2023年11月11日土曜日

2023年11月12日 主日礼拝

招詞 歴代誌上29章12節
賛美 新生讃美歌 260番 み言葉もて霊の火を
主の祈り
献金
聖句 ルカによる福音書4章38~41節
祈祷
宣教  イエスは一人一人に手を置いて
祈祷
賛美 新生讃美歌 550番 ひとたびは死にし身も
頌栄 新生讃美歌 679番
祝祷


 『ルカによる福音書』を私たちは最初からすべての節を通して少しずつ読みながら、この福音書を通して私たちに語られる神のメッセージを聞いています。
 ルカ福音書4章はイエス様が荒れ野で悪魔から誘惑を受ける場面で始まっています。イエス様は悪魔から次のような誘惑をお受けになりました。
 「石にパンになるように命令してみろ」、「わたし(悪魔)を拝め。そうすれば世界のすべての権力と繁栄はあなたのものになる」、「神殿の屋根から飛び降りて、神に救ってもらえ」
 イエス様は悪魔のそれらの誘惑を聖書の言葉、すなわち神の言葉を用いることで、退けました。
 悪魔の誘惑の意図は次のようなことでした。
“誰の目にもすぐに分かるような、派手な方法で、伝道しなさい。いつもお腹が満たされるとか、権力や成功が手に入るとか、怪我や病気をすることも一切ないとか~神を信じればそういうことが可能になる~そう人々に伝えたらどうだ”。

 しかしイエス様は、それらが神の恵みの本質ではない、ということをもちろん知っておられました。
神の子であるご自分のご使命は、みんながびっくりするような、またとても魅力的で奇跡的な行いによって、人々の関心や興味を一時的にひきつけることではない、とイエス様は確信しておられたのです。
そうではなく、イエス様は神の言葉、御言葉を人々に伝えるために、この世界に来られました。一時的な楽しみや満足でなく、神の言葉を通して与えられる永遠の命、永遠の平安をイエス様は人々に伝えるために、世に来られたのです。
そしてイエス様ご自身が神の言葉を成就するお方であることを、その生き方と言葉の両方で、イエス様はお示しになりました。
イエス様は悪魔の誘惑を受けるとすぐに、色々な会堂でお教えになりました。イエス様は安息日(当時のユダヤ教の安息日は土曜日)には会堂へ行き、集会(礼拝)に参加し、そこで聖書の言葉をお教えになりました。

 神の言葉、すなわち御言葉こそが、わたしたちを生かすのです。神の言葉が、わたしたちが困難や試練の中にあっても耐えて生きることのできる力と慰めを与えてくれます。

 ヨハネによる福音書6章63節でイエス様は次のように言っておられます。

 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

イエス様が話した言葉は霊であり、命なのです。神の言葉には、神のご愛と恵み、憐みが込められています。
イエス様の言葉には、イエス様の御生涯を通して示された神の愛、私たち人間の罪を赦してくださった神の憐み、神の優しさの全てが込められています。
イエス様が人として生きられた時代から約2000年を経た今を生きる私たちにとっては、神の言葉が世界中の多くの人々に生きる力と希望を与え、人々が生きることの意義を御言葉の中に見いだしてきたという、その長い信仰の歴史も与えられています。
わたしたちの教会も、神の言葉に生かされて生きる信仰者の群れとして、信仰者の歴史に連なる群れの一つとして、神の言葉が代々にわたって伝えられていく働きに仕えているのです。
私たちが神の言葉を聞き、神の言葉を分かち合い、神の言葉を生きるとき、その度毎に神の言葉が私たちを通して、新しく生きた言葉となり続けています。

神の御言葉が私たちを通して生き生きとしたものになる、そのことも私たちは信仰の喜びとして実感していきたいと願います。
 イエス様は会堂で人々を教えられた後、今日の聖書箇所の場面の中で、シモンの家にお入りになりました。
 シモンとは後にイエス様の弟子となり、ペトロ(“岩”を意味する名前)という新しい名前をイエス様から頂いた、あのペトロです。
イエス様は会堂で人々を教えられた後、大変お疲れになっていたのではないかと私は想像します。宣教者が御言葉を語るには、大変なエネルギーを要するからです。
会堂で人々をお教えになった後イエス様は、すぐにでもお休みになりたかったのではないかと私は想像します。しかし、イエス様は休むことなくそのお働きを続けられたのです。

そこでイエス様は、会堂で神の言葉を多くの人々に語るという働きから、今度はシモンという個人の家に入っていき、そこで個別の伝道をする、というお働きをされました。
私も牧師として、機会があるごとに、皆さんと個別に交わったり、許されればお家を訪問させていただくことがありますが、それは私にとっても大変嬉しいことです。
礼拝や祈祷会でこうして講壇から公に語ること以外に、個人的な繋がりや交わりを通しても、牧師と信徒としての、またそれ以前に同じイエス・キリストを信じる同信の友としての関係を作っていきたいと私は願っています。

そして、シモンがイエス様を自分の家に迎え入れたように、私たちもぜひ私たちの自宅という私的な(プライベートな)領域にも、主であるイエス様をお迎えしたいと願うのです。
ひょっとしたら信仰者であっても、「ここは私の私的な(自分だけでの)領域ですから、イエス様(神様)であってもここには入ってこないでください」と私たちは思ってしまっていないでしょうか。
そうではなく、私たちは、私たち自身のあらゆる生の領域の中に、イエス様に入ってきていただき、全てのことにおいてイエス様の導きに従って歩む者でありたいと願います。
イエス様に私たち一人一人の中に、私たちが日々生活するその場、家の中にも入ってきていただき、いついかなる時もイエス様と共にいるという安心と喜びの中で、私たちは生きていきましょう。
 イエス様が入って行かれたシモンの家には、シモンのしゅうとめ(シモンの妻の母親)がいて、彼女が髙い熱に苦しんでいました。
 シモン(ペトロ)はイエス様の12弟子の一人になりました。ペトロに限らず、弟子たちに関する個人的な背景や彼らの家庭環境などは、聖書にはあまり(ほとんど)記されていません。
 しかしペトロについて、少なくとも今日の箇所から分かることは、彼は結婚していて自分の家(あるいは妻の家だったかもしれません)には妻の母親が同居していたということです。

ですから、今日の箇所は、シモン(ペトロ)という聖書中の重要人物が、今の私たちにも大変身近に感じられる場面だと言えると私は思います。
 そこで人々(シモンの家族たちのことでしょう)は彼女(シモンのしゅうとめ)のことをイエス様に頼みました。“高い熱で苦しむ彼女を癒してください”と人々はイエス様に頼んだのです。
 イエス様がシモンの妻の母の、その枕元に立ち、熱を𠮟りつけると、熱は去りました。彼女の病気は癒されたのです。
 イエス様は、人であると同時に、命の源である神でもありましたから、人の病気を癒す力をお持ちでした。そのイエス様が命じられたので、シモンのしゅうとめから熱は出て行ったのです。
 これは、今も私たちが祈ればどんな病気も必ず治る、ということではありません。もし、神がそう意図されるのならば、病気は治ります。

しかし、もし神に別のご計画があるのであれば、私たちが祈っても、私たちが願った通りにはならないこともあります。
 しかし神は私たちの思いと願いを越えて、はるかに偉大なご計画をお持ちです。そして神は私たちに、イエス様を通して神に祈り、神の御心を知るという道を備えてくださいました。
ですから、たとえ私たちが祈った通りにはならなかったとしても、それでも私たちがイエス様の名を通して、神に向かって何でも祈り続けることは、私たちの信仰にとって決して無駄なことではありません。
それは決して無駄なことではなく、私たちが心から願うことをイエス様の名によって神に祈り続けることは、私たちの信仰を強め、私たちの信仰、神への信頼を一層確かなものとしてくれるのです。

 ”命の主なる神にはどんなことでもお出来になる”、”それが御心ならば必ず成就する”、と信じる希望の信仰を私たちはイエス様を通して頂いて、歩んでいきましょう。
 シモンのしゅうとめの熱が癒された後、日が暮れても、それでも人々が色々な病気で苦しむ人たちをイエス様のもとへと連れてきました。
 日が暮れてから、ご自分のところへ連れて来られた、色々な病気で苦しむ人たち、彼ら彼女ら“一人一人に”イエス様は手をおいて、そして彼らを癒されました。
 イエス様はきっと疲れていたと思われますが、日が暮れてからも、ご自分のところへ連れられて来る病を抱えた人々にイエス様は向き合われたのです。
 イエス様はわたしたち一人一人に触れて下さるお方です。ご自分のもとへ来る者を誰も拒むことなく、一人一人にイエス様は手を触れてくださるのです。
  遠いところから、私たち向かって語ってはくださるけれど、そのお方に私たちの手は決して届かない、というお方ではイエス様はないのです。
  むしろイエス様のほうから、私たちの方へ来て下さり、私たち一人一人の心に触れてくださり、私たちが痛み、悲しむ時には、その傷を癒してくださるのです。

 そのような神がおられることを、私たちは聖書の御言葉を通して一層信じ、そのお方に信頼し、そして他の人々をも、その神のもとへとお連れしたいと思います。イエス・キリストの神にこそ、真の道、命、真理があるのだからです。
 今キリストを信じる私たちも、かつてはだれかが私たちを教会に連れて来てくれたことによって、または何らかの方法によって、キリストや教会について伝え聞いたはずです。
  キリストの恵み、その癒しの御手を、ただ私たちの内に留めておくのではなく、かつて私たち自身も聞いたように、私たちの周りの人々へも広げていきましょう。
  イエス様は、そのようにしてご自分のもとへ連れて来られる人を、決して拒むことなく、きっとその方にとって一番よい時期(タイミング)と方法によって、癒しをまた神の国を信じる信仰を与えてくださいます。
 今日の箇所で伝えらえるイエス様と、イエス様を信じる人々の姿を通して、私たちは信仰者の群れとしてイエス様と繋がると同時に、イエス様の御手が私たち一人一人にも触れて下さる恵みを私たちは知らされました。
真の癒しと永遠の救いとは、主イエス・キリストを通して与えられる~わたしたちもそのことをますます確信し、今週の日々もイエス様と共に、御言葉と共に歩んでまいりましょう。