2024年2月17日土曜日

2024年2月18日 主日礼拝

前奏
招詞 レビ記19章2節
讃美 新生讃美歌 120番 主をたたえよ 力みつる主を
主の祈り
献金
証し
聖句  ルカによる福音書5章27~32節
祈祷
宣教 「罪人を招いて悔い改めさせる」
祈祷
讃美 新生讃美歌 321番 あだに世をば過ごし
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏


「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所にすわっているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた」という一文で、今日の聖書箇所は始まります。
 ルカ福音書5章の初めには、漁をしていた(魚を取る仕事をしていた)シモン(ペトロ)、シモンの仲間であったヤコブとヨハネがイエス様に呼びかけられて、彼らは「すべてを捨ててイエスに従った」と書かれています(ルカ5章11節)
 今日の箇所でも、ある一人の人(レビという名前の徴税人=税金を集める仕事をしていた人)が、イエス様に「わたしに従いなさい」と言われて、このレビもシモンたちと同様に「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」と書かれています(5章27節)
今日の箇所から、主イエス・キリストの神のメッセージを私たちは共に聞いてまいりましょう。

イエス様は、レビという名前の徴税人が収税所に座っているのを見ました。この時、イエス様は、このレビという人をどのようにご覧になった(見た)のでしょうか。
今日の箇所と同じ話がマタイ福音書9章にも記されています。マタイ福音書では、この徴税人の名前は“マタイMatthew”となっていて、マタイ福音書を書いたマタイと同じ名前であったことになっています。
彼の名前が、レビであったのか、マタイであったのか、あるいは二つの名前が記録されていますが、その人は一人の同一人物であったのか、正確なことは私たちには分かりません。
それらのことを知るために十分な情報と記録を、聖書は残していないからです。

しかし、当時“徴税人”と言われた人たちが、どのような人であったかについては、次のようなことが知られています。私たちの教会の聖書訳である新共同訳聖書の巻末の「用語解説」の「徴税人」の箇所に次のように書かれています。
「徴税人(ちょうぜいにん):ローマ政府あるいは領主(ガリラヤではヘロデ・アンティパス)から税金の取り立てを委託された役職。
異邦人である外国の支配者のために働くばかりでなく、割り当てられた税額以上の金を取り立てて私腹をこやすという理由で、ユダヤ人から憎まれ、「罪人」と同様に見なされた」

このような情報を元に、私たちも、「レビ、あるいはマタイもそのような人だったのだな」と想像します。徴税人は、ユダヤ人から見れば外国人であるローマの支配者のために働く裏切り者です。
レビも、正当な割り当て以上に、人々から(同胞のユダヤ人たちから)税金を取り立てて、私腹をこやしていた人、と私たちも想像するでしょう。
しかし、本当にレビはそのような徴税人だったのでしょうか。“当時の徴税人はこういう人たちだった”という記録があるのだから、レビもそのような人だった、と考えるのは自然でしょう。
しかし、レビが本当にそのような人であったのかどうか正確な事実は分かりません。ひょっとしたら、他の多くの徴税人は不当な利益を得ている中、このレビは、正当な割り当て分しか人々から徴収していない“真面目な”徴税人であったかもしれません。
私がお伝えしたいことは、私たちはその人がどのような人であるのかを考え、評価する時に、非常に表面的(一面的)な部分でしか、判断できないことが多いのではないか、ということです。
“一般にはこう考えられている”とか、“なんとなく、そういう噂が立っている”という理由や、一つや二つの出来事や印象で、私たちは簡単に人を判断してしまうことが(裁いてしまうことさえ)あるのではないでしょうか。

しかし、人間は複雑です。一人の人は色々な側面を持っています。“この人はこういう人だ”と一概に決めつけてしまうことが、いかに私たちの間を分断してしまうことに繋がりかねないか、ということを私たちは知っていると思います。
 私たち人間は、その限られた能力(偏見などがあわさって)人を正しく、そのままに見ること、そしてその人を受け入れることができないことがあります。
 しかし神はそうではありません。今日の箇所で、神の子イエス・キリストが、一人で収税所に座っていたレビを“見た”というのは、「神なるイエス・キリストは、レビという人をしっかりとご覧になり、神はレビがどのような人であったのかを全て知っておられた」ということです。
 神は私たちの事を全て知っていてくださっています。神は私たち人とは違い、人の内面、心の中まですべてを御存じです。

 旧約聖書の『サムエル記上』16章で、サウルという王様が神に従うことが出来ず、王位から退けられたので、サムエルと言う預言者が次の王を捜そうとする場面があります。
 主なる神はサムエルに、エッサイという人を招き、彼の息子たちの中から次の王を見いだすようにと導かれました。
 サムエルは最初、エッサイの息子たちの中で容姿のよい者を見て、“彼こそ王になる者だ”と思いました。
 しかし、主はそこでサムエルにこのように告げました。
 「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16章7節)

 そのような神の視点で、イエス様は徴税人レビをご覧になりました。イエス様は今も、私たちのことも、人が見るようにではなく、神の視点で見てくださっています。
 ですから私たちは安心していてよいのです。私たちがどのような状態であろうと、人からどのように思われていようと(誤解されていようと、あるいは過剰評価されていても)、神は私たちのことを正確に全てご存じであるからです。
 イエス様から見て、レビはどのような人だったのでしょうか。レビが実際にどのような徴税人であったのか、それは最初にも申し上げましたように、はっきりとは分かりません。
 “この人は、他の多くの徴税人とは違い、真面目で公正な徴税人であったかもしれない”と私は申し上げました。

 しかし、事実は逆で、このレビと言う人、他の徴税人たちとは比べ物にならないくらいの悪徳徴税人だった可能性もあるのです!
 イエス様は、レビに何と言ったでしょうか。イエス様はレビに呼びかけられました。
「わたしに従いなさい」。
 「わたしに従いなさい」、「わたしに従ってわたしの弟子となりなさい」とイエス様はレビに呼びかけたのです。
 それは、レビが良い人だったから(真面目な徴税人だったから)ではありません。それはまた、レビが悪い人(悪徳徴税人だったから)ではありません。

 レビがどのような人であったのかは関係なく、イエス様は彼に“わたしに従いなさい”と呼びかけたのです。レビがどのような人であったかには関係なく、レビはイエス様にとって、“わたしに従いなさい”と呼びかける、神の愛の対象であったのです。
それはつまり、私たち人は誰でも、イエス・キリストに従って生きるように召されている(呼ばれている)ということです。神の愛を受けて、神に従い生きるように私たち誰もが呼ばれているのです。
 そういう意味で、私たちは誰もが、レビであり、マタイです。イエス様は、私たちひとり一人に、“わたしに従いなさい”といつも呼びかけてくださっているのです。
 イエス様の呼びかけを私たちが聞いたのならば、私たちはそのお方の呼びかけに、従っていこうではありませんか。

 イエス様から「わたしに従いなさい」と言われたレビは、何もかも捨てて立ち上がり、イエス様に従いました。
 彼はとても喜んでいました。彼が喜んでいたということは、レビが自分の家でイエス様のために盛大な宴会を催したこと、そこへ徴税人やほかの人々が沢山招かれていたことからも分かります。
 幸せや嬉しいことは、そのように分かち合われるものなのです。”幸せは分かち合いたい”と私たちは思います。そのような心の思いも、神から私たちに与えられた賜物です。
 ところがその状況を喜んでいない人たち、徴税人たちと一緒にイエス様とイエス様の弟子たちも一緒に宴会の席についていることに疑問と不平を言う人たちがいました。
 彼らはファリサイ派や律法学者という、聖書の教えを厳格に解釈し、律法通りに“正しく”生きようとしていた人たちでした。(ここでも、最初に申し上げましたように、過剰な一般化を避けなくてはならないと思いますが)

 ここでファリサイ派や律法学者と言われた人たちは、“正しい生き方”をしようと努力していました。そのためには、徴税人のような罪人とは交わらない、ことに彼らは決めていました。
 彼らはイエス様の弟子たちにこう言いました。
 「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
 それに対しイエス様が次のようにお応えになりました。(5章31~32節)
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
 このイエス様のお言葉は、それを聞いたファリサイ派と律法学者たちには、どのように聞こえたのでしょうか。
 彼らにはその意味が分からなかったかもしれません。私たち(クリスチャン)も、このイエス様のお言葉の重みを、本当には分かっていないかもしれません。
 神から離れて、自己中心に生きていた私の罪を赦してくださり、この私と共に食事をしてくださる(共に食事をする、とは本当の意味で仲間になる、生活を共にする、という意味です)イエス・キリストが、私たちと共におられるのです。
 神の前に正しく生きている人には、イエス・キリストの救いは必要ありません。しかし、そのような人が果たしているのでしょうか。
 神の前に自分だけで正しく生きている人は一人もいない、というのが、聖書信仰、キリスト信仰の根幹です。
私たち誰もがイエス様の「わたしに従いなさい」という呼びかけを聞き、キリストを信じて従っていかなくてはならないのです。

キリストのその呼びかけに従って生きる時、神と共に生きるという真の喜びと平安が与えられるのです。
 イエス・キリストが十字架につけられて死に、そして復活した後、復活のイエス・キリストに出会い、キリストの福音の伝道者へと変えられたパウロは次のように言いました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(テモテへの手紙一 1章15節)

「わたしはその罪人の中でも最たる者です」~この告白は、キリスト者としての信仰の一つの大きな到達点であると言ってよいと私は信じます。
 「わたしはその罪人の中でも最たる者です」~これは自分と他者を比較して生まれた言葉ではなく、キリストを一心に見つめ、キリストの愛と赦しが本当に分かった時に、信仰者はそのようにしか告白することができない言葉であると思います。
 「わたしに従いなさい」と言うイエス様の呼びかけに、私たちは日々従ってまいりましょう。そして私たちと共に食事をし、共に生きて下さるイエス様の恵みを、私たちは心から喜ぼうではありませんか。