2023年1月28日土曜日

2023年1月29日 主日礼拝

招詞  ミカ書6章8節
賛美  新生讃美歌80番 父の神 われらたたえる
主の祈り
献金祈祷
証しと賛美
聖書  ヨハネの手紙一 1章1~4節
祈祷
宣教 「わたしたちの交わり」
https://youtu.be/uvOgm4RAjTU
祈祷
賛美  新生讃美歌 363番 キリスト 教会の主よ
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷


 「はじめからあったもの That which was from the beginning」という言葉で、今日の聖書の箇所(ヨハネの手紙一の1章の初め)は始まっています。
 この手紙の筆者であるヨハネは、その「はじめからあったもの」を、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」とも書いています。
 ヨハネは、ここでイエス・キリストのことを、言っています。それは明らかです。「イエス・キリストは世の初めから存在していた」ということは、聖書全体が伝える信仰の内容の一つであるからです。
 イエス・キリストは、わたしたちの世界の全てをお造りになった天の父なる神であり創造主である神と等しいお方です。ですから、イエス・キリストは“初めからあった”のです。

 そしてイエス・キリストは永遠なるお方でもあります。初めからおられ、いつまでもおられるお方、その存在が永遠であるお方、それがイエス・キリストなのです。
 驚くべきなのは、ヨハネがそのようなお方(イエス・キリスト、初めから存在し永遠なるお方)を“見て、触った、そしてそのお方の言うことを聞いた”ということです。
 はじめからおられ永遠なるお方は、有限(限りある)存在であるわたしたち人間とは、あまりに違いすぎて、わたしたち人間が見たり、聞いたり、まして触ったりすることは、本来できないお方のはずです。
  しかし聖書は、その神が人となり(イエス・キリストとなって)生まれ、普通の人々と一緒に生活したことを伝えています。人がそのお方を見て、聞いて、触れることができるように、神の側から人の世界へと、まさに“降りて”来てくださったのです。

イエス様は人々と共に生活し、神の国について教え、また多くの病の人々を癒したりなさったことを聖書は伝えています。
イエス様の弟子になった人たちも、ごく普通の人たちでした。ただイエス様に選ばれることによって、彼ら弟子たちは神の国のための働きをイエス様と共にするようになりました。
しかしヨハネたち最初の弟子たちは、イエス様のお言葉を直接聞いて、その行いをまじかで見て、そして後に十字架につけられて死に、復活し天に昇っていかれたその様子を実際に見た、という点では大変特別な人たちでした。
わたしたちは、その最初の弟子たちの証言=“人となった神であるイエス・キリストを直接目で見て、お言葉を耳で聞き、その体に手で触れたという、大変貴重な信仰の証言”に、今接しているのです。

 ヨハネはイエス様のことを「命の言葉」(1節)と言っています。この手紙の筆者であるヨハネ自身が、この手紙を記しながら、“今も生きておられるイエス・キリストの臨在(その場におられる)”を感じていたのだと、私は信じます。
  それが聖霊の働きです。ヨハネ自身が筆を手にとって書いているその手紙も、神の霊が彼の心を燃やして、彼の魂を導き、その一言一言を記させたのです。
 彼はイエス様のお言葉の一つ一つを思い出しながら、そのお言葉のなかに自分を生かす確かな“命”があることを感じていたでしょう。ですからヨハネはそのお方、イエス様をここで“命の言葉”とも表しているのです。
  今の私たちも、心を開いて聖書の御言葉を聞くとき、特に教会で神を礼拝しながら聖書の御言葉を私たちが共に聞く時に、その言葉の中に今も生きておられる主イエス・キリストの命に触れることができます。
 ですから聖書の御言葉は特別であり、キリストの教会は特別であり、そして私たちに与えられたこの礼拝という恵みも、大変特別なものであるのです。それはキリスト教会にしか与えられていない特別な恵みです。
 それは何も、教会に集まる私たちが何か特別優れているとか、私たちが善良な人たちだ、ということでは決してありません。
イエス様の弟子たちが、ごく普通の(罪人でもある)人々でありながら、イエス様によってただ選ばれたように、わたしたちもただ神の恵みによって選ばれて、ここにこうして集っています。
 わたしたちもごく普通の(罪ある)人間です。そんな私たちがなぜか神の選びに与り、神の言葉、命の言葉を頂く恵みに与ったのですから、その恵みの前に、私たちは自らを低くして、そして感謝をしようではありませんか。

 ヨハネは、この手紙を書きながら、イエス・キリストのことを証して伝えるということの中には、はっきりとした目的があると、3節で言っています。
 3節に次のように書かれています。
 3わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

ヨハネは、自分たちが見て聞いたことを人々に伝えるのは、その人たちを、既に与えられた自分たちの“交わり”に招き入れるためだ、というのです。そしてその交わりとは、父なる神と御子イエス・キリストとの交わりです。
神であるイエス・キリストによって結び付けられた交わり、そのような特別な交わりをあなたがたも持つようにと、ヨハネは願っているのです。
クリスチャンとはどのような人でしょうか?クリスチャンとは、もちろんイエス・キリストを信じる人です。そして、信じるとは、ただ頭の中で観念的にあるいは知識としてキリストを知っているというだけでは、もちろんありません。
 キリストを信じるとは、キリストに繋がるということでもあるのです。
イエス様はそのことを、ヨハネ福音書15章の中でぶどうの木のたとえを通して話されました。

 イエス様はご自身を“ぶどうの木”、“まことのぶどうの木”(ヨハネによる福音書15章)だと言って、そしてそのぶどうの木につながっていなさい、と弟子たちに言われました。
木の枝は木に繋がっていなければ養分を得ることができません。実を実らせることもできません。
それと同じにように、キリストの信仰者はイエス・キリストという木につながってこそ、命の養分をいただき、成長することができ、そして信仰の実を実らせることができます。
 ぶどうの木につながるとは、具体的には教会につながることです。なぜなら教会は「キリストの体」であるからです。
 枝が木から切り離されてしまっては死んでしまうように、キリスト者もキリストの体である教会に繋がることなくして、霊的な命を保つことはできません。
 わたしたちは神が立てられた教会、キリストの体なる教会に繋がり続け、その信仰の交わりの中で霊的な喜びと成長のための糧を頂くことができるのです。

しかし残念なことに「教会」、「キリスト教会」と名乗っていても、その実態がとてもキリストにある信仰を中心した教会とは言えない、問題のある団体もあります。
破壊的なカルト教団が多くの被害者を生んできましたし、今でもその被害にあっている人たちがいます。私たちはそのような被害が起きないこと、拡がらないことを願い、そのために祈りたいと思います。
そして私たちの教会も決して完全ではない、間違いを犯すことだってあり得る、ということを私たちは忘れずにいたいのです。
自分たちは特別だ(間違いを犯さない)とは、決して思ってはいけないのです。
そのために、教会も他の教会との交わりと繋がりを持つことが大切になります。信仰者が一人だけで生きることはできないように、教会も一教会だけで信仰生活を送ることはできません。
 教会も他の教会との信仰の交わりを通して学び、成長することができます。

自分たちの教会が信じることの内容、信仰の在り方をいつもオープンにし開かれたものにして、他の教会(特に同じバプテストの群れに属する教会)との交わりと学びあいの中で、自分たちの信仰を吟味するということも大切です。
 そして教会同士の交わりを通して、私たちは喜びを頂き、またお互いに励まし合うということもできるのです。それは私たちにとってとても嬉しいことです。
 今日は(第二礼拝で)、私たちの教会の母教会である大分教会の信徒の方が証をしてくださいます。バプテストの群れに属する、とくに私たちの教会にとっての母教会の方の証しを聞くことができるのは、私たちにとって大きな喜びであり励ましです。
 そして今日は、今まで私たちの教会で牧会研修をしておられたN神学生も、今日をもって私たちの教会での研修期間を終了します。
N神学生が私たちの教会で研修をしてくださったことも、N神学生を送り出した教会と私たちとの教会との協力と信仰の交わりの一環と言ってもよいと思います。
 キリストにある教会同士のそのような交わり、そして協力して伝道していくことを、これからも私たちは喜んでいきたいと思います。

今日の箇所の最後(4節)でヨハネは次のように書いています。
4わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
 ヨハネがキリストに関する証を手紙にして書いて、他の人々をキリストを信じる者同士の交わりへと招いていることは、そうすること自体が彼にとっての溢れる喜びでもあったのだと、この節の言葉から教えられます。
 キリストを信じ、キリストに従って、キリストに守られて生きること自体がすでに大きな喜びです。
それに加えてさらに、信仰者はキリストの福音を他者に伝え、いまだキリストの恵みを知らされていない(受け入れていない)他者をキリストの命へと招く、そんな喜びの働きにも仕えることができる、ということです。
それによって、わたしたちの喜びは満ち溢れるようになるのです。神の恵みは尽きることがありません。神の恵みと信仰にある喜びが、私たちの福音宣教の働きを通しても、私たちのうちにますます溢れるのです。
キリストの恵みと喜びの知らせ(キリストの福音)が、教会を通して、世の中へますます伝えられ、神が私たちの喜びをも、これからも満ち溢れさせてくださいますように、願い祈りましょう。