。

16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
 イエス様は各地の会堂で教え、すでにその評判は広まり、各地で人々から尊敬を受けるようになっていました(4章14~15節)。そして今日の箇所でイエス様は自分がお育ちになったナザレの町に戻ってきます。
そこでイエス様は「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」と書かれています。
「いつものとおり」as was his customとは、毎週の安息日(ユダヤ教の安息日は土曜日)に、会堂で礼拝することがイエス様の習慣になっていたということです。
 なぜ礼拝に出席することがイエス様の習慣になっていたのか。それは、イエス様が、ヨセフとマリアに育てられる間に、毎年一回過越祭にはエルサレムの神殿へ旅をしていたように、おそらく毎週の安息日の会堂の礼拝へも、ヨセフとマリアに連れられてイエス様は出席していたのだと思われます。
 つまり、安息日を大切にし、その日には神を礼拝するということが、幼少時からの信仰習慣としてイエス様に教えられ、そのことが身についていたということです。

 神の子であるイエス様も、幼い頃から家庭で、そして定期的な礼拝(集会)出席を通して神の教えを学ばれたのです。
 そうであるのならば、私たち今のキリスト者としても、毎週の礼拝、その他教会の集会がいかに大切であるかが分かります。
私たちは礼拝で、聖書の言葉(神の言葉)を共に聞き、分ち合います。今わたしたちが聞くべき神の言葉を私たちは共に聞くのです(そうすることができるのです)。
「今日神様は私にどんな御言葉を語ってくださるか」と期待をしながら、私たちも礼拝に参加しようではありませんか。そして礼拝出席を誠実かつ、喜びを伴なった信仰習慣としていきたいと私たちは願います。
 イエス様は今日の箇所で安息日に会堂に入られ、そして聖書を朗読しようとしてお立ちになりました。イエス様は、“聖書の言葉、すなわち神の言葉を聞き、それを分かち合う”ことを率先して行っておられます。

 イエス様の時代の普通の人々は、今のような形態の本などはありませんから、聖書の言葉を聞こうと思えば、会堂に来てそこで朗読される聖書の言葉を聞くしか方法がなかったでしょう。
 今の私たちは自分の聖書を各自が持っていますし、聖書だけでなく、色々な教会の宣教(メッセージ)も、インターネットを通じて読むこと(聞くこと)もできます。
 聖書の御言葉と聖書に基づいた宣教を聞くということであれば、もはや教会に来なくても可能です。それでも、私たちは教会に集まることを大切にします。
 コロナ・ウィルス感染症の拡大で、私たちは教会にみんなで集まるということについて、それまでなかったほどに考えさせられました(今も考えさせられている、とわたしは思います)。
しかし、やはり私たちが同じ時に、聖書の言葉を皆で一緒に聞くことができる(分かち合うことができる)というのは、私たちにとって大きな喜びであり、恵みです。

 私が若いころに、ラジオを聞いている時に(今の若い方は、ラジオを聞くことはあるのでしょうか?)、自分が好きな音楽や自分が好きな曲がラジオから流れて来ると、とても嬉しい感じがしました。
 好きな曲はいつもCDで聞いているにも関わらず(今の若い方はCDで音楽は聞かないのですよね?)、それがラジオという公共の放送で流されると、とても嬉しい気持ちがしました。
 ある時私は「ラジオから自分が好きな曲が流れて来るとなぜ嬉しいのだろうか?」と、その理由を考えてみました。
自分で思いついたその理由は「自分が好きな曲を、自分は知らない(遠くにいる)とても多くの人たちが、今この同じ瞬間に一緒に聞いている」という事実が嬉しく感じられるのだ、と思いました。
 好きな曲を通して、見ず知らずの大勢の人と自分が繋がっているような、一つの連帯感のような感覚が私にとって嬉しかったのだと思います。
 好きな音楽でもそのように嬉しいのですから、まして神の言葉を私たちが他の人たちと一緒に(同じ時に)聴くことができるとは、何と幸いなことでしょうか。

 今神がこの私だけでなく、私以外の人々に向けても同時に語ってくださっていると信じることができるならば、それは本当に大きな信仰の喜びなのです。
そのようにして神の言葉が聞かれ、分ち合われる教会、そのことを喜ぶ私たちはありたいと願います。

 イエス様に、イザヤ書の巻物が渡され、イエス様は以下の御言葉をお読みになりました。18~19節をお読みします。

18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
19主の恵みの年を告げるためである。」

 これはイザヤ書に書かれている神の恵みの言葉です。神の慰めの言葉です。「貧しい人に福音が告げられる」、「捕らわれている人は解放される」、「目の見えない人は見えるようになる」、「圧迫されている人は自由になる」という約束の言葉です。
 20節に、イエス様が巻物を係の人に返して、自分の席に戻って座ると、会堂にいるすべての人の目がイエス様に注がれた、と書かれています。
 当時は会堂の礼拝に参加した人の中の誰かが聖書を読み、そしてそこから奨励のメッセージをすることが習慣だったようです。
会堂の人々は「さあ、今の箇所からあなたは何を教えてくれるのか」と期待をして、イエス様が何かお話しになるのを待っていたのでしょう。
 そこでイエス様は驚くべきことをおっしゃいました。21節に、イエス様が次のように言ったと書かれています。

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
 イエス様は、「今読んだ聖書の箇所(イザヤ書の言葉)の意味はこういうことです。こういうことを私たちに教えているのです」というのではなく、「この聖書の言葉、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」=「わたしがこの聖書の言葉を実現する者だ」と言ったのです。
 イエス・キリストは、聖書の御言葉を私たちに解説してくれる先生ではないのです。何か人生を生きるのに役に立つ方法(私たちにとって得な話)を教えてくれるお方でもありません。
 そういう側面がイエス様に全くないわけではありませんが、私たちは何よりもイエス・キリストご自身が、聖書の御言葉(神の御心)の成就だ、という今日の箇所の中心メッセージに向きあわなくてはなりません。
 皆さんはそのことが本当に信じられますか?「イエス様の言っていることが素晴らしい」、「イエス様の教えはとても役に立つし、感動的だ」ではなくて、それ以上にイエス・キリストご自身が神であり、神の言葉である聖書の成就をだということを、私たちは信じているでしょうか。

 イエスは主 Jesus is Lordと、私たちは本当に信じることができますか?と今日私たちは問われているのです。イエス様を主として、イエス様に従って生きていく覚悟(そしてその希望)がありますか、と私たちは問われています。
 今日の箇所で、会堂でイエス様のお話を聞いた人たちは、その話があまりに恵み深いのでみんな驚いて感動した、と書かれています。(22節)。
 「この人の言っていることは素晴らしい」と誰もが思ったのです。しかし、同時に人々はこうも思いました。「この人はヨセフの子ではないか」。
 イエス様はその時、自分がお育ちになったナザレの会堂にいました。ですからその会堂にいた人たちも、イエス様のことを小さなころから知っていた人も多かったでしょう。
 しかしその小さいころから知っていた人の口から出る言葉は、神の恵みの言葉でした。神の言葉こそが人を慰め、人に神の恵みを確信させる力があるのです。
 しかし、中にはどうしても疑う人がいました。神の言葉が語られているのに、そのお方を蔑もうとする人がいたのです。
その人たちはこう言いました。「この人はヨセフの子ではないか」。つまり“わたしたちはこの人の父親ヨセフも知っている。この人は大工の子だ。そんな人から(ただの人間から)恵み深い神の言葉が出て来るはずがない”と彼らは思ったのです。

 わたしたちも、たとえどれほど恵み深い聖書の御言葉、力強い神の御言葉を聞いても、それを私たち自身の頑なさや傲慢さ、あるいは怠惰な性質が、そのような神の言葉を聞くことを邪魔し、拒んでしまうということがあり得ます。
 それでも神は人となられ、イエス・キリストとして恵みの言葉、福音をわたしたち貧しい者に伝えてくださいました。
 わたしたちが、その罪の性質のために、神の恵みをあまりにしばしば拒んでしまうことがあり得ることを十分にご存知でありながら、なお神はイエス様を御子としてこの世に送ってくださいました。
 神は今この時も変わらずに御言葉を語り続けてくださっています。私たちが御子イエス・キリストの名によって集まるこの集会は神によって聖別(取り分けられた、神によって呼ばれた)特別な集まりであるからです。
 今も変わらぬ御言葉の恵みに与ることのできる幸い、共に御言葉を聞き分かち合うことができることを私たちは喜び、福音(良き知らせ)によって今週の日々も私たちは生きていきたいと願います。

2023年9月23日土曜日

2023年9月24日 主日礼拝

招詞  詩編116篇8節
賛美  新生讃美歌1番 聖なる 聖なる 聖なるかな
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句 コリントの信徒への手紙二 1章1~2節
祈祷
宣教  「神の教会、わたしの教会」
https://youtu.be/apZM7bZB8DA
祈祷
賛美  新生讃美歌639番 主の恵みに生きる
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷

今日からまた、一ヶ月に一回ぐらいの割合になりますが、『コリントの信徒への手紙二』の御言葉から、礼拝の中で私たちは神のメッセージを聞いてまいります。
 イエス・キリストの福音(神の良き知らせ)を、ユダヤを越えて広く地中海世界へと知らせた伝道者パウロが、ギリシアのコリントという都市の信者たちに宛てて書いたこの手紙の中には、神からのメッセージが込められています。
 パウロは、手紙の慣例に倣って、挨拶の言葉からこの手紙を書き始めています。

1節をもう一度お読みします。
1神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。

 「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」~パウロは自分のことをこのように言っています。
 使徒(an apostle)とはどんな人かについて、新共同訳聖書巻末の「用語解説」は次のように説明しています。
「イエスが弟子の中からお選びになった『十二人』。イエスの復活の後は、教会の最高の職位として宣教の責任を持つ者を意味した」
パウロは、イエス様が生きておられた時には、イエス様に直接会ったことはない人でした。復活のイエス・キリストがパウロに現れてくださって、パウロは生き方を劇的に変えられたのです。

 それまではキリスト教徒を激しく迫害していたパウロが、それからは自分の命をかけてイエス・キリストを人々に宣べ伝える「使徒」となったのです。
 パウロは「神の御心によって私は使徒とされた」と言います。「神の御心 the will of God」と訳されている元のギリシア語の言葉は、「神の願い(神が望まれたこと)」という意味にもなります。
 そうであれば、パウロは自分のことを、「神がこの私をイエス・キリストの使徒となるように望んでくださった」と思っていたということになります。
 「神がこのわたしを選び、イエス・キリストの福音を伝える使徒としてくださった」という思い(その事実)が、パウロを支えていたのです。
 「神がそう望んでくださった」という思いが、苦しい伝道活動の中でも、パウロに力と希望を与え続けたのです。

 「神が私を選んでイエス・キリストの使徒、また教会の責任者にした」という確信は「だから、人々は神に選ばれたこの私の言うことを何でも神の言葉として聞くべきだ」という思いにはなりません。
 信仰の群れの指導者がそのように思い始めたら、それはカルト化の始まりです。「神によって選ばれた」という思いは、むしろそう信じる者を一層謙虚にするはずです。
 「神がこのわたしを選んでくださった」という信仰は、教会の指導者だけでなく、そう信じるキリスト者全員を神の前に、そして人にたいしても謙虚にするはずです。
 信仰が深まり成熟し、イエス様の御愛を知れば知る程、わたしたちは「いかに分不相応な測り知れない恵みを頂いているのか」ということを知らされるのです。
「神の御心と憐れみによって救われ、キリストを信じるクリスチャンになることができた」と心から実感する者は、自分の罪の深さに気づかされます。

聖書の別の箇所ですが、関連する箇所を引用します。
テモテへの手紙一1章12~15節です。それも使徒パウロの言葉です。

12わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
13以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。
14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。
15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

「わたしは、その罪人の中で最たる者です。 Of whom I am the worst」~この告白を、キリスト教史上最高の伝道者と言ってもよいパウロがしていることを、私たちは本当に真剣に捉えなくてはなりません。
「罪人の中でも最たる者であるこの私を神が赦してくださった。罪人の中でも最たる者この私を神が選び、神のご用のために用いてくださっている」という思いが、パウロの中で大きな喜びとなっていたのだと私は確信します。
 神がわたしたちキリスト者をお選びになったのは、私たちが優れていたからでも、また私たちが決して間違いを犯さないからでもありません。
 神はただ私たちのことを愛してくださっているので、私たちを選び、私たちを呼び、私たちがキリストを信じキリストに従って生きる者へとしてくださったのです。

 教会の群れの指導者は、「神に選ばれた自分は間違いを犯さない」とは決して思いません。なぜなら選ばれた指導者も人間であるからです。
 むしろ信仰の指導的立場にある者は、自分も間違いを犯す者であることを自覚し、もし間違いに気づかされた時には、へりくだってその事を反省し、問題解決や問題が良き方向へ改善されるために努力をすべきです。
 牧師である私のような者や、また信仰の群れの指導的立場にある者たちのことを覚えて、皆さんには今一度、そのために祈って頂きたいと私は心からお願いをいたします。
 パウロはこの手紙を「コリントにある神の教会(そしてアカイア州の全地方に住むすべての者たち)」に向けて書いています。「コリントにある神の教会」という言葉にも私たちは注目したいと思います。

 ギリシアのアカイア州と言われた地域の首都コリントのコリント教会は、もともとパウロの伝道によって始められたパウロが立てた教会です。
『使徒言行録』の18章に、パウロがコリントへ行った時のことが書かれています。パウロは1年6ヶ月の間コリントに留まり、人々に神の言葉を教えた、と書かれています。
 パウロが作ったと言ってよい教会であっても、パウロは決してその教会を「わたしの教会」とは言いませんでした。クリスチャンが自分の教会のことを「わたしの教会」と思うことは間違ったことではありません。
 むしろ信仰の群れに属すること、「わたしにとっての神の家族」という意味で、わたしたちは自分の教会を「わたしの教会」と感謝と愛をもって呼びたいと願います。

 しかしもし私たちが自分の教会のことを「わたしの教会」と呼んで、「わたし(わたしたち)の思い通りになるべき教会」とか、教会の指導者であれば「わたしが所有している教会」などと思うとしたら、それは大変な間違いとなります。
 教会は、神が立てられた神の教会です。教会はイエス・キリストの体です。私たちはキリストの体である教会の一部とされていることに、大きな喜びを見いだします。
私たちは教会につながることで共に祈り、御言葉に生き、そして神の御心(神が何を望まれているのか)に従って、信仰生活を歩んでいきます。
わたしたちの教会は神の教会です。教会の権威、教会の所有権は神にあります。私たちは神のその権威に仕えるものです。そして神の信仰の群れにつながって生きるものです。
かつて私の出身教会へ、別の教会から転入会をされたかたがおられました。そのお方(女性)が、新たな教会にご自分が加わることを、「群れに加えていただけることが本当に嬉しい」と表現されました。

正直、そのお方のそのお言葉を聞いて「何と謙遜なお方なのだろう」と思うと同時に、「信仰の群れに加わっている」という喜びを改めて知らされました。
正直私にはその時まで、「信仰の群れ(教会)に加わっている(つながっている)という喜び」をあまり実感していなかったからです。
わたしは教育担当執事としてその方の転入会の準備を指導させて頂いたのですが、むしろ私のほうがその方の謙虚な姿勢から教えられました。

わたしはそれまでむしろ「わたしが教会に貢献している(奉仕している)」という傲慢な思いでいたのではないか、とその時気づかされたからです。
そうではなかったのです。神は、御子イエス・キリストを世にお送りくださり、その十字架の贖いにより、「罪人の最たる者」である私を赦し、救ってくださり、命の道へと招き入れてくださったのです。
そして今キリストは目に見えない代わりに、神は教会をキリストの体として世に立ててくださいました。罪赦され、救われて、救い主キリストの体である教会に加わることができた、その一部とされた、ということを私たちは心から喜ぼうではありませんか。

 今日の箇所の1節によれば、この手紙を書いたパウロは手紙を「コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ」向けています。
 パウロはコリント教会の人たちのことは良く知っていたでしょう。しかし、パウロがコリントを離れてからもコリント教会では信者の数が増えたようですので、パウロにとっては自分が直接は知らない信者たちも、その時は沢山いたと思います。
 パウロは、2節に書かれているように、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和」を、まずは自分自身が知っているコリント教会のメンバーへ向けて送りました。
同時にパウロは、キリストからの恵みと平和を、自分は直接は知らない多くの人たちへも向けて、そしてまたコリントが位置していたそのアカイア州の全地方に住む信徒たちに向けて(その人たちのことを心に思い描いて)願い送ったのです。

キリスト者は、自分の教会での信仰の一致、信仰の交わりを大切にします。私たちは自分の信仰の群れの中にいてこそ、信仰が養われます。
しかし、教会は決して「閉鎖された」、「信じる者だけの」特殊な場所や空間ではありませんし、そのようになってもいけません。
私たちはキリストによって選ばれ、キリストの体に属する信仰者となったことを喜び、そしてイエス・キリストの福音が、私たちを通して、私たちの教会を通して世に伝わることを祈り願います。

キリストの福音の恵みは、全ての人に向けられたもの、全ての人に与えられるべきものであるからです。
伝道者パウロが今日の箇所で(その手紙の冒頭で)祈り願っているように、私たちも、“わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和”が、まず私たちの身近な人々にあるようにと祈ります。
そして私たちにとって身近な人々だけなく、イエス・キリストの恵みと平和が、私たちから遠く離れた場所の人々にもあるようにと、信仰の思いによって、私たちは神に祈り願いたいと思います。

2023年9月16日土曜日

2023年9月17日 主日敬老礼拝

招詞  ヤコブの手紙1章5節
賛美  新生讃美歌538番 神はわがやぐら
主の祈り
献金
聖句  ヨブ記12章7~13節
祈祷
宣教  「知恵と力は神に属する」
https://youtu.be/1PhVVUG46w0
祈祷
賛美  新生讃美歌 86番 輝く日を仰ぐとき
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷

 今日は「敬老礼拝」として、年長者の方々を私たちが敬い、年長者の方々に神の祝福と、そして健康と平安とが豊かに与えられることを共に願い、感謝をする礼拝をお献げしています。
 今日を「敬老礼拝」と私たちがしていますのは、明日9月18日(9月第三月曜日)が「敬老の日」として、日本では国の祝日になっていることに関連があります。
 日本の祝日としての「敬老の日」の始まりは、兵庫県多可郡(たかぐん)野間谷村(のまだにむらー当時の名前)が、1947年9月15日に主催した村主催の「敬老会」だとされています。

 その野間谷村の敬老会が段々と兵庫県全体に広まっていきました。やがて1966年には、全国で国民の祝日となりました(意外とその起源は新しいのですね)。
 最初に野間谷村で敬老会が開かれた趣旨は「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」だったそうです。(ちなみに、その時の敬老の対象者55歳以上の人たち!)
 年長者の方は、その長い人生の経験から、豊富な知恵を身につけています。年長者は体力的には段々と衰えてくることがあります。しかし「年長者の知恵から、若年者は学ばなくてはならない」―それは今でも確かなことだと私は思います。
 しかし、年長者は自分が色々と経験していると思うがために、「若い者たちは何も分かっていない」、「若い者たちが失敗をしないように、年長者の自分が教えてやらなくてはいけない」と思うこともあるのではないでしょうか。
そうであれば、そのような態度には注意が必要ではないかと私は思います。
 私がそのように言いますのは、実は私自身が既にそのような考えを持ち始めていると感じているからです。特に自分のこどもたちがすること(選択すること)に対して、かつて私自身が経験した失敗や経験から、色々教えたくなる(口出ししたくなる)のです。
 「私(お父さん)は、かつてこういう失敗(失敗とまでは言えなくても、別の道を選んだほうがよかった、という経験なども含む)をしたから、君たちは同じことをしてはいけないよ」という思いを持つことがわたしにはあります。
私としては、子供たちのことを思って、善かれと思ってアドバイスしているつもりなのです。
しかし、私は気を付けていないと、子供たちは私とは別の人間(独立した別人格)であることを忘れてしまい、自分の意見や意向を子どもたちに押し付けているのではないかと思わされるのです。
「子供たちのため」というより、「わたしが子どもたちにこうしてほしいと思う=つまり、私のため」に色々と口だししているのではないか、と反省することがあります。

ずっと以前のことですが、私の出身教会の礼拝に、イギリスのご家族の方達が来られたことがありました。奥さんが日本の方、夫がイギリスの方で、小学生ぐらいのお子さんが二人いらっしゃったと思います。
その方たちは、自分たちはイギリスのバプテスト教会の会員だとおっしゃっていました。
 私はそのご夫婦と礼拝の後で少しお話しを伺う機会がありました。その方たちの教会は50~60人ぐらいの教会だと言っていました。
そして教会で起こる問題の一つとして、若い世代の自分たち(そのご夫婦は、三十代か40代初めだったと思います)が「教会で、今度こういうことをやってみましょう」と提案したりすると、年長者の会員からよく反対されることがある、というのです。
“今度こんなことをやってみましょう”と新しいことを提案すると、よく年長者のメンバーたちから“それは、同じようなことを私たちも昔やってみたが、うまくいかなかった。だからやめたほうがよい”と言って反対されることがよくある、と言うのです。
 その方たちは「たとえ同じ事でも、昔と今では状況が違うし、今やってみれば、また違う結果がでるかもしれないのに、と思います」と言っておられました。
それを聞きながら、世代間の意見の違いとか、年長者と若者との間の問題は、どこの国でも変わらないな、と思わされました。

人間が年齢と経験を重ねることで得られる“知恵”は尊いものです。しかしそれは決して絶対ではありません。まして一人の人間の知恵や経験には限界があります。
私たちはお互いに、年齢の差に関係なく、年長者も若い人たちも、お互いを神の前に対等な者同士として尊重しあわなくてはなりません。
 年を重ねることで得られる経験や知恵も尊いものです。しかし、それらはすべて、主なる神から私たちに与えられるものである、ということを私たちはいつも覚えていたいと願います。

 今日の聖書箇所は『ヨブ記』12章から私は選びました。12章12~13節に次のように書かれています。

12知恵は老いた者と共にあり/分別は長く生きた者と共にあるというが
13神と共に知恵と力はあり/神と共に思慮分別もある。

13節の「神と共に知恵と力はある」それを私は今日の宣教題(知恵と力は神に属する=英語訳から)としました。そしてこれが今日のメッセージの結論なのです。
 12節にあるように人間の社会一般では「知恵は老いた者と共にあり 分別は長く生きた者と共にある」と考えます。それは間違いではありません。
 しかし、主なる神を信じる信仰者は、“私たちが生きるための真の知恵、そして生きるための真の力は、主なる神と共にある”というこの聖書の御言葉を信じます。
 ですからたとえ年が若くても、本当の知恵と力とは、主なる神の御言葉にいつも耳を傾けているかどうか、にかかっています。
今日は「敬礼礼拝」ですから、年長者の方を私たちが敬う主旨のメッセージを期待されているのだと思いますが、どちらかと言うと年長者の方を戒める(教える)ような方向のメッセージになってしまい、申し訳ありません。
しかし、礼拝の宣教は私たちが共に神の教えとみ言葉を聞くことですから、敬礼礼拝の今日も、私たちは老いも若きも共に神の言葉によって教えられたい、神の言葉によって共に祝されたいと願うのです。

今日の箇所のヨブ記12章7~10節は次のように言います。

7獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。
8大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。
9彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。
10すべての命あるものは、肉なる人の霊も/御手の内にあることを。

私たちは野の獣から(動物から)、空の鳥から、そして大地から、そして海の魚からも教えられるのです。
 私たちはどれほど年を重ねても、へりくだって自分以外のあらゆるものから(人からも、自然の事物からも)教えられて学ぶ、という態度を持たなくてはならないのです。
 旧約聖書の最初の『創世記』は、神が人間をお造りになって、そして神が人間を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とおっしゃったと記します(創世記1章28節)
 しかし、創世記での神のその言葉は、「人間は他の生物よりもあらゆる面で優れていて、最高の知恵を持っているから、人間は自分がただ望む通りに、他の生き物を、この世界を支配してよい(利用してよい)」ということではありません。
 それは今日のヨブ記のような箇所で「獣からも、空の鳥からも、海の魚からも教えてもらいなさい」と言われていることからも、明らかです。私たちは、いつも謙虚に学ばなくてはならないのです。
 獣や空の鳥、海の魚、そして大地は何を私たちに教えてくれるというのでしょうか?それが9~10節に書かれています。

9彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。
10すべての命あるものは、肉なる人の霊も/御手の内にあることを。

獣も鳥も、魚も、彼らはみんな「主なる神の御手が、この世界のすべてのものを造られた」ということ、そして「すべて命あるものは、人間の霊(息)も神の御手の内にある(守られている」ということを知っている(そのことを私たちに教えてくれる)、というのです。
 ところが私たち人間はそれらのこと(神がすべてのものを造られたこと、命あるものは全て神の御手の内にあること)を忘れてしまい、傲慢になってしまいがちです。
 私たちは“自分は何でも知っている”、”私は自分の力で生きている”と思い、勘違いしてしまうことが多いのです。そして私たちは自分以外の他者や自然や生き物などからも学びなさい、という聖書の教えに従えなくなってしまうのです。

 イエス様の次のように教えられました。それはイエス様のお言葉のうちでとても有名なお言葉です。
マタイ6章26節
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

イエス様はその後で「野の花がどのように育つのかも注意して見なさい」と言っておられます。
イエス様は、“栄華を極めたソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか”と言われました。
 空の鳥が、そして野の花が私たちに教えてくれるのです。“私たちは神によって造られて、神によって命与えられ、そして神によっていつも守られている”と彼らが私たちに教えてくれるのです。
聖書が伝える知恵とは「神を知る」ということです。神を知るとは、真の神なるイエス・キリストを知る、命の源であるイエス・キリストの愛を知ることです。
聖書が伝える知恵とは、私たちは(生きるものはすべて)神によって造られ、守られ、そして神の御手のうちに生かされているということを、イエス・キリストの御愛を通して知ることです。
そのような神の知恵を知らされた私たちは互いに敬い、お互いに謙虚に教え合い仕え合って生きる者となるのです。
 そのような神からの知恵を、私たちはこれからも聖書の御言葉から、共にこうして神を礼拝することから、そして共に祈り合うことから、ますます豊かに頂いていきたいと願います。
今日は「敬老礼拝」です。神が与えて下さる長寿を、そして老いも若きもそれぞれに神から与えられた命の日々を私たちは感謝いたしましょう。
常に神の御手に守られた私たちが、神の言葉、神の知恵を頂いてそれに従って歩むとき、私たちには信仰によるあらゆる希望と喜びが約束されているのです。恵みの神に感謝をいたします。

2023年9月9日土曜日

2023年9月10日 主日礼拝

招詞  ペトロの手紙一 2章11節
賛美  新生讃美歌3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
献金
聖句 出エジプト記2章11~25節
祈祷
宣教 「モーセの逃亡」
https://youtu.be/_jjruFfqTEI
祈祷
賛美 新生讃美歌297番 主によりてあがなわる
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷

 旧約聖書『出エジプト記』の中で描かれる、モーセの物語を通して、私たちは今日も神のメッセージを聞いていきたいと思います。
 モーセは聖書に登場する人物の中でも最も偉大な人物の一人です。400年間エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルの民を救い出し、エジプトから脱出させる指導者としての役を彼は後に担うことになります。
しかし聖書はいかなる人間も、完全な人間として描きません。それはどんな人間も完全ではないからです。どれほど偉大な業績を残した人物であっても、聖書は彼ら彼女らが犯した過ち、あるいは弱さをも、はっきりと記しています。
偉大だと言われたダビデ王も、自分の兵士であった男の妻と関係を持ち、彼女を妊娠させました。そのことを隠蔽するために、ダビデはわざとその兵士(ウリヤ)を戦場の最前線に置いて戦死させました。

イエス・キリストの一番弟子であったペトロは、「あなたと一緒に死ななくてはならなくても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と豪語していました。
しかしイエス様が捕まった最後は結局、「わたしはあんな人のことは知らない」と言って、(イエス様が予言した通り)三度もイエス様のことを否定しました。

 今日の箇所でも、モーセにとって、消そうにも消すことのできない、彼が犯した大きな過ち、罪の一つが描かれています。
 エジプトに住むヘブライ人の子として生まれたモーセは、生まれた後三ヶ月間、母親によって隠されていました。増えすぎるヘブライ人を恐れたエジプト王のファラオが、国中で生まれる男の子は全員ナイル川に放り込むように、と命令していたからです。
三ヶ月以上は隠しておけなくなり、モーセの母親は赤子のモーセをパピルスの籠に入れ、ナイル川の葦の茂みの中に置きました。それをエジプトの王の王女が見つけ、何とモーセの実の母親が乳母としてモーセに乳を与えることになりました。

そしてモーセは大きくなるとファラオの王女に引き取られました。それ以降のことは聖書には詳しく書かれていませんが、モーセはエジプトの王宮で暮らし、そこで成人しました。今日の箇所はそれからの話です。

今日の箇所の最初の11節に次のように書かれています。
11モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。

どのようにしてかは分かりませんが、モーセは自分がヘブライ人だということを知っていました。おそらく、彼が成長する過程で、ファラオの王女がそのことをモーセに伝えていたのはないでしょうか。
 モーセは成人して、王宮を出て同胞たちのところへ出て行きました。同胞たちが重労働に服しているのを目にして、彼の胸は痛んだでしょう。また彼はそのことに怒りも感じたでしょう。
モーセは一人のエジプト人が同胞のヘブライ人の一人を打っているのを見ました。モーセはそこで辺りを見回してだれもいないのを確かめた後、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めました。

 「一人のエジプト人が同胞のヘブライ人の一人を打った」の“打った”は“打ち殺した”という意味だという解釈もあります。
そうであれば、モーセは殺された同胞の仇を取ったということになります。しかし、モーセは打ち殺したエジプト人の死体を隠しました。それはモーセの良心が、“自分がしたことは間違っている”と、彼に告げていたからだったと私は思います。

 その良心の声を、モーセはその時はっきりとは聞くことができなかったかもしれません。しかし“隠す”という行為は、モーセ自身に後ろめたい思いがあったということ、そして“これは人に知られてはいけない”という意識が彼にあったことを、示しています。
 一時の怒りと憤りに駆られて、同胞のヘブライ人を打った(殺した)エジプト人を打ち殺した~まったく理解できないことではないとしても、それはモーセの生涯を通して残る彼が犯した大きな過ちの一つでした。

モーセは、そのエジプト人の死体を砂に埋めることで、自分のしたことは隠し通せると思っていたのでしょう。しかし、その罪は隠されたままではいませんでした。そのことは人に知られていた、ということがすぐに分かります。
 次の日にモーセがまた出て行くと、今度はヘブライ人同士が二人でけんかをしていたのです。
モーセが悪い方の人に向かって「どうして自分の仲間を殴るのか」と聞くと、その人は「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」とモーセに言いました。
 その言葉はモーセを恐れさせました。前の日に、自分がエジプト人を打ち殺したことが知られてしまっていたからです。
また「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか」という言葉も、モーセの胸に突き刺さったでしょう。モーセは正義感も強かったと思いますが、感情が激しく、その激しい感情に駆られて、突発的に行動してしまう人だったようです(少なくとも、この時はまだ、そのようであった)。

前の日にエジプト人を打ち殺したことをモーセは思い出し、自分だけの正義感、または怒りに駆られて人の命を奪ったことの罪深さをも、彼は思い知らされたのではないでしょうか。
 そして自分でも気づかぬうちに、“監督や裁判官”のような気になって、他人のことを裁いていしまっている、と言う自分にもモーセは気づかされたのだと思います。
 私たちも気をつけていないと、いつも自分が監督や裁判官であるような気になり(“自分が正しいと”思い)、他者のすることを裁いてしまうことがあります。
 祈りとそして御言葉を通して、そのような自分自身にも私たちは気づいていきたい、他者を裁かないようにしたいと願います。

 モーセのしたこと(彼がエジプト人を打ち殺したこと)はエジプト王のファラオの耳にも届きました。そしてファラオはモーセを殺そうと尋ね求めました。
モーセはファラオが自分の命を狙っていると知り、ファラオの手を逃れてミディアンの地方へ逃れて行きました。そこでモーセは井戸の傍らに座りました。
モーセは本当に途方にくれ、“これからどうしようか”と考えていたでしょう。
 自分が犯した殺人の罪が知れ渡り、エジプトの王に命を狙われる~モーセにとっては絶対絶命の状況になりました。しかし、それでも神の守りと導きはモーセを離れることはありませんでした。
 モーセがいた井戸に、女性たちが羊の群れに水を飲ませるためにやってきました。彼女たちは、あるミディアンの祭司の娘たちでした。そこへ羊飼いの男たちが来て、娘たちを追い払ったと書かれています。
 力の弱かった女性たちは、井戸から水をくんで羊たちに飲ませる機会をその男の羊飼いたちから邪魔されたか、あるいは横取りされたということでしょう。
モーセはそこで立ち上がって娘たちを救い、彼女たちの羊の群れに水を飲ませてやりました。娘たちは父のもとへ帰ると、父親はいつもよりずいぶん早く帰ってきた娘たちに、「どうして今日はこんなに早く帰れたのか」と聞きました。

娘たちは“一人のエジプト人が羊飼いの男たちから自分たち助け出し、わたしたちのために水をくんで、羊に飲ませてくださいました”と答えました。
 モーセはエジプト人ではありませんでした。ヘブライ人でしたが、娘たちはモーセをエジプト人だと思ったというのです。エジプトの王宮で育ったモーセには、その言葉や振舞いもエジプト人を思わせるものがあったのでしょう。
 娘たちの父親は、“その方を放っておかないで、呼びに行って、食事を差し上げなさい”と言って、娘たちにモーセを呼びに行かせました。モーセは彼女たちの家に来て、そこに留まる決意をしたので、父親(レウエル)は娘のツィポラをモーセと結婚させました。
 モーセとツィポラの間に男の子が生まれ、モーセはその子をゲルショムと名付けました。ゲルショムとは”寄留者(あるいは外国人)”を意味するヘブライ語です。
 モーセが息子を“ゲルショム”と名付けたのは、彼が「わたしは異国にいる寄留者だ」と言ったからだと、書かれています。
 「わたしは異国にいる寄留者」~それはどういう意味でしょうか。モーセは自分がヘブライ人であることを知っていました。ですから、エジプトの王宮にいる間も彼は自分がそこでは寄留者(外国人foreigner)だと思っていたのでしょう。
 そしてエジプトを逃れてミディアンへ逃れなくてはならなくなり、そこでもまたモーセは“寄留者”であったのです。そのことをモーセはどう感じていたのでしょうか?「自分はどこへ行っても寄留者(外国人)だ。。。」と思っていたのではないでしょうか。
 本国に住む者ではない、“わたしは寄留者だ”という事実に、モーセは一抹の不安や悲しさをも覚えていたのではないでしょうか。
 この“寄留者”という言葉は、聖書を通して重要な意味を持っています。それは“私たち人は誰もがこの地上においては寄留者である”ということです。
 わたしたちは神から命をいただいて、この地上で生きる者となりました。私たちは神のご計画により、それぞれ色々な地域や国で生まれます。

 しかしこの地上での生まれ(出自)に関わらず、聖書は次のように言います。

フィリピの信徒への手紙3章20節
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

出エジプトの出来事は紀元前1300年頃のことだと言われています。まだイエス・キリストが人としてお生まれになるずっと前(1300年前)のことです。
しかしキリストは神であるお方ですから、時代を越えて、いつの時代にもおられたお方であり、今も霊によって私たちと共におられるお方です。
そのイエス・キリストが、そこから私たちの救い主として来られる場所~そのような天に私たちの本当の国籍(市民権)はある、と聖書はいうのです。そのような意味において、わたしたちは誰もがこの地上では寄留者(外国人)なのです。
わたしたちは互いに寄留者として、この地上で互いに助け合い支え合って生きていくのです。私たちは決して互いに争ったり、命を奪い合ったりして生きていくように神から造られたのではないのです。
天の父なる神が、出エジプトの時代、モーセを導き、彼に使命をお与えになったように、今の私たちにも神の導きがあり、また神が私たちひとり一人に与えておられる使命があります。
その使命が何であるのか~わたしたちは日々聖書に聴き、祈り、共に神を礼拝しながら神が私たちに与えておられるご計画と使命を知り、それに従って歩んでいきたいと願います。

2023年9月2日土曜日

2023年9月3日 主日礼拝

招詞 詩編107編20節
賛美 新生讃美歌81番 父なるわが神
祈りの時
主の祈り
献金
聖句  ルカによる福音書4章1~15節
祈祷
宣教  「人はパンだけで生きるものではない」
https://youtu.be/s65g1iwgv8o
祈祷
賛美  新生讃美歌 103番 望みも消えゆくまでに
頌栄  新生讃美歌 673番
祝祷


 わたしたちの人生には誘惑、あるいは試練の時があります。苦しいこと、あるいは悪いことが立て続けに起こるような時もあります。
「なぜこのような苦しみが続けてわたしに起こるのですか。なぜですか?」と疑問に思うような時もあるでしょう。
そのような時、わたしたちは誘惑や試練にどのようにして向き合えばよいのでしょうか。

 今日の箇所はイエス・キリストが荒れ野で悪魔の誘惑に合った場面です。
私たちの主であり神であるイエス様ご自身が悪魔の誘惑に、その苦しい試練にどのように向き合ったのかを学ぶことで、誘惑にわたしたちはどう向き合ったらよいのかを学びたいと思います。

今日の箇所の最初の4章1節に次のように書かれています。
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

今日の箇所の前の章である3章で、イエス様は洗礼(バプテスマ)をお受けになり、そして30歳ぐらいの時に公の宣教活動を始められたことが書かれています。
今日の箇所である第4章はその直後の出来事です。イエス様はバプテスマを受けた直後に悪魔から誘惑を40日に渡ってお受けになったのです。
その40日間の誘惑の間、イエス様は何も食べずにいたので空腹を覚えた、と書かれています。40日間の絶食の後、イエス様は相当な空腹で苦しんでいたはずです。しかしそこで誘惑は終わらず、さらに厳しい悪魔からの攻撃がありました。

悪魔はイエス様に言いました。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。
究極の空腹に苦しむイエス様にとっては、それは大変な誘惑でした。イエス様は神の子ですから、イエス様がそうしようと思えば、その時、石をパンに変えて自分の空腹を満たすこともできたはずです。
事実イエス様は後に、5つのパンと二匹の魚を祝福して祈ることによって増やして、お腹を空かせた5000人の人々をお腹いっぱいにしたことがありました。
ではなぜ、悪魔に誘惑に合われたとき、イエス様は石をパンに変えてご自分の空腹を満たそうとはしなかったのでしょうか。
イエス様はご自分が大変な空腹の状態で苦しかったにも関わらず、自分の苦しみから自分を救うために奇跡を起こそうとはなさいませんでした。
それほどの空腹の中で、悪魔の攻撃(誘惑)に会いながら、なおイエス様は「人はパンだけで生きるものではない」という神の言葉(旧約聖書『申命記』の中の言葉)が真実であることを、私たちに伝えようとなさったのです。

旧約聖書『申命記』8章3節には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と書かれています。
パン=すなわち、私たちが生きるために必要な食べ物はとても重要です。イエス様も「パン(食べ物)など重要ではない」とは決して言っておられないのです。
しかしイエス様は、悪魔の誘惑に対して、“私たち人を本当に生かすものは主なる神であり、そして主なる神の御言葉である”ということを、大変な空腹の苦しみの中から必死に叫ばれたのです。
私たちに絶対必要なパン(食べ物)を与えてくださるのも神なのです。ですから私たちはその神をまず信じ、神に信頼して生きるのです。

私たちは苦しみや疑問の中にあっても、私たちの命の源である神の言葉が私たちを本当に生かす、神が守ってくださる、というイエス様の必死の教え(お言葉)を胸に刻みたいと思います。
 神の言葉によって私たちは生かされている~この信頼と確信によって、私たちは悪魔からのどんなに厳しい誘惑にも立ち向かうことができるのです。
 悪魔は次にイエス様を高く引き上げて、一瞬のうちに世界のすべての国々をイエス様に見せました。そして、“あなたがわたしをおがむなら、この国々の権力と繁栄を、みなあなたにあたえよう”と言いました。
「この国々の一切の権力と繁栄」とは何でしょうか?

それは、“世界を自分の思う通りに支配する”ということでしょう。自分が願う通りに世界を変える、世界の人々が一瞬で自分を信じ(あるいは恐れて)自分の言うことに従うようになる~そのような力です。
これもまた、イエス様がそう望めば、そのような権力を悪魔からもらわなくても、イエス様はそうすることができたでしょう(一瞬で世界を変える)。
しかし、イエス様はそのように、人々(わたしたち)を無理やり支配して、無理やりご自分(神)に従わせようとはなさいませんでした。
そうではなく、イエス様は(すなわち神は)ご自分の御言葉を人々に伝え、それを聞いた人々が御言葉をまた別の人々に伝えることによって、ご自分の(神の)支配が拡がるようにされました。
長い年月がかかっても、人から人へと神の言葉が伝わり、そしてひとり一人が自分から心を開いて神の言葉を聞いて受け入れる。

そして神の言葉に感動をした信仰者が自分の意志で喜びをもって神に仕える~そのようにして神のご支配が拡がっていくように神は望まれたのです。
そしてイエス様は8節で「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。
とお答えになりました。
これは、自分の思いではなく神の御心を第一に求める、という姿勢です。

“権力と繁栄を手にして、自分の思い通りに世界を支配する(あるいは変える)”のではなく、“主なる神のみを拝み、神が望まれることに従おうとする”ということです。
自分が望むことよりも神が望むことを私たちは求めるべきなのです。ひょっとしたら誘惑や試練が苦しい原因は、私たちが自分自身の望みや考えに固執しているからかもしれません。
自分を手放し、神を第一にして、そして同じ信仰の兄弟姉妹同士で祈り合わせることで、自分の思いを越えた神の御心を私たちは知ることができます。みんなで祈って話し合い、神の御心を求めるのです。
その時私たちは“神である主を拝み、ただ主にのみ仕える”という信仰を実践していくことができるようになります。
私たちも教会として、「わたしたちに今、この場所で神から託された教会としての使命は何か、神は私たちの教会に何を望んでおられるのか」ということを共に祈り求めていきましょう。
 悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせ、「『神は天使に命じて、あなたを守らせる』と聖書に書いてあるのだから、ここから飛び降りてみろ」と最後に言いました。
 イエス様は、その誘惑の言葉も、『あなたの神である主を試してはならない』という、神への固い信仰(信頼)を表わす聖書のお言葉をもって、退けました。
イエス様は悪魔の誘惑に対し、聖書の御言葉をもって立ち向かわれました。聖書の御言葉はすなわち神の言葉です。神の言葉は、神ご自身の力を帯びて、悪魔の誘惑(試練)から私たちを守ってくれるのです。
わたしたちも、私たちを守ってくれる、そのような聖書の言葉をできるだけ沢山心に蓄えて、悪の誘惑と試練に立ち向かいたいと願います。

今日の箇所の最後の14~15節を見ますと、イエス様は悪魔の誘惑を退けた後、再び霊に満ちて、生まれ育ったガリラヤにお戻りになりました。
イエス様の評判は周りの地方一帯に広まり、そしてイエス様は諸会堂で教えて、皆から尊敬を受けられた、と書かれています。
神の子であるイエス様ご自身が、人と同じように、空腹という肉体上の大変な苦しみをご経験になって、そのような中で悪魔からの激しい誘惑の攻撃にあいました。
そしてイエス様は、悪魔のその厳しい誘惑に対し、神の御言葉をもって立ち向かわれました。そのようなご経験を通して、イエス様の語る言葉、イエス様のお教えになる言葉は一層力を持って人々に訴えるものになりました。

神の子であるイエス様が、ご自身の大変な試練を通して真実な神の言葉を語るのですから、そのお言葉にはどれほど凄い力があり、人々を圧倒したでしょうか。(そうであったことは間違いありません)
、聖書の御言葉を人に伝える時には、やはり自分自身がその御言葉に感動をしていなくてはなりません。自分自身が感動していない、あるいは信じていない言葉をどうやって真実として人に伝えることができるでしょうか。
 あるいは、私たちが疲れて力を無くし、落ち込んだときや悲しい時に、聖書の言葉が自分を支えてくれた~そんな経験も分かち合うことで、わたしたちは神の言葉の真実を他の人に伝えていくことができます。
私たち自身が信じている、真実の聖書の言葉を、また自分自身が受けた信仰の経験を、自分自身の言葉で私たちは人にも伝えていきたいと願います。そのようにして、神の言葉はたとえ少しずつであっても、世に拡がっていくのです。
イエス様は、聖書の言葉(その時イエス様が知っておられたのは、今の旧約聖書の御言葉)で悪魔の誘惑に対抗しました。
聖書の言葉は悪の誘惑に対抗する力があるのです。聖書の言葉は私たちが経験する試練に立ち向かう力になるのです。なぜなら聖書の言葉は神が私たちに与えられた力(信仰の武器)であるからです。
 私たちは、神の御言葉をもって荒れ野での悪魔の誘惑に立ち向かったイエス様のお姿に倣って、私たちも御言葉によって強められたいと願います。
 神の御言葉によって守られた私たちは、悪魔の誘惑さえも恐れる必要はないのです。神の力が私たちと共にあるのですから、そのことを信じ、神の言葉により頼んで私たちは信仰の日々を歩んでいきたいと願います。

2023年8月26日土曜日

2023年8月27日 主日礼拝

招詞  テサロニケの信徒への手紙二 3章5節
賛美  新生讃美歌 626番 主はいのちを与えませリ
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句  出エジプト記2章1~10節
祈祷
宣教  「水の中からわたしが引き上げた」
https://youtu.be/-pLJyfJ3TxE
祈祷
賛美  新生讃美歌 492番 わが身の望みは
頌栄  新生讃美歌 672番
祝祷


 今日の聖書の箇所は、旧約聖書の『出エジプト記』の中の、モーセが生まれた時の話です。モーセという名は、クリスチャンでない方でもお聞きになったことがあると思います。
エジプトで約400年間奴隷生活を送っていたイスラエルの民を、エジプトから脱出させた時の指導者であり、そして神の言葉を受け取って、それを人々に伝えた預言者がモーセでした。
今日の箇所では、そのモーセがどのような状況の中で生まれたのか、について書かれています。まさに命の危機から救われた、生まれた時のモーセに起きた出来事を通して、私たちは神の守りと恵みについて、聞いていきたいと思います。

 2章1節に「レビ(イスラエルの一部族)の家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった」と書かれています。この二人がモーセの両親です。
 そして次に「彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた」と書かれています。
 なぜその母親は、生まれた男の子を三ヶ月隠しておいたのでしょうか。それは、この時エジプトでは、「ヘブライ人(イスラエル人)たちの数が増えすぎて、エジプトにとって脅威になる」と恐れたエジプト王のファラオが、全国民に「生まれた男の子は一人残らずナイル川にほうり込め」と命じていたからです。
 そのような状況の中で、そのレビ人の夫婦の間に男の子が生まれました。エジプト王の命令に従うならば、その子はナイル川に放り込まれなくてはなりませんでした。

 しかし、母親はそうすることができませんでした。日本語聖書では「その子がかわいかったのを見て、三ヶ月の間隠しておいた」と書かれています。英語訳では、when she saw that he was a fine child (その子が、素敵な子であるのを見て)と訳されています。
 この文は、旧約聖書が書かれた元のヘブライ語では、「彼は美しかったbeautiful(あるいは“良かった”good)」と書かれています。ヘブライ語で“トブtob”という単語がつかわれています。
『創世記』の最初に、神が世界をお造りになった時、神ご自身がお造りになったものを見て、「神はこれを見て、良しとされた」(創世記1章21節)と書かれています。そこで“良し”も、そのヘブライ語“トブtob”という言葉がつかわれています。

 ですから、今日の箇所でモーセの母親が生まれた自分の男の子を見て、「かわいい(美しい)」と思ったというのは、一人の母親がわが子を見て「かわいい」と思う以上の意味が込められています。
 もちろん母親にとって(父親にとっても)生まれた自分の子供はかわいく、美しいものです。いくら王の命令であっても、その子を川に放り込むことなど出来るわけがありません。
しかし、それ以上に、今日の箇所で「その子は良かった」と書かれているのは、人の命は神によって造られ、与えられたものであり、限りなく尊い、ということを私たちに伝えています。
 その子は神が造られたものであるからです。神によって造られた命であるから、私たちひとり一人の命は、限りなく尊いのです。神が見て“トブtob”=“良いgood”と言って下さったのが、私たちであるからです。

 私たちは神が見て“良し(good)”あるいは“美しいbeautiful”と言ってくださった、私たちひとり一人の存在と命を尊びましょう。
自分の命も、また自分以外の他者の命をも、私たちは「神がお造りになって“良し”と言ってくださった」と信仰によって信じて、尊ばなくてはならないのです。
 モーセの母親は、その子がかわいく愛おしいのを見て、三ヶ月の間その子を隠しておきました。でももうそれ以上隠しておけなくなりました。
母親はパピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水して、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。

その時母親はどんな気持ちだったのでしょうか。もうこれ以上隠しておくことができないというギリギリの状況だったのですが、そのように息子を手放す(あるいは捨てる)ことに、大きな悲しみとあるいは罪悪感をも感じたかもしれません。
 しかし私たちはこの箇所を読む時、モーセの母親は、きっと自分にできるだけのことは精一杯して、もうそれ以上自分に出来ることがなくなった時に、自分の息子を神の守りに委ねた、と理解してよいのではないでしょうか。
 母親はいつまでも息子を守ってあげることはできませんでした。しかし、神は必ず自分の子を守り、恵みを与えてくださると、彼女は信じていたのです。
ですから、彼女は決してモーセを捨てたのではなく、神を信じ神の御手に我が子を委ねたのです。

私たちは大切なものや、あるいは大切な人、あるいは自分自身を神に委ねるということができないために、返って苦しむことがあるのではないでしょうか。信仰をもって神に委ねる、ということを私たちは実践していきたいと願います。
 その後、その子の姉(モーセの姉)が遠くに立って、どうなるのだろうかと見ていました。このモーセの姉も重要な役割を果たしています。彼女は、どうなるのかをただ見ていることしかできなかった、と私たちは思うかもしれません。
 自分の手でその子を再び取り上げて母親のところへ戻す、ということは彼女にはできませんでした。彼女にできるのは、ただ遠くから眺めているだけでした。しかし、それでもそれが彼女に出来る精一杯のことでした。
 心配しながら、その子の安全を祈り願って、離れたところから見守る~それも大きな働きです。そのような、姉からの愛の眼差しが、川の中に(葦の茂みの中に)置かれたモーセに注がれていたのです。
 時に私たちも、誰かを離れたところから(離れたところから)見守ることしかできない経験をするかもしれません。

 私の長男が今年の春から就職し、家を離れて遠方で働き始めました。遠くにいますから、今普段の私にできることは、祈り、最善を願って、息子のために祈る、ということです。
 それしか私にはできない、とも言えますが、愛と誠の神を信じ、身近な人のことを神に委ねて祈る、そしてその人を見守ることは、決して意味のないことではありません。私たちの信じる神は、私たちの祈りを必ず聞き届けてくださるお方であるからです。
籠に入れられて川の中に置かれたモーセを遠くから見守る姉の姿は、わたしたちをいつも見守っていてくださる神様をも思い起こさせます。私たちの神は私たちをいつも見守っていてくださるお方です。
詩編121篇5節に次のように書かれています。
主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。

わたしたちを見守ってくださっている主がおられるので、私たちは安心して生きることができます。
わたしたちがどこへ行こうとも、どんな状況にあろうとも、見守っていてくださる主がおられるので、その主に、私たちは愛する人、大切な人を委ねることができます。愛と守りを与えてくださる神に、私たちは感謝をしようではありませんか。
モーセの姉が遠くに立ってどうなるかと見ていると、そこへファラオ(エジプトの王)の王女が川に下りて来て、葦の茂みの間に籠を見つけました。仕え女をやって取ってこさせると、籠のなかには男の子の赤ちゃんがいました。

王女はその子を見て、ふびんに思った(かわいそうに思った)と書かれています。モーセの母親が、生まれた子をみて「かわいい、美しい」と思って、できるだけその子を守ろうとしたように、王女にも赤ん坊をみて、「かわいそう」だと思う感情が湧いたのです。
 この「かわいい」と思う、あるいは「かわいそう」と思う感情も、神が私たち人間に与えてくださった賜物の一つです。感情によって(感情だけではありませんが)、私たちは人を愛し、思いやることができるからです。
王女は「きっとこの子はヘブライ人の子だ」と思い、そう言いました。そこでその子の姉がファラオの王女に「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んでまいりましょう」と言うと、王女は承知しました。
王女は、連れてこられたヘブライ人の乳母(その子の実の母)に、自分に代わってその子に乳をやって育てて欲しい、と依頼しました。そしてその子が大きくなると、なんと王女はその子を自分の子として引き取った、という驚きの出来事が起きたのです。

 王女は彼をモーセと名付けました。それは“引き上げる”という意味のヘブライ語の単語に基づいた名前でした。王女が「水の中からわたしが引き上げたかのですから」と言って、その子がモーセと名付けられたのです。
 確かに、水の中からモーセを引き上げたのはエジプトの王女でしたが、彼女を通して奇跡的にモーセの命を救ったお方は、主なる神です。
神が、色々な人たち(モーセの母、妹、エジプトの王女、彼女の仕え女:全員女性)を用いて、モーセの命を守り、救ったのです。
 そのようにして神の守りの御手がモーセを水から引き上げてくださったように、私たちにも、私たちが危機や苦難に陥る時、そこから引き上げて助けてくださる神がおられます。
そして神はいつも私たちを守っていてくださいます。神が私たちを守ってくださる~そのことをなぜわたしたちは確信できるのでしょうか。
それは私たちの主イエス・キリストが天の父なる神に、わたしたちを守って下さいとお願いしてくださっていることからも、私たちはそう信じることができます。
 ヨハネによる福音書17章で、イエス様が十字架に掛けられる前、弟子たちのために祈っておられます。そこでのイエス様の祈りは、今も私たち全ての者へ向けられた祈りなのです。その祈りをお読みします。

ヨハネ17章11節
 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

 「わたしに与えてくださった御名(*神の名)によって彼らを守ってください」~イエス様のこの祈りの言葉が、私たちを神がいつも守ってくださっていると、約束しています。
私たちは聖書の言葉によって、イエス・キリストのそのお言葉によって、今も私たちを守ってくださっている、守り導いて下さっている神を信じることができます。
私たちをいつも守り、危機の中から救い、引き上げてくださる、そのような主なる神が確かにおられることを信じ、私たち今週の日々も歩んでまいりましょう。

2023年8月19日土曜日

2023年8月20日 主日礼拝

招詞  イザヤ書58章11節
賛美  新生讃美歌80番 父の神 われらたたえる
主の祈り
献金
聖句  ルカによる福音書3章23~38節
祈祷
宣教  「イエス様による宣教の始まり」
https://youtu.be/srX5_klNX2s
祈祷
賛美  新生讃美歌 230番 丘の上にたてる十字架
頌栄  新生讃美歌 672番
祝祷


今お読みいただいた、今日の聖書の箇所には、イエス・キリストの系図が記されています。イエス・キリストの地上での父親であるヨセフからさかのぼり、最初の人であるアダム、そして神に至る系図が、ここに記されています。
マタイによる福音書の1章にも、イエス・キリストの系図が書かれています。しかし、マタイ福音書の系図は、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉で始まり、アブラハムから始まってイエス様へ至る(古い時代から新しい時代という順番による)系図となっています。
マタイ福音書のその系図は、イエス・キリストが、ユダヤ人たちが自分たちの偉大な祖先として敬っていたアブラハム(信仰の父と言われた)、そして偉大なダビデ王の系図につらなる者だということを示していました。

しかし、マタイ福音書のその系図は、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」(マタイ1章6節)という記録も記しています。
それは旧約聖書『サムエル記下』11章に記されている出来事のことです。王となったダビデは、バト・シェバという美しい女性と関係を持ちました。
バト・シェバにはウリヤという夫がいました。それにもかかわらずダビデはバト・シェバと関係を持ち、バト・シェバはダビデの子を宿しました。
ダビデは、自分とバト・シェバが関係を持ち、バト・シェバが彼の子を宿したことを隠蔽しようとして、戦場にいた兵士ウリヤ(バト・シェバの夫)を呼び戻しました。
ダビデはウリヤを自分の家(バト・シェバのところ)へ帰そうとしますが、ウリヤは自分の主人や仲間が戦っている時に、自分だけが家に帰って飲み食いしたり、妻と寝たりすることはできません、と言って家に帰ろうとしませんでした。
結局ダビデは、軍の司令官だったヨアブに「ウリヤを戦の最前線に置いて、彼を残して退却して、ウリヤを戦死させよ」と命じました。そしてウリヤは戦死しました(はっきり言えば、ウリヤはダビデによって殺されたと言ってよいでしょう)。
そしてダビデはバト・シェバを自分の妻としました。ダビデは、忠実な兵士であった男の命を奪ってまでも、自分の罪を隠そうとし、そして彼の妻であった美しい女性を自分の妻としたのです。
ダビデの妻となったバト・シェバが最初に産んだ子は、早く死んでしまいました。その後にバト・シェバとダビデの間に生まれたのがソロモンでした。(ソロモンはダビデについで王様となり、莫大な財力を持ち、エルサレムの神殿を完成させました)
マタイ福音書の系図は、「ダビデが罪を犯した」とは言っていません。しかし、その系図は「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」という記録を通して、偉大と言われたダビデ王も、人として大きな罪を犯したという事実をはっきりと伝えているのです。
そのような罪を抱えた人間の系図の中に、全く罪をもたなかった神の子であるイエス・キリストが、ヨセフとマリアの子として(彼ら二人の男女の関係によってではなく、聖霊を通して)生まれて来たのです。

マタイ福音書の系図がアブラハムから始まって、新しい世代順に書かれているのとは違って、ルカ福音書3章の系図は、イエス様から始まって、古い世代へ遡る順番で書かれています。
またダビデの次の名前がソロモンではなく、ダビデの別の息子のナタンの系図になっていて、マタイ福音書の系図の名前とは違っている部分もあります。
その違いについては、色々な解釈や説明が試みられていますが、明確な答えはないようです。

ですから私たちは、これらの系図に厳密な歴史的事実(正確な名前の列挙など)を読み取ろうとするよりも、神の子であり主であるイエス・キリストが、確かに人の世の歴史の中に生まれてこられた、という中心的な真実を、まず受け取ることが重要だと思います。
今日の箇所の最初(23節)に、「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた」と書かれています。
30歳という年齢の意味するところは何でしょうか?旧約聖書の『民数記』4章の3節には、”臨在の幕屋(神様が現れてモーセに語られた場所)で作業に従事することのできるのは三十歳以上五十歳以下の者”と書かれています。
 当時のしきたりで、三十歳ぐらいにならなければ、神に仕える仕事をすることはできない、と定められていたのです。人間的にもそれぐらいの年齢を重ねることによって得られる経験も、神に仕えるために必要なものと考えられていたのかもしれません。
 イエス様も当時のそのような定め(しきたり)に従う形で、父親のヨセフの仕事(大工)も学びながら、人として生きることの辛さ、大変さ、悲しみ、また喜び、楽しみもご経験されながら、やがて公に宣教活動をする時のために備えておられたのです。
 ひょっとしたらイエス様は、できればもっと早く公の宣教活動を始めたい、と思っておられたかもしれません。

もっと若い時から、早く宣教活動を始めれば、もっと沢山の人に神の国を伝えて、多くの人の病を癒したり、多くの人を罪から救うことができたでしょう。
しかしイエス様も、人として、ある程度の期間(年月)をかけて学び、人生の経験も積むことにより、それから先の大きな使命を果たすことに備えるという時を過ごされたのだと私は想像します。
私たちも、やはり何かを成そうとすれば、それなりの準備、学び、経験を時間をかけて積むことが必要な場合があります。
技術や経験はすぐに身につくものではありません。時間をかけた地道な努力を続けることは辛い時もあります。しかし、そのように時間をかけて得たものである経験や技術ほど、後になって自分自身に本当に役立つものになります。
学生の皆さんや、新しく仕事を初めて間もない方々など、将来の夢や目標に向かって何かを準備されている方、そのために必要な経験や技術の習得の過程におられる方がおられましたら、皆さんの地道な努力はきっと報われると信じ、希望を持っていただきたいと願います。
あるいは、「今やっていることの意味や意義が分からない」と悩んでおられる方もおられるかもしれません。しかし、今ご自分が置かれた場で、誠実に与えられた務めをなさっていることは、決して無駄になることはないと信じていただいてよいと思います。

そして「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」という一文から私たちが教えらえるもう一つのことは、「神が私たちに備えられた時(タイミング)がある」ということです。
”その時”が来たら、その時には私たちは信仰による勇気をもって立ち上がるのです。そのように神様から信仰によって促されるのです。
それは新たに神様を信じる、という信仰の決断であるかもしれません。また新しいことを始める、あるいは今までそのために準備してきたことを実行に移す時であるかもしれません。
「いまがその時だ」という確信、信仰による促しが与えられた時には、私たちは勇気をもって立ち上がるのです。
私自身の経験を語らせて頂ければ、私が会社員としての生活を辞めて、牧師になるために神学部に入学すると決めた時には、そのような信仰による促しが確かに私には与えられました。
そしてその決断は私一人による決断ではありませんでした。家族や、また何よりも同じ教会に連なる信仰の兄弟姉妹たちの思いと祈りに支えられ、神の御心が教会全体の思いとなって私の心を押してくれたと私は信じています。
年齢で言えば、私はその時ちょうど40歳でした。(ちなみに、”30歳から50歳まで”という旧約の定めに従えば、私はもう牧師を引退していなくてはなりません!)
もう少し早く決断できていればよかったかな、とわたしは思う時もあったと思いますが、やはりそれが神が備えてくださった私にとっての一番のタイミングであったのだろうと、私は信じます。

何が神の御心であるのか、神が定めたタイミング(時)がいつであるのか、それを完全に知ることはわたしたちには出来ないかもしれません。
そうであっても、神の御心を少しでも知るために、また神の定めた時を知り、それに従って大切な決断ができるように、私たちは心合わせて(心を開いて)共に祈り合わせる、共に御言葉を読み分かち合う、教会での信仰生活を大切にしていきたいと願います。
 イエス様は三十歳にして、公の宣教活動を始められました。イエス様にとってもそれは大きな決断、そして勇気を要する決断であったと思います。
 しかしイエス様は神の子でした。人間としてはヨセフを父親として、ヨセフからもイエス様は色々なこと(大工としての仕事と技術なども)を学んだはずです。そのように、イエス様も私たちと同様に生きられました。
 しかしイエス様は神の子でした。イエス様は神と等しいお方であったということです。今日の箇所の系図の最後は「~アダム、そして神に至る」という文で終わっています。
 この最後の「そして神に至る」という点も、マタイ福音書の系図とは大きく異なる点です。
ルカ福音書のこの系図は、イエス様が人間の歴史に連なり、人として生まれて人として生きられた証しであると同時に、イエス様が神の子とであり、特別な使命を負って生まれて来られたお方であることを証ししているのです。
人として生き、学び、人生の様々な経験をして、そしてイエス様は当時のしきたりにも従って、およそ三十歳になって神に仕える公の活動を開始されました。
その大きな決定的な決断(公の伝道活動の開始)を、神の子として、神の愛と人(家族)からの愛も受けながら、イエス様はなさったのです。
私たちも時に、自分の人生の中で重要な、(時に難しい)決断をしなくてはならない時があります。
そのような時に、神を信じ、神に繋がることで、そして神の宮、イエス・キリストの体である教会に連なることで、私たちは自分たちが下す決定に大きな支えを頂くことができます。

私たちは人間ですから、神の御心を知ることができず、あるいは御心に従うことができず、間違いを犯すこともあります。ですから、いつも神に立ち返る悔い改めの姿勢が私たちには必要です。
しかし同時に、私たちの日々の歩みに、また日常の決断の中にも、神が人となり、今は霊として私たちと共にいてくださるイエス・キリストが、おられます。ですから私たちは安心してよいのです。
私たちは、イエス・キリストと共に真の平安のうちに生きていきましょう。またイエス様が始められ、今もその働きを続けておられる神の国の宣教、福音宣教の働きにも、信仰者として仕えて行きたいと願います。