2024年1月27日土曜日

2024年1月28日 主日礼拝

前奏
招詞 イザヤ書25章1節
讃美 新生讃美歌 80番 父の神 われらたたえる
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句  コリントの信徒への手紙二 1章12~22節
祈祷
宣教  「神は真実な方です」
祈祷
讃美 新生讃美歌495番 主よ み手もて
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏

 今日の聖書の箇所は、新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』の1章の中の一部分です。パウロというキリスト教の伝道者が、ギリシアのコリントという都市にあった教会の信徒たちに宛てて書いた手紙です。
 コリント教会は、パウロの伝道によって立てられた教会でした。『使徒言行録』Actsという書に、パウロが初めてコリントへ行った時の様子が記されています(使徒言行録Acts 18章)。
 使徒言行録の17章では、パウロがコリントへ行く前に、ギリシアのアテネへ行ったときのことが記されています。そこでパウロはアテネの哲学者たちを相手に、イエス・キリストこそが主である、ということを熱心に伝えようとしました。

 最初はパウロの話を興味深く聞いていたアテネの哲学者たちも、パウロの話がイエス・キリストの復活に及ぶと、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言って、パウロを嘲笑い去って行った、と書かれています(使徒17:32)
アテネの哲学者たちは、パウロの言うことの大切な部分(キリストの復活)を真剣に聞こうとはしませんでした。
 しかしそのアテネでも、パウロの言うことを信じた人たちもいた、と記されています。同じ福音を聞いても、信じる人と信じない人がいます。同じ話を聞いても信じる人と信じない人とに分かれるのは、不思議です。
 聞いたその時は信じなくても、時間が経ってから、ずっと後になってから信じるというケースもあります。人が主イエス・キリストを信じ、受け入れるのには、そのために(神によって)備えられた時とタイミングがある、ということなのでしょう。

 ですから私たちも、伝道の結果がなかなかすぐには現れなくても、家族や友人、知人へ伝道しても、なかなか信じてくれない、教会に誘っても来てくれない、そのようなことがあっても、神が備えられた時があると私たちは信じ、伝道活動の結果については、神に委ねていきましょう。
 私たちが福音を信じ、福音をイエス・キリストの愛を持って伝えるならば、その働きが神の前に無駄になることは決してないのです。
 福音に生き、福音を伝える働きに仕えることができる幸いに、私たちは感謝したいと願います。
パウロは、アテネの後にコリントへ行きました。パウロはコリントでも、そこにいたユダヤ人たちから激しく反抗されたりと、大変な困難にあいました。

しかし、コリントではパウロの言葉を聞いて、多くの人々がキリストを信じ、洗礼(バプテスマ)を受けた、とも使徒言行録18章に書かれています。
多くの人が信じ信者になったと言っても、この時はまだコリントには、(おそらく、パウロが訪れた他の都市でも)一つの大きな集会所(教会の建物)はありませんでした。
人々は、各自の家や講堂など、人が集まることができる場所を見つけて、礼拝をしていたそうです。
 イエス・キリストの福音は人と人とを結び付け、共に集まって神を礼拝する集会が、そのようにしてあちらこちらで生まれました。

  今のように教会の建物がない状況では、今の私たちには分からない色々な苦労が、人々が集まって礼拝する時にあっただろうと想像されます。
 今私たちには、立派な教会の建物が与えられています。礼拝や集会をするための、この素晴らしい教会が、神からの賜物として私たちに与えられていることを、改めて私たちは感謝したいと願います。
 またこれからもこの教会堂を大切に維持、管理していく(それも福音宣教の働きのため)責任も、私たちは自覚をしたいと願います。
今日の箇所の最初に書かれているのは、伝道者としてのパウロの行動は「人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきた」ということでした。

 「人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきた」―そのことをパウロの良心も証しし、それが彼の誇りでもある、というのです。
 この言葉から分かることは、キリストを信じる信仰を通して私たちは、“誇り”を得られるということです。
 その誇りは自分に根拠を置いた誇りではありません。キリスト者が得られる誇りは、人間の思いや知恵、人の努力や行動を越えた、神の真実と神の恵みに基づく誇りです。

ここでパウロは、自分たち(パウロと、彼を助けて伝道の働きをしたパウロの仲間たち)の行動を誇っているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
彼の誇りの源泉は、あくまでキリストを通して彼を救い、新しい命に生まれ変わらせてくださった主なる神です。
私たちも、キリストを信じるならば、そしてキリストによって生まれ変わり、新しい命を頂いたのならば、私たちは常に自分自身ではなく、主なる神を誇るようになるのです。
そして主が私たちに与えて下さる恵みの下にいつも行動できるようになります。主の恵みによって私たちは生かされ、何ものをも恐れなくてもすむ強さも、主の恵みによって頂けるのです。

コリントの教会は色々な問題を抱えていました。信徒同士の間でグループに分かれての論争や、キリスト者としていかに生きるかという信仰の実践面でも色々と意見の対立がありました。
それら一つ一つにパウロは対処しながら、信者がキリストにあって一つになることの大切さをパウロは語り続けました。
人が集まれば必ず問題がおきます。それは教会でも同じです。しかし、問題が起きることが問題ではありません。問題が起きたときに、その問題にどう向き合うのかが、問題です。
 教会で仮に問題が起きたとして、私たちが人間的な思いや人間の知恵ではなく、聖書を通して示される神の純真と誠実、神の恵みに感謝をして、問題の解決に向けて努力できるかどうかが、大切です。

 ある問題がすぐには解決できなくても、たとえ時間はかかっても、イエス・キリストの恵みと福音は常に変わらず私たちと共にあるのですから、キリストの恵みをいつも頂きながら、私たちも、困難なことがあっても、共に信仰生活を共に送ってまいりましょう。
パウロは、今日の箇所で、コリントの教会の人たちから、あることを理由にして非難されていたようです。
 15~17節に書かれていることから推測すると、パウロはコリント教会を一度離れてから、すぐにまた彼らのところへ戻って来る予定にしていたのに、その二回目の訪問ができなかった(延期した)ということがあったようです。

パウロはそのことについて何と述べているでしょうか。18節~20節をお読みします。

18神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。
19わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。
20神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。

 少し分かりにくい表現もされているとは思いますが、パウロは自分たちが語った言葉、すなわち彼らが宣べ伝えたイエス・キリストは常に“然り”(その通り)だと言うのです。
 パウロはある事情のために、コリントをもう一度訪問するという予定を変更する必要が生じました。そのことでパウロを非難する声がコリント教会の人々から上がりました。
そのような非難に対しても、パウロは変わることのないイエス・キリストを堂々と指し示し続けることによって応答したのです。
細かな理由や言い訳でなく、全てを主に委ねて、イエス・キリストを指し示しつつ、パウロは応答したのです。

 パウロも含め、人間は弱く、罪深い存在ですから、必ず間違いを犯すことがあります。
しかし、そのような私たちに、決して変わることのない(そのお方において神の約束がすべて実現した)イエス・キリストが、私たちには与えられています。
 繰り返しますが、私たち人はいつでも間違いを犯し得ます。間違いを犯した時には、それを認め、反省することが大切です(それがなかなか難しいことですが)。
 しかし、神の子イエス・キリストにおいては、既にすべてが“然り”となったのです。キリストにおいて示された神の約束は永遠の真実であり変わることがない~この事には、わたしたちは常に確信を置くことができるのです。

 20節に「わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」と書かれています。
 「アーメン」とは、“その通りです。真実です”という意味で、私たちはイエス様を通して、イエス様のお名前によって、“神の御心がすべて成就しますように。必ずそうなります”と唱える(祈る)ことができるのです。

そのようにして、いつも私たちは真の主なる神を、讃えることができるのです。
 今日の箇所の最後の21~22節に次のように書かれています。

「21わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。
22神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。」

 私たちは、いつもイエス様と固く結び付けられています。神が私たちをイエス様に固く結び付けてくださっているのです。ですから何ものも私たちをイエス様から引き離すものはありません。
神は私たちの心にも“霊”を与えて下さり、私たちがキリストのものとされ、キリストの福音に与ることの保証としてくださっています。
 私たちの神は真実お方であり、神は決して変わることがありません。イエス・キリストにおいて成し遂げられた救いの出来事は永遠に有効、真実なのです。
その神から与えられた、イエス・キリストによる確かな希望の内に、今週の日々も信仰の道を歩んでまいりましょう。