2024年2月10日土曜日

2024年2月11日 主日礼拝

前奏
招詞  コリントの信徒への手紙二 12章9節
讃美  新生讃美歌 215番 暗いゲッセマネ
主の祈り
献金
転入の証し
聖句  出エジプト記4章1~17節
祈祷
宣教  [神が用意なさるしるし]
祈祷
讃美  新生讃美歌 297番 主によりてあがなわる
頌栄  新生讃美歌 673番
祝祷
後奏

旧約聖書の『出エジプト記』の中から、今日私たちは神のメッセージを共に聞いてまいります。
 主なる神は、モーセという人を選び、モーセを指導者として、イスラエルの民たちを彼らが奴隷生活を送っていたエジプトから導きだそうとされました。
 今日の聖書箇所でモーセは、神に向かって「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言っています。
“彼ら”とは、エジプト王ファラオをはじめとするエジプト人たちのことです。この前に神はモーセに「あなたがエジプト王のところへ行き、イスラエルの民たちを率いてエジプトを出ることを、彼に申し出なさい」とおっしゃったのです。

神が直接モーセに現れ、モーセに語り、「わたしがあなたと共にいる」と約束して、はげましてくださっているのにも関わらず、それでもなおモーセは躊躇いたしました。
 モーセは何をそこまで恐れているのでしょうか。確かに、エジプトの王様とは大きな(絶対的な)権力者です。
 それほど力を持った人の前に出ること、まして「イスラエルの民たちをエジプトから脱出させてください」と言って、その王にお願いすることは、大変な勇気を要することだったでしょう。
 しかし、神がモーセと共におられたのです。モーセが神の偉大さと強さに目を留めることができたのならば、彼はここまで恐れ躊躇して神の命令を拒むことはなかったはずです。

にも関わらず、モーセは何をそこまで恐れていたのでしょうか。
 モーセが恐れていたことの一つに、“変化”というものがあったと思われます。考えて見ますと、モーセはそれまで40年間羊飼いとして生活していました。

 モーセが望んでそのような生活をしたわけではありません。不思議な運命によって、ヘブライ人の家に生まれたモーセは、エジプトの王女に引き取られてエジプトの王宮で育つことになりました。
 しかしモーセが40歳の時、彼は同胞である一人のイスラエル人を助けるつもりで、その人を虐げていたエジプト人を打ち殺してしまいました。
 そのため、エジプト王に命を狙われ、モーセはエジプトを逃れてミディアン地方で結婚し、子供ももうけて、彼はそこで羊飼いとしての生活を送るようになったのです。
 ミディアン地方でのモーセの40年間の生活がどのようなものであったか、詳しいことは聖書には書かれていません。

 モーセのミディアン地方での羊飼いとして(また、夫、父親として)送っていた40年間を想像すると、苦しいこともあったでしょうか、きっと幸せなことも沢山あったでしょう。
 モーセにとっては、ミディアン地方での羊飼いとしての生活こそが、彼にとっての安定であり幸福となっていた、と私たちは想像してもよいと思います。
 そんなモーセに対する神の命令は、彼(モーセ)の慣れ親しんだ生活をすべて捨てることを要求するものでした。それはモーセの生き方自体に、大きな“変化”を求めるものでした。
 やはり私たちは安定した、慣れ親しんだ状態に留まるほうが安心です。色々な意味で、“変ること”にはエネルギーを要します。

 しかし私たちは、もし神がそう望まれるのならば、そして神が導いてくださるのならば、慣れ親しんだ安定したものよりも、変化を恐れずに受け入れることができるものでありたいと願います。

 そしてモーセがそれほど変化を恐れたのは、慣れ親しんだ生活から離れるということ以外に、もう一つの要因もあったと思われます。
 それはモーセの年齢です。モーセはエジプトの王宮で育てられ、40歳の時に、エジプトを逃れてミディアン地方へ行き、そこで40年間羊飼いとしての生活を送りました。
ということは、今日の聖書箇所で、神がモーセに現れて、「エジプト王のところへ行き、イスラエルの民たちを率いてエジプトを離れる、と彼に言いなさい」と命令された時、モーセは80歳だったことになります。

「この年齢になって、これほど多くのイスラエルの民の指導者となるなど私には無理です。エジプト王のところへ行って、王を説得することなど私には無理です」とモーセが思っても無理はないと思います。
しかし、高齢であっても、神が用いて下さるのであれば、それは弱点というよりも、むしろ強みになるのです。
今日の箇所で、躊躇するモーセに神が「あなたが手に持っているものは何か」と尋ねます。モーセが手に持っていたものは杖でした。
モーセが杖を持っていたというのは、モーセが高齢であることを表わす、一つの象徴でもあると思います。
神は、モーセにその杖を地面に投げるようにと命じました。すると杖は蛇に変わり、モーセは驚いて飛びのきます。
神がモーセに、手を伸ばして蛇(杖から変わった)の尾をつかめと命じて、モーセがその通りにすると、蛇は元通りの杖にかわりました。

神は、「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる」と言われました(5節)。
神の力によって杖が蛇に変わる、それが一つのしるしとなって、“神がモーセを遣わされた”ことが明らかになる、と言うのです。
ここで、神がモーセに見せた最初の“しるし”が、モーセが持っていた杖を用いてなされたことは、意味深いことだと思います。
老いの象徴である杖さえも、つまりモーセの高年齢も、神に用いられるのならば、それは大きく用いられるということです。
モーセにとっては高齢であることが、神の命令に従うことに躊躇する理由の一つであったと思いますが、私たちは、私たちが弱点だと思うことさえも、神にそのまま差し出してよいのです。

私たちが自分の弱ささえも、神の御前に差し出すのならば、私たちの思いを遥かに超えて、神は私たちの弱さをも大きく用いて下さることを信じて、信仰生活を歩みたいと願います。
 神はその次に、モーセの手を彼の懐にいれさせ、その手を重い皮膚病にかからせ、モーセがもう一度手をふところに入れて戻すと、手は元通りになるというしるしもお見せになりました。
 神はまた、9節で、それら二つのしるしをもエジプト人たちが信じない場合には、さらにナイル川の水が血に変わるというしるしも用意してくださっていました。
 神は、私たちに必要なものを全て、用意してくださっているのです。必要なものを必要な時に備え、与えてくださる神に信頼して私たちは信仰生活を歩んでいきたいと願います。

 しかしモーセは、それでも、それほど多くのしるしを主なる神が用意してくださっていたにも関わらず、まだ神に従うことができずに、神の召しを拒みます。
10節のモーセの言葉をお読みします。

10それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」

 モーセは、「わたしはもともと話をするのが得意ではありません。話すのが苦手なんです。あなたはエジプト王のもとへ行って話をしろ、と私に命じますが、それでも依然として私は口下手です」と言ったのです。
 ここには、自分自身の能力の限界を自分で定めてしまい、“これは私には出来ません”と言って、神が用いようとしてくださっている自分自身を過小評価してしまう、私たちの姿が表されていると私は思います。

 そこで主はモーセに次のように言われました。
11主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。
12さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」

私たちには、私たちが思う以上のことが、主の助けと主の導きによって出来るのです。
何をするべきか、何を話せばよいのか、主ご自身が語るべきことを私たちに教えて下さると、ここで約束してくださっているのです。
 モーセが神の命令に従うことを、これほどまでに躊躇する本当の理由は、それはモーセが自分自身を信じられなかったからだと私は思います。

 自分はもう若なくない、自分にはそんな能力はない、等と思って、モーセは自分自身が信じられなかったのです。
 ここで大切なことは、“自分自身が信じられない”状態で留まるのではなく、私たちは自分よりも神を信じるということです。自分自身よりも、この私たちを用いて下さる神を私たちは信じることが大切なのです。
 私たちが自分自身や自分の能力しか見ないで、自分だけを信じようとする限り、そこには結局限界と失望しかありません。
 しかし、私たちが自分を見るのではなく、この私を用いてくださる神の偉大さを認め、神に依り頼む時、私たちには私たちの想像を超えた、大きな事が(神の力によって)可能になるのです。

 イエス様が次のように言っておられます。ヨハネによる福音書14章12節です。
 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。

 主なる神、主イエス・キリストを信じる時、私たちはイエス様のなさったような偉大なお働きをすることができるようになるのです。
 それほどの力を私たちに与えてくださる神を信じ、神に頼りつつ、私たちは信仰生活を歩んでいくことができるのです。

 実は今日の箇所では、それでもまだモーセは神に逆らい「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」と言いました(13節)
 これにはさずがの神も怒りを発したと、14節に書かれています。しかし、神は限りない愛のお方です。
モーセにそのように怒りながらも、神のおっしゃったことは、「話すことが不得意なあなたのために、雄弁なあなたの兄弟アロンをわたしはあなたに遣わす」でした。
神は、モーセの兄弟アロンを、彼に代わって話すパートナーとして、お遣わしになることを約束してくださいました。
モーセは神の代わりとなり、神の言葉をアロンに託し、そしてその言葉を託されたアロンが人々にその言葉を話す、というように、彼らは互いに助け合う信仰の兄弟(仲間)として、神によってそこで引き合わされたのです。
わたしたちも、信仰の道を一人で歩むのではありません。伝道活動も、私たちは決してひとりで行うのではありません。
それぞれが神から与えられた賜物を最大限に活かしあい、お互いに尊重し合いながら、互いに支え補い合って、私たちは信仰生活を歩み、神の国を広める伝道活動も行うのです。

教会は、そのような信仰の兄弟、信仰の家族の集まりです。私たちは、まさに神がアロンをモーセに引き合わせてくださったように、助け合うべき信仰の家族として、同じ教会の兄弟姉妹が与えられています。
神によって備えられたこの信仰の家族の一員として、お互いを私たちは尊びつつ、私たちは信仰生活をこれからも共に歩みたいと願います。