2023年1月14日土曜日

2023年1月15日 主日礼拝

招詞  ヨハネによる福音書17章21節a
賛美  新生讃美歌 1番 聖なる 聖なる 聖なるかな
主の祈り
献金祈祷
聖書   創世記47章27~31節
祈祷
宣教   「ヤコブの遺言」
https://youtu.be/YLY5_Z1yK5E
祈祷
賛美  新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷


 今日の聖書箇所、創世記47章27~31節には、日本語聖書(新共同訳聖書)では「ヤコブの遺言」という小見出しがつけられています。ここは、ヤコブという一人の信仰者が、その地上での命を終えようとしている時に、自分の願いを息子ヨセフに託している場面です。
 ごく簡単に(短く)ヤコブ、そしてヤコブの息子のヨセフについての、ここまでの生涯を振り返ってみましょう。ヤコブは、父イサク、母リベカとの間に、双子の兄弟の弟として生まれました。
二人の兄弟が成長すると、弟のヤコブは兄エサウから大変な憎しみと怒りを買うようになってしまいました。
その理由は、ヤコブが、兄エサウがもらうべき“長子の特権”を奪ったり(創世記25章27節~)、これもまた兄エサウが受けるべきであった父イサクからの“祝福”を(父イサクをも騙す形で)ヤコブが奪ったりしたからでした(創世記27章18節~)。
 ヤコブは、兄から逃れるために生まれ故郷を離れました。そして伯父のラバン(ヤコブの母リベカの兄)のところへ行き、ヤコブはラバンのもとで約20年間働くことになりました。
 ヤコブはやがて故郷に帰り、兄エサウと再会・和解することができました。創世記の物語は、それからヤコブの息子の一人のヨセフを中心とした物語に焦点が移っていきます。
 ヨセフは兄弟たちの中で下から二番目の弟でした。父ヤコブは、ヨセフを上の兄たちよりも愛しました。ヨセフは、ヤコブが愛したラケルとの間に生まれた子供であったからです。

ヨセフの兄たちは、ラケルの姉のレア、またレアとラケルのそれぞれの召使いの女とヤコブの間に生まれた子たちでした。
そのような複雑な背景もあり、またヤコブがヨセフを偏愛したということもあって、他の兄たちはヨセフを憎むようになりました。(創世記37章3~4節)
結局ヨセフは兄たちによって、(正確には、商人たちの手によって)生まれ故郷のカナンからエジプトへと売られてしまいます。
エジプトでヨセフは色々なこと経験しながら、主なる神に守られ続けました。やがてヨセフは、エジプト王のファラオに次いで国を治める責任者の役割を与えられるようになりました。
そしてその時代に各地で飢饉が起き、ヤコブたちが住んでいたカナン地方も大変な飢饉に見舞われました。
しかしエジプトでは、ファラオが見た夢の内容をヨセフが解釈することにより、飢饉が来ることが事前に予想されていたので、エジプトには食料が豊富に蓄えられていました。

ヤコブの息子たちは、家族が生き残るために、エジプトへ食料の調達に来ます。そこで彼らはかつて彼らが捨てた弟のヨセフと再会しました。
そしてヨセフの勧めがあって、父ヤコブと他の息子たち家族は全員、カナン地方からエジプトへ移り住むことになりました。
死んでしまったと思っていた息子ヨセフに再会できたことは、ヤコブにとっては大変な喜びでした。また、大変不思議なそのような神の導きによって、ヤコブの家族は飢饉を逃れて生き延びることができました。
ヤコブはカナンからエジプトへ移り住んだ時は130歳でした。そして今日の箇所(創世記47章28節)を読みますと、ヤコブはエジプトで17年生きて、147歳まで生きました。

今日の箇所は、自分が死ぬ時が近づいたことを悟ったヤコブが、息子ヨセフにあることをお願いするという場面です。
私たち誰もが必ず死ぬ時、この地上での生を終える時がきます。必ずやってくる死に備えて、私たちは必要なことや、“自分はどのように命を終えたいのか”ということについて、普段から真剣に考えることが大切であると思わされます。
ここでヤコブはある事を息子のヨセフにお願いします。ヤコブの言葉をもう一度聞いてみましょう。

29イスラエルは死ぬ日が近づいたとき、息子ヨセフを呼び寄せて言った。「もし、お前がわたしの願いを聞いてくれるなら、お前の手をわたしの腿の間に入れ、わたしのために慈しみとまことをもって実行すると、誓ってほしい。どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。
30わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。」

ヤコブの願いは“自分が死んだら、自分の遺体はここエジプトには葬らないでほしい。自分が死んだら、亡骸をエジプトから運び出して、先祖たちの墓へ葬ってほしい”という願いでした。
“先祖たちの墓(父たちが葬られている場所)”というのは、ヤコブにとっては祖父にあたるアブラハムが、もともと妻のサラのために購入した墓地を指します。
創世記23章に、アブラハムの妻サラが死んだ時、アブラハムが妻サラを葬るための墓地として、エフロンという人から“マムレの前のマクペラの畑(そこにある洞穴と周囲の木々を含む)”を、墓地として買ったことが記されています。
アブラハムはそのマクペラの畑の洞穴に妻サラを葬りました。そしてアブラハム自身も、また息子のイサクも、死んでその同じ墓に葬られました。
そしてヤコブも、“死んだらその父祖たちの墓に連なって葬られたい”と希望をし、その希望を彼は息子ヨセフに託したのです。

“父祖と同じ墓に葬られたい”という希望は、ヤコブにとっては“私も父祖(アブラハムとイサク)が信じた同じ主なる神を信じ生き、神によって守られた”という信仰の証しでもあったと、私は思います。
それは“同じ神を信じ、守られて生きたことを感謝し、私の信仰の最後の証しとして、先祖と同じ墓に葬ってほしい”という思いだったのではないでしょうか。
そしてそのことを“わたしのために慈しみとまことを持って実行すると、誓ってほしい”とヤコブはヨセフ言っています。(29節)
ヤコブは、息子ヨセフがそのことを心からの慈しみとまこと、そして父に対する愛情と神に対する信仰をもって果たしてほしい、と願ったのです。”ただ義務的に行うのでなく、真心をもって自分の願いを聞いてほしい”という、それはヤコブの純粋な願いだったのでしょう。
思っていることや自分の願いを正直にはっきりと言葉に出して伝えることは、私たちにとって簡単なことではないと私は思います。

しかし何か人にしてほしいと願うこと、他者や家族に“こうしてほしい”と私たちが望むことがあれば、それを言葉にして伝えるということは、やはり大切なことです。
言葉に出して願いや思いを伝えること(正確に伝える)ことは難しい場合もあるので、言いたいことが上手く言えずに、誤解が生じるということもあるでしょう。
それでも私たちは、大切なことは言葉にして(愛を持って)相手に伝えるということ、そして相手の話も自分のことと同じぐらい大切なこととして丁寧に聞く、ということを心掛けたいと願います。
そのような努力を重ねることで、お互いに正直に気持ちを打ち明け合うことを通して、私たちは互いへの理解を深めていくことができるのです。

そしてヤコブが、自分が死んだらエジプトではなく生まれ故郷の自分の父祖の墓に葬ってほしいと願ったのには、信仰的にもう一つの重要な理由があります。
それは、“ヤコブが神の約束を最後まで信じていた”ということです。ヤコブには、エジプトに来る前に、「あなたをエジプトから必ず連れ戻す」という神からの約束が与えられていたのです。
創世記46章の初めに、ヨセフがエジプトで出世して生きていることを伝えられたヤコブたちが、エジプトへ向けて旅立つ場面が描かれています。
その時ベエル・シェバで、幻の中で神がヤコブ(イスラエル)に現れて次のように言ったのです。
「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」
(創世記46章3~4節)

“神はエジプトから私を(生まれ故郷カナンへ)連れ戻してくださる”~ヤコブは最後まで神のその約束を信じたのです。
“自分がこの地上での命を終えて、亡骸となったとしても、私のその亡骸をあなたが故郷カナンに戻してほしい”、“そのようにして、神がわたしにしてくださった約束を、あなたの手によって全うしてほしい”~ヤコブのこの時の遺言にはそのような意味が込められていたのではないか、と私は思います。

ヤコブの遺言は、今の私たちに向かっても、次のようなことを伝えていると思います。
それは“神の約束は、私たちの思い、あるいは私たちひとりの人間の生涯という枠を超えても、神ご自身の大きなご計画の中で実現する”ということであり、
“私たちは、私たちの思いや一人の人間の生涯を超えた、神の大きなご計画と導きの中に生かされ、守られている”ということです。
 私たち誰もが必ず、この地上での命を終える時が来ます。その時私たちは“わたしの生涯は常に神に守られ、神の大きな御計画の中に生きることができた”と思えるのならば、それは本当に幸いなことであり、恵み、勝利であると私は信じます。

 新約聖書の時代、十字架に掛けられて死に、墓に葬られて、そして死に打ち勝ち復活をした主イエス・キリストが弟子たちを宣教のために派遣するとき、イエス様は弟子たちに次のようにおっしゃいました。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)~神が人となったイエス・キリストのこの言葉が、時を超え、場所を超え、いついかなる時も私たちを支えてくれています。
私たちはひとりではないのです。本当の意味で私たちは決して孤独ではないのです。主イエス・キリストの神が、“世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる”と約束してくださっているからです。
今、新たな道を踏み出そうとしておられる方もいるかもしれません。恐れることはありません。“いつもあなたと共にいる。私があなたを連れ戻す”と約束してくださる神が、私たちと共におられます。
私たちのために、十字架の上で、命を捨ててくださった主イエス・キリストの神が、“私たちといついかなる時も共にいてくださる”というその約束への信仰に私たちは生きて、そしてその信仰を他者へも喜びをもって伝えていこうではありませんか。
 私たちのこの地上での命のその先にある希望までを私たちは頂いて、神に信頼し、共にいてくださるイエス・キリストの神により頼みながら、私たちは今週も信仰の日々を歩んでいきましょう。