2024年1月19日金曜日

2024年1月21日 主日礼拝

前奏
招詞 ミカ書6章8節
讃美 新生讃美歌 81番  父なるわが神
主の祈り
献金
聖句 ルカによる福音書5章12~16節
祈祷
宣教 「主よ、御心ならば」
祈祷
讃美 新生讃美歌494番  わがたましいを愛するイエスよ
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏


 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書の中の、全身に重い皮膚病を患った人が、イエス様にある願い事をする、という場面です。「重い皮膚病」は以前までの訳では「らい病」と訳されていました。
英語訳では”leprosy”(らい病)と訳されていますが、その欄外に説明されているように「“らい病”と伝統的に訳されてきたギリシア語の単語は、皮膚に影響する様々な病気に対して使われていた」というのが事実です。
この人がイエス様を見ると、イエス様にひれ伏して、こう願いました。

「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」
 
「主よ、御心ならば、(あなたは)わたしを清くすることがおできになります」とは、この人が、イエス様をどういうお方であるかを告白している、一つの信仰告白であるとも言えます。
イエス様は多くの病人たちを癒したり、人々から悪霊を追いだしたりしていましたから、この人もイエス様の噂を人から聞いていたのでしょう。
 この重い皮膚病にかかった人は、そのイエス様を見て、ひれ伏し“主よ”と呼びかけて、“わたしを清くしてください”と願ったのです。それはその人が信じる信仰を表わしていました。

 信仰とは何でしょうか?神を信じるとは、どういうことでしょうか。
神を信じる信仰とは、聖書に証された主イエス・キリストを自分の主、救い主として信じ、主に自分の全てを委ねる、ということです。
 そして信仰とは「神は何でもおできになる」と、神の全能を信じることでもあります。
 この重い皮膚病を患っていた人は、「あなたがそうお望みならば、わたしを清くすることがおできになります。あなたはそういうお方です」と言って、主であるお方を前にして、そのお方を信じるという信仰を告白したのです。

そしてこの人は「御心ならばif you are willing」と言って、あくまで主権は主であるイエス様にあることを認めています。そしてその上で「わたしは清くなりたいのです」という彼自身の希望もはっきりと述べたのです。
祈りとは、このようなものです。“御心ならば”と言って、神は私たちにとっての最善をご存じである、と信じつつ、“私はこう望みます”とはっきりと望むことを私たちは神に申し述べてよいのです。それが祈りです。
 この人が言った“清くなる”とは、まず彼の病気が治る、ということです。

 旧約聖書の『レビ記』13章に、当時の皮膚病の診断の方法、祭司がその皮膚病の人の患部を観察する方法が記されています。
患部を観察した結果、その人が「清い」のか「汚れている」かを、その症状によって判断する方法が、そこで細かく記されています。
 それには当時の医学的な知識が反映されているのかもしれません。おそらく感染の可能性を考慮して、症状によってはその人が隔離されねばならないことなども定められています。
 症状が治れば“清い”、治っていなければ“汚れている”と祭司によって宣言されることも定められています。
しかし、そこで“清い”、“汚れている”とは、あくまでその皮膚病の症状に基づいた判断であって、その人が神の前に罪を犯したかどうかという意味での清い、汚れている、ということではなかったはずです。
 しかし、だんだんと人々は、重い病気、あるいは障害は、その人、あるいはその人の家族の誰かが神に対して罪を犯した結果の罰だと、考えるようになっていきました。

 今、水曜日の祈祷会ではヨブ記を読んでいます。ヨブは神を畏れる正しい人で、悪を避けて生きていました。
しかし、ある時サタンが神と対話をします。サタンは、「ヨブが信仰深く生きているのは、神がヨブに豊かな富や家族を与えているからだ」と言いました。
すると神は、サタンがヨブに試みを与えることを許しました。その結果、ヨブの子供たちは災害で皆死んでしまい、そしてヨブ自身も全身ひどい皮膚病に侵されました。
神の前に正しく生きていたヨブが、サタンの試みのため、子供を失い、ひどい病に侵されたのです。
 ヨブ記は、人間の苦難について私たちに様々に考えさせる信仰の書です。いずれにしても、ヨブの重い皮膚病が、彼自身の罪とは関係がなかったことは明白です。

 しかし、ヨブの友人たちは、ヨブに「あなたがそのような災難に遭うのは、あなたか、あなたの子供たちが罪を犯したからだ」と言ってヨブを責めるのです。
 病気や障害が、誰かの罪の結果であるとは、それは人間には断言できないこと、分からないことなのです。
ある災害や病気、その他不幸な出来事が、私たちが犯す間違いや罪の結果だとは、私たち人には誰にも断言できないし、他者のことをそのように断罪すべきでない、ということです。

 重い皮膚病を患ったこの人は“主よ、御心ならば、わたしを清くすることができます”とイエス様に願いました。
 この人は、病気も苦しかったでしょう。しかし病気以上に、その病気のために“汚れている”と言われ続け、人が共に住む共同体から疎外されていた、という状況が一番つらかったのだと思います。
 “自分は重い病気を患っているけれども、それでも(いや、むしろそのような苦しみを抱えているからこそ)主であるあなたから見てわたしは清い、尊いのだと、教えてください”、とこの人は心から願ったのです。
 イエス様は手を伸ばしてその人に触れました。重い皮膚病の人に触れるとは、当時誰もしなかったことです。人は誰も触れようとしなかったその人に、イエス様は手を差しのべてその人に優しく触れたのです。
 もし今、誰からも理解されない、自分は疎外されている、とお感じの方がおられたら、この人に触れた優しいイエス様の御手が、私たちにも差し伸べられていることを、信じていただきたいと私は願います。

そしてイエス様は“よろしい、清くなれ”とその人におっしゃいました。するとその人の重い皮膚病はすぐに癒されました。
 この人が、他の人は何と言おうとも、彼のことを“汚れている”と言おうとも、「このお方の御心ならば、わたしは清くなれる」と信じ、そう願ったからこそ、この人は癒されたのです。
 私たち人が祈らないと、神は私たちの願いや必要なことを叶えてくださらないのでしょうか。あえて言うならば、その答えはイエスです。
 私たちが祈らなくても、私たちにとっての最善、私たちが本当に望むものを、神は全てご存じです。
しかし、私たちが、自分は何を望むのかということを真剣に考え、望み、それを神に向かって願い、祈ること、そして祈りが神に聞かれるという経験をするならば、私たちは神への信仰と感謝を増すことができます。

祈りが聞かれる経験を通して私たちの信仰の喜びと感謝が増し、そして神との関係を、私たちは更に喜ぶことができるようになります。
そして私たちは、祈りが聞かれる経験を重ねることで、私たちの祈りを聞いてくださる神のことを、他の人にも知らせたい願いと意欲がさらに湧いてきます。
 私たちが祈りの課題を他の信仰者に祈ってもらうことも、私たちの信仰の絆を強めることに繋がります。他の人に祈ってもらうことで祈りが聞かれた、という経験を通して、お互いに祈り合うことの喜びと感謝が増すからです。
 そのように、真剣な祈りを通して、神への感謝と信仰、私たちお互いの間の信仰の絆を私たちは強めていきたいと願います。
 イエス様は、その人の皮膚病が癒された後、「誰にも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」と言われました。

レビ記13章には、皮膚病の症状によって“清い”、“汚れている”と判断する基準が記されている、と最初に申し上げました。
レビ記14章には、症状が治って“清い”とされた人が、清めの儀式で献げ物をすることが定められています。
イエス様は、その人に、当時の律法通りに祭司に自分を見せて、清くなったことを証明してもらい、清めのための献げ物をしなさい、と命じました。
 つまりイエス様はその人に、“信仰の共同体、他の人と共に生きる共同体の中に戻って行きなさい”と命じたのです。
 この人が願ったことは”清くなること“でした。それは病気の癒しだけでなく、そのために外の人たちから隔離されていた状態から、人の群れの中に戻るということでもありました。

この人が願った通りのこと、そして私たち誰にとっても必要な‟他者と共に生きる”生活の中へ、この人は帰っていくことができたのです。
イエス様がその人に“誰にも話してはいけない”と命じられたのは、病気が治るという奇跡的な側面(見かけ上のこと)だけが強調されて人に伝わることをイエス様は恐れたのでしょう。
しかし、イエス様のうわさはますます広まり、大勢の群衆が集まってきました。
しかし、イエス様は人里離れた所に退いて祈っておられた、と今日の箇所の最後の節に書かれています。

 イエス様は、一人静まって天の父なる神に祈るときをいつも大切にしておられました。大勢の人たちが押し寄せてきて、一人静まれる場所を確保することはイエス様には難しいことだったと思います。
 しかし、イエス様は、父なる神への祈りの時間を大切にされ、神の御心をイエス様自身が知ることも大切にされました。
 そして天の父なる神との親密な時間、祈りの時を通して、イエス様自身が神の御愛を豊かに受けておられたのでしょう。だからこそ、イエス様は無限の愛を多くの人たちに、わたしたちに与えることができたのです。
神の御子イエス様にとっても、愛と力の源泉であった神への祈りの時、神との時間を私たちも大切にしてきましょう。
そして私たちの願いを、御心に沿って、必ず聞いてくださる父なる神がおられることを共に信じ、共に神を礼拝する時を、私たちは大切にしていきましょう。
 そのようにして育まれる神への信仰と感謝、お互いに祈り合い、共に礼拝することの喜びを私たちが本当に経験するのならば、そのような私たち教会の姿を通して、イエス・キリストの神はますますあがめられ、キリストの福音は私たちの周りへと拡がっていくのです。