2024年4月27日土曜日

2024年4月28日 主日礼拝

前奏
招詞 ローマの信徒への手紙13章8節
讃美 新生讃美歌 10番 主のみ名により
主の祈り
主の晩餐
讃美 新生讃美歌 81番 父なるわが神
献金
聖句  出エジプト記 20章1~17節
祈祷
宣教  「十戒」
祈祷
讃美 新生讃美歌 523番 主われを愛す
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏


 今日の聖書の箇所は、旧約聖書の『出エジプト記』20章の“十戒”の部分です。神がモーセに、聖書の律法の中でも最も重要であり中心的な十の戒めを与える場面です。
 “戒め”とは、ルール(規則)と言い換えることもできます。一般的に言って、社会には法律というルールがあります。またスポーツやゲームなどにもルールがあります。
 ルールがあるので、私たちは秩序を保って社会生活を送ることができます。お互いに約束毎を定めて、それを守って生きることで、お互いに生活がしやすくなります。

 スポーツやゲームをする時に、ルールを守って行うので、お互いに公平にそのスポーツやゲームを楽しむことができます。
 しかし、規則を破ってでも成功したい、ルールを破ってでも相手に勝ちたい、と思う人が時々出てきます。
 法律を守らずにお金を儲けたりしても、もし法律違反が発覚すれば、時に厳しく社会的に罰せられます(原則的には)。
ゲームでもルール違反が発覚すれば、なんらかのペナルティを受けるかもしれませんし、そもそもルールを守らずゲームをしていても面白くないでしょう。

 では神の律法は何のためにあるのでしょうか。
十戒の最初の部分を見ることで、その事を私たちは考えたいと思います。

1神はこれらすべての言葉を告げられた。
2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

十戒の初めに、神は御自分がどのようなお方であるのかを明らかにしておられます。先ず神は、「わたしは主、あなたの神」と言います。
 神は、この天地の造り主、という意味で“主Lord”です。神は、私たちの世界の全てを、私たちの命をも支配しておられるお方、という意味で“主Lord”です。 

 神こそが全ての主権、すべてにおいての主導権をお持ちである、という意味で、神は“主Lord”です。
 そしてそのようなお方が、“わたしは主、あなたの神”であると言われるのです。
天地の造り主である主が、“あなたの神”すなわち、私たちそれぞれにとっての”わたしの神my God”であると言うのです。

主なる神は私たちひとり一人を限りなく愛し、“私はあなたの神だ”と、モーセに向けて、イスラエルの民に向けて、そして今も私たちひとり一人に向けて、宣言して下さるのです。
もちろん神は“わたしたちの神”でもあります。私たちは誰も神の愛と恵みを独占することはできないからです。
しかし、神は、私たちひとり一人とも、特別な個人的な関係を持とう望んでくださっています。
「わたしは、あなたの神だ」という神の宣言により、その事が明らかになっていると、私は信じます。

今聖書を通して神の声を聞く私たちも、「神は、このわたしの神なのだ」と確信し、神との親密な関係の中に招き入れられているのです。
新約聖書の『ヨハネによる福音書』の中で、復活したイエス様に出会った弟子のトマスが次のように言っています。
復活のイエス様が最初に弟子たちの前に現れた時、トマスはその場にはいませんでした。
トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言っていました(ヨハネ20:25)
復活のイエス様は、そのトマスの前にも現れてくださいました。イエス様はトマスに、“ご自分の手を見て、脇腹に手を入れてみなさい、信じない者ではなく、信じる者になりなさい”と言われました。
するとトマスは「わたしの主、わたしの神よMy Lord and my God!」と言って、復活したイエス様を信じました(ヨハネ20:28)。
トマスは、復活のイエス様の、ご自分(トマス)に向けられた限りない愛と優しさに打たれ、“このお方は、たしかにわたしの主、わたしの神なのだ”と告白することができたのです。
 
 出エジプト記の今日の箇所では、神の側から最初に、「わたしは主、あなたの神だ」と宣言してくださっています。
 それは、たとえ私たちが信じなくても、「わたしは主、あなたの神だ」というこの神の言葉は有効であり、真実であるということです。
 神はわたしの主であり、わたしの神であることは、神ご自身が既にそのようにお決めになったことだからです。
 後は、私たちがその神の呼びかけを信じ、神に従っていきるかどうか、ということだけが問題なのです。

 「わたしはあなたの神だ」と言って下さっている神の御声を、私たちは信じ、その御声に従って生きていきたいと願います。
 そして「わたしは主、あなたの神」に続き、神は「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導きだした神である」と言います。
 神は主であり、“このわたしの神”であり、そしてその神は、実際の行いを通して、イスラエルを(その一人一人を)エジプトの国、奴隷の家から導き出した、というのです。
 聖書の神は、ご自分の民の救いのために自ら行動を起こしてくださるお方である、ということです。
 私たちが聖書を読み神の言葉に触れる時、そして聖書の言葉を通して日常の生活を送る時、その時確かに自ら行動を起こしてくださっている神の存在を、私たちは知ることができます。

 私たち信仰者がそれぞれの信仰生活の中で、色々と難しい困難な経験をしながらも、その度に、神によって助けられ救い出されるという経験をしています。
 新型コロナ感染症の拡大が始まってから、また感染拡大のさなかに、実際に感染を経験して苦しんだり、またそれ以外にもコロナに関わる様々な影響を受けて、私たち誰もが、色々と大変な経験をしたと思います。
 特に、こうして皆で一緒に集まることを大切にしていた教会にとって、集まることへの制限が大きく課せられたことで、とても難しい判断を、その時々で迫られました。(今も、まだそれは終わってはいませんが)

 しかし、そのような時にも、神の守りは確かにあった、神は共にいてくださったと、わたしは信じます。不確かなことが多い中、私たち人間は色々と判断を誤ったり、間違いをしたりしたかもしれません。いや、きっとそうでしょう。
しかし、エジプトの地からイスラエルの民たちを導きだした主なる神は、今も変わらず私たちと共におられ、私たちをいかなる困難の中からも救い出してくださる、と私たちは確信してよいのです。

 新約聖書の中で、パウロという伝道者が、色々な困難の中から神が彼を救い出してくださった経験を次のように言っています。
わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。

9わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
10神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(コリントの信徒への手紙二 1:8~10)

 イスラエルの民たちをエジプトから救い出し、そしてパウロを様々な死の危険からも救い出してくださった神が、今の私たちをも救い出してくださると、私たちは信仰によって信じ、生きていきたいと願います。
 そして困難な経験の中で、“自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにする”ことを、私たちも学んでいこうではありませんか。
 今日の4節に「あなたはいかなる像も造ってはならない」と書かれ、私たち人間が神でないものを神として、自分で作った像をも神としてしまう“偶像礼拝”の罪について、言われています。

 イスラエルの民をエジプトから救い出し、そしてイエス・キリストを通して、私たち全ての者を罪より救い出してくださった唯一真の神をこそ、私たちは信じ礼拝するのです。
 私たちは常に、私たちが礼拝すべきお方、主イエス・キリストの神から目を離すことがないように、私たちの心、思い、精神、力を尽くして、主イエス・キリストのみを礼拝するように、心低くして信仰の日々を送っていきましょう。
 今日のメッセージで、十戒のすべてを網羅することはとてもできません。しかし、最後に8節から11節までの“安息日”について戒めについて、私たちは共に思いを巡らせたいと思います。

8節から10節前半までに次のように書かれています。

8安息日を心に留め、これを聖別せよ。
9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。

 この安息日の戒めについても、その主体と中心は神です。私たちが一週間のうち六日は働いて、七日目にはいかなる仕事もしてはならない、というのは、神の創造の業がその基になっています。

 11節に「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」と書かれています。

 神がそのように世界を創造されたので、私たちも神の創造の業に倣(なら)って、六日の間は働き、そして七日目は主の安息日として、完全に主のために取り分け、それぞれがしていること(仕事)をやめる、ということです。
 十戒の中でも、特に現代の私たちにとって守ることが最も難しい戒めは、この安息日に関する戒めではないかと、私は思います。
 「何か(価値あると思われること)を、いつもしていること」が重んじられる世の中にあって、週の一日は完全に何もしない、自分のしていることを中止し、ただ主にのみ献げることを本当に実践するのは、非常に難しい事であると私は思います。

 しかし、わたしたちはそのように世の中が益々忙しくなり、「あなたは何ができるのか?」、「あなたはどれほど有能なのか?」が問われる時代の中でこそ、ますますこの安息日の戒めの重要さ、そしてこの戒めを通した神の愛を教えられます。
 それは、私たちの価値は、わたしたちが“何を(どんな価値あることを、利益につながることを)できるのか”とは関係がない、ということです。
 私たちの価値は、この世界を創造され、今も世界の主権者である神によって私たちは造られた、ということにあります。
 私たち価値は、神の御子イエス・キリストが十字架の上で命を私たちのために捨ててくださった、ということにあります。
 私たちの生きる喜びは、創造主である神が「わたしの神」であることを知り、そしてその神にこの私が知られている、という恵みの中に生きる事です。
 私たちの信仰の喜びは、イスラエルの民たちをエジプトから救い出し導きだした神の救いの御手が、今の私たちにも差し伸べられている、という点にあります。
神の、そのような限りない救いの御業、恵みの御業を覚えつつ、十戒の戒め一つ一つについて、私たちは、それらが“わたしたちを生かす命の戒め、そしてわたしたちに神の愛を伝える戒め”であることを続けて学んでいきたいと願います。