2024年1月6日土曜日

2024年1月7日 主日礼拝

前奏
招詞 イザヤ書55章11節
讃美 新生讃美歌3番 あがめまつれ うるわしき主
祈りの時
主の祈り
献金
聖句 ルカによる福音書5章1~11節
祈祷
宣教 「しかし、お言葉ですから」
祈祷
讃美 新生讃美歌 506番 主と主のことばに
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏

 新しい年(2024年)の最初の主日礼拝を私たちはお捧げしています。新しい年もまた、私たちは礼拝を大切にし、礼拝を通して神様の言葉を共に聞き、神の言葉を分かち合っていきましょう。
 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書5章の最初の部分です。今日の箇所は、イエス様がシモン(ペトロ)、そしてヤコブとヨハネをご自分の弟子にするという場面です。 
 彼ら最初の弟子たちがイエス様に呼びかけられて弟子となるこの場面は、マタイ福音書4章18~22節、マルコ1章16~20節にも記されています。
 それら二つの箇所(マタイ、マルコの該当箇所)では、イエス様が漁をしていたシモンたちに「わたしについて来なさい」と呼びかけ、彼らがすぐにイエス様に従ったと、比較的簡潔に書かれています。

 しかしルカ5章の今日の箇所には、マタイ、マルコには書かれていない出来事が記されています。
 一晩中漁をして何もとれなかった漁師たちが、イエス様に言われてもう一度(昼に)漁をすると大変な量の魚が獲れた、という話です。この箇所を通して、神のメッセージを共に聞いてまいりましょう。
 イエス様がゲネサレト湖のほとりに立っておられます。ゲネサレト湖とは、ティベリアス湖、あるいはガリラヤ湖とも呼ばれる湖です。
  湖のほとりにイエス様が立っておられると、群衆が神の声を聞くために、イエス様を囲みました。
それまでに、イエス様は悪霊に取りつかれた人から悪霊を追いだしたり、色々な病に苦しむ人たちの病を癒されたりしました。病気を癒してほしい、悪い霊を追い出してほしいと願う多くの人たちがイエス様のところへやってきました。

 しかし今日の箇所で、大勢の人たちがイエス様を取り囲んでいたのは、“神の言葉を聞く”ためでした。群衆の中のある人たちは、イエス様が病気を治すことや、悪霊を追い出すということを期待していたかもしれません。
  しかし、イエス様が人々に伝えようとした最も大切なものは、神の言葉でした。病気や悪霊による苦しみを取り除くことも、イエス様がなさった大切なお働きでした。
 しかしやはり、イエス様の全てのお働きは神の言葉、神の国の福音(良き知らせ)を人々に知らせることを中心としていたのです。
ルカ4章でイエス様が荒れ野の中で悪魔から誘惑をお受けになった時、大変な空腹の中でもイエス様は「人はパンだけで生きるものではない(人は主の口から出るすべての言葉によって生きる)」という聖書の言葉をもって対抗しました。

イエス様はあちらこちらを巡り、人々の病気を治し、また悪霊を追いだしたりして、人々の苦しみを癒されつつ、イエス様はあくまで神の言葉を人々に伝えると言うお働きを続けられたのです。
そしてイエス様に接した人たちは、段々とイエス様のなさっていることを理解し始めたのでしょう。
“このお方が私たちに与えてくださる最も大切なものは神の言葉なのだ”と段々人々は悟るようになったのです。
ですから、今日の箇所で群衆はイエス様から“神の言葉を聞こうとして”、イエス様の周りに集まってきたのです。

 私たちも神の言葉を聞きたいという願いをもって教会に来ます。最初私たちは、色々な理由や思いをもって教会に来るようになったでしょう。
  教会には暖かい雰囲気がある、普通とは違う何か神聖な気持ちになれる、素晴らしい音楽がある、などの思いや理由で教会に通うようになった方もいらっしゃると思います。
 しかし、やはり教会の中心は常にイエス・キリストであり、イエス・キリストの言葉(神の言葉)です。神の言葉は、私たち教会が頂いている宝物です。
そして、神の言葉(御言葉、福音と言っても同じ意味です)が聞きたいと言う願いを第一として、やはり人は今でも教会に集まるのです。
私たちの礼拝全体、信仰による交わりを通して(言葉以外の方法でも)神の言葉が語られることはありますが、教会で神の言葉が語られる一番分かりやすい形は、まずは牧師の宣教(メッセージ)です。
 考えてみますと、神の言葉を語る、という本来人では出来ないはずの務めを牧師は担わされているのだと改めて私は思い、大変厳粛な気持ちにさせられます。
 ですから、牧師が神の言葉でない、自分の思いだけの勝手な話などをしたりしないように、皆さんにはぜひ祈って頂きたいとお願い致します。
私たちが教会に集うのは、今日、今この時、神が私たちに語ってくださると信じるからです。私たちが信仰によるそのような期待と希望をもって、こうして集う時、きっと神は今日私たちに必要な言葉を語ってくださいます。
神の言葉によって養われ、神の言葉によって日々を生きる力を私たちは頂いていこうではありませんか。

 今日の箇所で、群衆はイエス様を囲んで神の言葉を聞いていましたが、その時に近くで漁をしていた人たち(正確には、漁を終わって、網を洗っていた)がいました。
  彼らは、シモン(ペトロと言う名前をイエス様からのちにもらう)、ヤコブやヨハネという、イエス様の最初の弟子になった人たちでした。
  イエス様が人々に神の言葉を語っているその間に、彼らは漁の網を洗うという、いってみれば彼らの仕事をしていたのです。
  ここでのシモン達は、イエス様を囲んで神の言葉を聞いていた群衆に比べると、イエス様への関心がまだ低い人たち、と言う印象を受けます。
  彼らも、イエス様の話を聞きたい、という思いはあったかもしれませんが、彼らにはその時やらなくてはならない仕事があったのです。

 シモン達は、この時はまだ、イエス様が語っている神の言葉が、彼らの仕事を中断してまで聞かなくてはならないものだとは思わなかったのでしょう。
  そんなシモンにイエス様のほうから声を掛けられました。信仰は常に神からの呼びかけによって始まるのです。
イエス様はシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言いました。
 イエス様の言ったことは漁の常識に反することでした。漁は夜にするものだったからです。そしてその日(夜)は、シモン達は魚を全く獲ることができずに、彼らは網を洗っていたのです。
  シモンはそこで「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。

前の箇所のルカ4章38節からの箇所で、シモンの義理の母がイエス様によって病気を癒されています。ですからシモンはイエス様による癒しを、一度見ていたのです。
​​ ですから、シモンはイエス様には特別な力があることは知っていたでしょう。しかし、彼は漁については自分のほうが専門家だというプライドもあったかもしれません。
 ですから、“わたしたちは、既に夜通し漁をしました。(漁は夜にするものなのですよ)。しかし何もとれませんでした”と彼は言いました。
シモンは心の中ではイエス様に対して“先生、あなたは聖書のことや、神のことは良く知っているかもしれませんが、漁のことはご存じないないですね”と思ったでしょう。

 そのようなシモンの姿は、今の私たちにも当てはまるのではないかと、私は思います。
 イエス様を信じ、神の言葉を大切にしつつも、信仰というものがどこか自分の日々の実生活とはあまり結びついていない、ということです。
 神の言葉を聞くという私たちの信仰が、教会の中だけに留まっていることがわたしたちにはないでしょうか。
 そうではなく、神の言葉が私たちの生活のすべての領域(仕事(職場)や、勉強(学校)、家庭)を支配しているでしょうか。
シモンのここでの言葉は、そのような問いを私たちに投げかけると思います。
 しかしシモンはその時さらにこう言って、彼はイエス様の言うことに従いました。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう
 魚が獲れるとは、あまり期待していなかったでしょうが、シモン(ペトロ)は、イエス様のお言葉に、やはり特別な強い力を感じもしたのでしょう。彼はイエス様の言うことに従いました。
  するとおびただしい数の魚がかかり、網が破れそうになりました。別の船にも来てもらい、二そうの舟が魚で一杯になりました。
  本来魚が獲れるはずのない昼に、イエス様の言葉に従うことによって、考えられないほどの魚が獲れたのです。
  シモンはそれからこう言いました。

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」
 シモンは、最初イエス様のことを“先生Master”と呼んでいました。そう呼ぶことで、ある程度の尊敬をイエス様に置いていましたが、イエス様はまだ、シモンの全生活と彼の命を支配する“主Lord”ではありませんでした。
 しかし、イエス様のお言葉の力、そのお言葉に従うことで与えられる奇跡を目の前にして、シモンはイエス様を“主よ”と呼ぶしかなくなりました。
 それまでのシモンは、イエス様を尊敬し、その特別な力を認めつつも、まだ自分の中心には中心がいました。“漁については私のほうが専門だ。いくらイエス様でも、漁のことは知らない”と彼は思っていました。
 しかしシモンは、ここで理解しました(信じました)。「このお方が私の主だ。仕事も含めて私の生活に関する全てを支配しておられるお方であり、このお方を私自身の中心にお迎えしなくてはならないのだ」とシモンは悟ったのです。
  私たちも今日、シモン(ペトロ)と共に、イエス様のお言葉、神の言葉を聞くことを第一とし、神の言葉に従うという決意を、新たにしようではありませんか。

 イエス様は、別の箇所で、こうも言われました。
 マタイによる福音書6章33節
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
 神の言葉を聞き、神の御心を知り、そして神の国と神の正しさを、私たちは日々求めて参りましょう。
神の言葉を聞き、神の言葉を実践すると言う生き方による恵みと幸いにより、私たちに必要なものは(わたしたちが望むもの)すべて与えられるのです。それが聖書の約束です。