2024年2月3日土曜日

2024年2月4日 主日礼拝

前奏
招詞 詩編32篇5節
讃美 新生讃美歌 94番 われらは主の民
祈りの時
主の祈り
献金
聖句  ルカ福音書5章17~26節
祈祷
宣教 「イエスはその人たちの信仰を見た」
祈祷
讃美 新生讃美歌 296番 十字架の主イエスを仰ぎ見れば
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏


 聖書の中のお話には、色々な人間が登場します。人間は本当に様々で、人それぞれ皆違います。
 そのように違った人々が、色々な出来事を通して、神様の恵みと教えを受けて、変わっていく様子が聖書には描かれています。
 ある人達は神様の前に、自分の罪を自覚して悔い改めます。ある人達は、真の神様に出会ったことに感動し、新たな信仰を頂きます。
 しかしある人達は、神を信じることをせず、かたくなな自分自身という殻の中に留まった人たちも登場します。

 今日の聖書箇所(ルカ5章17~26節)の話の中にも、色々な人たちが登場します。まず、イエス様です。イエス様は、人々に神の国について聖書を通して教えておられました。
 そしてファリサイ派と言われた人々と律法の教師たちがそこに(イエス様がおられたところに)座っていた、と書かれています。
 ファリサイ派、そして律法の教師と言われた人たちは、当時の聖書(旧約聖書)の内容をよく学び、研究し、聖書に書かれたその戒めに厳格に従って生活をしていた人たちでした。
 イエス様はそこで、神の国について教えながら、人々の病気も癒しておられました。ですから、どれぐらいの病人がそこにいたのかは、この箇所には書かれていませんが、病気を抱えた多くの人たちもそこにいたと考えられます。
 そして一人の中風を患って床の上に寝たきりだった人がいました。そしてその人をイエス様のところへ連れて来た人たちがいました。(この箇所と同じ話が書かれたマルコ福音書の2章では、“4人の人”がその中風の人をイエス様のところへ連れて来たと書かれています)

 中風とは、脳卒中のような病気の後遺症で、体が麻痺して動かなくなる病気であったと言われます。
 中風を患ったこの人の、おそらく友人か家族だった人たちが、その人をイエス様のところへ連れて行こうとして、必死だったことが分かります。
その人たちは何と、家の中にあまりに人々が沢山いて、イエス様のいる家の中にその人を運び入れることができなかったので、屋根に上って瓦をはがしたというのです。
そして人々の真ん中にいたイエス様の前に、その病人を上から床ごと吊り降ろしました。聖書の話に馴染みがある方は、この箇所を何度も読まれたことがあると私は思います。
中風の人を連れて来たこの人たちの行動は、あまりに衝撃的です。いくら必死に、その人をイエス様のところへ連れて行きたかったと言っても、屋根に上って瓦をはがすとは、無茶苦茶です。

もし今私たちの教会に、人が一杯で入口から普通に入ることが出来なかったので、屋根に上って天井を壊す人たちがいたら、私たちはどうするでしょうか。
おそらくそうなる前に、その人たちを私たちは必死に止めるでしょう。
 イエス様は、そんな彼らを見て、どう思われた(どのように言った)のでしょうか。
「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」と20節に書かれています。
私たちの常識では考えられない行動をその人たちはしています。しかし、イエス様の視点で見ると、その人たちのその行為は“信仰的”であったと言うのです。
それは、その人の病が根本から癒されるには、イエス様のお力がどうしても必要であり、しかも“今、この時”その中風を患った人はイエス様にお会いしなくてはならない、という確信がその人たちに与えられていたということです。

そうでなければ、「こんなに人が多いのだら、今日は諦めて、また次の機会に出直そう」と思うことも、その人たちはできたはずです。
しかし、なぜだか分からないけれども、“今、この時を逃したならば、この人が救われる時はもうこないのではないか”という思いが、神様からその人たちに与えられていたのではないでしょうか。
 この人たちも、屋根に上って瓦をはがすということには当然躊躇したと私は思うのです。しかし、はがした瓦は元に戻すことができる。壊れてしまったところは、あとで直せばよい。
 人たちから怒られたら、必死に謝ればよい(?)。しかし、イエス様に出会い、その教えを聞き、癒しと救いを頂くタイミングは今しかない、そんな直観がこの人たちに与えられていたのではないでしょうか。

 神の霊(聖霊)の導きによって、私たちにも‟今がその時だ”という促しが与えられる時があるかもしれません。
 「今が神を信じる時だ」、「今が、この決心をする時だ」、「今が、あの人に神様のことを伝える時だ」、あるいは「今が、あの人を教会にお誘いする時だ」等々。
 もしそのような促しを受けたのならば、私たちは神を信頼し、神の力によって、その促しに従い、その事を実行していこうではありませんか。
 イエス様は、その人たちの信仰を見て「人よ、あなたの罪は赦された」とおっしゃいました。
 イエス様の言われたそのお言葉は驚くべき一言でした。イエス様以外にも、病気を癒す賜物を持ち、人々の病気を治していた人たち(あるいは医者)は、いたでしょう。

 イエス様が、人々の病気を治している間は、何も問題はないのです。それは普通の人間でもできる行動と能力の範囲内であるからです。
 しかし、罪を赦すことは、神にしかできないことです。律法学者やファリサイ派の人たちが、ここで心の中で考えたという“ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができようか”と21節に書かれているのは正しいのです。
 “あなたの罪は赦された”というこの文章は、文法的には“受動態”です。人の罪は、誰か他のお方によって赦されなくてはならないのです。
そしてそれは、律法学者やファリサイ派の人たちがここで言っているように、神のみが、人の罪をお赦しになることができるお方です。
 はじめに、”聖書には色々な人々が登場する”と私はもうしあげました。中風の人を、イエス様に会わせたくて、すなわちそのお方が特別な力をお持ちであると信じ、イエス様のところへ来た人たちがいました。
 そしてイエス様が“あなたの罪は赦された”と言ったのを聞いて、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と言った(そしておそらく怒った)、律法学者やファリサイ派の人たちがいました。

 正確には、彼らは心の中でそのように考えた、と今日の箇所には書かれています。イエス様は神の子でしたから、彼らがそのように心の中で考えていたこともお分かりになりました。
 そしてイエス様はこう言われました。

 「何を心の中で考えているのか。
23『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
24人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」

 もしイエス様が「起きて歩け」とだけ言って、その中風の人が癒されて立ち上がって歩いたのならば、それで話が終わっていたら、どうなるでしょうか。
 おそらく、その中風の人は歩けるようになり幸せ、周りの人もイエス様を“この人は素晴らしい癒しの賜物をお持ちだ”と称賛して幸せ、誰も嫌な思いをせずに幸せであったでしょう。
 しかし「あなたの罪は赦された」と、神でしか言えないことを言うならば、特にファリサイ派の人たちや律法学者たちから激しく非難されることは避けられないことでした。
 しかしそれでもイエス様は、最初から「あなたの罪は赦された」とその中風の人に言ったのです。
なぜなら、“罪の赦し”こそが一番大切であり、その人が、また実は私たち誰もが必要とするものであったからです。

 罪の赦しとは、神から離れて自分中心に生きていた生き方、神に背いて生きていた生き方を赦され、神との関係の中に再び迎え入れられるということです。
 神との間にそのような平安を頂いていないのならば、たとえ病気が治って体は健康になっても、根本的な魂の問題として、人の罪は残ったままなのです。
そのままでは、あなたたちはいつまでも、どこかいつも不安で、魂に安らぎがないままに生きることになる~それがイエス様が伝えようとしたメッセージでした。
 しかし、人の罪を赦す権威をお持ちのお方を認め、そのお方、すなわちイエス・キリストを信じて生きるのならば、罪赦されたという真の平安が与えられるのです。
 イエス様が、人から激しく非難され、結局最後はそのためにご自身の命さえ失うことになっても、必死になって伝えてくださったそのメッセージを、今日私たちは改めて頂き、信じようではありませんか。

 イエス様は、そう言った後に、その中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。
 罪を赦す権威をお持ちのお方が、その権威をお持ちであることが、そこにいた人たち(特にファリサイ派や律法学者たち)にも分かるように、「立って歩きなさい」と命じられたのです。
 するとその人はすぐに皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げて、神様を賛美しながら家に帰っていきました。
 自分が歩けるようになったことも、その人はもちろん嬉しかったでしょう。しかし、この人は“神様を賛美しながら”家に帰っていきました。
 人が神の御業を見て、神の恵みに喜ぶとき、その人はこのように神を賛美するようになるのです。神に感謝し、神をほめたたえるようになるのです。

 私が牧師としていつも切に願っていることは、教会に集う皆さんが、礼拝を終えて教会を後にする時、皆さんの家へ戻って行かれるときに、神様を賛美するようになることです。
 御言葉の恵みを礼拝を通して豊かに頂いて、新しい週の歩みを神様を賛美しながら歩んでいってくださればと、私は心から願っています。
 今日の箇所の最後の26節を読みますと、そこにいた人々は皆大変驚き、その人たちも神を賛美し始めました。
 神への信仰が多くの人々の間で起こされたのです。神の恵みの御業を見て、中風の人が、罪の赦しの宣言を受けて、そして実際に立ち上がり、神を賛美しながら帰って行った様子を見て、他の人々も皆、神を信じ神を賛美するようになったのです。
 ここでファリサイ派、律法学者と言われた人たち、“神を冒涜するこの男は何者だ”と言った彼らも、ここでイエス様による神の業を見て、主を信じ、神を賛美する者になったと、私は思います。
 そのことは、はっきり書かれていませんが、“皆驚き、神を賛美し始めた”のですから、ファリサイ派や律法学者たちも(少なくとも、彼らのうち何人かは)、神を賛美する者へと変えられたはずです。

神の御言葉を聞き、神の御業を見ることによる喜びが、私たちの間でも分かち合われているでしょうか。神の御業により、私たちも変えられているでしょうか。そうであればと、私たちは願います。
「あなたの罪は赦された」と宣言してくださるイエス様のお言葉を信じ、そのお言葉に従うその時に、最高の喜びが神の恵みを通して、私たちに与えられるのです。