2024年4月6日土曜日

2024年4月7日 主日礼拝

前奏
招詞 ヘブライ人への手紙11章3節
讃美 新生讃美歌 10番 主のみ名により
祈りの時
主の祈り
讃美 新生讃美歌 125番 造られしものよ
献金
聖句 創世記1章1~5節
祈祷
宣教 「初めに、神は天地を創造された」
祈祷
讃美 新生讃美歌 121番 み神の力をほめたたえよ
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏

 今日私たちは、2024年度最初の主日礼拝を献げています。日本では一般に、この4月から、新しい年度が始まります。
 学生の方は、新しい学校へ進学、または進級された方もいらっしゃると、私は想像します。皆さんの新しい学年が、実り多い、神様に祝された学年になりますようにと私は祈ります。
 私たちの教会も、4月から新しい年度に入り、今年度私たちは「主の御言葉に立つStanding on the Word of the Lord」という年間標語を掲げ、教会生活を共に歩んでいきます。
  キリスト者とは、イエス・キリストが神(人となった神、人であると同時に神でもあるお方)と信じ、キリストを自分の主(Lord)として従いながら、生涯を生きる決意をした人です。
 先週の3月31日の日曜日には、十字架にかけられて死んだ、私たちの主イエス・キリストが、三日目に復活をした出来事を記念し、お祝いするイースター(復活祭)礼拝を私たちは献げました。
  主イエス・キリストが復活し、そのお姿を弟子たち始め、多くの人々に現わされたことで、イエス様が確かに神の子であったこと、そしてイエス様のお言葉と行いは、まさに神ご自身のお言葉と行いであったことが確証されました。
 復活したイエス様は天へ戻って行かれました。今、神のお姿、イエス様のお姿は私たちの目には見えません。しかし、神は聖書の言葉を神のお言葉として私たちに残して下さいました。
ですから私たちは今も、聖書の言葉を通して、神の御声を聞くことができ、神の御心を知ることができます。
ただ聖書は一人だけで読んでいると、自分に都合のよい読み方、自分の好みに合わせた読み方をしてしまう危険性があります。なにより、やはり一人だけで読んでいては分からないという箇所も聖書には沢山あると思います。

もともと聖書の御言葉は、その言葉が読まれて、そして読み上げられた言葉を人々が共に聞いて、分かち合うために、纏められた言葉です。
ですから私たちは、一人で聖書を読むことも大切ですが、他の信仰者と一緒に聖書の言葉を読み、分ち合う、そして教会の礼拝の中で御言葉を共に聴くことも大切にしていきましょう。
そうすることで、自分一人だけで読んでいては決して分からなかったような、多様で豊かな御言葉の解釈に触れることもできます。
そのようにして今年度、私たちは御言葉中心に、御言葉を拠り所として歩むという信仰を建て上げていきたいと私たちは願います。

 今年度は一年間をかけて、聖書全体を旧約聖書から新約聖書まで通して、礼拝のメッセージの中で私たちは取り上げていきます。
  新年度最初の主日礼拝の今日は、旧約聖書の最初の書物である『創世記』の冒頭、1章1節から5節の言葉を中心にして、主の御言葉を私たちは聞いていきます。
 1節の「初めに、神は天地を創造された」という文から創世記、そして聖書全体が始まります。神が天地の造り主である、と聖書は冒頭からはっきりと宣言するのです。
「初めに、神は天地を創造された」。この一文は非常に簡潔であり明瞭な文です。そしてこの文ほど、力強く、美しく、圧倒的な力を持って人間に迫って来る言葉はないのでは、と私には思われます。

すでにイエス・キリストを主と信じ、信仰を告白しておられるお方にとっては、ご自分が信じておられる神とは、天地を(万物を)お造りになった、まさに創造主なのだ、とうことを改めて思い起こさせるのが、この一文です。
聖書にまだそれほど馴染みのないお方にとっても、創世記冒頭のこの一文は、“世界のすべてを、宇宙を含む天地万物を造られた唯一のお方が確かにおられる”という真実を告げる言葉です。
この一文を繰り返し読み(聞き)、心の中で黙想(思いめぐらすこと)するならば、この一文が、人間の考えや感情から生み出された言葉ではない、ということが明らかになります。
創世記の最初のこの一文から、私たちは「聖書を通して、私たちは神の創造の物語(真実)を聞き、それを体験することになる」ということをも教えられます。
 神が天地を創造されたということを、いきなり聞くと、どのように受け止めてよいか分からず、戸惑うというお方もおられるかもしれません。
「天地を創造したという、その神ってどんな存在?」という疑問が浮かぶかもしれません。その疑問に対する答えは、聖書全体が、特に新約聖書の福音書と言われる書物を中心にして、答えを提供してくれています。

ですから私たちが聖書を読む(聖書の言葉を聞く)ということは、「神とはどのようなお方か」ということを、私たちが繰り返し聞き、学ぶという過程でもあります。
わたしたちが聖書の言葉、すなわち主なる神の言葉に立って生きていこうとするとき、私たちに求められるのは、私たちが心を開く、ということです。
私たちは人生経験を重ねるほどに、自分なりの経験や考え、また自分の実力や能力といったものも段々と身につけていきます。
時には、聖書が言うことが、その自分の考えや経験、自分の感覚とは相いれない、ということがあるかもしれません。
そのような時に、心を閉じてしまうのではなく、一旦心の扉は開けた状態にしておいて、「この言葉はどんな意味があり、私とどんな関係があるのですか」と言って、素直に神に尋ねる、また他の信仰者に聞いてみる、という姿勢を持つとよいと私は思います。
最終的に、神を信じ、神の創造の御業を信じることは、信仰によって与えられるものです。そして信仰は、私たちが自分自身の思いや考えに固執せず、ある意味自分を捨て、心開き、神を心の中に受け入れることによって、私たちに与えられます。

新約聖書のヘブライ人への手紙という書物の11章3節に次のように書かれています。

ヘブライ人への手紙11章3節
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 信仰によって、神の創造の業を私たちは信じ、そして神が創造したこの世界の中に私たちは生かされているということの驚きと、その喜びを分かちあっていきましょう。
 創世記の冒頭である今日の箇所には、神が最初に言われた言葉が記されています。記念すべき神の第一声(私たち人間に伝えられている、という意味での第一声)は、「光あれ」let there be lightでした。

 3節「光あれ」

神の言葉によって光が現れました。神の光がない状態が2節に書かれています。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 神の光が無い状態は混沌(形なく、虚しい、秩序の無い状態)であり、闇です。しかし神はこの世界に神の光が輝くようにしてくださいました。
  混沌とした闇の中で私たちは生きていくことができません。秩序のない暗闇のなかで、私たちはどこへ進んでいけばよいのかが分かりません。
 しかし神は光をお造りになり、私たちに神の光に従って、その光の中を歩んで生きるようにしてくださいました。

  新約聖書では、この光について、次のように言われている箇所があります。
コリントの信徒への手紙二 4章6節です。

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 光とはすなわちイエス・キリストの光だ、イエス・キリストの栄光(神の栄光)の光だと、言うのです。
神は混沌と闇ではなく、光がある世界を創造されました。そして神は私たちひとり一人も、その光、すなわちイエス・キリストという光を心の中に頂いて生きる者となるように創造されました。
 イエス・キリストという光が、私たちに先立って進み、私たちがどこへ行けばよいのか、どう生きればよいのかを指し示してくださいます。
 キリストによって示される道を私たちが見ることができるため、私たちは聖書の御言葉を読んで、祈るのです。
祈りとみ言葉を通して、神すなわちキリストの光によって照らされる道を私たちが選び、その道を私たち共に歩んでまいりましょう。

 今日の箇所は創世記1章1~5節までですが、1章全体を通して神が世界のあらゆるもの、人を含む生きる物をも、神の定めた順序に従って創造されたことが描かれています。
  1章31節の前半に次のように書かれています。

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

 聖書はこのように、神がこの世界のあらゆるものをお造りになり、そして神から見て、それらは全て“極めて良かった”と言うのです。
 神が造られたこの世界と、そしてその世界にあるもの、そこに住むものはすべて神が造られたのであり、それらはすべて神の目から見て“極めて良い”ということです。
 私たちの目には、私たちの住む社会や世界が、またそこで起きていることが良いものだとは思えないことも沢山あります。
 特に、人と人とが集団同士で、あるいは国同士や組織同士で争う悲惨な戦争が世界で絶え間なく続いている現実を見ると、そんな世界が極めて良い、とは信じられないこともあるとわたしは思います。
 ここで、今年度の私たちの教会の標語、そして関連聖句の詩編19篇8~9 (7~8 NIV)の言葉を聞いてみましょう。

「主の御言葉に立つ」
詩編19篇8~9
主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。

 詩編19編の該当箇所で、主の律法、定め、命令、戒めと書かれているのは、すなわち主の御言葉です。
 神の光はどこにあるのでしょうか。悲惨で残酷な現実で溢れているように私たちの目には映る世界の一体どこに、神の光と希望があるのでしょうか。
 それは、私たちが、私たち自身の考えや自分の目に見えることだけを通して世界を見るのではなく、主の御言葉(聖書の御言葉)を通して世界を見る時に、そこに神の光と希望があることを私たちは認めることができるようになります。
 私たちが主の御言葉に依り頼み、御言葉を頂く時、神の光が確かに世に輝いており、神の創造の業が“極めて良い”ものであることを認めることができるようになるのです。
 私たちが信仰によって、神の創造の良き業の一つ一つを認めることができるとき、その度に私たちの身の回りから、混沌ではない神の平和が造りだされていくのです。
 「初めに、神は天地を創造された」。この言葉は真実であり、希望です。
神が創造された天地、世界は“極めて良い”ものです。神が創造された世界に生きる喜びを、御言葉の光を通して私たちはいつも豊かに頂いてまいりましょう。