2024年2月24日土曜日

2024年2月25日主日礼拝

前奏
招詞 ゼファニア書3章17節
讃美 新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句  コリントの信徒への手紙二1章23~2章11節
祈祷
宣教  「わたしの喜びはあなたがたすべての喜び」
祈祷
讃美 新生讃美歌 437番 歌いつつ歩まん
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏


 新約聖書の中の『コリントの信徒への手紙二』の一箇所から、今日私たちは神のメッセージを共に聞いていきましょう。
伝道者のパウロがギリシアのコリントという都市にあった教会の信徒たちへ向けて書いた手紙が、クリスチャンにとっての信仰の書である聖書の一部として、今も私たちに伝えられています。
パウロ、また他の人が書いた多くの手紙が、新約聖書の中には収められています。なぜ、一見すると大変個人的な事柄をも含む手紙が、聖書として残されたのでしょうか?
実際にはパウロたちが書いた手紙が、神から多くの人へ向けた、言わば“神の手紙”としての聖書として残されたのはなぜでしょうか?
聖書はこの箇所以外にも、実際には多くの人たち(神を信じる信仰者たち)の手によって書かれました。

彼らのうちの何人かは(あるいは彼らのうちのほとんどは)、自分が後に『聖書』として、キリスト者の信仰の書として、彼らが書いた文書が残るとは想像できていなかったかもしれません。
しかし、神は、信仰者たちの手を通して、神の言葉が聖書として記録されることを意図されました。
時には、その記録やあるいは手紙が、今日の箇所に書かれているような大変個人的と言いますか、人間的な内容である場合もありました。
それは、神が、当時の信仰者たちの実際の生活、彼らが直面した問題や悩み、苦しみのそのただ中で働いていてくださった(介入してくださった)、ということを表わします。
人間たちが生きる現場の只中で、神がどのように彼ら彼女らに関わってくださったのか、神がひとり一人の命にどのように関わってくださったのか、が実際には人によって書かれた文書から成る「聖書」となって、今の私たちにまで伝えられているのです。
コリント教会には色々な問題がありました。神は「そんな問題は私には関係ない。人間同士の間でそれらは勝手に解決しなさい」とはおっしゃらなかったのです。
聖書によって伝えられる私たちの神様は、私たちの生活のただ中に、私たちと共にいてくださいます。神は私たちが直面する色々な問題や悩み、苦しみに寄り添ってくださっています。

ですから私たちは、どんなことであっても、「神様は大変崇高で偉大なお方だから、こんな小さな私の問題などには関心をお持ちではない」とは思わず、何でも神の前に正直に申し上げてよいのです。
「私の生活のすべてにおいて、主なる神が導いてくださり、願わくは神の御栄光が私の生き方、私が生きるその現場で表されますように」と、キリスト者は願い、祈ることができます。

今日の箇所を読むと、パウロとコリント教会の信徒たちとの間に、何らかの問題と緊張関係があったことが分かります。
 今日の箇所の背景として、パウロは出来ればコリント教会へ行きたいと願いつつ、ある理由があってその訪問を延期していました。
 詳しいことは分かりませんが、今日の箇所ではパウロのコリント教会訪問延期の理由がある程度明かされています。
  今日の箇所の最初1章23節に次のように書かれています。

23神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。

 パウロは、彼がコリントへ戻ることを延期しているのは、彼自身のためではなく、コリント教会の人たちのためなのだ、「神を証人に立てて、命をかけて」主張しています。
 「あなたたちのことを思って、あなたたちのことを愛しているから」わたしは、今はコリントへ行くことを断念しているのだ、と言うのです。
 「わたしは神を証人に立てる」とは、ずいぶん大胆なことをパウロは言っているように見えます。
  しかし、これは「わたしが正しい事は、必ず神が証明してくださる」というよりも、むしろ「もし、私が間違っているのなら、神がその間違いを正して下さるように」という神の前での謙遜な姿勢だと私には思われます。

 次の24節には
24わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。

 コリント教会はパウロの伝道によって作られた教会です。いわばコリント教会の創始者と言ってもよいパウロですが、そんな彼であっても、教会の信徒ひとり一人の信仰を支配することは決してない、というのです。
  教会の創始者であり、指導的立場にあったパウロも、教会の信徒たちひとり一人と、神の前での立場は全く変わらず、平等であるということです。
 だから彼は、「(わたしたちは)あなたがたの喜びのために協力する者ですと言っているのです。
 そして「あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っている」と言って、キリストにある信仰に立っているコリント教会の信徒ひとり一人の信仰をパウロは認めています。
 現在の教会の私たちも、お互いの信仰を支配し合うような関係でなく(自分の信仰や信念を他者に押し付けるのではなく)、互いの喜びのために協力し、仕え合う関係でありたいと願います。
 そして「キリストの信仰に基づいてしっかり立っている」他者の信仰を、私たちは認め、互いに尊重し合いたいと願います。
  イエス様は、人々の病をお癒しになった時、よく「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。

  例えばマルコ福音書5章の中で書かれている、十二年間出血が止まらない病で苦しんでいた女の人をイエス様は癒されました。
 群衆の中、その女の人はイエス様の背後にそっと近づいて、イエス様の服に触れました。「この方の服にでも触れれば癒していただける」とその女の人はかたく信じていたからでした。
 その女の人は、ただちに病が癒されました。イエス様はその人に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。
 癒したのはイエス様です。イエス様は、「わたしがあなたを癒した。私があなたを救った」と言ってもよかったのです。しかしイエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言って、人間の側の信仰、神を求める気持ちを、認めてくださったのです。
  イエス様は、(そして今日の箇所のパウロの言葉も)、私たちがお互いの信仰を認め合い、信仰によって立っている兄弟姉妹同士が互いを尊重し合うことを、教えてくださったのです。

 少し長いのですが、2章1~4節までをお読みします。
1そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。2もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。
3あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。 4わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。

 詳しいことは推測するしかないのですが、パウロは聖書に残されているのとはまた別の手紙をコリント教会に向けて書いて送っていたようです。
 4節に、パウロはその手紙を「涙ながらに書いた」と書かれています。それはパウロがコリントの人たちに抱いている深い愛を知ってほしい、と彼が願っていたからでした。
  パウロはきっと、できるなら今すぐにでもコリントへ行って、教会の人たちと直接話し合って、誤解やその他いろいろな問題を解決したい、と願っていたかもしれません。
  しかし彼には“今は、まだ行くべき時ではない”という思いが神によって与えられていました。
 私たちも、願うことが中々思うように進まないことがあるかもしれません。ひょっとしたらそれは神が“今はまだその時ではない”と、私たちの忍耐を促しておられるからかもしれません。
 自分自身の思いや願いよりも、祈りと御言葉によって、また同じ教会の兄弟姉妹同士の祈りと対話によって、私たちは何をするにも、最善の時と方法を求めていきたいと願います。

 2章5節から11節までには、コリント教会の中で何らかの違反を犯した人に関することが描かれています。
 6節によれば、その人は既に何らかの罰を受けていたようです。パウロは7節~8節で「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください」と言っています。
 ある人が誰かに傷つけられた時、誰かから被害を受けた時、たとえキリスト者であっても、また教会であっても、安易に”人の罪を赦しましょう”と言うことはできないと私は思います。
 傷つけられた人の気持ちが癒され、その人自身が赦しへと歩み出すことを、他の人が強制することはできないからです。
  では私たちは今日の箇所、また聖書の他の箇所でも多く語られる“赦し”、また“赦しなさい”と私たちに命じられていることをどのように考えればよいのでしょうか。

 今日の箇所、7節で「その人を赦して、力づけなさい」は、「あなたたち」(複数形)と言って、教会に向けて語られています。”その人を赦して、力づけなさい”は、教会全体へ向けられた勧めということです。
  私たちは、キリストによって罪赦された者の集まりである教会として、また教会の一員として、共にこの”赦し”という行為をも、神から委ねられているのです。
  こうすれば人を赦せます、という簡単な答えは聖書を捜してもないと私は思います。
しかし私たちはまず、イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪が赦された、という神からの大きな赦しを頂いていることを改めて思い起こしましょう。
すると、キリストから私たちが頂いた赦しを、他者に伝えるということが、私たちにはできるのではないでしょうか。

 今日の10節の言葉に、私たちの赦しについての大きな示唆(ヒント)があるように思われます。10節をお読みします。
10あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。

「(わたしは)キリストの前であなたがたのために赦し」と、ここでパウロは言います。
 これは“キリストが赦した”、そして“キリストが、私を通して、赦した”ということであると思います。
  愛と赦し、それらは神の御子イエス・キリストを通して私たちに豊かに与えられました。キリストの愛と赦しを与えられた私たちは、キリストの教会として、その愛と赦しをも他者へと分け与えていくことを、神から委ねられているのです。
 愛も赦しも、その源はイエス・キリストです。キリストに愛され、赦された喜びが教会全体で分かち合われます。
 私たちが共にキリストの愛と赦しに与る時、そんな私たちを通して、キリストの愛と赦しが私たち以外への他者へも広がることを願いつつ、信仰の生活を、一歩一歩私たちは歩んでいきたいと願います。