2023年1月21日土曜日

2023年1月22日 主日礼拝

招詞 エレミヤ書7章23節b
賛美 新生讃美歌 650番 喜びて主に仕えよ
主の祈り
主の晩餐
献金祈祷
聖書  コリントの信徒への手紙一 15章12~34節
祈祷
宣教 「キリストによってすべての人が生かされる」
https://youtu.be/TC9y2SICE40
祈祷
賛美 新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷


今日の聖書箇所は、『コリントの信徒への手紙一』の15章の部分です。この15章全体には、”イエス・キリストの復活”に関することが、書かれています。
イエス・キリストが十字架にかけられて死に、そして墓に葬られた後に、復活をした出来事は、キリスト教の信仰の中で、もっとも大切なことです。
イエス様が死から甦り復活したので、“イエス様を神であり主であると信じる信仰”が最初の弟子たちから始まって、そしてそれから多くの人たちと地域へと拡がっていきました。
イエス・キリストが復活して弟子たちにその姿を現したという出来事がなかったならば、“イエスという人の名も、イエスという人が生きている時になさった色々な偉大なこと”も、結局は忘れられてしまい、やがて誰も覚えている人もいなくなっていたでしょう。

しかし事実は、イエス・キリストは確かに死から甦って、その姿を弟子たち初め多くの人々の前に現わしました。キリストの復活によって、“死は滅ぼされ、神の前には何の力ももたない”ということが示されました。
イエス・キリストの復活は、クリスチャンが信じていることの中で最も重要な事です。それと同時に、特にクリスチャンでない人に向かって、それを伝えることがとても難しいことでもあると私は思います。
それは、イエス様が復活したその当時でも同じことでした。
ヨハネ福音書の20章では、12弟子の一人であったトマスが、イエス様が他の弟子たちの前に現れた時に、そこに居合わせなかったことが書かれています。

彼(トマス)は「わたしたちは主を見た」と言う他の弟子たちの話を信じないで、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました(ヨハネ福音書20章25節)。
復活のイエス様は、そのように言っていたトマスにもお姿を現してくださり、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言いました(同27節)。
そのように復活の主に出会ったことが、トマスの中に主に対する信仰を呼び起こし、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言って、イエス様が主であり神であることを告白しました(同28節)。

福音書に証言されている通りに、主イエス・キリストは確かに復活したのです。
私たちの主は、死んで甦られたお方です。私たち人の罪を背負い、罪を赦すために十字架にかけられて死んだ主イエス・キリストは、その後で甦らされたのです。
今を生きる私たちは、最初の弟子たちが復活したイエス様に出会ったようには、復活のイエス様と直接出会うという経験はしていません。
しかし、聖書に書かれたことを通して、また歴史上数多くのキリスト者たちが復活の主を信じて、(時に多くの人たちが命をかけて)キリストの復活を伝えたその働きを通して、そして聖霊の導きによって、“イエス・キリストは確かに死から甦り復活した”と私たちは信じることができます。
コリントの信徒への手紙を書いたパウロは、特に今日の箇所で復活について繰り返し、その重要性を語っています。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と彼は書いています(14節)。

19節には次のように書かれています。
「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」
以上の言葉は、パウロが復活の主をどれほど確信していたかの表れです。復活の主によって彼は新しい人に生まれ変わり、そして生かされているという確信がパウロにはあったのです。
パウロはキリストの伝道者、使徒として、生涯をかけてキリストの福音を宣べ伝え続けました。パウロの伝道活動には多くの困難や危険、迫害が伴いました。

多くの人がすんなりと、パウロが伝える福音を受け入れたのではありませんでした。特に、死者の復活については、はっきりとした拒絶に会うことがありました。
パウロがギリシアのアテネへ行った時、パウロはそこで哲学者たちを相手にキリストの福音を伝えようとしました。『使途言行録』の17章に、そのことが記されています。
アテネの哲学者たちは、最初はパウロの話を興味深く聞いていました。しかし、話が“死者の復活”ということになると、彼らはパウロをあざ笑って「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言いました。(もう、そんなバカバカしい話は聞いていられない、ということです)
パウロがイエス・キリストの福音を語る時、キリストの復活について語ると人々のそのような拒絶に会うということを、パウロはアテネだけではなく、他の場所でも何度も経験したのではないかと私は想像します。
もしそうであれば(キリストの復活が、なかなか人々に受け入れられないのならば)、パウロは「キリストの福音を人に語る時に、イエス様の復活についての話をするのはやめよう。それはなかなか信じてもらえないから」とは、思わなかったのでしょうか。
パウロは決してそう思ってはいなかったことは明らかです。キリスト者として、パウロは復活のキリストこそが彼を支え、彼の宣教の土台となっていることを、確信していたからです。
パウロは復活のイエス様に出会うことで、それまでの生き方を完全に変えられて、命をかけてキリストを伝道する者になりました。そんなパウロにとって、主の復活について口を閉ざすという選択肢はありませんでした。

今の私たちはどうでしょうか?復活のキリストを確信し、復活の主イエス・キリストを私たちは宣べ伝えているでしょうか?
 パウロがそうしたように、私たちも主イエス・キリストの福音を信じ、福音に生きる時、そして福音を宣教(宣べ伝える)時には、復活の主イエス・キリストを力強く語りたいと願います。
 復活のイエス・キリストこそが、今も私たちを霊的に生かし、大きな力を私たちに与えるからです。

そして聖書は、“キリストを信じる者もいずれ主と共に復活して生かされる”ということを私たちに伝えています。
人の普通の常識は「人間は死んだら終わり」です。しかし、聖書はそうは言わないのです。キリストの復活によって死は滅ぼされその力を失い、私たちもやがて主と共に生かされる、という希望が私たちに与えられたのです。

テサロニケの信徒への手紙一4章14節に次のように書かれています。
イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。

イエス・キリストが復活したことにより、“私たちもやがて主と共に新しい命に生かされる”、“私たちも復活する”ことが約束されたのです。
それはとても信じられないことのように聞こえます。しかし、今日の20~22節をもう一度見てみましょう。

20しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
21死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
22つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

聖書は、一人の人(神であり人であるお方)イエス・キリストが復活したことは、すべての人が復活の命へと生かされることの始まりであったと告げるのです。
「死が一人の人によって来た」というのは、“神に最初に造られたアダムとエバが犯した罪を通して、すべての人に罪が入り込んだこと”を指しています。
神は最初の人間であるアダムとエバに、エデンの園にあるどの木からも実を取って食べてよい、と言われました。しかし、「善悪の知識の木」からだけは決して食べてはならない、食べると必ず死ぬ、と神は彼らに言いました(創世記2章15~17節)
アダムとエバは神のその言いつけに従うことができませんでした。蛇に誘惑され、最初はエバが、そしてアダムも善悪の知識の木から実を取って食べてしまいました。「必ず死ぬ」と警告されていたにも関わらず、人は自らそのように死の道を選んだのです。
聖書は、最初の人アダムによって、罪が私たち全員に入り込んだと伝えます。私たちの感覚では、“アダムと私は何の関係もない”と思えるかもしれません。
しかし、聖書が伝える信仰は、“最初の人アダムは私たち全員の代表であり、私たちはアダムに繋がる者である”ということです。

そのように一人の人によって死が私たちにもたらされましたが、今や一人の人キリストが復活したことにより、“わたしたちすべての者が生かされ、主と共に永遠に生きる、復活するという希望”が与えられました。
22節に書いてあるとおりです。
「キリストによってすべての人が生かされることになるのです」。(22節)
私たちはやがて復活の主イエス・キリストによって甦らされます。そのような希望が与えられた私たちは、「人は死んだら終わり。一回だけの人生、せいぜい楽しもう」という、冷めた思いを抱くことはないのです。
 死を超えた確かな命がキリストの中にあります。主は復活され、主の復活の望みと力のうちへと私たちを招いて下さいました。復活のキリストの命の中に私たちも生かされています。
この地上での命の先にある望み、私たちの信仰の先達たちからもずっと受け継がれてきた復活の望みを私たちは大切にして、その望みのうちに、今を感謝して私たちは日々を生きていこうではありませんか。