2023年11月18日土曜日

2023年11月19日 主日礼拝

招詞  詩編86篇12~13節
賛美  新生讃美歌 125番 造られしものよ
主の祈り
献金
聖句  コリントの信徒への手紙二 1章3~11節
祈祷
宣教  「死者を復活させてくださる神を頼りにする」
祈祷
賛美  新生讃美歌 19番 くすしき主の愛
頌栄  新生讃美歌 679番
祝祷

 今日もこうして、私たちが共に神を礼拝することができることを、私たちは感謝いたします。私たちは神を礼拝するために、こうして集まっています。
 それは神が私たちを今日も呼び集めてくださったので、私たちは聖霊なる神の呼びかけに応えて、こうして集まることができているのです。
 私たちをイエス・キリストへの信仰によって結び付けてくださる主なる神に大きな感謝をお捧げしましょう。
 今日私たちに与えられた聖書箇所である新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』1章3節~の初めの3節に次のように書かれています。

3わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。

 この言葉(ほぼ同じ言葉)は、『エフェソの信徒への手紙』の初め(エフェソ1章3節)にも、『ペトロの手紙一』の初め(1ペトロ1章3節)にも書かれています。
この言葉が、そのように聖書の他の箇所にも出てくるということは、信仰者として私たちが「神をほめたたえる」ということがいかに大切であるかを表しています。
そして聖書がこのように何箇所かで「神がほめたたえられますように」と言っているのは、わたしたち人は、信仰があると言いながらも、神を褒めたたえることをしなかったり、怠ったり、忘れたりすることも多いという事実をも表しています。

なぜなら、私たちには自分中心という罪、神の栄光さえも自分のものとしたい、という罪深い性質、欲があるからです。
「私たちの主イエス・キリストの父である神が褒めたたえられますように」、「神が褒めたたえられるように」と言いながら、実は自分自身が褒めたたえられることを願い、自分が人から評価されますようにと願っていることがないでしょうか?
人から愛されたい、人に認められたい、そのような願いばかりが大きくなると、私たちの心は神から離れて行きます。
自分中心の生き方に留まるならば、私たちは神の恵みに目を留めることができず、そして神をほめたたえることをしなくなり、神を褒めたたえることのできる喜びからも遠ざかってしまうことになってしまいます。

わたしたちは心から神を褒めたたえているでしょうか?教会の集会に参加することにより、また教会の一員となることが、神をほめたたえるという信仰に繋がっているでしょうか?
教会がイエス・キリストの恵みで本当に溢れているならば、そのような教会に集うことはわたしたちにとって大きな喜び、力となるはずです。神の恵みで溢れた教会には喜びと力が溢れます。
そしてそのような教会につながることで信仰の喜び、力をいただいているのならば、わたしたちはその時心から神を賛美し、褒めたたえる者になるはずです。
 私たちは「神こそが、唯一褒めたたえられるべきお方」と心から言えるように、そして私たちは心からの信仰の願いとして「真の神を褒めたたえたい」という純粋な願いに満たされていきたいと願います。

 なぜ神は、それほどまでに褒めたたえられるべきお方なのでしょうか。それは今日の聖書箇所に何度もでてくるように、私たちは神から豊かな「慰めcomfort」を頂くからです。
 今日の箇所の前半部分(3~7節)の中には、慰め comfortという言葉が何度も出てきます。神は私たちに慰めを与えてくださるお方です。
  私たちが生きる上では苦難、困難が必ずあります。人それぞれに、いろいろな苦難があります。苦難に会うとき、苦しみと悲しみの中にある時、私たちには慰めが必要です。私たちには神の慰めが必要です。
 私たちは神からの慰めを頂くことで、苦しみ悲しみが伴う人生を生きることができます。神の慰めを頂きながら、生きる上での困難の只中にあっても、神と共に歩き続けるようにと、私たちは神によって招かれているのです。
 イエス・キリストが十字架の上(その死によって)で負われたのは、私たちすべての者の痛みと苦難、そして私たちの罪でした。

 キリストがそのように十字架の上で全てを(あらゆる苦難をも)負ってくださったので、イエス・キリストはあらゆる苦難に際して、わたしたちを慰めることがお出来になります。
キリスト教の歴史とは、神によって深い悲しみと痛みを慰められて来た人たち、そのような経験を許され、神による癒しと慰めを告白してきた人たちの歴史とも言えます。
 「神様がいかに優しく、愛に溢れ、慰めを与えてくださったか」を信仰によって知らされ信じた人々が、その信仰を告白し証しすることで、キリスト教の信仰は受け継がれてきたのです。
  私たちが教会で神の言葉を共に聴くのは、神の慰めを私たちが共に頂く、ということでもあります。真の慰め主が私たちと共におられる、ということを礼拝を通して私たちは確信していくのです。
  私たちには、苦難、困難、悲しみの中にあっても、私たちの魂と心の中から慰めを与えて下さる神がおられる~そのことを私たちはますます知っていきたいと願います。

そして、そのような神の慰め(真の神の慰め)を私たちが頂くとき、それはそれを頂いた私たちだけの慰めには留まらないのです。

今日の箇所の4節、そして6節をお読みします。

4神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
 6わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。

 私たちが神によって慰めを頂くと、その慰めは私たち以外の人たちへの慰めにもなるというのです。
 イエス・キリストの神による慰めを私たち自身が本当に頂いたのならば、私たちはその慰めをもって、自分以外の他者をも慰めることができるのです。
 試練や苦難は、それを経験する人自身を、わたしたちを成長させることがあります。試練は信仰成長の原動力ともなります。
そしてキリスト者にとって、苦難の中で成長するということは、苦難の中で共にいてくださる神の力を頂くことを知るということです。

苦難の中にも神の変わらぬ慰めがあり、神に慰めていただくその経験を通して、神によって私たちは強くもなるのです。
私たちが自分自身の力で強くなるのではなく、神によって私たちは強くなれるのです。
キリスト者にとっての信仰の成長とは、共にいてくださる神にますますより頼んで、神の愛の慰めに満たされることを知っていく過程です。
そのような神の慰めを頂いた私たちは、神から頂くその慰めをもって、自分以外の他者をも慰めることができるようになるのです。神の慰めが、私たちと私たちの教会を通しても豊かに広がっていくのです。

8節で、この手紙を書いたパウロが、彼自身が経験した苦難について言及しています。

8兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。

「アジア州でわたしたちが被った苦難」とパウロが言っているのが、具体的にどのような困難を指すのかは、よく分かりません。
パウロは各地を伝道する際に、色々な苦難と命の危険にさえも会っています。キリストの福音を伝道することに伴う迫害などによる苦難の数々が、ここで言及されているのだろうと思われます。
パウロが経験したその苦難は、彼が“生きる望みさえ失う”ほどのものでした。そして9節の言葉が続いて書かれます。

9わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。

 パウロが経験した苦難は、生きる望みを失い死の宣告を受けたと彼が感じたほどに大きな苦難でした。
 普通ならば「死の宣告を受けた」と、それほどに感じた時点で私たちは“もう駄目だ”と思ってしまうでしょう。私たちは、大抵のことはその時点で諦めてしまうでしょう。
 しかし、神から頂く慰め、神にある望みを頂く者にとっては、それほどの苦難が逆に新たな出発点となるのです。
生きる望みを失い、死の宣告を受けたと感じるほどの苦難が、生き方を神にあって大きく変えられる転換点となるのです。

 なぜなら「もう自分の力ではどうにもならない」という境遇に置かれることで、「死者を復活させてくださる神を頼りにするように」なることを私たちは知るからです。
  この私が何かをするのではなく、主イエス・キリストを十字架の死から復活させてくださった神がなさる、ということをその時私たちは知るのです。
ですから、“もう駄目ではないか”、”私にできることは何もない”と思った時、私たちは神に近づこうではありませんか。
自分を頼ることを止め、キリストを通してあらゆることを新しくしてくださった、命の源である神に立ち返ろうではありませんか。
 自分を褒めたたえるのではなく、すべての栄光を神にお返しすることを願い、神を褒めたたえるようになること、それがキリストにある信仰です。

 苦難の中にあっても、常に真の慰めをくださる神の慰めを頂くことを知ること、そして神からいただく慰めをもって、自分以外の他者をも慰めることが出来ることを知る、それがキリストにある信仰です。
 神から頂く真の慰めによって、私たちがお互いに思いやり合い、神の慰めを分かち合うことができる、そのような神の愛が溢れる教会に私たちはなっていきたいと願います。
 そして自分自身を頼りにするのではなく、死者を復活させてくださった、つまり、あらゆる恥と侮辱にまみれて十字架の上で死なれたお方(イエス様)を、全ての者の慰め主、救い主として復活させてくださった神を頼りにすることを知る、それが私たちの信仰です。
 愛に溢れ、慰めを豊かにくださる私たちの神に、ただ神のみが私たちの間であがめられ、ほめたたえられますようにと、私たちは願いつつ信仰の日々をこれからも共に歩んでいきましょう。