2023年11月25日土曜日

2023年11月26日 主日礼拝

招詞  詩編40-篇9節
賛美  新生讃美歌650番 喜びて主に仕えよ
主の祈り 
主の晩餐
世界バプテスト祈祷週間を覚えて
献金
聖句 ルカによる福音書4章42~44節
祈祷
宣教 「ほかの町にも神の国を告げ知らせなければならない」
祈祷
賛美  新生讃美歌 379番 行きて告げよあまねく
頌栄  新生讃美歌679番
祝祷

 今日からの一週間(11月26日~12月3日)は、「世界バプテスト祈祷週間」です。
世界バプテスト祈祷週間では、私たちの教会が加盟している日本バプテスト連盟(Japan Baptist Convention)の日本バプテスト女性連合(Japan Baptist Women’s Union)が推進している国内外の様々な宣教の働きについて特に覚え、祈りと献金を献げます。
 イエス・キリストにより、神の国の福音(良い知らせ)が私たちの世界に知らされて以来、多くのキリスト者たちが福音を世に伝えることを自分の使命として、宣教の働きに仕えてきました。
  神からの召しを受けた多くの伝道者たちが、自分の故郷や住む場所を遠く離れて各地へ、時には外国の地にまで出かけて行き、イエス・キリストの福音を伝える宣教の働きに仕えてきたのです。
  そして福音宣教に仕える宣教師たちの働きの背後には、彼ら彼女らを祈りと献げ物によって支える多くの信仰者たちがいました。

今も、宣教の働きに仕えている宣教師たちが各地に沢山おられます。私たちは福音宣教に従事する宣教師たちの働きを覚え、感謝と祈り、そして献げものにより、宣教師の方々を支えたいと願います。
「世界バプテスト祈祷週間」という名前から、わたしたちは“この一週間が、まず祈りを(特別な祈りを)捧げるための一週間である”ということを確認したいと思います。
 私たちが献金を捧げることも大切です。しかし福音宣教の働きも、その全てはまず祈りによって始めなければならないということです。
 宣教のために神に祈るとは、「神の御心が先にあり、神の御心に従って行きます」という私たち信仰者の決心を改めて表すことでもあります。

今日の聖書箇所では、イエス様を自分たちのそばに引き留めようとする人々と、彼らの願いに反して、宣教のために別の場所へと出て行かれるイエス様の姿が描かれています。
この箇所から、神の御心に従い、福音宣教の働きに仕えること、その働きを支えることについて、私たちは聞いていきたいと願います。
今日の箇所の初めに、イエス様は朝になって「人里離れた所へ出て行かれた」と書かれています。
マルコ福音書での、この箇所と同じ出来事を記している箇所には、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」と書かれています(マルコ1:35節)
 イエス様は、新しい一日を祈りによって始めておられたのです。イエス様は祈ることで、(人里離れた所で、静かに父なる神と二人になり)神と親密な時を過ごし、霊による力と励ましをお受けになっていたのです。

 神の御子イエス様も、一日の宣教活動を祈りをもって始めておられたということです。そうであれば、わたしたちキリスト者は、なおさら、何をするにしても、初めに祈りをもって始めることの大切さを教えられます。
それは「私たちは祈らなければならない」という義務的な行為ではなく、「祈りなくしては、大切なことを始めることができない」という信仰者としての自然な生き方です。
神に祈ることが、「大切なことはいつも、神への祈りをもって始めたい」という信仰から来る純粋な希望となるようにと私たちは願います。

そして私たちは祈ることで、「この働きは、神が率先し神が導いてくださるのだ」という確信をも頂いていきたいと願います。
 そしてイエス様が、朝に人里離れたところで祈っておられたのは、ご自身が父なる神から力と励ましを受けるためであったと同時に、イエス様は人々のために、父なる神に執り成しの祈りをするためでもありました。
  主イエス・キリストは、今でも私たちのために、神と私たちの間を執り成して下さる(仲介してくださる)お方です。

 ローマの信徒への手紙8章34節に以下のように書かれています。
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 わたしたち人は、生まれながらに神に反する罪を犯しているので(それが聖書が伝える真実です)、そのままの状態ではだれも神に近づいたり、神に祈ったりすることができません。
  しかし復活のイエス・キリストが今も、父なる神の右に座して、わたしたちのために執り成してくださっており、執り成しの祈りを捧げてくださっているのです。
  ですから私たちは、キリストの十字架によって罪赦された者として、キリストを通して神に近づくことができます。イエス様の名によって、天の父なる神に私たちは何でも祈ることができるのです。
  私たちは、自分のことと他者のことについても、願うことを何でも神に祈ることができます。
 イエス・キリストが私たちと神の間にお立ちくださり、私たちの祈りを神の御前に届けてくださっているからです。そのように神と私たちの間にいて、執り成してくださっているイエス様に感謝を捧げたいと願います。

 群衆(人々)は、イエス様を捜してイエス様のもとへやってきました。そして彼らは「自分たちから離れて行かないように」と、しきりに(イエス様を)ひきとめた、と書かれています。
 イエス様にそのように(自分たちから離れて行かないようにと)願った人たちの気持ちは、私たちにも理解できるものだと私は思います。
  イエス様に、自分たちから離れて行かないようにと願った人たちは、イエス様が大勢の病を抱えた人たちを癒す姿を見ていました。そんなすごい人がずっと自分たちと一緒にいてくれたら、もう安心だ、と人々は思ったのでしょう。
  私たちも、もしイエス様が今わたしたちの目の前に現れて、奇跡的な業を色々と見せてくださったら、「私たちから離れて行かないでください」としきりに願うだろうと私は思います。
 しかしイエス様は、そのように願う人々に、お答えになりました。
 「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」

そうしてイエス様は出て行かれ、ユダヤの諸会堂で宣教されました。イエス様は一つ所に留まることなく、色々な場所で宣教をされたのです。
イエス様は、“そうすることが自分の願いだから”というのではなく、“わたしはそのために遣わされたのだから”と言って、他の町へと出て行かれました。
イエス様は、ご自分をお遣わしになった天の父なる神のみ旨に従って生きることを第一としていたのです。
イエス様は私たちにも、神の御心を祈り求めて、神の御心に従って歩む生き方をするようにという励ましと導きを、今も与えてくださっています。

私たちには色々な願いや望みがあります。しかし私たちは人間であり全てを見通すことはできないので、私たちが持つ願いや望みが、私たちにとって実は良くないことである(あるいは、最善ではない)可能性もあります。
ですから、私たちの願いや望みよりも、神の御心を求めて、そして神が私たちに望まれる道を進み歩んでいくことができるように、私たちは祈り求めていかなくてはなりません。
 イエス様は、“神の国の福音を他の町にも告げ知らせなくてはならない、なぜならそれが天の父なる神がご自分をお遣わしになった理由であるから”という確信をもって、宣教の働きを続けられました。
  “ずっとそばにいて頂きたい”という人々の願いと心もイエス様は十分に理解されたでしょう。しかし、イエス様にとって、“神の国の福音が多くの人々に告げ知らされる”と言う神から与えられた使命が第一だったのです。
 私たちも、私たちがいる場所からは離れた場所、遠くの人たちのことも覚え、またその遠くの人たちの間で、神の国の福音宣教の働きに仕えている人たちを覚えて、祈りと献げ物をお捧げしたいと願います。

 わたしは最初アメリカの教会でイエス・キリストを知り、教会へと繋がりました。私がアメリカで導かれた教会はアメリカの南部バプテスト連盟(Southern Baptist Convention)という宣教団体に加盟するバプテスト教会でした。
私が日本に帰国する時、私が通っていたそのバプテスト教会の方々が、私の出身地である日本の名古屋にも、南部バプテスト連盟から派遣された宣教師がいることを調べて教えてくださいました。
私は名古屋に帰ってから、その宣教師の方々にお会いすることができました。その方々は、私の母教会となった名古屋教会と深いかかわりを持って、奉仕をしておられました。
 私はそれから牧師として仕えています今に至るまでに、何人かの元宣教師の方々と連絡をする機会を持つことができました。
 その中の一人である、わたしの出身教会(名古屋バプテスト教会)と関わりの深かった故アーネスト・ハロウェイ宣教師からは、名古屋教会に関する大変貴重なお話もお伺いすることができました。
  それは、アメリカの教会で伝道集会が持たれ(おそらく1950年頃でしょう)、その時にあつまった献金が原資となって、今名古屋教会が立っている土地の購入がなされた、というお話でした。
  “日本の一都市に教会が立てられて、そこからイエス様の福音が日本の人々に告げ知らされていくこと”を覚えて祈り、そして実際に献げ物を捧げてくださった多くの方々がおられたということに、私は大変感銘を受けました。
 私はもちろんお会いしたこともなく、そのお顔もお名前も知らない、本当に多くの方々が、わたしの出身地での宣教のために遠くアメリカの一地方から祈りを捧げ、尊い献金も献げてくださったことを思うと、感謝せずにいられません。
  その方々が遠く海外での福音宣教の働きにまで思いを馳せることができたのは、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせねばならない」と言われたイエス様の御心が、まさに自分自身の想いと願いとになったからでしょう。
  ここ大分の地でも、福音宣教の働きに生涯を捧げた海外からの宣教師の方々の多くの献身的な働きがありました。私たち別府国際バプテスト教会も、そのような宣教の働きが土台となって生まれたと言ってもよいと思います。

  私たちはまず祈りをもって、そして実際の献げ物をもって、遠くの地での宣教の働きをも支えることができます。
 イエス・キリストの神の国の福音が、多くの人々へ、多くの国々へと告げ知らされる、キリストの希望がまだキリストを知らない人々に届けられる働きに、私たちも繋がることが出来るのです。
「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」~イエス様の、このお言葉を私たち自身の使命ともして、福音宣教の働きに私たちも喜びをもって仕えて参りましょう。

2023年11月18日土曜日

2023年11月19日 主日礼拝

招詞  詩編86篇12~13節
賛美  新生讃美歌 125番 造られしものよ
主の祈り
献金
聖句  コリントの信徒への手紙二 1章3~11節
祈祷
宣教  「死者を復活させてくださる神を頼りにする」
祈祷
賛美  新生讃美歌 19番 くすしき主の愛
頌栄  新生讃美歌 679番
祝祷

 今日もこうして、私たちが共に神を礼拝することができることを、私たちは感謝いたします。私たちは神を礼拝するために、こうして集まっています。
 それは神が私たちを今日も呼び集めてくださったので、私たちは聖霊なる神の呼びかけに応えて、こうして集まることができているのです。
 私たちをイエス・キリストへの信仰によって結び付けてくださる主なる神に大きな感謝をお捧げしましょう。
 今日私たちに与えられた聖書箇所である新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』1章3節~の初めの3節に次のように書かれています。

3わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。

 この言葉(ほぼ同じ言葉)は、『エフェソの信徒への手紙』の初め(エフェソ1章3節)にも、『ペトロの手紙一』の初め(1ペトロ1章3節)にも書かれています。
この言葉が、そのように聖書の他の箇所にも出てくるということは、信仰者として私たちが「神をほめたたえる」ということがいかに大切であるかを表しています。
そして聖書がこのように何箇所かで「神がほめたたえられますように」と言っているのは、わたしたち人は、信仰があると言いながらも、神を褒めたたえることをしなかったり、怠ったり、忘れたりすることも多いという事実をも表しています。

なぜなら、私たちには自分中心という罪、神の栄光さえも自分のものとしたい、という罪深い性質、欲があるからです。
「私たちの主イエス・キリストの父である神が褒めたたえられますように」、「神が褒めたたえられるように」と言いながら、実は自分自身が褒めたたえられることを願い、自分が人から評価されますようにと願っていることがないでしょうか?
人から愛されたい、人に認められたい、そのような願いばかりが大きくなると、私たちの心は神から離れて行きます。
自分中心の生き方に留まるならば、私たちは神の恵みに目を留めることができず、そして神をほめたたえることをしなくなり、神を褒めたたえることのできる喜びからも遠ざかってしまうことになってしまいます。

わたしたちは心から神を褒めたたえているでしょうか?教会の集会に参加することにより、また教会の一員となることが、神をほめたたえるという信仰に繋がっているでしょうか?
教会がイエス・キリストの恵みで本当に溢れているならば、そのような教会に集うことはわたしたちにとって大きな喜び、力となるはずです。神の恵みで溢れた教会には喜びと力が溢れます。
そしてそのような教会につながることで信仰の喜び、力をいただいているのならば、わたしたちはその時心から神を賛美し、褒めたたえる者になるはずです。
 私たちは「神こそが、唯一褒めたたえられるべきお方」と心から言えるように、そして私たちは心からの信仰の願いとして「真の神を褒めたたえたい」という純粋な願いに満たされていきたいと願います。

 なぜ神は、それほどまでに褒めたたえられるべきお方なのでしょうか。それは今日の聖書箇所に何度もでてくるように、私たちは神から豊かな「慰めcomfort」を頂くからです。
 今日の箇所の前半部分(3~7節)の中には、慰め comfortという言葉が何度も出てきます。神は私たちに慰めを与えてくださるお方です。
  私たちが生きる上では苦難、困難が必ずあります。人それぞれに、いろいろな苦難があります。苦難に会うとき、苦しみと悲しみの中にある時、私たちには慰めが必要です。私たちには神の慰めが必要です。
 私たちは神からの慰めを頂くことで、苦しみ悲しみが伴う人生を生きることができます。神の慰めを頂きながら、生きる上での困難の只中にあっても、神と共に歩き続けるようにと、私たちは神によって招かれているのです。
 イエス・キリストが十字架の上(その死によって)で負われたのは、私たちすべての者の痛みと苦難、そして私たちの罪でした。

 キリストがそのように十字架の上で全てを(あらゆる苦難をも)負ってくださったので、イエス・キリストはあらゆる苦難に際して、わたしたちを慰めることがお出来になります。
キリスト教の歴史とは、神によって深い悲しみと痛みを慰められて来た人たち、そのような経験を許され、神による癒しと慰めを告白してきた人たちの歴史とも言えます。
 「神様がいかに優しく、愛に溢れ、慰めを与えてくださったか」を信仰によって知らされ信じた人々が、その信仰を告白し証しすることで、キリスト教の信仰は受け継がれてきたのです。
  私たちが教会で神の言葉を共に聴くのは、神の慰めを私たちが共に頂く、ということでもあります。真の慰め主が私たちと共におられる、ということを礼拝を通して私たちは確信していくのです。
  私たちには、苦難、困難、悲しみの中にあっても、私たちの魂と心の中から慰めを与えて下さる神がおられる~そのことを私たちはますます知っていきたいと願います。

そして、そのような神の慰め(真の神の慰め)を私たちが頂くとき、それはそれを頂いた私たちだけの慰めには留まらないのです。

今日の箇所の4節、そして6節をお読みします。

4神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
 6わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。

 私たちが神によって慰めを頂くと、その慰めは私たち以外の人たちへの慰めにもなるというのです。
 イエス・キリストの神による慰めを私たち自身が本当に頂いたのならば、私たちはその慰めをもって、自分以外の他者をも慰めることができるのです。
 試練や苦難は、それを経験する人自身を、わたしたちを成長させることがあります。試練は信仰成長の原動力ともなります。
そしてキリスト者にとって、苦難の中で成長するということは、苦難の中で共にいてくださる神の力を頂くことを知るということです。

苦難の中にも神の変わらぬ慰めがあり、神に慰めていただくその経験を通して、神によって私たちは強くもなるのです。
私たちが自分自身の力で強くなるのではなく、神によって私たちは強くなれるのです。
キリスト者にとっての信仰の成長とは、共にいてくださる神にますますより頼んで、神の愛の慰めに満たされることを知っていく過程です。
そのような神の慰めを頂いた私たちは、神から頂くその慰めをもって、自分以外の他者をも慰めることができるようになるのです。神の慰めが、私たちと私たちの教会を通しても豊かに広がっていくのです。

8節で、この手紙を書いたパウロが、彼自身が経験した苦難について言及しています。

8兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。

「アジア州でわたしたちが被った苦難」とパウロが言っているのが、具体的にどのような困難を指すのかは、よく分かりません。
パウロは各地を伝道する際に、色々な苦難と命の危険にさえも会っています。キリストの福音を伝道することに伴う迫害などによる苦難の数々が、ここで言及されているのだろうと思われます。
パウロが経験したその苦難は、彼が“生きる望みさえ失う”ほどのものでした。そして9節の言葉が続いて書かれます。

9わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。

 パウロが経験した苦難は、生きる望みを失い死の宣告を受けたと彼が感じたほどに大きな苦難でした。
 普通ならば「死の宣告を受けた」と、それほどに感じた時点で私たちは“もう駄目だ”と思ってしまうでしょう。私たちは、大抵のことはその時点で諦めてしまうでしょう。
 しかし、神から頂く慰め、神にある望みを頂く者にとっては、それほどの苦難が逆に新たな出発点となるのです。
生きる望みを失い、死の宣告を受けたと感じるほどの苦難が、生き方を神にあって大きく変えられる転換点となるのです。

 なぜなら「もう自分の力ではどうにもならない」という境遇に置かれることで、「死者を復活させてくださる神を頼りにするように」なることを私たちは知るからです。
  この私が何かをするのではなく、主イエス・キリストを十字架の死から復活させてくださった神がなさる、ということをその時私たちは知るのです。
ですから、“もう駄目ではないか”、”私にできることは何もない”と思った時、私たちは神に近づこうではありませんか。
自分を頼ることを止め、キリストを通してあらゆることを新しくしてくださった、命の源である神に立ち返ろうではありませんか。
 自分を褒めたたえるのではなく、すべての栄光を神にお返しすることを願い、神を褒めたたえるようになること、それがキリストにある信仰です。

 苦難の中にあっても、常に真の慰めをくださる神の慰めを頂くことを知ること、そして神からいただく慰めをもって、自分以外の他者をも慰めることが出来ることを知る、それがキリストにある信仰です。
 神から頂く真の慰めによって、私たちがお互いに思いやり合い、神の慰めを分かち合うことができる、そのような神の愛が溢れる教会に私たちはなっていきたいと願います。
 そして自分自身を頼りにするのではなく、死者を復活させてくださった、つまり、あらゆる恥と侮辱にまみれて十字架の上で死なれたお方(イエス様)を、全ての者の慰め主、救い主として復活させてくださった神を頼りにすることを知る、それが私たちの信仰です。
 愛に溢れ、慰めを豊かにくださる私たちの神に、ただ神のみが私たちの間であがめられ、ほめたたえられますようにと、私たちは願いつつ信仰の日々をこれからも共に歩んでいきましょう。

2023年11月11日土曜日

2023年11月12日 主日礼拝

招詞 歴代誌上29章12節
賛美 新生讃美歌 260番 み言葉もて霊の火を
主の祈り
献金
聖句 ルカによる福音書4章38~41節
祈祷
宣教  イエスは一人一人に手を置いて
祈祷
賛美 新生讃美歌 550番 ひとたびは死にし身も
頌栄 新生讃美歌 679番
祝祷


 『ルカによる福音書』を私たちは最初からすべての節を通して少しずつ読みながら、この福音書を通して私たちに語られる神のメッセージを聞いています。
 ルカ福音書4章はイエス様が荒れ野で悪魔から誘惑を受ける場面で始まっています。イエス様は悪魔から次のような誘惑をお受けになりました。
 「石にパンになるように命令してみろ」、「わたし(悪魔)を拝め。そうすれば世界のすべての権力と繁栄はあなたのものになる」、「神殿の屋根から飛び降りて、神に救ってもらえ」
 イエス様は悪魔のそれらの誘惑を聖書の言葉、すなわち神の言葉を用いることで、退けました。
 悪魔の誘惑の意図は次のようなことでした。
“誰の目にもすぐに分かるような、派手な方法で、伝道しなさい。いつもお腹が満たされるとか、権力や成功が手に入るとか、怪我や病気をすることも一切ないとか~神を信じればそういうことが可能になる~そう人々に伝えたらどうだ”。

 しかしイエス様は、それらが神の恵みの本質ではない、ということをもちろん知っておられました。
神の子であるご自分のご使命は、みんながびっくりするような、またとても魅力的で奇跡的な行いによって、人々の関心や興味を一時的にひきつけることではない、とイエス様は確信しておられたのです。
そうではなく、イエス様は神の言葉、御言葉を人々に伝えるために、この世界に来られました。一時的な楽しみや満足でなく、神の言葉を通して与えられる永遠の命、永遠の平安をイエス様は人々に伝えるために、世に来られたのです。
そしてイエス様ご自身が神の言葉を成就するお方であることを、その生き方と言葉の両方で、イエス様はお示しになりました。
イエス様は悪魔の誘惑を受けるとすぐに、色々な会堂でお教えになりました。イエス様は安息日(当時のユダヤ教の安息日は土曜日)には会堂へ行き、集会(礼拝)に参加し、そこで聖書の言葉をお教えになりました。

 神の言葉、すなわち御言葉こそが、わたしたちを生かすのです。神の言葉が、わたしたちが困難や試練の中にあっても耐えて生きることのできる力と慰めを与えてくれます。

 ヨハネによる福音書6章63節でイエス様は次のように言っておられます。

 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

イエス様が話した言葉は霊であり、命なのです。神の言葉には、神のご愛と恵み、憐みが込められています。
イエス様の言葉には、イエス様の御生涯を通して示された神の愛、私たち人間の罪を赦してくださった神の憐み、神の優しさの全てが込められています。
イエス様が人として生きられた時代から約2000年を経た今を生きる私たちにとっては、神の言葉が世界中の多くの人々に生きる力と希望を与え、人々が生きることの意義を御言葉の中に見いだしてきたという、その長い信仰の歴史も与えられています。
わたしたちの教会も、神の言葉に生かされて生きる信仰者の群れとして、信仰者の歴史に連なる群れの一つとして、神の言葉が代々にわたって伝えられていく働きに仕えているのです。
私たちが神の言葉を聞き、神の言葉を分かち合い、神の言葉を生きるとき、その度毎に神の言葉が私たちを通して、新しく生きた言葉となり続けています。

神の御言葉が私たちを通して生き生きとしたものになる、そのことも私たちは信仰の喜びとして実感していきたいと願います。
 イエス様は会堂で人々を教えられた後、今日の聖書箇所の場面の中で、シモンの家にお入りになりました。
 シモンとは後にイエス様の弟子となり、ペトロ(“岩”を意味する名前)という新しい名前をイエス様から頂いた、あのペトロです。
イエス様は会堂で人々を教えられた後、大変お疲れになっていたのではないかと私は想像します。宣教者が御言葉を語るには、大変なエネルギーを要するからです。
会堂で人々をお教えになった後イエス様は、すぐにでもお休みになりたかったのではないかと私は想像します。しかし、イエス様は休むことなくそのお働きを続けられたのです。

そこでイエス様は、会堂で神の言葉を多くの人々に語るという働きから、今度はシモンという個人の家に入っていき、そこで個別の伝道をする、というお働きをされました。
私も牧師として、機会があるごとに、皆さんと個別に交わったり、許されればお家を訪問させていただくことがありますが、それは私にとっても大変嬉しいことです。
礼拝や祈祷会でこうして講壇から公に語ること以外に、個人的な繋がりや交わりを通しても、牧師と信徒としての、またそれ以前に同じイエス・キリストを信じる同信の友としての関係を作っていきたいと私は願っています。

そして、シモンがイエス様を自分の家に迎え入れたように、私たちもぜひ私たちの自宅という私的な(プライベートな)領域にも、主であるイエス様をお迎えしたいと願うのです。
ひょっとしたら信仰者であっても、「ここは私の私的な(自分だけでの)領域ですから、イエス様(神様)であってもここには入ってこないでください」と私たちは思ってしまっていないでしょうか。
そうではなく、私たちは、私たち自身のあらゆる生の領域の中に、イエス様に入ってきていただき、全てのことにおいてイエス様の導きに従って歩む者でありたいと願います。
イエス様に私たち一人一人の中に、私たちが日々生活するその場、家の中にも入ってきていただき、いついかなる時もイエス様と共にいるという安心と喜びの中で、私たちは生きていきましょう。
 イエス様が入って行かれたシモンの家には、シモンのしゅうとめ(シモンの妻の母親)がいて、彼女が髙い熱に苦しんでいました。
 シモン(ペトロ)はイエス様の12弟子の一人になりました。ペトロに限らず、弟子たちに関する個人的な背景や彼らの家庭環境などは、聖書にはあまり(ほとんど)記されていません。
 しかしペトロについて、少なくとも今日の箇所から分かることは、彼は結婚していて自分の家(あるいは妻の家だったかもしれません)には妻の母親が同居していたということです。

ですから、今日の箇所は、シモン(ペトロ)という聖書中の重要人物が、今の私たちにも大変身近に感じられる場面だと言えると私は思います。
 そこで人々(シモンの家族たちのことでしょう)は彼女(シモンのしゅうとめ)のことをイエス様に頼みました。“高い熱で苦しむ彼女を癒してください”と人々はイエス様に頼んだのです。
 イエス様がシモンの妻の母の、その枕元に立ち、熱を𠮟りつけると、熱は去りました。彼女の病気は癒されたのです。
 イエス様は、人であると同時に、命の源である神でもありましたから、人の病気を癒す力をお持ちでした。そのイエス様が命じられたので、シモンのしゅうとめから熱は出て行ったのです。
 これは、今も私たちが祈ればどんな病気も必ず治る、ということではありません。もし、神がそう意図されるのならば、病気は治ります。

しかし、もし神に別のご計画があるのであれば、私たちが祈っても、私たちが願った通りにはならないこともあります。
 しかし神は私たちの思いと願いを越えて、はるかに偉大なご計画をお持ちです。そして神は私たちに、イエス様を通して神に祈り、神の御心を知るという道を備えてくださいました。
ですから、たとえ私たちが祈った通りにはならなかったとしても、それでも私たちがイエス様の名を通して、神に向かって何でも祈り続けることは、私たちの信仰にとって決して無駄なことではありません。
それは決して無駄なことではなく、私たちが心から願うことをイエス様の名によって神に祈り続けることは、私たちの信仰を強め、私たちの信仰、神への信頼を一層確かなものとしてくれるのです。

 ”命の主なる神にはどんなことでもお出来になる”、”それが御心ならば必ず成就する”、と信じる希望の信仰を私たちはイエス様を通して頂いて、歩んでいきましょう。
 シモンのしゅうとめの熱が癒された後、日が暮れても、それでも人々が色々な病気で苦しむ人たちをイエス様のもとへと連れてきました。
 日が暮れてから、ご自分のところへ連れて来られた、色々な病気で苦しむ人たち、彼ら彼女ら“一人一人に”イエス様は手をおいて、そして彼らを癒されました。
 イエス様はきっと疲れていたと思われますが、日が暮れてからも、ご自分のところへ連れられて来る病を抱えた人々にイエス様は向き合われたのです。
 イエス様はわたしたち一人一人に触れて下さるお方です。ご自分のもとへ来る者を誰も拒むことなく、一人一人にイエス様は手を触れてくださるのです。
  遠いところから、私たち向かって語ってはくださるけれど、そのお方に私たちの手は決して届かない、というお方ではイエス様はないのです。
  むしろイエス様のほうから、私たちの方へ来て下さり、私たち一人一人の心に触れてくださり、私たちが痛み、悲しむ時には、その傷を癒してくださるのです。

 そのような神がおられることを、私たちは聖書の御言葉を通して一層信じ、そのお方に信頼し、そして他の人々をも、その神のもとへとお連れしたいと思います。イエス・キリストの神にこそ、真の道、命、真理があるのだからです。
 今キリストを信じる私たちも、かつてはだれかが私たちを教会に連れて来てくれたことによって、または何らかの方法によって、キリストや教会について伝え聞いたはずです。
  キリストの恵み、その癒しの御手を、ただ私たちの内に留めておくのではなく、かつて私たち自身も聞いたように、私たちの周りの人々へも広げていきましょう。
  イエス様は、そのようにしてご自分のもとへ連れて来られる人を、決して拒むことなく、きっとその方にとって一番よい時期(タイミング)と方法によって、癒しをまた神の国を信じる信仰を与えてくださいます。
 今日の箇所で伝えらえるイエス様と、イエス様を信じる人々の姿を通して、私たちは信仰者の群れとしてイエス様と繋がると同時に、イエス様の御手が私たち一人一人にも触れて下さる恵みを私たちは知らされました。
真の癒しと永遠の救いとは、主イエス・キリストを通して与えられる~わたしたちもそのことをますます確信し、今週の日々もイエス様と共に、御言葉と共に歩んでまいりましょう。

2023年11月4日土曜日

2023年11月5日 主日礼拝(教会組織記念礼拝)

招詞 申命記10 章15 節
讃 美 新生讃美歌227 番 カルバリの丘へと
祈りの時
主の祈り
教会組織を感謝して(スライド)
献金
聖 句 ペトロの手紙一2 章9~10 節
祈 祷
宣 教「暗闇の中から驚くべき光の中へ」
祈 祷
讃 美 新生讃美歌255 番 わが罪のために
頌 栄 新生讃美歌679 番
祝 祷


 今日私たちは、わたしたちの教会が一教会として独立組織をした日を記念して、感謝の礼拝を捧げています。
 独立と言っても、それは「他の誰にも頼らず、自分たちだけで生きていく」ということを意味するのでは、もちろんありません。
 先ほど、教会組織以前の、最初の頃の集会時代から伝道所時代にまでさかのぼった記録をスライドで私たちは見ました。
 時代がさかのぼるほど、残っている記録も断片的なので、当時の正確な事情を知ることは難しいです。
しかし私たちの教会の歴史を通して、本当に多くの方々が、篤い思いと願い、そして熱心な祈りをもって教会を支えて来られたことは間違いありません。

スライドの中でも触れられましたように、私たちの教会は日本バプテスト連盟という宣教協力団体に加盟しています。日本バプテスト連盟に連なる諸教会からの大きな祈りと実際の支援を得て、教会組織へと私たちの教会も導かれました。
そして私たちは、北九州地方連合(North Kyushu Regional Association)という地方連合の一員としても、他の教会との繋がりと支え合いの中で、教会生活を送ることができているのです。
普段皆さんは、他の教会の会員の方と接する機会があまりないかと私は思いますが、私たちの教会は、特に同じバプテストの信仰に立つ、同じ地方の他の諸教会/全国の諸教会とも共にある、ということを私たちはいつも覚えていたいと願います。

教会の主はイエス・キリストです。教会の主は牧師ではありません。牧師は霊的な指導者として信徒の先頭に立ちます(そのような働きが皆さんから委ねられています)が、牧師も皆さんと同じように神に仕える信徒の一人です(特にバプテスト教会ではその点を強調します)
そして、神によって選ばれた私たちを通して、イエス・キリストの福音が世に伝えられていきます。福音宣教の尊い器として主が私たちの教会をますます用いてくださいますようにと、わたしたちは祈り願いたいと思います。
 教会組織を感謝する今日の礼拝にあたって、わたしたちは新約聖書ペトロの手紙一(1 Peter)の2章9~10節の御言葉を私たちは先ほど聞きました。
 この箇所には、私たち神を信じる者、そして教会がどれほどの恵みを神から頂いているのかが、とても短く簡潔にまとめられ、書かれています。

 今日の箇所の9節の最初に「あなたがたは選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と書かれます。
 最初に書かれているのは、私たちは「選ばれた民」ということです。誰が私たちを選んでくださったのでしょうか。それは主なる神です。
 主なる神がご自身の主導権をもって、私たちを選んでくださったということです。「あなたがたは、選ばれた民you are a chosen people」の「あなたがた(you)」は、ギリシア語の本文で“あなたたち”という複数形です。
 ですからそれは、誰か一人だけが特別に選ばれたのではなくて、他の人々と一緒に信仰によって結び付けられて「一つの民a people」となるように、わたしたちは選ばれたということです。
 聖書は、世界の造り主、私たちの救い主である主イエス・キリストの神が、私たちを本当に特別な思いと愛とで選んでくださった、と伝えます。

 今日私たちは、わたしたちの教会が、神の恵みと全国のバプテストに連なる諸教会の祈りと思いによって立てられた歴史と、今もこうして私たちが教会で礼拝できることを思い、感謝の気持ちを新たにしています。
 そして私たちは今日また一層、「神が私たちを選んでくださった」という、その真実と恵みにも、深く思いを向けたいと願うのです。
 “選ばれた”というと、それで自分がなにか特権階級に属するものにされた、という感じがして傲慢な気持ちが私たちの心に生まれるかもしれません。
 確かに神に選ばれた私たちは、神の恵みと愛とに生きるという、本当に素晴らしい特権にあずかる(受ける)者とされました。しかし、神のその恵みと愛、その特権は誰にでも向けられています。
 イエス・キリストを通して、神の愛と恵みとが全ての者に与えられているのです。そして、それを信じ、神の前にへりくだり、神の愛と恵みをいただいて生き方をするかどうかは、人間の側の決断にかかっています。
 神を信じる決断は人間が自らするものですが、しかし神の愛と恵み、神の選びは、私たち人間の側の功績には全く関係なく、すでに私たちに向けて差し伸べられているという点が重要です。
 神の恵みは、どこまでいっても、私たちには決して値しない高価な、本当に高価で尊い恵みなのです。どれほど素晴らしい人間であったとしても、優れた人格者であっても、神の愛に値するほど素晴らしいという人はいません。
 むやみに人というものを貶めようと言う意図で私はこう言っているのではありません。そうではなく、イエス・キリストを通して示された神の愛を思う時、私たちはキリストの光を通して自分を見た時に、本当にそこには何の価値もないことを見いだすのです。

 私たちがそのことを真剣に考えるならば、私たちは次のように信じることは決してできないはずなのです。
「世界の造り主である神が、ご自身のすべてを、その独り子であるイエス・キリストを通して人に与えてくださった」という恵みに値する何かを、最初からわたしは自分の中に持っていた。
 誰もそのように考えること、信じることはできないはずです。なぜ神が私たちをそれほどまでに愛し、恵みを与えてくださったのでしょうか。それは、“神とはそのようなお方であるから”としか言いようがありません。

 旧約聖書『申命記』の7章6~8節に次のように書かれています。

6あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
7主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
8ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

旧約の時代、主なる神がイスラエルの民たちを選ばれたのは、そしてエジプトにあって苦しい奴隷生活を送る彼らを神が救われたのは、それは彼らが他の民族よりも数が多く、また優れた民族だったから、というのではありませんでした。
 そうではなく、それは“主なる神が、ただ彼らを愛されたから”という理由だけでした。同様に、キリストを通して救いの道へと入れられた私たちも、ただ神のそのような途方もない無条件の愛のゆえに、神の子となる特権を与えられたのです。
 神様からのそのような愛には、ただ深い感謝をもって応答するしか、私たちにできることは残されていません。

 今日の箇所には、わたしたちは選ばれた民であり、また「王の系統を引く祭司 a royal priesthood」とも書かれています。
 祭司とは、神殿で神に仕えて、民を代表して生贄(いけにえ)を神に捧げたりする仕事をしていた人たちです。しかし神に選ばれた私たちはいまや、全員がそのような祭司だと、聖書は言うのです。
それは、御子キリストがご自身を父なる神に献げられたように、わたしたちも私たち自身をすべて神に献げるようにと今求められているからです。
 教会の建物が完成しますと、「献堂式」という礼拝を教会では大抵致します。それは与えられた教会の会堂も、わたしたちは神様に献げます、という決意を表明することです。
 私たちにあたえられているこの素晴らしい教会の建物も、そして私たち自身もすべてを神に献げるようにと、主の栄光のために用いるようにと、キリストへの信仰によって私たちは促されています。
 神を礼拝するとは、この私をすべてあなたにお献げします、と神に対して誓うことです。イエス様から頂く恵みへの応答と感謝として、私たちはそのような信仰を神に心から捧げたいと願います。
 9節の後半には、(今日のメッセージのタイトルでもある通り)、わたしたちは「暗闇から驚くべき光の中へと招き入れられた」と書かれています。

 わたしたちは、真の神から離れ、神を知らず、自分中心に生きていた先の分からない暗闇の命から助け出されて、イエス・キリストのまばゆい光の中へと招き入れられ、新しい生き方をするようになったのです。
 キリストのその驚くべき光の中へ入れられた私たち、キリストという命の光を与えられた私たちは、もはやどこに向かって歩めばいいのか、何を信じて生きればいいのかという迷いに陥ることは、もうありません。
 イエス様が次のようにおっしゃっています。
ヨハネの福音書8章12節 Gospel of John 8:12

わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

誰も神から遠ざけられた、孤独なその暗闇の中に留まることなく、キリストの驚くべき光のうちに生きる道に生きることができる、ということを、私たちの教会はこれからも喜びと感謝をもって、世に宣べ伝えていこうではありませんか。

今日の箇所の2節目、10節を読んでメッセージを終わります。

10あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。