2023年11月4日土曜日

2023年11月5日 主日礼拝(教会組織記念礼拝)

招詞 申命記10 章15 節
讃 美 新生讃美歌227 番 カルバリの丘へと
祈りの時
主の祈り
教会組織を感謝して(スライド)
献金
聖 句 ペトロの手紙一2 章9~10 節
祈 祷
宣 教「暗闇の中から驚くべき光の中へ」
祈 祷
讃 美 新生讃美歌255 番 わが罪のために
頌 栄 新生讃美歌679 番
祝 祷


 今日私たちは、わたしたちの教会が一教会として独立組織をした日を記念して、感謝の礼拝を捧げています。
 独立と言っても、それは「他の誰にも頼らず、自分たちだけで生きていく」ということを意味するのでは、もちろんありません。
 先ほど、教会組織以前の、最初の頃の集会時代から伝道所時代にまでさかのぼった記録をスライドで私たちは見ました。
 時代がさかのぼるほど、残っている記録も断片的なので、当時の正確な事情を知ることは難しいです。
しかし私たちの教会の歴史を通して、本当に多くの方々が、篤い思いと願い、そして熱心な祈りをもって教会を支えて来られたことは間違いありません。

スライドの中でも触れられましたように、私たちの教会は日本バプテスト連盟という宣教協力団体に加盟しています。日本バプテスト連盟に連なる諸教会からの大きな祈りと実際の支援を得て、教会組織へと私たちの教会も導かれました。
そして私たちは、北九州地方連合(North Kyushu Regional Association)という地方連合の一員としても、他の教会との繋がりと支え合いの中で、教会生活を送ることができているのです。
普段皆さんは、他の教会の会員の方と接する機会があまりないかと私は思いますが、私たちの教会は、特に同じバプテストの信仰に立つ、同じ地方の他の諸教会/全国の諸教会とも共にある、ということを私たちはいつも覚えていたいと願います。

教会の主はイエス・キリストです。教会の主は牧師ではありません。牧師は霊的な指導者として信徒の先頭に立ちます(そのような働きが皆さんから委ねられています)が、牧師も皆さんと同じように神に仕える信徒の一人です(特にバプテスト教会ではその点を強調します)
そして、神によって選ばれた私たちを通して、イエス・キリストの福音が世に伝えられていきます。福音宣教の尊い器として主が私たちの教会をますます用いてくださいますようにと、わたしたちは祈り願いたいと思います。
 教会組織を感謝する今日の礼拝にあたって、わたしたちは新約聖書ペトロの手紙一(1 Peter)の2章9~10節の御言葉を私たちは先ほど聞きました。
 この箇所には、私たち神を信じる者、そして教会がどれほどの恵みを神から頂いているのかが、とても短く簡潔にまとめられ、書かれています。

 今日の箇所の9節の最初に「あなたがたは選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と書かれます。
 最初に書かれているのは、私たちは「選ばれた民」ということです。誰が私たちを選んでくださったのでしょうか。それは主なる神です。
 主なる神がご自身の主導権をもって、私たちを選んでくださったということです。「あなたがたは、選ばれた民you are a chosen people」の「あなたがた(you)」は、ギリシア語の本文で“あなたたち”という複数形です。
 ですからそれは、誰か一人だけが特別に選ばれたのではなくて、他の人々と一緒に信仰によって結び付けられて「一つの民a people」となるように、わたしたちは選ばれたということです。
 聖書は、世界の造り主、私たちの救い主である主イエス・キリストの神が、私たちを本当に特別な思いと愛とで選んでくださった、と伝えます。

 今日私たちは、わたしたちの教会が、神の恵みと全国のバプテストに連なる諸教会の祈りと思いによって立てられた歴史と、今もこうして私たちが教会で礼拝できることを思い、感謝の気持ちを新たにしています。
 そして私たちは今日また一層、「神が私たちを選んでくださった」という、その真実と恵みにも、深く思いを向けたいと願うのです。
 “選ばれた”というと、それで自分がなにか特権階級に属するものにされた、という感じがして傲慢な気持ちが私たちの心に生まれるかもしれません。
 確かに神に選ばれた私たちは、神の恵みと愛とに生きるという、本当に素晴らしい特権にあずかる(受ける)者とされました。しかし、神のその恵みと愛、その特権は誰にでも向けられています。
 イエス・キリストを通して、神の愛と恵みとが全ての者に与えられているのです。そして、それを信じ、神の前にへりくだり、神の愛と恵みをいただいて生き方をするかどうかは、人間の側の決断にかかっています。
 神を信じる決断は人間が自らするものですが、しかし神の愛と恵み、神の選びは、私たち人間の側の功績には全く関係なく、すでに私たちに向けて差し伸べられているという点が重要です。
 神の恵みは、どこまでいっても、私たちには決して値しない高価な、本当に高価で尊い恵みなのです。どれほど素晴らしい人間であったとしても、優れた人格者であっても、神の愛に値するほど素晴らしいという人はいません。
 むやみに人というものを貶めようと言う意図で私はこう言っているのではありません。そうではなく、イエス・キリストを通して示された神の愛を思う時、私たちはキリストの光を通して自分を見た時に、本当にそこには何の価値もないことを見いだすのです。

 私たちがそのことを真剣に考えるならば、私たちは次のように信じることは決してできないはずなのです。
「世界の造り主である神が、ご自身のすべてを、その独り子であるイエス・キリストを通して人に与えてくださった」という恵みに値する何かを、最初からわたしは自分の中に持っていた。
 誰もそのように考えること、信じることはできないはずです。なぜ神が私たちをそれほどまでに愛し、恵みを与えてくださったのでしょうか。それは、“神とはそのようなお方であるから”としか言いようがありません。

 旧約聖書『申命記』の7章6~8節に次のように書かれています。

6あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
7主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
8ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

旧約の時代、主なる神がイスラエルの民たちを選ばれたのは、そしてエジプトにあって苦しい奴隷生活を送る彼らを神が救われたのは、それは彼らが他の民族よりも数が多く、また優れた民族だったから、というのではありませんでした。
 そうではなく、それは“主なる神が、ただ彼らを愛されたから”という理由だけでした。同様に、キリストを通して救いの道へと入れられた私たちも、ただ神のそのような途方もない無条件の愛のゆえに、神の子となる特権を与えられたのです。
 神様からのそのような愛には、ただ深い感謝をもって応答するしか、私たちにできることは残されていません。

 今日の箇所には、わたしたちは選ばれた民であり、また「王の系統を引く祭司 a royal priesthood」とも書かれています。
 祭司とは、神殿で神に仕えて、民を代表して生贄(いけにえ)を神に捧げたりする仕事をしていた人たちです。しかし神に選ばれた私たちはいまや、全員がそのような祭司だと、聖書は言うのです。
それは、御子キリストがご自身を父なる神に献げられたように、わたしたちも私たち自身をすべて神に献げるようにと今求められているからです。
 教会の建物が完成しますと、「献堂式」という礼拝を教会では大抵致します。それは与えられた教会の会堂も、わたしたちは神様に献げます、という決意を表明することです。
 私たちにあたえられているこの素晴らしい教会の建物も、そして私たち自身もすべてを神に献げるようにと、主の栄光のために用いるようにと、キリストへの信仰によって私たちは促されています。
 神を礼拝するとは、この私をすべてあなたにお献げします、と神に対して誓うことです。イエス様から頂く恵みへの応答と感謝として、私たちはそのような信仰を神に心から捧げたいと願います。
 9節の後半には、(今日のメッセージのタイトルでもある通り)、わたしたちは「暗闇から驚くべき光の中へと招き入れられた」と書かれています。

 わたしたちは、真の神から離れ、神を知らず、自分中心に生きていた先の分からない暗闇の命から助け出されて、イエス・キリストのまばゆい光の中へと招き入れられ、新しい生き方をするようになったのです。
 キリストのその驚くべき光の中へ入れられた私たち、キリストという命の光を与えられた私たちは、もはやどこに向かって歩めばいいのか、何を信じて生きればいいのかという迷いに陥ることは、もうありません。
 イエス様が次のようにおっしゃっています。
ヨハネの福音書8章12節 Gospel of John 8:12

わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

誰も神から遠ざけられた、孤独なその暗闇の中に留まることなく、キリストの驚くべき光のうちに生きる道に生きることができる、ということを、私たちの教会はこれからも喜びと感謝をもって、世に宣べ伝えていこうではありませんか。

今日の箇所の2節目、10節を読んでメッセージを終わります。

10あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。