2024年1月13日土曜日

2024年1月14日 主日礼拝

前奏
招詞 ヨハネによる福音書8章29節
讃美 新生讃美歌 260番 み言葉もて霊の火を
主の祈り
献金
聖句  出エジプト3章13~22節
祈祷
宣教  これこそ、とこしえにわたしの名
祈祷
讃美 新生讃美歌 86番 輝く日を仰ぐとき
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏

 今日の聖書箇所は、旧約聖書の『出エジプト記』3章の後半部分です。エジプトの王宮で育ったヘブライ人モーセは成人した後、同胞(仲間)のヘブライ人をかばおうとして、エジプト人を打ち殺してしまいました。
 その事が王のファラオにも知らされ、ファラオがモーセを殺そうとしたので、モーセはエジプトから逃げて行かなくてはなりませんでした。
  モーセは彼自身の正義感から、仲間のヘブライ人を助けようとしたつもりであったでしょう。
しかし、相手のエジプト人を打ち殺すというその行動は、モーセ自身の傲慢さ、まるで自分が神であるかのように振舞う、罪の行為でした。
それでも神は、モーセに逃れの道を用意してくださっていました。モーセが新しい生き方を始める道を神が用意してくださっていたのです。

モーセはミディアンという地方へ逃れていき、そこで結婚し子供も与えられました。
 そして出エジプト記3章の初めで、神がモーセに現れ、モーセに「エジプトで奴隷として苦しい生活を送っている、わたしの民(イスラエルの人々)をエジプトから導きだしなさい。わたしがあなたをファラオのもとに遣わす」と言われました。
 神にそのように命じられたモーセは次のように答えます。聖書箇所としては今日の箇所のすぐ前の3章11節です。
 「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
モーセは躊躇したのです。彼はエジプト王のファラオという絶対的な権力を持つ者の前へ行き、イスラエルの人々を導き出すということに、恐れおののいたのでしょう。
「わたしは何者でしょう。なぜわたしがファラオのもとへ行き、イスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と言って恐れ、躊躇するモーセの姿は、実は私たち全ての人間の姿を現しています。

 モーセの最初の疑問は「わたしは何者でしょうWho am I?」でした。この疑問に対して、私たちは何と答えるでしょうか。私たちは自分が何者(何)であるかを、知っているでしょうか。
私たちが聖書を通して知らされることの一つは、“自分は何者であるか”ということです。わたしたちは、自分は何者であるか、を聖書を通して、そして神との関係の中で見いだしていきます。
モーセは、自分がイスラエルの人々を率いて、エジプトから脱出させるような大変な役割を果たせるとは、到底思えませんでした。
モーセは仲間のヘブライ人をかばうためとは言え、あるエジプト人を殺してしまい、エジプトから逃げなくてはならなかった彼の過去に、ずっととらわれてしまっていたのかもしれません。

モーセはそのために、“私はずっと、私にとってはこの異国の地で、隠れるようにして一生を過ごして一生を終えるのだ”と諦めたような気持ちで日々を過ごしていたのかもしれません。
しかし、神はモーセに新たな別の計画を持っておられました。神はモーセを選び、モーセによって(それはあくまで神の力ですが)イスラエルの民たちを、エジプトから救い出そうとされたのです。
モーセは、とても自分にそのようなことができるとは思えませんでした。しかし神は、「私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と言われました。(12節)
“神が共におられる”、“イスラエルの人々は、あなた(モーセ)の背後に主なる神が共にいることを認める”、それが確かに神がモーセを遣わしたしるし(sign)、証拠だと神はおっしゃったのです。
 私たちの教会は、新しい年(2024年)の歩みを始めています。今年神はどのようなご計画を私たちの教会にお持ちでしょうか。

 また神は私たちひとり一人にどのようなご計画をお持ちでしょうか。神の道が私たちに示された時、私たちも今日の箇所の中のモーセのように躊躇してしまうかもしれません。
 私たちも自分で自分の能力の限界を設定してしまって、神が私たちに与えてくださっている豊かな賜物を見いだすことができず“私には(私たちには)できません”という思いにとらわれてしまうかもしれません。
 しかし、神がわたしたちと共におられます。それは今も決して変わることのない約束です。神の御心、神の御計画を祈り求めて、そして示された道を私たちは神に信頼して、共に歩んでいこうではありませんか。
 モーセは今日の聖書箇所で、次のように言っています。13節のモーセの言葉をお読みします。
 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

 モーセは、”もし私がイスラエルの人々のところへ行って、”神が私を遣わして、あなたがたをエジプトの地から導きだすように命じられた”と言っても、彼らは”その神の名は何か?”と聞くでしょう”と思ったのです。
 神はモーセに答えられました。「わたしはある」~それがご自身の名前だと神はおっしゃいました。
 「わたしはある」とは、とても不思議な名前です。そのヘブライ語の本文は、「わたしは、わたしがなろうとする者になるだろう」と訳することも可能です。
  神ご自身がモーセに明かされたその名前はとても不思議で、解釈しようと思えば色々な解釈が可能だと私は思います。

 しかし私たちにとって確かなことは、まず神は確かにご自身の名前をモーセに明かされたということです。そして“わたしはある”というお名前は、神はご自身の存在を、他の何にも依存していない、ということです。
 神はご自身で完全であり、他の何かによって造られたのでもありません。神が、私たちの世界の全てをお造りになった創造主です。それが聖書が一貫して私たちに伝えることです。
  モーセは“わたしは何者でしょう?”と神に尋ねました。モーセだけでなく、私たちは誰も自分で自分が誰であるか(何であるか)を知ることはできません。
 先程も申し上げたように、私たちは、私たちをお造りになった創造主なる神との関係の中で、神の目を通して私たち自身のことを知ることができます。
  私たちが自分だけを見ているならば、私たちは結局とても不安定な自分しか見つけることができないでしょう。根や土台といったものを持たない、不安定な自分です。
 しかし聖書は、私たちをお造りになった神がおられ、そのお方の名前が私たちに知らされ、そのお方の名は永遠に変わることがないと伝えています。
  神の名が永遠に変わらないとは、神ご自身が決して変わることなく、いつまでも私たちと共におられるということです。神がその約束をいつまでも守ってくださるということです。
 イザヤ書46章3~4節に次のように書かれています。神が私たちをお造りになり、その神が私たちを背負い続けてくださる、という約束の言葉です。

わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。
“同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

 私たちをお造りになった神は、私たちを背負い、救い出してくださると約束してくださっています。私たちが倒れても、神が助け起こしてくださいます。
しかし、それは私たちの人生の中で辛い出来事や困難がなくなる、ということではありません。
 今日の箇所の中でも、神はモーセに、「わたしがあなたと共にいる」と約束をしつつ、「しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が(あなたたちを)行かせないことを知っている」と言っています。
 つまり、神はモーセに、いつも“神が共にいてくださるから安心するように”という力強い励ましの言葉をかけつつ、“彼(モーセ)がこれから向き合おうとしているエジプト王は、そう簡単には言うことを聞かない”ということもはっきりと言っているのです。
 神が私たちと共におられますが、私たちが生きる道は時に長く、険しいものでもあるのです。
 しかしその長く険しい道を歩む過程で、危機的な状況を乗り越える経験を通して、私たちは私たちの能力や思いを越えた、神の確かな力と神の御愛を一層知ることができます。
  神が私たちと共におられます。ですから私たちは安心して、日々を、困難と悩みの中にも、神に信頼して日々を歩もうではありませんか。
 神が私たちと共におられる。それはイザヤ書の中で預言されていたイエス・キリストのこの世界への到来を表わす言葉でもありました。

 イザヤ書7章14節
 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

「インマヌエル」とは、ヘブライ語で「神が私たちと共におられる」という意味です。神はモーセに既に約束されていたその出来事を、イエス・キリストのお誕生を通して、私たち全ての人にとっての約束として、成就してくださいました。
 神はモーセに、ご自身の名(『わたしはある』)を明らかにしてくださり、モーセが他の人々にその名を伝えることによって、神が確かにモーセに現れたことのしるしとしてくださいました。
 私たちにも、確かな神の名、それはイエス・キリストの名、そしてそれはイエス・キリストの恵み、それらがすべて与えられています。
  「神はどこにおられるのか?」、「神の名は何と言うのか?」と私たちがもし誰かに聞かれるのなら、私たちはいつも聖書を根拠にして、次のように答えることができます。
 「私たちの世界のすべてをお造りになった神がおられる」、「神は人となり、イエス・キリストとして私たちに全てを与えてくださった」、「神はいつも私たちと共におられる」と確信をもって答えることができるのです。

それは私たち自身に基づく確信ではなく、神の確かな名、そしてイエス・キリストが世にこられた確実な出来事に基づく、確信だからです。
信仰を通して与えられる確信と安心、平安のうちに、日々を生きることができる幸いを私たちは感謝したいと願います。