2024年4月13日土曜日

2024年4月14日主日礼拝

前奏
招詞 ヘブライ人への手紙11章8節
讃美 新生讃美歌 10番 主のみ名により
主の祈り
讃美 新生讃美歌 124番 この世はみな
献金
聖句 創世記12章1~7節
祈祷
宣教 「主の言葉に従って旅立つ」
祈祷
讃美 新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏

2024年度の新しい年度の歩みを私たちはスタートしています。今年度、私たちの教会は、礼拝メッセージの中で、聖書の初めから終りまで1年間かけて改めて学んでいこうとしています。
先週は、旧約聖書『創世記』の1章の初め、まさに聖書全体の冒頭の御言葉から、神による創造の御業の言葉を私たちは聞きました。
「初めに、神は天地を創造された」。神のこの言葉が世界のすべてを造り、そして今もわたしたちの世界を動かす力となっています。
神の言葉こそがすべての力、そして希望の源であると、私たちは信仰によって信じることができます。

本日は『創世記』12章から、イスラエルの民たちから“信仰の父”と言われ称えられたアブラハムが、神の言葉に従って生まれ故郷を旅立つという場面から、神のメッセージを私たちは共に聴いていきたいと思います。

今日の箇所の1~3節をもう一度お読みします。
1主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。2わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。3:あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

 ここでの主からアブラハムへ向けて語られた言葉の中で繰り返されている言葉は、「祝福blessing」です。
主はアブラハムに(12章では彼の名前はまだ“アブラムAbram”です。彼は後に神から新しい名前“アブラハム”をいただきます。今日は“アブラハム”という呼び方で統一します)、“生まれ育った故郷を離れ、神が示す地へ行きなさい”と命令します。
実際にどこへ行くのか、具体的な目的地は示されないまま、とにかく主はアブラハムに“私が示す地へ行きなさい”と命じたのです。

それは大変厳しい命令だったと思います。その命令に従うことはアブラハムにとっても、決して簡単に決断できることではなかったのではないか、と私は想像します。
なぜなら慣れ親しんだ場所(故郷)に留まっているほうが、快適であり、安心であったであろうからです。しかし、主はアブラハムに“行きなさい”と命じました。
そしてアブラハムも、主のその言葉に従い、彼は彼の生まれ故郷を離れ旅立ちました。
アブラハムが、具体的な目的地が示されないまま、それでも主の言葉に従い旅立つことができたのは、彼が主の命令の中に、彼に向けた主なる神からの“祝福”を確信できたからだと、私は信じます。
彼にとって安定して慣れ親しんだ、心地よい生活よりも、たとえ厳しい旅路、道程であっても、主の祝福を確信し、主の祝福をいただきながら生きるのが、信仰者が生きる道です。
 主はアブラハムに祝福を与えると約束してくださっています。主ご自身がアブラハムを祝福する、そしてやがてアブラハムが祝福の源となる、というこれ以上ないほどの希望の言葉がアブラハムに主から与えられたのです。

 祝福とは、神が私たちと共に歩んでくださるということ、そして私たちの命、わたしたちの存在を、神ご自身がとても大切に思ってくださっている、ということです。
 主の御言葉(聖書の言葉)を通して、私たちは神からの祝福をいただくことができます。それは“この私の存在を、天地の造り主なる神がとても大切に思ってくださっている”という確信であり、喜びなのです。
私たちの礼拝の最後に“祝祷”があります。“祝祷”は、神の祝福があるということを、宣教者が皆さんを代表して宣言することです。
礼拝の最後に、私たちひとり一人が神の祝福をいただき、神に祝福され、“今週も神が私と共に歩んでくださる。神はこの私をとても大切におもってくださっている”と確信しつつ、喜び溢れて、私たちは教会を後にすることができるのです。

主なる神は、なぜそれほどまでにアブラハムを、そしてまた今の私たちを祝福してくださるのでしょうか。神はなぜそれほどまでに、私たちの事を大切にしてくださっているのでしょうか。
後に、聖書の民であるイスラエルの民たちは、自分たちだけが神に選ばれた特別な存在だと思うようになりました。

旧約聖書の物語を読むと、神は確かにイスラエル民族を選び、彼らにご自身のお姿と名を表わし、彼らを導いておられます。
しかし、イスラエル民族が神に選ばれたのは、イスラエル民族が特別優れていたからではないのです。
そして今の私たちキリスト者も、キリストに選ばれ、イエス・キリストを信じる信仰者とされたのは、それは何も私たちが優秀であったとか、人格的に優れていたから、ということではないのです。
少し長くなりますが、旧約聖書『申命記』の7章6~8節を以下に引用いたします。
 
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

主がイスラエルの民を選ばれたのは、彼らが他の民よりも数が多かった、すなわち彼らが他の民より強かった、優秀だった、優れた資質を持っていたから、ということではない、と神ははっきりと言っているのです。

それは”ただ、あなたに対する主の愛のゆえit was because the Lord loved you”です。天地を造り、そして私たちをお造りになった神が、私たちを神の側からただ愛してくださったからです。
その希望と約束は、イエス・キリストというお方を通して、より一層私たちに確かなものとされました。
イエス・キリストが十字架にかかり、私たちの罪を赦し、私たちに救いと永遠の命を与えてくださったのは、私たちが優れていたからではありません。
それは主なる神の私たちに対する無条件で限りない愛に拠ります。私たちが自分では拭う事のできない罪を、神はイエス・キリストを通して赦して下さいました。
罪とは、“私は人よりも優れている”思い優越感に浸ったりすることも含まれます。また逆に、人との比較によって、神が愛して下さった自分の尊さを認めることができず、劣等感に凝り固まることも、それは含むでしょう。

しかし、あなたの価値は、神の御子イエス・キリストが十字架の上で死んでくださり、御自分がお持ちの栄光も全てを、あなたのために捨ててくださった、という一点にあるのです。
“罪人の私たちもイエス様によって罪赦されて、神の祝福に入ることができる”という希望の内に、私たちは生きることができるのです。これほど大きな祝福と喜びがあるでしょうか。
 私たちは神様の祝福、イエス・キリストを通して与えられる限りない祝福を、共に喜ぼうではありませんか。
先程私は、アブラハムにとって、住み慣れた生まれ故郷を離れることは、それも具体的な行先を知らずに旅立つことは、簡単にできる決意ではなかったのでは、と申し上げました。

私たちは時に、神の言葉に従って、私たちにとって心地よく安心な場所、そのような場所を後にして、神が示す場所へ行くことを要求されることがあり、
その時にはやはり私たちは神の言葉と祝福に信頼して先に進んでいかねばならないのだ、私たちは教えられます。
 私たちは、ある人は死ぬまで生まれ育った地域で生活してそこで生涯を終える、またある人は生まれ育った場所を離れて生活し、そこで生涯を終えるという人もおります。
しかし主の言葉に従うことは、誰にとっても、私たちが今いるところを離れて、別のところへ行くという決断と行動を伴うものなのです。

それは何も物理的に本当に遠いところへ行くことだけを指すのではありません。私たちが、神の御声を聴いて私たちが新たな行動をする時、それは今の自分から離れ、今の自分以上に成長し、主が示すことに従う生き方をする、ということです。
私たちは聖書の御言葉に立ち、その御言葉に聴き従って生きるという決断を新たにするとき、いつでも文字通りの旅立ちではなくても、霊的な旅立ちをそのたびに私たちは実行することになるのです。
 私たちがそのように一歩を踏み出し旅立つその先には、主が用意してくださった祝福が私たちを待っている、そのような希望を私たちは持って日々を歩み、旅立つことができるのです。

そして私たちが覚えたいもう一つことは、御言葉に従って旅立つその歩みは、決して一人の孤独な歩みではない、ということです。
主が先に直接語りかけてくださって、それに応えて旅立つという決心をしたのはアブラハムですが、アブラハムと共に旅立った人達がいました。
アブラハムの妻サライ、甥のロト、また5節にある「ハランで加わった人々」です。
 アブラハムの甥のロトについては、12章の前で、アブラハムの父テラには3人の息子がいたことが記されています。

11章26節「テラが七十歳になったとき、アブラハム、ナホル、ハランが生まれた」。27節~28節「。。。ハランにはロトが生まれた。ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。」
27節で書かれた順番通りであったら、アブラハムが長男、ナホルが次男、ハランが三男であり、このハランの息子がロトですから、アブラハムにとってロトは、末の弟の息子、つまり甥です。
アブラハムにとっては、自分の息子同然の存在であって、長兄であるアブラハムにはロトを育てる義務があったのでしょう。
 アブラハムは甥のロト、妻サライ、そしてハランで加わった人々と共に旅立ちました。
そのように、アブラハムが家族や一族と一緒に旅立ったということは、旅の中で、アブラハムには彼の家族や一族による支えと協力もあったということです。
アブラハム一族、この家族のグループは、きっと共に祈り合ってハランから出発をし、支え合って旅路を続けたのでしょう。

 イエス・キリストを主と信じ、共に聖書の言葉に聴いてそれに従い、イエス様の教えを実現していこうとする私たち教会の歩みも、私たち一人一人がばらばらで歩むものではなく、私たちは“共に”信仰の旅路を歩むべく主に召された神の家族です。
私たちは、主の御言葉に立ち、主の御言葉によって旅立ちます。その歩みは一人の孤独な歩みではなく、共にイエス・キリストを救い主と仰ぐ信仰の仲間との共なる歩みです。
普段別々の場所で生活している私たちが毎週主の日に教会に集まって、共に礼拝を捧げること、共に神を礼拝することを決してやめずに、主を讃美しつづけていきましょう。
主なる神が、御言葉により、大きな祝福を私たちに与えると約束してくださっています。その約束を信じ、希望の新年度を私たちは共に歩んでいきたいと願います。